Researchlog by Noriko Arai

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2013/05/25

日経 経済教室「コンピュータが仕事を奪う(上)」

Tweet ThisSend to Facebook | by norico
5月1日、日本経済新聞の「経済教室」に「コンピュータが仕事を奪う?(上)」というタイトルで寄稿しました。私が担当したのは上回で、下回は東京大学の柳川範之さんが執筆されました。以下、上回の最終版のひとつ前のpreprint版を掲載します。

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 先月、コンピューターの将棋ソフトとプロ棋士の団体戦「第2回将棋電王戦」において、将棋ソフト側が3勝1敗1分けで勝利した。情報科学者の多くが予想した通りの結果ではあるが、結果を目の当たりにすると感慨深い。
 1997年にチェスの世界チャンピオン、ガルリ・カスパロフ氏が米IBM社のコンピューター「ディープブルー」に敗北したとき「将棋はチェスに比べてルールが複雑。近い将来にプロ棋士と並ぶ能力をコンピューターがもつことは難しいだろう」との楽観論があった。「プロ棋士のひらめきはコンピューターでは凌駕(りょうが)できない」と。
 確かに、コンピューターはひらめきを持ち合わせていないので、指し手を選ぶには合理的な基準が必要になる。どの指し手がどんな結末をもたらすのか、しらみ潰しに調べ始めると、探索すべき指し手はあっという間に全宇宙の観測可能な原子の数を超える。どれほどハードウエアの性能が向上しても効率的な探索は不可能だと考えられていた。
 しかし、その予想は覆された。予想を超えてハードウエアが向上したからではない。「データ」と「機械学習」という手段を将棋ソフトが手に入れたからである。公開されたプロ棋士の対戦の棋譜(データ)を基に、プロ棋士が選んだ指し手こそ価値が高いと認識するような評価指標を自動調整する(機械学習)プログラムの登場である。機械学習技術を用いて飛躍的に精度が向上した分野には、機械翻訳、情報推薦、画像認識、音声合成などがある。
 機械学習の特徴は、コンピューターはなぜその判断が正しいかの根拠を知る必要がないという点にある。過去に下された「正しい判断」を模倣すればよいのだから。
 たとえば、スパムメールの除去処理などが典型的な例だろう。私たちがスパムメールを発見してゴミ箱に移動させたり、スパムメールとして通報したりする行動を教師データとして、それを模倣するプログラムを作ればよい。もちろん、誤って重要なメールをゴミ箱に放り込むこともある。だが、ゴミ箱から救い出す私たちの操作をコンピューターは自動的に学習し、プログラムを日々修正する。
 スパム除去ソフトはメール管理者をスパムメールとの格闘から解放した。では、彼らの仕事は楽になっただろうか。そうではない。結果的に彼らから職を奪ったのである。
 米国や英国では、入試の小論文採点に自動採点システムが導入された。人間が2人1組で採点をするよりも、人間とコンピューターのコンビで採点したほうが低コストで精度が高いことが実証されたからである。10年後には、日本語で話せば、あたかも自分の声で話しているように英語に翻訳してくれるような簡単な機器が登場しても不思議はない。「そこそこ」の知的作業はコンピューターによって急速に代替されつつある。
 一方、新しい職種も生まれつつある。データアナリストはその代表例だ。人間では眺めることすら不可能なエクサバイト(10の18乗)級のデータを対象に、機械学習やシミュレーションを武器にコンピューターを用いてデータを分析し、企業や政府の判断を支援する人々である。3D(3次元)プリンターを活用してニッチな製品を作る工房を構える「メイカーズ」と呼ばれる人々も出現した。21世紀前半は、これまでの数世紀とは比較にならないほどの新しいタイプの職種が生まれ、また絶滅する世紀として記憶に残ることになるに違いない。
 減る仕事もあれば、増える仕事もある。不要になった労働は新産業分野に移動すればよい。特に、少子化する日本では機械による労働の代替は喜ばしいことではないか。そう考える人々もいるだろう。
 だが、話はそれほど単純ではない。理由は3つある。
 ひとつには、機械学習の精度がデータ量に依存するからである。米グーグル社は大がかりな機械学習に関する研究の結果、複雑な機械学習の技術を考えるより、比較的単純な仕組みでデータ量を増やしたほうが効果的だという見解を2010年に表明した。つまり、機械学習は研究対象としては頭打ちで、決め手はデータ量だというのである。それが真実なら、日本企業はデータ量で優位に立つ米国企業に太刀打ちできない。
 かつて日本国内で稼ぎ出していた広告収入のかなりの部分がグーグル社に流れたように、各種の知的作業を米国の情報分析産業が担うようになることが懸念される。しかも、機械学習によってデータから導出された「関数」は他の知的財産と異なり、永遠に非公開でまねされることがない。
 2つ目は、現在の人工知能もロボット技術も進歩したとはいえ極めて未熟なため、人間が完全に労働から解放されることがないからだ。機械にできない仕事は両極端に分かれることが知られている。ひとつは高度にクリエイティブな能力で、もうひとつは、教育を受けなくても誰もが自然にできるような仕事である。
 機械翻訳を例にとると、機械は型通りの製品マニュアルを「そこそこ」翻訳することはできる。だが機械は、小説が書かれた文化背景や心の機微を深く理解した上での翻訳を実現できない。また、初めて見る擬態語やイラストを解釈することも苦手だ。機械に教えるための辞書や註(ちゅう)の作成は、人間がすべき仕事として残るだろう。機械が「そこそこ」の知的労働を代替することで、労働は上下に分断されることになる。
 最大の問題は、機械で代替できない「高度人材」を教育するための効果的な手法が見つからないことにある。
 データアナリストに必要なのは、どのデータを取るべきか、どのデータは何に活用できるかを見抜く洞察力と、数多(あまた)ある数理的手法(機械学習・シミュレーションなど)の中から適切なものを選び出し、それをプログラムとして実現した上で、分析結果を人間がわかるように要約する能力である。「メイカーズ」が市場で生き残るには、コンピューターに搭載されている「最適化計算」とは次元が異なるデザイン力を求められることだろう。どちらにも必要なのは数理や論理を備えた創造力や、限られた経験から深い洞察を得て言語化(プログラミング)する能力だ。
 暗記や計算ばかりでなく、こうした高度能力の育成こそ急務なのではないか――多くの人々がそう指摘してきた。教育学者は様々な新しい教育方法を提案した。しかし、これまでのところ平均的な生徒を高度人材に引き上げるための効果的な教育手法が見つかったとは言い難い。マサチューセッツ工科大学(MIT)など米国の有名校は、相次いで講義や教材をウェブ上に無償公開し、教育を受ける母集団の数を増やして世界中から高度人材を選ぼうとしている。それは、高度人材が確率的にしか発生せず、教育で陶冶するのが難しいことを暗に認めているともいえよう。
 画一的との批判はあったが、20世紀までの学校教育が成功をおさめたのは、教育がプログラム化でき、多くの生徒が訓練さえすれば能力を身につけられたからである。そして、プログラム学習で身に着いた能力が労働市場で十分な付加価値をもったためである。教育はローリスク・ハイリターンな投資だった。だが、プログラム化可能な知識や技能は、機械にも学習しやすかったのである。「そこそこ」知的なコンピューターの出現は、近代教育の意義を根底から揺さぶっている。
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コメント
suzumura2013/05/27 13:00:15
改めて、興味深くご高論を拝読しました。

僭越ながら、FacebookとTwitterで紹介させていただきました。
norico2013/06/13 18:01:15
>suzumuraさま
有難うございます。