佐藤 裕之

J-GLOBALへ         更新日: 18/02/20 12:08
 
アバター
研究者氏名
佐藤 裕之
 
サトウ ヒロユキ
所属
武蔵野大学
部署
通信教育部 人間科学部
職名
教授
学位
修士(東京大学大学院), 文学博士(東京大学大学院)

研究キーワード

 
 

研究分野

 
 

経歴

 
1991年4月
 - 
1993年3月
日本学術振興会 日本学術振興会特別研究員
 
1994年4月
 - 
現在
中央大学 文学部 非常勤講師
 
1994年4月
 - 
1996年3月
慶應義塾大学 文学部哲学科 非常勤講師
 
1996年4月
 - 
2003年3月
立教大学 非常勤講師
 
1998年4月
 - 
1999年3月
信州大学 非常勤講師
 

学歴

 
1985年4月
 - 
1988年3月
東京大学大学院 人文科学研究科 印度哲学印度文学専攻
 
1988年4月
 - 
1993年3月
東京大学大学院 人文科学研究科 印度哲学印度文学専攻
 
1992年1月
 - 
1994年1月
ウッタル・プラデーシュ州立サンプールナ・アーナンダ・サンスクリット大学 哲学部 ヴェーダーンタ学科PhD.コース
 

委員歴

 
2013年
 - 
現在
比較思想学会  理事
 

受賞

 
1999年9月
日本印度学仏教学会賞受賞
 

論文

 
「定義」について-インドと西洋の比較研究-
比較思想研究   22 7   1996年3月
「定義」の「最近類+種差」という定式、「定義は本質を述べる」というテーゼ、および「定義可能性」という西洋哲学の問題をインド哲学との比較で論じた。インドにも「同類と異類を排除するもの」という定式があり類似しているが、基本的発想には相違が見られ、テーゼはインドにとって二次的な意味での「定義」にすぎない。さらに西洋では定義不可能なものを認めるが、インドでは全てのものが定義可能であると考えている。
二つの「定義」- svarupalaksanaとtatasthalaksana-
印度学仏教学研究   43-2 4   1995年3月
svarupalaksana とは「本質的特徴を述べる定義」、tatasthalaksana とは「偶有的特徴を述べる定義」であり、この二つはインドにおける「定義」の貴重な分類である。このように分類するのはアドヴァイタ学派に特有な考えであるが、それは「定義」の目的を被定義項の理解ではなく、被定義項への語の適用と考えていたことに関係する。svarupalaksana は対象を理解するための「定義」でもあるが、tatasthalaksana はそうではない。
Vijnanabhiksuの相互投影説
印度学仏教学研究   37-2 3   1989年3月
相互投影説は16世紀にインドで活躍した Vijnanabhiksu が主張するアートマンの認識方法に関する理論で、認識主体であるアートマンが自己を対象化するために、心に自己を映し、その心がさらアートマンに影を映すという考えである。アートマンは認識の生起には認識主体という形で関わるが、アートマンがアートマン自身を知覚するなら、自己が主体であり対象であることになってしまう。この難点を解決するための理論である。
ヴィジュニャーナビクシュの自己光照批判
宗教研究   283 2   1990年3月
自己光照は13世紀のチトスカによって「他によって知られず、直接的に言語表現されること」と定義された。ヴィジュニャーナビクシュはヴェーダーンタ学派内にあって、彼の定義を何らウパニシャッドに裏付けされていないと批判した。自己光照の理論は、アートマンの認識を説明するためのもので、ヴィジュニャーナビクシュはそれを相互投影説で説明するから、相互投影説を主張する以上、自己光照は認められないことになる。
vrtti and jnana
印度学仏教学研究   39-2 3   1991年3月
サンスクリット語の“jnana”は認識を意味し、サーンキヤ、ヨーガ、ヴェーダーンタ学派の形而上学ではアートマンの本質である。アートマンには生起も消滅もないから、その本質である認識も同じことになる。しかし日常レベルで経験される認識には生起も消滅もあるから、これらの学派では日常的な認識を“jnana”と呼ばず、作用を意味する“vrtti”という語で呼び区別した。これらの学派における認識論の用語の特色はここにある。

Misc

 
Sarvajnatman'sTheory of Definition
The Way to Liberation - Indological Studies in Japan, India   13   2000年
解脱の定義と常住性をめぐって―アドヴァイタ学派の諸説を中心にして―
松濤誠達先生古稀記念編集「梵文学研究論集」   14   2007年2月
解脱は人生の最高の目的であるとされるが、「苦しみの消滅」とだけ定義されるものではなく、アドヴァイタ学派では「楽の獲得」でもあると定義される。その場合の楽とは決して相対的・世俗的な楽ではなく、絶対的な楽である。そして解脱は常住であるが故に、始まりはなく、既に解脱していることになる。仏教を含めたインド哲学において、真理を知ることによって解脱が獲得される、と言われるが、その真理とは、結局のところ法(ダルマ)やブラフマンというよりも、「すでに解脱しているこである」という捉え方も可能になる。
「定義」の定義-インド哲学における「定義」をめぐって-
仏教文化 (学術増刊号8)   32.33(増刊号8) 27   1995年2月
哲学における「定義」の重要性に注目し、インドにおける「定義」の定義を文献に基づいて考察した。一般に「定義」は適用範囲が狭すぎず、広すぎない特徴と考えられる。インドにもこの発想が窺えるが、広すぎない限りでの特徴も「定義」とする場合がある。むしろインドでは、広すぎない限りでの特徴が一次的な意味での本来の「定義」であって、狭すぎず、広すぎない特徴は二次的な意味での特殊な「定義」になる。
インド哲学における世界生起説―『ヴェーダーンタ・パリバーシャー』を中心にして
武蔵野大学人間科学研究所年報   (2) 39-52   2013年3月
svaprakasa-Tattvapradipika における定義を中心にして-
前田専学博士還暦記念論集「我の思想」   12   1991年10月
svaprakasa(自己光照)はアートマンの認識をめぐって主張された理論である。光は闇を照らすと同時に光自身も照らし光を照らすために別の光を必要としないように、アートマンを認識するためには他の手段を必要としないという理論である。チトスカ(13世紀頃)は『タットヴァ・プラディーピカー』の中でこの svaprakasa の定義を検討し、最終的に「他によって知られず、直接的に言語表現されること」という定義を与えた。

書籍等出版物

 
アドヴァイタ認識論の研究
山喜房仏書林   2005年3月   
本書は、17世紀に活躍したとされるアドヴァイタ学派のダルマラージャ(Dharmaraja)が著した『ヴェーダーンタ・パリバーシャー(Vedantaparibhasa)』の研究である。第1部では、ダルマラージャの認識論の構造を解明し、第2部は『ヴェーダーンタ・パリバーシャー』知覚章の訳注研究である。訳出にあたっては、底本とした S.S.Suryanarayana Sastri 本以外の13の公刊本を参照し、異読を示し、語索引と定義・分類索引を付した。
仏教と「十牛図」
角川書店   2005年5月   
上記「仏教(自己を見つめる)」の市販本
仏教最前線の課題
武蔵野大学出版会   2009年1月   
平成21年1月8日第四章「仏教思想における人間形成-煩悩論の観点から」を執筆。心理学では「発達」として人間形成の問題が論じられるが、仏教思想でそれが論じられることはほとんどない。本論文では、煩悩の生起と消滅という点から仏教思想における人間形成の問題を論じた。根源的な煩悩である無明があり、成長するに伴い、無明を原因としてそれ以外の煩悩が生じてくる。そして、最後には原因である無明がなくなり、他の煩悩だけが残る。これらの点を心理学の「欲望」と比較して論じた。
田中教照[編・著]田中教照、山崎龍明...
ブッダ:今を生きる言葉
パイ インターナショナル   2012年5月   ISBN:978-4-7562-4092-7

講演・口頭発表等

 
Vijnanabhiksu の相互投影説
日本印度学仏教学会   1988年7月   
相互投影説は16世紀にインドで活躍した Vijnanabhiksu が主張するアートマンの認識方法に関する理論で、認識主体であるアートマンが自己を対象化するために、心に自己を映し、その心がさらアートマンに影を映すという考えである。アートマンは認識の生起には認識主体という形で関わるが、アートマンがアートマン自身を知覚するなら、自己が主体であり対象であることになってしまう。この難点を解決するための理論である。
ヴィジュニャーナビクシュの自己光照批判
日本宗教学会   1989年7月   
自己光照は13世紀のチトスカによって「他によって知られず、直接的に言語表現されること」と定義された。ヴィジュニャーナビクシュはヴェーダーンタ学派内にあって、彼の定義を何らウパニシャッドに裏付けされていないと批判した。自己光照の理論は、アートマンの認識を説明するためのもので、ヴィジュニャーナビクシュはそれを相互投影説で説明するから、相互投影説を主張する以上、自己光照は認められないことになる。
vrttiとjnana
日本印度学仏教学会   1990年6月   
サンスクリット語の“jnana”は認識を意味し、サーンキヤ、ヨーガ、ヴェーダーンタ学派の形而上学ではアートマンの本質である。アートマンには生起も消滅もないから、その本質である認識も同じことになる。しかし日常レベルで経験される認識には生起も消滅もあるから、これらの学派では日常的な認識を“jnana”と呼ばず、作用を意味する“vrtti”という語で呼び区別した。これらの学派における認識論の用語の特色はここにある。
「二つの「定義」-svarupalaksana とtatasthalaksana -」
日本印度学仏教学会   1994年5月   
svarupalaksana とは「本質的特徴を述べる定義」、tatasthalaksana とは「偶有的特徴を述べる定義」であり、この二つはインドにおける「定義」の貴重な分類である。このように分類するのはアドヴァイタ学派に特有な考えであるが、それは「定義」の目的を被定義項の理解ではなく、被定義項への語の適用と考えていたことに関係する。svarupalaksana は対象を理解するための「定義」でもあるが、tatasthalaksana はそうではない。
アドヴァイタ学派における認識論論の形成-Vedantaparibhasa の歴史的意義-
インド思想史学会   1994年12月   
アドヴァイタ学派の認識論は17世紀のダルマラージャが著した『ヴェーダーンタ・パリバーシャー』によって本格的に体系化され、認識論的術語に定義が与えられた。その形成にいたるまで歴史を検討した結果、この学派は認識論に関心が薄かったわけではなく、認識論の形成を阻む特異な形而上学上の問題があり、ダルマラージャはそれらの問題を解決し認識論を形成した。この点こそが彼の最も評価すべき点である。

Works

 
「いま、幸福を考える-比較思想の観点から」シンポジウム概要
その他   2010年3月
書籍紹介、宮元啓一・石飛道子訳『インド新論理学の知識論『マニカナ』の和訳と註解『山喜房佛書林 1998 11
その他   1999年3月
本書は14世紀のガンゲーシャが著した『タットヴァ・チンターマニ』の要旨を簡潔に説いた手引き書『マニカナ』の和訳研究である。インド哲学を理解するには、論理学と文法学の知識が必要不可欠であるから、本書は、インド哲学理解の入門書になることが期待される。和訳以外にも「インド新論理学の基本術語解説」や「主な訳語対照表」があり、有益であるが、和訳の際に極めて特殊な記号を用いた点が惜しまれる。