研究ブログ

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戸田の双対格子

先日のブログの最後の部分で、戸田格子とJacobiゼータ関数と双対格子についての話を余談として追加したが、昔書いたTeXノートにこの双対格子の概念を少しだけ一般化したメモがあったので、ここに放流しておく。

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戸田が戸田格子を発見した経緯を自身の著書において記述する時に双対格子という概念が現れる。(非線形格子振動、非線形波動とソリトン、非線形問題30講、等)一旦戸田格子を見つけさえしてしまえば、以降の可積分系の標準的数学的技術を用いた解法にはこの概念は用いられないので他の著者による専門書ではここの記述はさほど詳しくはないように思われる。

連成振動子系のハミルトニアンを、運動エネルギー項を古典力学のそれから若干一般化した形で

$
\displaystyle H= \sum_n T(p_n) + \sum_n V(x_n-x_{n-1}) $

と書いておく。戸田が述べたことは相対座標 $ r_n=x_n-x_{n-1} $ を新たに独立変数に取り直すような正準変換を考えると $ r_n $ の共役運動量 $ s_n $ は $ s_n-s_{n+1}=p_n $ を満たすことがわかり、ハミルトニアンは

$
\displaystyle H= \sum_n T(s_n-s_{n+1})+ \sum_n V(r_n)$

となり、 $ r_n $ を「運動量」、 $ -s_n $ を「位置」、 $ V $ を「運動エネルギー」、 $ T $ を「ポテンシャル」、とみなした別の格子系になることである。自分は歴史オタクではないので網羅的に文献を調べたわけではないが、戸田自身、恐らく可解な模型を探索するにあたって最初はもっと広いクラスの関数形のハミルトニアンを調べていたのではないかと推測する。(しっかり昔の文献を調査せずとも、実際に自分が同じような動機で同じような式変形を試みると、ほぼ確信に近い精度で「こうしたに違いない、こう考えたに違いない、こう試行錯誤したに違いない」と分かることが時々ある。追体験とでも言うべきか。もちろんただの妄想である可能性もある。) $ T $ の具体形を $ T(p)=\frac{p^2}{2m} $ にとってしまうと上記の双対性は特殊ケースになってしまいそれほどきれいではないが、 $ T,V $ の関数形にある程度の一般性を持たせておくと双対性はもっと一般的な命題になる。もしかしたら、最初はより対称性の高い「自己双対」な格子(つまり $ T=V $ )で、厳密解が求まる格子の候補を詳しく探索したかもしれない。結局Jacobiゼータで解が書ける模型は、運動エネルギー部分が古典ニュートン力学のそれに帰着するので、この双対格子の概念はイントロ部分以外ではあまり強調されなくなってしまったように思う。

上で述べた正準変換をもう少し詳しく書く。上記において $ x_n=q_n $ とし、また変換後の変数を $ Q_n=-s_n,\ P_n=r_n $ と置くことにすると、これは線形変換であり、ゆえに変換行列はsymplectic 行列で書ける。すなわち

$
\begin{pmatrix} -s_1 \\ -s_2 \\ \vdots \\ -s_N \\ r_1 \\ r_2 \\ \vdots \\ r_N \end{pmatrix}=\begin{pmatrix} -(p_1+p_2+\dots+p_N) \\ -(p_2+\dots+p_N) \\ \vdots \\ -p_N \\ x_1 \\ x_2-x_1 \\ \vdots \\ x_N-x_{N-1} \end{pmatrix} $

であるから、これを書き直して

$
\begin{pmatrix}Q_1 \\ \vdots \\ Q_N \\ P_1 \\ \vdots \\ P_N \end{pmatrix}= \left( \hphantom{a} \begin{matrix} O && \begin{matrix} -1 & -1 & \dots & -1 \\ & -1 & \dots & -1 \\ && \ddots & \vdots \\ &&&-1 \end{matrix} \\  \begin{matrix}1 & \\ -1 & 1 \\ & \ddots & \ddots \\ &&-1&1& \\ &&&-1&1 \end{matrix} && O \end{matrix} \hphantom{a} \right) \begin{pmatrix}q_1 \\ \vdots \\ q_N \\ p_1 \\ \vdots \\ p_N \end{pmatrix}$

この変換行列を $ R=\begin{pmatrix} & R_1 \\ R_2 & \end{pmatrix} $ と置くと $ J=\begin{pmatrix} & I_N \\ -I_N & \end{pmatrix} $ として symplectic 行列の条件 $ R^TJR=J $ を満たす、すなわち $ R_2=-(R_1^T)^{-1} $ である。

この正準変換の母関数 $ W $ は、原島「力学 II」 $ \S$ 20.3 の $ W(q,Q) $ 型の母関数を使って
$
\displaystyle W=\sum_{n=1}^{N-1}q_n(Q_{n+1}-Q_n)-q_NQ_N=-Q_1q_1+\sum_{n=1}^{N-1}Q_{n+1}(q_n-q_{n+1}), $
そして $ \displaystyle p_n=\frac{\partial W}{\partial q_n},\ P_n=-\frac{\partial W}{\partial Q_n} $.

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完全楕円積分とテータ関数のゼロ値の間の関係式の導出(とJacobiのFundamenta Novaに関する雑談)

楕円関数や楕円積分のパラメータである母数の二乗 $m=k^2$ と第一種完全楕円積分 $K(m)$ とテータ関数を結びつける基本的な関係式

$
\displaystyle K(m)=\frac{\pi}{2} \vartheta_3(0,q)^2,\quad m=\frac{\vartheta_2(0,q)^4}{\vartheta_3(0,q)^4},\quad 1-m=\frac{\vartheta_4(0,q)^4}{\vartheta_3(0,q)^4} $

を昔自分の手で導出した計算ノートに、文献の情報を追加し、Jacobi によるオリジナルの導出に関する付録を付けたノートを公開します。(PDFファイルは以下のリンク。 また researchmap の私のページのトップからリンクしている Google Drive の公開フォルダにも同じものを置いておきます。)

EIandTC2023sep-extracted.pdf
2023/09/26: 付録を一つ追加しました。

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今回このノートを公開するにあたって、拙い内容であれ公開するからには公益性をできるだけ高めたいと思い計算ノートだった段階では欠けていた関連文献への言及を大幅に増やした。それで Jacobi の Fundamenta Nova にもはじめてざっと目を通した(その際日本語訳の存在は大いに助けになった)。読んでみると今まで自分があちこちの文献を行き来しながら学んできた様々な公式たちが一から証明されていて感慨深い気持ちになった。と同時に、今日手に入る色々な公式集や教科書に載っている公式は基本的に Jacobi 本人が導いたものをそのまま収録しているのであって、思っていたよりも「後年の学者たちによる現代的なアップデートや洗練化」の量は多くないと感じた。ほぼ完成されていたということだろう。

しかしびっくりしたのはなんと §48 で Jacobi が $ Z^2 $ のFourier展開、特にその定数項を求めていたことである。これは以前くりこみ群摂動論の紀要論文 [神奈川工科大学研究報告, 2020] で自分がまさに「小ネタ」と称して計算したものである。別にいくつかのテータ関数の積と商で書かれる関数のFourier展開係数を複素積分で求める計算は特別な技術を要しないし、この小ネタがオリジナルであるとも全く思っていないのだが、まさかJacobiの原著で扱われているとは思わなかった。

もう少し詳しく書くと、 Jacobi の Fundamenta Nova §48 の最後で

$
\displaystyle  A = \sum_{j=1}^\infty \frac{q^{2j } }{(1-q^{2j})^2} $

と置くと $ 8A $ がJacobiゼータ関数の二乗 $ \left( \tfrac{2K}{\pi} \right)^2 Z\left(\tfrac{2Kx}{\pi}\right)^2 $ のFourier展開の定数項であると特定されている。そしてその値は(今日普及している楕円積分の記号に直すと)

$
\displaystyle  8A=\frac{1}{3}\left( (2-m)\left( \frac{2K(m)}{\pi} \right)^2-3\frac{2K(m)}{\pi}\frac{2E(m)}{\pi}+1 \right) $

で与えられている。これは自分が紀要の式(7.14)で求めたものと一致している。理論をやってれば意図せず先人の結果を再訪することはよくあるので大した話ではないが、結果が一致してて良かった。 

・Jacobi と Fourier という二人の名を出したことで思い出したが、志村「数学をいかに使うか」の9章には二人が互いをどう考えていたか、そしてテータ関数を通じて二人の仕事がどう結びついていたか、について面白い記述がある。
 ところで数学的営みを実用のためでなく「人間精神の名誉」と考えた Jacobi の開拓した数学は、皮肉にも今日の人類の科学技術で劇的に役立っている。数学に限ったことではないが結局研究者は本人が野性的本能で最重要であると考えた課題に没頭した時に最も力を発揮するのではないか。政治家や官僚から資金を調達するため申請書やプレゼンで大義名分を掲げるのがうまい一部の研究者と研究分野が資金を独占しその結果多くの研究者が数年毎にころころ変わる研究課題に振り回される昨今の日本の大学の状況を顧みると、反省させられる点は多い。

・Jacobi ゼータ関数は戸田が戸田格子を発見するきっかけを作った関数である。これについては戸田「非線形格子力学」の1章~2章を参照されよ。双対格子を用いた考察は今日の可積分系の専門家の文献の文脈ではあまり登場しないように思うが、これ自体面白い視点である。ただこの本は可積分系の本であるから双対系を戸田格子以外に使った話はあまり書いてない。これについては彼の他の著作「振動論」(話題が豊富で絶版にするのは惜しい)5-7節や「波動と非線形問題30講」第10講などにもう少し詳しい記述がある。

 

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Jacobi楕円関数の逆関数の二つの引数が同時に1に近づく時の展開

現在中央大学の大学院生と進めている研究の途中で、Jacobi 楕円関数 $ \operatorname{sn} $ の逆関数

$
\displaystyle\operatorname{sn}^{-1}(u|m)=\int_0^u\frac{dx}{\sqrt{(1-x^2)(1-mx^2) } }$

の引数 $u,m$ が同時に1に近づく場合の展開が必要になったため計算した。誰かの参考になるかもしれないと思い、計算の詳細をここに公開する。(PDFファイルは以下のリンク。 また researchmap の私のページのトップからリンクしている Google Drive の公開フォルダにも同じものを置いておく。)

EllipticIntegralLogExpand-3.pdf
2023/09/18:ノート中の用語を少しだけ変更しました。
2023/09/27:二項積分と超幾何関数に関する脚注を追加しました。

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もし $u=1$ であればこれは第一種完全楕円積分 $K(m)$ の展開に帰着し、 $m=1$ における展開は対数項を持つ。 $K(m)$ は超幾何関数でもあり、この対数項を含む展開は超幾何関数のパラメータが整数を含む場合の例外である。物理への応用の視点から見ればこの例外的な展開を使う場面は意外に多い。というのも、ある物理系の楕円関数で書かれる非一様解 ― それは例えばFFLO相等のソリトン格子かもしれないし、あるいは有限長の箱に閉じ込めたBECかもしれない ― が一様解に近づく極限において各種物理量がどう振る舞うか見積もる時に、しばしば必要になるためである。今回の上記の計算もまあこれと似たような文脈で現れたのであるが、詳細はいずれ上がる arXiv の原稿にて。(と、書いてはいるものの、現時点で計算の方針が確定しているわけではないので、最終的には使わない可能性もある。)

ともかく、この展開の一般表式自体はすぐ導けたのだが、その展開係数をsimplifyする計算が手強かった。納得の行くまで複数通りの証明を与える過程で色々な超幾何関数の公式に触れられたことは予想外の収穫であったように思う。もっと簡単に証明できる(あるいは、より一般化された理論の特殊ケースに帰着する)と気づいた方がいらっしゃったらぜひ連絡ください。

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楕円関数に関する小話 ― 「dnには三角関数に対応物が無い?」「第三の初等関数極限」

1. はじめに

 本記事は、神奈川工科大学研究報告に寄稿した紀要論文のいわば「コーヒーブレイク」パートに相当する一つの小話である。researchmapでどれくらいタフな数式を含むブログ記事を投稿できるかテストも兼ねている。論文は以下のURLから無料でダウンロードできる。 

高橋 大介,
四次の楕円曲線の媒介変数表示とLanden変換について,
神奈川工科大学研究報告 B 理工学編,第46号,21-30 (2022).
https://doi.org/10.34411/00032061

以下の記事において、節番号や数式番号、表番号が登場した場合、それは上記論文中のものを指すとする。

2.「sn,cnには三角関数に対応物があるがdnには無い」は本当か?

 「$ m\to0 $(または $ k\to 0 $)で $\operatorname{sn}, \operatorname{cn}$ には三角関数に対応物 $\sin, \cos$ があるが、$\operatorname{dn}$ は定数 $1$ になるため対応物が無い」という説明は楕円関数論の教科書において Jacobi 楕円関数を導入する時にしばしばなされる。*

* 歴史的には $\operatorname{dn}$ という記号は Gudermann によるもので、Jacobi が振幅関数 $\operatorname{am}$ の導関数を $ \Delta{\rm am} $ と書いていたものをより短く $\operatorname{dn}$ と書いたのが最初だそうだ  [Hurwitz-Courant]。 よってdの意味はderivativeである。 なお $\operatorname{am}$ は複素平面上で対数特異点を持つので楕円関数(=二重周期的有理型関数)ではない。 

 高校で三角関数を習った者なら「サインコサインタンジェント」という呪文を通して三角関数のリストを覚えた経験があるはずなので(三角関数は実際には逆数 $\sec, \operatorname{csc}, \cot$ も含め計六つあるのだが)、 $\operatorname{sn}$ が $\sin$ に、 $\operatorname{cn}$ が $\cos$ に帰着するという説明を受けて「では $\operatorname{dn}$ は $\tan$ になるのか」と尋ね教員に否定されるやりとりは、おそらく(他の理工系必須の特殊関数に比べれば開講数は圧倒的に少ないであろう)楕円関数の講義において幾度か繰り返されたのではないか。

 ところが表2から分かるように、 $\operatorname{dn}$ は引数をずらしてから $ m\to0 $ を取れば $\tan$ に帰着するのである。詳しく言えば
\begin{align*}
\frac{-i}{\sqrt{1-m } }\operatorname{dn}(z+K+iK'|m)=\operatorname{sc}(z|m) \overset{m\to0}{\longrightarrow}\tan z
\end{align*} である。よってこの意味では $\operatorname{dn}$ の対応物は $\tan$ である。「引数をずらしてから極限を取るという『ズル』を許すなら $\operatorname{sn}, \operatorname{cn}$ の中にも極限で $\tan$ に帰着するものが含まれるのでは?」という問いに対する答えはノーである。実際、12個の Jacobi 楕円関数を引数のシフトで互いに移り合う4個ずつの3つの組に分け(表2を再度参照)、 $ m\to0 $ の極限を書き下せば
\begin{align*}
\{\operatorname{sn},\operatorname{ns},\operatorname{cd},\operatorname{dc}\} &\to \{\sin,\operatorname{csc},\cos,\sec\}, \\
\{\operatorname{cn},\operatorname{ds},\operatorname{sd},\operatorname{nc}\} &\to \{ \cos,\operatorname{csc},\sin,\sec \}, \\
\{\operatorname{dn},\operatorname{cs},\operatorname{nd},\operatorname{sc}\} &\to \{1,\cot,1,\tan \},
\end{align*} である。(馴染みのない方のため注釈: $\operatorname{sec}(z)=1/\cos(z),\ \operatorname{csc}(z)=\operatorname{cosec}(z)=1/\sin(z) $ である。)これを見れば分かるように $\tan, \cot$ は $\operatorname{dn}$ を含む組にのみ出現する。ついでに $ m\to 1 $ では
\begin{align*}
\{\operatorname{sn},\operatorname{ns},\operatorname{cd},\operatorname{dc}\} &\to \{\tanh,\coth,1,1\},\\
\{\operatorname{cn},\operatorname{ds},\operatorname{sd},\operatorname{nc}\} &\to \{ \operatorname{sech},\operatorname{csch},\sinh,\cosh \},\\
\{\operatorname{dn},\operatorname{cs},\operatorname{nd},\operatorname{sc}\} &\to \{\operatorname{sech},\operatorname{csch},\cosh,\sinh \},
\end{align*} であり、こちらの場合には $\operatorname{sn}$ を含む組に $\tanh, \coth$ が出現する。

 上記の $ m\to 0, 1 $ の二通りの極限を見比べれば次の疑問が湧くだろう。すなわち、$\operatorname{cn}$ を含む組が $1,1,\tan,\cot$ (の適当に引数を調整したもの)となる他の極限も存在するのではないか。次節でこれを考える。

3.第三の初等関数極限

 3-3節で論じたように楕円関数を解とする微分方程式において根の置換を考えることで六種類の $ m $ が生ずる。*

* この節の $ m $ の六つ組という言葉も二十四の解という言葉も造語である。後者は超幾何関数論におけるKummerの24の解を知っている専門家を「釣る」ため意図的に用語を被らせている。

これらは $ m\to 0 $ の極限で $ 0,1,\infty $ に帰着する。よって初等関数に帰着するもう一つの極限は $ m\to \infty $ である。しかし式(3.7)-(3.9)の $ m $ の六つ組の入れ替え公式を駆使して素朴にこの極限を取ろうとしても処理不可能な不定形が出るだけである。 $ m\to 0,1 $ の極限では実方向及び虚方向の周期のうち一方は有限に留まりもう一方は無限大となる。そして $\operatorname{cn}$ 関数の二つの周期は $ 2K\pm 2iK' $ に選べる(表2の真ん中の図)。よって、 $ K\pm iK' $ 方向の周期のうち一方を固定しもう一方を発散させる極限が望むものではないかと予想が立つ。*

* こういった議論はWeierstrassの楕円関数論において三つの周期を平等に扱えば、より簡明になる。すなわち $ \omega_1+\omega_2+\omega_3=0 $ を満たす周期(普通はこの三者のうち $ \omega_1,\omega_3 $ を楕円関数の引数に選ぶ)に対し、 $ m\to 0 $ の極限は $ \omega_1 $ をfixして $ \omega_{2,3}\to\infty $ とすることに対応し、 $ m\to 1 $ の極限は $ \omega_3 $ をfixして $ \omega_{1,2}\to\infty $ とすることに対応する。よって今考える $ m\to\infty $ の対応物は $ \omega_2 $ をfixで $ \omega_{1,3}\to\infty $ とするものである。Jacobi楕円関数においてこれに対応する操作は $ \omega_2 $ 方向、つまり $ -K-iK' $ 方向の周期を一定に固定することである。よって Jacobi 楕円関数の第一引数を $ z $ から $ 2(K+iK')z $ に変えてから $ m\to\infty $ を考えればうまくいくと分かる。 $ -K-iK' $ の代わりに $ -K+iK' $ にするには $ \omega_3 $ を $ -\omega_3 $ にする。

しかしこの二つの周期は「理論的な役割は対等」なのだから、一方は有限に留まり一方は発散するという非対称な振舞いは不自然ではないかという疑問は残る。 
 上記の疑問に答えるため、第一種完全楕円積分は超幾何微分方程式の特殊なパラメータの解であること、そして $ m $ の六つ組の変換公式には $ \sqrt{m},\sqrt{1-m} $ が登場すること、等をヒントに次のような幾何学的考察をする。 $ m=0,1,\infty $ の三点を分岐点に持つリーマン球面を複数用意し、ハサミで穴をあけてそれらをつなぎ合わせることで新たな面を作ることを考える。沢山ある球面のうち特定の一つのみに着目しよう。この面を切って別の面と繋いだ時に $ m=0,1 $ が共に「一価の点」であり続けるようにするには、切り口を0から出発して $ \infty $ を通過して 1で終えるように開ける。このとき、他の面と繋いで得られた新たな面においては $ m=0,1 $ という名前の点はそれぞれ一つずつしか無いが、 $ m=\infty $ という名前の点は、切り口の「あちら側」と「こちら側」の、計二つある。この二つ存在する $ m=\infty $ のどちらを選ぶかによって、二つの周期 $ 2K\pm 2iK' $ のうちどちらが有限に留まりどちらが発散するか決まるのであろう。これで前段落で心配した非対称性は無くなる。無限遠点が二個あるから両方のケースが平等に実現しうるのだ。

 以上の大雑把な位相的考察をもう少し解析的にする。 $ m $-平面において、実軸上の区間 $ (-\infty,0) $ と $ (1,\infty) $ に分岐切断を入れる。すると $ \sqrt{m},\sqrt{1-m},K(m),K(1-m) $ 等を含む関数は実区間 $ (0,1) $ は自由に通過できるが、実軸のそれ以外の箇所をまたぐと別の複素平面に行く。以後話の簡略化のためそのような経路を考えない。*

* Mathematicaをはじめとする数式処理ソフトでは便宜上、分岐切断直上においても上半下半平面どちらかの値で関数が定義されていると思うが、実際には上半平面下半平面のどちらから実軸に近づくによって値は異なるため、引数に微小な虚部を含めてチェックするのが良い。

すると今 $ |m|=\infty $ なる点には区別可能なものが二つ、上半平面と下半平面にある。一方を $ m=i\infty $、 もう一方を $ m=-i\infty $ と書く。もう少し正確に言うと、 $ m=r e^{i\theta},\ \theta\ne 0,\pi $ と書くとき、 $ 0<\theta<\pi $ に固定して $ r\to\infty $ でたどり着く点を $ m=i\infty $ 、また $ -\pi<\theta<0 $ を固定して $ r\to\infty $ でたどり着く点を $ m=-i\infty $ と呼ぶ。上半平面または下半平面それぞれの無限遠点であることをわかりやすくするため象徴的に $ m=\pm i\infty $ という名前を付けるが、必ずしも偏角を $ \pm\tfrac{\pi}{2} $ にしなくてよい。

 ここで超幾何級数の接続公式の特殊ケースが必要になる。すなわち $ K(m),K(1-m) $ は超幾何微分方程式 $ F''(m)+\frac{1-2m}{m(1-m)}F'(m)-\frac{1}{4m(1-m)}F(m)=0 $ の解であるから、 $ m=0,1,\infty $ における解を接続する公式を使う。実は $0$と $1$、 $0$ と $\infty$、 そして $1$ と $\infty$ の三通りの接続を全て場合分けせずに使える一枚の複素平面は存在しない。これが $\pm i\infty$ という二通りの無限遠点が出てくる理由である。*

* 楕円積分の逆関数ではなく最初から二重周期を指定して楕円関数を定義するWeierstrass流の理論であればこのような複素平面の乗り換えや接続公式といった面倒は存在しない。数学者が楕円関数の教科書を書く時にこちらを採用する理由は恐らくここにある。一方、二重周期を直接のパラメータとしたことによって、微分方程式に出現する係数と、それを満たすWeierstrassの楕円関数が持つパラメータの関係は捉えづらくなる、即ち、Weierstrassの微分方程式の係数 $ g_2,g_3 $ は二重周期 $ \omega_1,\omega_3 $ のEisenstein級数となり、閉じた式では書けない。これは物理学者が敬遠する理由になりうる。これに比べるとJacobiの楕円関数は微分方程式が持つパラメータに対して解を直接指定している点が使いやすいのである。しかしどちらかだけを好んでいては楕円関数論の全体像は見えない。両流儀と、更にテータ関数による表示、この三者を行き来することで、純粋に数論的考察に引きこもった思考だけでは到底たどり着けない数論的恒等式が出てくる。なぜ私達の世界にこんなものが存在するのだろうか?

上述のように関数 $ K(m),\sqrt{m} $ の定義をカットを入れた一枚の複素平面に限定する。Mathematicaで $ m=\infty $ における展開を比較して成立すべき等式の候補を見出し、グラフを描けば次の等式がチェックできる:
\begin{align}
\frac{1}{\sqrt{m } }K\Big(\frac{1}{m}\Big)=\begin{cases} \tfrac{-i}{\sqrt{1-m } }K(\tfrac{1}{1-m})=K(m)-iK(1-m) & m\in\mathbb{H}^+ \\ \tfrac{i}{\sqrt{1-m } }K(\tfrac{1}{1-m})=K(m)+iK(1-m) & m\in\mathbb{H}^- \end{cases}
\end{align} 但し $ \mathbb{H}^{\pm} $ はそれぞれ上半下半平面。これは探せば既存の公式集から見つけられるだろうし [例えば定義域を限定しているが Byrd-Friedman, 162.02]、本来は接続公式の特殊ケースとして導くべきだが、今はその作業は略す。
 この関係式は、定義を一枚の複素平面に縛るという制限のもとでは上下の複素平面からは決して延長できないことに注意しておく。というのも、 $ K(m) $ が $ (1,\infty) $ にカットを入れた面で定義されるとすると、 $ K(1-m) $ は $ (-\infty,0) $ に、 $ K(1/m) $ は $ (0,1) $ にカットを持つ。よって $ K(m),K(1-m),K(1/m) $ の三者が関わる等式においては実軸のどこも通ることができない。この関数が一価となる面の構築を目指してハサミを入れた複素平面を次々繋いでいく作業はできるが、何度か繰り返すとその作業に終わりが来ないことも想像がつく。実際、半周期比 $ \tau(m)=\frac{iK(1-m)}{K(m)} $ が一価になる場所は $ (2,3,\infty) $ シュワルツ三角形でタイリングされたポアンカレ円板に等角同値で、我々はその一欠片を見ているに過ぎない。(超幾何微分方程式のパラメータが実有理数の場合モノドロミー群の生成元は何乗かすると恒等元になる。このような場合複素平面の切り貼りはポアンカレ円板のシュワルツ三角形によるタイリングになり、それに対応して保型関数論が存在する。)
 ともかくこれと六つ組の変換公式を合わせると、たとえば $ m\in\mathbb{H}^- $ の場合
\begin{align}
\frac{1}{\sqrt{m } }\operatorname{ns}\Big(2(K(m)+iK(1-m))z\big|m\Big)=\operatorname{ns}\left(2K(\tfrac{1}{m})z\middle|\tfrac{1}{m}\right) \overset{m\to-i\infty}{\longrightarrow} \operatorname{csc}\pi z, \\
\frac{1}{\sqrt{m } }\operatorname{cs}\Big(2(K(m)+iK(1-m))z\big|m\Big)=\operatorname{ds}\left(2K(\tfrac{1}{m})z\middle|\tfrac{1}{m}\right) \overset{m\to-i\infty}{\longrightarrow} \operatorname{csc}\pi z, \\
\frac{1}{\sqrt{m } }\operatorname{ds}\Big(2(K(m)+iK(1-m))z\big|m\Big)=\operatorname{cs}\left(2K(\tfrac{1}{m})z\middle|\tfrac{1}{m}\right) \overset{m\to-i\infty}{\longrightarrow} \cot \pi z,
\end{align} となる。 $ K-iK' $ の式を使えば $ m\to+i\infty $ の場合も同様に論じられる。第三の初等関数極限とは言え結局同じ関数になるので、エキセントリックな式を期待した人には面白くないかもしれない。式の見かけが揃うように $ m\to 0,1 $ の場合も二重周期の一方が固定されるよう引数を変えて書いておくと
\begin{align}
\operatorname{ns}(2K(m)z|m) \overset{m\to 0}{\longrightarrow} \operatorname{csc}\pi z, \\
\operatorname{cs}(2K(m)z|m) \overset{m\to 0}{\longrightarrow} \operatorname{cot}\pi z, \\
\operatorname{ds}(2K(m)z|m) \overset{m\to 0}{\longrightarrow} \operatorname{csc}\pi z,
\end{align} および
\begin{align}
i\operatorname{ns}(2iK(1-m)z|m) \overset{m\to 1}{\longrightarrow} \operatorname{cot}\pi z, \\
i\operatorname{cs}(2iK(1-m)z|m) \overset{m\to 1}{\longrightarrow} \operatorname{csc}\pi z, \\
i\operatorname{ds}(2iK(1-m)z|m) \overset{m\to 1}{\longrightarrow} \operatorname{csc}\pi z.
\end{align}

以上の議論を一般化すれば、周期平行四辺形の選び方を好き勝手に変えるごとに、その二重周期のうち一つを固定した極限が考えられるだろう。その場合、極限となる初等関数はどうなるだろうか?

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