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2017/09/09

静かな勉強

Tweet ThisSend to Facebook | by Prof.Dr. SUMIOKA
 カリキュラムだの、シラバスだの、これは体系的教科書化されている経済学あたりがモデルなんだろうか。さもなければ、自動車運転学校か。人文学で人格を陶冶する、というようなことは、まるまる連中の視野から抜け落ちているのだろう。

 静かな勉強がしたい。東大の駒場の教養ゼミなんかは、そうだった。本郷でも、社会学のように、がちゃがちゃ発表と議論というところもあったが、静かな輪読座談というところもあった。たとえば、モンテーニュ。どこから始まり、どこで終わるというような本ではない。カリキュラムとかシラバスとかとは対極にあるような勉強。

 院生のころ、東海大学の犬田充先生の御指導も受けていた。お時間だけ拝して、研究室に伺うのだが、これはとても勉強になった。テーマも決めていない。たとえばブローデルの新しい翻訳が出た、とかいう糸口から、歴史の話や社会の話、統計や史料の扱い、はては最近の世相との比較批評まで、お話を伺い、また質問し、質問され、考える。それをきっかけに、帰りに図書館によって、関連図書を自分で読む。まあ、あんな授業も、犬田先生だからできたこと。

 こういう静かな講義が減ってしまった背景には、それを廻せる教員がいない、という事情もあるのだろう。思えば、駒場や東大の、この手のゼミができる先生は、教員であるだけでなく、作家やエッセイストとしても知られていた。人間的な問題は、まったくちがう分野、ちがう場面で、同じパターンを出現させる。そういう実例をポケットにいっぱい入れているような教養人でないと、文字面だけを追うことになってしまう。

 一方、退官退職した団塊世代教員で、市井の学習会を主催している人も、最近は多い。とはいえ、正直、気味が悪い。死に損ないのゾンビのようだ。なにも大学から身を引いてまで、そんな大講義なんかしなくてもいいのに、と思う。連中は、「告げる」だけで、「語る」ことができない。だから、一方通行。こんなことを言っても、まあムダだろう。

 もっとはっきり言ってしまうと、教員の質が下がった。大学人としての水準とは思えない、ただのレクチャラーみたいなのが団塊世代で激増した。一高東大出の時代のような知的余裕が無い。ただのサラリーマン。いったい大学でなにが楽しいんだか。もちろん、大学が増えすぎたのもある。しかし、それなら、そういう人文大学のひとつくらいできても不思議ではないのだが、むしろ講義の中身まで画一化圧力がかかる。うるさい、頭の悪い外野が口を挟んでくる。大学らしさなど、窒息寸前。

 おそらく理系でも昔は違ったのだろう。南方熊楠は極端にしても、科学者としてのオールラウンダーが理系の知的世界の魅力を学生と語り合うことができた。いまは、論文の本数、研究の成果を追うだけのサラリーマン。あんなの、学者じゃない。と、私は思う。

 静かに語る講義。いまの大学に、そんな余裕はないのかもしれない。体育だとか、語学だとかを外して時間的余裕をひねりだし、むしろ文学や芸術、科学を必修にして、きちんとした人文学の大学は作れないものなのだろうか。アカデミーって、ほんらいはそういう場だったのではないか。このままでは、人間的な意味で、日本はどんどんバカになる。軽井沢とか、有馬温泉とか、企業の保養施設のお古を連携して、大学生の外部履修だけでなく、社会人の企業研修なども受け入れるような、専門の人文学院のようなものが、まじめに必要だと思う。
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