毎日が○○修業

2011/04/07

ギィ・フォワシィ演助日記「演出家の懐と役者の技量」

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 稽古場に行くのが久しぶりになった。稽古そのものが一日お休みだったのと、1日所要で行けなくて、2日間空いてしまった。

 今日も動機Bの本読みで、みかさんとみどりさんの二人芝居。

 本読みをしている今は、山崎さんは細かいコメントはしないで、どう思う? どんな感じがした? ここはどうなっているんだろう? という問いかけをずっとし続けていた。演出なのにな? と思った。今日は3回通して読むことができたのだけども、ずっとそうだった。

 演出の人は、役者さんにどんどん指示を出して、方向性を出していくものだと思っていたのだけども、山崎さんの演出はそういう感じはしない。役者さんに灰皿投げたりとか……は、今のところない。まだ始まったばかりだからかも知れないけれども。とても役者さんに自由にさせている感じがしている。

 そういうわけで、山崎さんが役者さんに自由にやらせているので、みかさんは本読みの中でもいろいろなことを試しているようだった(前からだけれども)。時計を見るしぐさを入れたり、ソフィに対する気の持ち方を変えてみたり。読むたびに新しい発見がある、と言っていた。そうやって新しい発見をすることができるのは、やっぱり毎回何か新しいことを試して、発見しようと思って読んでいるからなのだろうか。

 テクスト(戯曲)そのものは、そりゃあ何度読んでも書き換えない限り変わらないので、新しい発見というのは、行間にあるものとか、解釈とか、そういうところにあるものなのだろうと思うのだけれども、聞いていると確かに最初の顔合わせの時に読まれているのを聞いたときとは異なるストーリーがあるような気がしてくる。

 でも、みかさんはまだまだつかみきれない所があるみたい。

 動いてみたら、何かまた変わるかも、と言っていた。セリフで物語が進んでいく、っていうのは前にも書いたけれども、確かにセリフでいろんなことが説明されていく(いや、それでも隠されている要素がたくさんあって全てを説明してくれてはいないのだけど)ので、聞いているだけだとそっちに気を取られるのだけども、片方が長く話しているときとか、話していない方は何をしているのだろう。そのあたりわからないことがまだまだある、と。

 山崎さんはまだ役者さんを動かすつもりはないみたい。動き始めると止まらなくなるから、だって。動き始める前にすり合わせるべきところはすり合わせておかないと、と言っていた。みかさんは動きたくてうずうずしている感じなのに。

 動きたいのに、動かないで、台本を口に出して読む、のは、ちょっと大変かも知れない、と見ていて思う。でも、体を動かさない分、頭はどんどん働くのかな。

 それからちょっと気になったのは、山崎さんが役者さんに相手の次のセリフがわかっているのだから、相手が言いやすいようにしてあげて、と言っていたことだった。普通の現実の生活では、相手が次に何を言うかはわからなくて、常に相手に対する反応として自分が話しているのだから、演技の時も、相手が次に何を言うかはわからないつもりでやるのだと思っていた。

 役作りと演技そのものは、しかし、別の位相の問題だと思った。役作りの段階で、相手の言いやすいように言う、と、「言う」っていう身体の動きが、役作りを手伝ってくれるんじゃないかと思う。やったことないけど。

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ギィ・フォワシィ・シアター第82回公演
『関節炎』『動機』『誘拐』
を、演出助手としてお手伝いさせていただいています。
花家の書いている稽古場日記はこちら→ギィ・フォワシィ・シアターblog

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2011/04/04

ギィ・フォワシィ演助日記

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 今日は初めて稽古場にお邪魔するのに、上履きがない。どうしても代わりになるものが見つからなくて、とりあえず厚手の靴下をバックパックに放り込んで家を出る。稽古場の前で山崎さんに会って、「今日上履き忘れたんですけど……」と言ったら、「いらん、そんなもの」と言われて拍子抜けした。役者さんたちもみんな来たままの格好、スリッパ、座りっぱなしで、ああ、スケジュールに書いてあった『ここから立ち稽古』ってこういう意味だったんだな、と思った。

 というわけで今日は本読みだけだったのだけども、役者さんの本読みはとても上手である。2回通して、今日はまだ初回の稽古なのに、まるでラジオドラマを聞いているよう。もう稽古いらないじゃん。演劇製作には学生団体でずっと関わってきたけど、本読みの段階でわー上手だなぁ、と思ったのは初めて。

 そういう意味で言えば、この物語はセリフだけで物語がわかるようになっている。でも、『誘拐』と『関節炎』には、一切喋らない、または同じことしかいわない役があって、セリフだけが全て、というわけでもないみたい。

 山崎さんが、ストーリーの展開に縛られてはいけない、本質はそれ以外のところにある、と言っていた。確かにセリフだけを追っていると、コントであったり、サスペンスであったりする。でも、ちゃんと読んでみると、コントやサスペンスであれば重要でありそうな要素があまりにもないがしろにされているのがわかってくる。

 一方で、どこに着目するかは、お客さんによって違ってもいいのでは、という意見もあった。サスペンスとして見てもらってもいいし、他の所に着目してもらってもいい。上演の解釈がひとつしかない、なんてことはあり得ないので、それは確かにそうだろう。しかし、作り手の解釈がどうか、と、観客がそれをどう見るか、という問題は、全く別な所で発生する議論ではないだろうか。この舞台のどこに着目するかはお客さんの自由である。でも、作り手はどうだろう。今日山崎さんが言っていたのは、単なるコント/サスペンスとして作ろうとするとつまんない、そうやって作られた芝居はつまらなかった、ということだった。

 このギィ・フォワシィ『動機』は、国内外でもう何度も上演されていて、その都度「今回、俺たち、どうする?」という議論が、稽古場で、劇場で、なされていたはず。そしてそれが踏まえられていなければ、たとえ面白い舞台になったとしても、偶然の産物になってしまうってことなのだろうか。

 これからどんな風に議論が積み上げられていくのか、楽しみ。

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ギィ・フォワシィ・シアター第82回公演
『関節炎』『動機』『誘拐』
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