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2017/03/18

研究業績としての芸術活動

Tweet ThisSend to Facebook | by Prof.Dr. SUMIOKA



 本、出した。オバカ小説だ。読み終わったら、くっだらねぇ、と思うだろう。だがしかし、くっだらないオバカ小説とは何か、を研究した成果だ。くっだらないと思われれば思われるほど、研究として成功していることになる。なんとも面倒くさくも、ややこしいメタな構造を持っている。

 どこぞの自称脳科学者が、日本のお笑いは、とか言って、どこぞの自称コメディアンに、うるせぇ、とか突っ込まれていたが、日本において、いや、世界においても、コメディの研究は、遅れている。『薔薇の名前』でも、アリストテレスの喜劇論を劇物扱いとし、人間は笑うと猿になるからだ、と言わしめているが、数千年来、コメディは学芸の禁忌領域となっている。

 自称脳科学者は、いちおうは英国留学していたようだが、外国のコメディの実際についてほとんど知見が無いのでは無いか。コメディを理解するには、その根底にある文脈を知らないとわからない。各国語がわかるだけでなく、歴史文化を知らないと、わからない。たとえば、都知事が「ネズミの前で」と言って笑いを取るのは、それまでに予算の食い潰し問題で「ネズミ」が俎上に上がっているからで、その文脈がわからないと、笑いどころがわからない。

 海外のコメディアンが高尚な政治批判をやっている、などというのは、まったくのウソ。それは、コメディとしては質が悪く、ウケも悪い。ヘイトスピーチの一種でしかない。一方、ハイブローなのは、たとえば、ヘルゲ・シュナイダーの「カッツェン・クロー(ネコトイレ)」とか「ケーゼブロート」のように、ごく日常の中の笑いをつまみ出している。英国のミスター・ビーンやスティーヴ・クーガン、それに先行するモンティ・パイソン、フランスのルイ・ド・フュネスやクリスチャン・クラヴィエ、イタリアで言えば、ファントッチなどなど、なにか取り立てて攻撃的なわけではなく、かといって自虐的でもなく、もっとロジカルな、いや、イロジカルな笑いだ。

もちろん、コリューシュやベッペ・グリッロのような政治的なコメディアンもいる。こういうのはたいてい、特定の方向性を持った連中が集まるカバレー出。つまり、ヘイトであって、侮蔑の笑いだ。ヒットラーも、もともとは、そういう一人。ビアホール芸人。そんなのが、高尚と言われては、専門で研究している者としては、おいおい、というところ。

とはいえ、日本の芸人というのも、世に出る手段にすぎず、30年前までは、シンガーソングライターで、あのねのねだの、所ジョージだの、まったく音楽的な才能の無い連中までもが、タレントとして、その分野から出てきた。それがいま、お笑いになっただけで、やつらの大半は、笑いを極めようなどとは思っていまい。

落語や漫才と言っても、いまさら秋田実のような人物もおらず、古典を「話芸」で見せているだけ。むかし、あれを作った連中がいたのに。いま、新作は、ツボがわからなくなってしまっている。しかし、むかしできたものは、なにかそこに秘密がある。その構造を見極めることは、人間性の根本のひとつに触れること。

効率とか成果とか、その達成にやっきになっていること自体が、喜劇的だ。だれも読まない論文、読んだとしても、仲間内でぐるぐるとおべんちゃらを回しているだけの論文。その引用構造まで見ていくと、それこそあまりに無意味。ニーチェのように、無意味を呵々大笑するような、もっと大きな視点こそ、人間学が求めるところだろう。

論文の本数がどうのこうの、と言っているようなのとは、まったく別のところでも、研究は成り立つ。理解できないのは、ドシロウトが理論物理学にケチをつけるようなもの。わからんのだったら、評価能力からして皆無なのだから、黙ってほっといてくれ。だが、わかる余裕のあるひとがいるなら、世間を避け、ひそかに笑って人生と研究を楽しもう。



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