小林 健彦
基本情報
- 学位
-
文学修士(1987年3月 駒澤大学)
- 連絡先
- ktakehikner.takushoku-u.ac.jp
- 通称等の別名
- 茶名(茶道 裏千家):小林 宗健(こばやし そうけん)
- 研究者番号
- 40267670
- J-GLOBAL ID
- 200901017229927378
- researchmap会員ID
- 1000211548
- 外部リンク
小林 健彦(こばやし たけひこ)
1962年(昭和37年)生まれ。新潟県柏崎市出身。学習院大学 大学院 人文科学研究科 史学専攻 博士後期課程 単位取得 満期退学。現職は、拓殖大学 大学院 言語教育研究科 客員教授、新潟産業大学 経済学部 教授。専門は歴史工学、日本語運用史、災害対処文化史、対外交渉史等。主な著作物には、『定本 上杉謙信』(共著書、高志書院、2000年5月)、『越後上杉氏と京都雑掌』戦国史研究叢書13(単著書、岩田書院、2015年5月)、『韓半島と越国』(単著書、DLMarket Inc・シーズネット株式会社・ブックパレット、2015年)、『災害対処の文化論シリーズ Ⅰ』~『災害対処の文化論シリーズ Ⅸ』(計9冊、単著書、DLMarket Inc・シーズネット株式会社・ブックパレット、2015年~2023年)、『日本語と日本文化の歴史基層論』(単著書、DLMarket Inc・シーズネット株式会社・ブックパレット、2017年)、等がある。
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①韓半島と越国 ―なぜ渡来人は命がけで日本へやって来たのか:
https://www.seichoku.com/item/DS2005991
シーズネット株式会社 B5版 350頁
ブックパレット電子版 https://bookplt.com/viewer/tOnJDC7xUk3QxADgla3k6aCw7MBjYMlfiEqdYeFfdnwfBfQ4fC1377
②災害対処の文化論シリーズ Ⅰ ―古代日本語に記録された自然災害と疾病:
https://www.seichoku.com/item/DS2005635
シーズネット株式会社 B5版 308頁
ブックパレット電子版https://bookplt.com/viewer/8AbdBwNa7q3a1IUefKWugEq6vBR7OisP7yVpJur4XwCpeIMFIA1377
③災害対処の文化論シリーズ Ⅱ
―室町時代より江戸時代の地震災害と対処の生活文化:
https://www.seichoku.com/item/DS2005639
シーズネット株式会社 B5版 245頁
ブックパレット電子版
https://bookplt.com/viewer/heqnywzgVizjsv1JW75n4RWgD6BYJppGMI85vqyXHJ4qQNI5Of1377
④災害対処の文化論シリーズ Ⅲ ―新潟県域に於ける謎の災害:
https://www.seichoku.com/item/DS2005965
シーズネット株式会社 B5版 226頁
ブックパレット電子版 https://bookplt.com/viewer/FZYmuqvUueGPkYYw8Bg7L705PSXMC1HzfkSkf80w2vRDAKIFiD1377
⑤災害対処の文化論シリーズ Ⅳ ―北陸、新潟県域の古代と中世:
https://www.seichoku.com/item/DS2006110
シーズネット株式会社 B5版 261頁
ブックパレット電子版
https://bookplt.com/viewer/AD101MBLRv6nX1twUqPzDYlcZb0phnsv78EowkD218mlzVmus01377
⑥災害対処の文化論シリーズ Ⅴ ―浪分けの論理、水災害としての津波:
https://www.seichoku.com/item/DS2005630
シーズネット株式会社 B5版 388頁
ブックパレット電子版https://bookplt.com/viewer/E8ChfNW1SuXzB8SRmErwif63mwFEIY3RCaFc9OxIuogO2wjdDX1377
⑦日本語と日本文化の歴史基層論
―平清盛・徳川家康・坂東太郎に見る呼称とうわさの文化:
https://www.seichoku.com/item/DS2006032
シーズネット株式会社 B5版 238頁
ブックパレット電子版
https://bookplt.com/viewer/SZqqqNAuNSMHViM748NwFsFhSoUdFUrSrTG3DX4glnZVBAiuk61377
⑧災害対処の文化論シリーズ Ⅵ 韓半島における災害情報の言語文化
―倭国に於ける災害対処の文化論との対比に於いて:
https://www.seichoku.com/item/DS2005654
シーズネット株式会社 B5版 317頁
ブックパレット電子版
https://bookplt.com/viewer/1zTLgLNnxJA0W4lKpKljPMlL29sC4js4WCgZywkOQvCbBYJ28c1377
⑨災害対処の文化論シリーズ Ⅶ 韓半島における災害情報の言語文化
―三国遺事にみる災害対処の文化論:
https://www.seichoku.com/item/DS2005651
シーズネット株式会社 B5版 252頁
ブックパレット電子版
https://bookplt.com/viewer/ZlYHSc9OkUfFK2UwwEZe2j9qhQD92nzGqfg1rhhTvw2xfiidHr1377
⑩災害対処の文化論シリーズ Ⅷ 日本の古典に見る災害対処の文化論
ー日本的無常観の形成:
https://www.seichoku.com/item/DS2006114
シーズネット株式会社 B5版 307頁
ブックパレット電子版 https://bookplt.com/viewer/nqjvIqG8wJofEj4anjjJzn6qayR1kv0SCxtKMBL4ftougQyLKy1377
⑪災害対処の文化論シリーズ Ⅸ 日本の古典に見る災害対処の文化論
ー「今昔物語集」の霊鬼:
https://www.seichoku.com/item/DS2005659
シーズネット株式会社 B5版 274頁
ブックパレット電子版
https://bookplt.com/viewer/rd4AFX3nnoVDJ3lC0m681V6pVbL8T9SbMg1E9cKkCm0fkMdcWB1377
拓殖大学 大学院 言語教育研究科 小林健彦の紹介ページ:
http://www.takushoku-u.ac.jp/academics/linguistics/faculty/kobayashi.html
https://graduate.takushoku-u.ac.jp/language/kyouin/kyouin01/ktakehik/index.html
新潟産業大学 経済学部 小林健彦の紹介ページ:
https://www.nsu.ac.jp/academics/professors/tkobayashi/
CiNii Articles 小林健彦の論稿一覧ページ:
https://ci.nii.ac.jp/nrid/9000002551537
J-GLOBAL 小林健彦のページ:
https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200901017229927378&rel=0
新潟県生涯学習情報提供システム ラ・ラ・ネット 小林健彦の紹介ページ:
https://www.lalanet.gr.jp/search/searchdtl.aspx?stdycd=29493&knd=11&ht=1&pageSiz=10&pageNum=1&cd00=2&cd20=202&cd20R2=202
国立国会図書館サーチ 小林健彦の著作物検索結果一覧:
iss.ndl.go.jp/books?ar=4e1f&page=1&search_mode=advanced&except_repository_nos[]=R100000038&except_repository_nos[]=R100000049&except_repository_nos[]=R100000073&rft.au=%E5%B0%8F%E6%9E%97%2F%2F%E5%81%A5%E5%BD%A6
新潟産業大学リポジトリ 小林健彦の近年の論稿一覧(PDFファイルでご覧頂けます):
https://nsu.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=7
注:本HPに掲載をした研究業績、社会貢献活動等は、その全てを記入したものでは無く、近年のもの、また、
主要なものに限定しております。
下の画像は⑪の電子書籍に収載されている写真です。これは、京都府京都市東山区に所在する六道珍皇寺(当初は真言宗東寺に属したが、現在は臨済宗建仁寺派)にある「小野篁(おののたかむら)冥土通いの井戸」です。朱色の燈籠の右側に見えるのが井戸枠です。この場所は葬送地であった鳥部(辺)野(とりべの)に隣接していたことから、異界との境界領域(アジール)としての「六道の辻」であると見做されていました。小野篁が亡き母親の霊へ会う為に当寺を訪れた時から、彼は冥途に通じるとされたこの井戸を使い始めたと伝えられています。又、「矢田地蔵縁起」に依れば、大和国の金剛山寺(矢田寺)満慶上人は篁の仲介に依り、菩薩戒を受ける為に閻魔庁へ赴いたのもこの井戸からであったとしています。これらの所伝よりは、日本中世に於ける地下世界観の萌芽をも窺うことができます。説話集である「今昔物語集」に描かれた霊鬼とは、人が創造し畏怖した「モノ」でした。そこには古代から中世に至る日本人の対災異観・対災害観が色濃く反映していました。詳しくは、『災害対処の文化論シリーズⅨ 日本の古典に見る災害対処の文化論 ー「今昔物語集」霊鬼』(シーズネット株式会社、ブックパレット)でどうぞ!!
本項に掲載した画像は全て小林健彦が撮影したものです。
下の画像は⑩の電子書籍に収載されている写真です。これは、徳島県と兵庫県の淡路島とを結ぶ大鳴門橋です。お茶園展望台(徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦)より大鳴門橋、鳴門海峡、淡路島方面を臨んだものです。鳴門海峡は幅が約1.4キロメートルあるものの、可航幅が狭い上、渦潮や強潮流の発生等に伴なって流向が複雑であり、現在でも尚、船舶の乗揚げ事故や、船舶同士の衝突事故が発生する海上交通の難所です。ここは関門海峡、来島海峡と共に、日本三大潮流の名数にも数えられる危険な場所の1つなのです。「土左(佐)日記(とさのにき)」に於ける承平5年(935)正月30日より翌2月1日にかけての描写は、正に「土左日記」に於ける船旅のクライマックスでした。30日条では、海賊が夜の出動はしないという確定的な情報の下、夜中であったにも拘らず、紀貫之らが乗船していた船は土佐の泊(徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦高砂付近。大毛島の南東沿岸域)よりの出港を試みるのでした。海賊が夜、船を出すことが無かったのは、彼らが夜間航行の危険性を熟知していたからに他ならないのです。当時、無敵に思われていた海賊も、海の恐ろしさは身に染みていたのでしょう。30日と1日との対比、それは、動と静、陰と陽とのコントラストであり、切迫感をも感じさせ、見事な演出であると言えるでしょう。「からくかみほとけ(神仏)をいの(祈)りて」と「かいぞく(海賊)もの(物)ならず」との表現法対比よりは、いささか、作者である紀貫之本人の軽い人間性が垣間見えたりもしますが、やはりそれは創作や演出に依る心情描写ではなく、本心からのものであったものと見られます。それ故、余計な演出を書き加えなくても、読者に恐怖と安堵の対比より齎される臨場感を持たせるには十分な要件を兼ね備えていたものと考えられます。この都へ帰還する船旅は、貫之にとって、精神的・肉体的には非常に辛く、別の意味に於いてとても悲しいものでした。詳しくは、『災害対処の文化論シリーズⅧ 日本の古典に見る災害対処の文化論 ー日本的無常観の形成』(シーズネット株式会社、ブックパレット)でどうぞ!!
下の画像は⑨の電子書籍に収載されている写真です。これは、大韓民国慶尚北道月城郡陽北面龍堂里に所在する、統一新羅時代における寺院の跡です。新羅国の古都である慶州市の市街地より約25キロメートル程、南東方向に行った場所にあります。日本海にも程近い立地です。寺院呼称である感恩寺とは、父祖より受けた恩恵に感謝するとした語義であるとされます。文武王海中王陵(2枚目の画像)である大王岩より北西方向へ約723メートル程の、大鍾川北側河口付近には、大王岩の遥拝所である利見台もあります。利見台より、更に、北西方向へ約737メートル行った場所には、この感恩寺三層石塔東塔(写真の手前側。高さ約13.4メートル)が建っています。即ち、東塔より東南方向へ約1.39キロメートルの場所が、大王岩の石棺部分に当たるのです。感恩寺金堂には地下空間があり、これは龍に化した文武王が、大王岩より大鍾川を遡上して当寺にまで、往来することができる様にと配慮して、造られたものであるとされます(「感恩寺寺中記」に言う処の「排金堂砌下。東向開一穴。乃龍之入寺旋繞之備」)。1959年には、大韓民国国立博物館に依る発掘調査、修復作業が行なわれ、当寺が薬師寺式の伽藍配置を持っていたことが判明しています。又、西塔(写真奥)第三層塔身軸部上面にあった長方形の舎利孔よりは、統一新羅時代の舎利荘厳具が発見されています。この感恩寺と利見台、そして、文武王海中王陵とは、当地特有の自然災害を防ぐ目的で設置、運用されていたことが分かってきました。詳しくは、『災害対処の文化論シリーズⅦ 韓半島における災害情報の言語文化 ―三国遺事にみる災害対処の文化論』(シーズネット株式会社、ブックパレット)でどうぞ!!
当該画像の元素材はフィルム写真です。
下の画像は⑧の電子書籍に収載されている写真です。これは、新羅国の第30代国王であった文武王海中王陵、その中心部分の画像です。大韓民国慶尚北道慶州市陽北面奉吉里(韓国の東海岸)にあって、この大王岩が所在する場所は、直近の海岸線より、直線距離で約200メートル程の海中です。文武王陵碑に依れば、西暦681年に文武王は56歳で死去し、その遺言によって、遺体は死後10日にして火葬に付され、遺灰は感恩寺の東方に当たる日本海海中、この大王岩に葬られたのです。これは、7世紀末期当時の韓半島・朝鮮半島にあっては、極めて異例なことでした。当時、遺体を火葬することは極めて稀有なことであったものと見られます。そして、なぜこの様な場所に墳墓が築造されていたのでしょうか?従来、言い伝えられている様に、日本・倭国に対する備えだったのでしょうか?実は、当時の韓半島・朝鮮半島ならではの自然災害が、この海中王陵を中心として整備された諸施設には大きく関係していることが分かってきました。詳しくは、『災害対処の文化論シリーズⅥ 韓半島における災害情報の言語文化 ―倭国に於ける災害対処の文化論との対比に於いて』(シーズネット株式会社、ブックパレット)でどうぞ!!
当該画像の元素材はフィルム写真です。
下の画像は⑦の電子書籍に収載されている写真です。これは、山椒大夫伝承に基づいて建てられた安寿姫と厨子王丸姉弟の供養塔です。実際の墳墓ではありません。新潟県上越市中央の関川河口左岸にあります。森鴎外に依る歴史小説、「山椒大夫」のモチーフともなった安寿姫と厨子王丸伝承ですが、両者共に、その活動に関わる一次史料が見当たらないこともあり、実在可能性は著しく疑われます。その意味においては、室町初期頃の成立とされる軍記物、「義経記(ぎけいき)」に見られる源義経、武蔵坊弁慶主従等の当地における逸話や、それを基にしたものと考えられる史蹟等との共通項も見られます。この供養塔がいつ頃設置されていたのかは不明ですが、現に、供養の対象とされ、又、信仰の対象であることも事実です。安寿姫と厨子王丸姉弟の伝承は、原素材としての何らかの事実が存在していた可能性も排除することはできないのですが、ただ、それが事実であったか、否かの世界とは別に、そうした不幸な人間の境遇に共感し、その存在(霊)を供養しなければならないとした、当時の日本人の心情は、確実に創作であると認識をされていた筈の恋愛小説に対しても、「源氏(物語)供養」を必要な行為であると感じ、実施をしていた人々の心情とつながるものでしょう。詳しくは、『日本語と日本文化の歴史基層論 ―平清盛・徳川家康・坂東太郎に見る呼称とうわさの文化』(シーズネット株式会社、ブックパレット)でどうぞ!!
下の画像は⑥の電子書籍に収載されている写真です。これは、古墳ではありません。静岡県袋井市中新田にある中新田命山(いのちやま)と呼ばれる人工の築山です。直近の太平洋の海岸からは、約1.2キロメートルほど北側にあります。延宝8年(1680)閏8月6日、東海地方へ襲来した台風により、現在の静岡県の太平洋沿岸部では、おびただしい高潮被害を受けたとされます。この小山はその被害発生を受けて築造したものであるとされています。それは、当該災害後に於ける新田開発に付随した、横須賀藩の藩営事業であったものと推測されます。築造に当たっては、横須賀藩よりの技術支援を受けていたらしい。但し、正確な竣工日時等の情報は、はっきりとはしていません。又、この約1キロメートル程西方にある大野命山築造との先後関係に関しても、はっきりとはしていないものの、『遠江資料集』に収載される「横須賀根元歴代明鑑」(大須賀町)に依れば、この中新田命山は、当該延宝期の高潮災害後の構築であるとされ、その後に発生していた高潮の際には、集落の人々はこの築山に登って難を避け、約1.3キロメートル程、北東側に所在し、丘陵部の南端にあった横須賀地区より船で食料品等を調達し、命山の頂上部で海水が引くのを待ったとされます。これは、高潮よりの避難施設ですが、最近ではその特長が見直され、現代版命山の津波避難施設としても、新規に整備が進められています。詳しくは、『災害対処の文化論シリーズⅤ ―浪分けの論理、水災害としての津波』(シーズネット株式会社、ブックパレット)でどうぞ!!
下の画像は⑤の電子書籍に収載されている写真です。これは、京都府宮津市の宮津湾沿岸部丘陵上に建つ真名井(まない)神社と、その入口正面左に建つ真名井原波せき地蔵堂です。「真名井原波せき地蔵(堂)」には、大宝元年(701)3月26日発生の地震時に起こったとされる、高さ10丈(30メートル以上)の津波を、ここで押し止めたとする伝承が残されています。「波せき」とは、ここで津波を「塞き止め」た、又は「堰」となって防いだ、とする語源より派生したものと推測されます。同社は日本三景天橋立の北側付け根付近の丘陵上にあって、天橋立を遠方眼下に臨みますが、その存在には留意をする必要性があるものと考えられます。画像で社名を示す石柱の右側に建つのが波せき地蔵堂です。直近の宮津市江尻の海岸よりは約650メートル、地蔵堂の標高は、約40.2メートルです。鼓ヶ岳の麓にあり、この場所より海を直接見渡すことはできません。神社南東側の標高の下がった場所には、「難波野」という地名も残されています。当社や波せき地蔵の存在は、大宝元年地震の発生によって、若狭湾内の凡海郷(おおしあまのさと)が海底に没したという、「冠島(大島)、沓島(小島)伝説」と合わせて検証されるべきものでしょう。それはまた、死者の世界、沈没した海底世界としての「龍宮城」伝承、浦島太郎の物語とも密接に関わっているものと推測されます。詳しくは、『災害対処の文化論シリーズⅣ ―北陸、新潟県域の古代と中世』(シーズネット株式会社、ブックパレット)でどうぞ!!
下の画像は④の電子書籍に収載されている写真です。これは、新潟市西区赤塚にある佐潟(さがた)と呼ばれる潟湖(せきこ)で、上潟と下潟よりなります。新潟県のみならず、古来、日本の沿岸部では、こうした低湿地帯が広範に広がっていました。かつては海とも接続していた入り江で、そこは漁場であると共に、陸上交通路の未発達な時期においては、天然の良港でした。現在の新潟平野にはこうした「潟」がいくつも存在しています。かつての入り江の名残ですが、新田開発、干拓事業によって、ほとんどの「潟」は消滅しました。平安時代も中頃に差し掛かった寛治6年(1092)、越後国の内、取り分け、現在の新潟県中越(ちゅうえつ)地域より下越(かえつ)地域にかけての日本海沿岸には大規模な津波が押し寄せ、それに依り、沿岸部の地形に大きな変化が起きたとされています。これは、同3年7月に制作されたとする、「越後国図(繪)」に付記されていた、「寛治六年寺泊ノ下ヨリ、角田、古潟、砂山、飛山、榎嶋等大波ニテ打崩シ、海トナル」、とした記事に基づくものです。これが事実であったのか、否かについては判然としませんが、こうした「潟」の生成、消滅に何らかの影響を与えていた自然現象の発生も想定されます。詳しくは、『災害対処の文化論シリーズⅢ ―新潟県域に於ける謎の災害』(シーズネット株式会社、ブックパレット)でどうぞ!!
下の画像は③の電子書籍に収載されている写真です。神奈川県小田原市浜町にある北條稲荷神社の境内には、蛙の様な平べったい「蛙石(かわずいし)」と呼ばれる岩体があります。この蛙石は、天正18年(1590)4月の豊臣秀吉に依る小田原征伐や、元禄16年(1703)11月23日発生の元禄地震(マグニチュード7.9~8.2の地震。犬吠埼~下田沿岸に津波襲来)、天明2年(1782)7月15日発生の天明地震(マグニチュード約7.0の地震。熱海に津波襲来)の際には、「夜な夜な泣いて、凶事を事前に知らせた」といいます。更に、昭和26年(1951)に発生した火災の前夜には、社殿より火の玉が出来して、それを予告したとも伝えられます。この様な岩体が何かの凶事を予告するという現象。文化論として、どのように捉えたら良いのでしょうか?詳しくは、『災害対処の文化論シリーズⅡ ―室町時代より江戸時代の地震災害と対処の生活文化』(シーズネット株式会社、ブックパレット)でどうぞ!!
下の画像は②の電子書籍に収載されている写真です。これは、京都府京丹後市網野町網野の網野銚子山古墳北東側裾にある浦島児宅址伝承地です。いわゆる、浦島太郎の家の跡ということになります。京丹後市網野町網野、浅茂川流域には浦島伝承が残されています。島児神社の祭神は浦島子であり、この他にも、同町網野所在の網野神社や、同下岡の六神社においてもそれは祭神として祀られています。網野銚子山古墳は全長約198メートル、後円部径約115メートル、同高約16メートル、前方部幅約80メートル、同高約10メートルの前方後円墳であり、日本海側の沿岸域に築造されたものとしては、最大級の規模を持ちます。4世紀末~5世紀初頭のものであるとされますが、被葬者は丹後地域の王権に関わりのある人物であると推定されます。その北東側の少し下がった場所には、浦島児の旧宅址とされる石碑が建てられ、その傍にある「しわ榎」には、龍宮城より戻った浦島太郎が、日本海を見下ろすことのできるこの場所で、持ち帰った玉手箱を開け、皺(しわ)だらけになった悲しみより、自身の顔の皺を千切(ちぎ)っては投げ付けた為に、榎の樹皮が凹凸だらけになってしまったと言う伝承を残しています。これらは、この古墳の被葬者が、海人(あま)支配、日本海交易等、韓半島・朝鮮半島を通じた、中国大陸との関係性を有していたことを垣間見せる事象でもあります。丹後半島地域に浦島伝承(死者の国としての龍宮城、海底世界の物語)が多く残されている背景には、かつて当地を襲っていた大雨、洪水、そして、津波等の「水災害」が大きく関係していたことが想定されます。詳しくは、『災害対処の文化論シリーズⅠ ―古代日本語に記録された自然災害と疾病』(シーズネット株式会社、ブックパレット)でどうぞ!!
下の画像は①の電子書籍に収載されている写真です。石川県能登半島中央部の能登島にあるツイン石室を持つ須曽蝦夷穴(すそえぞあな)古墳。この画像は羨道の内部より、古墳南側にある七尾南湾を臨んだものです。当該古墳の形態、又、その立地地点より推測し、この古墳の被葬者は当地に在来の人ではなく、韓半島・朝鮮半島等より来航した渡来人であるものと推定されます。しかし、なぜこの地に渡来人が?彼らはいつ、何を行なうために、この地へやって来たのでしょうか?このロケーションの謎とは何か?漁業者、倭国の初期海軍としての海人(あま)や、鉄との関係性とは?ここは、その人物と「海」(船舶、航海、交易、漁業、及び、製塩、製鉄、稲作技術の海の道を使った移転等)との強力な繋がりをイメージさせる遺跡です。平成元年(1989)より、同8年にかけて石室の修復工事が実施されました。昭和56年(1981)1月には、国指定史跡となっており、古墳を含む一帯は古墳公園として整備されています。詳しくは、『韓半島と越国 ―なぜ渡来人は命がけで日本へやって来たのか』(シーズネット株式会社、ブックパレット)でどうぞ!!
経歴
10-
2016年10月 - 現在
-
2018年4月 - 2023年3月
-
2009年4月 - 2016年9月
-
2009年4月 - 2011年3月
-
2004年4月 - 2010年3月
-
2000年4月 - 2009年3月
-
1992年4月 - 2003年3月
-
1994年4月 - 2000年3月
-
1993年4月 - 1994年3月
学歴
4-
1991年4月 - 1993年3月
-
1987年4月 - 1993年3月
-
1985年4月 - 1987年3月
-
1981年4月 - 1985年3月
委員歴
8-
2014年4月 - 現在
-
2013年10月 - 現在
-
2018年4月 - 2022年4月
-
2016年4月 - 2018年3月
-
2015年5月 - 2017年3月
-
2008年4月 - 2016年3月
-
2008年5月 - 2009年3月
-
1992年2月 - 2000年2月
論文
81-
新潟産業大学経済学部紀要 (64) 53-85 2024年1月29日 責任著者
-
生活環境と歴史 (10) 41-129 2023年6月30日 査読有り招待有り責任著者
-
新潟産業大学経済学部紀要 (63) 61-81 2023年6月30日 責任著者
-
新潟産業大学経済学部紀要 (63) 31-59 2023年6月30日 責任著者
-
柏崎 刈羽 (49・50) 21-31 2023年5月 責任著者
-
新潟産業大学経済学部紀要 (62) 39-62 2023年2月28日 責任著者
-
駒沢史学 (99) 91-123 2022年12月24日 査読有り責任著者
-
新潟産業大学経済学部紀要 (61) 25-75 2022年6月30日 責任著者
-
融合 (33) 21-28 2022年3月31日 責任著者
-
新潟産業大学経済学部紀要 (60) 23-58 2022年3月10日 責任著者
-
考古学ジャーナル (761) 30-34 2021年11月30日 査読有り招待有り責任著者
-
新潟産業大学経済学部紀要 (59) 43-80 2021年10月31日 責任著者
-
新潟産業大学経済学部紀要 (58) 55-83 2021年6月30日 責任著者
-
新潟産業大学経済学部紀要 (58) 27-54 2021年6月30日 責任著者
-
融合 (32) 24-29 2021年3月31日 責任著者
-
駒沢史学 (96) 1-45 2021年3月25日 査読有り責任著者
-
新潟産業大学経済学部紀要 (57) 123-178 2021年1月 責任著者
-
新潟産業大学経済学部紀要 (57) 105-122 2021年1月 責任著者
-
新潟産業大学経済学部紀要 (57) 81-103 2021年1月 責任著者
-
新潟産業大学経済学部紀要 (56) 17-76 2020年6月 責任著者
MISC
15-
柏崎日報 (35593) 1-1 2022年11月30日 査読有り招待有り責任著者
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産大レクチャーアラカルト ―地域に学び、地域をおこす 25-133 2020年9月30日 招待有り責任著者
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柏崎日報 (34879) 1-1 2020年6月 査読有り招待有り責任著者
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新潟日報 (27355) 30-30 2019年3月 査読有り招待有り責任著者
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柏新時報 (3622) 2-2 2017年12月 査読有り責任著者
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柏崎日報 (33760) 1-1 2015年6月 査読有り招待有り責任著者
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柏崎日報 (33738) 1-1 2015年5月 査読有り招待有り責任著者
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柏崎日報 (33714) 1-1 2015年4月 査読有り招待有り責任著者
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財界にいがた 25(289) 142-145 2013年5月 査読有り招待有り責任著者
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財界にいがた 25(288) 140-143 2013年4月 査読有り招待有り責任著者
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財界にいがた (287) 134-135 2013年3月 査読有り招待有り責任著者
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財界にいがた 25(286) 146-148 2013年2月 査読有り招待有り責任著者
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柏崎日報 (31560) 1-1 2008年10月 査読有り招待有り責任著者
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柏崎日報 (31522) 1-1 2008年9月 査読有り招待有り責任著者
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柏崎日報 (31507) 1-1 2008年8月 査読有り招待有り責任著者
書籍等出版物
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シーズネット株式会社、ブックパレット(電子書籍) 2023年2月6日
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シーズネット株式会社、ブックパレット(電子書籍) 2021年6月30日
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シーズネット株式会社、ブックパレット(電子書籍) 2020年3月1日
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シーズネット株式会社、ブックパレット(電子書籍) 2019年2月1日
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シーズネット株式会社、ブックパレット(電子書籍) 2017年2月20日
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株式会社 洋泉社 2016年7月 (ISBN: 9784800309570)
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シーズネット株式会社、ブックパレット(電子書籍) 2016年3月1日
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シーズネット株式会社、ブックパレット(電子書籍) 2015年10月16日
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シーズネット株式会社、ブックパレット(電子書籍) 2015年8月13日
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シーズネット株式会社、ブックパレット(電子書籍) 2015年7月17日
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シーズネット株式会社、ブックパレット(電子書籍) 2015年7月1日
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シーズネット株式会社、ブックパレット(電子書籍) 2015年6月12日
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有限会社 岩田書院 2015年5月 (ISBN: 9784872948981)
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郷土出版社 2010年1月 (ISBN: 9784863750609)
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株式会社 吉川弘文館 2006年1月 (ISBN: 4642013482)
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有限会社 高志書院 2000年5月 (ISBN: 4906641547, 9784906641369)
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学習研究社 1994年5月 (ISBN: 9784056004823)
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株式会社 新潮社 1991年3月 (ISBN: 4107302105)
講演・口頭発表等
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柏崎刈羽郷土史研究会 会員発表 2023年5月28日 柏崎刈羽郷土史研究会 招待有り
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第65回 全國歷史學大會 大韓民國 生態環境史學會 分科發表 2022年10月29日 大韓民國 生態環境史學會 招待有り
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かしわざき市シニアカレッジ「柏崎の来歴と日本史の中の柏崎」 2018年2月14日 新潟県柏崎市 招待有り
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かしわざき市シニアカレッジ「柏崎の来歴と日本史の中の柏崎」 2018年2月7日 新潟県柏崎市 招待有り
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平成29年度 神社総代会 地区別総会(新潟県柏崎市北条) 2017年6月18日 新潟県柏崎市神社総代会 招待有り
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かしわざき市民大学 特別講座 柏崎市WEBミュージアム利活用講座 2016年11月11日 新潟県柏崎市 招待有り
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かしわざき市民大学 平成28年度後期講座 2016年10月27日 新潟県柏崎市 招待有り
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かしわざき市民大学 平成28年度後期講座 2016年10月13日 新潟県柏崎市 招待有り
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かしわざき市民大学 平成28年度後期講座 2016年10月5日 新潟県柏崎市 招待有り
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かしわざき市民大学 平成28年度後期講座 2016年9月29日 新潟県柏崎市 招待有り
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かしわざき市民大学 平成28年度後期講座 2016年9月15日 新潟県柏崎市 招待有り
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かしわざき市民大学 平成28年度前期講座 2016年7月6日 新潟県柏崎市 招待有り
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かしわざき市民大学 平成28年度前期講座 2016年6月29日 新潟県柏崎市 招待有り
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かしわざき市民大学 平成28年度前期講座 2016年6月22日 新潟県柏崎市 招待有り
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かしわざき市民大学 平成28年度前期講座 2016年6月8日 新潟県柏崎市 招待有り
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ドナルド・キーン・センター 展示関連講演会 2015年10月17日 ドナルド・キーン・センター柏崎 招待有り
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新潟産業大学父母の会 講演会 2014年11月22日 新潟産業大学父母の会 招待有り
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高田コミュニティ振興協議会 ふるさと歴史講座 2013年8月7日 高田コミュニティ振興協議会 招待有り
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刈羽村郷土研究会 研修会 講演 2013年1月17日 刈羽村郷土研究会 招待有り
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新潟産業大学公開講座 日記、古記録資料にみる日本史 2012年7月21日 新潟産業大学
担当経験のある科目(授業)
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2020年4月 - 現在
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2019年4月 - 現在
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2015年4月 - 現在
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2015年4月 - 現在
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2009年4月 - 現在
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2009年4月 - 現在
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2018年10月 - 2023年3月
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2015年4月 - 2020年9月
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2015年4月 - 2020年9月
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2018年10月 - 2020年3月
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2015年4月 - 2018年9月
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1992年4月 - 2010年9月
所属学協会
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2010年9月 - 現在
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2010年3月 - 現在
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1994年11月 - 現在
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1987年4月 - 現在
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1985年6月 - 現在
Works(作品等)
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2024年1月5日 - 2024年3月23日 その他
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2023年11月2日 - 2024年1月5日 その他
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2022年9月20日 - 2023年1月7日 その他
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2020年7月13日 - 2020年10月31日 その他
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2016年9月 - 2016年11月 その他
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2013年7月 - 2013年10月 その他
共同研究・競争的資金等の研究課題
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個人研究 対外交渉史 2008年4月
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新潟産業大学 平成18年度 新潟産業大学特別研究費 災害史、文化史 2006年4月 - 2007年3月
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個人研究 言語運用史 2007年3月
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個人研究 災害史、文化史 2006年1月
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日本学術振興会 科学研究費補助金 奨励研究A 課題番号10710163 日本政治史 1998年4月 - 2000年3月
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新潟産業大学 新潟産業大学附属研究所 柏崎市の再開発研究部会 地域研究 1999年3月 - 1999年3月
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新潟産業大学 新潟産業大学 学内研究部会 文化交流史、比較文化研究 1995年4月 - 1998年3月
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日本学術振興会 科学研究費補助金 特別研究員奨励費 日本政治史 1991年4月 - 1993年3月
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個人研究 日本政治史 1985年4月
その他
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2021年8月 - 現在令和3年(2021)8月5日、駐新潟 大韓民国総領事館(権相熙総領事)の一行が、竹ヶ花山・新羅王碑等〔新潟県燕市(旧 分水町)〕を公務視察されるのに際して同行し、その歴史的な経緯、意義等に関して学術的な見地よりの解説を行なった。尚、同年10月5日、令和4年7月11日には駐新潟 大韓民国総領事館を訪問し、権相熙総領事ヘ答礼、並びに、更なる答申や説明を行なっている。当該案件に関しては、現在に至る間、地元自治体(燕市)、権相熙総領事とも連携しながら、関与、交流を継続しているところである。 註:新潟県燕市(旧 分水町)に所在する竹ヶ花山は、古来、新羅国より渡来した王族の墳墓ではないかとされ、その頂上部には明治35年(1902)、長善館主(同市粟生津)鈴木彦岳氏に依る碑銘を持つ「新羅王碑」が建てられた。長善館は、「礼記」に典拠を求め、天保4年(1833)に儒学者の鈴木文台に依り開かれた全寮制の私塾であり、漢学、数学、英語等の科目を教授し、1,000人以上の塾生を輩出したが、明治45年・大正元年(1912)に閉館した。同碑より約30メートル下った場所には渡来した初代の人物(渡来人)の墓所とされる小石柱も建てられているものの、文字等は刻まれていない。現在でも尚、竹ケ花集落の人々に依って、毎年6月第2日曜日の午前10:00より、「新羅王祭」が山上で行なわれており、当該集落の人々が墓守としての祭祀を継承しているのである。この新羅王伝説の形成には、私塾長善館の果たした役割が大きいのかもしれない。 当該集落には、「新羅国最後の国王であった敬順王(第56代)が5人の従者を引き連れ、丸木舟で漕ぎ出た」、「鎌倉時代初期に、韓半島より、旧新羅国に於いて王族であった一族の末裔が寺泊へ漂着し、彼らは同集落に迎え入れられ、定住し農業技術、医学、大陸文化を住民に伝えた」、という伝承が残存している。「新羅王祭」が現在でも尚、地域の人々に依って継承され、行なわれている背景には、韓半島由来の渡来人達がこの地域に齎した技術や文物、文化等に対する深い敬意があるものかもしれない。
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2009年6月 - 2009年6月新潟産業大学・新潟工科大学の連携協定締結記念講演会パネルディスカッションに於いてコーディネーターを務めた。メインテーマは、「一緒に考えよう! 子どもの将来。」である。取り分け、「社会人基礎力と大学教育」とした具体的サブテーマを設定して、議論を行なった。新潟県柏崎市に所在する2つの私立大学である新潟産業大学、新潟工科大学の連携協定締結記念講演会開催に際して、そのパネルディスカッションのコーディネーターを担当したものである。ここでは、経済産業省が提起した「社会人基礎力の3つの力を構成する12の能力要素」を基にしながら議論を進めて行った。内容は、大学教育に期待されていることとは何なのか?研究と講義との関連性はどうあるべきなのか?学生指導の適切な方向性や手法とは何か?大衆化した大学の進むべき方向とは?大学が行なう地域貢献の在り方とは?こうしたいろいろな課題に関して、参加者で積極的な討論や追究を行なったものである。地方大学の抱える課題や、これから進むべき方向性、立地する地域に対する貢献と言った視角よりの問題追究を試みたが、そこには国際化をも目指さなけれならない地方大学の置かれた現状との葛藤があったのである。時間は80分間である。柏崎エネルギーホールが会場であった。実施日は2009年6月13日である。
社会貢献活動
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