Researchlog by Noriko Arai

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2013/06/13

なぜ数学嫌いが数学をするようになったか

Tweet ThisSend to Facebook | by norico
フォルダを整理していたら、昔書いたらしい文章が出てきました。タイトルがなく、ファイル名からどうやら「数学文化」の巻頭言として書いたもののようです。インタビューを受ける度に「なぜ数学嫌いだったのに数学をするようになったのですか?」と聞かれるので、ここに掲載しておくことにします。

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今、この文章を書いている研究室の窓の向こうには、皇居の桜が広がっている。桜を見ると、ついランドセルを背負って学校に通っていたころのことが思い出される。

あの頃、私は、算数の苦手な女の子だった。

たぶん、生まれつきおっちょこちょいなせいだと思う。すぐに計算間違いをする。いちおうやり方はわかっている。でも、計算間違いをすると、答案にはバッテンがつく。それがしゃくでならなかった。では、文章題や応用問題は得意か、とたずねられると、そうでもなかった。たぶん、理屈っぽいくせに、落ち着いて考える力がたりなかったせいだと思う。

そういう私は、小学校を卒業して中学校に入学すると同時に、算数が苦手な女の子から数学を恐れる女の子となった。数学の先生はいつも灰色のよれよれのスーツの上に白衣を羽織っていた。授業中に問題がわからない生徒がいると、差し棒でカツカツと黒板をたたき、「なぜわからない」と責めたてた。そうして、中学校の数学の授業に一年間座った結果、数学が大嫌いな女の子になった。受験の季節になった。かんばしくない数学の点数を前に、担任の理科の先生は「大学受験のときには、数学が入試科目にない大学を選べよ」と私に言った。

そういう私が、なぜ大学に入ったら数学が好きになり、法律の道を捨てて数学の道を選んだのか、自分でも不思議だ。ただ、大学に入ると、とつぜん「解ける」よりも「わかる」ことに価値がシフトしたことを強く感じたことは覚えている。高校までの数学の授業では、「わかりました」よりも「解けました」「答えがあっていました」のほうが大事だった。こういうと数学の先生に反論されそうだけれども、授業を受けた生徒の実感としては、圧倒的にそうなのだ。ところが、大学に入ってみると、数学を学ぶ時間の大部分は「わかる」ことに費やされ、「解ける」ことや「計算する」ことよりも、「わかる」のほうが重んじられるようになった。

計算間違いをしたかどうかは自分ではよくわからない。でも、わかったかどうかは、自分でわかる。生分かりのときには、なんだか頼りなかったし、しっかりわかると晴れ晴れとした気持ちになった。だから、わかるかどうかを自分で確かめながら前に進むやり方は、私にはとてもフェアに思えた。それまで問題をすいすい解いていた友人が、実はわかっていないことを知ったりしたことも、多少は痛快だったのかもしれない。

文系から数学に移ってきて、数学の教科書には、哲学や経済学のそれに比べて人名がほとんど出てこない、ということに気づいた。哲学の中にある概念が登場するときには、それを提唱した人とそのいきさつについて詳細に書かれているのが常だった。元素だ、水だ、というときでさえも、タレースの文脈かそうでないか、によって意味が違ってくる。数学では、多くの定理が無名であり、さらには、定義に「誰それの定義」と名づけられていることはほとんどない。そうして、誰もがその定義を「あれは空」「あれは海」という調子で、あたかも自然物を指す言葉のように使っている。では、数学の定義は自然物かというと、どう見たって、そうではない。群の定義などは当然人工物であって、その定義をすることによって、世界をそれまでとはまったく違う観点から見よう、ということなのだから、定理証明以上に数学構築の要なのである。

私は、定理を理解するより、定義が示す世界観を感じることに強く惹かれるようになった。定義とは、何かを「わかる」ために作られた言葉なのだと思った。そうして、幾万もの無名の定義が、何百年も揺るがずに、あたかも自然物のようにそこにあることを尊いことに思った。数学が揺るがないのは、それが神によって祝福されているからではなく、「わかる」ことへの祈りに似た気持ちに普遍性があるからだろうと、私は思う。

「できる」より「わかりたいと思う」が尊い、と、桜をながめながら、あの日の自分を慰めてやりたくなった。

 

 


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