研究ブログ

12345Next
2012/03/18

「東日本大震災ニュース分析」を公開しました

Tweet ThisSend to Facebook | by:kitamoto
東日本大震災から1年が過ぎました。震災1周年に向けて、私は2つのプロジェクトに取り組みました。一つは以前に公開したエレクトリカル・ジャパンのリニューアルですが、もう一つが1周年プロジェクトとして重点的に取り組んだもの、すなわち東日本大震災ニュース分析(3月12日公開)です。



このサイトは、東日本大震災直後からヤフーニュース(Yahoo! Japan News)で配信された震災関連記事20万件以上を整理し、震災直後から復興までの過程を振り返ることができるようにしたものです。残念ながら記事の本文は閲覧できませんが、タイトルを並べたタイムラインを眺めるだけでも、震災直後の緊迫した状況から、その中でも印象に残ったできごと、そして震災後に発生した諸問題の経過など、様々な側面から時間の流れを振り返ることができます。



またGeoNLPプロジェクトの成果を活用して、震災関連記事に登場する地名の分析と地名マップの構築なども行っています。これにより、市町村や小学校単位で記事のタイムラインを作ることも可能です。そして各地名の記事数を都道府県ごとに集約すると、日々の重要地名のように都道府県ごとの日々の記事数の推移を調べることもできます。その結果によると、一位は「福島」のことが多く、ときどき「宮城」が一位に浮上しています。やはりこの2県の記事が多いことが一目でわかります。

★★★

さて、この震災ニュースプロジェクト、私がいろいろ取り組んだ震災関連プロジェクトの中でも、実は一番初めに着手したものなのです。調査を開始したのは震災当日の3月11日、翌日の3月12日からはニュース収集を開始しました。私はデジタル台風:ニュース・トピックスという似たようなシステムを2003年から運用していましたので、これを少し改良すれば地震ニュースにも使えるのではないか、というのが私の最初のアイデアでした。

そこから急いでシステム構築に着手し、未完成の仮バージョンを「東北地方太平洋沖地震関連情報」の最初のコンテンツとして公開したのが3月16日。まだまだ改良すべき点は多々あったのですが、その時点で私は作業を中断することを決めました。それは福島第一原発事故の状況が日に日に悪化しつつあったからでした。

福島第一原発から放射性物質の拡散が始まるにつれて、「風向きデータがない!」ことに多くの人々が大騒ぎするようになっており、気象庁がデータを隠ぺいしているのではと疑う人々まで出る事態になっていました。またSPEEDI予測も公表されなかったため、人々は拡散予測を求めて外国気象機関のウェブサイトに殺到していました。それに対して、私の手元には気象庁による風向き(シミュレーション)データがあり、GPV Navigatorというサイトで公開もしていたのですが、一般の人々でもわかりやすい表現にはなっていませんでした。この状況で私ができることは何か。福島第一原発周辺の風向きデータをわかりやすく提供することではないだろうか。どう見てもそちらの方が、ニュース記事の整理よりも優先度が高いと思えました。

私の最初の構想は、震災ニュースプロジェクトを数日でさっと完成させてから風向きプロジェクトに移るというものでした。しかし作業が遅々として進まない間にも放射性物質の拡散は悪化するばかりで、私は焦りました。震災ニュースプロジェクトなどやっている場合ではないと。そこで震災ニュースプロジェクトは未完成バージョンのままで打ち切り、風向きプロジェクトに作業の重点を切り替えることを決めました。

そうして数日後に緊急公開したのが福島第一原発周辺の風向きマップです。可能な限り急いで作業を進めましたが、やはり作業切り替えの判断が遅すぎました。風向きマップを公開できたのは3月22日、放射性物質の大規模拡散が発生した3月15日や3月21日には間に合わなかったのです(参考:福島第一原発周辺の風向・風速を公開しました)。

その後も福島第一原発事故に関するデータ処理を続ける中で、震災ニュースプロジェクトは緊急性が低いと判断せざるを得ず、各種の作業は後回しとなりました。しかしこのことが、震災発生直後の記事収集における網羅性の問題につながりました。私は台風ニュースでの経験から、「地震」や「震災」というキーワードを含む記事を検索して収集すれば、震災関連ニュースはおおむねカバーできると考えていました。ところが少したって落ち着いてからチェックしてみると、「津波」というキーワードも必要だと思えてきて、これを追加することになりました。さらに「地震」等の言葉を含まない震災関連ニュースが存在することにも気づき、ヤフートピックスからも記事を収集することにしました。

さらに大きな問題となったのが「原発」です。ニュース収集開始時に、原発事故関連ニュースを震災関連ニュースに含めるべきかどうかという点に迷いましたが、原発事故と震災は区別して扱うべきだという妙に潔癖な考えのもと、あえて「原発」というキーワードは使わなかったのです。しかし今から考えると、東日本大震災と福島第一原発事故を「原発震災」という一連の災害として扱わなかったのは、事態の見通しを誤ったと言わざるを得ません。4月に入るとさすがに判断ミスが明らかになってきましたので、「原発」等のキーワードも含めることにしました。その後、可能な限り遡及的に収集してはみたものの、「地震」「震災」等のキーワードを含まない原発関連記事の一部がコレクションから漏れてしまいました。その詳しい状況については、サイトで扱うデータをご覧ください。

その後も震災ニュースプロジェクトは後回しの状態が続きましたが、記事収集だけは継続していましたので、震災関連記事は着実に増加していきました。記事数が10万を越え、1周年の日には20万にも迫ろうという状況を見て、そろそろ過去を振り返るのによいタイミングが来たと思いました。そこで1周年プロジェクトとして、震災関連ニュースの分析が可能なウェブサイトの構築に着手することにしました。震災直後に最初に着手したプロジェクトなのに完成は最後となってしまいましたが、開始からちょうど1年たった3月12日に、ようやく「東日本大震災ニュース分析」の公開に至りました。

今後はこのコレクションを、東日本大震災に関するメディア分析研究に使ってみたいと考えています。震災に関して何が報じられたのか。逆に何が報じられなかったのか。どこの場所がたくさん報じられ、一方どこの場所が見過ごされてきたのか、こうした問題についてメディア研究者などと勉強会を開きながら調査を開始しています。テレビやソーシャルメディアなどと比較した分析も重要です。そうした分析を続けながら、「次」の災害に備えたよりよいメディアの構築を考えることが長期的な目標になると考えています。

★★★

東日本大震災から1周年、これを機会に、震災後にまとめてきた各種データを東日本大震災アーカイブと位置づけ、長期的な取り組みにシフトしていく予定です。以下、これまでの経過をブログ記事でたどってみます。
2週間後の記事で取り上げた「今後の課題」については、少しずつ実現しつつあるところです。また、震災プロジェクトを機にいろいろな人たちとも出会いましたが、そうした縁が今後につながっていけばいいなと思っています。
23:40 | Impressed! | Voted(5) | Comment(0)
2011/11/28

「プロメテウスの罠」から考える科学・社会・行政の関係

Tweet ThisSend to Facebook | by:kitamoto
朝日新聞の「プロメテウスの罠」という連載記事が話題になっている。第3シリーズは「観測中止令」(2011年11月7日~2011年11月22日)。福島第一原発事故による放射性物質の拡散に関する観測と予測において、気象庁などの役所がどう動いたかという、私も強い関心を持っている話題を扱っていた。

まずはこういう話題を取り上げたことを高く評価したい。そして一連の記事の中で、私が特に関心を持った話題は、気象研究所からの論文公表や講演依頼が気象庁や気象研究所の上層部などの指示によって差し止めになった(?)という問題である。もしこれが本当なら、そこには公務員としての行動規範と研究者としての行動規範という異なる行動規範の衝突が生じていたことになる。もちろん職務上は、公務員としての行動規範に従う必要があるかもしれない。しかしこのような緊急時に公衆の利益になる重要な成果を公表しないことは、研究者としての倫理に反している可能性もある。そういう観点から、この事態の意味することを改めて検討する必要があると思うのである。科学と社会の関係はどうあるべきかという議論はこれまでも数多くあったし、科学コミュニケーションなどもその一つと言えるだろう。しかしそこに行政が介入してきて科学と社会の間を接続するチャネルが封鎖されたときに、研究者はどのように行動すべきなのか。それが今回の事態で問われたことだろう。私が日本気象学会の対応がおかしいと以前から言っている理由は、SPEEDIという行政システムのシングルボイスの下に研究者コミュニティを従属させ、社会と接続するチャネルを自らふさいでしまった点にある。

行政システムのような集権的な体制しかない場合、トップが判断ミスを犯したときに全体に大きな悪影響が及ぶことが今回の事故対応で明らかになった。ゆえに集権的なシングルボイス体制と並びたつ形で、自由に動ける多様なマルチボイス集団が社会には必要であると考える。そして研究者の役割は、自律的なマルチボイス集団をうまく維持して、シングルボイス体制と相補的な体制を作り出すことにある、というのが私の見立てである。もちろんマルチボイスであるがゆえの責任はある。多様性の中でもボイスの相互関係を説明するとともに、マルチボイスの中の共通性を取り出してなるべく少ない数のボイスに集約していくこと、などである。ただし放射線の人体への影響の議論などを見ていると、せいぜいダブルボイス程度にしか到達できないかもしれない。たとえそうだとしても、こうした集権的なシステムと自律的なシステムという複数のシステムを備えておくことには大きな価値があるはず。そして、そこに行政の過度なコントロールが及ばないようにするためのコンセプトが「学問の自由」なのだと思う。

一方、50年も継続した放射線観測が3月末に突然中止になった事件も紹介されている。もちろん観測を中止すべきでなかったのは明らかであるが、行政側の強い意思が働いて観測が中止に追い込まれたのかどうかについては、関係者の証言が錯綜していてよくわからない面がある。放射線観測がもともと縮小傾向にあったところに、関係者の以心伝心が食い違いを生み、局所的に下した状況判断が大局的に見ると大変まずい決断に至ってしまったという印象も受ける。例えば、中止命令が出た後も仲間の研究者の助けによって観測を継続したものの、後になってそうした観測を可能とした物品の「流用」をとがめられたというシーンが出てくる。なんとばかばかしいと思うかもしれないが、こういう杓子定規な対応は私の周囲でもよくあるもので、「嫌がらせ」ではなくルールに基づくまじめな仕事の結果であることも多いのである。「流用」に対して10円単位でも予算を返せというのか、と記者は皮肉のつもりで(?)疑問を呈しているが、そういう杓子定規な対応を招いた一端はマスメディアにもあるのでは、とここは突っ込みを入れたくなるところである。東日本大震災の復興においても、各地で杓子定規な対応が不満を呼んでいる。個人がルールに基づく「まじめな」対応をすると、現場の実情に応じた臨機応変な対応ができなくなり、全体として物事がうまく進展しなくなる。世の中全体に広がっている、大きな理念よりも細かいルールを優先する公務員的行動規範の矛盾を追及しない限り、いくら特定の個人を責めたって問題は解決しないのである。

だんだん「プロメテウスの罠」の悪いところに進んでいく。この点については、記事よりは長官記者会見要旨(平成23年11月17日) を見たほうがわかりやすい。ここには今回の記事を受けたと思われる質疑応答があるが、特に後半の質疑応答があまり意味のない方向に進んでいる(注1)。例えば「SPEEDIと気象庁との分担の問題」については気象庁の主張に分がある。拡散予測が国内で公表されなかった最大の責任はSPEEDIを公表しなかった文部科学省にあり、少なくとも気象庁には大きな責任はない(今後改善すべきという議論はありうる)。また「気象庁がIAEA向け拡散予測を隠蔽(?)した問題」も、以前にも述べたとおりIAEA向け拡散予測は国内対策には使えないものなのだから、これが公表されていたかどうかで事故対策に本質的な違いは生まれない。それに関連した「気象庁のシングルボイスの問題」についても、迅速な公開さえ担保されるのであれば、行政がシングルボイスであること自体はあまり問題ではない(そして実は国民の間にもそれを望む意見がある)。むしろその概念が拡大解釈されて、研究者コミュニティである日本気象学会までもが情報公開をためらうようなことがもしあるのであれば、それこそが問題だというのは先述の通りである。

行政対応のまずさの問題や行政の非効率の問題と、行政から科学への干渉の問題とは、本質的に異なる問題である。そして私としては、後者の問題をもっと取材してほしいのである。前者の問題は他の人でも追及できる。この連載を担当した中山由美記者には、ぜひ科学的視点からこの問題をさらに追及してほしいと願っている。

注1:この部分の質疑応答が誰によってなされたかは気象庁のページでは公表されていないので、「プロメテウスの罠」とは別の記者が質疑をしている可能性もある。

追記1:記事中の「森ゆうこ」議員の「活躍」については、疑問も呈されていることを付記しておきたい。森の一言によって予算が復活したかどうかは、森自身の証言によって確認できたわけではないようだ。

追記2:関連する話題を「数学セミナー2011年12月号」に書いた。タイトルは「SPEEDIによる放射性物質拡散シミュレーション/理想と現実の狭間から見えてきた問題」。この号には東日本大震災に関連するシミュレーションの記事が満載なので、ぜひ読んでみてほしい。
23:00 | Impressed! | Voted(9) | Comment(0)
2011/09/27

津波の高さとその怖さを伝えるには

Tweet ThisSend to Facebook | by:kitamoto
9月26日は伊勢湾台風が1959年に上陸してから52年目の日でした。50周年だった2009年に大々的なイベントをやって以来、あまり話題にもならなくなりましたが、未だに第二次大戦後の日本では最大の風水害であることは忘れてはなりません。その名古屋では、先日の台風15号でも川の氾濫で被害が出たことは記憶に新しいところです。

その2009年、我々は伊勢湾台風メモリーズ2009というイベントを開催して、高潮の怖さを人々に伝えようと試みました。このイベントについては、以下の記事で以前に紹介しました。


基本的なアイデアは「高潮を実寸大で投影することによって、高潮の水位を実感できるようにしよう」というものでした。以下はバーチャル版を使って生成した、高潮の水位(4.55メートル)と人間の身長(180センチメートル)との比較画像です。



「4.55メートルの水位」というのを文字で見るのと、その水位が目の前で上がっていく様子を見るのとでは、感じ方は全く異なりました。自分の身長をはるかに越えて上昇していく水位を見て、ああこの波に飲まれたら助からないなと実感した人も多かったのです。

そして今年の3月。東日本大震災の津波映像を見ながら、私はこのイベントのことを思い出していました。津波の高さは伊勢湾台風の高潮をはるかに越えており、場所によっては15メートルや20メートルに達していました(なお遡上高は40メートルですがこれは津波の高さとは異なります)。そして東日本大震災の被災地を訪ねるでも書いたように、実際に現地に行って津波の影響を見たとき、この怖さをどうやって伝えていけばよいのだろうと考えさせられました。

もちろん15メートルや20メートルの壁があれば、伊勢湾台風メモリーズ2009と同じ仕組みで実寸大の津波を投影し、その高さを実感することはできます。しかし15メートルや20メートルというレベルの高さになってしまうと、もはやそれは自分の身長に比べてあまりに高すぎるので、「うわ、高い」という感想しか出てこないような気もします。それが果たして有効な方法なのか、どうも自分でもよくわからなくなりました。

津波の怖さは水位だけでなく、他の情報も使って伝えていく必要があるでしょう。今の時点で特によいアイデアがあるわけではないのですが、これから考えていかねばならないと思っています。
01:00 | Impressed! | Voted(2) | Comment(0)
2011/09/18

東日本大震災被災地の半年後を訪ねる

Tweet ThisSend to Facebook | by:kitamoto
東日本大震災から半年を迎えました。先日9月11日の14:46に目をつぶって黙祷を捧げていると、最近訪ねた被災地の姿が目に浮かんできました。

被災半年の直前となる8月末。私は福島県から岩手県まで4日かけて、被災地の現状を見る旅に出ました。走行距離は1500キロ近くという駆け足での旅でしたが、今後の研究および被災地支援の参考のために全体像を見ることを目的に、じっくり見たり何かをしたりするのではなく、ひたすら見て回ることに徹しました。

そこで見たことを詳細にまとめているとこのスペースには書ききれないので、箇条書き風にいくつかの点をメモしてみたいと思います。



がれきの片付け(=がれきをある場所に移動し集積すること)はいちおう進んでいました。ただし時間も費用もかかるコンクリート建造物や巨大人工物の解体はまだまだこれからという感じです。また交通不便な奥の方へと行けば行くほど、片付けが済んでいない場所は増えていきます。ある一部の場所だけを見て全体の進行状況を判断するのは危険で、地域ごとに大きな差があることを感じました。泥かきボランティアをしている人たちとも少し話をしましたが、まだまだボランティアの力は必要なので、長期的な支援を忘れないでほしいとのことでした。



被災前の土地の景観を知らないと、具体的な被害の状況は想像しづらいことを感じました。がれきが片付いた場所は、現在は一面の「草原」のようになっています。どこが家でどこが農地だったのか、遠くから見るだけでは見当がつきません。近くまで行くと建物の基礎が草むらに埋もれているのが見えてきて、ああここは生活の場所だったんだということがわかるという状況です。そんな中で私でも比較的想像しやすかったのが鉄道の跡地です。駅があったはずの場所に何もありません。ということは、駅舎、駅前広場、それを取り囲む商店、その周囲の住宅、すべてなくなったということです。「あるはずのものがない」というこの強烈な違和感を覚える「草原」というのが、とにかく今回は印象として残りました。



もう一つ印象に残ったのが地盤沈下です。海沿いの場所の中には、地盤沈下によって海水が入り込むようになった場所がありました。潮が満ちてくると、ブクブクと水が湧きだしてくるところもあります。ああ、地盤沈下した場所の復興は本当に大変だなと重苦しい気持ちになりました。海水につかっていない場所に比べて、復興のためにやるべきことがさらに多くなります。そうした場所に今も暮らす人々の生活をテレビ番組で拝見したことがありますが、実際に現地で海水がタプタプと流れ込む様子を見て、その精神的なショックは相当に大きいだろうことを感じました。



相馬や名取では、延々と続く津波被災地の大きさを感じました。海岸沿いは防風林がところどころに残ってはいるものの、海岸沿いにあったはずの家などは何もなくなっています。そんな場所が何キロ、何十キロにもわたって延々と続くのです。地を這うように陸地に侵入してきた津波がすべてを飲み込みつつ進んでいくさまを想像しました。またこの地域では、国道6号線(陸前浜街道)が津波が到達するかどうかの境界線になりました。おそらくこの街道は過去の津波被害によって決まったルートなのでしょう。そうした過去の経験を踏まえて、今後の土地利用や津波からの避難方法を考えていかねばならないと感じました。



女川、雄勝(石巻)付近では、津波のとんでもない高さを感じました。数階建てのビルでも全体が浸水して、高台まで浸水した跡があります。津波の高さは平時には想像もできない高さで、単に水位を伝えるだけでは実感がわかないかもしれません。映像などとともに伝える必要があると思いました。また女川ではこれら倒壊したビルを保存する計画もあるそうで、これらが東日本大震災とその津波災害のシンボルとなって、津波の怖さを後世に伝えていくものになるかもしれません。



陸前高田では、大きな町の中心部がまるごと消えてしまうことの衝撃を感じました。海岸沿いの低地からかなり奥の方まで、低い土地の建物は軒並み津波で消えてしまっています。広いエリアがさえぎるものなく一望できることに驚くと同時に、この広大な被災地域をどうやって復興していくのだろうと途方に暮れる気持ちにもなりました。小さな集落であれば全面的な高台移転も可能でしょうが、これほど広い地域を丸ごと高台移転するというのはやや非現実的ではないかという印象も受けます。一方で平地に再び住むのであれば、津波に強い建造物、都市計画、そしてコミュニティを再建していかねばなりません。高台移転は津波への究極の対策ではありますが、町ごとに地形的な要因が違いますので、一律に論じることはできないことを実感しました。



宮古市田老地区では、防潮堤の意味を考えました。田老地区では総延長2.5キロに及ぶ長大な防潮堤を築いて津波に対する万全の備えをしてきたつもりでしたが、今回の津波はこの防潮堤さえ乗り越えて、多くの人々が津波の犠牲となってしまいました。一方、宮古市の北にある普代村では、太田名部地区の15.5メートルの防潮堤や中心地区の15.5メートルの水門のおかげで、高さ14メートルの津波から集落を守ることができました(岩手県普代村は浸水被害ゼロ、水門が効果を発揮 )。確かに普代村の防潮堤は他の場所に比べて一段高いので、その高さが運命を分けたことは納得できました。では他の地区も同じく高くすれば良かったのでしょうか。田老地区の防潮堤は普代村の10倍も長いことを考慮すれば、全体を同じ高さにまで引き上げるのに必要な費用は全く異なるでしょう。ここでも地形的要因の違いを無視して、一律に防潮堤の高さだけを論じることはできないことを感じました。



宮古市姉吉地区では、「ここより下に家を建てるな」という先人の言葉が刻まれた石碑の意味を考えました(具体的な言葉は津波ディジタルライブラリィの中の宮古市の一覧を参照してください)。人々はこの石碑の言葉を守って高台に集落をつくったため、観測史上最大の遡上高40.4メートルの津波を受けたにも関わらず、住家が流されることはありませんでした。この津波は石碑を少し下ったところまで迫りましたので、この石碑より下に家があれば津波が到達していました。その意味ではこの石碑が集落を救ったというのも確かです。とはいえ、姉吉地区に特有の地形的条件も影響していることを感じました。姉吉地区では、港の近くか、石碑より上の小さな平地か、家を建てるとしたらその二択しか選択肢はなさそうでした。しかし、もしなだらかな地形の途中に石碑があったら、教えを守り続けることはもっと難しかったかもしれません。この石碑の精神を他の地区に広げていくためには、そうした問題も考慮しなくてはならないと思いました。また現代の我々がこの石碑に相当する津波記憶装置をどうやって作ればよいかも大きな問題です。石碑に刻まれた言葉はおよそ100文字。現代でいえば1ツイートに収まる内容です。そんな凝縮した表現に思いを込めることができたのは素晴らしいことではありますが、現代の我々はもう少し多くの情報量で伝えていく必要があるのかなと考えています。



釜石市鵜住居地区では、津波教育の効果を考えました。今回の津波では、釜石市の学校で犠牲者が少なかったことが話題になりましたが、その大きな理由は近年に釜石市で群馬大学の片田敏孝教授が中心になって実施した津波教育にあると言われています。詳しい内容は速報:釜石が繋いだ未来への希望 -子ども犠牲者ゼロまでの軌跡-のページや小中学生の生存率99.8%は奇跡じゃないの記事に紹介がありますので、ぜひ読んでみてください。「津波てんでんこ」の精神を肌で理解し、自ら状況を判断しながら津波から避難した子供たち。その一例として紹介された鵜住居地区で、子供たちが実際に避難したルートを確かめてみました。学校からだとしばらくは平らな道が続くので、たとえ走ってもそれほど高度を稼げなさそうな印象です。背後から津波が迫ってくる恐怖は大きかっただろうと想像します。そんな中でも、津波に対して子どもたちが的確な判断を重ねていったことは素晴らしいし、私が今回の震災で最も感動したストーリーの一つでもあります。ぜひこの経験を他の場所にも広げていけないものかと思いました。なお、上の写真はこの学校の生徒が作った看板です。釜石東中学校は看板の先、向かいの山のふもとにあります。



最後に福島県中通りは、ほとんど通過するだけになってしまいましたが、スーパーなどで買い物してみた感じでは、表向き日常の生活パターンが戻りつつあるように感じました。町には人が歩いているし、店には人々が買い物に来ているし、子供たちが自転車に乗って走り回っているところもあります。もちろん放射能の問題はまだ解決からほど遠い状況ですので、以前の生活に完全に戻ることは難しい状況でしょう。ただ人々がそうやって以前の生活パターンを取り戻そうと努力しているとき、外部の人間が情報提供の域を越えてあれこれ口を挟むのは余計なことではないかとも感じました。我々はこの放射能問題を決して忘れず、除染に最大限協力していくべきだと改めて思いました(「までい」の村、飯館を襲った放射性セシウム汚染)。



結局のところ今回の旅では、YouTubeで見た津波映像に写っていた場所を訪ねることが多くなりました。私にとってはそれらの映像が、津波前と津波中の光景を想像するための事実上唯一の手段だったからです。それは津波被災地有名スポットめぐり観光ではないか、という批判はあるでしょう。そういう面があることは私も否定できません。しかし被災地外(東京)の人間にとっては、やはり津波映像は津波の怖さを知るための最も有効な手段であり、震災の記憶が映像を元に形成されていくことも避けようがないことを実感しました。



津波映像を通して知った、大船渡で「かもめの玉子」を製造販売する「さいとう製菓」。その専務が撮影した津波DVDが「さいとう製菓」店頭で販売されていることを陸前高田仮設店で知りました。専務はこの映像をできるだけ多くの人に見てもらうことによって、津波の怖さと避難の重要さを伝えていきたいということのようです。これらの津波映像は今回の地震が我々に残した本当に貴重な資産です。被災地の外で将来への教訓として活かしていくことはもちろんですが、将来的に被災地がある程度復興したころには、これらの津波映像を現地で見られるようにする(例えば拡張現実的に現在の光景にオーバーレイする)ことも考えられます(ただし今はまだ時期尚早です)。そして映像に加えて写真や文章を組み合わせることにより、津波という大惨事の記憶を多様な視点から後世にアーカイブしていくことが重要な課題だと改めて考えました。



震災から半年、自分にできることはデータの整理と提供、説明にあると考え、主に東京から発信を続けてきました(2011年3月 東北地方太平洋沖地震関連情報)。今後はもう少し現地とつながり、複数人の協力に基づくプロジェクトに関わっていけたらと考えています。

(追記:2012-01-03 現地で撮影した写真を追加)
19:00 | Impressed! | Voted(5) | Comment(3)
2011/08/17

エレクトリカル・ジャパン(発電所マップ+夜景マップ)を公開中です

Tweet ThisSend to Facebook | by:kitamoto
最近、空き時間を投入して進めてきたプロジェクト(グーグル風に言えば20%プロジェクト?)があります。それがエレクトリカル・ジャパン - 発電所マップと夜景マップから考える日本の電力問題です。7月20日に公開して以来、少しずつ改善を進めています。



このサイトは、東日本大震災以来の電力問題を考えるための基礎データとして、全国の発電所データを整理しようという考えのもと、始まったものです。ネット上に存在する発電所データベースはどれも部分的なもので、種々の発電方式を対象に全国を網羅したようなデータベースは見つけられませんでした。「ないなら自分で作ろう」と思いました。特に、地球の夜のあかりと電気エネルギー問題で紹介した「夜景マップ」と重ねて、電力供給と電力消費を比較するというアイデアが最初からありましたので、できるだけ多くの発電所を地図にマッピングすることを基本方針としました。

しかしまあこれが始めてみると大変な作業で、なぜこういうデータベースが存在しないのか、がわかる気がしました。その苦労については発電所データベースにまとめましたのでここでは繰り返しませんが、未だにデータの修正は続いていて完成とは言えない状況です。ただし、徐々に大きな誤りはなくなりつつあり、使える状態にはなってきています。

さて、データベース活用機能に関するアイデアはいろいろありますが、現状ではデータそのものの整備に時間を割いているために、機能の向上は後回しになっています。ただし簡単な検索機能はすでに提供しています。例えば電力会社・発電方式絞り込み検索では、東京電力の発電所の一覧や、原子力発電所の一覧(下図)などを見ることができます。また発電方式・発電出力絞り込み検索では、発電方式ごとにどのような大きさの発電所が多いのかなどを調べることができます。火力や原子力に比べて、再生可能エネルギーである風力や太陽光の出力がいかに小さいのかなどを実感することができます。さらに名前で検索する機能として、発電所名・事業者名検索(一覧表示)発電所名・事業者名検索(個別表示)があります。それぞれ機能は微妙に異なりますが、使ってみればわかると思います。



さて、この発電所マップを見ると、ほとんどの人が異口同音に同じ感想を漏らします。「日本に水力発電所がこんなに多いなんて知らなかった」という感想です。発電所データベースにはすでに1933箇所の水力発電所を登録しています(下図)。全国くまなく存在する水力発電所の分布から、先人達がどれだけ水力エネルギーを利用したかったのかが伝わってくるでしょう。もちろんその過程では、水力発電のみが原因ではないとしても、多くの村々がダムの湖底に沈むという犠牲があったことを忘れてはなりません。そのような多大な努力と犠牲の上に開発されてきた水力エネルギーですが、現在では全発電量(実績)の10%程度を占めるに過ぎなくなりました。主力は火力と原子力に移っていったのです。



その原子力が大きな問題を起こしたいま、将来のエネルギー構成をどうしていくかが活発な議論の的となっています。この問題については改めて考えてみたいと思いますが、大事なことはデータを基に議論を整理することでしょう。世間には非常に混乱した議論も見受けられます。短期と長期の区別、ピーク電力とベース電力の区別、集中型と分散型の区別、議論の前提を揃えておかないとかみ合わない議論が続きます。理想論かもしれませんが、わかりやすいメッセージを言うだけではなく、実現可能性やその道筋などをきちんと明確にすること。そのための基礎となるデータを、いろいろな機関や人々が整備して、どんどんネット上で公開してほしいと願っています。

最後に個人的なことを少し。私は実は電気・電子工学科の出身なのですが、そういう出身でありながら電気のことを忘れつつあった自分を反省するためにデータベースを作りながら少しずつ勉強しており、それが目的の一つになっているという面はあります。そして、さらに個人的なことですが、私には実は「鉄塔萌え」なところがあります。育った家から鉄塔が見えたということが主な原因だと思うのですが、「あの鉄塔はどこにつながっているんだろう」「あの鉄塔の形は変わっているな」と、鉄塔が視界に入るたびに視線が動いてしまうのですよね。鉄塔がつながる発電所が気になる。そういうこともあって、この発電所データベースはやや趣味も入ったものなのかもしれません。

いずれにしろ、20%プロジェクト&震災プロジェクトとして、今後もこのサイトは少しずつ発展させていこうと考えています。最新情報は@electricalJapanへ、またデータ修正・追加にもぜひご協力下さい。
23:30 | Impressed! | Voted(3) | Comment(0)
2011/07/12

北海道南西沖地震から18年を迎えた奥尻島

Tweet ThisSend to Facebook | by:kitamoto
北海道南西沖地震から今日で18年を迎えた。この地震は、私の原体験の一つと言えるかもしれない。災害によって町が消えてしまうことの恐ろしさ、それを最初に感じたのがこの地震だったからだ。

北海道南西沖地震が発生したのは1993年7月。その確か2年前の1991年夏(もしかすると1992年だったか?)、私は奥尻島を旅行していた。後に北海道南西沖地震の被災地として有名になった奥尻島であるが、実は当時はこの島のことをあまり聞いたことはなく、旅行に同行した友人がたまたまここを行き先の一つに選んだのだった。江差町からフェリーで渡った奥尻島は、のんびりとした空気が流れる島だった。海岸に行くと浅い海水の中にウニが転がっており、自由に簡単につかまえることができた(北海道側では手づかみできるところにウニはいないだろう)。民宿ではウニ丼が出たし、海産物の食事もおいしかった。食後は同宿の人たちにビールをおごってもらって、いろんなことを話した。

島はレンタサイクルで一周した。そんなに小さな島ではないし、島中央部の峠越えもあるので決して楽な道のりではないが、車もあまり通ってないので自転車でも走りやすいことは確かである。西海岸には温泉があって途中でひと風呂浴びた。峠を越えた下り坂ではスピードを出し過ぎて転倒し、すり傷を負ったことを覚えているが、その後どうなったんだっけ。しばらく痛かったはずだが、あまり記憶がない。

そんな奥尻島旅行で泊まったのが、青苗地区の民宿だった。そこが津波で壊滅したニュースを見た時、信じられなかった。テレビに映し出される映像には、津波に襲われて瓦礫となり、炎上を続ける家々があった。町が津波でまるごと消えてしまった、民宿の人たちはどうなったんだろう、あの場所は二度と見ることができないのか、といろいろな思いがこみ上げてきた。この地震のあと、私は旅行先でやたらと写真を撮っていた時期があったが、そこには「目の前の風景がある日突然失われることがあるのだ」という奥尻島での体験が影響していた。今風に言えば、町のアーカイブをいま記録しておかないと、この風景は永遠に失われてしまうかもしれない、ということである。私が初めて災害義援金を出したのもこの北海道南西沖地震だったし、直接の被災者ではないものの「痛み」のようなものを初めて感じたのがこの災害だったように思う。

あれから18年、北海道南西沖地震の被災者たちは、東北地方太平洋沖地震の津波災害を見て18年前の自らの体験を振り返り、「災害を伝える」ことに新たな使命感を覚えているそうだ。今回の東日本大震災によって、改めて注目がよみがえった奥尻島。あの地震のあと、私は一度も奥尻島を再訪していない。東京からだとなかなか遠い島ではあるが、またいつか行ってみようかと懐かしい気持ちになった。
22:30 | Impressed! | Voted(3) | Comment(0)
2011/07/10

「までい」の村、飯舘を襲った放射性セシウム汚染

Tweet ThisSend to Facebook | by:kitamoto
今日は中山間地域フォーラムが開催する以下のシンポジウムに参加しました。

中山間地域フォーラム 総会・設立5周年記念シンポジウム 「『早期帰村』実現の課題-福島県飯舘村」

ここ数年私が共同研究を続けている東京大学の溝口勝教授に加え、福島県飯舘村の菅野村長も講演するとのことでしたので、現地の状況を知るいい機会だと思ったのです。そして本日の私の大きな収穫は、今さらなのですが、飯舘村がどんなところかを知ったこと、なのかもしれません。

飯舘村の名前は、福島第一原発事故関連のニュースで繰り返し聞いていました。また私自身も福島第一原発周辺の風向きマップ福島第一原発事故後の放射性物質の拡散と気象データの関係、さらには福島第一原発事故タイムラインなどを分析するなかで、飯舘村がどこにあってどのぐらいの放射線量を記録しているかについては理解していました。しかし、肝心の「どんな村なのか」については、まるっきりわかっていなかったのです。

まず感銘を受けたのは「までい」の村というコンセプトです。飯舘村では当初これを「スローライフ」と呼んでいたそうです。スローライフという言葉も確かに一時期流行りましたので、都会の人にはある程度なじみのある言葉かもしれませんが、そんな外国語からの借り物の概念では村民の方々が実感するには至りませんでした。ところがそれを方言の「までい」という言葉に置き換えてみたら、誰もが「ああ、それならわかる」と言い出し、そこから「までい」というコンセプトが人々の間に浸透していったというのです。村が目指す方向が一語で表せ、しかもそれが味わい深い方言の言葉だった、という点がまず素晴らしいと思いました。

そうした経緯をまとめたのがまでいの力という本です。「までい」の意味などもこの本には紹介されています。実はこの本、当初は2011年3月に発行する予定でしたが、東日本大震災を受けて急きょ村長のまえがきページを差し替え、2011年4月11日に発行したというすごいタイミングの本なのです。最初のページにはこう書いてあります。

ここには2011年3月11日午後2時46分以前の美しい飯舘村の姿があります

3月11日まで、飯舘村は「までいの村」のコンセプトのもとに様々な試みを続けてきました。パネルディスカッションでは、民宿を経営する佐野ハツノさん(上記の本にも登場する人)のお話も大変面白かったのですが、佐野さんが活躍するきっかけとなったのがふるさと創生事業の資金を使ったヨーロッパ研修旅行だったというのは驚きました。無駄な使い道が散々指摘された同事業ですが、飯舘村では人材にきちんと投資したおかげで、資金が有効に生きていたのです。彼女のその後の努力と活躍、そして「までい」の力への思い、それも原発事故によってめちゃくちゃになってしまいました。

飯舘村の菅野村長は、2年後に帰村するという「早期帰村」プランを訴えます。今の避難生活のままでは犠牲が大きすぎるので、なんとか早く帰りたい、そのためには村民をもっと信頼して任せてほしい、と言うのです。この2年というのは、ずいぶん大胆な提案だなと最初は思いました。放射性セシウムの半減期は30年。しかも放射能汚染地図でも明らかなように飯舘村は高濃度汚染地域であり、普通に考えたら相当長期間にわたって戻れない可能性も否定できないのです。しかし村民にとっては村に再び戻ることが最優先の課題であって、それをどう実現するかを考えたいと。

いろいろ議論を聞いているうちに、なるほど、もしかするとこれこそが本当のチャレンジなのかもしれない、と思い始めました。チェルノブイリと福島は何が違うのでしょうか。チェルノブイリは情報も開示しなかったし対策も取らなかったので、多くの犠牲者が出て数十年も住めない土地になった。しかし福島は開示された情報をもとにみんなが全力で除染を進めたので、数年で住める土地に戻った。もしそんなサクセスストーリーができれば、これこそが世界に誇れる素晴らしい成果なのではないでしょうか。

3月11日以後、脱原発に関する議論が激しさを増しています(昨日の記事)。しかし、放言めいた言い方にはなりますが、3月11日以後における脱原発は、もはや以前ほどチャレンジングな課題ではなくなったという面があると思います。3月11日以前は、確かにそれは非常に困難な課題でした。しかし多くの国民がそれを口にする今となっては、流れの中で実現する可能性も出てきた課題とも言えます(少なくとも不可能というほど困難ではないということ、ただしそもそも脱原発は現実的なのかという問題は別の記事で検討します)。つまり、何が果たして真にチャレンジングな課題なのか、冷静に考える必要があります。

むしろ本当にチャレンジングな課題は、福島第一原発事故を収束させ、かつその周辺から避難した人たちが元通りの生活を取り戻せるように復興することにあるような気がしています。その解決策はまだ見えてませんし、多くの研究と大胆な解決策が必要で、それは脱原発よりもはるかに困難な課題になるでしょう。日本の現首相も歴史に名を残したいなら、チェルノブイリ事故対策よりもはるかに優れた福島事故対策で見事に住民を帰還させることで名を残すべきではないでしょうか。いずれにしろ脱原発のエポックメイキングな人物は、世界的に見ればドイツのメルケル首相になるでしょうから。。。

シンポジウムのパネルディスカッションでは、飯舘村全体の除染の方法として、放射性セシウムを含む粘土を洗い流す方法が提案されていました。この方法では、上流から下流(南相馬市方面)に影響が及んでいきますので、そう簡単に使える方法ではないとのコメントもありました。しかし自然に任せて、今後数十年間にわたって微量の放射性セシウムが流れ続ける未来を選ぶのか、それとも多少人為的で強引な方法かもしれませんが、最初の数年間を我慢すれば後は放射性セシウムをあまり心配しなくてもよい未来を選ぶのか、まさにそのような重い選択が問われているのでしょうし、そこにこそ福島第一原発事故の解決に向けた強い意志が必要になってきます。チェルノブイリと同様に「自然な半減期に任せる」というのでは、あまりにも受け身で無力です。むしろ原子力災害に対して徹底的な除染で立ち向かう人々の協力からこそ、日本が世界を感銘させるストーリーが生まれるのではないでしょうか。

というようなことを考えさせられたという点で、福島第一原発事故および飯舘村に関する見方が変わったシンポジウムでした。「までい」の村、飯舘が、一日も早く元の生活を取り戻せるよう、研究者も分野を越えて協力していく必要がありますね。
23:45 | Impressed! | Voted(3) | Comment(0)
2011/07/09

地球の夜のあかりと電気エネルギー問題

Tweet ThisSend to Facebook | by:kitamoto
本日、関東地方は平年よりも12日早く梅雨明けしました。今年の日本付近の天候は全般的に季節の進行が早く、沖縄地方からスタートした夏はコンスタントに平年より早く到来してきました。そしていよいよ、関東地方でも節電の夏が始まったのです。

そう、節電の夏。今年の人々の大きな関心事はエネルギー問題です。そのエネルギー問題を啓発する時によく使われる素材が「地球の夜のあかり」の画像です。そこで本日、以下のサイトを公開しました。

夜の地球:DMSP衛星によるNighttime Lights Time Seriesデータ(1992年〜2009年:Google Maps版)



これは、DMSP衛星という夜のあかりを観測できる衛星を用いて作成した、各地の1年平均の明るさ画像です。明るい場所ほど明るい色づけになっており、日本では関東地方や関西地方、そしてそれらをつなぐ太平洋ベルト地帯が特に明るいことがわかります。厳密にいえばこの明るさは必ずしもエネルギー消費に比例するものではなく、関東地方などは振りきれてしまっていますが、発展途上国などであれば夜の照明がエネルギー消費を比較的よく表すことから、これを使った人口分布や経済活動などの推定に関する研究が進んでいます。

私のウェブサイトでも、夜の地球:DMSP衛星によるNighttime Lights of the Worldデータというページで、1994年から1995年の画像をずいぶん以前から公開していました。今回は別のデータセットを用いて、1992年から2009年の1年ごとの画像をグーグルマップで拡大縮小できるようにしました。以前のバージョンよりはだいぶ便利になったと思います。

この画像からは、いろいろなことがわかります。日本は1992年から2009年の間にあまり変化していませんが、中国にスクロールしてみると、この期間に大きく変化している(=明るくなっている)ことがわかります。もちろんそれに合わせて、同国のエネルギー消費量も飛躍的に拡大したのです。またこの画像の一種の「名所」となっているのが、韓国と中国に挟まれた某国です。ここ、周囲に比べると不自然に暗いですよね。1か所だけぼんやりとしたあかりが見えますが、他は真っ暗です。しかも国境線みたいなものまで見える。まあ、この国のエネルギー消費が少ないことは一目瞭然ですが、かといって北朝鮮を「エコな国」と呼んでいいのかは微妙なところです。

またこの画像は、災害時における被害推定にも関連しています。上記のページにもリンクがありますが、Power Outage Detection Images For The March 11, 2011 Japan Earthquakeには、東北地方太平洋沖地震後の東北地方における夜のあかりの変化が見えています。停電になると前日と比較して暗くなりますので、その変化を見るのです。曇っている日は使えない、解像度もあまり高くない、といった弱点があることから精密な被害推定にはあまり使えませんが、宇宙からリモートセンシングを用いて地球を観測すると、「地震の爪痕は地球の夜景の変化として見える」ことは覚えておいてよいと思います。

さて今回の大震災では、東北地方だけでなく関東地方でも、計画停電の影響で真っ暗な夜を迎えた地域がありました。この計画停電の心理的なインパクトは相当に大きかったと思います。大震災前には電気エネルギーの問題を真剣に考えてきた人は少なかったかもしれませんが、計画停電で否応なく現実を突き付けられ、さらに原発の再稼働問題が全国的に拡大することで、電気エネルギーの問題は全国民が影響を受ける問題に拡大してきました。

そんな中、本日の夜は、NHKでシリーズ原発危機 第3回 徹底討論 どうする原発 第一部・第二部という番組を見ました。原発に賛成する人たち、反対する人たちを同じテーブルにつけて、日本の政治や各国の動向も踏まえながらお互いに議論しようという趣旨の番組です。番組に寄せられる意見の数からしても、視聴者の関心は大変に高いことが伝わってきました。

私自身も、最近は電気エネルギー問題に関していろいろな資料を読んでいます。その過程で感じるのは、一人の人物、一冊の本を鵜呑みにして何かを判断するのは危険だということです。あくまで私の印象ですが、この分野では「ポジショントーク」、つまり自分の立場が有利となるように言説が組み立てられている点を割り引いて考えないと、公正な比較は難しいのではないでしょうか。本日のNHKの番組でも、自分に有利な点を話し、自分に不利な点は話さないという偏りは、両陣営に見られたと思います。両陣営のトークの真ん中ぐらいが正しいよ、というような率直な(?)発言もありました。

福島第一原子力発電所におけるこれだけの大事故を見てしまっては、再生可能エネルギーの推進に向かうのも自然な流れでしょう。ところが「脱原発」と叫ぶだけで満足してしまっては、「ではどのような再生可能エネルギーを使うの?」という具体的な話に発展していきません。そして、具体的な話に入っていくと、風力派もいれば太陽光派もいるし、地熱派もいる、また系統の問題や発送電の分離など、各論では一筋縄にいかない部分も出てきます。そこをすっ飛ばして、わかりやすいメッセージだけで満足してはいけないと私は思います。

そこで必要になるのがデータです。番組の最後には「正確なデータが欲しい」ということが繰り返し語られていました。データがなければ正しい判断はできない。政府や電力会社はもっと公正なデータをオープンにすべきではないか、と。

私も同じ考えです。情緒や思いつきではなく、公正なデータの分析に基づいて政策決定すること、これが今の日本で強く求められていると思うし、私もそういう部分に貢献したいと考えています。本日公開した「夜のあかり」データは、これだけで何かを判断できるものではありません。しかし今後は、大震災を機に浮上したエネルギー問題に対しても、何らかの有用なデータを出していければと考えています。
23:30 | Impressed! | Voted(3) | Comment(0)
2011/05/31

東北地方太平洋沖地震後の活動 - 5月末時点での状況

Tweet ThisSend to Facebook | by:kitamoto
東北地方太平洋沖地震の発生から2ヶ月半以上が経過しました。私も地震の直後に「私に何ができるのだろうか」と考えた結果、以下のように課題をまとめました。

福島第一原発周辺の風向・風速を公開しました

  1. 気象データおよび放射線データの可視化
  2. 自然言語文ジオコーディングソフトウェア(GeoNLP)の開発
  3. デジタル震災文庫の構築
この2ヵ月半、本業プロジェクトと並行しながら主に1の課題に取り組んできました。そして5月末までの作業で、当初に想定した課題はおおむね完了したような区切り感を得ました。そこで本記事では、今までの2ヵ月半に何をしてきたのか、この機会に全体像を振り返ってみたいと思います。

なお、地震後の状況から気象データが最も活用できる事案は福島第一原発事故と判断して、その問題に集中的に取り組むことにしたため、東日本大震災の被災地は東日本全体に広がっているにもかかわらず、以下の取り組みは福島第一原発事故関連が主となっています。しかし、今後はもっと広い範囲に対象を広げていきたいと考えています。

リアルタイム更新観測・予測データ



地震の翌日あたりから福島第一原発事故の行方が大きな注目を浴び始め、風向き情報などの気象情報に強いニーズが発生しました。しかし私自身、最初の数日は後述するメディア情報の整理に注力していたため、原発の爆発から拡散に至る時期、すなわち気象情報へのニーズが最大に達した時期には、まだシステムの構築に取り組んでいる最中でした。そして最初のリアルタイム系データである福島第一原発周辺の風向きマップを公開できたのは3月22日、つまり関東地方に大量の放射性物質が沈着した日の翌日でした。後から振り返れば、肝心の時に間に合わなかったともいえます。

もし初日から風向きマップに取り組んでいれば、3月15日の大放出は無理だったとしても、3月21日の大放出には確実に間に合ったでしょう。その意味で見通しを誤ったという面も否定できませんが、緊急時に多数の作業を並行して進めるのは困難なことも確かで、優先順位付け(トリアージ)は常に考慮しなければなりません。そうした優先順位付けを結果論であれこれ考えるよりは、個々の作業を超高速で片付けられるようなインフラを災害前に整備しておくことの方が重要かなというのが実感です。極端な話、今後日本の他の場所で同じような事故が起きたとしても、今度は即座に風向きマップを公開できるでしょう(もちろんそんな必要が生じないことを願いますが)。緊急時には既存の道具をなんとか使い回すしか選択肢はなく、何かが起こってから新しい道具を泥縄で作り始めたって間に合いません。そうした日頃の備えの重要性というのを痛感した最初の時期でした。

ただし念のために付け加えておくと、上記のサイト自体が実は一から始めたものではなく、これまでの道具の使い回しという面があります。風向きマップと同等のデータは、すでに2007年6月からGPV Navigator (メソモデル)として公開していました。今回の作業はこれを、1) Google Mapsで見られるようにする、2) 風向きを矢印で描くようにする、3) アメダス風データと比較できるようにする、という3点において改良したものにすぎません。すでにGPV Navigatorにおいてデータを扱っていたからこそ、「あれをGoogle Mapsに載せればいいのでは?」というアイデアがすぐに浮かび、数日の作業で公開できたことも確かです。もし何もない状態から始めたとしたら、調査と構築に今回の何倍もの時間がかかったことは確実でしょう。

Researchmap関連記事:

過去データアーカイブ

上述のようにリアルタイム系データの公開はある意味では手遅れでしたが、その後になって福島原発で本当は何が起こったのか、放射性物質の拡散はどのように進んだのかという問題に関心が高まりました。そこで何が起こったのかを理解するための基礎データを提供するために、過去データの整理を始めました。

放射性物質の拡散に影響するのは主に風と雨です。そこで事故後の風と雨のデータを誰でも使いやすい形にして、ウェブサイトで公開しました。これを使って、事故を検証している人も見かけますので、基礎データを提供するという意味では一定の役割を果たせたのではないかと思います。私自身もこのデータに基づき、3/15の福島における放射性物質の拡散について後に検討しました。

ただ、こうした過去データの整理だけでは力不足であることも痛感しました。本当に威力があったのは、過去データを用いたシミュレーションでした。というのも、データだけでは「本当に欲しいパラメータ」が得られないことが多々ありますが、シミュレーションでは(実態と合う保証はないですが)より多くの欲しいパラメータが入手できるので、説明にも説得性があります。やはりデータベースをやるだけではなく、いつかはシミュレーションにも手をつけなければ、と感じたときでした。

放射線関連データと気象関連データの統合


最初は放射線モニタリングの体制も全く知りませんでしたので、最近はすっかり有名になったSPEEDIに関する調査を開始しました。上記サイトはSPEEDIシミュレーションへの入力データとなるはずだった、SPEEDIモニタリングポストに関する情報をまとめたものです。ただしSPEEDIデータや文科省観測データの空間放射線量観測値を可視化するサイトはこの時期にネット上に多数出現しましたので、私自身はそうした部分に手を出さないことにしました。

私はむしろ、福島県での放射能汚染状況を詳細に把握することの方に重要性を感じるようになりました。そこで福島県の調査による「福島県小・中学校等放射線モニタリング」データを使うことにしました。このデータは、おおむね統一された方法で同一の時期に県内を幅広く観測したもので、福島県内の放射線量を公平に比較できる優れたデータであると考えました。これをマップ化することで、福島県内の放射線量分布をかなり具体的にイメージできるようになりました。

この放射線量分布は2つの目的に活用しました。第一に、3/15の福島における雨量と4月上旬の放射線量との関係を比較することで、いわゆる「ホットスポット」と呼ばれる地域の特徴を見出すという目的です。その結果については気象レーダー降水量データとの比較にまとめましたが、種々の問題により明確な関係を見出すことはできませんでした。第二に、3/15の各種気象データと放射線量と福島原発事故の重大イベントという3種のデータの間に整合性のある説明を構築するという目的です。その結果については福島第一原発事故タイムラインにまとめました。苦労した割には明確な説明はできませんでしたが、必要に迫られて各種のデータを細かく眺めたおかげで、私自身は事故の推移に関する理解が深まったと感じています。

なおこの過程で、放射線量モニターデータまとめページにて多くの分野の専門家と意見を交換できたことが、個人的には印象に残っています。ある一つの問題に対して多くの分野の専門家が集まって、自分が最も得意とする分野で貢献を積み上げていくこと、それは今後の福島問題解決において非常に重要なことだと考えています。この2ヵ月半で、今まで知らなかったことをたくさん学びました。

Researchmap関連記事:

データベース検索支援

私はもともとデジタル台風を中心に気象データベースを構築してきましたので、その中には福島に関連する情報もたくさん蓄積されています。しかし、福島第一原発事故との関連という観点から整理してきたわけではありませんので、このサイトに初めて訪問した人がすぐに検索することは難しいというのが実情です。そこで、福島第一原発事故という観点からこのデータベースが検索しやすくなるよう、入り口として機能するコンテンツを作ることにしました。そこで選んだ主要な切り口がアメダスと台風情報です。

特に台風情報については、5月になって梅雨が近づいてきたこともあり、台風が原発に与える影響を知りたいという問い合わせが増えてきました。そこで、原発に接近する台風に関する風速・雨量の想定や、過去の台風で発生した災害など、デジタル台風の大規模データベースの探し方に関して説明を加えました。

Researchmap関連記事:

自己評価


さて、このような2ヵ月半に及ぶ取り組みは、どのくらいのインパクトがあったのでしょうか。最もアクセスが多かったコンテンツは福島第一原発周辺の風向きマップです。3/22から5/31のページビューは約37万となりました。このサイトの存在は主にツイッターを通して拡散していき、ツイート数も約6800に達しています。サイトオープンがある意味「手遅れ」だったにもかかわらず、それなりに利用されることになりました。

次に2011年3月11日から25日の気象データについては、利用者の数はそれほど多くないのは確かですが、他に類似データを提供しているサイトがないという意味では、一定の役割を果たしていると評価しています。強いて言えばSPEEDIが類似サイトに相当しますが、データが非常に使いにくい形で公開されているため、データアーカイブとしての役割を果たしているとは言えません。福島原発事故が長期化するにしたがって、今後はリアルタイムデータだけでなく過去データのアーカイブの重要性が高まってきます。データアーカイブを提供するという観点では、こうした方向性も重視すべきだと思います。

最後に福島県小・中学校等放射線モニタリングについては複雑な気持ちです。このサイトが活用されることがいいのかどうかも良くわかりません。学校での除染等の取り組みが進む中でこのサイトの情報自体も古くなりつつあり、ある時点での情報を記録するというアーカイブ的な価値は残っているものの、情報の活用にも注意を要する状態になりつつあります。福島県などが中心的な情報ポータルを作って、そこに情報が蓄積されていけばいいと願っています。


今後の取り組み


本記事では、主に課題1の「気象データおよび放射線データの可視化」に関する現時点までの取り組みを紹介してきました。ひとまずこれで、3月末に想定していたことはおおむね実現したかなと考えています。もちろん、計画はしていたけれどもその後不要になったこともあれば、計画はしていなかったけれどもその後必要になったこともあります。ただ、ひとまず現時点でまとまりのあるコンテンツになったという区切りは感じています。

今後の取り組みは課題2と課題3が中心になるでしょう。課題2については、私が最初に手をつけたメディア情報の整理などが関係します。

これは地震直後からYahoo! Newsの地震関連記事をクロールしているもので、私が地震後に最初に着手した作業というのが実はこれなのです。すでにデジタル台風:ニュース・トピックスで使っていた道具を使いまわせば地震情報の整理にも使えるのではないか、というのが当初の目論見だったのですが、実際にやってみると想定とは違う部分が多々あって作業は難航し、数日後には気象データに注力するよう方針転換をすることになりました。

その後、他の部分が多忙になったために整理は進んでいませんが、最低限のメンテナンスは続けています。準備不足で多少は漏れている記事もあるのですが、既に83000件以上のニュース記事を収集しており、今後も継続すれば記事数は10万件、20万件と日々増えていくでしょう。この記事を分析することにより、今回の東日本大震災とは何だったのか、後世から振り返ることもできるようになります。この部分は私の本業プロジェクトとも密接に関わることでもあり、次のステップとして本格的に取り組みたいと考えています。

さらに課題3は長期的なプロジェクトです。すでに複数の関係者とコンタクトは取っており、一員として加わることになるかもしれませんが、まだ具体化はしていません。このプロジェクトは今回の被災地全体をカバーするものになるでしょうし、私もなんらかの形で被災地とつながりを持った活動をしていきたいと考えています。私がこれまでやってきた震災対応は私個人が頑張るというタイプのもので、人々の力を集めるという形にはなっていません。そうした方面への発展も課題ですね。

もちろん、福島第一原発の事故はまだ収束にはほど遠く、今後も気象関連データの提供は続けていく予定です。

最近よく聞くのは、福島第一原発事故に関連するデータをきちんと揃えることは「世界に対する日本の科学者・研究者の責務である」という言葉です。世界から見れば日本は「事故を起こした国」です。その「事故を起こした国」の当事者として我々がしっかりした仕事をできないようでは、日本の科学者・研究者は世界に対して示しがつかないのです。もしチェルノブイリのデータが公開されなければ、きっと我々は「ロシアの科学者・研究者は何やっているんだ?」と言うでしょう。これと同じです。もしフクシマのデータが公開されなければ「日本の科学者・研究者は何やっているんだ?」というのが世界からの見方でしょう。「日本」というくくりで見られることを自覚する必要があるのではないでしょうか。

そうした観点から、フクシマの事故とその影響に関するデータを早く収集しなければならないはずなのに、全体的にどこか動きが鈍いように思えます。みんな自分のことを当事者と感じているのでしょうか?「我々は当事者である」という意識を、どうやって長期間持ち続けていくかが課題なのかもしれません。

Researchmap関連記事:

21:45 | Impressed! | Voted(2) | Comment(0)
2011/05/31

福島第一原発における雨量と汚染水の水位上昇の関係

Tweet ThisSend to Facebook | by:kitamoto
台風2号は5月の台風としては記録的な強風と雨量を記録して本州の東に去りました。台風が福島第一原発に与える影響の中でも特に気になるのが、福島第一原発における雨量の推移と、雨水の流入による建屋内の汚染水の上昇です。建屋の下に溜まっている水は高濃度の放射性物質に汚染されていますので、その水位が上昇すれば汚染水は構内から溢れて海に流れ込み、海洋汚染がさらに進行してしまいます。そこで福島第一原発周辺の雨量をモニタリングするためのサイトを、5月29日に公開しました。

福島第一原発周辺の雨量マップ(Google Mapsタイリング版)



このサイトは以前にオープンした福島第一原発周辺の風向きマップ(Google Mapsタイリング版)の姉妹サイトとして、風向きと同様に雨量に関する情報を提供します。ただし風向きと異なるのは、雨量の予測値だけではなく観測値も提供することです。汚染水位に影響するのは実際の雨量だからです。

上のグラフは最近72時間の雨量の推移を表しています。まず、福島第一原発構内には雨量観測所がありませんので、レーダーによる雨量の推定値を使うことにします。そして、原発から10kmと最も近い場所にあるアメダス観測所である浪江については、アメダスによる雨量の実測値とレーダーによる雨量の推定値を同時に表示しています。

このようにレーダー雨量に着目したのは、福島第一原発における雨量をレーダー雨量から推定できると考えたからです。しかし上のグラフは意外な結果となりました。グラフを見ると、5/30の午後になってアメダス雨量とレーダー雨量が大きく乖離し始め、アメダス雨量では増加が継続するのに対してレーダー雨量では増加が止まりました。最終的に両者の累積雨量は大きく異なりましたが、これはなぜなのでしょうか。

最初は、アメダス浪江と福島第一原発との距離10kmが違いを生み出したと考え、場所をアメダス浪江に揃えてアメダス雨量とレーダー雨量とを比較してみました。その結果、アメダス浪江上空のレーダー雨量は、地上のアメダス雨量よりも10km離れた福島第一原発のレーダー雨量に近い挙動を示しました。つまり、アメダスとレーダーの雨量の違いは、場所の違いではなく測定方法の違いが原因ということになります。

しかしアメダス雨量とレーダー雨量がいつも違うわけではありません。30日の午前までは、両者は同様の傾向を示していたのです。ということは、30日の昼間に何らかの変化があったはずですが、そこで考えられるのが雲の種類の変化です。気象衛星ひまわり可視画像でその様子を比較してみましょう。


2011年5月30日10時(ひまわり可視画像)


2011年5月30日14時(ひまわり可視画像)

福島第一原発はこの画像の中心にあります。11時にはゴツゴツ盛り上がった雲がこの付近に大雨を降らせていましたが、14時にはそれらの雲が抜けてもっと平らな雲がこの付近を覆っているようです。つまり昼ごろを境に、雨雲が背の高い雲から背の低い雲に変わった可能性があります。実際のところ、台風2号から変わった温帯低気圧は30日の午前に関東の南を通過し、台風本体の雲も30日の昼には太平洋に抜けましたので、これによって降雨の性質が変わったのでしょう。

さて、この変化が、レーダー雨量にどのように影響するのでしょうか。気象庁 | 気象レーダーによる観測についてによると、福島近辺を観測できるレーダーは仙台や東京にあります。ただ、東京と福島第一原発とを直線で結ぶと途中には山地が存在するため、その陰にある低い雨雲は東京からは見えません。一方、仙台との間にはあまり高い山はなさそうですが、距離が100km程度あるために地球の丸みが影響し、やはり低い雲は仙台からは見えません。気象レーダーでは一般に、背の高い雨雲は捉えやすく、背の低い雨雲は捉えにくいという性質がありますが、福島第一原発の周辺でも雨雲の種類が雨量の精度に影響を与えた可能性があります。

以上より、福島第一原発の雨量としては原発から10km離れているアメダス浪江の雨量を参考にした方がよさそうだ、という結論に達しました。ただしレーダー雨量も、上記の注意点を念頭に入れれば使い道はあると思います。

さて、東京電力の発表によると、29日の7時から30日の7時までの24時間に、1号機の原子炉建屋の地下では19.8cmの水位上昇が見られたとのことです。この期間の雨量は約60mm(=6cm)と見られますので、単に雨が建屋内に降ったというだけでは説明できない上昇で、雨水が外から流入しているのかもしれません。それに対して2号機や3号機の水位上昇は4-6cm程度と、実質的には雨量による増加以下でした。これらの場所では汚染水がより広い面積に広がっているため、水位上昇が少なくなるのかもしれません。

同様に31日7時までの24時間では、1号機の地下では37.6cm、2号機のトレンチでは8.6cm、3号機の地下では5.6cmの水位上昇となったようです。雨量としては前日の1.3~1.5倍ぐらいですが、水位の上昇は1.8倍~2倍ぐらいに達しています(雨水がない日の増加分は差し引いた場合)。まあ、雨が建屋に達してから地下の汚染水に達するまで、少し時間差が生じたとしても不思議ではありません。また2日間のトータルで見れば、2号機と3号機では雨がそのまま溜まった場合の水位上昇と同程度になると考えてよいのかもしれません。

汚染水の処理は福島第一原発の事故処理における最大の問題の一つですので、雨量と汚染水の関係については今後も見守っていきたいと考えています。

さて本ページの公開により、東北地方太平洋沖地震発生直後から取り組んできた「気象データプロジェクト」に関しては、当初に想定した計画をおおむね達成できたような気がしています。最終的に何がどうなったのか、今後の記事で簡単にまとめる予定です。

(追記 2011-06-29)レーダー雨量が過小評価である例を上に示しましたが、その反対に過大評価となる例を下に示します。



2011年6月28日前後の雨では、アメダス雨量とレーダー雨量はおおむね同じ傾向を示しており、一貫してレーダー雨量の方が過大評価になっています。こうなる原因はいくつか考えられます。

まず、レーダーの反射は雨粒の形状によって異なるため、レーダーを反射しやすい雨粒が含まれている場合にはレーダー雨量が大きめに出ることがあります。次に、上空では雨が降っていても、雨粒が落下してくる間に蒸発してしまい、地上には到達しない場合があります。特に雨雲の下の空気が乾燥している場合にこのようなことが起こり、これも過大評価の原因となります。最後に、雨粒が風に乗って移動することにより、上空で雨雲が存在する場所とは異なる場所に落ちることがあります。ただ、これは一時的なものですので、今回のケースには当てはまらないと考えられます。

その他、様々な原因がこの誤差に影響してくるため、そのすべてを明らかにすることは困難です。しかし、そういう問題が避けられないとしても、レーダー雨量はアメダス雨量のまばらさを補う重要なデータです。このような誤差が生じうることを把握した上で目安として利用するのであれば、十分な価値があることをここで繰り返しておきます。
17:45 | Impressed! | Voted(1) | Comment(0)
12345Next

ブログパーツ