研究ブログ

研究ブログ

JFSAアマチュア3位入賞!

全日本のフリースタイルスケートボードの大会と言えば、JFSA主催の大会。

2024年4月21日(日)に、イオンモール浜松志都呂店のイベントスペースにて開催された今年、最初の大会でアマチュアクラスで3位に入賞。

 

国内大会で初めて、盾をいただきました笑う

 

いやーー、続けているといいことがあるものですね。

 

競技の大部分を伸び盛りのキッズたちが競い合っている今日。

よほどの才能がない限り、練習量がものをいう世界ですから、先に始めた同年代を抜かすのは結構至難の業です。

 

そうした中において、後から始めた子どもたちが心をおらずに続けられる布石として、著しい成長をせず、体力の限界がすぐにきてしまうおっさん、おばさんたちが、ある意味ええかんじで、目指せる目標値として存在していること自体に意味があります。この点において、「オヤンズ」として、キッズの踏み台活動の一部として競技を続けているわけです。

そうしないと、特に子どもたちの場合、親御さんの練習させたい熱に巻き込まれてスポーツ障害に陥ったり、教育虐待と紙一重になてしまいがちです。

だからこそ、親子ともに「あのおばちゃんを抜けたね、頑張ったね」といわれる存在は大事です。

まぁ、抜かれたら抜かれたで、おばちゃんのメンタルはやられるわけですが(笑)

 

他方で、42歳を過ぎ、衰える体力のなか、踏み台として競技を続けることは楽ではありません。

勝ってもうれしくないような相手は相手にされないので、そこそこ目指してもらえるだけのポテンシャルは維持しないといけないし、仕事が忙しくなる中…練習時間も取れず、メンテナンス時間はもっと取れない。

 

時間の経過に従って伸び盛りのキッズに、時間の経過に従って伸びしろがどんどん薄く伸び切っていく私(笑)

そんな身体をかかえながら、表現をしていくのは正直、しんどい。

そのしんどさをキッズたちがわかるようになるのは、だいぶん先・・・

上げ膳据え膳で競技に専念できるのは、ほとんどのケースで小中学校の間だけ。高校に上がるとアルバイトを始めて社会と接触したり、社会人に近づきながら大学生をしたり、高校や専門、大学を卒業して仕事を始めていけば、デッキを買うお金も、仕事と折り合いをつけて限られた時間で練習することも、いろんな制約の中で滑ることになる。

今まで親御さんがしてきてくれたことに心から感謝を覚えたり、今まで社会人スケーターをメイクしきらんおっさんと簡単に批判してきたことへの反省を覚えたり…するのでしょう(笑)

 

そうした成長の過渡期には、思っていたように滑れなくなっていく自分と出会います。忙しくて競技に参加するモチベーションを維持するのも難しくなるでしょう。結果、子どもたちだけで大会が回ると、勝てるか負けるかだけがスケートボードの世界になってしまう。

これまで勝っていた側にいたのに、勝てなくなり、楽しくなくなり、競技からもスケートボードからも去ってしまう。そうなる前にこそ、思い出してほしい。

 

グズグズの滑走になっても、自分らしく最後まで走るおっさん、おばちゃんたちの爪痕や、限られた練習機会の中で自分と闘っていくすがたのなかに、スタイルや自分の考えを織り交ぜた「妥協」と「折衷」のスケートボードがあることを。

何も誰かに勝って、すごいといってもらえることだけが競技者としての華ではないことを。

 地味でっても、第一線にいなくても、スケートボードコミュニティに貢献できることはたくさんあって、今の自分に何ができるかを考えて行動していくことが次の道を切り開いていくことにつながることを。

 

そんなこんな、いろんな思いを抱えて参加しているのです。

今回はふがいない滑走でしたが、最下位から名前が呼ばれていくとき、なかなか自分と娘の名前が聞こえませんでした。最後の方まで残っていることがわかるにつれ、ドキドキするのですが、3位の段階で自分の名前が聞こえたとき、娘に負けたことが確定するとともに、娘が1位か、2位に入賞することが確定し、プロクラス入りへの道が切り開けていく瞬間に心の中が「まっちろ」にゆらっと動いていく感覚を覚えました。

 

我が家も、ご多分に漏れず、やれやれ!と言っていた時期があり、それを反省して、楽しく、自分がやりたいときにやりたい分だけやればいいというスタンスに切り替え・・・

それからは、「試験があるから大会でないー」とか、「気分的にスケボー、今日はしない」という週2回すらも練習しないノー錬、スケボーは友達と遊んでなんぼという遊びっぷりでの大会参加スタイル。

娘自身はそれだけで食うていかれへん道で偉くなっても仕方がない。食い扶持確保しての遊びで十分というスケートボードどっぷりではない遊び方を自分で考えて貫いているので、そういう遊び方のなかでサポートしてきましたが、練習をガンガンやっている子たちにはいわずもがな。すごい距離を開けられながら、娘なりに悩んだり、もがいたりもしつつ、決してぶれずに遊びの範囲で遊んできた。

しかも、娘は女子であっても、跳び技、ハンマートリックが好きで、大会中にインポシ出したり、トレを決めたい派。

こだわって続けているそのこだわりと、世間との乖離も自分で分かってやっているからこそ、お付き合いするしかないわけですが、親であるので、親としてもどかしさやもっとうまくやれば楽だろうにと思うことを飲み込みながら、今回は「受験勉強に専念するから今年の最後のランに悔いがない滑走をする」という目標の中、練習をして、2位。本当に、やりやがった!と驚かされました。

 

色んなすごい選手たちと滑れて、大会が楽しかったと、うれしい一言を娘からもらい、娘の踏み台になりながら、親としても競技者としても、一緒に楽しみながら、結果も出せた大会でした。

親子でいただいた景品は、大学のスケートボードサークルで大事に使わせてもらいます!

 

大会運営の皆さま、ありがとうございました。

一緒に滑った参加者の皆さんの滑り、それぞれに素晴らしく、楽しいひと時でした。

 

 

0

長短腓骨筋のパンプアップ

もともと、石畳や凸凹の多いメキシコの道を毎日20キロ以上歩くようなフィールドワークをしていたので、前脛骨筋は人よりもかなり発達していました。これが、ダフィーを始めたときに、足首を反らす動作の多いトリックの習得においてものすごく活躍したことは間違いない。

ダフィー自体は、不安定な板を両足で踏みながら操作していくので、足首の固定しながらの開放がキーとなる。一定以上は固定していないといけないのだけど、固めていると滑走できないので細かく稼働できる一定の幅の間で動かしながらそれ以上はぶれないように固定するというイメージだろうか。

上下動は前脛骨筋がかなり働くのだけれども、滑走し、加速減速をするには、親指の付け根から内側に蹴りだす力と小指を持ち上げて外側に蹴りだす力とがひつようになるので、長短の腓骨筋が重要になる。

自分の足が練習に伴って、見たことのないような筋肉のつき方をしていくのも、あぁ、その動きしたらその筋肉が付くのはわかっていたけど、そんなにつく?みたいな状況です。

おそらくマッスルを目指してトレーニングされている方からして、そこ、どうやって鍛えたの?って思われる筋肉のつき方(ダフィー筋と呼んでます)をしています。普通、短腓骨筋だけもっこりしないものね(笑)

 

とはいえ、日々の状況だけで言えば、オーバーユーズのため、シンスプリントが常に悩みの種です。メンテナンスをしながらの調整をずっと続けています。

最近は仕事の忙しさに練習が追いついていないので、シンスプリントに悩まされない(笑)

という、自虐はさておき、スポーツ障害にならない手前をどう維持するかを競技者としても調整しながら試してきているわけですが、その際にどの筋肉がどこにつながっていて、どんな動きをするからここに炎症が出るという基本的な動作と部位の連動性を捉えていくことは重要です。

この点では、私は専門外でもあるのでどなたか、スポーツ障害予防とか、運動と筋疲労からの回復みたいな研究をお手伝いしてくださる方、いらっしゃらないかなぁ~

 

 

 

0

ストリートチルドレン研究からの学び

メキシコ市のストリートチルドレン研究が私のライフワークの一つですが、麻薬産業の興隆、交通網の再整備、ラテンアメリカ社会からアメリカ合衆国へと移動する人々、80年代の経済危機からようやく回復の兆しが見えだした後のメキシコ地震とコロナ禍など、路上で稼ぐ、路上で暮らす人々を取り巻く環境は、彼らの生存戦略をはるかに上回るペースと力で彼らの生活状況を変化させていきました。

問題状況が良くなったとは決して考えていないのですが、脆弱がゆえに形を変えて生きながらえる、生き方を変えて生きられる場所をもとめて変容するため、ストリートチルドレンは随分と数が減りました。

継続して追跡している元ストリートチルドレン、ホームレスやストリートベンダーもかなり追跡が難しくなってきたところで、メキシコ地震とコロナによって調査は中断しています。本当は一番データをとりたかった時期でもあるのですが・・・

 

さてさて、2006年頃から、実はGISの手法やその元となった地図上に記号化してデータを乗せていくような方法の模索を、質的調査の量的化というプロセスの中で模索していました。

ストリートチルドレンの所在を地図化していく試みなどをしていたわけです。また、どのような場所に所在しているかを、地図情報と重ね合わせるなどの研究は、目からうろこな解釈も産みました。

セントロの近くの通りに、ストリートチルドレンとホームレスの多い教会広場がありますが、その北と南でいる量が違い、同時に教会の南側と北側にはそれぞれ対面1車線の同じような道がありましたが、北側には子どもたちはいて、南側にはいない。その現象がとても不思議でならなかったのですが、確かに、何度も歩いていると、北側の方がいやすい体感は持っていたのです。地図とあわせてはじめてわかったのですが、南側には地下水脈が通っているのです。体感的に寒い印象を持っていたのは、確かに寒かったのです。

身体を常に晒している子どもたちにとっての、研ぎ澄まされた生存本能が、どの通りで寝るかを決定させていたのでしょう。

彼らには、そこを選ぶ理由があって、明確に言語化できない理由も含めて、居ることのできる場所には意味があるのです。そのいくつかは、実家への経路に近い、稼ぎの場所に近いけれども人にぶつかることのない場所、身を隠せるところがある、いつも顔なじみになれるが適度に無視をしてくれる大人が住んでいる住商一体型4-5階建てたてもののそばである…いろんな理由があるのです。

統計学的には外れ値になりやすい対象者を捉えて、彼らのリアルに迫るとき、彼らがいきるその空間そのものを捉えて考えていくことの重要性と、彼らがその空間に求める条件を知っていくことはとても重要でした。

 

それ以上に、幼少期の愛着形成に困難を抱えて遺棄された子どもたちにとって、ピンポン玉を重ねたような著しくもろい集団に身を置きながら、警察や暴漢、炊き出しや支援などに応じて住む場所も、仲間も、暮らし方も変えていくストリートチルドレンやホームレスにとって、その集団がいる場所の刹那性はとても捉えがたく、次、そこに行って会える保障のない中で、ストリートチルドレンの研究は彼らを探すことから常に出発するので、彼らにとって意味のある大地を彼らの間隔の中で、今与えられた条件の元、探し出す、割り出す作業を積み重ねると、雨だからこっちに行ったかなとか、市場がたつから今日はあそこら辺を探そうとあたりをつけられるようになるのです。

 

話は変わって、スケーターにとっても、スポットというのは、基本的には閉じた関係性の元で少人数で使う場所です。人数を多くすれば通報されやすくなるため、集団を大きくしません。そして、状況可変的に場所を移動します。でも、滑りやすさや集まりやすさ、面白みなど、彼らの条件のもと、スポットは確かに継続的にあり続けます。

 

変化する場所と、変容するメンバーのなかで、どこが算定されていくか、という面白い問は、スラムや住民運動など、行けば会える人々を研究対象にする限り答えようがありません。そして、移動する人々は、往々にして捉えにくいからこそ、研究の対象の外側に置かれやすいなか、彼らを捉える手法は十分に確立されていません。

私の興味関心は、そうした場所で展開されている営みそのものに偏っているので、研究手法的にも、そんな再検証可能性の担保されないやり方なんて・・・といわれたり、ぼんやりしすぎてわからないといわれたりしますが、曖昧模糊と見落としてきた、見ないふりをされ続けてきた問題や課題を掘り起こしていくことに意味があると思っています。

 

スケーターは、少数で自然発生的に集まり、他者を記号とあわせて認識するようなことなく、その場を共有する遊び仲間としてのみ認知するためにお互いの所属を知らない脆弱な関係のまま、時間と場所を共有する傾向が強い。だから、パークを作るような運動の基盤となりにくいし、そもそも公式的に集まれる場所のなかった人々がリスクを冒して集まるとそのリスクがより高まるなかで、集団化しない、組織化しない、だから圧力団体としての力を持ちえないという構造があります。

雪山や、氷の上のように、そこでしかできないわけではない、選択肢が多様に都市内部にあるからこそ、より組織化しにくい存在だったりするのです。こうした特性を理解していくなかで、現在のパーク請願運動などが位置づいていくことで、どうやって巻き込んでいくかなどスケーターだからこそのやり方が見えてくるはずです。

繋がっていないようでいて、ストリートチルドレン研究とスケートボード研究はとてもニアリーだと感じています。

0

フリースタイルスケートボードの世界大会 ワールド・ラウンドアップ

2023年5月19日(金)~ 22日(月)にカナダで行われたフリースタイル・スケートボードの世界大会「ワールド・ラウンドアップ」に参戦してきました!

大会情報が公開されたときに、今年のエンブレムがダフィーでした。

この機会を逃せば、2枚使いの歴史やスケーターの感覚言語を収集する重要な機会を失うと思い、同時に、ダブルデッキスケーターが集まることを期待してエントリーを決めました。エントリーを決めたもう一つの理由は、全日本のchampionである女児を1人、帯同させることでした。

娘にはつらい宣告にもなるけれど、娘も十分に戦える違うタイプの滑走者でありライバルですが、日本の至宝を世界に羽ばたかせる、それは同じ競技者として後進の道を切り開いていく必要でもありました。

 

さて、話を戻して、大会にエントリーした時点では、ダフィー使いの神様リン・クーパーは「僕は行かないよ~」とのことでした。DMへの返信を見て、カナダで会えないならアメリカ行くしかないじゃない!とどこかでアメリカ行きを心に決めていた節もありました(笑)

ところが、エントリーが終わった段階で大会参戦者リストを見てびっくり!

リン・クーパーもいるし、TOKYO2020パーク男子のカナダ代表選手であるアンディ・アンダーソンの名前もある。オーガナイザーのケビン・ハリスの滑りも見れたら、現在進行形で生存しているダフィーの神様には全員会えるということが確定の大会。

調査者としても競技者としても、飛び上がりたくなる気分だった。

そんな大会を控えながらも、社会人であることは結構厳しく、エントリー後に始まった共同研究でほぼすべての土日は千葉と長野の往復に消え、平日は授業という感じ。大会前日も、午前中に授業をして、学生との面談をして、昼食をとる間もなく、帰宅して娘と新幹線に乗り込み、京都からくる女児を東京駅でピックアップして分刻みのぎりぎりのラインを攻めて羽田に向かい、カナダへ。

こちらのスマホの都合と、お迎え相手への連絡手段やら行き違いもあって、バンクーバーで3時間ほど待機して、ピックアップが迎えに来てくれたのは夕方。お疲れ&不機嫌モードの子どもたちを連れて、車でホテルについたら、夕食や朝食の買い出し&調理。子どもたちのシャワーの後の洗濯…

★★

翌朝、時差ぼけ&朝食準備のためにほぼ仮眠状態で、子どもたちにご飯を食べさせ、大会会場に向かう準備をして、出発。

カナダの道広い!会場に行く途中にあるスケボーパークで仲間と出会い、インスタつながりの海外勢とも出会って「あ!見たことある人!!」とおのぼりさん。

ライバルなのに、さっそくみんなでワイワイ、がやがや。不思議なもので、スケーターって、どんな大会でもルティン以外の時間は本当にただただ遊びまくる仲間で、すぐ友達になる。なんかいいなぁと思ったら、すぐにグータッチして「うぇーい」っていうし、デッキをならす。

睡眠不足に、若いスケーターのハイテンションに、ひと遊びして怒涛のテンションで始まった大会は、移動疲労からの転倒。はじめてのカーリング場という路面・・・つるつるなのに砂ぼこり…これが滑るのよ。

1本目の滑走が終わったとき、長尾一慧がグータッチ。その後すぐに、審査員席に座っていたラス・ハウエル(ハンドスタンドトリックの第一人者!)がハグでお出迎え。順位は最下位だったものの、実は滑走そのものはとても楽しかった。

、ドンケツスタート。しかも、大会時間が長い!

日本国内ではMCがトリック名を読んでくれないダフィーだけで構成するルティンに対して、ラウンドアップではほぼ全てのトリックを拾いあげてくれた。しかも、国内では、これまで別トリックとしても扱ってもらえなかった細かな違いを拾ってもらえて、シグニチャトリックもトリック名を呼んでもらえる。自分が滑走していることを認めてもらえて、居場所があるような瞬間がそこにはあった。同時に、日本だと転倒すると、「惜しい」「あーー、残念」のようにネガティブなワードを投げかけられるけど、ラウンドアップでは「これからだよ」「彼女の滑りを見て」「会場はもっと拍手しなきゃ、これからがいいシーンだ」「いくんだよ」というようにポジティブな声掛けをしてくれた。だから、滑走中、常に滑走が楽しかった。

ダフィーが一世を風靡した時代に滑っていた方々が審査員席にいるだけではなく、MCが事前にエントリー者のトリックを知っていてくれているのがとてつもなく心強かった。初めて感じる、幸福な空気に包まれた大会だったと思う。

 

自分の滑走が終わった後、参戦しなかったアンディ・アンダーソンのデモンストレーションが行われることをしったのだけど、その前に、よくわからないまま自分の名前が呼ばれた。

デモに呼ばれたことがわかって、驚いた。

一握りのスケーターだけが選ばれるようなデモンストレーション。日本人チームでは一番実力がないと判断されていた私だったので、周りからなんで呼ばれているの?という顔。海外勢からは拍手が上がったり、うなづきがあったり。なんだかよくわからなかったのだけど、1回目のデモを終え、ドキドキしながらなんで選ばれたんだろう?と不思議な体験に脳みそがかき混ぜられていたとき、審査員の一人が「採点用紙のコメント欄が真っ黒になるくらいコメントであふれている。こんなのありえない。だからだよ」と教えてくれた。

 

ラス・ハウエルがあなたのダフィーは美しい、そういってくれた時、目指してきた滑走が認められる世界があることを知った。

これまでダフィーだけのルティンは邪道、認めない、そういわれ続けてきたなか、トリックを呼んでもらえない大会で戦ってきた。それは、それで自分が決めた道とはいえ、辛らつな道だったと思うからこそ、大会が違えば、ジャッジメントが違えば楽しさがこんなにも違うのかと思った。

★★

大会を通じて、背面のオープンフットターン(イナバウワ)、クロスデッキスピン、シッティングダフィーのサイドカー、クロスフットターン…出したいシグニチャトリックはすべて出すことができ、大会期間中、毎日デモンストレーションに出させていただいた。

今年のエンブレムがダフィーであったこともあるだろうが、あえて跳び技を入れない滑走で挑んだフルダフィールティン。

ケビン・ハリスの奥様から、私はずっとダフィーを長年見てきたひとりだけど、あなたのダフィーは誰よりも素晴らしいといっていただき、ケビン・ハリスからもダブルデッキのスピン記録を抜きなさいといってもらえたことは競技者として至極のひと時となった。

また、この10年ほどケビン・ハリスを滑っているところをみないといわれていた中、日本から来た理由を「1枚の滑走シーンはビデオで見ることができるが、ダブルデッキの映像にアクセスできないのであなたの滑りを観たい」と個人的に訴えたところ、最終日のデモンストレーションに「ダフィーの歴史」を組み込んでくれて、歴史的経緯の解説とともに、リン・クーパー、ケビン・ハリス、山本勇、私、アンディ・アンダーソンというメンバーでの滑走デモを行ってくれた。

ケビン・ハリスのダブルデッキスピンが始まったとき、もう、泣いちゃうよね。

あこがれていたスケーターに会えて、一緒に滑りたいと思ったスケーターと一緒に滑れて、その滑りを見るだけでも最高なスケーターに囲まれて・・・。

 

滑走写真

★★

それだけでも幸せだったのですが、帯同させていたかいちゃんが女子の部で優勝。娘は3位。私は7位入賞。

娘の3位の時点で号泣してましたが、4日間飯炊き係りしていたかいちゃんの優勝でも泪。

2人の頑張り、競技者であり仲間でありながらも同じ部屋で片方は親がいて、片方は親がいない中の緊張や不安、いら立ち、嫉妬…娘も、かいちゃんも二人をそばで見てきたから、本当にうれしくて、悔しくて、泣きっぱなしなでした。それを同年代のスケーターに「おかあさん、いそがしいなぁ」と愛のある笑いをうけながら、自分の7位の表彰。

女子の部から、男子、プロとクラスごとに表彰が進んで、大会中に仲良くなっていた男子プロクラスのスケーターさんと入賞写真を撮って「うぇーい!」としていた時に、また私の名前が呼ばれる。

プロの表彰もおもわったから、なんで呼ばれたかがわからなかったのでスト・ストラウスといてたら、再度がっつり名前を呼ばれて、周りが私を見る。

名前を呼ばれたのが、大会に唯一競技者として名前を残すことのできる「ヘンリー・キャンディオッテ・スケート4ファン賞」の授賞式。

周囲が気が付いてから自分が気が付くまで何秒のタイムラグがあったかがわからないけれど、自分の名前がスケート4ファン賞のプレートにかかれているのを見て、ケビン・ハリスがハグのポーズをとっている。彼が直々に賞の内容を説明してくれているスローモーションが目に入った途端に、もう一度涙腺崩壊。

 

水が流れるようにスムーズに、歩くようにウォーキングする、そんな美しい滑走者を表彰するスケート4ファン賞。この賞を目指す多くのスケーターがいるなかで、「僕はダフィーは好きじゃなかったけど、君のは特別だ。君にこの賞はふさわしい」と同じ競技者からも祝福されたことがとてつもなくうれしかった。

これしかできないのだけれど、ダフィーが好きでこのトリックにかけて磨いてきた数年間が報われた瞬間でした。

★★

とったデータを持ち帰ってコツコツ研究に生かしながら、なかなかリアルにつながることのできない海外選手との直接的な交流が持てて、今後の研究にも生かせるようにコネクションをつくりながら、子どもが始めたことをきっかけに始めたスケートボードで、スケーターとしても名前を残すことができた世界大会。

何事も、本気でやってみると、道が切り開けることもあるのでしょうね。

 

★ワールド・ラウンドアップ★

パウエルのスケートチーム「ボーンズブリゲード」の一員で伝説的なスケーターの一人が主催する世界大会で、世界最大のフリースタイル大会の一つ。

https://www.theworldroundup.com/competitors-2023/

0