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2016/11/10

「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か 提案に賛否飛び交う」について(1)

Tweet ThisSend to Facebook | by kyo
 2016年5月7日、京都新聞に「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か 提案に賛否飛び交う」という見出しの記事が掲載されました。

 一部、引用します。

 今年1月、京都市中京区の市立芸術大ギャラリー@KCUA(アクア)で催されたあるイベントがアート界に波紋を広げている。若手アーティストによる「88の提案の実現に向けて」と銘打った企画の一つに「デリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ」という項目があったからだ。「表現の自由」として許されるのか。人権侵害として非難されるべき行為なのか---。

 【・・・】

 立命館大准教授の哲学者千葉雅也(37)は、論争が巻き起こっていること自体に批判的なまなざしを向ける。「突出した行為に対し、ネット上で批判が殺到して『炎上』するのは、ある種の羨望の裏返しにすぎない。特権性を許さない日本的な平準化欲望と、アートに公共意識を求めるアカデミズムが共犯関係を結び、前もっての過剰な配慮、『気にしい』の蔓延を生み出している」と分析する。

 では、表現と人権の利害調整をどのように考えればよいのか。千葉は「法律や憲法が禁止していようと、人間は何事かをやるときにはやる存在だ」と、あえて「無責任」に言い切る。「そうした危険でもありうる人間の行動可能性に触れているのがアートである」と。他人に迷惑をかけない限りでの自由ではなく、いかなることもなしうる極端な自由の存在を「理念的」に認めること。「アートは他人に迷惑をかけてよいのだ、と擁護するつもりはない。しかし、あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止しようとすることは『総萎縮社会』というファシズムに転化しかねない」と警鐘を鳴らす。

 ここでは、二つの点について、検討します。
  1. 見出しに掲げられた「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か」という問いについて
  2. 「哲学者」千葉雅也氏の発言について
分量の関係から、二つに分けて、このポストでは、第一の点を扱います。

 検討に入る前に、記事で言及されているワークショップについて、もう少し情報を共有しておきましょう。ワークショップは、2016年1月30日、丹羽良徳氏により開催されたもので、案内サイトに説明があります。終了後の追記も掲載されています。

 当日、「実現に向けて実践的な行動を開始する」とされていた「提案」は、以下の通り。
  • デリバリーヘルス[1]のサービスを会場に呼ぶ
  • 男子トイレと女子トイレを入れ替える
  • 階段で野菜の天ぷらを揚げる
  • タクシーで城の周りを5周する
 「当日はビデオ撮影を予定しているので、参加者はビデオに映ることをご了承のうえ参加ください」とのこと。実際、この「ワークショップ」は撮影自由だったとのことです。

 「デリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ」は実現されず、かわりに、女優パフォーマーのげいまきまき氏が会場に呼ばれ、この課題の問題について説明がなされました。この経緯に関しては、「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」というサイトに、アーティストのブブ・ド・ラ・マドレーヌ氏によるまとめ(「@KCUAで起きたこと」「盗まれる前に」)、そして「事情に詳しい方」として呼ばれた女優パフォーマーのげいまきまき氏本人の文章(「直後のつぶやき」と「お花畑によせて」)が掲載されています。

 ぜひ、このサイトに掲載されている文章をすべてお読みいただければと思います。元の文章の緊張感は失いますが、重要な点だけ、以下で確認しておきます。
  • ワークショップ参加者の間で「デリヘルに(客として)電話するか否か? それはリスキーなのではないか?」といった会話がなされたが、「『デリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ』という提案が、誰にとってどんなリスクがあるのかはその時点では誰にも認識されていなかった」。
  • ワークショップに「事情に詳しい人」として呼ばれたげいまきまき氏に、丹羽良徳氏と参加者から「『デリヘルをここに呼ぶって問題ありますか?』『ダメなんですか?』という質問があった」。「丹羽氏やほかの参加者も笑っていた」。
  • 「ワークショップの間、他の観客の出入り及び写真・ビデオ撮影は自由であった」。「そのことに気付いたげいまきまきさんは丹羽さんに対して『この空間は撮影自由なのですか?』と尋ねたところ、丹羽さんは『ああ、自由ですよ』と当然のように答えた」。
  • 「彼らは何度も『たとえ人の怒りを買っても』と世界を理解したい欲や好奇心の崇高さに酔いしれた発言をしていた。 そこまで言うにしては『何故デリヘルなのか?』の質問に最初は答えず、 終いには『特に意味はない』『別に呼びたいわけではない』『ラーメン屋でもよかった』『ポーランドの作家もしてたから』と繰り返し言ってきた」。さらに、「とある参加者は『じゃあ何で、``デリヘルを呼ぶ''の項目を消してと言わないんですか?』と半ば揚げ足取ろうとする時の口調で言ってきた」。
 また、げいまきまき氏は直後のツイートの一つで、「国内のセックスワーカーへの調査の中に『セックスワークへの従事を何人が知っているか』というのがあります。平均2人です。しかもその2人の内訳は同じ職場や職種だったりします。現状とても打ち明けにくいと実感している人が多いのです」と書いています(「直後のつぶやき」)。セックスワークに従事していることを他の人に知られないようにしている人が多いだろうということは、容易に想像がつきます。

 以上を踏まえて、「「デリヘルを呼ぶ」は芸術か」という問いについて検討してみます。


A. 「デリヘルを呼ぶ」という企画をめぐって起きていたことは何と呼ばれるか?

 少し大げさにビックリマークを付けて「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か!?」と書くと、いかにも、既存の権威やタブーに挑戦する芸術をめぐって、まさに芸術が既存の権威やタブーに挑戦するがゆえに巻き起こった論争で、ここが芸術の正念場、という印象を持ちます。

 「芸術」かどうかが記事見出しの問いになっており、ここでの作業はその問い自体を検討することにあります(「芸術」かどうかを検討することにはないことに注意して下さい。ただし、その点も自ずと明らかになります)。その検討にあたって「芸術」という言葉があるとやはりそれに対して抱いている観念に影響されるかもしれないので、とりあえず、問いの性質を「芸術」に関する先入観なく見極めるために、「芸術」という言葉を、意味のない言葉(例えば「X」)で置換えて、それに何が当てはまるか、というかたちで考えることにしてみます。

 まず、ここでの出来事の基本的な性格は、出来事の経緯とそれを実行していた人たちの振舞いを通して、次のようにまとめることができます。

起きたこととその基本的な性格
  1. 何人かの人たちが、デリヘルの派遣を撮影自由で不特定多数の人が出入りする場に呼ぼうとした。その際、デリヘルの会社・派遣される人にはそれと知らせずに呼ぼうとした。
  2. その際、デリヘルから呼ばれた人のリスクについては考えもしていなかった。また、デリヘルから呼ばれた人のリスクについて自分たちが考えもしていないことに気づいてもいなかった。
  3. その際、なぜデリヘルであるかについても考えもしていなかった。また、他でもよかったにもかかわらずなぜ実際にはデリヘルになったかについても考えもしていなかった。
 さて、以上を踏まえた上で(もう少し何が起きたか確認したい方は、改めてこの出来事の場となった「ワークショップ」の案内サイトと「Don't exploit my anger! わたしの怒りを盗むな」に掲載されているブブ・ド・ラ・マドレーヌ氏の「@KCUAで起きたこと」「盗まれる前に」、げいまきまき氏の「直後のつぶやき」と「お花畑によせて」から、この企画を実行しようとした人々の振舞いと理解がどのようなものであったか確認してみてください)、次の問いを考えてみます。

「これらの人たちの、以上のような行動をXと呼ぶ」のXに当てはまる言葉をあげてみる。

 割とはっきりしています。
  • 好意的に捉えた場合:「悪ノリ」「悪ふざけ」
  • 傍観者的に捉えた場合:「幼稚な悪ノリ」「不適切な悪ふざけ」「仲間内の幼稚な行動」「いかにも幼稚な男たちが勘違いして思いつきそうな行動」
  • 呼ばれた人のことを少し想像した場合:「プライバシー侵害」「のぞき」「嫌がらせ」「吊し上げ」「ハラスメント」
  • 呼ばれた人に起きる最悪の事態を想像した場合:「重大な人権侵害」「事実上の犯罪行為」
 もう一度、出来事を簡単に記述します。実際にこの行動が起しうる状況については「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」の「Q&A」も参照してください。

何人かの人があつまって、特に考えもなしに撮影自由・出入り自由で複数人がいる場にデリヘルを呼ぶことを、その影響も考えずに提案してみた。

この行為に対して与える言葉は、大体、ここで与えた言葉及びその類義語やバリエーションでほぼ尽きています。

 私たちは、これに類する行動を、最近でもいくつか目にしています。「類する」というのは、何人かの人間が内輪のノリで、あるいはそうした内輪のノリを観念的に内面化した個人が、断りもなく他人を侵害する行為です。

 二つ、これに類する出来事をあげておきます。

 一つ目として、「私がいても、いなくても」というブログの記事「なぜおっさんは女子にダメ出しをするのか? 自殺した電通女性新入社員のツイートを見て思い出したこと」に書かれている出来事を紹介します。一部、引用します。

 上司は私を連れ出し、飲み会で散々ダメ出しをした。仕事のダメ出しではない。そんなのは業務時間中にいやというほどされている。業務時間外にされたダメ出し、それは私の外見や性格や言動に対するものだった。
「ムートンブーツを履くな。男はムートンブーツが嫌いだ」
「LINEのアイコンをアニメキャラにするな。男が引く。今すぐ変えろ」
「料理が出来ない? 男からしたらありえないぞ、それ」
「お前は世間を知らないから、いろんな男と付き合って経験値を上げろ」
 今考えれば立派なセクハラとパワハラのオンパレードだが、当時の私はそう思わなかった。【・・・】自分のためを思って言ってくれているのだと思った。自分には女として色んなダメな部分があって、それを指摘してくれているのだと。
 そして、とてもしんどかった。仕事でも女としても自分はダメなのだと、深く落ち込んだ。苦しかった。
 【・・・その後、社内に彼氏ができて報告しなかったことで彼氏がその上司に怒られるという出来事が起きます。・・・】
 目が覚めた。
 別にこの人は、私のためを思っていろいろ言ってくれていたわけじゃない。
 それに、私に何か女としての欠陥が特別あったわけでもない。
 この人は単純に、私と何かしらの形で関わりたかっただけ。そのために取れる手段が、『ダメ出し』しかなかっただけだ。
 『頼りになる大人』の皮を被り、自分の支配下に置きたいがために、私に自己否定感を植え付け、何の根拠もない偏ったアドバイスという名のクソバイスを繰り広げて、自分勝手に気持ち良くなっていただけ。しかも、本当にそれが相手のためだと信じ込んでいるというオマケ付き。

 「デリヘルを呼ぶ」行為の「何人かの人が、特に考えもなしに」を、「ここに登場する上司が属している集団の文化を意識するともなく内面化し」に置き換え、影響として「相手をダメだと思わせ、落ち込ませ、自己否定感を植え付け」ることとするならば、よく対応していることがわかります。

 もうひとつの出来事をあげます。事件になったものです。

 2016年5月10日、東京大学の学部・大学院学生による集団強制わいせつ事件が置きました。「誕生日研究会」というサークルのメンバー5名が女性をマンションに連れ込み、集団で性的暴行を加えた事件です[2]。

 この事件で、加害者たちは、当初、笑いながら女性に暴行を加えていたこと、その場にいて途中で帰った別の女性に「これは犯罪だ」と指摘されても「大丈夫、大丈夫」と答えていたことが報じられています。被害者女性が泣き叫んだため、近隣の住民に通報されることを恐れて服を渡したのち、女性が部屋を飛び出して警察に通報したため事件が発覚しました。

 2016年10月25日の判決では「数人が全裸の被害者の体を交互に触り、周囲の者はこれをはやし立て、被害者が泣き出した後も被害者の体を弄び、虐げたもの」としています。裁判の過程で、加害者たちが、被害者を「彼女らはアタマが悪いからとか、バカにして」いたこと、「ネタ枠」などと呼んでいたことも示されています。

 この事件は、次の通り、「デリヘルを呼ぶ」出来事といくつかの言葉を入れ替えるだけで、ほとんど同じかたちで表現できます。

何人かの人があつまって、特に考えもなしに女性を部屋に連れ込んで暴行することを、その影響も考えずに実行した。

 改めて共通点を確認しておきます。
  1. 自分たちの仲間内の「ノリ」やら考え方に意識するともなく従っていること。
  2. 行為を加える対象は、自分たちの仲間内の理解では行為を加えても安全な相手に向けられていること。
 こうした行動の様式は、不幸にして、少なからず見られ、とりわけ一部の男性集団の中では頻繁に見られます。その意味で、極めて凡庸で陳腐な行動及び行動様式です。もちろん、そのことは、その行動が引き起こす侵害の重大さや深刻さを減ずるものではありません。まったく逆に、重大な侵害をもたらす行動を引き起こすメカニズムが極めて陳腐で凡庸なものであるという点は、非常に深刻です[3]。げいまきまき氏が「あんたらのやろうとしてることは人殺しだ」と述べたこと、それを計画者たちが十分に理解できなかった様子であることは、まさにこの、行動がもたらす深刻さを想像できずに行動を提案した人たちの陳腐さと凡庸さをとても明確に示しています。繰り返しになりますが、こうした陳腐さと凡庸さがが極めて深刻な危害と侵害を被害者にもたらすことが少なからずあります。

 以上の検討で、京都新聞が扱っている出来事の基本的な性格が明らかになりました。改めてまとめておきます。

何人かの人があつまって、特に考えもなしに撮影自由・出入り自由で複数人がいる場にデリヘルを呼ぶことを、その影響も考えずに提案してみた。それがもたらす侵害の深刻さを指摘してくれる人がいて、その行為は未遂に終わった。

 「誕生日研究会」の加害者たちが、「これは犯罪だ」と指摘されても止めなかったのに対し、とりあえず企画を止めたという点がかろうじての救いでしょうが、それも、経緯をみる限り、「特に考えもなしに撮影自由・出入り自由で複数人がいる場にデリヘルを呼ぶことを、その影響も考えずに提案してみた」人たちがその影響に気づき自分たちの行為の問題を理解したからというよりは、単に、たじろいだから(相対的な権威の前に日和った)という側面が強そうです(げいまきまきさんが呼ばれたきっかけはこの企画が「リスキーなのでは?」と企画者が考えたところにあり、その段階で「誰にとってのどんなリスク」かがまったく考えられていなかったことは、デリヘルの会社の人との関係で自分たちに取って「リスキー」なのではと漠然と感じていただけなのではないかということを強く示唆します)。

 「デリヘルを呼ぶ」は未遂で終わっていますので、パワハラ・セクハラ、そして暴行が実際に行われた二つのケースとはその点で異なりますが、その途上で、げいまきまき氏とブブ・ド・ラ・マドレーヌ氏は影響を受けています(「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」をお読み下さい)。


B. 「芸術」はどこから出てきたか?

 さて、ここで私たちは大きな問題に直面します。

 セクハラ的価値観を内面化していると言ってもそう誤りでない数人の人々が集まって何となくの内輪のノリで、撮影自由で不特定多数の人が出入りしうる場にデリバリーヘルスのサービスを呼ぶことを提案してみたという、「悪ノリ」「悪ふざけ」「幼稚な悪ノリ」「不適切な悪ふざけ」「仲間内の幼稚な行動」「いかにも幼稚な男たちが勘違いして思いつきそうな行動」「プライバシー侵害」「のぞき」「嫌がらせ」「吊し上げ」「ハラスメント」「重大な人権侵害」「事実上の犯罪行為」といった言葉で最も適切に表現されかつそれ以外では表現されようもない、不幸にして日本社会ではしばしば見られるという意味で陳腐で凡庸としか言いようのない、したがっておよそ芸術とこれほどかけ離れた行動もなかなか存在しなかろうと言えるほどに芸術から遠いこの行動の提案について[4]、どこからどうしてどのように「芸術」が関係してきたのでしょうか?

 答えは簡単です。

 これらの行為を企画した本人たちが自分たちの仲間内でこれを「芸術」と呼んでいたのでした。それ以外に、この行為をめぐって「芸術」が出てくる部分はどこにもありません。従って、ここで行われた行為の系列全体の中で、「芸術」は次のように位置づけられます。

何人かの人が「芸術」を名目にあつまって、特に考えもなしに撮影自由・出入り自由で複数人がいる場にデリヘルを呼ぶことを、その影響も考えずに提案してみた。

 外から観察する目で、この状況を記述し直すと次のようになります。

デリヘルを呼ぶという陳腐で凡庸な、けれども深刻な侵害を引き起こしうる行為を、何人かの人間が集まった内輪のノリで何となく思いつき、その行為を「芸術」という言葉で正当化した。

 そして、この光景は、類似の出来事を通して、私たちに覚えのあるものです。例えば、Aで紹介した二つのケースは、「デリヘルを呼ぶ」における「芸術」に相当する要素を入れて、次のように述べることができます。

自分が属している集団の文化を意識するともなく内面化している上司が、勤務時間外に権力関係を利用して新入社員の女性にパワハラ・セクハラをして相手をダメだと思わせ、落ち込ませ、自己否定感を植え付け、その行為を「頼りになる大人」が相手のためにやっていると自分で見なして正当化した。

何人かの人があつまって、特に考えもなしに女性を部屋に連れ込んで暴行することを、その影響も考えずに実行し、その行為を「自分たちは東大生」で「彼女らはアタマが悪いからとか、バカにして」正当化した。

 これら三つの行為に共通する点を改めて挙げましょう。一つ追加されます。
  1. 自分たちの仲間内の「ノリ」やら考え方に意識するともなく従っていること。
  2. 行為を加える対象は、自分たちの仲間内の理解では行為を加えても安全な相手に向けられていること。
  3. 自分たちの行為を「芸術」とか「頼りになる大人」とか「東大生」といった自分たちが所有しいると思っており「正の価値」を持つと思い込んでいる観念に訴えて正当化していること。
 三番目の点もまた、頻繁に観察されます。実際、大学の場におけるアカデミックハラスメントでは、ハラスメント行為を行うものはその正当化に、しばしば「学問」とか「科学」とか「真理の追求」といった概念を持ち出しますし、セクシャルハラスメント行為を行うものは「社会」とか「大人」とか「女たるもの」といった概念を持ち出しますし、パワーハラスメントを行うものは「仕事」とか「使命」とか「社会人」といった言葉を持ち出します。

 つまり、「デリヘルを呼ぶ」という行為だけでなく、それを正当化するために「芸術」を持ち出すという行為も、随所で観察されるハラスメントや暴行において正確にそれに対応するものを容易に同定することができる、極めて凡庸で陳腐なものだということが確認できます。繰り返しになりますが、行動とその正当化のパターンが陳腐で凡庸であっても、それがもたらす侵害や被害は深刻なものになります。
 

C. 「「デリヘルを呼ぶ」は芸術か 提案に賛否飛び交う」について

 以上を踏まえて、「「デリヘルを呼ぶ」は芸術か」という問いについて検討してみます。「なぜおっさんは女子にダメ出しをするのか?」の事例及び東大生による強制わいせつ事件の事例に対応するものであることが確認できたので、この問いを検討するにあたって、これら二つの出来事・事件で対応する問い(見出し)を立ててみます。

 少し表現を操作する必要はありますが、大体、次のようになるでしょう。

「業務時間外に部下の女性に『ムートンブーツを履くな。男はムートンブーツが嫌いだ』等々と言うのは頼りになる大人のあるべき行為か? 行動に賛否飛び交う」

「女性を集団で暴行するのは東大生のあるべき行為か? 行動に賛否飛び交う」

これらの問いから、このような問いを問うこと自体が、完全に不適切であることがはっきりとわかります。

 では、この出来事について、実際に問われるべき問いはどのようなものだったでしょうか?

 理論的に導き出される答えは簡単で、

「芸術」をダシに使ってデリバリーヘルスのサービスを本来呼ぶべきところではないところに呼び自分たちの好奇心を満足させようという凡庸で陳腐なお仲間集団の行動は妥当か?

というもので、この問いに対する答えは、直ちにもちろん妥当ではない、となりますから、最初から、京都新聞の見出しにあるような「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か」といった疑似質問も、そして上の理屈の上ではまっとうな質問も、出すまでもなく、その前に、当たり前に「芸術をダシにして人権侵害をしてはいけません」と大人が指摘してお終いになるべき、これは極めて単純な出来事であったということが確認できます。

 そして実際に、絶望的な無理解を前に、けれどもげいまきまき氏とブブ・ド・ラ・マドレーヌ氏がそのように適切に振舞ってくれたことで、様々な場で同様の凡庸かつ陳腐な行為が深刻な侵害を引き起こしている中、また一つ深刻な侵害になるかもしれなかった事態がかろうじて回避された、というこれは出来事であったことも確認できます。

 勘違いした仲間内の悪ノリが深刻な侵害に至るまえに、きちんとした大人が制止してくれた。私たちが確認すべきは、そこに多少なりとも世界の救いがかろうじてあるということであって、勘違いした仲間内の悪ノリを正当化するために持ち出された「芸術」という観念に踊らされて「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か?」という疑似質問を提出したりそれに答えたりすることではありません。そのことはまた、げいまきまき氏とブブ・ド・ラ・マドレーヌ氏がともに表現行為に関わる人であることからも確認できます。

 冒頭で提起した二つ目の問い、「『哲学者』千葉雅也氏の発言について」は稿を改めて述べることにします。


注など

[1] 「デリバリーヘルス」は、「派遣型のファッションヘルスのこと」で、「ファッションヘルス」は「一般に女性従業員が男性客に個室で性的なサービスを提供する日本におけるいわゆる風俗店の一種」だそうです。


[3] ハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン:悪の陳腐さについて』(みずす書房)を思い起こされた方もいるでしょう。

[4] いくつか、芸術の付随的属性をめぐって、「デリヘルを呼ぶ」という行為及びそれを企画した人たちの態度を整理しておきます。第一に、「芸術は権威をゆるがす」といったことについて。撮影自由で不特定多数の人が出入りする場に「デリヘルを呼ぶ」行為は「権威をゆるがす」ものではなく、既存の悪しき確立して蔓延している男性中心の権威に基づいた行為をいっそう悪しきところに向けて逸脱的に展開した行為です。第二に、「芸術は存在や悪に関わる」という点について。例えば殺人をそのまま行って芸術だというのは芸術が表象行為であることを考えるならば単に矛盾であり、芸術の否定です。第三に、「芸術は驚きをもたらす」というとき、このような侵害を考えもなしに提案できる人々の認識力のなさ以外、この提案に驚くべきことは何一つありません(私たちの前にはデュシャンもいたのです)。第四に、「たとえ人の怒りを買っても」芸術が担う使命があるという点について、企画者たちは当初「人の怒りを買う」とさえ思っていなかったことが示されていますから、これも妥当なものではありません(会田誠氏の言葉「僕はいつか例えば、イスラエルを完全に怒らせる表現をするかもしれない。具体的な予定はないが。その時は『刺し違える覚悟』でやると思う。芸術だから許されるとか、そういう話では一切ない」という発言は示唆的です)。なお、この場にいた「加須屋さん」は京都市立芸術大学の加須屋明子教授と思われます。女性ですが、この出来事をめぐる本稿の記述が加須屋氏の存在で変わることは特にありません。


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