研究ブログ

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デカルト

省察 (ちくま学芸文庫)
ルネ デカルト
筑摩書房(2006/03/01)


p. 38「というのも、私が目覚めていようが眠っていようが、二たす三は五であり、四角形は四つ以上の辺をもたず、これほど明白な真理が虚偽の嫌疑をかけられることはありえないと思われるからである。」

原文:Nam sive vigilem, sive dormiam, duo & tria simul juncta sunt quinque, quadratumque non plura habet latera quam quatuor; nec fieri posse videtur ut tam perspicuae veritates in suspicionem falsitatis incurrant.

最初、何の疑問も持たず授業スライドに引用してしまい、あとで見直して「うえっ?」ってなった。こういうミスはやりがちなので自分も気をつけねば。ちなみに白水社の著作集ではきちんと「四角形は四つより多くの辺をもつことはない」と訳されている。

デカルト著作集〈2〉
デカルト
白水社(2001/11)

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ロック

今学期は四つの大学の成績入力締切がなぜかみな同じ日で、合わせて900人超(人数は昨年度より少ない)の採点と出席確認は、言ってみれば地獄みたいな地獄そのものでした。

その、まるで地獄のような採点地獄の地獄が一昨日終わり、昨日は一昨日の夕方以降に摂取した大量のカフェインの反動で、一日無為に過ごしました。

そして今年度を振り返り、春学期に扱ったロックについて気づいたことで、やはり書き残しておきたいことが二つあることを思い出しました。

まず一つ目。

(言っていることにまったく自信がなくなってきたので削除しました。ちょっとイキリトになってました。反省します。)

そして二つ目。


【原文】...cum enim nec temere factus sit homo nec in nihilum his donatus facultatibus quae exerceri et possunt et debent, id videtur opus hominis ad quod naturaliter agendum instructus est,...

【浜林訳】何故なら、人間は無目的につくられたものでもなく、また無目的にこういう能力を与えられたものでもないのだから、人間の機能は自然がかれになさしめようとするところのものであると思われる。(『世界大思想全集 社会・宗教・科学思想篇 2』p. 159)

【拙訳】なぜなら、人間は何の目的もなく作られたわけではなく、また、これらの能力は意味もなく与えられたわけではなく、それらを働かせることができ、働かせなければならないからだ。それは、自然になすべきことと教えられた、人間の務めだとみなされる。

『自然法論』第4節の最終段落にある文です。「quae exerceri et possunt et debent」の訳が抜けてるかなと思ったのですが、どうでしょうか(直訳だと「それらは働かされることができ、働かされなければならない」ですが)。ラテン語は(というかラテン語も)自信ない。


この二年間、授業準備にあたって日本語の二次文献にそれなりに当たったのですが、上に訳文を挙げた中才敏郎先生と浜林正夫先生に、柘植尚則先生を加えた三人の文章が、日本の近代イギリス哲学研究者個人的ベスト3だなと思いました。共通して文章が平易かつ客観的で変に主観が入っておらず、かなり信頼できるテクスト解釈だと感じました。わかりやすいものをわかりにくくする人が多いなか、すばらしいです。おすすめです。
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ホッブズ

ホッブズの生涯について、昨年度は田中浩先生のご本をおもに参考にしていたのだが、今年度↓の本の伊豆藏先生の解説も参考にしたところ、ホッブズの父親が蒸発した時期や、ホッブズが大陸旅行に行っていた時期について齟齬があることに気づいた。
伊豆藏先生が参考にしたと思われる↓の伝記を参照したところ、たしかに伊豆藏先生の言うように書いてあった。
Hobbes: A Biography
A. P. Martinich
Cambridge University Press(2007/08/14)
値段:¥ 5,991

田中先生がこの伝記を読んでいないのか、あるいは何か根拠があってMartinichの説を採用していないのか。


当たり前だが、ホッブズにも間違いなく認識論はある。ベーコンの倫理学ほどではないだろうが、手薄な分野なように思う。やはり自分でやろうとは思わないのだが。ロックがideaと呼んでいるものをホッブズはimaginationと呼んでいる。こういう用語の違いとロックの影響力のでかさとが、新規参入の妨げになっているのかもしれない。

ホッブズとロックは(特に政治哲学について)その差異ばかり強調されるところだが、全体として、むしろ似ているところの方が多いのでは。とか言うと何か怒られそうですが。
「知は力なり」がキャッチフレーズのベーコンと同様、ホッブズも哲学の目的は人間の生に役立つことだと考えていた。秘書をしていたから、大きな影響を受けているんだろうなと思う。
ホッブズが無神論者とかよく言われるが、無信仰の現代日本人である自分から見ると、これのどこが無神論なのかがわからない。聖書主義ゴリゴリのガチプロテスタントじゃん、とか思ってしまう。とはいえ、カトリック・プロテスタント問わず聖職者に批判的だから、チャールズ2世や教会から嫌がられたんだろうなとは思う。


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ベーコン

今年度は更新しないと思った? 残念! 更新するんでした!

新学期始まってから余裕なかったが、やっと少し余裕が出てきたような気もして、気になったこともたまってきているので、少しずつ書いていこうかと。今年度は認識論と宗教も扱うということで、ベーコンから。

今年度は積極的にラテン語を読んでいこうと思っている(というか、近代イギリスを見る以上当たり前なのかもしれないですが…)が、今のところ原文に当たることができているのは、『ノヴム・オルガヌム』とロックの『自然法論』だけで、『大革新』の序文やホッブズの『物体論』の原文に当たる時間はなく、翻訳をそのまま使ってしまった。来年度以降の課題。これから扱うハチスンは、ぜひ原文に当たりたい。

Wiktionaryの英語版がすばらしい。何がすばらしいかというと、ほとんどすべての語で、活用形を検索すると辞書の見出しの形を返してくれる。昔、Mさんに誘われてS先生の中世ラテン語文献購読ゼミに出ていたころは、こんな便利なものはなかったはず。

学生のみなさんのリアクションペーパーでは、予想どおり、「ベーコン食べたい」の嵐が吹き荒れた。

ベーコンの倫理学・道徳哲学、という話はほとんど聞かないが、『学問の進歩』(原文は英語)には、ある程度系統だったベーコン自身の道徳哲学がたしかにあるなと思った。おそらく手薄な分野。自分で研究しようとは思わないが、授業ではそのうち扱えるかもしれない。

『学問の進歩』、『ノヴム・オルガヌム』の翻訳は↓を参照した。
これだけ長文のラテン語を、きちんと意味のわかる日本語に翻訳できる技術はすごいなと思う。

「真の帰納法」の例として、「熱の形相」についての例しか挙げられていないのは、逆に帰納法としてどうなんだ、というツッコミはなしなんだろうか。
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シジウィック

今学期はリードから始まってシジウィックで終わった。第1原理の自明性、演繹による導出不可能性を主張する点が4人に共通していた気がする。ベンサムではネガティブに捉えられていた常識道徳の功利性が、ミルによる正義と功利主義の無矛盾性の議論を経て、シジウィックではヒュームを引きながら比較的ポジティブな扱いになっていた点は共感できる。ただ、そこから功利主義に基づいて常識道徳を修正していきましょう、というのが、やはりよくわからないんですが。なぜですか。合理的善意の原理が直観的に自明だからですか。

某K先生の某ご著書には某シジウィックの某『倫理学の方法』について「(現在、某翻訳が進行中)」と書いてあるが、まだ出版されていないようだ。某ご著書自体が7、8年前の本なのにどうしたことかとググってみたら、某Ⅰ先生の某Twitterが引っ掛かり、どうやら20年以上翻訳が継続している模様。どうしたことか。
功利と直観―英米倫理思想史入門
児玉 聡
勁草書房(2010/11/26)


奥野先生はまったく拝見したことがないが、文体から、はきはきお話になるに違いないと確信している。
シジウィックと現代功利主義
奥野 満里子
勁草書房(1999/05/14)
値段:¥ 5,184

最初、当然のように「シジウィック」で検索して古本が見つからず、図書館で借りたが、よく見てみたら「シジウィク」だった。
H.シジウィク研究 : 現代正義論への道

今学期の授業がシジウィックに入ってから図書館にあることに気づいて借り出した。ベンサムやミルのときも参考にできればよかった。
自由の法則利害の論理
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ミル

ヒュームの法則と自然主義的誤謬が別物であるということは、よく強調されるところだ。とはいえ、「幸福が望ましい唯一の目的である」というミルの主張の第1の論証、「幸福が望ましい」ことの論証に対するムーアの批判は、ヒュームの法則の侵犯に対する批判だと言っていいだろう。「幸福が望まれている」という事実のみから「幸福が望ましい」という規範は出てこない。

ミルは読んでいてベンサムほど実感が湧かない。尊厳の感覚とか、一体感とか、実感がない。

ミルの言うように、憤怒という正義の感情が功利的だというのは最初からわかりきったことだが、説明が必要なのは、その憤怒が知性と共感により功利の原理に従うものとして正当化・道徳化されるとかいうことではなく、知性と共感により道徳化された憤怒が功利的である理由、つまり、そもそもなぜ憤怒という人間本性が功利的にできているか、だろう。ミルもどちらかと言えば自然神学を支持していたらしいので、まあそういうことになるのか。

正義がresentmentから生じるというスミスやミルのような考えは、どこに淵源するんだろうか。もちろん、人間本性の考察からいつの時代にも独立に出てきそうな考えではあるが。

自由論 (光文社古典新訳文庫)
ミル
光文社(2013/12/20)

・THE SUBJECT of this Essay is not the so-called Liberty of the Will, so unfortunately opposed to the misnamed doctrine of Philosophical Necessity; but Civil, or Social Liberty: the nature and limits of the power which can be legitimately exercised by society over the individual.
本書のテーマは、いわゆる意志の自由ではない。本書で論じるのは、誤解されやすい哲学用語でいう必然にたいしての意志の自由ではなく、市民的な自由、社会的な自由についてである。逆にいえば、個人にたいして社会が正当に行使できる権力の性質、およびその限界を論じたい。(p. 12)

コロンを「逆にいえば」と訳しているようだが、何が「逆にいえば」なのかがわからない。自由を権力から定義している、ということか。でも、まさに「個人にたいして社会が正当に行使できる権力の性質、およびその限界」に自由の本質があるとミルは言っているのであって、何も逆ではないと思う。「誤解されやすい哲学用語でいう必然」というのも、原文の趣旨が伝わっていない気がするし、unfortunatelyを訳していない。

・危害原理はp. 29にあり、moral coercionを「心理的な圧迫」と訳している。古い英語のmoralにそういう意味があるらしい(と、ヒュームやスミス関係の本によく書いてあった気がする)し、岩波文庫訳も「精神的」と訳している(p. 24)が、Samuel Johnsonの辞書を見ても、19世紀にはその用法はなくなっていたように思うし、ここでは法的と対照されているので、「道徳的」と訳したいところなのでは。

なかなかフリーダムな訳文という印象。いや、自由論だからとかじゃなくて。もちろん、わかりやすくなっていればそれでいいと思う(Amazonでの評判は大変よい)が、世界の名著収録の先行訳↓の方がわかりやすく正確だと思ってしまうのは、自分が古いタイプの人間だからだろうか。

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ベンサム

これまで見てきた哲学者はみな、事実の探究と規範の正当化の間に明確な区別があった(ヒュームの法則を破っているかどうかはともかく)気がするが、ベンサムはその区別がないように思うし、本人もそんなことは意識していないように思う。斬新と言えば斬新。The 法学者というか、The 規範倫理学者というか。詳しくはWeb、ではなく論文で。

土屋恵一郎先生の文章がベンサム業界でどういう評価を得ているのかが非常に気になった。

気づいた点を2つ。

世界の名著 (49)ベンサム/J.S.ミル (中公バックス)
ベンサム, J.S.ミル
中央公論新社(1979/10)

・p. 106 注の「第14章第42、44項参照」は、「第16章第42、44項参照」の誤りか。

ベンサム (イギリス思想叢書)
永井 義雄
研究社(2003/02)

・p. 40には弁護士資格を得たのが「69年」と書かれているが、p. 275の年表には「72年」と書かれている。他の本を見ても1769年と1772年が混在しているが、おそらく69年? 72年はリンカンズ・インを離れた年か?
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リード

後期開始。リードに3回かけてしまった。

リードの英語は読みやすい。ヒュームはリードへの手紙で英語の誤りを指摘しているが、いや、あんたの英語より断然読みやすいから(たぶん100人中100人がそう言うと思う)。

ただ、内容は断然ヒュームの方が正しいように思える。以前から「理性が動機づける」と言っている人が何を言っているのか理解できずに困っていて、リードは読みやすいので理解させてくれるかと期待していたが、まったくそんなことはなかった。

リードはムーアに影響を与えたとどなたかが書いていたように思うが、なるほどcommon senseとはintuitionだなと思った。

リードの標準的解釈(というのは、篠原先生も柘植先生もそう書いていたから、おそらく標準的解釈なんだろうと思うが)で気になってしまったのは、regard to what is good on the wholeをsense of interestと同一視している点。自分の中で、半分は「そうかもしれない」、もう半分は「同一ではないのでは」と思っている。

というのは、what is good on the wholeはinterestに包含されるだろうが、同一のものではないだろうから。両者が理性的原理とみなされている理由も異なる(前者は全体として考える理性の働き、後者は一般規則に従う理性の働き)。rewardを提示されたから一般規則に従うというのは、interestではあってもwhat is good on the wholeではない気がする。

リードが両者を同一視していることのテクスト上の根拠を挙げるなら、"I observe, in the next place, That the notion of duty cannot be resolved into that of interest, or what is most for our happiness."というところだ。ただ、interestはwhat is most for our happinessを包含するが同一でないとすれば、orは「すなわち」ではなく「または」だと解釈できると思うが、どうだろうか。まあ、リードもそこまで考えていないかもとも思う。

以下、授業準備をしていて気づいた点をいくつか。

イギリスのモラリストたち
柘植 尚則
研究社(2009/07/22)

・p. 137の引用は「第三試論第三部第四章」ではなく、「第三試論第三部第六章」か。
柘植先生のこの本には、テクストを読む際のガイドとしてだいぶお世話になっている。

トマス・リード―実在論・幾何学・ユートピア
長尾 伸一
名古屋大学出版会(2004/02)

・p. 6 「一年半におよんだ大陸旅行から帰国したアダム・スミスが、十分な年金を得て道徳哲学教授を辞任してグラスゴー大学を去ると、後任問題が持ち上がった。」
スミスは1764年からバックルー公のグランドツアーについていって、着いた先のパリから正式に辞職の手紙を書き、同年にリードが後任に就いたのでは。

哲学の歴史〈第6巻〉知識・経験・啓蒙―18世紀 人間の科学に向かって
中央公論新社(2007/06/01)

・p. 354 「理由は第一に、一九世紀の中葉にロバート・チェンバーズ(一八〇二-七一)が「心のデザイン」論を擁した包括的な自然神学を『創造の軌跡』で世に問うまでは、自然神学の伝統が心的現象に「デザイン」論を適用した事実がないことである。」
この記述はだいぶ前に初めて読んだときからずっと気になっていた。バトラー、ハチスン、スミス、そしてリード自身の記述を見てきた今となっては、彼らが心的現象を神のデザインだと考えていない、というのは、かなり無理のある解釈だと思う。
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スミス

今学期はスミスで打ち止め。スミスに規範倫理があるのかということはずっと気になっていた。もちろん法学があるので、当然あるということになると思う。ハチスンは人間本性の構成を根拠に、神への信仰に基づいて「べし」を導いた(それゆえヒュームに批判された)。スミスの規範倫理は処罰の強制力を根拠としているように思うが、だとすると、似たようなことにならないだろうか。

処罰されるから他人を害しないようにしましょう、という規範に従う動機は義務感なんだろう。それはそれでいい。問題は、処罰の理由であり、規範倫理や法学はそこに合理的説明を必要とする(気がする)。人為的徳としての正義というヒュームによる説明は、そうした合理的説明の一つだろう(ただ、ヒュームの場合は正義や所有の観念の成立史を語っているだけで、規範倫理を意図してはいないように思う)。だが、スミスは処罰のoriginalな動機はresentmentだと言って、処罰の根源的理由を人間本性に帰する。では、結局処罰の理由や正当性のようなものはどこから出てきますか、と聞かれたら、それは神様ですね、ということになりそうだ。

道徳判断に観察者視点が必要だということを明確にしたのは、スミスの最大の功績だと思う(よく考えれば当たり前の話だが、その当たり前のことを明確にするのが重要なことだろう)。だが、スミスが観察者と考えていない受益者や被害者にも、観察者の地位を認めるべきではないだろうかと、昔から疑問に思っている。むしろ、観察者としての彼らのgratitudeやresentmentにおいて、原初的に道徳判断が生じていると言うべきではないだろうか。gratitudeやresentmentがrewardやpunishmentを動機づけるからこそ、判断(評価)はまさに規範となり、この規範性こそが「道徳」判断の必要条件ではないかと。

不偏の観察者は道徳判断の正当化、規範倫理を意図しているのではないか、と思われるかもしれないが、それは規範正当化それ自体を意図しているのではなく、そのようにして正当化する傾向にあるという人間本性の事実について述べているのだと思う。スミス的には、そうした正当化が「道徳判断」という概念の必要条件であったということか。だが、それは本当にそうだろうか。道徳判断の客観性というのはあるだろう。だが、客観的な道徳判断があるからと言って、それだけが道徳判断であり、主観的な道徳判断はないということにはならないのではないか。むしろ、主観的な道徳判断(gratitudeやresentmentに基づく判断)があって初めて、客観的な道徳判断(第三者の判断)がありうるのではないか。

客観的な不偏の観察者に特権的地位を認めて判断を正当化しようとする人間本性は、それ自体興味深い探究の対象であり、探究の前提とすべきものではないだろう。
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ヒューム

『本性論』2巻の情念と理性の話は、どこまでも正しいように思えてしまう。だが、この理解に立ったときに、規範倫理は果たして可能なのか? そもそもヒュームに規範倫理はあるのか?

ヒュームからハチスンへの手紙は面白い。そりゃそんなずけずけと目的因は非哲学的とか書いたら、教授就任反対されても仕方ないのでは。ヒューム的には、同じ哲学者なら自分の言っていることが理解されるはずだと思ったんだろうけど。

ハチスンは正真正銘の功利主義者だったが、ヒュームは、功利主義という言葉の「本来」の意味では、功利主義者ではないように思う(たとえ正義が、人間理性の介在する人為的徳だったとしても)。ハチスン(やおそらくバトラーも)が人間本性の事実から規範を導くことができたのは、ヒュームの言うthe ultimate original qualities of human natureを神により創造されたものと考えることができたから。だが、ヒュームは、それを経験的に知ることはできないから、非哲学的だと言う。ヒューム的には、ハチスンはisからoughtに飛んでしまう人の典型だろう。
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