研究ブログ

2009/07/15

特殊なUGCとしての学術という知的システム

Tweet ThisSend to Facebook | by akito_inoue

…という戯れ言をどっかに書きたいな、と思っていたので、こちらに書き留めておきます。

■1.学のシステム、というのはUGCとして位置付けることが可能!

 CGM(消費者生成型メディア)やUGC(ユーザー生成型コンテンツ)の話とかをいろいろと聞いていると、「ああ、世の中の文化といわれるものの大半はUGCなんだな」ということを最近おもってしまう。
 俳句というのも一種のUGCだし(池上[2005])、小説、音楽、マンガも、少なからずUGCとしての側面がある。むしろ、文化的な現象で、UGCとしての側面を持たない現象を探す方が難しいというべきかもしれない。たいがいの「文化」と言われるものは、

 (1)エントリーのオープン性:様々な人が一定のオープンな条件のもとに自発的に参加することができる 
 (2)淘汰的システム:フィルタリングするシステムを実質的に備えることで、その出来不出来についての評価が下る

 という二つの要素をもちあわせている。
 たとえば、マンガの場合、たいがい30人のクラスのうちで3,4人ぐらいは絵の好きな子というのがいる。彼らが同人でマンガを描いて人気になったり、賞に応募して合格したり、ウェブでマンガを公表して評判になったりすると、そのうちの何人かがプロとして選抜されて生きていくわけだ。エントリーする資格は誰にでも開かれているし、淘汰的なシステムも働いている。

 エントリーのオープン性のない業界というのは、たとえば、「生まれた時点でこいつはプロになれない」とかそういうことが決まっている業界のことだ。世襲制だけがプロフェッショナル/アマチュアの区分を明確にし、実際にアマチュアが参入不可能なタイプの業界…卑近な例で言えば、「サイヤ人の血を引いていなければスーパーサイヤ人にはなれない」みたいな業界というのは、ほとんどない。もっとも、将棋など、一定の年齢を過ぎた人間に対してオープン性の度合いを意図的に下げることに合理性を見いだす業界もある。学術の世界は将棋ほどではないにせよ、修士号や博士号をとっていない人間や、アカデミックな作法を知らない人間を冷遇することに効率性を見いだすところもあるので、「面白ければよい」というようなタイプのコンテンツと比べるとオープン性はやや低く設定されてはいる。だけれども、ニートでありながらフィールズ賞を贈られることになった(そして辞退した)ペレルマンのように、どの分野でもとんでもなく素晴らしい仕事をする人間をきちんと、エントリーさせる仕組みをどうにか保持しているという点では、学のシステムというのは、やっぱりそれなりにオープンになっている。

 淘汰的なシステムがまったく働かない業界というのは、超長期的にみればないだろうが、働きにくい業界はあるだろう。たとえば、一部の公務員だとか、一部の公共事業だとか、(a)市場メカニズムと関わることもなく、(b)世間的な評判のシステムとも関わることがなく、(c)特定の基準による評価のシステムとも関わりが薄い業界というのはある。学者という肩書きの人間が、(a)市場メカニズムや、(b)世間の評判システムのほうに身をゆだねてしまうと、「ジャーナリスト」とか「批評家」と行った言葉を揶揄として使われてしまって、こういう淘汰システムに身をゆだねることを学術のシステムはよしとしない。学術のシステムというのは、市場メカニズムとも世間の評判のシステムとも異なるような、研究者コミュニティにおける「評価」という淘汰のシステムと関わるを要請する。そういう淘汰のシステムを兼ね備えている。

■盛り上がるUGCとして、学のシステムを設計できる!…ところもある。

 あるUGCが盛り上がるかどうか、ということは、先にあげた二つの基準がどのように運用されているかどうか、ということと強く関わっている。

(1)オープン性を上昇させる

 第一に、誰にでもエントリーしやすいものというのは、盛り上がりやすい。これは、単に門戸が誰にでも開かれているという意味ではなく、「最初の一歩を踏み出させる気を起こさせやすい」ようなアーキテクチャになっているかどうか、ということだ。本のタイトルっぽく言えば「サルでもできる」と形容されうるようなタイプの性質を備えているかどうかだ。たとえば、俳句というのは5・7・5と季語という二つの仕組みさえわかれば、最初の一歩を簡単に踏み出せる。2chやニコニコ動画に参加することはもっと敷居が低くなっている。敷居が低くなった結果として、参加する人間が増える。参加する人間が増えていれば増えているほどにアウトプットの質も、多様性も上昇する(井上[2008])。
 「敷居の低さ」というのは、学術の場合は難しい用件かもしれない。クオリティの低いものに「学」を名乗らせるわけにはいかないだろう。だが、社会制度的に博士課程にすすむことによる就職の不安を和らげることや、アカハラの撲滅などによって、研究者になるという職業選択の価値を現在よりも選び取りやすいものにしてゆくことはできるだろう。

(2)よりよいフィルタリング・システムを実装する

 第二に、フィルタリングの結果が、そのコミュニティに属する人々の期待を満足させやすいものは、盛り上がりやすい。逆にフィルタリングの結果として出てきたものが、期待から全くはずれたものは盛り上がりにくい。たとえば、ある格闘技で非常に強い選手Aさんと、同じぐらい強い選手Bさんがいた場合に、Aさんの闘い方が派手で見ているものに緊張をも強いるような闘いである一方、Bさんの闘い方がとてつもなく地味でいつ勝利したのかすらわかりにくいような闘いをする選手だった場合、コミュニティの盛り上がりに貢献するのはほぼ確実にAさんの方だと言ってよい。
 研究というのは地味なものがとても多い。だけれども、一見地味でも、本当に面白いものは確実にとんでもなく面白い、というのが研究というものだろうと思うが……自分には、とてつもなく面白いと思える研究を他の人に見せてみると「この話の一体どこが面白いのかわからない。説明してくれない?」と言われ、説明してもなかなか理解を得られないという悲しいこともよく起こる。「おまえならわかってくれると思っていたのに」と思っても、その思いがなかなか難しいことは…よくある。だけれども、その一方で、自分と限りなく近い問題意識を抱いている人間と話しをすると、お互いに考えていることがとても刺激的だと感じられる場合も、やはりよくある。微細な問題というのは、微細であればあるほどに、その微細さに対する気付きのクオリティを理解するのは、似たことを考えている人間でないと、わかってもらうことは難しい。
 「そのコミュニティに属する人々の期待」というものを扱うのは非常に難しい。
 誰がどこまで、コミュニティに属しているのか、というのはなかなか一筋縄では解けない。

■研究コミュニティのロングテール戦略、としての学術UGC構築

 「学会」という制度は、おそらくこの問題に対する解として存在するのではないか、と思う。経済学や政治学などについてある程度、深く考えている人間同士で集まれば、お互いの考えていることの凄みが理解できる!……はずだ!という目論見がそこにはあるはずだ。学会というのは、似たことを考えている人同士を結びつけ、フィルタリング機能をつくるために用意されたシステムだと位置付けられる。
 ただ、「学会」というシステムはあくまで、「経済学」や「政治学」といった大枠のカテゴリを所与として与えることによって、そのカテゴリに紐付けてフィルタリング機能を形づくる。良くも悪くも、「経済学」や「政治学」といった所与のカテゴリが強力に機能してしまうことを避けられない。ほとんどの学者は、こうした所与のカテゴリにしたがって、それぞれのフィルタリング・システムにふるい落とされないように自らを鍛えていくし、ある特定のフィルタへの対応力を付けることこそがディシプリンに沿った訓練をするということとであると言える。
 言うまでもなく、近年、このフィルタリング・システムには不満も多く聞かれる。問題探求型の学際的な研究をするのに向いていない。新しいテーマが過小評価されがちである…などなど。文学研究のフィルタリング・システムは、マンガ研究者やコンピュータ・ゲーム研究者にとって最適なものではないし、そもそも査読者が論文の中で扱われている対象を知らないということが、まあ、当然のようにに起こる。
 そうなると、こういう新興分野や、学際分野の人間はどうにかして、既存のフィルタリング・システムとは異なるフィルタリング・システムを使わなければ、自らのクオリティ保証をしてくれる方法を得ることができなくなる。そこで、市場メカニズムの中で機能できるようにコンサル業務などをして生き残りを図る人間もいるだろうし、一般向けの新書を売り歩いてそこでの評判をもとに生き残りを図る人間もいるだろう。新興分野の人間のほとんどが、自らの生き残り戦略に直面せざるを得ない。「学」のシステムとしてまっとうに大変な試みとしては、自分で新しく学会を起こすことだが、これはかなり大変だし、なかなか研究者が食っていけるところまで成長させるのは難しい。「顔学会」「デジタル・ゲーム学会」「コンテンツ学会」など、独自の問題意識を探求しようと設立された学会は数多くあるが、新興分野が一朝一夕に洗練されたフィルタリング・システムを作り出すことができるわけではない。


 しかし、もしも、このようなフィルタリング・システムを機能させている所与のカテゴリーを変更可能であるとすればどうだろうか?新興分野が「経済学」「哲学」「文学」という所与のカテゴリーとは異なる問題カテゴリーに属する人々を適切に出会わせ、評価させ合うコミュニティを構築できるとすれば、どうだろうか?
 たとえば、近い問題意識を持った人同士を、相互認証させた上で、論文を評価してもらいたい人々にきちんと評価してもらうことができて、そのようなローカルだが確実な価値のある評価を「実績」として蓄えていくことができるとすれば、華々しい分野ではない数多くの分野の研究者たちにとって、とても最適な評価のシステムを作ることができるのではないだろうか?

 いわば、学会のロングテール化をうまくすすめることができるのではないだろうか?

 学術コミュニティというものが、よくできたUGCのシステムであるならば、このシステムをより効率的に機能させるプラットフォームを作り出すことができれば、研究はもっとよくすすむはずだ。




*****注意すべき事***********************

 以上、思いつきの雑文ですが、一応、防衛的なことを少し書いておきます。

1.特定の基準による評価システムとは何なのか。

 ここまで学術というシステムを、コミュニティによる相互評価システムとしての側面から書きましたが、相互評価システムとしての側面だけではない、というツッコミがありうるかと思います。そしてそのツッコミに全面的に同意します。相互評価システムとしての側面だけが「学」というシステムの根幹をなしているのであれば、天動説が覆されるためには、あと何百年もかかったかもしれません。
 相互評価システムだけが駆動しているのではなく、相互評価システムと併行して各分野ごとに別の基準が成立しているのも確かで、相互評価システムの仕組みだけを発展させると、相対的に論理的厳密性やら何やらといった部分が軽視される可能性が、可能性としては否めないかと思います。


2.島宇宙化と、統合性

 ロングテール化、と書きましたが、小規模な新規コミュニティをうまくまわらせるということは、島宇宙的なコミュニティをボコボコ立ち上げてしまうということと、ほぼイコールです。また、問題探求型の学際研究というのは、教養主義的な博識さへを可能にしようという話とはまた違っていて、島宇宙を再構成して別の島宇宙を作ろうという話でもあります。教養主義的な博識さがだいじ!みたいな話からすると、よくない話かもしれません。

3.効率的な相互評価システムの構築は、ほんとにクオリティの上昇を生むのか?

 やってみないとわからないところがあると思います。
 フィードバックの速度とクオリティが上がれば、何かしらプラスの効果はあるだろうと思います。
 ただ、そこでのローカルな「業績」の価値はなかなか、算定が難しいという実情はありうると思います。
 また、(A)未熟な研究者同士で相互に褒め合っている ということと (B)わかる人にしかわかりえない話を相互に褒め合っている ということは別のことですが、どちらかというと、(B)の部分のブーストには価値が生まれうるよね、という話だと思っていただければ。



ref:

池上英子[2005] 『美と礼節の絆』 NTT出版
井上明人[2008]「CGMにおけるユーザーの振るまい」『智場111号』所収 国際大学GLOCOM

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