2021年7月
飯田豊一(濡木痴夢男)氏の軌跡とその仕事 ——新出インタビュー原稿によせて
立命館文学
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回数 : 4397
- 巻
- 号
- 674
- 開始ページ
- 14
- 終了ページ
- 53
- 記述言語
- 日本語
- 掲載種別
- 研究論文(大学,研究機関等紀要)
正誤表
16頁下から1行目「中原るつ氏に」→「中原るつに」
17頁1行目「中原氏は飯田氏の」→「中原は飯田の」
25頁25行目「1969年12月まで、扉ページに」→「1971年12月まで、」
25頁 26行目「しかし、1970年1月号よりこの宣言は消え」→「しかし、1972年1月号よりこの宣言は消え」
本稿は多作の作家として、変態雑誌の編集者として、そして濡木痴夢男の名で緊縛師(自称・縛り係)として活躍した飯田豊一氏の1950年代から2013年に及ぶ仕事を概観し、2008年から死の直前までに行われたインタビューを新たに公表するものである。
飯田は1950年代より、『奇譚クラブ』や『裏窓』などの伝説的なマニア雑誌に関わり、多くの筆名を用いて作品を発表すると同時に、編集者としても腕をふるってきた。回顧録も複数出版しており、彼の証言は戦後メディア史研究において重視されてきた。本稿では、彼の仕事を概観することで、彼の証言を研究に利用する際の注意点について述べる。すなわち、飯田の回顧録は、物語として執筆されており、必ずしも客観的記述を目指して書かれたわけではないことを認識する必要がある。
飯田を単なる時代の証言者ではなく作家として正当に評価するならば、彼の回顧録やインタビューには証言とは異なる重要性が見出せる。飯田が戦後のサブカルチャーにおいて非常に重要な作家であったことは疑いなく、飯田作品そのものの分析が今後待ち望まれている。
16頁下から1行目「中原るつ氏に」→「中原るつに」
17頁1行目「中原氏は飯田氏の」→「中原は飯田の」
25頁25行目「1969年12月まで、扉ページに」→「1971年12月まで、」
25頁 26行目「しかし、1970年1月号よりこの宣言は消え」→「しかし、1972年1月号よりこの宣言は消え」
本稿は多作の作家として、変態雑誌の編集者として、そして濡木痴夢男の名で緊縛師(自称・縛り係)として活躍した飯田豊一氏の1950年代から2013年に及ぶ仕事を概観し、2008年から死の直前までに行われたインタビューを新たに公表するものである。
飯田は1950年代より、『奇譚クラブ』や『裏窓』などの伝説的なマニア雑誌に関わり、多くの筆名を用いて作品を発表すると同時に、編集者としても腕をふるってきた。回顧録も複数出版しており、彼の証言は戦後メディア史研究において重視されてきた。本稿では、彼の仕事を概観することで、彼の証言を研究に利用する際の注意点について述べる。すなわち、飯田の回顧録は、物語として執筆されており、必ずしも客観的記述を目指して書かれたわけではないことを認識する必要がある。
飯田を単なる時代の証言者ではなく作家として正当に評価するならば、彼の回顧録やインタビューには証言とは異なる重要性が見出せる。飯田が戦後のサブカルチャーにおいて非常に重要な作家であったことは疑いなく、飯田作品そのものの分析が今後待ち望まれている。
- リンク情報
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- 共同研究・競争的資金等の研究課題
- 戦後日本におけるアブノーマルなセクシュアリティと近代化/反近代化論