講義余滴

研究ブログ

【コラム】公的芸術祭での展示作品公開停止について

 先般の愛知県での事件を題材にした事例問題を期末試験を出した場合の法学部的な解答例です。最大の課題は、世間一般が求めている解答ではないことでしょう。

1、検閲該当性について

 作品の作者である原告Xは、本件芸術祭での被告Y県知事Aによる作品の公開停止が憲法21条2項が禁止する「検閲に該当する」と主張する。この点、最高裁は、同条に規定する「検閲」について、「行政権が主体となつて、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるもの」と定義し、これを絶対的に禁止するものであると判示している(税関検査事件、最大判昭和59年12月12日民集38巻12号1308頁)。

 本件芸術祭における公開停止は、事前の審査ではなく、また、芸術祭以外の場所での発表を禁止するものではないから(第一次家永訴訟、最三小判平成5年3月16日民集47巻5号3483頁参照)、憲法が禁止する「検閲」には該当しない。よって、Xの主張は採用し得ない。

2、表現の自由の規制について

(1)まず、本件芸術祭の目的及び法的性質について検討する。被告側資料によれば、本件美術展は、「新たな芸術の創造・発信により、世界の文化芸術の発展に貢献します。現代芸術等の普及・教育により、文化芸術の日常生活への浸透を図ります。文化芸術活動の活発化により、地域の魅力の向上を図ります。」との3点を目的として実施される、「国内最大規模の国際芸術祭」である。そして、「4回目となる2019年は、国内外から90組以上のアーティストを迎えます。国際現代美術展のほか、映像プログラム、パフォーミングアーツ、音楽プログラムなど、様々な表現を横断する、最先端の芸術作品を紹介します。」としている。

 その運営主体は、任意団体であるB芸術祭実行委員会であり、意思決定機関として運営会議が置かれている。同会議の会長にはY県知事が充てられることになっており、その事務局もY県職員が担当している。同会議の委員には本件芸術祭に協賛するY県内の企業の代表者などが就いており、また、全体で4箇所ある会場の一つを提供し、開催費用を拠出するY県C市の幹部もその一人となっていた。また、C市長も会長代行に就任していた。B芸術祭の企画内容は、開催年毎に運営会議が芸術監督を選任することとしており、本件芸術祭においては、ジャーナリストのDが選任され、展示内容等の企画・立案が委託されていた。

 上述の通り、本件芸術祭の実施主体は任意団体であるB芸術祭実行委員会であるが、その組織及び運営の内容に鑑みれば、実質においてY県がその運営の大部分を担っており、地方公共団体による公的な催事であると解される。そして、上記のような本件芸術祭の目的、役割、機能等に照らせば、本件芸術祭は、広く一般鑑賞者が芸術的価値に触れ、その教養を高めつつ、文化・芸術の発展に寄与すること等を目的とする公的な場であるということができる。こうした本件芸術祭の目的を達するため、Y県としては、芸術監督の専門的判断を尊重し、政治的行政的便宜的判断や独断的な評価、個人的な好みにとらわれることなく、本件芸術祭の円滑な運営に努める義務を負うものと考えられる。

(2)そうしたところ、本件芸術祭においてXの作品が展示されていることが報道やインターネットを通じて広く知られるところとなり、開催初日からAのもとには、FAX・メール・電話等で多数の抗議や中止を求める意見が寄せられた。また、会長代行を務めるC市長が「こんなものは展示してはならない」旨の発言をしてXの作品の撤去を求めたり、政府高官がB芸術祭への文化庁からの支出を見直す旨の発言を行った。そして、抗議の文書中に「ガソリン缶を持ってお邪魔します」との文面を含むFAX(以下、本件脅迫FAX)が見つかり、Aは開催3日目をもってXらの作品を展示する区画の公開を中止する決定を行った。この決定は、B芸術祭実行委員会規約16条で規定された、「会長は、運営会議の議決事項について、緊急を要するときは、これを専決処分することができる」に基づき専決処分によるものであった。なお、本件脅迫FAXを送付した男は、威力業務妨害罪で開催7日目に逮捕されている。

(3)原告Xは、Aによる作品の公開停止が憲法21条1項の保障する表現の自由の侵害であると主張する。この点、表現の自由は情報流通を自由にさせ、自己実現及び自己統治の価値を実現する人権であって、公権力による制約は慎重に行わなければならない。もちろん、本件美術展は、Y県が中心となって実施され、Y県立美術館を使用し、運営経費の多くを公費によって賄う性質を有するものであるが、芸術的判断と運営について芸術監督を置き、Y県知事を実行委員長とする委員会はその人選に責任を有するにとどめる体制として初回の2010年美術展開催当時から運営してきたのであるから、展示を停止するためには、当該表現活動を停止させる止むに止まれぬ公的利益が存在することを必要とすると解する。具体的には、表現の自由を保障することの重要性よりも、右美術展での展示が行われることによって、「人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を回避し、防止することの必要性が優越する場合をいうものと限定して解すべきであり、その危険性の程度としては、単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要であ」る(泉佐野市民会館事件、最三小判平成7年3月7日民集49巻3号687頁参照)。

 Aが受領した本件脅迫FAXは、直近のガソリンを用いた放火殺人事件に照らせば、具体的な犯行予告と見ることができた。Aは、これを明らかに差し迫った危険ととらえて、公開中止を専決処分によって決定したものであるが、この点において、Aの判断は正当であると解される。

(4)しかしながら、先述の通り、本件美術展は公的な場であり、そこで展示された作品の作者にとっては、芸術作品を通じた思想、価値、意見等を公衆に伝達する公的な場でもあるということができる。したがって、美術展の主催者といえども、先述の明白に差し迫った危険を回避するなどの正当な理由なく、展示に供されている美術品に対する不公正な取扱いによって閲覧を中止することは、当該作品の作者がその思想、意見等を公衆に伝達する利益を不当に損なうものといわなければならない。そして、当該作品の作者に思想の自由、表現の自由が憲法により保障されていることにも鑑みると、公的機関が主催する美術展において,その美術作品が展覧に供されている作者が有する上記利益は,法的保護に値する人格的利益であると解される(最一小判平成17年7月14日民集59巻6号1569頁)。

 本件美術展においては、その後、本件脅迫FAX送信者は警察によってすでに逮捕され、また、Y県知事としてAが会場の県立美術館の警備を強化するなどの対策を講じる時間が十分にあったにもかかわらず、およそ2ヵ月半にわたる本件美術展の公開開始日から3日で当該展示を専決処分によって中止し、残余の開催期間についても明白に差し迫った危険を回避するなどの正当な理由なくXの作品を公開中止の状態に置いたことは、Xに対する関係で違法性が生じるものと解される。なお、XはC市長及び政府高官の発言等が展示を妨害したと主張するが、展示中止の決定はAが専決処分によって行ったものであって、本件におけるC市長及び政府高官の発言については、その当不当の問題はともかくとして違法性の問題とはならない。

3、国賠法上の違法について

 以上の通り、Y県の公務員であるAが、本件美術展の運営について、基本的な職務上の義務に反し、もはや正当な理由が存在しないにもかかわらず、専決処分で決定したXの作品の公開中止を継続させたことは、当該作品の作者であるXの人格的利益を侵害するものとして国家賠償法上違法となるというべきである。

 よって、原告XのY県に対する国賠請求は認容しうるものと解する。
                                   以 上
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【コラム】仕事と家庭と地域の並立

地元神社も夏祭りの時期であるが、準備を含めて祭りに「時間」をかけられる担い手もますます減るばかりであるという。カレンダー上は休日だというのに大学に出勤している研究者も多いことだろう。

みんなが日々の労働に振り回されていたのでは、地域コミュニティの形成なんて絵に描いた餅であろう。と、先日ある研究会で報告された、社会関係資本の増加に「時間」が相関するとの研究を思い起こす。

最近、「一億総活躍」とはいうが、それが労働市場への「一億総動員」を意味するのであれば、コミュニティ形成など願うべくもない。

ところが、政府の「ニッポン一億総活躍プラン」にはコミュニティ形成への積極的視点が欠けている。労働市場にあぶれた人たちが最後の最後で自分の存在意義を見出す場所的な扱いである。

どうも政府にとって地域活動は「活躍」ではないようだ。個人に還元する利益が明らかでないと、利益としては評価しえないのだろうか。たが、本来は、仕事と家庭、そして地域の3点での「活躍」が並立して初めて、その人らしい暮らしが送れるのではないか。

もちろん「夏祭りや町内会活動のような地域活動なんて物好きがやればいい」という意見もあろう。ただ、それは選択の余地があってこそのものであって、そのための「時間」を現実的に確保することが考慮に入れられていない。

政府としては、コミュニティ形成を別次元の問題としているが、時間の有限性に配慮していないようである。自分で「時間」をコントロールする地位と能力を持つ者は別として、現下の経済情勢に照らせば、日々の労働に追われる毎日というのが多くの人々の実情ではなかろうか。

それも、格差社会の到来を背中で感じながら、下層に転落する不安感にさいなまれて、ひたすら労働に突き進まざるを得ない状況にあるのではないか。格差の上層にいる者であっても、一寸先は闇であって、安住の地は存在しない。

そこに憲法学の「常識」が拍車をかける。PTAだの町内会だのに参加を強制することは憲法違反であり、「物好き」がそうした活動を支えればよいというのが「常識」である。それが裁判所の判決か司法試験の答案にとどまる限りは正当である。

ただ、これが格差社会への不安感と結びつくことで、従来なら地域活動へ投入されていた「時間」が、ますます労働市場へ集約され、「一億総活躍」を助長する点に留意しなければならない。他人のことに構っていられない状況で、地域活動は稀有な「物好き」に期待せざるを得ない。

他方、そうして衰退する地域の社会的機能(子育て、介護、治安etc.)を補うだけの制度と経費と人材は用意されていない。「自由意思に基づく選択の結果」が、個人の選択の余地をかえって狭める危険性を有しているのである。

これは、居住・移転の自由と職業選択の自由が都市に労働力を集中させて、近代資本主義を成り立たせたのと構図的に共通する。人権保障と資本主義が手を携えて、多くの個人を道具化した近代の負の側面である。

思えば「政治に関心」が持てるのも、プロと暇人の特権であって、そんな「時間」がない人々が投票に行かないのも当然である。考える暇と低投票率との相関も、何かしら見出せるように思う(ただし、暇だから必ず政治的関心を持つという訳ではないが)。

そうした「考える暇を与えない」というのは、軍隊で一兵卒を訓練するときの基本である。余計なことを考えない労働者は、使用者にとって「道具」として歓迎され、資本主義経済にとっても功利を追求するのに都合がよい存在になる。

しかし「考えない主権者」群などというのは、間違いなく民主政のパフォーマンスを著しく低下させる。そうした「考えない主権者」が格差拡大のゲームに翻弄されて、自ら搾取と疎外の経済体制を復活させようとしているのが現状ではないか。

だからといって資本主義経済の放棄やスローライフを提唱している訳ではない。「成長」を放棄せず、持続可能な社会と経済を構築することが必要なのは当然である。その際、現実的なライフサイクルを念頭に、有限な「時間」を個人がどう振り分けるのかを考える必要がある。

ワーク・ライフ・バランスというが、地域活動は「ワーク」でもないし、「ライフ」の場でもないのだろうか。その辺の検討は他の分野の専門家に委ねるとして、少なくとも国家が主導して労働市場で「総活躍」を扇動することに疑問を呈する必要があろう。

憲法学としては上記の「物好き」論で満足せずに、「個人の道具化と疎外」の問題を浮き彫りにし、それを避けるための方策を示す必要があると思うのだが、休日も「総活躍」される研究者にあって、外的視点を得るのは困難な状況があるのもまた事実である。
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【コラム】「生前退位」論議の問題点

日本国憲法の制定で、宮務法の最高法規であった皇室典範が「法律」になり政務法の体系に一元化され、皇室自律主義が否定されたことは一つの革命であった。それに伴い宮内大臣(宮内庁長官)も内閣の下の行政機関の一つとして民主的責任行政の原理に従うことになる。

ただ、革命の理念としてはそうであっても、現実に皇室事項について完全に政務事項とするのは憚られたように思う。三権の長からすれば明らかに「格下」の宮内庁長官が皇室会議議員に含まれるのは、そうした典憲体制の名残りといえよう。

ただ、ともかくこれで日本国憲法が戦前の天皇の権力と影響力を「抑え込む」体制を構築することには成功したのは間違いない。しかし、今回の生前退位をめぐっては、典憲体制に代わる皇室法の体系に欠陥があることが露呈した。

基本的に皇室に関する現行法制度は「抑制の法体系」であるため、新たな制度を構築する場合の担当者と手続きが不明確なのである。皇室典範は、改正を全く想定していない事実上の「不磨の大典」といってもよい状況にある。

もちろん、形式的には、通常の法律と同じように閣法を国会で審議すればよい。実際、昭和24年法律134号による改正はそのように行われた。ただそれは宮内府から宮内庁への名称変更であって、生前退位制の構築というように、国家の組織と作用に大きな変更を及ぼすものではない。

今回、安倍総理が「事柄の性質上、コメントは控える」といったように、天皇の政治利用を避ける観点から党派性の強い内閣が制度改正を主導するのには問題があるとの意識が根強いのだろう。

かといって、国会が速やかに素案をまとめるのは困難を伴うと思われる。事が「象徴」に関わるだけに、多数決という民主的なルールには基本的になじまないのである。この際なので共和制への移行を主張する意見も出てこよう。

専門性技術性の観点からは宮内庁長官であろうが、非民主的な一行政機関が担うには事柄が大きすぎる。天皇自身が希望を述べれば、国政に関する権能を有しないとする憲法4条との問題が生じてくるし、既に批判する声もある。

組織の構成という観点からすれば皇室会議が最も相応しいのであるが、個別の事案を処理するだけの機関であって、その権限は厳格に制限されている(典範37条)。要するに、現行法には皇室に関する新しい憲法秩序の構築を主導すべき国家機関が存在しないのである。

そこで、今回取られたのが宮内庁内で極秘に議論をまとめ、機が熟した段階でマスコミにリークをして世論を作り上げつつ、表向き誰も主導していないという体裁をとることであった。

マスコミが既成事実として報じる一方で、宮内庁は一切否定するというのは異常事態であるが、双方が承知の上での茶番劇ならば納得がいく。案の定というか、「いいんじゃないか」的な「街の声」ばかりが報じられ、「国民」が望んでいる雰囲気が醸成されつつある。

もちろん、個人的には生前退位制創設に反対する訳ではない。しかし、こうした「雰囲気を醸成」して法秩序の変更をはかる手法には危惧を覚えざるを得ない。宮内庁の「この件に関しては、寝た子を起こすな」という姿勢が垣間見えるのである。

本来であれば、女性天皇や一代宮家、養子など、今後の皇室の持続可能な制度構築の検討や、「象徴」と民主制の関係という本質論がなされるべきである。しかし、現在の「雰囲気」はそれを許さない雰囲気なのである。

そしてそれを宮内庁が背後で動かし、官邸が黙認するというのでは、民主的責任行政は絵に描いた餅である。法治行政を否定するある種の「クーデター」である。黙認は、責任ある統制と呼べない。

この点、第91回帝国議会で宮沢俊義が、「宮内府の長と云ふものが、假にも内閣から多少でも獨立であるかの如き地位を持つと云ふやうなことは、絶對にあつてはならない」とし、そこに留意しなければ「従來の宮内省の延長となり、國務の他に國務から多かれ少なかれ獨立性を持つた皇室の事務と云ふものがあるかの如くに取扱はれるやうになる虞がない譯ではないと」懸念を示していたことを想起すべきである(貴族院皇室典範案特別委員会(昭和21年12月22日))。

ここは憲法の原則通りに(行政機関ではなく)國務」の機関が前面に出て責任ある対応をすべきである。そこで国権の最高機関たる国会の出番であるが、おそらく各政党内で議論をしたものを持ち寄っただけでは、成案を得るのは難しいだろう。

そこで、衆参両院議長及び副議長が主導権を握りつつ、その権威をもって最前線で調整し、取りまとめを進めることが考えられる。選挙制度に関する「議長裁定」のように、あえて議院運営の中立的立場を破り、その権威をもって成案を得る手法をとるのである。

与野党の象徴的代表である議長と副議長が協働し、かつ異なる国民代表により構成される衆参両院が合意することの象徴的意味は大きい。それによって、民主的手続による象徴天皇制の構築を演出するのである。

その際、皇室会議構成員による自由討議を通じて制度の大枠を取りまとめていくことも、国会の議論を補完するものとして有益であろう。皇室と三権の象徴的代表が集う機関の性質を活用しない手はない。

そこに宮内庁長官が草案を示すことは否定しない。また、この他にもうまいやり方は考えうるであろう。ただ、誰が責任を持って改正案をまとめたのかという、立案過程に透明性が必要なのである。

結果として同じ結論に至ることはあるだろうし、それはそれで構わない。制度の詳細は置いても、今回の件での国民合意の下地は存在する。しかし、憲法秩序の改変が秘密裏に行われ、国会が追認機関に終始するのであれば、それこそ「立憲主義に反する」と評すべき事態なのではないか。

そもそも現行の皇室法が、もっぱら昭和天皇を想定して作られていた感は否めない。それは、絶大な権力とカリスマを備えた存在を抑制するコルセットのような制度であって、後々の世代まで受け継げるものではないのかもしれない。その改正のための議論は、「雰囲気」に萎縮することなく大いに行われるべきである。

他方で、皇室事項も「国務」の事項として民主的に統制されるとする日本国憲法のもとにあって、そこに緊張をはらんだ要素があることに留意しつつ、この際、皇室ルールを定めるルールを明確にしておくことも広く問題意識として共有されるべきなのである。
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【コラム】一票の較差の是正

衆議院議長の諮問機関が衆議院議席の10減などの答申を行った(2016年1月15日各紙報道)。あわせて5年ごとの区割り見直しを述べたというが、最高裁が度々強い調子で違憲判断を示している割には、のんびりしているという印象である。

総選挙の度に各地で違憲訴訟が起きるのがある種の「風物詩」のようになっているが、そもそも事後的な対症療法ではなく、事前にそうした違憲訴訟が起きない仕組みを作る提案がなされないのが不思議である

一票の較差というのは、簡単に言えば、A選挙区で人口1万人、B選挙区で人口2万人なのに選出できる代表が同じく1名という状態である。これが平等選挙を要請する憲法に違反するのは、司法判断を待つまでもなく、明らかである。

これを是正するには、B選挙区を二つに分けてC選挙区を新たに設けるか、B選挙区から2名の代表を選出させればよい。ただ、これをむやみに実施すると、議席が際限なく増えていく危険性がある。

そこで選挙前のある時点を基準として、格差2倍を超える選挙区については、「暫定的に」2名の代表を選出できるようにしつつ、その分の議席を当該地域ブロックの比例代表から削った上で選挙を実施すれば問題は解消される

現状でも重複立候補により、代表を2名出している小選挙区はいくらでもあるので、それの順序を逆にするだけのことである。もちろん、これで抜本的な改革になる訳ではない。A選挙区の人口減少が続くなどの事態悪化も考慮する必要がある。

ただ、最近の報道では、最大格差は2.17倍、該当選挙区は15であるという(2015年12月29日東京新聞)。こういっては何だが、違憲判断が出される可能性のあるのは、475名の議席のうちのわずか15である。

つまり、応急的な事前の是正で対処できる範囲なのである。現状では、完璧な抜本改革を求めるよりも、現実的な対処を優先すべきである。毎回毎回、「最高裁で違憲判断」と大々的に報じられることで、選挙制度全体が不正であるかのように印象付けられるのが最大の問題である

もちろん、比例代表に活路を見出している政党にとって比例代表の議席を削られることに不満が出てくるだろう。だが、最高裁の違憲判断を受けて後手後手で対処する政治の姿勢を示すことで、どれほど政治に対する信頼を失っているかを考えるべきである。

選挙制度は、自らの地位に関わるため、与野党問わず身を切る改革を避ける。そのため、いつも中途半端な改正が行われて誰もが不満な選挙が実施される。ならば、せめて平等選挙という憲法上の要請を最優先で実現したらどうか。

前記の制度は、むしろ比例削減で一部の政党に割を食わせることを狙っている。割を食う政党が、制度の瑕疵を自動的に治癒するインセンティブを生むように仕向けることが肝要である。現状では、誰もが不満でありながら、実は誰もが利益を得ている。

政治家全体が消極的に満足しているので、現状維持が基本となってしまう。その均衡を打ち壊すのである。ここに、学者の「答申」をもってきても、たいした「外圧」にはならない。

今回も、「国会が学者の意見に唯々諾々と『おっしゃるとおり』と言うのがいいのか」(自民党二階総務会長)との反応が報じられている(13日産経新聞)。

答申を出しても無視されるようでは、ますます学者の地位も軽んじられる。それならば、制度的に、議席の分捕り合戦を水面下で政治家同士にやらせる方が現実的である。学者に求められるのは、貧弱な発想の政治家に専門的な観点から大胆な提言をすることだろう。

この問題に対するマスコミの姿勢は、完全に「最高裁が違憲といっているのに、自分たちのことばかり優先する政治家」の姿を強調することにある。衆議院の選挙制度においては、多様な民意の反映よりも、人口比例がまず第一原理である。

「一票の較差」の問題以上に、その議論の仕方を問題視すべいである。そうした観点から、現状を速やかに是正する必要がある。マスコミは、政治家のドタバタを「プロレス」のように報道して騒ぎたいだけである。そうした騒ぎに司法府を恒常的に巻き込んではならない
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【コラム】国会議員の育休論議

自民党議員が「育休取得推進へ議論」(産経新聞2016年1月6日)とのことで、議院規則を改正しての国会議員の育児休業制度創設を検討し始めた。一般的に育児休暇を取ることは推奨されるとして、それを国会議員にまで保障する必要があるのだろうか。

国会議員だから滅私奉公せよということはないし、選挙で負託された政治的職務を私的な事情で休業するなとも言わない。ただ、それを「法的権利」として保障しなければならないのかを問うべきなのである

政治家は基本的に自由業であって、時間の過ごし方は自分で決めるのが基本である。とはいえ、議院の会議を長期で休めば、懲罰対象にもなりうるし、政党に所属していれば、組織として行動せざるを得ず、徐々に「サラリーマン化」して休むに休めないこともある。

もちろん、個別の家庭事情があって休業せざるを得ない場合もあろう。そうした場合の判断は、議院や政党の判断によるのであって、各議員の責任で説得にあたればよい。わが子を自分の手で育てたいという熱い思いやそうせざるを得ない事情があるなら、同僚議員を説得して回れば済むことである。

それを避けて、大手を振って休みを取るために、「法的権利」として認めさせることは、近道ではあるが、適切かといえば疑問である。「自分」の存在を消して、抽象的な「労働者」一般に紛れ込み、休暇を当然の権利として主張するのが議員の姿だろうか。

一般的な労働者と異なり、年間2000万もの歳費を受領しており、ベビーシッターを雇ったりする方法も可能なのである。自分の手で子育てをしたいといっても、必ずしもまとまった「休業」とする必要はない。

国会閉会中は会議はないし、会期中でも会議時間以外は、基本的に自由に時間を調整できるのである。しかも、産休とは異なり、その当人でなければならない理由は必ずしも存在しない。育休が認められるなら、介護休業も認めるよう主張すべきだろうが、それでは議員活動はほとんどできないことになる。

基本は自由業なのだから、週末の選挙区回りを減らして子育てにあてることもできる。会期中の国会議員の行動は、「金帰火来」で週末は地元日程である。その時間を削って育児をしたらどうなのか。

国会で育児休業を要求するなら、その間は地元日程も休むべきであるが、果たしてそれだけの覚悟はあるのだろうか。もちろん育児休暇中に解散・総選挙があっても休暇を取り続けるのが筋であるが、「子どものために職を守る」ということで、休暇を中断するだろう。

結局のところ、今回の権利要求には、「選挙>子育て>国会」という優先順位が垣間見える。地位の安定を第一にしていることを隠しながら、歳費の根拠となっている国会での活動を軽んじているのだとしたら本末転倒である

新しいことをしようとすれば何かと批判を受けるのは確かである。だが、それをかわすために「法的権利」として、育休の実現をしようとするのは、国会議員としての矜持に欠けていないか。批判を浴びながらも、まず自分が育児に取組み、周囲を説得しながら必要なときに休みを取ることが政治家としての本領であろう。

育児休業の取りにくさを克服するための議論は大いに国会でなされるべきである。ただ、その要因の多くは、法的権利が保障されていないことではなく、人々の意識にある。にもかかわらず、政治家が人々の意識に訴えることなく、法的権利ばかりを主張しては何も問題解決にならない。

この場合、企業の従業員でいえば、上司や同僚にあたるのが「地元民=有権者」なのであって、議院や政党の幹部ではない。構図が全く異なるのである。単に給与の出所だけに注目したのでは、問題の本質を理解しないことになる。

政治家が範を示すべきは、地元民をの意識に訴えて、休暇を取ることにある。法的権利に頼れない状況でも、地元民に説明をしながら休みをやりくりして育児を全うし、人々の意識を変えていくことが全国民の代表たる国会議員の役目である。

地元では次の選挙のために挨拶周りに邁進しながら、国会では法的権利を主張して休むというのは、サラリーマンが育児休暇期間中に、副業をするようなもので実におかしなことである。

何よりも、今回の動きは、自分の必要性に迫られて育休の議論を始めているように映り、ご都合主義を感じざるを得ない。以前から議員の育児休暇を訴えていたというのなら、政治家としての先見の明はあると言えるだろうが、私の知る限り、この論点は急に出てきたものである。

むしろ、育児休業が必要なのは議員よりも、その秘書たちである。議員が落選すれば、一緒に失業する運命にある議員秘書は、なおさら育児休業などと言い出しにくい状況にある。勉強会に参加した議員たちは、自分の秘書たちに率先して休みを取らせているのだろうか。

今回の動きは、議員の「サラリーマン化」の産物なのかもしれない。それならそれで、現状に見合った議員の待遇や政党の位置付け、選挙制度のあり方を検討して、「一職業としての議員」となるような法整備を進めるのも一案で、その契機として意義があることになる。

ただ、その際憂慮すべきは、政治家として国家や社会のリーダーとなる人材を別途育てる必要が増すということであろう。次世代の育児とともに、次世代の政治家の育成を社会全体で負担する時代に差し掛かっているというのは、言いすぎであろうか。
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【コラム】主権者教育の諸課題

公職選挙法が改正され、選挙権年齢が18歳に引き下げられた。今年は国政選挙として夏の参院選が控えていることもあり、にわかにマスコミや教育界、選管などの行政機関が「主権者教育」の必要性を言いだしている。

ただ、選挙自体は今に始まったことではないので、何か期末試験前にアタフタする学生の姿を見るような感じがする。主権者教育の諸課題については、先般、論文「主権者教育と法教育」で言及したところであるが、そこで扱わなかった話も含めて以下に述べておきたい。

1、啓発活動と教育活動
選挙啓発に向けて、従前より選挙管理委員会や明推協(明るい選挙推進協議会)その他の団体が様々な取組みを行っており、それについては敬意を表したいところである。ただ、啓発活動と教育とは質的に異なるものであり、従来の啓発活動を単に「主権者教育」とする看板のかけ替えにならないかと危惧している。

教育活動である以上、関連分野との体系性の中での位置づけがなされるべきで、さらに能力に応じた教育目標、到達点の明示、授業計画などが必要になる。近時はやりの「アクティブ・ラーニング(能動的学修)」にからめて、体験活動をさせるのはいいが、それが一過性のイベントにとどまってしまってはおよそ教育といえない。

しかも、法曹三者が「法教育」、法務省人権擁護局が「人権教育」、消費者庁が「消費者教育」、金融庁が「金融教育」などと、「〇〇教育」が濫立し、それらを文科省が整理せずにいるところに、さらに主権者教育が加わるのでは、教育現場の負担と混乱が一層増すばかりではなかろうか。

2、教育現場の負担と混乱
昨年末に主権者教育に向けた副教材が文科省・総務省によって作成され、全国の高等学校に配布されたところである。かなり立派な内容で、確かにこれを使えば立派な主権者も育つことだろう。

しかし、制度説明の部分には、公民科の教科書と重複する部分も多く、授業準備をする教員には予め副読本と指導教材の内容を十分に把握しておくことが求められる。また、模擬投票などの「能動的学修」のための教材は興味深いところであるが、これを実践するためには相当な準備時間が必要となる。

そうなると、ただでさえカリキュラムを消化するのに時間が不足している現場の負担が増すおそれがあり、任意ではなかなか実施されないと思われる。そこで、次回の学習指導要領には、主権者教育的要素も盛り込まれ、授業内で実施することの根拠が明定されるとのことである。

それでも、時間と労力を要する割に大学受験にも関係なく、生徒のモチベーションを高めるのに苦労するだけであれば、真面目に実施する学校や教員は少数で、かたちばかりの主権者教育がまかり通らないか懸念される。

そこで、例えば、10年先行して行われている法教育の効果を検証して、参考にすべきであろう。周知の通り、法教育については、学習指導要領にも盛り込まれ、様々な能動的学修の教材が提供されている。

主権者教育は、まさにその「後追い」をしようとしているのであるから、「法教育」が果たして裁判員裁判の「啓発」以上の「教育」効果を持つようになっているのか、主権者教育の大々的な導入の前に検証してみることが肝要であろう。

その検証は他に任せるとして、以下では、一般的に考えうる限りでの主権者教育のあり方について述べておきたい。

3、真の主権者教育のために
(1)学校中心主義の見直し

第一に考えるべきは、何でも学校内で済ませようとする姿勢を改めることである。テレビのインタビューで「選挙に興味が持てるよう、学校で教えるべきだ」などという意見をよく見るが、何とも白々しい気がしてならない。

現状でも授業で選挙に関心を向ける内容は扱われているはずであるし、本当に関心があるなら、手元にあるスマホでいくらでも情報にアクセスできる時代である。何でもかんでも学校での「主権者教育」に期待するというのは筋違いであろう。

「何でも授業中に」教えるべきだなどと言うのは、授業時間以外に主権者教育の時間を取られることに意義を見出していないのであって、その要望に応えることはかえって逆効果になる。

制度の仕組みなどの座学は授業で扱うとしても、それはきっかけに過ぎない。主権者として選挙に関心をもつ「教育」は、むしろ教室や学校の外に求められるべきである。そうでなければ、社会から隔離された学校という空間で、リアリティのない「主権者教育」がくり返されるだけである。

主権者教育は、「教育=学校=授業」の枠組みで収まりきるものではない。そうした視座を持たずにいると、限られた授業時間では消化不良となるカリキュラムが現場にもたらされるだけである。まるで「ゆとり教育の詰め込み」のような、おかしな教育が生じてくる。

では、なぜ主権者教育を学習指導要領に盛り込もうとしているのかといえば、ひとえに「総動員体制」を築くためである。選管等が実施している様々な啓発の取組みは、もっぱら意識の高い者による任意参加によってささえられているのが現状である。

それを法的に義務化しようという訳であるが、肝心の学習効果の検証は二の次である。運転免許の講習や企業の新人研修のような具体性を有しないのが、主権者「教育」なのだから、授業内では最低限の知識の伝授と考える視点の提示ができれば十分である。

そして、それは、現行でもかなり行われていると思われる。主権者教育というのは、スーパーの食品売り場の試食のようなもので、それでお腹を満たす必要はない。興味があれば買って帰って、自分で調理させる。アレンジも自由である。まずは、この感覚が必要である。

(2)役人依存の脱却

第二の問題は、役人目線で主権者教育が組み立てられていることである。特に、批判精神の涵養という主権者教育に不可欠な要素が現状では育たない。

法教育に典型的であるが、裁判員制度の意義や制度についてはやたらと詳しく説明されるのであるが、「そもそも裁判員制度なんか要らないのでは」という議論はしない。役人が設定した「箱庭」の中で人格の陶冶のようなことを体験するだけなのである。

同じように主権者教育で「今さら選挙に行こうなんて、総務省の役人の点数稼ぎだろう」という議論をしようなどとは言わないだろう。無駄な道路建設と同じで、方針が定まれば、疑うことなく実施に突き進むのが役人発想で、主権者教育はそれに伴走させられかねないのである。

分かってはいても新しいことに手を出さないのも役人発想の特徴である。だから、明推協などを通じてアイディアを民間から募るのであるが、その際、絶対に苦情がくるような企画は通るまい。

「どうせ選挙なんか行っても何も変わらない」という者には、在日外国人の団体が時間と労力と費用をかけて、時には訴訟まで起こして、参政権を獲得しようとしている様子を見せて、その理由を考えさせるのが最良の教材である。

また、主権者教育には、先輩である主権者を教材にするのが良い。いつもは文句ばかり言っているが、結局はいつもの政党に投票してしまう自作農、握手をしてもらっただけで投票先を決める高齢者、政権交代に期待して投票したものの今さら後悔している無党派層、祖父から孫まで一貫して万年革新野党の党員をしている一家などなど。

現実に即した教材はいくらでも思いつくが、一歩間違えれば(というより、ほぼ間違いなく)苦情の嵐だろう。「まともな」選管の一職員だったら、そんなリスクをとるより先例踏襲の安全策で参加者だけを増やして、当たり障りのないアンケートでも集計して実績を誇ることに精を出すのが賢い生き方である(末弘厳太郎「役人学三則」参照)。

何も選管職員を非難しているのではなく、主権者教育を事務組織に依存してはならないと言っているのである。彼ら独自の政治的中立性とは、どこからも抗議されないことである。主権者教育も「役人流」政治的中立性の名の下に、かなりの可能性を失ってしまう

昨年6月頃に山口県の高校の授業で安保法案の模擬投票を行ったが、その際の資料が朝日と日経だけということで自民党県議が議会でただしたところ、 「中立性が不十分」だとして県教育長が謝罪した出来事があった(産経新聞2015年7月4日)。

これは、本来的な意味で「政治的中立性」が不十分だから謝罪したのではなく、疑問を呈されたということは「役人的中立性(忠実性)」を損ねたということで謝罪したのである。そのような謝罪をしないようにするためには、八方美人であることが「中立性」の証となる。

だが、そんな主権者教育なら時間の無駄である。現実に起きている社会問題を題材にしてこそリアリティのある教育が可能になろう。食中毒を恐れて、試食をさせなければ商品の売れ行きも落ちるし、関心もひかないというものである。

また、昨年2月に行われた与那国島への自衛隊基地建設の住民投票の際、中学生も投票資格を有するということで注目されたが(朝日新聞2015年2月22日)、地元中学校では住民投票について一切触れないようにしていたと聞く。

学校以外の場所でも議論の機会はあるだろうが、もともと生徒が「自主的に」反対署名運動をしていて、校長がそれを取り上げた中学校もある土地柄である(沖縄タイムス2011年11月19日)。せっかくなのだから、臭い物には蓋ではなく、多様な立場からの意見を開陳する場を作っても良かったはずだ。

(3)政治部門の参与
限られた情報だけを与えられた「純真無垢」な主権者は、真の主権者ではない。これでは戦前の教育と何も変わらない。国立国会図書館法の前文に「真理がわれらを自由にする」との一節が盛り込まれた意義を忘却して、「見ざる聞かざる言わざる」の世界に連れ戻しているかのようである。

結局、教育現場における本来的な政治的中立性は、見解のバランスに配慮することと、その説明責任が果たせるかにかかっている。八方美人的な政治的無色透明性を求めていては、多くのことをタブー視するだけである。

詰まるところ、こうした問題が起きるのは、ひとえに「政治的責任者」の不在にあると言ってよい。現場の教師の判断で実施しては、個人的な志向が強く反映してしまう。かといって、文科省、選管や教育委員会の事務局では役人対応になってしまう。校長では荷が重すぎる。

そこで政治部門としての選挙管理委員、教育委員の出番ということになるのではないか。主権者教育は、事務局職員任せにせず、選管と教育委の委員が協働して最前線に立ち、その任にあたるのが最適なのではないだろうか。

政治的中立性と専門性を有する独立行政委員会だからこそ、政治的中立性の要求にも応じられる。何かあったら説明責任を尽くす。それでも社会的非難が収まらなければ辞任すればいい。

各地の政治課題を題材にし、地元の大学教員や地方議会の議員、現場の教員を巻き込みながら、主権者教育をコーディネートする。そうした姿が真の主権者教育を進める一要素となるのではなかろうか。

もちろん、現在の選管・教育委員ではそんなことは期待できないとか、それは難しいと言う委員もいるだろう。この際、そういう方々には、早々に辞職して頂くのが世のため人のためである。

特に教育委員は、大津のいじめ自殺を契機として、その権益を易々と政治家に渡してしまった。主権者教育にあたっても指をくわえてみているだけで、山口のようにすぐに教育長が謝罪するだけならば、ますます鼎の軽重を問われることになる。

学習指導要領に主権者教育が盛り込まれる以上、むしろ失地回復の気概をもって教育委員会の存在意義を発揮すべきである。そうした体制が整ってから、模擬投票や模擬議会など、今回作成された副読本が活用されれば、有意義なものとなるだろう。

政治部門でありながら政治家ではない委員が協力すればこそ、省庁縦割りの「〇〇教育」の垣根を取り払うことができるはずである。それを実施するのに最適な場として、地方議会があげられる(模擬国会の教育的意義については、さしあたりこちらを参照)。

主権者教育に関しては、その他検討すべき諸課題があるが、ここではともかく「18歳選挙権」の騒ぎに乗じて安易な「主権者教育」の既定路線が築かれることに警鐘を鳴らしたいのである。
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