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2017/07/17

スミス

Tweet ThisSend to Facebook | by syajima
今学期はスミスで打ち止め。スミスに規範倫理があるのかということはずっと気になっていた。もちろん法学があるので、当然あるということになると思う。ハチスンは人間本性の構成を根拠に、神への信仰に基づいて「べし」を導いた(それゆえヒュームに批判された)。スミスの規範倫理は処罰の強制力を根拠としているように思うが、だとすると、似たようなことにならないだろうか。

処罰されるから他人を害しないようにしましょう、という規範に従う動機は義務感なんだろう。それはそれでいい。問題は、処罰の理由であり、規範倫理や法学はそこに合理的説明を必要とする(気がする)。人為的徳としての正義というヒュームによる説明は、そうした合理的説明の一つだろう(ただ、ヒュームの場合は正義や所有の観念の成立史を語っているだけで、規範倫理を意図してはいないように思う)。だが、スミスは処罰のoriginalな動機はresentmentだと言って、処罰の根源的理由を人間本性に帰する。では、結局処罰の理由や正当性のようなものはどこから出てきますか、と聞かれたら、それは神様ですね、ということになりそうだ。

道徳判断に観察者視点が必要だということを明確にしたのは、スミスの最大の功績だと思う(よく考えれば当たり前の話だが、その当たり前のことを明確にするのが重要なことだろう)。だが、スミスが観察者と考えていない受益者や被害者にも、観察者の地位を認めるべきではないだろうかと、昔から疑問に思っている。むしろ、観察者としての彼らのgratitudeやresentmentにおいて、原初的に道徳判断が生じていると言うべきではないだろうか。gratitudeやresentmentがrewardやpunishmentを動機づけるからこそ、判断(評価)はまさに規範となり、この規範性こそが「道徳」判断の必要条件ではないかと。

不偏の観察者は道徳判断の正当化、規範倫理を意図しているのではないか、と思われるかもしれないが、それは規範正当化それ自体を意図しているのではなく、そのようにして正当化する傾向にあるという人間本性の事実について述べているのだと思う。スミス的には、そうした正当化が「道徳判断」という概念の必要条件であったということか。だが、それは本当にそうだろうか。道徳判断の客観性というのはあるだろう。だが、客観的な道徳判断があるからと言って、それだけが道徳判断であり、主観的な道徳判断はないということにはならないのではないか。むしろ、主観的な道徳判断(gratitudeやresentmentに基づく判断)があって初めて、客観的な道徳判断(第三者の判断)がありうるのではないか。

客観的な不偏の観察者に特権的地位を認めて判断を正当化しようとする人間本性は、それ自体興味深い探究の対象であり、探究の前提とすべきものではないだろう。
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