研究ブログ

研究ブログ >> 記事詳細

2011/07/14

東京大学緊急討論会「震災、原発、そして倫理」の論点のまとめ

Tweet ThisSend to Facebook | by kyo
まず、討論会を開催して下さった東京大学大学院人文社会系研究科哲学研究室の皆様、そして参加して下さった皆様に深く感謝します。当日の議論について私なりにまとめてみます。島薗先生が要点の一部をtwitterで、また実況中継風には@gnsi_ismrさんを中心としたtogetterが立っていますが、
  • twitter/togetterで伝えられることには限界があること
  • 当日モデレータをしてくださった一ノ瀬さんご本人が議論を理解していないことを各人の提題が終わってディスカッションが始まったときに表明したことから、おそらく、「わからないことをわからないとみなす」というご本人の宣言に従って(それにもかかわらず司会を続けられたのは一ノ瀬さんの責任感からなのでしょう)、この討論会の内容については今後あまり言及なさらない/できないのではないかと推測されること
から、参加したそれぞれがまとめるのがよいと考えたからです。

あとから振り返ると、@gnsi_ismrさんをはじめとする方々の誠実なtweetにもかかわらず多くのことがネットでは伝わっていないため(バレンボイムが言うように、ある内容にはそれが絶対的に求める時間があるとすると、twitterではどうしても討論会の内容は的確には伝わりません)、かえってustやった方がよかったと思いましたが、ustやらなかった責任の一端は、話が来たときにやるかどうか主催者と提題者で相談したときに強くやることを主張しなかった私にもあります。また、ご質問を色々いただきましたが、それらについては、本にしてまとめるときに、できるだけお答えできればと思います。自分の発表の文脈とともに、質問者の方々にお答えするメディアを、今のところ私は、それ以外に持っていないためです。

討論会でモデレータをつとめて下さった一ノ瀬さんによる最初の提題内容は改めてここで取り上げるに足るものではありませんし、伊東さんは発表の中身も含め、意識して調停役・バッファ役として振舞われていたので、中川さん、島薗さん、影浦の議論の配置を中心にまとめることにします。その際、当然ながら、私自身の視点が入るため(簡単に言うと、私はメディアで伝わる中川さんの言葉の効果・影響に対して批判的です)、中立的視点からのまとめにはなりませんが、評価は別として、論点とその枠組みについては、できる限りフェアにまとめたいと思います。

逆に、中川さんの発言に批判的な人には、私の以下でのまとめはヌルイと感じられるかも知れません。以下のまとめには、中川さんの立場や視点に対する私の解説も含まれることになり、「説明することは多少ではあれ認めることになる」という主張は完全に誤ったものではないように思われるからです。

なお、分量の関係から、具体的な議論の内容はあまり述べません。

さて、不条理感とか不可知感といった観念に、アクチャルな問題にまったく触れていない観念に拘泥したり、十分に知るための労をとらないままに難しいとかわからないと言うことが深淵であるといった態度を離れて3者の話を聞けば、論点がそう難しいものでないことは簡単にわかります。大まかに整理すると、以下のようになります:

A. 低線量被爆に対する現在の科学的知見
B. 低線量被爆に対する現在の科学的知見の社会的な位置づけ
C. AとBを踏まえた上での現在の立場
D. その立場から波及する影響や効果についてどこまで考慮するか、それらをどう判断するか


A. 低線量被爆に対する現在の科学的知見

100ミリシーベルト以下については、本当のところはよくわからないという、科学的知見そのものをめぐる状況については、中川さん、島薗さん、影浦の3名とも、共有していることは以前から確認されていますし(例えば、中川さんも東京新聞6月29日付の記事「どうみる? 放射線」でその点は述べています)、また、討論会の場でも確認しています。仮に、参加者が、3名の間でその点にずれがあると感じたとすると、その原因の一つは、その当たり前の確認について、改めて「わからないものはわからないとする」などという発言がなされたことにあるかもしれません。

ときおり誤解があるようですので、改めて確認しておくと、ここで「わからない」というのは、

1. 何らかの影響があるならばそれを検証できるような調査等が行われた上で、影響があることの確認ができていない

のではなく、

2. 何らかの影響があるとして、それを検証できるような調査等がそもそも行えていない

状況です。したがって、ここでの「わからなさ」は、科学の方法論的限界を示しているものだということです。

例えば、6月まで、放射線医学総合研究所は、

「100ミリシーベルト未満では放射線ががんを引き起こすという科学的な証拠はありません」

と書いていました。これは、普通に、上記の1と解釈されがちな文です。けれども、「原発ダイアリー」によると、この根拠として放射線医学総合研究所があげたのは、国際放射線防護委員会(ICRP)が2007年に発表した勧告の

「がんリスクの推定に用いる疫学的方法はおよそ100mSv までの線量範囲でのがんリスクを直接明らかにする力を持たないという一般的な合意がある」

という部分でした。疫学的アプローチに関してですが、こちらの文言は、「わからない」というのが、影響が存在しないからではなく、影響が存在したとしても方法論的限界が故にわからないのだということをはっきり示した文言になっています。

その上で、LNTモデルが一つの準拠点になるという理解も、このレベルでは一応、共有されていますし、低線量被爆をめぐり、避けるに越したことはないという一般的な原則についても、3名の間で一応、合意されています。

例えば、中川さんは、討論会における質疑の中で、避難地域に指定されていなくても、現状のままでは例えば10 mSv以上の外部被爆になる地域について、自主避難をした人に公的支援を与える可能性についてどう思うかと問われ、そのような施策を考えることもありうると思うと答えていますが、それは、低線量被爆についてのリスクを認識していないと出てこない言葉です。


B. 低線量被爆に対する現在の科学的知見の社会的な位置づけ

この点をめぐっては、一方に中川さん、もう一方に島薗さんと影浦がおり、その間で大きく認識が異なっています。島薗さんの提題の大きなポイントの一つは、ここにありました。

社会的な位置づけをめぐる島薗さんの問題提起は、少なくとも二つの点に関わっています。
  • 第一は、低線量被曝についてこれまで政府等の「公的」機関が行ってきた疫学的調査を中心とする放射線の健康に対する影響の研究が持つ政治的バイアスと倫理的な問題について
  • 第二は、今、現在、この時に、これまでの研究をどのように捉えて状況に臨むか、その態度について
実は、第一の点をめぐってどのような立場を取るかによって、科学的には「わからない」ながらも、低線量被曝の影響に対する評価の異にする様々な研究がある中で[1]、どのような知見を重視するかは変わってきます。これは、Aの科学的知見のレベルでは「わからない」ながらも、将来の可能性を考えて現在の状況に応えるために必要な選択の、一つの基準となります。

これをめぐって中川さんは、「わからない」としながらも、「公的」な機関が行ってきた疫学的調査の結果を(たぶん意識するまでもなく)重視しているのに対し、島薗さんは、これまでの日本の「公的」研究における米国の役割(戦後)、重松調査の問題点(重松氏はそれ以外の公害問題のいくつかでも被害を軽視する/原因を曖昧にする主張を行っています)、チェルノブイリに対するIAEA等「公式」調査の問題点を指摘し、「わからない」ことが(影浦の言葉遣いでは)影響を低く見せたいという目的から予定調和的に導かれたことを明らかにします。

第二の点について、島薗さんは、こうした政治的意図を持つ「公的」な調査(その中には「調査をするだけで治療をしない」ものもあります)の延長として、現在の状況に臨むことに対して問題を提起するとともに、水俣病の解明において熊本大学医学部が果たした役割をモデルとして、現在の医療関係者および科学者・専門家の立つべき位置を提案します。

島薗さんは、twitterでも繰り返し言及してきた原田正純『水俣病』(岩波新書)から、提題の最後に次のような言葉を引用し、

・・・最初のころは患者家族たち、とくに母親から、強い不信、怨みの激しい言葉を浴びせられたものである。大学から来たというと、だれでも感謝してくれるとぐらいにしか思っていなかった私たちにとって、それはショックであった。大学病院という権威を借りて、「診てやる」という今までの姿勢が、不信へつながるあやまちであったことをしみじみと感じさせられたのである。

市立病院で患者を診察するときに、一様にその母親たちが無口であったのも、心の中をみせなかったのも、その理由がこうしてわかったのであった。

次のように述べます。

こうした経験の積み重ねを通して、原田氏は患者自身の生活と経験に即してその病態を理解していく方法を身につけていく。それが水俣病とは何かを解明し、患者への正当な補償のあり方を見出していく決め手となるのだ。

水俣病の典型的な症状とされるものと、それ以外の症状との関係を理解するのも容易ではない。それが分かるためには生活の場に赴いてその人の生活の全体をからだ全体で理解する必要があるのだ。

これに対して、中川さんは、例えば、「広島・長崎の99%はγ線と中性子線によるものだ」と言ってしまうことができる程度に、「公式」の研究に依拠していることになります(99%とは何に対してか、調査の限界を島薗さんが丁寧に指摘した中で、どうして99%という結論の母集団が本来被曝した人の母集団であると言えるのかという質問に中川さんからは答えをもらいませんでした)。

とても大切な補足:島薗さんが提起したこの問題は、切実な問題に大きく関わります。つい最近、特定避難勧奨地点をめぐる行政の対応として、原子力災害現地対策本部住民支援班長佐藤暁氏は、次のように語っています:

えー、こうした放射線被曝でですね、健康影響が確認されるというようなことが将来的にある場合にはですね、当然その因果関係も含めて整理されるべきことかと思いますし、最後はですね、大変申し分けにくいことなんですけれども、司法の場での話しになる可能性もありますけれども、そうしたことについて出来る限り、対応というのは国として、誠意を持ってやってゆくべきことだと、やや基本的な対応になってしまいますけれども、まずはですね、そうした放射線による健康影響のないような取り組みを・・・

どのように表現してよいかわからないのですが、血が引いた感じ、というのでしょうか、YouTubeを見たときの感じです。

汚染問題などをめぐる過去の事例を考えるならば、行政は、無対策が引き起こした健康被害について、立証責任を被害者に負わせたかたちで司法判断の場に持ち込むことも一つの選択肢とみなしていることが伺えます。その場合に、医師をはじめとする専門家がどのような立場を取っているべきなのか、これは極めて具体的かつ喫緊の問題です。

島薗さんの問題提起は、その点で、現在、専門家が取るべき倫理的な立場を、現在の緊急かつ身近な問題との関係で問うていたものと言えます。

島薗さんはtwitterおよびブログで一貫してこの点を指摘していますので、継続的にご覧下さい。



C. AとBを踏まえた上での現在の立場

島薗さんの立場については、すでにBで述べました。

一方、中川さんは、Bをめぐって島薗さんが提起した問題についての意識を基本的に有していないため、「公的」な調査結果に依拠しがちになります。

さらに、中川さんの場合、そもそもが、原発事故で放出された放射能の健康被害についてではなく、癌そして医療で用いられる放射能も含む放射能一般が関心対象であるため、東電の原発事故が引き起こした災害と汚染をどうするかという視点を中心に据えるのではなく、むしろ、癌と放射線一般の中でそれを相対化します。

癌を中心に見るならば、たばこによる癌は大きな問題ですし、また飲酒により顔が赤くなる人の過度の飲酒が引き起こす食道癌も問題ですし、・・・・・・という中で、原発事故により放出された放射能汚染のリスクは相対化されます。

また、放射線一般の枠組みで見るならば、結核という現在では少なくなっているものを検査するために健康診断で若い人たちにもレントゲン撮影を義務付けている制度などの問題(これ自体は確かに私も大きな問題だと思います)や、世界にあるCTスキャンの機器の3分の1が日本にあるなどといった状況との関係から、東京電力の原発事故が広めた放射能汚染はやはり相対化されます。

それゆえ、全般的な傾向として、中川さんは、原発事故による放射能の健康被害と他の被害とを計りにかけがちその中で、相対的に原発事故による放射能の被害を軽くみなしがちになります。私自身、現在の状況を冷静に考えるならば、放射能の健康被害と他のリスクとを計りにかけざるを得ないことがあるとは思いますが、費用や他の要因を考慮して東京電力が事故を起こした状況で、そう簡単に費用や他の要因を考慮して放射能汚染を相対化することはできないと考えます。

また、社会認識の違いも立場に影響しているようです(立場が社会認識に影響しているという側面もあるでしょう)。私の専門領域に近いところで言うと、中川さんは、発表中で、健康被害の恐れをセンセーショナルに報じた週刊現代の記事をスライドで見せ、日本の人がこうした情報に接することになったと述べました。

でも、週刊現代は実売部数で2008年度に約25万部(しかも読むのはほとんどおぢさん層)、一方、「100 mSvまでは大丈夫」と取られるようなかたちで中川さんの発言を記事にした毎日新聞は発行部数約360万部です。しかも、「100 mSvまでは大丈夫」といった報道は、3.11以後、朝日新聞、東京新聞なども含め、多くの新聞やテレビに跋扈していました。

人々がどんな情報に接しているのかについて現実とは多少異なる認識を持っていることも、中川さんの立場に関係していると思われます。

また、中川さんは「大丈夫です」というパターナリスティックな医師の位置づけを意識して保ちたいと思っているようです(質疑応答での発言より)。

こうしたことが複合して、「100 mSvでも大丈夫」と言いがちなのでしょう。


D. その立場から波及する影響や効果についてどこまで考慮するか、それらをどう判断するか

私の提題が主に論じたのは、この点です。

私自身は、週刊現代よりも、日本の多くの人々が接していた、朝日新聞や毎日新聞、読売新聞や産経新聞、東京新聞や多くのTVで、繰り返し報じられた、「100 mSv までは大丈夫」とか「ただちに健康被害はない」といった言葉の方がはるかに大きな問題だと考えます。

中川さんの言葉も、本人が何を考えて言ったかは別にして、「100 mSvまでは大丈夫」とか「外で遊ばせても問題ない」といった発言が、社会的には大きな負の影響を与えると考えます。

その上で、そうした報道が、島薗さんが指摘したような背景からなされていること、また、100 mSv未満の低線量被曝については疫学は無力であるという科学の限界を現象の不在にすり替えることに支えられていることに対して、
  1. ひとまずは当たり前の基本的な科学的知見と合意(わかっていないこと、わかっていないながらもLNTモデルが妥当性が高いと思われる)を参照点としてきちんと取り戻すこと、
  2. それと並行して、そもそも法令という社会的なレベル不在で「専門家」の「科学的」見解が一人歩きしていることに対して1年間1 mSvという法令を参照点として取り戻すこと
  3. その上で、「わからないけれどもリスクの可能性は否定できない」状況では、リスクマネジメントの観点から最悪のリスクをまず想定して対処策を考えることが基本であること
という、それぞれ、科学、法律/社会規範、主体の行動基準に関して確立した議論を、提題において当たり前に再確認した、というのが、私のやったことです。

あまり明示的な論点として提示する時間はありませんでしたが、そこから、中川さんの発言について、直接、メディアを通して一般の人々に「大丈夫」とか「リスクをもとに豊かな人生を送ることを望む」とか言う前に、行政・政府に対して、除染や自主避難への公的支援の必要性などを専門家として呼びかけるべきではないかという方向へ議論の方向が示唆されます。これは、島薗さんの提題が示唆した過去における専門家の役割、島薗さんの提題に含意されている司法判断における専門家の役割とちょうど呼応したものになります。

具体的に何を話したかについては、長くなるのでここでは述べません。3.11以後メディアを跋扈したいくつかの典型的な発言がどのような社会的効果を持ってしまったかについて、当日話したこと及び関連していながら当日話せなかったことについては、

『3.11後の放射能「安全」報道を読み解く----社会情報リテラシー実践講座』

をお読みいただけると幸いです([amazon][版元ドットコム]。不十分ですが、その一部は本ブログの「社会情報リテラシー講義」1-7、補足1, 2にもありますので、そちらもどうぞ。


提題と討論についての補足

討論会の数日あとで、どこかでネットの情報を見た友人に、「中川さんとずいぶん対立する緊張した場面があったのだって」と聞かれましたが、まったくそんなことはありません。というか、私自身は全然緊張もしませんでしたし対立した感じもしていません。一部、腹をたてていたことはありますが(補足:それは中川さんの発言に対してではありません)。

私が行ったのは、記事を例にした、社会的影響の批判的診断と解明ですから特に誰かと対立することはまったくなく、また、最後の討論で論点を明確にするために提題の中にいくつか誘導をしかけたのですが、それも仕掛け方がまずかったので討論の場では別に議論を整理していかなくてはならなかったため、その作業を質問を通して行っただけで、これもどちらかというとのんびりした作業になってしまいました。そのために、例えば上で述べた司法判断への影響や司法判断からの影響(そもそもどうしてわからないのに「100 mSvまでは大丈夫」と言えるのか?)など、準備していた重要な問題のいくつかに触れることができませんでした。

中川さんの提題の中で、飯舘村のケアハウスでの中川さんの活動が紹介されました。様々な判断とは別に、これについてはご関心のある方はチェックしてみて下さい。

自主避難者に対する行政の補助についてどう思うかとの中川さんに向けられた質問に対して、中川さんは「そうした施策を考えることもできる/べきだと思う」と返答しました。私もそれに賛成です。

「「100 mSv までは大丈夫」といった発言にどんな悪影響がありましたか」という中川さんの質問に、フロアから「安心しちゃった」という声があがりました。これについては、きちんとその場で指摘すればよかったのですが、
  • 一般の人々の中には、安心してしまい、避けられる被曝(これについて中川さんも避けるにこしたことはないと明言していました)を避けないで過ごしてしまった人が出た
  • 「専門家」のこのような発言がメディアで流布することで、行政が除染や被曝対策など可能な健康被害を避けるための施策をとらない理由付けに使われた
  • それが上で述べたように司法判断に、やはり健康被害の原因を解明しない方向で影響する可能性がある
というのが現実的な悪影響のいくつかであり、そこから派生して、行政の施策がない中、例えば家庭内で子どもの健康被害を憂慮する人たちと平気だという人たちの分断を生む側面的な一要因ともなります。

また、「一方で、100 mSv以下の影響はわかっていない」「被曝はできるだけ避けるに越したことはない」という認識があるならば、

100 mSv以下は大丈夫

と具体的な文脈(私は『3.11後の放射能「安全」報道を読み解く』の中で、どのようなときに、その言葉が有効か、その文脈を示し、その文脈を離れてメディアでそう話すことがどのような悪影響を持つかを分析しました)を離れて言うのは、そもそも科学的に正当ではない、したがって専門家・科学の言説の信頼性を社会的に損なう効果も持ってしまうと思います。

以上で述べたようなまとめの枠組みは、細部の食い違いや立場の違いを除けば、島薗・中川・伊東・影浦はその場で認識していたはずで、したがって、以上のようなまとめから価値判断を抜きにしたようなものを、私自身はディスカッションの最初にモデレータに期待していたのですが、そのようなまとめはなされなかったため、討論会の場でも論点が十分に明確にならず、また、twitterによる「実況中継」の性質もあいまって、一体、当日どんな議論が行われたかわかりにくいかたちでしか情報が出ていない状況になったと思います。



注:

[1] ロシア・東欧で発表された研究をまとめたYablokov, A. K. et. al. eds. (2010) Chernobyl: Consequences of the Catastrophe for People and the Environment. NY: New York Academy of Sciencesはチェルノブイリ事故を原因とする死者の数を98万5000人としている一方、IAEA/WHO/UNDP (2005)は死者50人、将来の癌4000人としています。前者についても後者についても、数値に一貫性がないことが指摘されています。たとえば、WHOの報告を検討すると、癌と白血病での試写するは1万人から2万5000人いると判断できるとの報告もあります(Mark Selden and Matthew Penney (2011) "What Price the Fukushima Meltdown? Comparing Chernobyl and Fukushima" http://www.zcommunications.org/what-price-the-fukushima-meltdown-comparing-chernobyl-and-fukushima-by-mark-selden)。ほかに、Gould, J. M. (2011) 『低線量内部被曝の脅威—原子炉周辺の健康破壊と疫学的立証の記録』(肥田舜太郎・齋藤紀・戸田清・竹野内真理訳, 緑風出版) も、低線量被曝は健康に大きな影響を与えることを論じています。

2011年7月14日

23:43 | 投票する | 投票数(10) | コメント(2) | 社会情報リテラシー講義
コメント
gensei2011/07/15 04:31:00
私のtweetだけがクローズアップされてまとめられることを予想していた無かったこともあり、結果としてtogetterが断片的で理解しづらい「中継」になってしまい、かえってみなさんにご迷惑をおかけしてしまったと感じています。申し訳ありません。ただ、この討論は何らかの形でできるだけ早く、広く知られるべきだと思っていますので、このように登壇者の方にご発言頂くことは大変ありがたいです。
kyo2011/07/15 08:08:05
コメントありがとうございます。@gnsi_ismrのtwitterは、twitterというメディアが可能な範囲では、十分以上に適切なものだったと思います。当日いなかった方々には、それぞれの補足やまとめも、@gnsi_ismrさんのtwitter/togetterも参照しながら、それぞれのメディアの限界も意識して考えていただけるとよいですね。

みんなの翻訳

辞書