Researchlog by Noriko Arai

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2016/08/15

数理論理学休講のお詫び

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一橋大学の学生さんたちへ、

あまりの多忙で2017年度も数理論理学を開講できる見込みが立ちません。
申し訳ありません。再開できるよう努力します。
10:37 | 投票する | 投票数(0) | コメント(0) | 教育
2014/12/18

数論理学I休講のお詫び

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一橋大学の学生さんへ、

あまりの多忙により、2015年度夏学期の「数理論理学I」は開講できそうにありません。申し訳ありません。2016年度には開講できるよう努力します。
12:12 | 投票する | 投票数(3) | コメント(0) | 教育
2014/07/12

数理論理学I期末対策問題について

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遅くなりましたが、数理論理学I期末対策問題をアップしました。いつものパスワードでダウンロードしてください。

※対策問題解答集をアップしました。(7月15日)
15:09 | 投票する | 投票数(1) | コメント(0)
2014/05/22

数理論理学I中間試験について

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数理論理学Iの受講生へ。
先週の宿題の解答にミスがありましたので、訂正して「資料公開」のページにアップしました。
また、来週の中間試験の対策問題を「資料公開」のページにアップしました。
いつものダウンロードパスワードを使ってダウンロードしてください。
16:22 | 投票する | 投票数(2) | コメント(0) | 教育
2014/05/20

講義質問への回答

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本日の授業に関して、「\sqrt{2}は無理数である」を自然数の言語の中で、どのように数訳するか、について質問がありましたので、お答えします。

これは、「どんな自然数の組x,yによっても、\sqrt{2}\frac{x}{y}の形で表せない(但しy\neq 0)」、つまり、「どんな自然数xと0でないyについて、\sqrt{2}\frac{x}{y}に等しくない」と書きたいわけです。ただし、\sqrt{2}は直接自然数の言語に含まれないので、
\forall x \forall y(y\neq 0 \rightarrow x^2\neq 2y^2)
\neqを使いたくない場合には、たとえば
\forall x \forall y (y=0 \vee \neg  x^2 = 2y^2)
のように書けばよい、ということになります。
20:25 | 投票する | 投票数(4) | コメント(0)
2014/04/29

講義資料

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数理論理学I(夏学期)を受講しているみなさんへ。
5月13日は出張のため、講義は休講とします。代わりに、自習用プリントを作成しました。
「資料公開」ページのトップにある「数理論理学I 宿題1」をダウンロードし、5月19日までに数学統計学教材準備室に提出してください。(パスワードは授業中にお知らせします。)
数学統計学教材準備室にもハードコピーを置いておきますので、ダウンロードできなかった方は、そちらに取りに行って下さい。

答えは5月20日に配布します。

予定通り、中間試験は5月27日に実施します。
11:40 | 投票する | 投票数(0) | コメント(0) | 教育
2014/04/04

「ロボットは東大に入れるか」ボツQ&A集

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「ロボットは東大に入れるか」に関連して、昨年から数十のメディアからインタビューを受けました。文字の制約等もあり、丸ごとボツになるコメントのほうが圧倒的に多いです。そこで、自分を慰めるためにここにボツQ&A集を公開したいと思います。(徐々に増やす・・・かもしれません)

Q:東大に合格するロボットの開発を目指しているんですよね?
A:いいえ、ちがいます。「センター入試(や東大入試)を解くソフトウェア」を作ったとしても、それ自体が社会に有用だとは思いません。そんなものが売れる気もしませんし。
「ロボットは東大に入れるか」という問いに対して、工学的実現を含めてまじめに取り組む中に、どうしても突破しなければならない本質的な課題がいくつもあるし、今は認識されていない課題もいくつも発見されるでしょう。そのことに、このプロジェクトの最大の意義があると考えています。

Q:2022年までに東大に合格する見込みはどれくらいでしょうか?
A:2022年という具体的なゴールの設定は、このようなタイプのAIチャレンジに対して10人を超える研究者が真面目に考え、しかもその研究者のアイデアをサポートする十分な技術スタッフがいるとき、10年で目途がつかないのであれば、その時点の理論および技術では突破できる見込みがない、ということを意味すると私は思います。理論が不十分なのに、「頑張ればどうにかなる」ということは、あり得ません。ですから、理論が整うまでまた数十年寝かしておかなければならないと考えるのが妥当ではないでしょうか。成功したとしてもそうでなかったとしても、現在のAIの実力を知り、次の30年に進むために誰かがリスクをとってチャレンジすべき課題だと思っています。
ただし、現在は予算の関係上、上述したようなハッピーな研究環境を、参加している研究者に提供できているとは到底言い難く、プロジェクトディレクタとして申し訳なく思っています。

Q:2022年には東大に合格しますか?
A:その質問に今の時点で答えられるとするならば、それは研究ではなく、実装に過ぎないので、本質的なチャレンジではないと思います。

Q:脳科学によって人間が考える仕組みが解明されたとき、人間と同じように考える人工知能は実現されるでしょうか?
A:論理的には、できないと思います。まず、「人間と同じように考える人工知能」の前提として、実際に人間の考えている状態をモニターすることができる観測機があり、その観測結果と、作成した人工知能の出力がほぼ一致する、ということによって「同じように」を初めて主張できるはずだと思いますが、「人間の考えている状態をモニターする」とはなんでしょうか。たとえば、今私が「「緑色をしたさかさ狸とよめなぐさにまつわる100のエピソードに関する妥当性の証明をする計算機」について考えている、とこの記者に言ったらどうなるだろうか、ということ」をぼんやり考えていた場合に、それを何らかの観測装置によって観測し得るということの妥当性を16世紀以降の科学的手法で主張することができる気が私にはしません。きっと、私自身も、そのことをこうして口に出して記号列にするまでは、まさか自分で「「緑色をしたさかさ狸とよめなぐさにまつわる100のエピソードに関する妥当性の証明をする計算機」について考えている、とこの記者に言ったらどうなるだろうか、ということ」を考えているだなんて、思いもしないでしょうし、しかも、私は同時に「お腹が減ったなぁ」とか「この記者は今、なんだか腑に落ちないというような顔をしているなぁ」というようなことも記号にせずに考えているのでしょうから、結局のところ、私が今何を考えているか、は私自身もモニターできないわけです。そこに人間全般に関する一般論が存在し得るのかどうかさえ、検証しようがないように私には思われます。ですから、「人間が考える仕組み」を「解明した」と主張し得るという考えが、そもそも私には理解しがたいです。

Q:AIは人間の能力を超えますか?
A:それは比較の問題ですから、論理的には、それはAI単体で決まるのではなく、人間が実際のところ、今どんな能力を持っているかに依存します。また、そこでいう「人間の能力」は、個体にもよるし、時代によっても変化します。ですから、一般論は述べたくありません。ただ、このプロジェクトにおいては、開発する機械の能力を2021年における大学受験生と比較することになるでしょう。私は、教育者として、人間の側に勝ってほしいと心から願っていますが、過去に数学基本調査を行って答案の採点をした感触や、昨年代ゼミ模試タスクで出た結果から、あまり楽観していません。

Q:やはり数学は機械にとってやさしいですか?
A:どの科目が機械にとってやさしいか、ということは現段階でわかりません。ただ、数学は、後段の「問題文が形式的命題で記述されたと仮定したとき、それを自動に解き得るか」についての数学的な理論や技術の蓄積が他の分野より厚いため、解ける問題の範囲やその道筋が、比較的はっきりしているとは言えると思います。2013年の代ゼミ模試で解けたのは実閉体の理論に落とし込める問題で、しかもその問題の複雑度がCADというアルゴリズムで実時間で解けるようなもの、に限られています。さらには、自然数の問題に対しては万能なアルゴリズムが存在しないことがわかっていますから、実閉体のようにすっきりとした解法は望みようがない、と見るのがふつうでしょう。
一方で、大学入試では、実閉体の問題を外して作問することが極めて困難でしょうから、毎年何問かは解けるだろうとは思います。そのとき、やはり比較の問題として、他の受験生がどれくらい解けているのか、どれくらいまともな答案を書いているのか、ということで合否は決まると思います。

Q:数学の入試問題をコンピュータに解かせて何かの役に立ちますか?
A:後の社会への影響という意味では、位取り記数法の発見よりは役に立たないでしょうが、フェルマーの定理より役に立っても不思議ではないと思います。

Q:ビッグデータの潮流とはどのような関係がありますか?
A:基本的には、あまり関係ないと思います。なにしろ、過去問は全部合わせても比較的スモールデータですので。

Q:機械翻訳によって、英語の学習は不要になりますか?
A:これは機械翻訳そのものの精度というよりは、インタフェイスの提供の在り方や、人間がそのような環境にいかに適応するかということ、さらにはそのような環境が生まれたときに人間の「言葉の質」そのものがどの程度変化(劣化)するか、ということに依存すると思います。機械翻訳には癖がありますが、それが日常生活に満ちあふれ、その癖に人間側が適応してしまえば、(検索エンジンと同様に)機械翻訳で多くの場面で満足するようになることは有り得ると思います。それで文学作品を翻訳し得るのか、という問題は残りますが、そのことは「英語の学習が学校制度の中で、今と同程度の重要性を保ちうるか」という問題とは、(関係するけれども)別の問題だろうと思います。個人的には、機械のする翻訳も、食べログの★も信用しませんし、Amazonの推薦で本を買ったこともありません。機械は全般的に嫌いで、特に電子レンジとスマホは持ちたくありません。

Q:アノテーションされた問題を使うのは不公平ではありませんか?正々堂々と、問題のキャプチャーから始めるべきではありませんか?
A:重要なのは「価値のある研究を正々堂々と行う」ということであって、入試のルールに対して正々堂々としているかどうか、ではないと思います。必要があれば随時目標設定の修正を行い、投資された研究費の最適化を図るのがプロジェクトディレクタの責務だと考えます。

Q:夢のあるプロジェクトですね!
A:夢があるかどうかは、正直よくわかりません。ただ、21世紀前半の世界において、機械がどのような知的タスクをこなすことができるか、どのような知的労働を代替しうるか、という問題に、人類は直面せざるを得ない。その問題をポジティブに乗り越えるには、まずは現実を直視することからだと、私は思っています。

Q:結局のところ、東大には入れそうですか?
A:まずはこの記事の一行目から読み直して、正しく含意関係認識してください。
15:06 | 投票する | 投票数(28) | コメント(0) | 備忘録
2013/06/14

第一回 大学生数学基本調査報告書

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2011年に日本数学会が実施した「第一回 大学生数学基本調査 報告書」が、数学通信第18巻第一号に掲載されるとともに、ウェブからダウンロード可能となりました。
多くの皆様にご協力いただき、ここに報告書を提出できたことを、心より感謝しております。本調査とその分析が、教育の方向性を考える上でお役に立つことがあれば幸いです。


***
お蔭さまで10年以上勤めた日本数学会教育委員をこの度満期退任することになりました。
委員長時代は、デジタル教科書騒動が持ち上がったり、大学生数学基本調査をしたり、と目が回るような忙しさでしたが、委員のみなさま、また理事会のみなさまに支えて頂き、なんとか無事に任期を終えることができました。
退任にあたり、数学会の数学通信に巻頭言(17巻4号)を寄せましたので、ここにリンクをはっておきます。
09:03 | 投票する | 投票数(6) | コメント(0)
2013/06/13

なぜ数学嫌いが数学をするようになったか

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フォルダを整理していたら、昔書いたらしい文章が出てきました。タイトルがなく、ファイル名からどうやら「数学文化」の巻頭言として書いたもののようです。インタビューを受ける度に「なぜ数学嫌いだったのに数学をするようになったのですか?」と聞かれるので、ここに掲載しておくことにします。

***

今、この文章を書いている研究室の窓の向こうには、皇居の桜が広がっている。桜を見ると、ついランドセルを背負って学校に通っていたころのことが思い出される。

あの頃、私は、算数の苦手な女の子だった。

たぶん、生まれつきおっちょこちょいなせいだと思う。すぐに計算間違いをする。いちおうやり方はわかっている。でも、計算間違いをすると、答案にはバッテンがつく。それがしゃくでならなかった。では、文章題や応用問題は得意か、とたずねられると、そうでもなかった。たぶん、理屈っぽいくせに、落ち着いて考える力がたりなかったせいだと思う。

そういう私は、小学校を卒業して中学校に入学すると同時に、算数が苦手な女の子から数学を恐れる女の子となった。数学の先生はいつも灰色のよれよれのスーツの上に白衣を羽織っていた。授業中に問題がわからない生徒がいると、差し棒でカツカツと黒板をたたき、「なぜわからない」と責めたてた。そうして、中学校の数学の授業に一年間座った結果、数学が大嫌いな女の子になった。受験の季節になった。かんばしくない数学の点数を前に、担任の理科の先生は「大学受験のときには、数学が入試科目にない大学を選べよ」と私に言った。

そういう私が、なぜ大学に入ったら数学が好きになり、法律の道を捨てて数学の道を選んだのか、自分でも不思議だ。ただ、大学に入ると、とつぜん「解ける」よりも「わかる」ことに価値がシフトしたことを強く感じたことは覚えている。高校までの数学の授業では、「わかりました」よりも「解けました」「答えがあっていました」のほうが大事だった。こういうと数学の先生に反論されそうだけれども、授業を受けた生徒の実感としては、圧倒的にそうなのだ。ところが、大学に入ってみると、数学を学ぶ時間の大部分は「わかる」ことに費やされ、「解ける」ことや「計算する」ことよりも、「わかる」のほうが重んじられるようになった。

計算間違いをしたかどうかは自分ではよくわからない。でも、わかったかどうかは、自分でわかる。生分かりのときには、なんだか頼りなかったし、しっかりわかると晴れ晴れとした気持ちになった。だから、わかるかどうかを自分で確かめながら前に進むやり方は、私にはとてもフェアに思えた。それまで問題をすいすい解いていた友人が、実はわかっていないことを知ったりしたことも、多少は痛快だったのかもしれない。

文系から数学に移ってきて、数学の教科書には、哲学や経済学のそれに比べて人名がほとんど出てこない、ということに気づいた。哲学の中にある概念が登場するときには、それを提唱した人とそのいきさつについて詳細に書かれているのが常だった。元素だ、水だ、というときでさえも、タレースの文脈かそうでないか、によって意味が違ってくる。数学では、多くの定理が無名であり、さらには、定義に「誰それの定義」と名づけられていることはほとんどない。そうして、誰もがその定義を「あれは空」「あれは海」という調子で、あたかも自然物を指す言葉のように使っている。では、数学の定義は自然物かというと、どう見たって、そうではない。群の定義などは当然人工物であって、その定義をすることによって、世界をそれまでとはまったく違う観点から見よう、ということなのだから、定理証明以上に数学構築の要なのである。

私は、定理を理解するより、定義が示す世界観を感じることに強く惹かれるようになった。定義とは、何かを「わかる」ために作られた言葉なのだと思った。そうして、幾万もの無名の定義が、何百年も揺るがずに、あたかも自然物のようにそこにあることを尊いことに思った。数学が揺るがないのは、それが神によって祝福されているからではなく、「わかる」ことへの祈りに似た気持ちに普遍性があるからだろうと、私は思う。

「できる」より「わかりたいと思う」が尊い、と、桜をながめながら、あの日の自分を慰めてやりたくなった。

 

 


18:28 | 投票する | 投票数(23) | コメント(0) | 教育
2013/05/25

日経 経済教室「コンピュータが仕事を奪う(上)」

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5月1日、日本経済新聞の「経済教室」に「コンピュータが仕事を奪う?(上)」というタイトルで寄稿しました。私が担当したのは上回で、下回は東京大学の柳川範之さんが執筆されました。以下、上回の最終版のひとつ前のpreprint版を掲載します。

***

 先月、コンピューターの将棋ソフトとプロ棋士の団体戦「第2回将棋電王戦」において、将棋ソフト側が3勝1敗1分けで勝利した。情報科学者の多くが予想した通りの結果ではあるが、結果を目の当たりにすると感慨深い。
 1997年にチェスの世界チャンピオン、ガルリ・カスパロフ氏が米IBM社のコンピューター「ディープブルー」に敗北したとき「将棋はチェスに比べてルールが複雑。近い将来にプロ棋士と並ぶ能力をコンピューターがもつことは難しいだろう」との楽観論があった。「プロ棋士のひらめきはコンピューターでは凌駕(りょうが)できない」と。
 確かに、コンピューターはひらめきを持ち合わせていないので、指し手を選ぶには合理的な基準が必要になる。どの指し手がどんな結末をもたらすのか、しらみ潰しに調べ始めると、探索すべき指し手はあっという間に全宇宙の観測可能な原子の数を超える。どれほどハードウエアの性能が向上しても効率的な探索は不可能だと考えられていた。
 しかし、その予想は覆された。予想を超えてハードウエアが向上したからではない。「データ」と「機械学習」という手段を将棋ソフトが手に入れたからである。公開されたプロ棋士の対戦の棋譜(データ)を基に、プロ棋士が選んだ指し手こそ価値が高いと認識するような評価指標を自動調整する(機械学習)プログラムの登場である。機械学習技術を用いて飛躍的に精度が向上した分野には、機械翻訳、情報推薦、画像認識、音声合成などがある。
 機械学習の特徴は、コンピューターはなぜその判断が正しいかの根拠を知る必要がないという点にある。過去に下された「正しい判断」を模倣すればよいのだから。
 たとえば、スパムメールの除去処理などが典型的な例だろう。私たちがスパムメールを発見してゴミ箱に移動させたり、スパムメールとして通報したりする行動を教師データとして、それを模倣するプログラムを作ればよい。もちろん、誤って重要なメールをゴミ箱に放り込むこともある。だが、ゴミ箱から救い出す私たちの操作をコンピューターは自動的に学習し、プログラムを日々修正する。
 スパム除去ソフトはメール管理者をスパムメールとの格闘から解放した。では、彼らの仕事は楽になっただろうか。そうではない。結果的に彼らから職を奪ったのである。
 米国や英国では、入試の小論文採点に自動採点システムが導入された。人間が2人1組で採点をするよりも、人間とコンピューターのコンビで採点したほうが低コストで精度が高いことが実証されたからである。10年後には、日本語で話せば、あたかも自分の声で話しているように英語に翻訳してくれるような簡単な機器が登場しても不思議はない。「そこそこ」の知的作業はコンピューターによって急速に代替されつつある。
 一方、新しい職種も生まれつつある。データアナリストはその代表例だ。人間では眺めることすら不可能なエクサバイト(10の18乗)級のデータを対象に、機械学習やシミュレーションを武器にコンピューターを用いてデータを分析し、企業や政府の判断を支援する人々である。3D(3次元)プリンターを活用してニッチな製品を作る工房を構える「メイカーズ」と呼ばれる人々も出現した。21世紀前半は、これまでの数世紀とは比較にならないほどの新しいタイプの職種が生まれ、また絶滅する世紀として記憶に残ることになるに違いない。
 減る仕事もあれば、増える仕事もある。不要になった労働は新産業分野に移動すればよい。特に、少子化する日本では機械による労働の代替は喜ばしいことではないか。そう考える人々もいるだろう。
 だが、話はそれほど単純ではない。理由は3つある。
 ひとつには、機械学習の精度がデータ量に依存するからである。米グーグル社は大がかりな機械学習に関する研究の結果、複雑な機械学習の技術を考えるより、比較的単純な仕組みでデータ量を増やしたほうが効果的だという見解を2010年に表明した。つまり、機械学習は研究対象としては頭打ちで、決め手はデータ量だというのである。それが真実なら、日本企業はデータ量で優位に立つ米国企業に太刀打ちできない。
 かつて日本国内で稼ぎ出していた広告収入のかなりの部分がグーグル社に流れたように、各種の知的作業を米国の情報分析産業が担うようになることが懸念される。しかも、機械学習によってデータから導出された「関数」は他の知的財産と異なり、永遠に非公開でまねされることがない。
 2つ目は、現在の人工知能もロボット技術も進歩したとはいえ極めて未熟なため、人間が完全に労働から解放されることがないからだ。機械にできない仕事は両極端に分かれることが知られている。ひとつは高度にクリエイティブな能力で、もうひとつは、教育を受けなくても誰もが自然にできるような仕事である。
 機械翻訳を例にとると、機械は型通りの製品マニュアルを「そこそこ」翻訳することはできる。だが機械は、小説が書かれた文化背景や心の機微を深く理解した上での翻訳を実現できない。また、初めて見る擬態語やイラストを解釈することも苦手だ。機械に教えるための辞書や註(ちゅう)の作成は、人間がすべき仕事として残るだろう。機械が「そこそこ」の知的労働を代替することで、労働は上下に分断されることになる。
 最大の問題は、機械で代替できない「高度人材」を教育するための効果的な手法が見つからないことにある。
 データアナリストに必要なのは、どのデータを取るべきか、どのデータは何に活用できるかを見抜く洞察力と、数多(あまた)ある数理的手法(機械学習・シミュレーションなど)の中から適切なものを選び出し、それをプログラムとして実現した上で、分析結果を人間がわかるように要約する能力である。「メイカーズ」が市場で生き残るには、コンピューターに搭載されている「最適化計算」とは次元が異なるデザイン力を求められることだろう。どちらにも必要なのは数理や論理を備えた創造力や、限られた経験から深い洞察を得て言語化(プログラミング)する能力だ。
 暗記や計算ばかりでなく、こうした高度能力の育成こそ急務なのではないか――多くの人々がそう指摘してきた。教育学者は様々な新しい教育方法を提案した。しかし、これまでのところ平均的な生徒を高度人材に引き上げるための効果的な教育手法が見つかったとは言い難い。マサチューセッツ工科大学(MIT)など米国の有名校は、相次いで講義や教材をウェブ上に無償公開し、教育を受ける母集団の数を増やして世界中から高度人材を選ぼうとしている。それは、高度人材が確率的にしか発生せず、教育で陶冶するのが難しいことを暗に認めているともいえよう。
 画一的との批判はあったが、20世紀までの学校教育が成功をおさめたのは、教育がプログラム化でき、多くの生徒が訓練さえすれば能力を身につけられたからである。そして、プログラム学習で身に着いた能力が労働市場で十分な付加価値をもったためである。教育はローリスク・ハイリターンな投資だった。だが、プログラム化可能な知識や技能は、機械にも学習しやすかったのである。「そこそこ」知的なコンピューターの出現は、近代教育の意義を根底から揺さぶっている。
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