Researchlog by Noriko Arai

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2010/07/14

講義の中で(3)

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毎年、多い誤答にこういうのがあります。

Tex , Tex
とおいた場合、Texが成り立つ。


この誤答が多いことは織り込み済みなので、授業に大中小の箱を持参し、その中に要素(ビー玉とかチョークとか)を入れて、

「Aは2つの要素(ビー玉とチョーク)は入っている箱、
Bはビー玉の他に、箱が入っていて、その箱の中にビー玉とチョークが入っている箱、
なので、AはBの部分集合ではありません。」

と説明します。
その場では「わかりました」と全員が言うのですが、なぜかテストになると元の黙阿弥になるんですよね・・・。
どの部分が難しいのかが謎です。
21:57 | Impressed! | Voted(7) | Comment(6) | 教育
2010/07/09

講義の中で(2)

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中間試験の回答から印象深かったものをメモ。

中間試験で、「実数から実数への、全射だけれども単射ではないような関数をひとつ挙げ、(1)その関数が全射であることを証明し、(2)その関数が単射ではないことを証明しなさい」という問題の回答で気づいたこと。

例としてTexを挙げるところまではよいのですが、f(x)が全射であることの証明として、
(1)TexかつTexだから、明らかに全射。
というのや
(2)f(x)はx<-1とx>1において単調増加だから、全射。
という回答がけっこうありました。

これでは十分条件にはならない、ということを、反例とともに思いつけるようになれるといいんだけれども。
そこをどんな風に教育すればいいのか・・・いろいろと試行錯誤しているのだけれども、なかなか思うような教育効果が出ず悩む毎日。

まぁ、強引に証明を書いてしまって、反例に思い至らないのは、自分にもしばしばあることなので大きな顔はできないのですが(自嘲)
07:56 | Impressed! | Voted(3) | Comment(4) | 教育
2010/07/07

講義の中で(1)

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講義の中で出た質問で、印象深かったものをメモ。

「先生、有理数は可算個しかなくて、無理数は非可算個あるんですよね?」
はい、そうです。
「無理数のほうが圧倒的に多いんですよね」
はい、そうです。
「だったら、どうして、数直線の上で『無理数ばかりが並んでいる区間』というのが存在しないんですか?」
あのね、実数には「隣の数」というのはないんですよ。任意の区間の中に、有理数は可算無限個存在し、無理数は非可算無限個存在するんです。

「・・・イメージとしてどうしても納得できません」

うーん、そこはやっぱり難しかったか。

(f(x)=1(if x is rational) f(x)=0 (otherwise) と定義したときにfがいたるところで不連続であることの証明のときに出た質問から)
19:16 | Impressed! | Voted(2) | Comment(4) | 教育
2010/05/28

学力は意外なところで低下する

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確かあれは2002年あるいは2003年のことだったと思う。
新津靖先生と二度目にお会いしたときのことだった。新津先生は、IPAの未踏ソフトウェア創造事業に採択されたソリッドインタプリタの開発者で、私はその思想に共感して、このソフトを使って子どもたちが協調的にプログラムを学ぶ場「3D工房」を「e-教室」というウェブ上の学びの場の中に開設する準備をしていた。
「3D工房」は一時期「e-教室」の中で大人気だったクラスで、こんな作品が作られてた。(Magnetさん作 「メタン分子中でCがsp3混成状態にある時の電子雲モデル」)


「e-教室」は中高校生に対して、経済学者や数学者、理科教師集団らがネットを通じて、発展的な学びを提供する試みで、2002年に開校し、一時は500人以上の児童生徒が参加していた。(その中のやりとりを本にしたのが「ふしぎな無限」と「経済の考え方がわかる本」。「e-教室」の話題は、そのうちまた。)

さて、新津先生と3D工房の開講準備をしていたときに、どんな話が出たか、ということなのだけど。
それは、その年の入試で出題されたある問題の正答率の低さの話題だった。非常におぼろげな記憶なので間違っていたら申し訳ないが、たしか、文章でとある交差点に面する建物に関する記述があり、その情報から、その交差点の南側に立って、北方向に眺めたときに、どのように見えるかを図にするというような問題だったと思う。
なにしろ、文字情報から投影図を書くタイプの能力を求められる問題だったと記憶している。それがあまりに悲惨なできだったので、どうしてだろう、という話になった。
「建築学科志望の学生もいるのに、どうなっちゃうんだろう」と。
今の学生たちは小さい頃からTVゲームに慣れ親しんでいるので、3次元のイメージを2次元に落とし込んだ画面は見慣れているはず。それなのになぜこんなにできないのか。非常に不可解だった。

数学における作図の時間が減ったから、とか、技術家庭のカリキュラムの問題だろうか、とか、家で工作をしなくなったから、とか、いろいろな意見が出たのだけど、「もしかしたら」とたどりついたのは、「図工の時間に、写生と静物画が減って、インスタレーションが増えたから」ではないかということだった。当時、うちの娘は小学生だったのだけれど、数年間の図工の作品で持ち帰ったものの中で、写生はたった1枚しかなく、ほとんどが「春の予感」(毛糸とクレヨンで作ったインスタレーション)「未来の怪獣」(紙粘土とビー玉の作品)のようなものばかりだったことを思い出したのだ。

現場の先生複数にお話を聞くと、「何しろ、授業時間数が減ってしまい、図工はなかなか2時間続きの時間が確保できない。絵具は、準備や片づけを考えると1時間ではできない。写生も同様で、移動を考えると無理。なので、どうしても簡単に取り組める図工セットに頼った授業になってしまう」ということだった。また、「楽しい図工」「自分を表現する手段としての図工」ということを考えると写生や静物画は不人気だということだった。

本当に、学生の投影図を描く能力と「図工の題材」に関連があるのかどうかは、科学的に証明のしようがないので、わからない。けれども、学校で学ぶこと、あるいは一般に経験というものと、獲得される能力との間には、複雑かつ密接な関係がある。このタイプの研究がないか、ずいぶん調べたのだけれども、何しろ、経験の欠如が数年後にどう出るのか、というのは、戦争のような特殊なケースを除くと、あまり調査のしようがない。学習の経験から時間がたてばたつほど、他の要因から切り離して、原因を抽出することができないし。それに、論文を書くまでにあまりに時間がかかりすぎる。とにかく、自分が探した範囲では、なかなかそういう研究を見つけることができなかった。(ご存じの方があれば情報をお待ちしています。)
後になって、原武史さんの「滝山コミューン1974」を読んだ。私も原さんと同年代なので、ここにかかれている学級の在り方、「班競争」とか「水道方式至上主義」のことはよく覚えている。それと後に獲得された学力の在り方が、それ以前やそれ以後と違うのかどうか調べる方法はないものだろうか、とつくづく思った。

興味深かったのは、アサツーデケイの岩村暢子さんがお書きになった「変わる家族 変わる食卓」「普通の家族がいちばん怖い―徹底調査!破滅する日本の食卓」という一連の調査のあとがきに書かれている部分だった。なんでも、主婦の食事観には年代ごとに違いがあるそうで、それが、家庭科の指導要領の変化と合致しているような気がする、という話だった。
たしか私自身が属しているのは「栄養素至上主義」の指導要領時代だそうで、「蛋白質とカロチンとビタミンCと炭水化物とカルシウムをそろえなければいけない」という使命感があるのだとか。うーん、確かにそうかも。一方、「男女共同参画時代」の指導要領の主婦は、食事は栄養やバランスよりも「楽しく協力すること」が大事だそうだ。

何が言いたかったか、というと、特定の経験が結果的に奪われると、意外なところに副作用があるということである。そのことを、カリキュラムの改訂においても、ICT導入においても心しなければならない、と思う。
13:42 | Impressed! | Voted(11) | Comment(4) | 教育
2010/05/26

教科書のデジタル化に関して

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現在、「学校教育の情報化に関する懇談会」が、文部科学省において開催されています。その中の懇談事項の第一に挙げられているのが、
  1. 授業におけるICTの活用について(デジタル教科書・教材、情報端末・デジタル機器、学校・教員等の在り方を含む)
であり、その中でも大きな話題を占めているのが、デジタル教科書・教材と、情報端末・デジタル機器の未来像に関するものです。
デジタル教科書の定義はさまざまですが、大まかにわけて、(1)電子黒板等の装置上で教師が提示するコンテンツとしての提示用デジタル教科書と、(2)児童生徒が情報端末の上で表示する端末のデジタル教科書があります。
(2)には、単に紙の教科書をデジタル化したタイプ(2-1)と、マルチメディアコンテンツが搭載されているタイプ(2-2)を考えることができます。

日本数学教育委員会では、これらのデジタル教科書の導入が、算数・数学教育にどのような影響を与えうるかについて、短期間ではありますが議論を行いました。その結果、デジタル教科書の導入、特に(2-2)のタイプの導入は、算数・数学の科目で培うべき力の育成を損なうおそれが極めて高いと考え、多くの委員が大変憂慮をしています。

平成17年10月17日に、日本数学会は中央教育審議会に対して意見書を提出いたしました。その付属資料2の中で述べたように、算数・数学を通じて子どもたちに身につけてほしい力とは、基本的な知識の習得や計算力のみならず、論理的に考え表現することができる論理力です。
このような論理力を培う上で、私たちが重要だと考えているのは、子どもたち一人一人が算数・数学の良い問題に触れ、それを読解し、ノートや計算紙に図や式をかきながら試行錯誤して解くことです。さらに、その答案をまずは自ら批評的に吟味し、整えることです。そして、それをクラスの全員と共有し、他の考え方と見比べて、問題の把握の仕方の多様性とその良さに触れることです。
これらのことを実現する上で、ネットワークを備えた情報機器はメリットをもたらす一面があることを私たちは否定しません。また、動画による解説を加えることで、イラストや静止画では理解が難しかった単元のハードルが下がりうることの教育効果も理解しています。情報機器の活用が、視聴覚障害をもつ児童生徒にとって福音となりうること、またCAI教材が基礎学力定着において一定の効果を上げることについても承知しています。

その一方で、現状の情報技術には次のような問題点があることを指摘せずにはいられません。
  1. 動画等による問題の解説が豊富になることによって、問題文から自力で問題設定をイメージし、問題を解く力が弱まることが懸念されます。
  2. 現状の技術では、自由記述による数学の証明の正しさをチェックしたり、生徒の論理性を正しく計測するような方法は見出されていません。よって、現状では、繰り返しドリル以外の自学自習コンテンツを搭載することは技術的に不可能です。しかし、繰り返しドリルでは、論理的思考力を育成することはできません。
  3. 択一式、数値入力式のドリルを中心に搭載されたデジタル教科書が検定教科書として配布された場合、立式や証明がより軽視され、本来培うべき論理的思考力がさらに低下することが懸念されます。
  4. 現状でもっともユーザフレンドリーと考えられる入力端末が、ノートや計算紙と同程度に児童生徒にとって入力がしやすいのか、また、算数・数学のイマジネーションの範囲を限定しないのかに関する研究が十分ではなく、入力端末を限定することによる副作用を懸念します。
  5. そもそも数学のコンテンツは、すべてをマルチメディアコンテンツ化できるわけではありません。無理にマルチメディア化すれば、その一般性を著しく損ねます。
  6. 児童生徒がマルチメディアコンテンツに慣れすぎることによって、実数および関数を含むより抽象的な数学コンテンツを理解することに対して、今まで以上に強い心理的なハードルを感じることになることを懸念します。
計算ドリルやパターン学習は速効性があり、短期的にはあたかも学力が上がったかのような錯覚に陥ります。しかし、そんなことをいくら繰り返しても数学力がつかないことは、私たち大人が経験を通じ、嫌と言うほど実感してきたはずです。

本当の算数・数学の学力とはどのようなもので、それはどのように身に着くのか、という本質的な議論がまずは肝心です。次に、デジタル教科書が(短期的な成績の変化だけでなく)長期的にみたときに数学力とくに論理的思考力の育成にどのような影響を及ぼすかの研究を行うことが、必要です。
それらの段階を経ないデジタル教科書の導入には反対です。
14:35 | Impressed! | Voted(14) | Comment(2) | 教育
2010/05/14

札幌サイエンスカフェにて

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札幌三省堂にて『いやでも役に立つ数学』というお話をさせていただく。
このタイトルは、「嫌」が「役に立つ」にかかっているのか「数学」にかかっているのか、曖昧なのだけれど、そこを一緒に考えて楽しんでいただければと思い選んでみた。

会場には3人、少年といっていい年頃の参加者があった。
私には「ハッピーになれる算数」という小学校高学年から読める本はあるけれども、なんとなく参加者は大人だけだろうと思っていたから、ちょっと意外だった。
トークの後、そのうちの一人が、私のところにやってきて「サインをしてください」と言う。差し出されたのはかなり薄汚れた「生き抜くための数学入門」だった。正直に言うと、こんなに手垢のついた自分の本を見るのは初めての経験だった。それでつい、(あまりにうれしかったので)「ずいぶん汚れてるね」と言ってしまった。
少年はうつむいて、「小学校の朝読書で読んでから、何度も何度も読んだので」と言った。中学2年生だという。
「生き抜くための数学入門」は、無限という概念を通して、中学までの直感頼みの数学理解の曖昧さを実感し、「数学の言葉」で表現することの必然について書いた本だから、たぶん中学生には難しい。それで、つい「わかったの?」と聞いてしまった。
すると少年は「全部はまだわからないので、また読みます」と言う。「でも、わかったところは、とてもおもしろかったです」と。

まるで「ヴェニスの商人の資本論」のような立派な本に接するときのように、私なんぞの本を大切に読んでくれる読者がこの世の中にいる。「有難い」というのは、こういうときのための言葉なんだろうな、きっと。

君のために、また本を書くね。
22:43 | Impressed! | Voted(15) | Comment(2) | 講演
2010/05/09

少子化と教養の瓦解は同じ根ではないか

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学習指導要領によってカリキュラムが定まった初等中等教育と、自ら問題意識と学ぶべき分野を発見し、自ら学び方を会得する大学教育とは大きな隔たりがあります。かつては教養部が、「大学における学びとはどのようなものか」を伝える役割を果たしていました。また、大学人の少なくない部分が、教養書の出版を通じて、社会全体の教養教育を担ってきました。

けれども、それは、大学大綱化とともに終焉をむかえたように思います。

1991年、大学設置基準が改定され、各大学の教育理念・目的に基づく特色ある教育研究を展開できるように、制度の弾力化が図られました。従来存在した教育課程に関する要件が緩和され、多くの大学でカリキュラム改革がおこなわれました。これがいわゆる大学の大綱化です。
その際、4年間にわたって体系的に教育課程を編成するという大学の大綱化の理念と、一般教育のみを担当する従来の教養部組織の存在は、相矛盾するという意見が大勢を占め、多くの大学で教養部が解体されました。

現在、大学人は研究成果、特に各専門における論文の数によって、その業績を評価されています。(文系分野では専門書としての出版が未だ重要な位置を占めてるものの、)理系のほぼすべての分野と社会科学系の多くの分野では、各分野の国際論文誌での発表、またその引用率が研究業績を測る唯一の尺度になりつつあります。

つまり、「子ども(学生)を育てる」ことなど、評価の対象にならないわけです。

「学部の1,2年生を育てることは、大学人にとって何のメリットももたらさない」「教養書を出版することなど、時間の無駄である上に、自分の研究者としての評判を落とすだけで、なんのメリットもない」 第一線の若手研究者であればあるほど、そのように感じているのではないでしょうか。

もちろん、子どもを育てることは、私たちに喜びを与えてくれます。けれども、個人の胸の中に湧き上がるそうした喜びだけで少子化を食い止めることができないように、大学における教育の瓦解も防ぐことはできないと思うのです。それはFD(Faculty Development)を繰り返してもほぼ無意味です。子育ては成績表によって行うものではなく、喜びと誇りによって行うものだからです。

私たちが学部生だった頃、そこには、学びを見失った学部生を救ってくれる教養書が岩波にもみすず書房にもありました。私たちは、数千円を払うだけで、学費を払わずとも、そうした先生たちに指導していただくことができました。
京都大学には森毅先生が、東京大学には蓮實重彦先生や岩井克人先生がいらっしゃいました。そうした先生方は今日的な物差しでは測りきれない先生方ばかりだったような気がします。

子どもを育てることを評価しない大学は、少子化を止められない社会と同じ病気にかかっているような気がしてなりません。

大学人に見捨てられた学部学生が、どんな風に学べばよいか、どんな風に卒論研究をすればよいか、わからずに漂流するのは当然です。
どの本を読めばいいのか、どのように学べばよいかを今や”教えて”いるのはAmazonの☆の数であり、はてなブックマークの数でしかないのです。

本当にそれで大学はかまわないのでしょうか。

昨日、「東大式の卒論の書き方で名を馳せた」という方の、こちらのエントリーを読み、いろいろな意味で考えさせられました。

追記:本エントリーを読んでいただく方には、こちらのエントリーを併せてお読みいただき、現在、学生が、どういう方のどのような文章を「バイブルとして」読んでいるか実感していただき、それぞれ問題意識をもっていただければ嬉しいです。




18:22 | Impressed! | Voted(7) | Comment(11) | こんなことを考えた
2010/04/09

電子データも納品してほしい

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最近、坂を転げ落ちるように記憶力が減退し、年齢を感じております。

先日も、
「古代エジプトでは土地は方形に区画され、人々に分配されていた。それによって、徴税するが、土地が減ったものは自ら王に申し出れば、役人が出向き、土地が減った分は減税された」
というのを、どこで読んだかをどうしても思い出すことができず、正確なreferenceをつけられないので、記述をあきらめかけたことがありました。

わかってみたら、ヘロドトスの「歴史」。
そりゃそうだ。なんで、思い出せなかったのだろう。
自分が嫌になっちゃうな・・・(泣

それで思ったのですが、本にそのデジタルデータ(テキスト)をつけて売る、というのはどうでしょうか。今は、本か、それともデジタルデータか、の議論が盛んですが、私は「本+電子データ」という日経新聞みたいなビジネスモデルもありなのではないかと思うのです。

私はたぶん、キンドルのようなものでは、本を「読む」ことはないと思うのですが、(目が疲れすぎて無理)、「あれはどこに書いてあったっけ」というのを調べるのは本よりも電子データのほうが明らかに楽。それに、膨らんでしまった資料的な本を、心配することなく廃棄できるのもありがたいですし。

一般書について考えるとあれこれ難しいことがあるでしょうから、まずは専門書からやってもらえたら嬉しいです。




10:07 | Impressed! | Voted(6) | Comment(6) | こんなことを考えた
2010/04/07

コミュニティ Effective Englishについて

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Researchmap上に、新しいコミュニティEffective Englishというのができたので、さっそく登録してみました。コミュニティ紹介には、

英語論文などの書き方についての質問をできるだけ(日本語で)答えます。誰でもお気軽に聞いてください。

とあります。日本人研究者から質問に殺到したら、答えるクリスさんは大変だろうと想像しますが、今のところは牧歌的に運用されている様子。(ので、質問をするならば、今が最適かも。)
私は、Researchmapの英語インタフェイスが適切かどうかなどを質問させていただき、たいへん的確なアドバイスをいただきました。その中でも、私がなるほどと思ったのは、日本語論文に多用される、受身形と主語のない「~できる」の問題点。
たとえば、

Researchmapに登録することによって、スタイリッシュなホームページを簡単に構築できるだけでなく、他の研究者と交流したり、プライベートなスペースを持つことができる。

という文章を直訳すると、こんな感じになるが・・・

After registration, not only can stylish home pages be easily constructed, idea exchanges with fellow researchers, creating privatespace, etc, are also possible.

これは、あまりに色がなくて、「遠い感じ」の表現になるので、よろしくないと指摘を受けました。こんな感じにすると意図が明快になるので、よいとのこと。

Researchmap enables users to create personalized websites, manage their research information, and network and collaborate with other researchers.

なるほどねぇ!
さっそく、Researchmapの英語インタフェイスに取り入れさせていただきました。クリスさんに感謝。
夏から秋にかけての国際会議の論文投稿締め切りがピークを迎えていますが、論文を通すには、内容が確実に伝わるアブストラクトと、パンチの利いたイントロを書くことがとても重要です。表現に迷ったら、Effective Englishにアドバイスを乞うというのも一つのEffectiveな方法ではないでしょうか。






11:05 | Impressed! | Voted(7) | Comment(0) | 今日の出来事
2010/04/03

同姓同名問題

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とある大規模組織から、Researchmapとの連携を打診されたため、どんな風に、簡便に研究者一斉登録が可能かをテストしています。
まずは、テスト機を使って、Researchmapにデータをインポート。この段階で、科研費番号・研究者名・所属は正確なものが入っていると仮定します。
科研費番号がわかれば、研究者名・所属がわかるのでは?とお考えになるかもしれませんが、実はそうでは(現在のシステムでは)ありません。公開されているデータは、科研費の報告書であって、科研費番号と研究者の対応表ではないからです。(個人情報保護法がネックになっている?) つまり、何らかの形で科研費の報告書に名前が登場する研究者以外については、科研費番号からお名前や所属はわからないのです。

科研費の報告書からトレースできる研究者に関しては、名前と経歴と研究分野、研究キーワードをフィードでき、科研費に関しては取得状況もフィードすることができる・・・はずになっています。が、実は、それほど精度が出ない!という厳しい現実が。
まずは、科研費の報告書上の所属に関するフォーマットが年度ごとに違うため、たとえば、2008年は、「情報・システム研究機構 国立情報学研究所 情報社会相関研究系」となっていたものが、2009年は「国立情報学研究所 情報社会相関研究系」と変化すれば、機械は「異なる」と判断してしまい・・・それで、なんだかごちゃごちゃした経歴リストになってしまったりするのです。(にしても、なぜ科研費の報告書は、毎年フォーマットのマイナーチェンジを続けるんでしょうね。)また、当然のことながら、科研費が当たっていない年については、経歴が空白になる、という問題が起こります。
さらにいえば、本人が分担研究者であるときには、代表研究者が報告書に書いた研究キーワードまでくっついてきてしまうので、「そんな研究キーワード、全然関係ない!」というものが大量にフィードされてしまう・・・ということが、ままあります。

この後、いよいよ、本人の名前+所属でCiNiiから和論文をフィードします。が、ここでも問題が。所属が変わっていれば当然のことながら、それ以前の所属で書いた論文はフィードしてくれません。所属を外したら外したで、今度は同姓同名問題が噴出します。「ならば、科研費の研究者番号で絞ったらどうだろう?」というアイデアは誰もが考えますが、実は、研究者番号を使うと、対象を絞りすぎてしまう、という副作用があるのです。科研費の報告書に掲載されていない和論文や研究報告のほうが圧倒的に多いからです。(科研費の報告書にも、「本研究内容に関連する論文のみを記載すること」と注意書きが書いてありますしね。)
システム的には、科研費研究者番号にヒットするものと、(名前+所属)でヒットするものの和をとる、あたりのところが、費用対効果を考えると現実的な感じがします。
(※よいアルゴリズムを考えた方はぜひ私までご一報ください。)

こうしたことを考えると、論理的な計算だけで完結させるのではなく、人間の力を借りるほうが得策なのではないか、という気がします。
つまり、本人の名前でフィードしたものから、本人が「確かに自分のもの」と判断したものを選択した上でフィードしてもらう、という「人の目」を用いて精度を高め、その精度を信じて逆にCiNiiに還元したほうがいいのではないか、と。

あくまで素人の考えなので、専門家にはもっといろいろなご意見があるかと思いますが。

追記:CiNiiの著者検索機能βに、同姓同名問題解決のための機能がつきました。CiNiiの著者同一性に関する申し立て機能とResearchmapからのフィードバックによって、合わせ技で同姓同名問題が解決していくことを願っています。



10:00 | Impressed! | Voted(2) | Comment(2) | テクノロジー
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