研究ブログ

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国際和解映画祭学生実行委員会の吉田凪さんから和解学についてインタビューを受けました。国際和解映画祭は2021年7月10・11日に開催されます。


吉田:今回、お忙しい中、インタビューの機会を与えてくださり、誠にありがとうございます。最初に、和解学について説明いただけますか。
 
<熱い心を、冷たい頭で:和解学の方向性>
和解学というと和解を実現するための学問のように思われますが、まず、それは違うよという話を最初にさせて欲しいのです。和解を自己目的化して、それを実現しようとする学問が和解学というのは正しくありません。和解とは何かを考える際に大事なのは何と何の和解なのか、そしていかにしたらその条件は成立し得るのか、なぜその条件の成立は困難なのか、いろいろな問題を深く考えるための知的インフラこそが、和解学です。
 歴史上、そして現代や未来における多様な和解を想定しながらも、和解学のアプローチを一言で説明すれば、「和解」という問題を深く考えて、それらを主体間の「妥協」や「取引」と区別し、持続させていくための条件を考察することを可能とする学問です。その意味で主体の変容を伴う新しい関係をも視野に入れた、構築主義的国際関係学となり得るのが、私自身の考える和解学です。しかし、和解学創成のプロジェクトに関わってくださっている研究者には、それぞれの想いがあり、それらを総合しながら、熟成している作業を今も行なっています。


 共有されている大事な点は、歴史問題を想定しながら、「和解学」は構想されているという点です。つまり、国民相互間の和解を、市民相互の和解との関係の上で考察することが、和解学の最重要課題であると思っています。
国民相互の和解を、妥協や取引によって生み出されるものから区別して、永続する関係の基礎となるような、そして主体としての国民自体の変容をも、伴うものとして考察していくことができるための学問、ということもできると思います。そのためには、逆説的ですが、我々の頭を冷やさないといけないと思っています。血の通い合う「熱い心」に支えられた和解を実現するためには、頭を冷やして我々自身を対象化する必要があると思うのです。
 
<国民相互の和解>
和解学が当面の対象とする国民相互の和解を考える大前提となるのは、国民という存在が、東アジアにおいていかに構築されてきたのかという問題です。西ヨーロッパに比べると、東アジアで国民形成が始まったのは、この100年150年の話に過ぎません。だから、「我々」もしくは「自分たち」はまだまだ変化していける、変わっていけるのだという意識、そして、「自分たち」以外の人々との関係の中で自分たちは生きているのだという意識がともに、芽生えることが、和解を考えるにあたっては大前提となると思います。
他方で、ナショナリズムというのは一言で言うと、「我々」という特定の集団を、他の人類と区別した上で、我々としての「統一・独立・発展」を実現しようとする「思想・運動・感情」です。人間は、群れを作って生活していますが、家族、地域コミュニティー、企業、団体の延長線上に、基本言語や生活習慣を同じくし、歴史的記憶を共有する人間集団として国民があると言っていいでしょう。人口翻訳機械が完全自動翻訳を、感情や哲学の面でも実現したとしても、こうした国民集団はそう簡単には消滅しないと思います。なぜなら、警察や軍隊という形の実力組織を独占しているのが、「国民」を主人公とした「主権国家」だからです。「主権は国民にある」という主権在民の思想は、憲法の中心ですが、国民とは何かという問題が、実は、すっぽりと、ブラックボックスの中に入っているわけです。先ほど、歴史的記憶の共有と言う話をしましたが、記憶の共有によって、感情もまた国民感情として共有されます。また、そうして共有すべきとされる感情は、国民としての価値や規範と結びついているケースが多いです。例えば、日本では平和という価値が戦争や空襲の記憶と結合していますし、韓国では自由や独立という価値が植民地支配の記憶と結合しています。
 
<国民内部の記憶・感情・正義を巻き込んだ紛争>
こうして国民という集団が、超巨大な集団として、心の中で想像されて存在するようになっているわけですが、日本の場合、国民意識を支えているのは、被害者としての戦争体験、原爆や空襲の記憶であることがよく指摘されています。なぜ、国民意識は被害者体験と結びつくのか、加害体験とは結びつかないのか、これは重要なテーマですが、その例外が戦後ドイツであるということができるでしょう。「こんなにもひどいことが行われたにもかかわらず、我々は、それを克服した」というのが戦後ドイツの国民的アイデンティティになっているわけです。戦後日本と戦後ドイツは、終戦の状況も、そもそもの戦争目的も、歴史的には非常に異なりますが、それを踏まえた上でも、被害の記憶だけから国民を立ち上げる方式では、とてもグローバル化の時代には耐えられないように思います。グローバル化の時代には、過去の歴史解釈がそれぞれの国民ごとに異なるという状況が、国民感情摩擦につながるからです。ある社会ではタブーとされ、忘れ去られていた過去が、他の社会では決して忘れてはならないものと記憶され、国民の歴史に組み込まれているということがあることは、理論的には納得してもらえることでしょう。しかし、理論的な納得と、感情的なそれとは別です。歴史的には、第二次大戦中、その戦争目的はともかくとして、各地の戦場や後方地帯における現地の人々とから見て、日本人兵士はどちらかというと「加害者」の立場に立つことも多くあった(兵站のための食糧調達や軍夫動員の必要性から)ということができるわけですが、そうした記憶は国民の中に共有はされてはいないままとなっていますし、また、その総決算を行なったはずの賠償交渉や戦後の関係正常化も国民的記憶からは抜け落ちています(ぜひ私の著作目録の該当作品に当たって欲しいです)。
だから、そうした加害の記憶に向き合わざるをえないと、国民としての価値やモラルを巻き込んだ紛争が、国民の間に起きて、感情的な議論が国内にも、国際間にも生まれるという構造がうまれてしまいます。靖国問題、教科書問題、憲法9条改正問題、皆そういう側面があります。正義や価値のレベルで二つ分かれているだけではなく、国民感情のレベルでも分かれます。おじいちゃんとか先祖がやった戦争を悪く言うのは自虐的な歴史観でけしからんっていう形で「熱い頭」になって感情が掻き立てられてしまう人と、逆に、加害責任や植民地責任に向き合わないといけない、向き合ってこそ初めて和解への入り口が生まれるんだっていう人たちと2つに分かれます。国民感情に対応する記憶が選び取られ、アニメでも映画でも描かれ、人々の間に激しい摩擦を引き起こすことになるわけです。
 
<紛争から頭を覚ますための新しい歴史学>
こうした記憶をめぐる紛争において、日本だけではなく、アメリカも、韓国も、台湾も、大なり小なり似たような状況にあります。それはグローバル化の中で国内の格差が開くからそれを封印して見えなくするために政治家が必要とするからですし、また、グローバル化の中の競争にあたっては、同じ言語を共有して実力組織を保有している主権国家間の競争が、実は激しくなるからだとも言えるでしょう。
ではどうしたらいいのかということですが、第一に私が提唱したいのは、記憶や感情自体を対象とする新しい歴史学の方法を取り入れることです。
例えば、占領から戦後にかけて、日本人の戦争の記憶は、どのように形成されたのかという問いに対する研究が、いろいろ行われています。東京裁判でインド出身のパール判事が日本を弁護したという話は、みんなも知っていますね。しかし、パール判事が、なぜにして、あのような行動を取ったのか、いかにパール判事を保守的な日本人が歓迎したのか、新しい研究が出ています。それはパール判事の言っていることが正しかったのか否かという問題よりも、正しいか否かに関わりなく、いかにしてその言説が広まったのかという過程を、歴史的に分析する研究とも言えます。少しだけ戸谷由麻さんの研究を紹介すると、パール判事は戦後日本に3回、1952年10月と53年と67年に来ているわけですが、それこそが記憶の分裂の重要な起源でした。その時まで東京裁判は正義による判決だと言われていたのですが、パール判事は裁判の最中から、そうではないって言っていたわけです。しかし、占領期間中は、GHQの検閲があったために、それを広く報道することはできませんでした。しかし講和条約が発効して直後に、パール判事を迎えた日本人の弁護士や言論人を中心とする「保守派」は、パールを連れて、全国を講演して回ります。そして東京裁判の被告たちの早期釈放を唱えていくわけです。それは勝者の裁きだったという論理です。パール判事の判決書をもとにしたパールの講演に、あちこちから感激の嵐が上がった様子が記録されていますが、それこそが、今の日本の保守派の起源と言うことができると思います。
しかし、占領期に政治的インパワメントをされた労働者や女性を中心とする「平和勢力」の方は、パールを大変煙たがりました。正義は、ここから二つに分裂したんだと思います。東京裁判は勝者の裁きだったのか、それともセルビア、ルアンダで復活する国際刑事裁判の先駆けをなすものであったのか、その論争は今でも、収まることなく展開されています。むしろ、国民的アイデンティティーに分裂して組み込まれてしまったことで、解決不能な問題となっていると思います。
また、国内の分裂状況は、国際社会との連携のあり方とも関係がありました。正しい戦争裁判であったという主張は、国際社会では、ニュルンベルク裁判に続いて東京裁判が位置づけられているように、ある種のグローバルスタンダードとなって、今に至っています。インドのネルー首相も、パール判決に対しては、それはインド政府の立場とは何も関係がないという発言をしているほどです。これに対して、パールの講演を「涙を流して」受け止めた方は、「日米関係に刺さったトゲ」として、巣鴨戦犯の釈放をアメリカに働きかけ、岸首相の訪米によって、この問題を解決していくこととなります。「日米癒着」と「左翼」から批判されるような国際・国内を跨ぐ政治経済社会構造が、「戦後日本」を規定していくのが、この1950年代と言うことができると思います。その延長線上に現在があるわけです。

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韓国から帰ってきました。

昨日まで、韓国に4日ほど滞在し、短い間でしたが、太平洋戦争遺族会の方々を中心にお会いして参りました。御紹介いただいた臼杵さんはじめ、関係者の方には、誠に感謝申し上げます。韓国の中の深い世界を目の当たりにしながら、和解というものを実現していくための障壁がどのようなところにあるのかを、目の当たりにした思いです。
 遺族がお骨を拾う。亡き父を、夫を探し求め、偲ぶ追悼する。この思いに日本国内で応えてきたのが、厚生省の事業でした。しかし、世界大戦後に、韓国人・台湾人は戦中は日本国民として闘ったにもかかわらず、非日本人とみなされ、さらに、国交正常化により戦前に由来する「一切の請求権」を政府間で無効にされる、もしくは、されるのが当然という扱いを受けてきました。
 他方で、韓国の中では、朝鮮戦争やベトナム戦争に従軍した兵士には十分な年金が支払われ、戦友会も開催され、社会で公的な認知を受けたにも拘わらず、「太平洋戦争」に従軍した兵士は「親日派」とみなされ、年金もなく、戦友会も開催できない状態にあったこと、今回、よく分かりました。
 1990年春の、盧泰愚大統領の訪日の時、韓国の遺族は、韓国の国会の前に三日間座り込んだといいます。日本が当然支援すべきであるという立場からのものでした。しかし、日本側は「戦前に由来する請求権は清算済み」の立場で個人補償は相手国政府の責任という立場でしたから、基本的には「責任を取ろうとしない」ということになります。
 つまり、日本側は、講和条約による国籍喪失と国交正常化による請求権の時間的制約承認という条約上の枠組みを理由として、そして、韓国側は親日派というレッテルと経済的貧困を理由として、日本の厚生省がやるべき、遺族の援護事業にどちらの政府も動かない、そんな状態にあったと思います。
 それを打ち破ったのが、民主化後の日韓の市民の連帯と、『強制動員』の「責任を取ろうとしない」日本政府の糾弾という枠組みであったのだという、事実を確認することが出来ました。
 1991年12月の金学順ハルモニが慰安婦であると名乗り出てきたのも、本来は太平洋遺族会の記者会見場であったことも私には、衝撃的でした。臼杵さん、本当にありがとうございます。慰安婦を捜し求めていた、女性運動、キーセン観光反対の文脈で、慰安婦問題が再発見されていく文脈と、遺族運動との合流はまた書きます
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世界スラブ学会(ICCEES) 第8回大会[ストックホルム]で発表いたしました

PANEL: V.01 COMPARISON BETWEEN RUSSIAN, JAPANESE AND BRITISH EMPIRES: THE EXTRATERRITORIALITIES IN EAST ASIA
Room 359

CHAIR: Naganawa, Norihiro (Hokkaido University, Japan) DISCUSSANT: Stolberg, Eva M. (University of Duisburg-Essen,
Germany)
PANELISTS AND PAPERS:
Sakon, Yukimura (St. Petersburg Institute of History, RAN, Russian Federation)
Whose is the Amur River? : Russo-Chinese relations in the last years of the Russian Empire
Asano, Toyomi (Chukyo University, Japan)
Regionalism or Imperialism?: Japanese options toward protected Korea in the international relations after Japan-Russo War,
1905-1910
Ladds, Catherine (Colorado State University, United States)
Imperial ambitions: The politics of nationality in the Chinese Customs Service, 1890-1930
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中部政治学会にて発表させていただきました。

中部政治学会の報告は以下のように行われました。
・小川浩之(愛知県立大学)

 「イギリス帝国と三つの「脱植民地化」−公式帝国・非公式帝国・コモンウェルス−」

・浅野豊美(中京大学)

 「近代日本における帝国と地域−その交錯と方法論的考察」

・近藤潤三(愛知教育大学)

 「忘れられた独裁 東ドイツの実像」


 

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第3回日韓社会文化シンポジウムで発表しました。

◆日時
2010年7月9日(金) 13:00~17:30


◆場所
帝国ホテル大阪5階 八重の間
大阪市北区天満橋1-8-50 アクセス


◆内容
主題:日韓関係100年 ―省察と課題―
開会辞  朴商銀(韓国学術研究院理事長・18代国会議員)
祝辞   任ソンジュン(韓国外国語大学 碩座教授)
祝辞   呉榮煥(駐大阪大韓民国総領事)
【基調講演】「日本の植民地支配と在日韓国・朝鮮人」
          樋口雄一(高麗博物館館長)
【第1セッション】韓国併合の歴史的意味と日韓関係の現在
   「実際にあった韓国併合と可能性としての「併合」―二重の断絶と現在」
       浅野豊美(中京大学教授)
   「併合から100年:いくつかの残された課題」
       朴一(大阪市立大学教授)
【第2セッション】新しい日韓関係と在日韓国・朝鮮人社会
   「在日韓国人社会の現状と課題」
       柳赫秀(横浜国立大学教授)
   「植民と脱植民の日韓関係:文化異質性から文化多元性へ」
       金相俊(延世大学教授)
【討論】
    司会:柳赫秀(横浜国立大学教授)
    上記発表者以外、松田利彦(国際日本文化研究センター准教授)、
    鄭雅英(立命館大学 准教授) 、李赫(駐日大韓民国大使館 政務公使)
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The Fourteenth Asian Studies Conference Japan (ASCJ)

The Fourteenth Asian Studies Conference Japan (ASCJ)
コメンテーターを務めました。
Session 11: Room 710
Nation and Cultural Practice: Chinese Nationality of Taiwan in Socio-Historical Perspectives
Organizer/Chair: Karl Wu, University of British Columbia
1) Dominic Meng-Hsuan Yang, University of British Columbia
From Reluctant Sojourners to a “Diaspora-like” Community: Nostalgia and Cultural Productions of
Mainlanders’ Native Place Associations in Taiwan during the 1960s and 70s
2) Weiting Guo, University of British Columbia
Enshrining a “National Hero”: Contending Visions and Distorted Memories of the Blue Glow Palace in
Twentieth-century Taiwan
3) Yun-Ru Chen, Harvard University/Harvard Law School
Maneuvering Modernity: Family Law as a Battle Field in Colonial Taiwan
4) Karl Wu, University of British Columbia
Trans-nationalism and Self-racialization: the Making of Ethnic Identity and Political Radicalism of
Taiwanese Immigrants in North America
Discussant: Toyomi Asano, Chukyo University
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