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2016/05/12

幻だった(?)マヤ遺跡発見:宇宙考古学と市民科学と人文情報学の視点

Tweet ThisSend to Facebook | by kitamoto
ある少年がマヤの遺跡を発見した!というニュースが世界を駆け巡ったが、残念ながら幻に終わったようだ。この一件の何が問題だったのか、私の研究分野の視点から考えて見たい。

15歳少年のマヤ遺跡「発見」は間違いと専門家 現代の星図と地図を見比べても古代の遺跡は発見できない

このニュースが大きな反響を巻き起こした要因はいくつかあろうが、最大の要因はやはり「星座仮説」ではないだろうか。星座という言葉を聞くだけでロマンチックな気分になるし、子供でも考え付きそうな素朴な仮説であるのも受け入れやすい点だ。これに加えて、少年の仮説どおりに遺跡が見つかったという仮説検証型のストーリーも、鮮やかさを際立たせるためには格好の材料である。これらの要因を揃えた完璧なストーリーが、人々の心を見事に捉えたのであろう。

これらの要因がなぜ効果を発揮したのか、それは発見のストーリーとして考えうる別バージョンのストーリーと比較してみればわかる。例えば、ある天才少年がなんだか難しい数学理論を使って遺跡の場所を予測したというストーリーはどうだろうか。確かにすごいとは思うが、肝心の理論が理解できないと共感できず、ふーんということで終わってしまいそうだ。それとも、あるGoogle Earth好きの少年が、寝る間も惜しんで衛星画像をしらみつぶしに調査して遺跡を発見したというストーリーはどうだろうか。これだと仮説検証型ではなく網羅調査型のストーリーになってしまい、オタク少年が頑張ったという話にしかならないだろう。

つまり、少年による発見+星座仮説+仮説検証型という鮮やかな要素が揃ったストーリーが、そのようなストーリーを欲する人々の欲望にピッタリ当てはまり、世界的に燃え上がったというのが今回の一件ではないだろうか。分かりやす過ぎるストーリーには気をつけるべきというのは、STAP問題の教訓などから学んだことでもあるが、今回の鮮やか過ぎるストーリーにもどこか作為的な部分はなかっただろうか。広報戦略の失敗という意味では、STAP問題と似た面があるのかもしれない。



さて、これまでに検討した余分な修飾物を取り除いたストーリーを対象として、私の研究分野である宇宙考古学と市民科学と人文情報学の視点から検討してみよう。

最初に宇宙考古学の視点から。実は、衛星画像から遺跡を発見するという方法論自体は、以前から多くの研究者に利用されている正当な方法と言ってよい。宇宙から地表を観測する技術は、センサの位置が地表から離れているという意味でリモートセンシングと呼ばれるが、そうしたリモートセンシング技術を用いた遺跡探索を「宇宙考古学」と呼ぶ人もいるほど、よく知られた研究分野でもある。

遺跡を地上から探そうが、宇宙から探そうが、観測方法に根本的な違いがあるわけではなく、どのセンサをどの視点からどの解像度で使うかという点が違うに過ぎないとも言える。とはいえ、両者では得意なことが異なる。宇宙から探す場合のメリットは、ジャングルでも砂漠でもどこでも観測できるという点、そして広い範囲を一度に観測できるという点にある。特に後者の広域性は、巨大な構造物や細長い道や壁のように、広域的に見たほうが全体像が見えやすい構造物には有効である。またセンサの種類として、可視ではなくレーダーを使えば土の中に埋もれた遺跡も発見できることがあるが、これも宇宙に限った話ではなく地上でも同様である。

実は我々も、ディジタル・シルクロード・プロジェクトにおいて、シルクロードの遺跡を衛星画像から発見するというプロジェクトを10年近く続けている。このプロジェクトが扱っている問題は、行方不明遺跡の再発見という問題である。100年ほど前にシルクロードを探検した各国の探検隊が発見した遺跡の一部が現在は行方不明になっているが、それを衛星画像による遺跡探索で再発見しようというのがプロジェクトの目的である。昔はわかっていた遺跡がなぜ行方不明になってしまうのかといえば、それは100年前の探検隊の記録が不正確だからということになるが、細かく書いていくと長くなるので、詳しい内容については以下の論文などを参考にしていただきたい。



このプロジェクトを進める過程で、実は我々も遺跡を誤認しそうになったことがある。それはGoogle Earthでシルクロードの砂漠を調べている時だった。そこにはいかにも遺跡のように見える構造物が写っており、我々もてっきりそれが遺跡だと考えたのである。ところがよくよく見てみると、構造物の特徴がどうも昔の遺跡の特徴とは合わないことがわかってきた。そして慎重に検討を重ねた結果、その人工物は近年になって放棄されたものであると判断した。このように、たとえ人里離れた砂漠の中に四角い人工物があっても、それが遺跡とは限らないのである。そして最終判断のためには「グラウンド・トゥルース(ground truth)」、つまり現地調査による確認がどうしても必要である。現地調査の重要性は多くの識者が指摘していることであるが、まさにその通りなのである。

考古学も歴史学もエビデンスを基礎とする学問である。単に四角い構造物を見つけたというだけでは、遺跡と判断するエビデンスとしては不十分である。例えば構造物の配置が既知の構造物に類似していれば、エビデンスがより強化されることになる。その他にも、周囲環境は妥当か、他の記録と照合できるかなど、多くのエビデンスを積み重ねることで仮説の信頼度を高めていく。しかし現地に行かずに調査するアームチェア考古学だけでは、判断を下すには限界があるのも確かである。そこからさらに精度を高めるには、その近辺を現地調査したことがある経験者の「空気感」がどうしても必要になってくる。やはり現場の情報量は圧倒的に多く、現場に行って初めてわかることは多いのである。そして、さらに判断を確定的にするには、現地調査による確認は不可欠となる。それなしでは、誤った結論を出してしまう危険は避けがたいのである。

次に市民科学(オープンサイエンス)の視点から。一般に広く公開されているデータを使って市民が新しい発見を行うというのは、市民科学として近年注目を集めている方法である。その視点から見た場合、確かに得られた結論は正しくなかったかもしれないが、少年は市民科学者として意欲的な良い仕事をしたと言える。市民科学の一つの目的は、市民が学問に触れ、あわよくば学問的発見につながる機会を提供することで、学問への理解を深めるという点にある。少年が追究した仮説検証という学問的方法は、大いに奨励すべきものであって否定すべきものではない。むしろ問題が生じたのはその先である。市民科学において市民から提出された仮説を、専門家が精査するというプロセスに穴があったのである。専門家は市民による科学をどのようにファシリテートすべきなのか、そこを議論していかねばならない。

最後に人文情報学デジタル・ヒューマニティーズの視点から。今回の研究に関わった専門家は画像を提供したリモートセンシング研究者などが中心で、研究は少年が中心になっておこなったとの話も出ている。いずれにしろ、そこに考古学者はあまり関与していないようである。そのことに対する批判はすでに多いが、こうなったのは必ずしも意図した通りではないのかもしれない。というのも、たとえ考古学者に協力を求めたとしても、素朴な星座仮説では相手にしてもらえない可能性が高いからである。

ではそのような場合、どのように研究を進めればよいのだろうか。専門家の協力が得られなければあきらめるべき、というのでは独創的な発見をつぶしてしまう危険がある。また「専門分野外の人が適当なことを言うな」というありがちな否定だけでは、専門分野の閉鎖性とタコツボ化というまた別の問題を深刻化させることになる。私が好きな傑作本「独創はひらめかない―「素人発想、玄人実行」の法則」にもあるように、先入観にとらわれない素人的な発想がブレークスルーに結びつく例は多々ある。ただし素人の発想だけではだめで、玄人による実行が伴わなければならないというのがこの本の重要な主張である。マヤ遺跡プロジェクトの問題もここにあったのではないか。星座仮説という「素人」の発想までは良かったとしても、マヤ遺跡の「玄人」による検証がなされないまま、ストーリーが広がってしまったのである。

とはいえ、衛星画像という情報系の知識と遺跡という人文系の知識を組み合わせる人文情報学的な研究分野においては、研究の検証には複数の専門性が要求されることになるため、そのすべてを把握した玄人は存在しないこともある。かといって、一部の専門性だけで判断すると誤った結論を導き出す危険性がある。このように複数の専門性が関わる研究テーマにおいて、誤った結論から免れる唯一の方法は、複数の専門分野の研究者が密接に議論すべきということになろう。そう言うのは簡単だが、実行するのは簡単ではない。ある分野の価値観から外れる独自の仮説であればあるほど、協力を得ることは難しいからである。玄人の協力を得ることと素人の仮説を立てることは、両方が成立しづらいという意味では鶏と卵の関係に似ており、それに対する万能な解決策はないかもしれない。まあコラボできるようにみんな頑張りましょうという月並みな結論しか思いつかない。

以上をまとめると、衛星画像を使って遺跡を探索するという宇宙考古学の視点では、人工物を発見するところまではよかったが、データの意味を解釈する段階において、専門知識の不足によるありがちな間違いが生じた可能性がある。とはいえ、より重大な問題は、市民が提出した仮説を専門家が検証するという市民科学的な視点、および複数の専門性を越えて検証するという人文情報学的な視点にあったと言えるだろう。ただ付け加えるならば、このような問題構造そのものは珍しいものではなく、自分自身も同じようなミスを犯していないかヒヤヒヤする面は多々ある。分野を越境してよく知らない場所に踏み込むことにはリスクがつきまとう。何かミスを犯してしまったら、それを受け入れて改善するという謙虚さが重要なのかもしれない。

最後に、星座というロマンティックな仮説を提示した少年にとっては、いきなり厳しすぎる「オープン査読」の洗礼を受けてしまったことが気の毒であるが、これにめげずに今後も研究を進めて欲しいと願っている。市民科学者から専門科学者への成長を、みんなが応援してくれることだろう。
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