佐藤 裕之

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研究者氏名
佐藤 裕之
 
サトウ ヒロユキ
所属
武蔵野大学
部署
通信教育部 人間科学部
職名
教授
学位
修士(東京大学大学院), 文学博士(東京大学大学院)

研究キーワード

 
 

研究分野

 
 

経歴

 
1991年4月
 - 
1993年3月
日本学術振興会 日本学術振興会特別研究員
 
1994年4月
 - 
現在
中央大学 文学部 非常勤講師
 
1994年4月
 - 
1996年3月
慶應義塾大学 文学部哲学科 非常勤講師
 
1996年4月
 - 
2003年3月
立教大学 非常勤講師
 
1998年4月
 - 
1999年3月
信州大学 非常勤講師
 
2001年10月
 - 
現在
武蔵野女子学院 エクステンションセンター・三鷹サテライト教室 非常勤講師
 
2002年4月
   
 
武蔵野女子大学 通信教育部 助教授
 
2003年4月
 - 
2007年3月
武蔵野大学(学校名変更) 通信教育部 助教授
 
2007年4月
 - 
2012年3月
武蔵野大学通信教育部人間関係学部 人間関係学科 教授
 
2008年4月
 - 
現在
武蔵野大学 通信教育部 主任
 
2009年4月
 - 
2016年3月
武蔵野大学大学院通信教育部人間学研究科 人間学専攻 教授
 
2012年4月
 - 
現在
武蔵野大学通信教育部人間科学部 人間科学科 教授
 
2016年4月
 - 
現在
武蔵野大学大学院仏教学研究科 仏教学専攻 教授
 
2016年4月
 - 
現在
武蔵野大学大学院通信教育部 仏教学研究科 仏教学専攻 教授
 

学歴

 
1985年4月
 - 
1988年3月
東京大学大学院 人文科学研究科 印度哲学印度文学専攻
 
1988年4月
 - 
1993年3月
東京大学大学院 人文科学研究科 印度哲学印度文学専攻
 
1992年1月
 - 
1994年1月
ウッタル・プラデーシュ州立サンプールナ・アーナンダ・サンスクリット大学 哲学部 ヴェーダーンタ学科PhD.コース
 

委員歴

 
2016年4月
 - 
現在
比較思想学会  編集委員
 
2013年
 - 
現在
比較思想学会  理事
 
2011年
 - 
2013年3月
比較思想学会  研究奨励賞選考委員
 

受賞

 
1999年9月
日本印度学仏教学会賞受賞
 

論文

 
スバドゥラー・クマーリー・チョウハーン作「ジャーンシー・キー・ラーニー」翻訳
佐藤 裕之
武蔵野大学仏教文化研究所紀要   35    2019年3月
インド哲学における世界生起説-『ヴェーダーンタ・パリバーシャー』を中心にして
佐藤 裕之
武蔵野大学人間科学研究所年報   2 39-52   2012年3月
解脱の定義と常住性をめぐって
佐藤 裕之
『松濤誠達先生古希記念 梵文学研究論集』   483-496   2007年2月
<喜び>と<悲しみの滅>-アドヴィアタ学派における解脱の定義をめぐって-
印度学仏教学研究   47-1 6   1998年12月
解脱は、仏教も含めたインドで<悲しみの滅(あるいは、苦しみの無)>と定義されることが一般的であるが、アドヴァイタ学派では<喜び(楽)の獲得>も定義と考える。ここには<悲しみの滅>は<喜び>と同じなのか異なるのかという問題があるが、定義の方法・目的の観点からは、前者の定義は全く否定されず、後者の定義は仏教等において否定されるから、前者を「報告的定義」、後者を「規約的定義」と解釈することができる。
インドにおける知覚の定義方法
印度学仏教学研究   45-2 5   1997年3月
インドで知覚はさまざまに異なって定義されるが、その定義方法の相違をさぐった。定義方法には、「語義解釈による定義」と「発生原因を述べる定義」があったが、知覚の定義の相違は語義解釈が定義になるか否かの問題に関係している。さらに「否定的表現による定義」もあるが、それには一定の前提が必須であり、無条件に許されるものではない。知覚の場合には、定義方法の相違が定義の相違を生み出す一つの理由である。
無知はいかにして知られるか-アドヴァイタ学派におけるavidyaのpramana論-
仏教学   38 19   1996年12月
インドにはわれわれは迷っているという世界観・人生観があり、その根本原因に無知(avidya 、無明)を立てる。この世界観・人生観が正しいなら、無知は存在するはずであり、それを知る方法もあるはずである。こう考えて、アドヴァイタ学派は無知を知る方法を問題にした。「無知を知る」という矛盾を含んだ問題だけに、主張される方法は直観というものだが、この問題への取り組みがアドヴァイタ学派の認識論形成のきっかけになった。
認識の因果論-アドヴァイタ学派の見識をめぐって-
印度学仏教学研究   44-2 5   1996年3月
アドヴァイタ学派の認識論の特殊性に注目し、認識の因果論を他学派との比較を通して論じた。インドでは認識を直接的認識と間接的認識に大別するが、認識の因果論とはこれらの認識とその区別を生み出すものとの関係である。一般に認識を成立させるもの(認識手段)と認識の関係を考えるが、アドヴァイタ学派は認識対象と認識の関係を考える。従って、この学派の認識論は認識対象に重要な役割を与えていることになる。
「定義」について-インドと西洋の比較研究-
比較思想研究   22 7   1996年3月
「定義」の「最近類+種差」という定式、「定義は本質を述べる」というテーゼ、および「定義可能性」という西洋哲学の問題をインド哲学との比較で論じた。インドにも「同類と異類を排除するもの」という定式があり類似しているが、基本的発想には相違が見られ、テーゼはインドにとって二次的な意味での「定義」にすぎない。さらに西洋では定義不可能なものを認めるが、インドでは全てのものが定義可能であると考えている。
アドヴァイタ学派における認識論の形成-Vedantaparibhasaをめぐって-
インド思想史研究   7 12   1995年3月
アドヴァイタ学派の認識論は17世紀のダルマラージャが著した『ヴェーダーンタ・パリバーシャー』によって本格的に体系化され、認識論的術語に定義が与えられた。その形成にいたるまで歴史を検討した結果、この学派は認識論に関心が薄かったわけではなく、認識論の形成を阻む特異な形而上学上の問題があり、ダルマラージャはそれらの問題を解決し認識論を形成した。この点こそが彼の最も評価すべき点である。
二つの「定義」- svarupalaksanaとtatasthalaksana-
印度学仏教学研究   43-2 4   1995年3月
svarupalaksana とは「本質的特徴を述べる定義」、tatasthalaksana とは「偶有的特徴を述べる定義」であり、この二つはインドにおける「定義」の貴重な分類である。このように分類するのはアドヴァイタ学派に特有な考えであるが、それは「定義」の目的を被定義項の理解ではなく、被定義項への語の適用と考えていたことに関係する。svarupalaksana は対象を理解するための「定義」でもあるが、tatasthalaksana はそうではない。
vrtti and jnana
印度学仏教学研究   39-2 3   1991年3月
サンスクリット語の“jnana”は認識を意味し、サーンキヤ、ヨーガ、ヴェーダーンタ学派の形而上学ではアートマンの本質である。アートマンには生起も消滅もないから、その本質である認識も同じことになる。しかし日常レベルで経験される認識には生起も消滅もあるから、これらの学派では日常的な認識を“jnana”と呼ばず、作用を意味する“vrtti”という語で呼び区別した。これらの学派における認識論の用語の特色はここにある。
ヴィジュニャーナビクシュの自己光照批判
宗教研究   283 2   1990年3月
自己光照は13世紀のチトスカによって「他によって知られず、直接的に言語表現されること」と定義された。ヴィジュニャーナビクシュはヴェーダーンタ学派内にあって、彼の定義を何らウパニシャッドに裏付けされていないと批判した。自己光照の理論は、アートマンの認識を説明するためのもので、ヴィジュニャーナビクシュはそれを相互投影説で説明するから、相互投影説を主張する以上、自己光照は認められないことになる。
Vijnanabhiksuの相互投影説
印度学仏教学研究   37-2 3   1989年3月
相互投影説は16世紀にインドで活躍した Vijnanabhiksu が主張するアートマンの認識方法に関する理論で、認識主体であるアートマンが自己を対象化するために、心に自己を映し、その心がさらアートマンに影を映すという考えである。アートマンは認識の生起には認識主体という形で関わるが、アートマンがアートマン自身を知覚するなら、自己が主体であり対象であることになってしまう。この難点を解決するための理論である。

Misc

 
Sarvajnatman'sTheory of Definition
The Way to Liberation - Indological Studies in Japan, India   13   2000年
解脱の定義と常住性をめぐって―アドヴァイタ学派の諸説を中心にして―
松濤誠達先生古稀記念編集「梵文学研究論集」   14   2007年2月
解脱は人生の最高の目的であるとされるが、「苦しみの消滅」とだけ定義されるものではなく、アドヴァイタ学派では「楽の獲得」でもあると定義される。その場合の楽とは決して相対的・世俗的な楽ではなく、絶対的な楽である。そして解脱は常住であるが故に、始まりはなく、既に解脱していることになる。仏教を含めたインド哲学において、真理を知ることによって解脱が獲得される、と言われるが、その真理とは、結局のところ法(ダルマ)やブラフマンというよりも、「すでに解脱しているこである」という捉え方も可能になる。
「定義」の定義-インド哲学における「定義」をめぐって-
仏教文化 (学術増刊号8)   32.33(増刊号8) 27   1995年2月
哲学における「定義」の重要性に注目し、インドにおける「定義」の定義を文献に基づいて考察した。一般に「定義」は適用範囲が狭すぎず、広すぎない特徴と考えられる。インドにもこの発想が窺えるが、広すぎない限りでの特徴も「定義」とする場合がある。むしろインドでは、広すぎない限りでの特徴が一次的な意味での本来の「定義」であって、狭すぎず、広すぎない特徴は二次的な意味での特殊な「定義」になる。
インド哲学における世界生起説―『ヴェーダーンタ・パリバーシャー』を中心にして
武蔵野大学人間科学研究所年報   (2) 39-52   2013年3月
svaprakasa-Tattvapradipika における定義を中心にして-
前田専学博士還暦記念論集「我の思想」   12   1991年10月
svaprakasa(自己光照)はアートマンの認識をめぐって主張された理論である。光は闇を照らすと同時に光自身も照らし光を照らすために別の光を必要としないように、アートマンを認識するためには他の手段を必要としないという理論である。チトスカ(13世紀頃)は『タットヴァ・プラディーピカー』の中でこの svaprakasa の定義を検討し、最終的に「他によって知られず、直接的に言語表現されること」という定義を与えた。
人間-理性的動物によせて-
仏教文化   34 11   1995年12月
人間を例にして、定義に関わるさまざまな問題検討した。アリストテレスは人間を「理性的動物」と定義したが、問題がある。生れたばかりの人間に理性は認められないから適用範囲が狭すぎるし、潜在している理性であると解釈しても、その顕現は人間であることをすでに前提にしている。さらに理性的なものは動物に限られるから「理性的動物」という表現は簡潔性を欠く。
サルヴァジュニャートマンの定義理論
東方   12 14   1996年12月
サルヴァジュニャートマンは8世紀に活躍したアドヴァイタ学派の哲学者である。彼は「定義」に「本質的定義」と「限定的定義」と「偶有的定義」の三種類を認め、「定義の目的」は本質を述べるためでもなく、語の使用根拠を述べるためでもなく、被定義項と非被定義項の区別を述べるためであるとする。彼の「定義理論」は、背景にアドヴァイタ学派の特殊性もあるが、インド哲学のみならず哲学として極めて重要である。
ダルマラージャのpratyaksa論-その基本構造と解釈-
江島惠教博士追悼論集 空と実在   14   2000年11月
ダルマラージャ(17c.)は『ヴェーダーンタ・パリバーシャー』の中で pratyaksa を扱っているが、内容は複雑で、その基本構造すらも容易に把握できない。本論はそれを象徴的に示している文章を解釈し、 pratyaksa論の基本構造を解明するものである。最も重要なのは“pratyaksaprama”という語は二つの意味を持ち、純粋精神と定義される pratyaksaprama には pratyaksa anumiti等の認識が属する点である。この考えは認識を<本質的面>と<対象に関わる面...
アドヴァイタ学派におけるavidyaの説明方法
中世インドの学際的研究 平成14~16年度科学研究費補助金〔基盤研究(A)(2)〕研究成果報告書   11   2005年3月
avidyaはシャンカラ(Sankara、8世紀)の時代からさまざまに説明され、最終的には定義という方法によって説明されるが、それ以外の方法によっても説明されてきた。maya,mithyavabhasa,vibhramaなどの「同義語による説明」、klesa、dosa、vyavadhana、anarthaなどの「包摂概念による説明」、anadi、naisargika、anirvacaniiya、bhavarupa、jadaなどの「性質による説明」などがある。avidyaの定義は一つではない...

書籍等出版物

 
仏教と気づき
武蔵野大学出版会   2016年8月   
ブッダ:今を生きる言葉
パイ インターナショナル   2012年5月   ISBN:978-4-7562-4092-7
仏教最前線の課題
武蔵野大学出版会   2009年1月   
平成21年1月8日第四章「仏教思想における人間形成-煩悩論の観点から」を執筆。心理学では「発達」として人間形成の問題が論じられるが、仏教思想でそれが論じられることはほとんどない。本論文では、煩悩の生起と消滅という点から仏教思想における人間形成の問題を論じた。根源的な煩悩である無明があり、成長するに伴い、無明を原因としてそれ以外の煩悩が生じてくる。そして、最後には原因である無明がなくなり、他の煩悩だけが残る。これらの点を心理学の「欲望」と比較して論じた。
田中教照[編・著]田中教照、山崎龍明...
仏教と「十牛図」
角川書店   2005年5月   
上記「仏教(自己を見つめる)」の市販本
アドヴァイタ認識論の研究
山喜房仏書林   2005年3月   
本書は、17世紀に活躍したとされるアドヴァイタ学派のダルマラージャ(Dharmaraja)が著した『ヴェーダーンタ・パリバーシャー(Vedantaparibhasa)』の研究である。第1部では、ダルマラージャの認識論の構造を解明し、第2部は『ヴェーダーンタ・パリバーシャー』知覚章の訳注研究である。訳出にあたっては、底本とした S.S.Suryanarayana Sastri 本以外の13の公刊本を参照し、異読を示し、語索引と定義・分類索引を付した。

講演・口頭発表等

 
<喜び>と<悲しみの滅>-アドヴィアタ学派における解脱の定義をめぐって-
日本印度学仏教学会   1998年9月   
解脱は、仏教も含めたインドで<悲しみの滅(あるいは、苦しみの無)>と定義されることが一般的であるが、アドヴァイタ学派では<喜び(楽)の獲得>も定義と考える。ここには<悲しみの滅>は<喜び>と同じなのか異なるのかという問題があるが、定義の方法・目的の観点からは、前者の定義は全く否定されず、後者の定義は仏教等において否定されるから、前者を「報告的定義」、後者を「規約的定義」と解釈することができる。
インドにおける知覚の定義方法
日本印度学仏教学会   1996年9月   
インドで知覚はさまざまに異なって定義されるが、その定義方法の相違をさぐった。定義方法には、「語義解釈による定義」と「発生原因を述べる定義」があったが、知覚の定義の相違は語義解釈が定義になるか否かの問題に関係している。さらに「否定的表現による定義」もあるが、それには一定の前提が必須であり、無条件に許されるものではない。知覚の場合には、定義方法の相違が定義の相違を生み出す一つの理由である。
無知はいかにして知られるか-アドヴァイタ学派におけるavidyaのpramana論-
仏教思想学会   1996年6月   
インドにはわれわれは迷っているという世界観・人生観があり、その根本原因に無知(avidya、無明)を立てる。この世界観・人生観が正しいなら、無知は存在するはずであり、それを知る方法もあるはずである。こう考えて、アドヴァイタ学派は無知を知る方法を問題にした。「無知を知る」という矛盾を含んだ問題だけに、主張される方法は直観というものだが、この問題への取り組みがアドヴァイタ学派の認識論形成のきっかけになった。
「定義」について-インドと西洋の比較研究-
比較思想学会   1995年10月   
「定義」の「最近類+種差」という定式、「定義は本質を述べる」というテーゼ、および「定義可能性」という西洋哲学の問題をインド哲学との比較で論じた。インドにも「同類と異類を排除するもの」という定式があり類似しているが、基本的発想には相違が見られ、テーゼはインドにとって二次的な意味での「定義」にすぎない。さらに西洋では定義不可能なものを認めるが、インドでは全てのものが定義可能であると考えている。
認識の因果論-アドヴァイタ学派の見解をめぐって-
日本印度学仏教学会   1995年6月   
アドヴァイタ学派の認識論の特殊性に注目し、認識の因果論を他学派との比較を通して発表した。インドでは認識を直接的認識と間接的認識に大別するが、認識の因果論とはこれらの認識とその区別を生み出すものとの関係である。インドでは一般に認識を成立させるもの(認識手段)と認識の関係を考えるが、アドヴァイタ学派は認識対象と認識の関係を考える。従って、この学派の認識論は認識対象に重要な役割を与えていることになる。
アドヴァイタ学派における認識論論の形成-Vedantaparibhasa の歴史的意義-
インド思想史学会   1994年12月   
アドヴァイタ学派の認識論は17世紀のダルマラージャが著した『ヴェーダーンタ・パリバーシャー』によって本格的に体系化され、認識論的術語に定義が与えられた。その形成にいたるまで歴史を検討した結果、この学派は認識論に関心が薄かったわけではなく、認識論の形成を阻む特異な形而上学上の問題があり、ダルマラージャはそれらの問題を解決し認識論を形成した。この点こそが彼の最も評価すべき点である。
「二つの「定義」-svarupalaksana とtatasthalaksana -」
日本印度学仏教学会   1994年5月   
svarupalaksana とは「本質的特徴を述べる定義」、tatasthalaksana とは「偶有的特徴を述べる定義」であり、この二つはインドにおける「定義」の貴重な分類である。このように分類するのはアドヴァイタ学派に特有な考えであるが、それは「定義」の目的を被定義項の理解ではなく、被定義項への語の適用と考えていたことに関係する。svarupalaksana は対象を理解するための「定義」でもあるが、tatasthalaksana はそうではない。
vrttiとjnana
日本印度学仏教学会   1990年6月   
サンスクリット語の“jnana”は認識を意味し、サーンキヤ、ヨーガ、ヴェーダーンタ学派の形而上学ではアートマンの本質である。アートマンには生起も消滅もないから、その本質である認識も同じことになる。しかし日常レベルで経験される認識には生起も消滅もあるから、これらの学派では日常的な認識を“jnana”と呼ばず、作用を意味する“vrtti”という語で呼び区別した。これらの学派における認識論の用語の特色はここにある。
ヴィジュニャーナビクシュの自己光照批判
日本宗教学会   1989年7月   
自己光照は13世紀のチトスカによって「他によって知られず、直接的に言語表現されること」と定義された。ヴィジュニャーナビクシュはヴェーダーンタ学派内にあって、彼の定義を何らウパニシャッドに裏付けされていないと批判した。自己光照の理論は、アートマンの認識を説明するためのもので、ヴィジュニャーナビクシュはそれを相互投影説で説明するから、相互投影説を主張する以上、自己光照は認められないことになる。
Vijnanabhiksu の相互投影説
日本印度学仏教学会   1988年7月   
相互投影説は16世紀にインドで活躍した Vijnanabhiksu が主張するアートマンの認識方法に関する理論で、認識主体であるアートマンが自己を対象化するために、心に自己を映し、その心がさらアートマンに影を映すという考えである。アートマンは認識の生起には認識主体という形で関わるが、アートマンがアートマン自身を知覚するなら、自己が主体であり対象であることになってしまう。この難点を解決するための理論である。

Works

 
ヒンディー語映画「パドマワット」日本語字幕制作協力
佐藤 裕之   芸術活動   2019年6月
ヒンディー語映画「バジュランギおじさんと、小さな迷子」日本語字幕制作協力
佐藤 裕之   芸術活動   2019年1月
ヒンディー語映画「ドゥルガー:女神の闘い」日本語字幕制作
佐藤 裕之   芸術活動   2018年9月
ヒンディー語映画「神が結び合わせたふたり」日本語字幕制作
佐藤 裕之   芸術活動   2018年9月
ヒンディー語映画「ムバーラカーン」日本語字幕制作
佐藤 裕之   芸術活動   2018年9月
DVD「デビル」(ヒンデイー語映画)の日本語字幕制作
佐藤 裕之   芸術活動   2018年1月
ヒンディー語映画「ラーマン・ラーガヴ2.0:神と悪魔」日本語字幕制作
佐藤 裕之   芸術活動   2017年9月
ヒンディー映画「ピンク」日本語字幕制作
佐藤 裕之   芸術活動   2017年9月
書評 末木文美士編『比較思想から見た日本仏教』山喜房書林
佐藤 裕之   その他   2017年3月
ヒンディー映画日本語字幕制作「ハウスフル3」
佐藤 裕之   芸術活動   2016年9月
「いま、幸福を考える-比較思想の観点から」シンポジウム概要
その他   2010年3月
書籍紹介、宮元啓一・石飛道子訳『インド新論理学の知識論『マニカナ』の和訳と註解『山喜房佛書林 1998 11
その他   1999年3月
本書は14世紀のガンゲーシャが著した『タットヴァ・チンターマニ』の要旨を簡潔に説いた手引き書『マニカナ』の和訳研究である。インド哲学を理解するには、論理学と文法学の知識が必要不可欠であるから、本書は、インド哲学理解の入門書になることが期待される。和訳以外にも「インド新論理学の基本術語解説」や「主な訳語対照表」があり、有益であるが、和訳の際に極めて特殊な記号を用いた点が惜しまれる。