研究ブログ

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研究者、その自恃

研究分野の新陳代謝促す 財務省、若手の処遇改善提言へ 

2018/10/22付https://www.nikkei.com/article/DGKKZO36744680R21C18A0NN1000/

この記事を読んでおもうこと

「新分野への転換や新陳代謝を促す仕組み」が、なぜ「大学の人事・給与システムを見直し、若手教員の処遇を改善すべき」に繋がるのか。そういうこれまでやってきた中途半端な「人参ぶら下げ方法」で何もかわっていないという政策の反省からまず先に考えることはできないものか。
 先の山極先生と神田主計官との対比記事も読むに値しない。互いにまずもって内省から始めないと、意見交換にすらなれずすれ違いの「いがみ合い」になるばかり。いがみ合いも、まあ、あらゆるモノゴトにはメリットデメリットがあるのだから、それを列挙してると思えば意味はあるのかもしれない。ならば、そのいがみ合いを踏まえてテーブルについてほしい。そこからが建設的な議論ができうるのだろう。しかし、その議論すらできてない現状には暗雲がたちこむのみ。いい政策などできるわけがない。
 これは諦めではないよ。国とは違う仕方で抗うのみ。できる限りのできる範囲で。各自がそうやって抗わない限り学術界がよくなるわけないのだ。政策だって結局は個々人の研究者を変えたいのだろう? だったら政策の前に自分たちで自分たちの学術界を変える方がかっこよくはないか。俺はまた仕掛けるよ(来年の4月ぐらいには)。あなたは? 科研費すら応用志向と愚痴るぐらいなら科研費申請をやめたらいい。CNSのような高インパクトファクターに集中する現状を批判するなら、それにださなければいい。金がないから研究できないと愚痴るぐらいなら、金はかからなくても世に響く研究で世間に意地をみせてやればいい。研究の時間がないというなら、方々手を尽くしてこれまでと異なるやり方で研究を進めてみる挑戦ぐらいしたらいい。過度の業績競争を批判するなら別の評価軸で世間や研究者をうならせてみたらいい。とにかく、各自が少々の勇気をもって変えようと努力する以外に学術界は変わらないのだ。誰のせいでもない、自分のせいなのだ。自分が変わることが世界が変わるということなのだ。






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全分野結集型シンポジウムの第二弾:学会って、意味なくない?

【緊急開催決定】伝説の全分野結集型シンポジウム 第二弾!
   今回のテーマ < 学会って意味なくない?>
     来週9月13日木 13-16時@京都大学

本番10日前からの本格告知で、果たして研究者100名集まってくれるか?!

そもそも「学会」とは、何のためにあるのか。。。 会員数削減に頭を悩ませる学会も少なくはなく、いまや学会に参加しないと獲得できない情報や人脈もどんどん少なくなっていると言わざるを得ない。研究者にとっての根本であるピアレビュー制度の限界もまた問題視される今日、あらためて一度「学会」というものの形式や機能について、分野を越えて話し合う全分野結集型のシンポジウムを開催いたします。
 
★ 参画申し込みは特設サイトから
http://www.cpier.kyoto-u.ac.jp/2018/08/zenbunya2/
ライブ視聴予定のかたもできればご登録を
(メールにてURLを案内しますので)
 
共催:国際高等研究所、サントリー文化財団
   

★ クラウドファンディングも実施します!

このシンポジウムの「ドキュメンタリー映像」製作費をクラウドファンディングしてます!下記の第一弾のやつみたいなかっちょいいやつを創りたいのです!

Academist(アカデミスト)のプロジェクトページ
https://academist-cf.com/projects/85

なお、第一弾の全分野結集型シンポジウム「学問の世界」真理探究とは何か?の動画はコチラから!見応えあります!

http://www.cpier.kyoto-u.ac.jp/2017/12/theword/

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全国から集まった高校生に向けて話してきた

普遍をあつかう学問である以上、相手が年間数百万円の受講料を払うエグゼクティブだろうが高校生だろうが、内容やメッセージは同じに決まってる。抽象度は一切落とさない。(紹介する事例や全体構成は巧みにかつ必死に変えるけど)

「高校生相手だから分かりやすくする」なんてのは、伝える側の傲慢でしかない。高校生をばかにすんな。虫唾が走るわ。

タイトルもずばりのど真ん中。
『 学ぶということ 』

そもそも「学ぶ」ってどういうことかわからなかったら「学べ」ないんじゃない?って話。(知識を得るためなら本読んでWEB調べたらそれで終わり)

全国から高校生が集まる小松サマースクール(日米の大学生が企画運営してる)で話す機会を得て、今、帰りのサンダーバードなうってわけです。

正直に言う。

企業エグゼクティブよりも明らかに高校生のほうが感受性が高い。この種の言葉は伝わる人には驚くぐらい的確に伝わる。ものすごい響いた子が複数いて驚いた。

僕の話を聞いて一番嬉しい感想は「余計にわからなくなった」。それでいいのだ。わかることなどたいしたことないのだ。

そして、「救われました」という感想をわざわざ伝えにきてくれたあの女子高生よ。

あなたが正しい。世間一般の目線ではあなたは出来ない子かもしれない。しかし、人間としてはあなたはとても幸福です。きっとよく生き、よく死ねます。じーんとして泣きそう。

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日本広告学会全国大会基調講演資料「学際研究とは何か」

2015年10月24日@京都産業大
日本広告学会全国大会にて基調講演の機会を頂きました。
演題は「学際研究とは何か」
融合してない学問領域などないからそもそも学際研究などというのはおかしいという意見の持ち主なので、この与えられたお題はちょっとあれだった:笑



ダウンロードはコチラから → 京大リポリトジ「学際研究とはなにか」
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新聞掲載記事「今日の大学改革を問う」 2015.8.7_中日新聞夕刊




(記事全文) 
にわかに「大学」がざわついています。最近、大学の現状見直しに関する提案が文科省から立て続けになされたためです。人文社会系学部の見直し要請、大学院の大学院のような卓越大学院の設置、専門職大学院の強化策等。異色なものとして、国歌斉唱と国旗掲揚の要請などもありました。

今、大学にとって大切なのはこれらの意見について個別的に反応することではなく大局的に考えることです。これらの意見はいかなる考え方がもたらした結果なのか? 文科省がもつ今日的な大学観、社会観を捉える必要があります。

まずもってわかりやすいのは社会観です。(自覚無自覚とわず)根底にあるのは「競争こそが優れた成果を導く」、「国際的競争力の強化とは経済力の強さ」という2つの考えでしょう。お察しの通り、これらは市場経済の思想といえます。いずれもパッと見は極めて物的であり、強弱大小が明確明瞭に表現されえます。これらの考え方を持ってすれば、「伸ばすべきところを伸ばすのだ!選択と集中だ!拠点化だ!そして勝つのだ!」といったマッチョな大学改革政策や研究推進政策が生み出されるのは理解に難くありません。

大学観は、当然ながらこの社会観と密接に関係しています。例えば、「社会のための大学」という言葉はほぼ「産業経済力強化に貢献するための大学」と同意語となっています。大学はいつのまにか社会における保険としての役割から投機対象へと変わりました。ゆえに、卒業生の質を担保すべしといった人を製品として扱う発想や社会で即戦力となる人材の排出を!という要請がでてくるというわけです。

ここでもっともらしく「学問を担う大学に市場原理を導入されては困る」という結論をもってくる気はまったくありません。むしろ、そういうことをさらりと言う大学人に対して、では学問をいかなるものと考えるのか? それを担うとされる大学(高等教育)とはいかなる存在か? 市場原理がこれほどまで我々の通念となったのはいかに考えるか? そしてあなた自身は大学はどうあるべきと信じ、学者はどうすればよいと考えているか? と私は問うでしょう。

そして最後に、「あなたは、今の大学が学問をやっていると心から言えるか?」と問いかけます。

文科省で働く役人の方々はほぼ100%大卒です。ゆえに、そのような政策を作る文科省を作ったのはほかならぬ大学です。もちろん役所の方々は粉骨砕身頑張っておられて立派です。ただ、その頑張る「方向」に対して、大学時代にこそ日常なかなか触れない問い、善悪や美醜、そして生死、さらには宇宙と自己の存在の不可思議といった、純粋で根源的な問いに触れ浸る時間をたっぷり持っておかなければ、有益無益、有効無効、損得苦楽といった目に見えるわかりやすい指標に流されて当然です。学生に対しそのような時間と空間を与えられなかった大学がいつまでも批評家の立場でいる限り、大学は自分の首を自分で占めたまま社会に流されつづけるでしょう。

文科省と大学。改めていうまでもなく、両者は対立する関係ではなく協働相手です。文科省は大学改革をしたいのなら、同時に、あるいは先に文科省改革をすすめなければ決してうまくいきませんし、大学は大学を守りたいなら自らが理想を信じ理想に生きる行動を全うしなければ、文科省(そして社会)に響きは与えられないでしょう。文科省、そして大学は自らを律し、共に自らが変わることができるか。今、その覚悟が問われているのです。歴史的、未来的責任を自覚してこそ生じる本気の覚悟が。

自戒を込めて 


1973年 石川県生まれ。
京都大学際融合教育研究推進センター准教授。2010~14年に文部科学省研究振興局学術調査官も兼任。2011~2014年総長学事補佐。専門は学問論、大学論、政策科学。南部陽一郎研究奨励賞、金属学会論文賞他。著書に「研究を深める5つの問い」講談社など。
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「学問の避難所」をつくった話

【京大学内向け情報】(ですが、他組織の人にもぜひ伝えたい)

京都大学における講義外の学生ー教員間の交流をいっそう推進するサービス「問答mondo」開始! 

京大らしい縦横無尽な知のジャングル。
その本来の大学像を強化したい!

問答 mondo
https://mondo.cpier.kyoto-u.ac.jp/


これは一言で言うと、学問に熱心な京大生のための教員との対話場あっせんサイトです。趣旨に賛同いただいた教員の方に登録いただき、質問したいことがある学生がそのキーワードを検索することで対話の相手となる教員を見つけ出し、そして実際に会う、というものです。

構想まる1年。教員、学生、そして、慶応SDMの方々も交え、いろんなヒアリングやプロトタイプを重ね、ついにローンチに至りました。

仲の良い知り合いの先生たちからは、「これ、教員たち、登録するかなあ」って言われてます:笑
わりと、みながみなそういう感じで、理念には賛同しつつも研究志向の強い京大教員には無理じゃない?って感じ。登録には少し手間もかかるし・・・。

しかし、そいう感想があるにつれ、僕はますます信念が強くなっていくのですwww

開発段階では、対話のポイント制度とか、教員評価につなげるとか、逆に教員が学生をリクルートするに使えるようにするとか、「教員側のメリットの付加」についていろいろと意見を言われましたが、最終的にはそのような一切の小細工は導入しませんでした。真っ正面から大学人としての精神、すなわち、本気の学生に対してはいつでも応える準備がある、といった理念にうったえるものにしたのです。このようにして本当によかったと思っています。

それは、この世知辛い世の中、本当にピュアな「学問の精神」「大学の理念」そして「学者たる人格」の表出場面を小さなながらもなんとかつくれたからなんです。これを本当に誇りに思うのです。

結果は、どうかわかりません。だーーーーーーーーと広がるかも知れないし、そうでないかもしれない(上記数名の教員の感想からすると、おそらく後者でしょう)

しかし、なぜか今、僕はこれまでの研究人生では体験したことのないような恍惚感に浸っています。やっと真なる何かを残した感じというか、一切の偽りなく心から正しいと思えるものに触れたというか・・・ なにやらそういう心持ちになっているのです。

たかがサイト一つに、しかも、うまくいくかどうかも疑わしいのに、変ですね:笑
 
でも、このサイトは「ある」か「ない」といった存在の有無こそが大事で、活用されないかもしれないが(もちろん活用される努力は惜しみませんがw)、少なくともこのサイトが京都大学に「ある」ということに、僕はほんとうに喜びを感じるのです。

学問にとってひどい逆風が荒れ狂う今日において(その逆風はとうの昔にウォールマリアを突破し、今や、大学内部のウォールシーナにも吹き荒れています。もちろんその原因は大学人にこそにあると思っています、僕は)、小さいながらもようやっと、守るべきものを具現化できたような、例えていうなら「学問の避難所」をなんとかつくれたように思っているのです。

繰り返しますが、結果はともなわないかもしれません。ずっと教員の登録がすごく少ないままで学生も利用しないかもしれません。しかし、「結果」の善し悪しで「営み」を判断するという考え方こそが、今日我々がもっている様々な課題の根源にあるとおもっていますので(そもそもこのような考え方は「学問」や「教育」とは真逆)、そういう通念に正面から蹴りを食らわし、とにかく自分の偽りなき心をもって作れたということに、今、安堵感と、少々の誇りと、そして、関係者への感謝の気持ちで、すこし涙がでそうです。

ここまで読んで頂き、本当にありがとうございます。

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