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【政府開発援助(ODA)歴史の読書案内】
2017年度〜2020年度を研究期間として実施しているODA歴史研究の一環でレビューしている本や資料などを紹介したいと思います。ODAの歴史の中でも特に焦点を当てているのは「経済成長」「生産性の向上」「対日アメリカ援助」などです(なお、基本的には研究ブログで書いたものを編集してまとめたものです)。長丁場の研究なのでゆっくりと時間をかけて更新をしていきたいと思います。

(1) 外務省特別調査委員会報告書(1946)「日本経済再建の基本問題」外務省
(国立国会図書館のデジタルライブラリーで読むことができます。以下の」リンクからどうぞ)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2388705

1946年、戦後すぐにまとめられた政策提言書である。中心になってまとめたのは後に外務大臣や海外経済協力基金(OECF)の総裁も務められた大来佐武郎氏。戦後、経済安定本部に異動するまでの間、外務省の調査部におり吉田茂のブレーンとしてこの報告書をまとめたのだ。


その時の委員の顔ぶれが面白い、右派も左派も顔を揃えているのだ。

中山伊知郎東畑精一などの近代経済学者とともに、マルクス経済学の宇野弘蔵大内兵衛有沢広巳などが名前を連ねている。また、都留重人なども討議に参加していた。

何度読んでも考えさせられるのは、それだけここに集まった人たちの中に危機感があったからだろう。193ページにもなる報告書からは凄まじい緊張感が今でも伝わってくるし、今読むと農村における過剰人口の分析など開発経済学の分析を読んでいるような気になる。

前半は日本の世界経済の中での位置づけ(比較優位)を分析し、後半では各セクター毎に分析がなされている。特に比較優位が失われた繊維・農業から工業化の必要性が説かれており、その経済構造転換のためにはある程度の政府の介入が必要であると議論されている。

委員のうち、有沢広巳は数年後に傾斜生産方式など戦後の日本経済の復興を支えた政策の提案者となるが、この報告書にも随所にその主張が垣間見られる。

また、当時のGHQの民主化政策を受けてか「日本の政治経済の民主化」についてもかなり議論されている点も興味深い。当時、GHQの民生局にいたビッソンなどはかなり明確に経済再建の青写真を持っていたようだが、それに対応して日本側の青写真を提示している(ビッソンのことは英文ですが昨年、アジア開発銀行のペーパーに書いたことがあります。次は日本語でもう少し詳しく書きたいと思っています)。

ベトナム、ミャンマー、エチオピア、アルゼンチンなどで行われてきたODAによる産業政策対話、この報告書で示されている経済開発の方策がODAの経済開発などでの日本の発想の原点であると感じる。

(現在は英文版も販売されている)

Postwar Reconstruction of the Japanese Economy
Univ of Tokyo Pr(1992/06)
値段:¥ 6,306
 






(2)「生産性向上に関する日米両国政府の交換文書」(条1622号)
(国立公文書館のデジタルアーカイブで見ることができます。こちらです↓。

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F0000000000000558727&ID=M0000000000001393449&TYPE=&NO=

1955年4月7日、日本とアメリカは援助の国際約束を交わす。「生産性向上に関する日米両国政府の交換文書」(条1622号)である(日本側 重光葵外務大臣、アメリカ側ジョン、M、アリソン駐日大使)。少しこの国際約束のことを調べてみて面白かったことがいくつかある。
第1に援助の要請がもともとは民間からであり政府からではなかったことである。全ての始まりは1949年に日経連からワシントンに対して生産性向上プログラムの援助要請がなされたことである。しかし、当時、ワシントンとGHQは対日政策で対立しており、GHQを飛び越しての要請であったためアメリカ国内での調整がストップしてしまったらしい(どうしてGHQと相談しなかったのか理由はまだ分からない)。1953年に改めてワシントンからGHQに指示の訓令が出た際、GHQは同友会と窓口として援助の話をまとめていったようだ。その後も経済4団体(同友会、経団連、日経連、日本商工会議所)との協議が中心で、途中から外務、通産、財務が議論に入るようになったようだ。民間セクターの支援はやはり活発な民間企業の活動があって、政府はそれを後押しすることによって初めて成功するということの一事例なのだろうと思う(政府主導ではなく)。


また、面白いのは1954年9月24日に「生産性向上対策」という閣議決定がされているのだが、「たまたまわが国においても、民間においてこのような機関として「日本生産性本部」設立の機運が熟したのに鑑み・・・」となっている。これは日経連などの努力を指しているのだと思うが、「たまたま」という認識は面白い・・・。

第2は交換公文に記された援助の目的がかなり大きかったことだ。その文章というのは次のようなものだ。
「日本の工業、農業及び商業の技術上の能率の増進及び健全な労働運動の奨励によって日本国における生産性を向上させること並びに生活水準の漸進的向上を達成し、かつ、国際貿易における日本の経済の位置を改善するため物価の引き下げ、賃金の増大及び妥当な利潤の回収をもたらすように増強した生産及び生産性の結果を衡平に分配することをできる限り援助することを目的とする」

現在の援助の交換公文から比較するとかなり踏み込んだ(あるいは戦略的な)援助目的となっている。また、あえて「上位目標レベル」のこともかなりしっかり書き込まれている。この上位目標まで必ず達成することを想定に入れてプログラムを作られていたのだろう。実際、ここで書かれている援助の目的は、労働組合との交渉のために日本政府・日本生産性本部側が発表する「生産性の三原則」に反映された。そういう意味では単なる上位目標レベルではなく、かなり作り込まれた目標だったと言える。

また、当時の労働組合と経営者の関係は対立的であったこともあり、経営者側は労働組合との協働については否定的であったようだ。しかし、アメリカ側は労働組合との協働を条件としてかなり強く提示してきて断りきれなかったらしい。それが協調的な労使関係を日本で作り出し、さらにカイゼンに結びつくのだから不思議なものである。

第3に研修受け入れ人数の大きかった事だ。この援助は今でいう研修事業であった。1955年から61年に終わるまで
米国は393チーム(3,986人)を日本から受け入れた。これは今の日本の研修事業の人数から考えてもとても大きい。各チームは、鉄鋼、電気、靴製造、自動車部品などの産業部門で構成されていた。また、内容によりトップ・マネージメント視察団、産業別視察団、専門別視察団などに分かれていた。

さらに面白いのはアメリカの援助が終わった後も、日本は引き続き自費で米国に研修員を送った。今でいう有償技術協力である。 1965年には568チームと6,072人に達した。



ちなみにメディアをはじめとして生産性プログラムの援助はかなり注目度が高かったらしい。当時の新聞記事をみてみたところ、国際約束が結ばれた翌日、4月8日の朝日新聞の朝刊で「日米で公文交換ー生産性向上 相互に技術者派遣」と報じられていた。1面なので、それだけ注目度が高かったのだろう。その後も様々な続報が報じられており、朝日新聞では社説にも登場している。そこまで注目度が高かったとは知らなかった。

過去の文書を読むと色々発見がある。まだまだ読まないといけないものが・・・。


(3) 衆議院社会労働委員会調査室(1957)「生産性向上運動に関する資料」社会参考資料第50号
(リンク先の国立国会図書館のデジタルライブラリーで読むことができます。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1352352

戦後のアメリカによる対日援助で生産性向上プログラムはかなり大きいものだったが、その一環でミシガン大学を通じて早稲田大学に援助が出されていたことは知らなかった。

1957年の衆議院社会労働委員会調査室の「生産性向上運動に関する資料」を読んでいて、そんな記述に遭遇した。

この資料によると、1956年4月5日に早稲田大学とミシガン大学との間に「生産性向上に関する協定」が締結され(1956年から3年間の実施期間)、早稲田大学は新たに生産性研究所を設立したというのだ。

そして、このミシガン大学の資金こそが今のUSAID(アメリカ国際開発庁)の前身に当たるICA(国際協力管理局)から出された基金によるものだったらしい。

ミシガン大学を通じる米国側の予算は3年間で60万ドル、早稲田大学側は2万9700ドルの予算を計上したとも記されている。1956年度には早稲田大学から16名が調査研究に派遣、ミシガン大学からも経営関係学者2名が来日。

大学を援助の実施機関として使うというとてもフレキシブルなスキームだったようだ。

(ちなみに、当時の対日援助にはICA(国際協力管理局)によるものと、国務省によるものがあった。日本生産性本部への援助はICA、国務省の方でもガリオア援助の一環で労働組合の指導者を米国に招聘するなどのプログラムがあった)

ちなみに早稲田大学の生産性研究所はその後、どうなったのか?少し調べてみると、驚いたことに色々な経緯を経て1998年早稲田大学アジア太平洋研究科が設立された時に国際経営学専攻となったらしい。

もう少し正確に書くと、今はさらに改組されて早稲田大学ビジネススクール(早稲田大学大学院経営管理研究科)になっている。

簡単に年表にすると次のようになる。
1956 年 生産研究所 設立

1973 年 システム科学研究所へ改組
1998 年 アジア太平洋研究科修士課程国際経営学専攻新設
2007 年 早稲田大学ビジネススクール設置

アジア太平洋研究科には私も学生として所属していたが、こんな歴史があろうとは全く知らなかった。昔のことを調べると次々と知らなかったことが出てくる。しばらくはODA歴史研究の一環で資料収集と読み込みが続きます。


(4) 経済同友会(1956)「経済同友会10年史」経済同友会
(経済同友会のHPで全文、読むことができる)。

冒頭の文章が「全ての始まりは伝説めいている」で始まり、かなりドラマチックな言葉で「10年史」というもっと硬い内容ではないかと思っていたら、いきなりいい意味で裏切られる。調べてみたら経済評論家の羽間乙彦氏が執筆しており、年史というよりも物語のような書き方になっている。純粋に読み物としてもとても楽しく読めた。


経済同友会は、以前にも触れたとおりいわばアメリカ政府と直接コンタクトをして生産性プログラムの援助を取り纏めていく中心的な役割を果たしたのであるが、読んでみて合点がいった。かなり経営者たちが進歩的だったのである。

調べてみると、当時、GHQが進めた経済民主化のため多くの企業で幹部がパージされ、戦後は経営者の年齢が一気に若返り、そうした中で新しい考え方の経営者が多く生まれ集まったからのようだ日本特殊鋼管社長だった大塚万丈の「修正資本主義論」などはかなりラディカルな内容だった)。

 
同友会は1951年には「経営者の社会的責任の自覚と実践」を採択。ここで強調されているのは経営者としての「企業の公器性」、「社会平衡力」そして「利潤を増やし、これを資本家、経営者、労働者に公正に分配する」ということである。これは前にも触れた「生産性三原則」そのものであるといってもいいだろう。


こうした流れの中でキーパーソンは同友会の事務局長だった郷司浩平だったことも分かってきた。彼はその後、日本生産性本部の発足とともに専務理事になり、その後、第三代の会長に就任している。

経済同友会が積極的であった理由には郷司が1953年に2ヶ月に渡ってヨーロッパ、特に西ドイツの労使関係をつぶさに見たことが関係している。

彼は帰国後、8月11日に経済同友会の労働常任委員会で概ね次のように報告した。長くなるが興味深いので引用する(経済同友会 1957: 347)。

「一、西独の目覚しい復興の原動力は極めて健全な労使関係にあるといえる。

 一、それでは何故西独の労使関係が健全であり得るかについて、一部の論者は「経営参加があるからだ」と言っているが、自分はそうとは思わない。経営参加はむしろ形式的なことであって、実際の労使間の靭帯は別のところにある。

 一、それには次の三点が考えられる。
  第一は、祖国のためには他人にいわれなくても国民各自が自ら協調するという民族性に由来している。第二は労働者ないしは組合の考え方が経済主義に立っている。彼らは自らの生活水準が、生産の増加無くしてはあり得ないことをよくわきまえ、そしてその精神が組合運動の指導原理となり、政治闘争に走らないことを旨としている。

一、第三に次のような歴史的な事実が預かって力があった。即ち敗戦後の最も困難な時期において、労働者がわずかに煙草一個分にしか当たらぬ日給八マルクに甘んじながらも、ハンス・ベングラー会長を先頭に立て、生産復興に挺身したが、経営者もこれを高く評価し、労使相携えて復興に努力した。

一、以上三つの要因が重なりあって、労使の間に自然のうちに血のつながりができ、意思疎通の共通の場が形成されるようになったのである。まさにこの「血のつながり」こそが西独における健全な労使関係の根本の理由である。

一、かくして西独の労働組合は、経営者に対して、生産については自分たちの指導者であるとの態度をとり、他方経営者は、組合に対して大なる尊敬と愛情を持ち、会社の経営を脅かさない限り、最大限:に組合の要求を容れる体制にある。従って、ストはあるにしてもそれはあくまで一定の枠内において行われ、ストによって国民経済に混乱を起こすということはあり得ない…. (中略)….ひるがえってわが労使関係を思う時、労使双方とも反省すべき余地が決して少なからずという念を深くするのである」

彼にとってはこの西ドイツの労使関係がモデルになり、その後の生産性運動に取り組むことになったことは明らかだろう。

戦後のアメリカの冷戦下での戦略的な援助、労働組合の動き、そして革新的な経営者たちの台頭。こうしたものが組み合わさって、日本の高度経済成長が準備されていったのだと思う。

追記
昔は社史などに関心を持ったことはなかったが、3年前に宇沢弘文先生が編集をされた「日本の政策金融」(東京大学出版会)を読んでから変わった。日本開発銀行の歴史を丹念に辿ったもので(岡崎哲二先生(東大)などそうそうたるメンバーで日本開発銀行の歴史を取り纏められたもの。かなり勉強になった。

 








(5) 中南米・米国経済使節団報告書(1965)「低開発国経済協力」、日本生産性本部、経済団体連合会、日本商工会議所、日本経営者団体連盟、経済同友会。


歴史を紐解いて驚かされるのは戦後の日本の民間企業のダイナミックな動きだ。

研究ブログで、アメリカの対日援助やマーシャル・プランの主な内容が生産性向上を支援するものであったことは紹介した。

そして、前に見たようにその援助にあたっては日本側で主導的に動いたのは経済同友会をはじめとする民間の企業人であった。

今回、紹介するのは逆に日本が援助を開始した頃のこと。ここでも驚かされるのは民間の力強さである。具体的には写真の報告書のことである。

これは1965年に中南米・米国経済使節団の「低開発国経済協力」報告書として出されたもの。アメリカによる生産性向上の対日支援は1955年に開始されたが、それから9年後、アメリカからの援助を受け入れる窓口になっていた日本生産性本部は、逆に日本の経済協力の調整機関としても機能し始めていた。

 

1964年、日本生産性本部は「低開発国」への経済協力のあり方を協議するための使節団を各地に派遣始める。1964年にはヨーロッパ諸国、1965年には1月に東南アジア諸国へ、8月には中南米とアメリカに派遣した。

日本生産性本部が中心となり、経済団体連合会、日本商工会議所、日本経営者団体連盟及び経済同友会との共催である。ちなみに中南米使節団の団長は北川一栄・住友電気工業(株)の取締役社長であり、米国の使節団の団長は中山素平・日本興業銀行の頭取であった。経済界をあげての大事業だったことが伝わってくる。ちなみに中山素平は後に、この時点で既に発足していた海外技術協力事業団(現:国際協力機構)の会長に就任している。

外務省や経済産業省からは参加がなく、政府関係では経済協力基金・理事の柿坪精吾が参加しているだけである(他の参加者は藤沢徳三郎・日本輸出入銀行副総裁、檜山広・丸紅飯田(株)取締役社長、石川六郎、鹿島建設(株)取締役副社長、加福竜郎・大阪商船三井船舶(株)取締役副社長、児玉信次郎・住友化学工業(株)取締役副社長、河野一之・(株)日本相互銀行取締役社長、水沢謙三・東京海上火災保険(株)専務取締役、永田敬生・日立造船(株)取締役社長など)。

民間中心のミッションではあるが中南米では外務大臣、中央銀行総裁などと議論しており、ワシントンでは世銀総裁国務大臣USAID副長官などに加えて当時、国務省の政策企画委員長の座にあったロストウなどとも議論している。

議論の中身を見ても、途上国の民間セクターをどう支援すべきか、先進国の企業の役割と責任は何かが議論されており、現時点で見ると目新しさそのものはないが、現在でも議論されている点が多く興味深い。

このミッションが民間だけで出されたのは当時、アメリカで企業人がどのように援助に関わるかという議論が熱心にされていたからだと思われる。