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2016/02/29

シラバスのフォーマットを押し付けるのはまちがっている

Tweet ThisSend to Facebook | by reiju

2016/02/26掲載
2016/02/29 リマークを追記
2016/03/02 修正
2016/03/14 修正

大学教育基盤センター長名義で「シラバスの不掲載について(通知)」が届いた.科目案内の大学公式シラバス集掲載をまた拒否か」で書いたことと同様のことが今年もまた香川大学で繰り返されたのだ.「センター側はこの問題を解決する気もないのだな」というのが感想だ.その通知を読む限り,大学がシラバスのフォーマットを押し付けることができると何の疑問も持たずに考えているようにも見える.しかし,それはあまりにも偏った一方的で非常識な見方であることは私が何年も前から警告して来た.(私が彼らの要求を拒む理由はシラバス全文を公式システムに入力しない理由」でも書いた.) どうも警告が十分でなかったのようなので,いま一度資料も引用しながら説明する.
  • 要するに自由と包含力がない大学はダメだってことだけどね.

シラバスをデザインする権利は個々の教員 (教授,准教授,講師その他) にあり,それを所有するのも個々の教員である.これは学問の自由を巡る個々の教員,組織としての教授陣,そして国家その他の外部勢力のあいだの闘いのなかで教員たちが勝ち取って来た権利である.(一方で教授陣は「コースカタログ」という別の媒体で科目内容を一定程度制限する権利を確立した.コースカタログに記述される内容はシラバスのそれに比べて限定されていることに注意.) 香川大学の公式フォーマットは,(たとえそれがなんらかの代表の多数決の結果だとしても) 先人たちが勝ち取った権利をないがしろにするものであるので,それに非自発的に従うことは私の良心に反する.参考資料を2つ挙げる:
  • シラバスは個々の教授の知的財産であり,大学は著作権を持たないのでシラバスを学外審査機関に提供できないとしたミズーリー大学の訴えが支持された判例.提供しないのはその大学の利益には反するかもしれない.シラバスの所有権が個々の教員にあることがそれだけ重く受け取られているということだ.

  • 2000年9月5日開催の岡山大学教員合宿研修で,国際基督教大学学長絹川正吉は以下のように述べている (注1):
    シラバスというのは、教員が勝手に作るものです。
    「シラバスというのはその先生の授業経過によってまちまちですから、一概にフォーマットを決めて書くなんてことはできませんし、束ねて渡すこともほとんど意味がありません。」(注2)
    「フォーマットを作ってシラバスを規制してしまって、そのシラバスに従わなければいけないとなったら、これでは授業は硬直化してしまいます。本質的に教員がそのシラバスを作ることに反発しますね。反発しなかったら、その先生は本質的ではないのです。なぜなら知の営みというのは自由なんですから、自由な発想が大事なんですから。」

    注1.ちなみに私は学部生時代にこの教授の授業を何科目か受講したことがある.彼が大学改革 (という言葉ではなかったかもしれないが) に関心があったことは学生時代から感じていたが,シラバスに関しては個々の教員の自由を重視しないとやっていけないという,トップダウンとはちがう考えを持っていたのは知らなかった.

    注2. 
    シラバスは本来学期を通じて参照されるべきものだろう.ところが冊子になることによってそのような使い方がされにくくなっているという面はあるはずだ.その結果「シラバス冊子に掲載された科目情報は履修科目選択期間にしか参照されない」といった見解が真実を突いたものになってしまう.
高等教育のモデルとなる米国の大学でシラバスのフォーマットを探しても,たいていは recommended (or sample or suggested) format となっていて,特定フォーマットを押し付ける例はほとんど見当たらない.「シラバス作成ガイドライン」といえば香川大学では大学が勝手に定めた様式の記入方法を指す一方で,米国大学では最低限求められる内容を例示したようなものに過ぎず,シラバスをデザインする権限が最終的には教員にあることを尊重したものになっている.
  • シラバスの様式を規制した例としてはたとえば Penn State が "written (paper or electronic form) syllabus" と明示している.口頭で伝えるだけでなく書かれたものであることは要求している.
  • シラバスのシステムとしてはたとえば Stanford が全学的なリポジトリを持っている.その利用法によれば,教員にはいくつかの種類のファイルフォーマット (txt, .doc, .rtf, .pdf, .htm, .html) のファイルをアップロードする方法のほか,シラバスをふくむ Web ページの url を記入するなど複数の選択肢が与えられている.
    • 同リポジトリでたとえば "Academic Term: WINTER 2016; Subject: ECON" を選ぶと,公開範囲が "Public" となった科目がいくつか現れ,それぞれ異なるフォーマットで書かれたシラバスの pdf ファイルが見つかることが分かる.
香川大学の「シラバス作成ガイドライン」はもともとシラバスを対象として定められたものであるにもかかわらず,シラバス入力システムに入力された科目情報という,シラバスとは別物 (入力情報をシラバスと同一視している科目は多いが) に適用するというすり替えが行われているのも問題である.

シラバスの件にかぎらず,香川大学では教員が個人レベルでやればいい教育上の実践を,大学全体でやろうとした結果おかしなことになっている例がある.大学が一方的にいろいろ決めてよいという誤った前提があって,それが特に個人レベルで頑張ろうとしている教員の足を引っ張り,大学教育の質を低めている.

リマーク (2016/02/29 追記)

この記事で米国の大学における syllabi をモデルとしたのは,もともとそれが日本の大学のシラバスのモデルであったためでもあり,そこでは自然淘汰的なプロセスを経ながら関係者の権利を尊重しつつ望ましいシラバスが実現して来たためでもある.大学外部からの力によってではなく大学内部で規範が出来ていったのだ.役所主導で Web シラバスを導入して来た日本のような国の例でははじめから様式の統一自体が目的になってしまった上に関係者への権利配分の問題は度外視されており,望ましいシラバスのあり方を考えるうえでは参考にならない.

国内大学では Web シラバスと称して様式を (学部等の組織ごとに) 統一するような過剰な形式主義が目立つが,文部科学省の号令に (過度に?) 適応しようとするあまりそのような役所の様式のようなものが採用され安易に模倣されていったようだ.役所のような統一様式をありがたがるのは,集団志向教育を特徴とするわが国の教育システムに飼いならされた者たち独特な価値観が影響したのだろうが,結果的には多くの大学が同じ---しかも間違った---方向に暴走してしまったことになる.

様式を統一すれば異なるシラバスを比較するのが容易になるという淡い期待もあったのかもしれないが,そのような比較はシラバスの用途として重要なものではないうえ (科目比較は一義的にはコースカタログでできる),実際にはそのようなメリットよりもデメリットの方が目立っている.たとえばある項目は枠が大きすぎて大幅に余白を残している一方でべつの項目は枠が小さすぎて満足な内容が書かれていなかったり,シラバス全体の構成がその科目に適合してなかったり (いくつかの項目をまとめたり,分割したり,削除したり,追加したりしないと適切なものにならないなど), シラバスの内容がバランス悪いものになっている.様式の統一は過剰な形式主義であり,個々の科目に合ったよりよい書式が (シラバス様式の設計者以外から) 生まれてくる可能性を潰してしまったようだ.


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