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2017/03/19new

【再々予告】Guido Cusinato教授講演会

Tweet ThisSend to Facebook | by yske.miyamura

 講演会のお知らせを兼ねての、さしあたり私の手元にあるCusinato教授の研究のご紹介の続編です。


国際シェーラー協会会長Guido Cusinato教授講演会のお知らせ

3月22日(水)16時15分〜(立命館大学)
人間の『生まれ尽くそうとする渇望』ーマックス・シェーラーとともに感情の共有(Sharing Emotion)と他者の現象学を考えるー
会場:立命館大学(衣笠キャンパス)、末川記念会館、第三会議室
http://www.ritsumei.ac.jp/accessmap/kinugasa/
http://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?id=227619&f=.pdf
講演日時:3月22日(水)16時15分〜17時35分

3月26日(日)14時〜(一橋大学)
『愛の秩序』と『あいだ』の精神病理学ーマックス・シェーラーの
現象学の観点からー
会場:一橋大学(国立キャンパス)、佐野書院
http://www.hit-u.ac.jp/guide/campus/access.html
http://www.econ.hit-u.ac.jp/~coe-res/paper_doc/sano.pdf
会場の佐野書院はキャンパスの外に位置しますのでご注意下さい。
講演日時:3月26日(日)14時〜17時

どちらも使用言語はドイツ語ですが、講演原稿の翻訳と通訳がつきます。



  ○Guido Cusinato, Eros und Agape bei Scheler, in: C. Bermes, W. Henckmann, H. Leonardy(Hrsg.), Vernunft und Gefuehl, Wurzburg, 2003, S. 93-107.

 
Vernunft und Gefuehl: Schelers Phaenomenologie des emotionalen Lebens
Koenigshausen & Neumann(2003/10)
値段:¥ 4,374


 『理性と感情 シェーラーの情動的生の現象学』という論集の、「シェーラーにおけるエロスとアガペー」という論文です。高校の倫理のレヴェルの知識でもありますので、ご存知のかたも多いだろうと思いますが、エロスとはギリシア的な愛、典型的にはイデアに向かうプラトン的な愛のかたちで、アガペーとは隣人に向かうキリスト教的な愛の形態のことであります。後期シェーラーの人間学思想における、両者の連関を考察する論文です。
 今回の講演会との関連でいえば、一橋での講演と、「愛」というテーマで共通性があるかもしれません。「愛の秩序」はシェーラーの主導的な思想のひとつで、実際に「愛の秩序」というタイトルの遺稿をシェーラーは残しています(白水社版の著作集だと10巻に収録)。ただその遺稿が書かれたのは、主著『形式主義』と同時期の中期で、上の論文が主に取りあげる後期とは少し思想傾向が違うので、その点は注意が必要かもしれません。

 一般に後期シェーラーの人間学思想というと、Geist(精神)とDrang(衝迫)の二元論として紹介されることが多いかと思います。前者のGeistはイェーナでの修行時代の師であるオイケンから受け継いだ、動物的生を超えて人間を人間たらしめ人格を人格たらしめる、前期と中期を貫くシェーラー哲学の原理であります。ただ後期になると、Geistはそれだけでは無力であり、生命体の原理であるDrangの力の必要性を強調するようになっていきます。ただCusinato教授は、1987年に刊行されまだ邦訳もない(はずの)全集十二巻の遺稿集(タイトルは『哲学的人間学』)に収録された「エロス」という資料(S. 232-238)をもとに、エロス・アガペーという観点から後期の人間思想の見直しを提案します。引用しますと、

 遺稿から明らかになるのは、シェーラーの哲学的人間学の中心的思想は、精神と衝迫の相互関係にではなく、むしろ人格、エロス、アガペーという問題群に求めなければならないことである。人間を動物から原則的に区別するものは、知性や精神の純粋な作用ではなく、人格のエロス-アガペー的な論理である。動物に完全に欠けているのは、真にエロス的な振る舞いであり、そして「アガペーとは、動物がそれに対する素地をまったく持っていない或るものである」(GW XII, 235.)    (S. 94)

 エロスとアガペーの独特な連関こそ、後期のシェーラーにおいて人格を動物から決定的に区別するところのものだというわけです。一般にエロスとアガペーは異なる愛の原理として対比されたり対立されたりしますが、教授によれば後期のシェーラーにおいては両者は連関します。エロスは本能や直接的な満足から距離を取ること可能にし、動物には拒まれている価値や客観的認識の領野を開示しますが、より高次の愛であるアガペーは、こうしたエロスの働きに基づいてのみ成り立ちえます。「エロスは、すでに言及したように、像の世界に達するだけで、本質を直観することはできない。本質はアガペーによってだけ認識されうる。エロスは人間に対して客観的認識だけを開示する。本質認識においては、エロスは自分自身を超越して、アガペーの働く余地を作り出さなければならない」(S 106)。

 こうしたシェーラーのエロス論やアガペー論の背景として、プラトンはもとより、アッシジのフランチェスコやフロイトなどが論及され、後期のシェーラーに「プラトンとキリスト教を実りある仕方で互いに結びつけること」(S. 100)という意図が指摘されたりもしますが、これはとても重要な指摘ではないかと思います。後期シェーラーの人間論のもうひとつの重要な論点として、「調和(Ausgleich)」と「全人(Allmensch)」というものがあります。「理性的動物」だとか、ニーチェの「超人(Ubermensch)」だとかいった、従来の一面的な人間論に対し、感性と理性、精神と衝動、男性と女性、アジアとヨーロッパ等々といった原理を「調和」的に統合する、新たな時代に求められる人間像としてシェーラーが提案したのが「全人」です。こうした新たな人間像における調和が、エロスとアガペー、プラトン主義とキリスト教のあいだでもこころみられているわけで、後期シェーラーの人間学の精神史的な射程の大きさを示すものではないかと思います。

 その他にも、今『カントの批判における哲学と道徳』という作品を訳しているゲルハルト・クリューガーという人の、もうひとつの主著であるプラトン論(G. Kruger, Einsicht und Leidenschaft. Das Wesen des platonischen Denkens, Frankfurt/M. 1939)に、註で言及されていたりして(S.100 Anm.17)、ちょっと嬉しくなりました。クリューガーは本国ドイツよりフランスでよく読まれているそうなのですが、イタリアでも受容されているのですかね。こんなところも、機会があれば教授にお尋ねしてみたいところです。

 こんな紹介ではたいした参考にならないかもしれませんが、シェーラーの資料を縦横に駆使しつつ、思想史的背景にも十分に目配りをしながら「愛」の問題を論じる、教授の研究の姿勢の一端くらいは伝わりませんでしたか。また一橋での講演のタイトルにある『あいだ』は、おそらくヨーロッパで広く受容されているらしい木村敏の議論を指すものではないかと思います。ギリシアとキリスト教の総合どころか、ヨーロッパと東洋の総合という、スケールの大きなお話を聞けるかもしれません。年度末でみなさまお忙しい時期かと思いますが、ご関心のあるかたはぜひ立命館か一橋の講演会にお越しくださいませ。
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