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草生久嗣「アレクシオス一世の爵位改革」(高山博・亀長洋子 編『中世ヨーロッパの政治的結合体 : 統治の諸相と比較』(東京大学出版会、2022年所収)を読む

草生久嗣「アレクシオス一世の爵位改革」(高山博・亀長洋子 編『中世ヨーロッパの政治的結合体 : 統治の諸相と比較』(東京大学出版会、2022年所収)を読む

 

 先週(3月16日)、東京大学の高山博教授の定年記念論集である高山博・亀長洋子 編『中世ヨーロッパの政治的結合体 : 統治の諸相と比較』(東京大学出版会、2022年3月)を4名の執筆者の方の連名で御寄贈いただいた。本書については、出版前の予告記事などから気になっていたのだが、極めて高価な買い物であるため、購入の決断をしかねて逡巡するところでもあったので、思いがけず現物を賜ったときには、送っていただいた方々に申し訳ないやら、有り難いやら、まさしく感激の極みというところであった。もしも、4人の方々が目の前におられたら、思わず手を合わせて拝んでいたことだろう。

 

 今回、送っていただいた論集は5部構成になっており、その第5部がビザンツ史に充てられ、4編の論文が収録されている。なかでも、草生久嗣氏の「アレクシオス一世の爵位改革」(577-596頁)は、そのタイトルから、私がこれまで研究してきた領域に深く関わる議論が展開されることが予想されたため、ひときわ関心を寄せていた論文であった。

 早速、読み始めてみたのだが、すぐになんとも言えない微妙な気分に襲われた。最後まで読み終わったときには、すぐに言葉が出てこなかった。「なかなか、これは大変な論文だぞ」というのが、そのときの率直な感想である。「大変な論文」という言葉には、二重の意味が込められている。ひとつは、もしもこの論文の結論が受け入れられるのであれば、コムネノス朝支配体制に関するこれまでの定説は根本的にひっくり返される可能性が生まれるからであり、2つめは、誠に遺憾なことに、本論文で展開される議論には、ほぼ最初から最後まで、論旨の展開の仕方から個別の歴史的事象の解釈に至るまで、私の見地からは同意できなかったり、異論の余地があったり、疑問に感じたりするような言説が次々と開陳されていたからである。さすがにこれは、このまま放置することはできまいと腹をくくり、以下に自分なりのコメントを記すことにした。少々、冗漫な文章になりそうな予感がするが、その点については前もってお詫び申し上げる次第である。

 

 本題に入る前に、本論文の主題を成すビザンツ皇帝アレクシオス1世の爵位改革とそれに関する通説について簡単にまとめておこう。

 まず、議論の前提となるビザンツの爵位について説明しよう。

 ビザンツ皇帝に仕える廷臣たちは、爵位と官職という2つの肩書を併せ持つのが一般的だった。爵位とは、総じて名誉的な称号であり、その保持者は、儀礼的なそれを除けば特定の職務を果たすことはなかったのに対し、官職には、その肩書に応じて軍司令官や行政・財務管理業務など、国家機構に由来する様々な公務を担う義務が付随していた。さらに、爵位や官職それぞれの保有者には一定額の年俸(logai)が支給されることになっていた。ちなみに、爵位はいったん授与されたら生涯にわたって保持するのが原則だった(ただし、当人が修道士になった場合には爵位は返上せねばならず、また各人が保持する爵位を子弟に相続させることも許されない)のに対し、官職は数年で交替するのが一般的だった。それゆえ、ひとつの官職を免じられてから次の任務に就くまで待命中だったり、本人が高齢や病気などのために公務の一線から退いたりした場合など、官職なしで爵位だけを有している、という人々も常時、一定数、存在していたものと思われる。下級の爵位や官職は、決まった金額を当局に支払えば、誰でも購入することができたから、そうした人々を含めれば、一切、公務に携わっていない爵位保有者はかなりの数にのぼった可能性もある。他方、公務に励み、その功績を認められた官職者は、官僚組織の中で栄達を遂げていったが、その際には、新たな地位に相応しいように爵位も上昇していくのが常であった。

 宮廷内の席次を決める際には、まず爵位を基準として上下が決められ、同じ爵位の者同士の場合には、官職を有する者の方が官職なしの者より上席を占めた。さらに同一爵位でいずれも官職を有する場合には、個々の官職に付随する順位によって上下関係が決せられた。このように官職と爵位が連動して宮廷内の秩序が規定されるのが、マケドニア朝までのビザンツ中期国家の爵位制度の特徴である。こうした爵位制度は、皇帝を頂点とした集権的な官僚組織が整備され、多くのエリート官僚が出世を競い合っていた当時の国家システムを反映するものと言えるだろう。

 

 こうした官職システムと結合したビザンツの爵位制度は、通説によれば、コムネノス朝初代、アレクシオス1世の下で根本的な変貌を遂げた、とされている。同帝は、反乱の末に即位して間もなく、彼自身が帯びていたセバストス(本来は、皇帝の正式称号のひとつ、「アウグストゥス(尊厳なる者)」のギリシア語形。11世紀後半に「カイサル」に次ぐ高い爵位として限られた者に授与されるようになった)の爵位を、自らの反乱に加担した複数の軍人たちに気前よく分与しただけでなく、「セバストス」から派生した「セバストクラトール」、「パンヒュペルセバストス」、「プロートセバストス」などの新た爵位を創設し、それを自身の兄弟や姻戚者に授与したことで、事実上、爵位制度を一新したと言われている。というのも、これら一連の新しい爵位は、いずれも皇帝親族に付与される高級爵位だったから、旧来の爵位はそれらの下方に位置づけられることとなり、急激にその価値を低下させて、時を経るに従って姿を消していったからである。

 この新しい爵位制度の特徴は、爵位間の上下関係を決する基準が、官職ではなく、皇帝との血縁・姻戚関係の遠近性にあったことである。当初、選任の基準に混乱も見られたが、12世紀半ばには、セバストクラトールは(帝位継承予定者以外の)皇帝の息子、カイサルは皇帝の長女の配偶者、パンヒュペルセバストスは皇帝の次女の配偶者、プロートセバストスは皇帝の甥か従兄弟、というように次第に基準も明確になっていく。アレクシオス1世以下歴代のコムネノス朝皇帝は、この制度を積極的に活用し、ブリュエンニオス家を初めとするかつてのライヴァル家門を婚姻を通じて皇族サークルの中に次々と吸収していった結果、「コムネノス一門」とでも称すべき巨大な支配エリート集団が形成されることになる。この擬制的な拡大家族集団の「家長」としてリーダーシップを握った皇帝は、こうした施策によって、「一門」の外部に強大な政敵が生まれる余地を消したのであり、その結果、およそ100年に及ぶコムネノス朝の国内平和・政治的安定を実現させることができたのである、というのがこの説の骨子と言えるだろう。

 こうした学説を最初に大系的に提示したのは、ビザンツ学の泰斗アレクサンダー・P・カジュダンである(А. П. Каждан, Социльный состав господствуиего класса Византии ХI- ХII вв., Москва, 1974. 井上浩一氏の書評『史林』60巻4号、1977年、157-165頁も参照。草生論文では、イタリア語の改訂版Alexander Kazhdan, Silvia Ronchey,  L'aristocrazia bizantina : dal principio dell'XI alla fine del XII secolo, Palermo, 1997が参照されている)。井上浩一氏の『ビサンツ帝国』、岩波書店 、1982年、312-315頁や拙著『ビザンツ貴族と皇帝政権 : コムネノス朝支配体制の成立過程』、世界思想社、2012年、275-276頁の記述なども、多少のニュアンスの違いは含みつつも、大筋においてカジュダンの説を踏襲するものであると言えるだろう。今回の草生論文においても数ヶ所で拙著に言及されていたのには謝意を禁じ得ないが、その一方で、この時代を扱った私のもうひとつの著作、『ビザンツ 幻影の世界帝国』、講談社選書メチエ、1999年、を参照した形跡が一切、見られなかったことは、個人的には極めて遺憾なことと言わざるを得ない。というのも、コムネノス朝期の爵位改革と支配体制の議論に関しては、上記『ビザンツ貴族と皇帝政権』よりも、こちらの講談社メチエ版の方がずっと詳しい解説を残していたからである(『ビザンツ 幻影の世界帝国』23-38頁)。『ビザンツ貴族と皇帝政権』では、内容の重複を避けるため、意識的に簡潔な記述に留めていたのが実情である。メチエの該当部分を精読していたら、今回の論文の内容が変わったかどうかは評者の判断の及ぶところではない。もしもしっかり読んだうえで内容に変化がなかったら、その方がかえって落胆は大きかったかもしれない、などと埒もない思いがよぎったりして、なんとも悩ましい限りである。

 

 前置きがいささか長くなったが、いよいよ本題に入ろう。

 今回の論文の要旨をやや強引にまとめると、大略、以下のようになるだろう。

 ①アレクシオス1世の爵位改革自体は、一般に言われているほど重要なものではなかった(なぜなら、セバストス位保有者が急増して、すぐに名誉称号としての有難味が失せたから)(579頁)。

 ②この爵位改革には、政権内秩序の確立、政治的安定をもたらす効果はなかった(なぜなら、その後も政権内の紛争や陰謀事件が多発したから)(590頁)。

 ③今回の爵位改革の真の目的は、「外部人材」(本論文の用語を使用。用語説明は以下の本文で行う)を登用するためである(590-591頁)。

 

 以上のテーゼにどれほどの妥当性があるのかを検証するのが、以下における課題となる。全体の議論に先立って、今回の論文において、とりわけどのような点が問題を孕んでいるのかについて評者がとくに気になったポイントを3点挙げておきたい。

 a) 考察の対象となる時間の幅が広すぎて、それがかえって読者に混乱をもたらし、その理解を妨げる恐れを生じさせていること。

 b) 爵位制度のビザンツ国内の機能(皇帝宮廷における廷臣の席次を決定し、宮廷秩序を確立する)と対外政策上のそれ(外国君主を皇帝の宗主権の下に編入し、帝国の影響下に組み込む)という2つの機能を区別せずに論じようとしていること。

 c) アレクシオス1世の爵位改革において重要なファクターを成した「婚姻関係の締結を介した部外者の取り込み」という論点が明示的に考慮されていないこと。

 以上の3点に加え、個別的な歴史事象の解釈に関する異議申し立てなどについては、別途、それぞれの登場箇所ごとに検証することにする。

…と、ここまで書いておいて、上記a) b) c) の論点ごとに議論をしていこうかと思って、論文を読み返してみると、そうした手法で本文を前後に行きつ戻りつしながら議論を組み立てる手法を採ると、とんでもなく手間がかかることに気がついた。そこで作戦を変更し、論文を前から読んでいき、気になった箇所が見つかると、その都度、評者がコメントを加えていく、というやり方に変更することをお許しいただきたい。それぞれの箇所のコメントが上記3つのポイントのどれに関わるかは、お読みになればおおよそ分かると思うので、いちいち表記は付さない。こうした手法だと、似たような議論が繰り返し登場する恐れがあるが、2度目以降は極力、簡潔な記述を心がけることであまり煩雑にならないように努める所存である。また、個別的な歴史事象の解釈に関する件についても、同様の手順で順次、検討を加えてゆくことにしたい。

 

 578頁、第1節「爵位改革とその評価」を読み始めて、最初に評者の目にとまったのは、次の文章である。

「この「セバストス爵位」による改革について、同時代人と研究者の評価は限定的であった。家門支配の政権が安定すると、コムネノス朝宮廷では、貴族の半分がセバストス位をもち、セバストスの爵位がコムネノス家のシンパであることを示す以上の意味をもたなくなり、さらにセバストス間の対立も生じクーデタに与する者も現れるに至っているなど、名誉称号の地位すら揺らいでいたいったからである」(579頁15-19行)

 セバストス爵位をめぐるアレクシオス1世の改革に関して「同時代人と研究者の評価は限定的であった」かどうかは、評者は知らない。明らかなことは、この改革に限定的な評価しか下していない研究者のお仲間には評者は属していないということである。セバストスのメンバー相互に紛争が生じたからセバストスの名誉称号の地位が揺らいだ、というロジックもにわかに理解しがたいが、セバストスを分与する行為自体が国内の有力者を手なずけるための皇帝の手管であったのだが、あまりにセバストス爵位保有者が増えすぎて、国内平和を保つ効能が失われたのだ、という説明が補足されるのであれば、とりあえずは筋の通った説明にはなるだろう。ただし、この点に関しても問題は依然として残されている。先に引用した文章の2文めの冒頭、「家門支配の政権が安定すると」とあることに注目していただきたい。ここではさらりと書かれているので、あやうく読みとばしそうになるのだが、この箇所をしっかりと理解しておかないと、読者は、セバストス爵位の氾濫状態はすぐに発生したかのような印象を受けてしまうのではないだろうか。実際にはそのようなわけではなく、「貴族の半分がセバストス位をもつ」ようになるには、アレクシオス1世が即位してからおよそ60年の歳月を要していたのである。この箇所の根拠として草生氏が註14で挙げているP. マグダリーノの著者(P. Magdalino, The Empire of Manuel I Komnenos, 1143 -1180, Cambridge, 1993)の当該部分は、コムネノス朝第3代マヌエル1世(在位1143-1181)の時代が念頭に置かれていることを見逃してはならない。

 

 上記引用文に続く、以下の一節にも注意が必要である。

「首都総督も輩出した行政高官の家門クセロス家のミカエルは、ミュラサとメラノウディオン(アナトリア西南海岸部)のドゥクスとして、セバストス位らしからぬ低位職の地方管区長にとどまっているが、これは、在京時にアネマスの陰謀に加担したことによる処遇だった。」(579頁15-580頁2行)

 この文章を受けて草生氏は「セバストス位はその体系ごと、数ある名誉職位に埋もれていった感がある」(580頁2-3行)とまとめている。どうやら、セバストス位保有者が有象無象の下級官職者の群れに埋没している姿を想像しているらしい。この箇所にも評者は強い違和感を覚えたため、氏が註15においてネタ元に挙げているA. P. Kazhdan ed., The Oxford Dictionary of Byzantium, New York-Oxford, 1991の該当箇所(p.2210, “Xeroi”. 執筆者は全体の統括編集者でもあったA. P. Kazhdan)を確認することにした。以下に当該部分を抜粋する。

The eparch Xeros participated in a plot hatched by the Anemas family against Alexios I(改行)Thereafter the role of the Xeroi in the administration drastically declined: the sebastos Michael served as doux of Myrassa and Melanoudion; Ahrweiler (“Smyrne”, 129) dated him ca.1127, but at that time the title of sebastos was too lofty for governor of a modest theme.

  2つの文章を読み比べてもらえば分かると思うが、草生氏の文だとクセロス家のミカエルは「アネマスの陰謀に加担したこと」で地方の下級行政官職に甘んじる羽目になったように読めてしまう。しかし、ODBのカジュダンの記述に従えば、アネマスの陰謀に加担した首都長官のクセロスとミュラサ・メラノウディオン長官のミカエル・クセロスは別人であるのは明白であろう。これに加えて、Ahrweilerの見立てによれば1127頃という比較的早い時期(当時はまだセバストスは誰でも帯びられるほどありふれた爵位ではなかった。項目執筆者のカジュダンが、at that time the title of sebastos was too lofty for governor of a modest themeと記述していることに注意)に、陰謀に加担して皇帝に疎まれていた家門の成員がセバストスという高位の爵位を皇帝から授けられていること自体、不思議と言えば不思議である。この謎を解く手がかりは、同じODBのp.1428, “Myrassa and Melanoudion”の項目(執筆者はClive Foss)に見つけることができる。そこには、同名の管区が成立したのは、皇帝マヌエル1世の治下であったことが告げられている。だとすれば、Ahrweilerの年代画定は正しくなかったのではないかという疑念が生じるのは当然であろう。おそらく、ミカエル・クセロスの同管区長官職への就任時期は12世紀後半まで下ることになるだろう。そうなると、この事実をもって、セバストス位の急激な価値低下の証拠と見なす議論も成り立たなくなることになる。

 次の段落では、話題が、爵位最高位のセバストクラトール(草生論文の表記はセバストクラトルだが、引用箇所以外では使い慣れたこちらの表記を使用する)へといったん移り、それが「ニケア、トレビゾンド、テッサリアの諸地域及び、首都回復以降のパレオロゴス朝の名誉称号として、また外国君主に婚姻を期に(ママ・「機に」では?)贈与される栄誉として史料に登場している」ことが指摘されている(580頁11-12行)。ここで「ニケア、トレビゾンド、テッサリアの諸地域」とあるのは、第4回十字軍によってコンスタンティノープルが占領された後に成立したビザンツ系亡命政権の支配領域を示しているのだろう。評者が正直、不思議に思うのは、「アレクシオス1世の爵位改革」と題した論文で、論文の主題よりも百年以上後の事象についてどうして議論に加える必要があるのかという点である。アレクシオス1世が新たな爵位制度の創設に取り組んだとき、それが百年後にどのように運用されていたかを考えながら作業に勤しんでいたと想像することは到底できまい。爵位に限らず、制度にせよ、官職にせよ、時の経過とともに機能が代わり、同じ名称でも時と共にまったく別の内実になっていることの例はいくらでもあげることができるだろう(例を挙げだしたらきりがないが、もともとは皇帝を警護する中央軍団司令官だったドロンガリオス・テース・ヴィグラスが11世紀半ばには最高位の司法官職になっている例などを想起されたい)。話が脱線して恐縮だが、評者が言いたいのは、「アレクシオス1世の爵位改革」を論じるのであれば、それが考察の対象にするのは、この改革が直接的にビザンツの支配体制に影響を及ぼした12世紀のコムネノス朝期くらいに限定しておくのが妥当であり、それ以降の時代は、また別の問題として別の論文で扱えばよいのではないか、ということである。このように、特段、取り上げる必要もない論点を加えることで議論をかえって紛糾させ、読者に無用な混乱をもたらすような事態を生むのは避けた方がよいのでは、と評者は思うのである。

 

 同じ段落の後半部分、「しかしアレクシオスの改革の当初から、セバストクラトルに匹敵もしくはそれ以上に目立つ称号群、すなわち「デスポテス」「バシレイオス(皇位継承者)」「ガンブロス(親族)」「オイケイオス(家人)」が併用されつつあった。この「称号」は後に序列体系に取り込まれ家門内ヒエラルキーの指標として、セバストス位よりもより皇帝に近いものとして重視されており、セバストス号に取って代わってゆく感がある」という文章(580頁12-16行)も、評者には違和感満載だ。

 まず、「バシレイオス(皇位継承者)」とはいかなる称号なのだろうか。これが「皇帝」であれば、「バシレウス basileus」となるはずだ。「バシレイオス」という表記は、その単数属格形が発音的には1番近い気がするが、それならなぜ属格形がここで出てくるのかが分からない。そもそも、ここで問題になっているのが「バシレウス」に類するものであれば、その人物はすでに「皇帝」になっているのだから、「皇位継承者」という補足説明とは齟齬が生じることになる。次々と謎が生じるため、草生氏が註20で参照元にしているL. スティルノンの論文(L. Stiernon, “Notes de titulature et de prosopographie byzantines. Sébaste et Gambros”, Revue des études byzantines, 23, 1965, pp.222-243)の当該部分をあたってみると、ここで問題になっているのがbasileusの複数主格形であるbasileisであることが分かった(これがなぜ「バシレイオス」という表記になるのかは依然として不明)。ここでスティルノンが語っているのは、いわゆる共同皇帝のことであり、そうなると、「皇位継承者」という説明はどう見ても正確さを欠くものであったと言わざるを得ない。共同皇帝は、たとえ実権はなくとも、れっきとした皇帝であることには変わりはないからである。ついでに言うと、「ガンブロス」に「親族」という訳が付いているのも困りもので、より正確には、皇帝家の子女の配偶者、つまり皇族の「婿たち」を示す称号であったこともあわせて指摘しておかねばなるまい(cf. A. Kazhdan, “Gambros”, ODB, p.820)。

 また、先に引用した草生論文の該当箇所を見ると、「デスポテス」「バシレイオス(皇位継承者)」「ガンブロス(親族)」「オイケイオス(家人)」といった称号が「アレクシオスの改革の当初から」併用されていたと書かれているが、これもまた厳密さを欠いた表現と言うしかない。というのも、カイサルやセバストクラトールの異称としてではなく、帝位継承予定者を含意する称号として「デスポテス」が初めて登場するのは、マヌエル1世治下(皇女マリアと婚約したハンガリー王子ベーラに対して(cf. A. Kazhdan, “Despotes”, ODB, p.614)のことであり、また、「オイケイオス」にしても、 ODBによれば、それが、 “a semiofficial title” になるのは、「12世紀末までには」(By the end of the 12th C.)と記されているからである(その例として挙げられているのは、1197年付けのアトス山ラウラ修道院文書である。cf. A. Kazhdan, “Oikeios”, ODB, p.1515)。また、草生氏の「バシレイオス」が共同皇帝を示すものであるとしたら、そのような政治的手法はとくに珍しいわけではなく、ビザンツ史上の全期間を通じて類例を豊富に提示できることは贅言を要すまい。

 

 これに続く段落では、セバストス位創設が同時代から現代に至るまで一様にネガティヴな論調で扱われてたことを強調する記述が再登場する。ここで草生氏は、アレクシオスの爵位改革は、皇帝が「クーデタやコムネノス一族郎党をかかえこんでおくための、「幼稚」で「こけおどし」の発想の産物で、伝統的爵位体系を破壊したにとどまると評し」た18世紀の歴史家ルボーやド・セギュールらの言説を紹介したうえで、それらが「以降の研究史上の印象を定めた」と、まるでそれを肯定するかのような口ぶりで申し添えている(581頁1-2行)。ギボンを初めとする18世紀の啓蒙主義者たちがビザンツを腐敗堕落した東方の専制国家として忌み嫌っていたのはよく知られた話であるので、彼らになんと言われようと今となっては正直、痛くも痒くもないのだが、むしろここで気になるのは、そうした主張に何の異も唱えようとせず、唯々諾々とそれを紹介している草生氏の態度の方である。それは果たして、21世紀に生きるビザンツ研究者のありうべき姿と言えるのだろうか。

 現代においてもアレクシオス1世の爵位改革に対する評価が低調であることの例として、草生氏は、ドイツのビザンツ史家アルミン・ホルヴェクの研究を取り上げ、ホルヴェクは「爵位増設は名誉爵位を増やしたのみで、役職との連動に乏しいことを重視、閑職前提の名誉爵位にすぎないコムネノスの家門体制維持策と位置づけた」と語っていたことを伝えている(581頁3-4行)。どうやらこの語り口だと、ホルヴェクは、役職と連動していたそれ以前の爵位制度の方が優れていたと考えていたようであり、「閑職前提の名誉爵位」を増やしただけのコムネノス朝期の爵位制度には否定的な感情を抱いていたように聞こえてくる。「ホルヴェクは、そんなこと言ってたかなぁ」と思いつつ、草生氏が註25で挙げている彼の著書(A. Hohlweg, Beiträge zur Verwaltungsgesichte des Öströmischen Reiches unter den Komnenen, München, 1965)を引っ張りだして、該当箇所(草生氏は頁数を明記していないが、ここで問題になっているのが、 III Das neue Titelwesen, pp.34-40であるのは間違いあるまい)を開いてみると、章の末尾近くに以下のような文章が見つかった。厳密を期すために原文で引用しておこう。

Die neuen Titel tragen kainen Antscharakter in sich und sich nicht an eine Funktion gebunden. Die höchsten Grade der neuen Titelhierarchie sind selbstverstabdlich für die Mitglieder der kaiserlichen Familie bestimmt. Ihrer Inhaber warden zu Aufgeben in Dieste des Staates nur von Fall zu Fall herangezogen und dies nicht aufgrund ihres Titel, sondern aufgrund ihrer persönlich Beziehung zu Kaiser(ibid., p.39)

 ここで語られているのは、(ア) 新しい称号は、いかなる官職的性質も職能も帯びていなかったこと、(イ) 新たな爵位体系の最高の位階は皇帝一族の成員用に指定されていたこと、(ウ) そうした人々に国務が委託される場合に人選の基準になったのは、彼らが帯びた称号ではなく、皇帝との間の個人的な関係であったこと、の3点である。ここには、前代の爵位制度と比べてコムネノス朝のそれの方が劣っていたとか、単にそれは姑息な弥縫策に過ぎないとか、それを貶めるような言葉はどこにも見当たらないことは確認できるだろう。ここでホルヴェクは、新たな爵位制度がいかなるものであったのか、事実関係を確認しているだけなのである。もっとも、上記引用箇所よりも少し前で、ホルヴェクが「新しい爵位制度は、きっちりとした位階システムを備えた緊密な集権的官僚制の弛緩をもたらした(Das neue Titelwesen brachts eine Lockerung das streng bürokratischen Zentralismus mit seinem straffen Rangsysyem)」(ibid., p.39)とも語っている箇所を、中期国家をビザンツ帝国の全盛期として理想視し、11世紀以降はそのステムが瓦解し、退行していくプロセスと捉える、G. オストロゴルスキー的史観の信奉者が読めば、ホルヴェクがそうした国制の変化を悲しんでいるように早合点してしまったとしても無理もないことなのかもしれない。この研究書が世に出たのが、オストロゴルスキーの学説がまだまだ健在だった1965年のことであることも留意しておこう。いずれにしても、コムネノス朝の爵位体系の研究がずっと低調であった、などという認識は、たとえば草生氏も引用しているP. Magdalino, The Empire of Manuel I Komnenos, 1143 -1180, Cambridge, 1993の第3章 The Comnenian System、とりわけその第1節 The New Hierarchy and the Emperor’s Kin, ibid., pp.180-201あたりをを精読していれば、とても生まれるはずはないのではないか、と評者は思うのである。

 

 ここまで草生氏の論文を読み進めてきたが、ここまでの議論から、氏には余人と異なる独自の思考パターンを有しているらしいことが明らかになってきたように思われる。そのひとつは、アレクシオス1世の治世から孫のマヌエル1世の治世に至る数十年の歳月をまるで同じ時代の出来事のように認識する独特な時間感覚であり、2つめは、アレクシオス1世の爵位改革に対して一貫して冷ややかな態度を保ち、ややもすると一時代前の価値観に固執する、傍目にはやや頑なにすら見える姿勢である。仮に、こうした、やや特異な固定観念が、個々の歴史的事象を解釈するうえで作用を及ぼしたとするならば、そこから導きされた結論には、細心の注意を払って接する必要が生じることになるだろう。

 

 なお、第1節の最後の段落で草生氏が取り上げている、後期ビザンツの政体を支えたのは家門(オイコス household)なのか、「身内」(genos)意識なのか、といった概念論議に関しては、評者は深く容喙する気力も意欲も欠いているため、ここでは深く立ち入らないことをお許し願いたい。ただし、コムネノス朝支配体制の中核を成す、いわゆる「コムネノス一門」に関しては「擬制的な拡大家産組織」という用語を使えば、そこに含まれるべきほとんどすべての機能は集約できるように評者には思われることを付言しておく。

 

 第1節だけでもずいぶんな紙幅を費やしてしまった。評者も正直、かなり疲れてきたので、この後は、もう少しスピードアップを図ることにしよう。さしあたり「第2節 セバストス位創設の運用と背景」(582-584頁)については、ほとんどが同爵位創設の事実関係の記述に充てられているため、細かなクレームを挟むのは断念し、次節に駒を進めることにしたい。

 

 第3節「セバストクラトル」の前半部分は、初めてこの爵位を授けられたイサキオス・コムネノス(アレクシオス1世の兄)の伝記的情報に献げられている。彼が直情径行の人であったらしいことは『アレクシアス』が伝える幾つかの挿話からも知られるところであったが、そうした挿話のひとつとして、イサキオスの息子で当時、デュラキオン長官の地位にあったヨハネスに謀反の噂が生じた際のイサキオスの行動を草生氏は以下のように報じている。(イサキオスは)「憤慨して皇帝の逗留先、フィリッポポリスに夜間乗り込み、眠るアレクシオスの寝室に立ち入ってなにもしない(暗殺などをしない)ということで謀反の意思がないことを示そうとしたという」(585頁11-12行)。謀反の嫌疑をかけられたのは息子のヨハネスの方だから、なぜ父親のイサキオスが叛意のないことを示すためにこのようなパフォーマンスをしなければならないのか、いささか奇妙な記述である。そこで、『アレクシアス』の当該箇所(第8巻3章1-3. 相野洋三氏の邦訳では、272-273頁)を参照してみると、実際の状況は、以下の通りであることが判明した。息子に謀反の嫌疑がかけられていることを知ったイサキオスは、急遽、都を出立し、2昼夜をかけて皇帝の滞在するフィリッポポリスに駆けつけた。イサキオスが皇帝の寝所に入ると、皇帝はすでに就寝中であったが、イサキオスは皇帝の近習たちにそのまま構わぬよう手で合図して、皇帝の隣の寝台に自分も横たわり、そのまま眠り込んだ。朝、先に目を覚ました皇帝は、隣に兄が寝ているのに気付いて驚いたが、イサキオスが覚醒するのを待ち、彼が起きたところで来訪の理由を尋ねた、というように記述は続いている。これを上記の草生氏の文章と比べてみると、同氏の、イサキオスは「眠るアレクシオスの寝室に立ち入ってなにもしない(暗殺などをしない)ということで謀反の意思がないことを示そうとした」というくだりは、原史料を必ずしも正確に反映しておらず、「眠っている皇帝の寝所に勝手に踏み込んでも何もしなかったのは、イサキオスに謀反の意がないことを示すためのパフォーマンスなのだ」という氏の独自の解釈が盛り込まれた結果、原文とは随分、ニュアンスが異なったものになっていることに気付くだろう。このときのイサキオスの心情を斟酌すれば、急いでフィリッポポリスに駆けつけたものの、さすがに就寝中の皇帝をたたき起こすのは無礼が過ぎるためにはばかられ、彼自身も強行軍で疲労困憊だったため、皇帝の隣の寝台で眠ることにして、大事な話は両人が目を覚ましたときまで持ち越しにした、というのが実際の状況に近かったように思われる。『アレクシアス』の別の箇所では、ニケフォロス・ディオゲネス(皇帝ロマノス4世の遺児)がアレクシオス1世の暗殺を謀って、皇帝の寝所に忍び込もうとして露見するエピソード(第9巻5章)なども語られているため、そうした話とないまぜになって、就寝中の皇帝の寝所に単身、乗り込むのは皇帝に危害を加えるためと考えるのが当然である、などという思い込みが草生氏の脳内にインプットされ、にも関わらず、イサキオスが何もしなかったのは彼に叛意がないことをアピールするためなのだった、というふうにさらに想念が展開した結果が上記の文章に結実したのかもしれない、などとも愚考するのだが、神ならぬ身には真相は不明と言わざるを得ない。

 

 

 第3節の第4段落以降では、セバストクラトールの位が、イサキオスの死後、皇帝の息子たちにもれなく付与されるようになり、その性質を変えてゆく状況が論じられている。このような叙任方式の変化を語る草生氏の論調は、「コムネノス家の中でのセバストクラトル位は、皇位継承者の兄弟たちに乱発されて」(585頁16行)とか、「ヨハネス2世は息子たちについてもセバストクラトル位の大盤振る舞いを行い」(586頁1-2行)など、どこかしら批判的な響きが感じられるものになっている。だが、こうした現象に対する評者の認識はまったく別である。コムネノス朝の爵位体系が宮廷内の席次を皇帝との血縁・姻戚の親疎の度合いを基準に決定するということを基本原則とする限りにおいて、こうした施策は、現実と原則を一致させるために必要な工程だったのである。もう少し具体的に説明すると以下のようになる。アレクシオス1世の爵位改革は、事前に入念に準備されていたわけではなく、その都度、その都度、必要に応じて泥縄式に展開したため、あちこちで上記の基本原則と齟齬をきたす状況が生まれていた。たとえば、皇帝との血縁の近さで言えば、皇帝の実の兄弟の方が皇帝の姉妹の配偶者よりも上位になるはずなのだが、実際には逆だったり(皇帝の2人の弟アドリアノスとニケフォロスの爵位はそれぞれプロートセバストスとセバストスであったのに対し、皇帝の姉たちの配偶者ニケフォロス・メリッセノスとミカエル・タロニテスのそれは、より上位のカイサルとパンヒュペルセバストスだった)、皇帝の末弟のニケフォロスと皇帝の義兄弟(皇妃の兄弟)のミカエルとヨハネスのドゥーカス兄弟が同じセバストス位だったり、といった具合である。そこで、こうした不具合をなくすためには、皇帝の息子たちは、カイサルやパンヒュペルセバストスよりも上位のセバストクラトールに一律に叙任する、という手立てが求められるわけである。このようにしてコムネノス朝第3代のマヌエル1世の治世までには、同じ皇帝の甥や従兄弟でも、男系が女系よりも上席を占め、皇帝の従兄弟同士の場合には、親が年長の方が上位となる、といった基本ルールにのっとった宮廷秩序が実現することになるのである(詳しくは、拙著『ビザンツ 幻影の世界帝国』23-29頁を参照のこと)。なお、本節においても、「皇太子アレクシオスをバシレウス(皇位継承者)と呼んで」といった表記が登場する(586頁2行)が、こうした言い回しが問題を含むことは先に指摘したとおりである。

 

 第3節最後の段落では、セバストクラトールが皇帝位に対する潜在的な脅威となった例として、ヨハネス2世の弟イサキオスと後者の息子たちヨハネスとアンドロニコスの事例が挙げられている。セバストクラトール、イサキオスとその2人の息子が皇帝ヨハネス2世とその後継者であるマヌエル1世の権力を脅かす存在となったのはよく知られている事実であるから、それについては評者もとやかく言う気はない。ただし、セバストクラトールのイサキオス父子の事例を、セバストクラトールが皇帝権に関する脅威となった例と見なすとすれば、それはやや困った事態になるだろう。というのも、セバストクラトール、イサキオスの2人の息子は、父親とは違ってもはや皇帝の息子ではなく、ヨハネス2世からは甥、マヌエル1世からは従兄弟になるから、その爵位はプロートセバストスが相当になるからである(拙著『ビザンツ 幻影の世界帝国』27頁を参照)。ゆえに彼らの皇帝との闘争は、皇帝に対するセバストクラトールの戦いとは厳密には言えないことになる。

 

 さて、ようやく第4節「「贈物と爵位」による外部勢力登用」までたどり着いた。本節の第1段落後半、アレクシオス1世の反乱から帝都入城に関する記述に関するくだりで、アレクシオスが打倒した「政権中枢の貴族集団」とその後に出てくる「宮廷内の元老院貴族たち」、それに入城時に反乱軍から虐待を受けた「元老院議員」が相互にどのような関係にあるのかなど、詳しく聞きたいところだが、本節の主題は別のところにあるため先を急ぐことにしよう。

 

 これに続く第2段落と第3段落では、本節のタイトルが示すように、アレクシオス1世がトルコ人傭兵、マニ教徒、クマン人などの「外部勢力」の協力を「贈物と爵位」と引き替えに取り付けることで外敵との戦いに対処した状況が報じられている。評者がこの部分に強い違和感を覚えるのは、このように、贈与や爵位を授与して周辺諸国の君主を自己の勢力下に囲い込み、彼らを意のままに操って互いに争わせ、帝国が漁夫の利を得ようとするいわゆる「夷をもって夷を制する」外交策は、なにもアレクシオス1世の専売特許でもなんでもなく、それこそ古代ローマ帝国がゲルマン民族やフン族を相手にしてきた時代から、連綿と受け継がれてきた伝統芸であるのは広く知られているはずなのに、そうしたことになぜか草生氏が一言も触れていないということである。しかも第2段落から第3段落にかけて、トルコ人、マニ教徒、クマン人など、集団としての「外部勢力」の協力確保が論じられる際に皇帝が彼らに約束しているのは「褒賞」であり、セバストス位などの爵位授与に関しては具体例が示されていないのはどうしてなのだろうか。意識的か無意識なのかは不明だが、結果としてはここには巧妙な議論のすり替えがあると言わざるを得ない。

 

 さらに、第4段落においては、こうした術策を語るアンナ・コムネナの筆致を、「これは、あくまでも奸計に類するという認識であった」(588頁3行)などと記しているところを見ると、草生氏はそれにあまり好ましい印象を抱いていなかったことが窺われる。しかし、そうした認識は当のビザンツ人と共有されるものではなかったのではなかろうか。当時のビザンツ人は、味方にも多大な犠牲を生じさせながら戦闘で勝利を収めることよりも、自分の手は汚さず、敵同士を争わせ、共倒れに誘うことで「戦わずして勝つ」ことの方がはるかに洗練された王者の戦い方であるという認識の持ち主だった(このあたりのことは、20年以上前の拙著『幻影の世界帝国』で随分、強調してきたつもりである。さしあたりは、皇帝マヌエル1世が臣民の血を流すことなく、敵同士を殺し合わせて勝利したことを称えるテサロニケ府主教エウスタティオスの賛辞文 [上記拙著190頁に抜粋あり]を参照のこと)。

 

 この後、第5段落では、1094年にブラケルナエ宮殿で開催された教会会議の列席者リストに基づいて、その中のセバストスとその派生爵位の保持者に関して検討が加えられ、そこに皇帝の血縁以外の者が含まれたことが確認された後、第6段落の「セバストスの爵位は、もともとビザンツ宮廷内での外国勢力への栄典として知られていた」(589頁3-4行)という、本当であればなかなか重大な指摘へと話は続いてゆく。アレクシオス1世治下のセバストス位保持者のうち、皇帝と血縁関係にない人々がなぜそれを帯びることができたのか、という問題については、後で説明することにして、第6段落において提示された論点から考察することにしよう。

 

 まず、個別の議論に入る前に、一連の外国勢力への爵位授与をどのように位置づけるべきか、という点に関して、評者の基本的認識を述べておきたい。評者の認識は単純かつ明確である。ビザンツの爵位制度は、一義的には、宮廷内において廷臣の席次を決定し、宮廷内秩序を確立するためのシステムであり、外国君主へのそれらの授与は、そうした原則に準じていた、ということである。その限りでは、セバストスも、そこから派生した爵位も例外ではなかった。たとえば、589頁の4行目においてヴェネツィアのドージェにプロートセバストスの爵位が送られたことが語られているが、これは、皇帝が、ヴェネツィアの元首を自分の弟であるプロートセバストスのアドリアノスと同格として処遇する、という意思表示に他なるまい。ついでにいうと、ヴェネツィア元首への爵位の授与は、同共和国がビザンツの宗主権を認めつつ、事実上の独立を遂げた9世紀以降、延々と継続してきた長い歴史があったのであり、プロートセバストス位の授与にしても、こうした伝統の延長線上にあったことは銘記しておくべきであろう。ちなみに、プロートセバストス位を授与される以前にヴェネツィア元首が受け取っていた爵位はプロートプロエドロスだった(cf. Donald M. Nicol, Byzantium and Venice: A Study in Diplomatic and Cultural Relations, Cambridg, 1988, p.52)。

 

 これに続いて草生氏の議論は、ジョージアの歴代国王がセバストスの称号を帯びていたことに転じてゆく。こうしたジョージア王へのセバストス位への授与が、同王家からビザンツに輿入れしたマリア・アラニア(皇帝ミカエル7世皇妃、その後、皇帝ニケフォロス3世と再婚)を介して若き日のアレクシオスとイサキオスのコムネノス兄弟に影響を与え、それが後日、彼らがセバストス爵位を運用する際に大いなるインスピレーションの源になった、というのが、どうやら草生氏の思い描いたストーリーであるらしい(589頁)。

 ジョージア王家との交流の歴史からセバストス爵位の運用法を説き起こす手法は斬新であり、評者には予想も付かなかったことを告白しておこう。ただ、こうした仮説の妥当性を検証するには、以下のような幾つかのポイントを踏まえておく必要があるだろう。

 ア)ビザンツにおける(皇帝の異称としてではなく、特定の皇族が帯びる称号としての)セバストス位の起源は、皇帝コンスタンティノス9世モノマコス(在位1042-1055)が愛妾マリア・スクレライナに「セバステー」(セバストスの女性形)という皇后に準じた特別な称号が付与されたことに求められること(N. Oikonomidès, “L’ évolution de l’organisation administrative de l’empire byzantin au XIe siècle (1025-1118)”, Travaux et Mémoire, 6, 1976, pp.125-152, esp. p.126: W. Seibt, Die Skleroi. Eine prosopographisch-sigillographische Studie, Wien, 1976, p.73)

 イ) ジョージアの歴代国王は、以前からクロパラテスの爵位をビザンツ皇帝から授けられており、古来、皇族格の処遇を受けてきたこと(ジョージア王へのクロパラテス授与の歴史は9世紀前半に遡る。Antony Eastmond, Royal Imagery in Medieval Georgia, University Park, Pa., 1988, p.261に付された系図を参照のこと)。 

 ウ) ジョージア王が初めてセバストス位を授けられたのは、バグラト4世治下(1027-1072)のことであり、それは彼の娘のマリア・アラニアがビザンツ皇帝ミカエル7世ドゥーカス(在位1071-1078)との婚姻が結ばれた際のことだと想定されること(この点は草生論文にも言及されている)。なお、草生氏はその年代を「1060年頃」(589頁7行)としているのに対し、ODBでは、ミカエル7世との婚約が成立し、マリアがコンスタンティノープルに到着したのが1066年頃、正式に結婚したのは1071-73年の間くらい、となっている( C. M. Brand and A. Cutler, “Maria of “Alania” ”, ODB, p.1298)。スクーラトスになると、さらに年代は下り、両人が結婚したのは1073年頃と想定されている(Basile Skoulatos, Les personnages byzantins de l'Alexiade : analyse prosopographique et synthèse, Louvain, 1980, p.188)。ちなみに史家ニケフォロス・ブリュエンニオスによれば、ミカエル7世が結婚したのは、ロマノス4世が内戦後に捕囚となった時期(1072年5月中旬)の後だった(Nikephoros Bryennios, Historiarum libri quattuor, éd., P. Gautier, Bruxelles, 1975, p.143f)。

 エ)ビザンツ皇帝が政略結婚によってジョージアとの同盟関係強化を図った時期は、まさに1071年のマンツィケルト会戦の前後、トルコ人の小アジアへの侵攻が激化し、これに対処するために強力な軍事支援を提供してくれる同盟相手を東方に求めていた時期と符合すること。

 オ)ビザンツ国内において称号としてのセバストス位を最初に帯びたコンスタンティノス(総主教ミカエル・ケルラリオスの甥、ミカエル7世の母后エウドキア・マクレンボリティッサの従兄弟)が同爵位を得たのは、ミカエル7世の治下と想定されること(cf. N. Oikonomidès, “Le serment de l’impératrice Eudocie (1067). Un épisode de l’histoire dynastique de Byzance”, Revue des Études byzantines, 21, 1963, pp. 101-128, esp.p.119f)。

 以上の事実から何が分かるのかというと、ビザンツはこれまでもジョージア王に対して皇族格の高い地位を与えてきたが、11世紀後半にトルコ人の小アジア侵攻が強まったため、同王の軍事支援を得る必要が高まったため、婚姻同盟を結ぶと共に王に対してはこれまでよりも格上のセバストス爵位を授けることに踏み切った、といった状況が浮かび上がってくるのである。次ぎに、これら一連の出来事が生起した時期を比定しようとすれば、マンツィケルトの会戦とミカエル1世の正帝としての即位の年である1071年前後の時期が、おそらくはもっともあり得そうな時期であるように思われる。ただ、以上の考察ではまだ解明しきれていない部分も残されていることも告白せざるを得ない。新しい爵位はまずビザンツ国内で用いられ、その後、それに準じて外国君主にも付与されるようになる、というのが評者の基本的な考え方なのだが、そうした見方にたてば、ジョージア王バグラト4世へのセバストス位授与に先立ってミカエル・ケルラリオスの甥コンスタンティノスへの同爵位授与がなされていないと具合が悪いことになるのだが、現状ではその順序が逆であった可能性も捨てきれないのである。この点については、新たな史料でも出てこない限り、断定的な物言いはできそうにない。ただ、バグラト4世へのセバストス位授与の時期を、もう少し後まで、たとえば、フランク人傭兵隊長ルーセルの反乱を鎮圧するため、皇帝ミカエル7世の命を受けてニケフォロス・パライオロゴスがジョージア王の許から六千の兵を借りに行った際(この出来事を報じるニケフォロス・ブリュエンニオスの記事に関して、編者のP. ゴーティエは、1075年のことと想定している。Nikephoros Bryennios, p.183, n.5)にまで遅らせることが可能であれば、評者の所説との整合性はさらに高められることを付言しておこう。

 

 以上、アレクシオス1世の爵位改革の起源がジョージア王家からの逆輸入によるものではなく、ビザンツ皇帝宮廷に発する内発的なものであったことを立証するために躍起になってくどくどと書き連ねてきたのだが、ここに至って、ようやく気付いたことがある。セバストス位を軸にしたアレクシオス1世の爵位改革がジョージア王家出身の皇妃マリア・アラニアの入れ知恵であったことを示唆する草生氏の仮説も、よく見れば、史料的裏付けを一切、欠いた想像の産物に過ぎないではないか。この仮説を支える状況証拠も、アレクシオスとイサキオスのコムネノス兄弟が、反乱以前に皇帝宮殿の皇妃マリアの許を足繁く訪問しており、ことによると帝位奪取の計画について語り合ったことが窺われる程度(『アレクシアス』第2巻1章4-6節)では、新政権樹立後に取り組むべき施策について具体的な意見のやりとりがコムネノス兄弟と皇妃マリアとの間に交わされていた、とまで想像するには難しいのではなかろうか。しかも、皇妃マリアは後述するような事情によって、アレクシオス1世の権力奪取直後に皇帝宮殿を去り、新皇帝と直接、接触する機会を失ったのに対して、皇帝の周囲には、息子アレクシオス1世に対して絶大な影響力を有した母后アンナ・ダラッセナや、コムネノス兄弟の反乱に長老格で参加したカイサル、ヨハネス・ドゥーカス(アレクシオス1世の妻エイレーネーの祖父)など、皇妃マリア以上に国政に通じ、若年のアレクシオス1世に影響力を行使しうる人物がいたことも見逃すことはできない。とくにカイサルのヨハネスは、ミカエル7世の後見役としてジョージア王バクラト4世やケルラリオスの甥コンスタンティノスにセバストスを授けた際には政権中枢にいた人物だったから、今回の爵位改革に際して皇帝の相談相手を務めた人物を求めるとすれば、皇妃マリア以上に適役なように見える気もする。以上、興に乗ってまたしても駄弁を連ねてしまったが、ここで示した評者の仮説も、一切の史料的根拠を欠く空想の産物である点においては草生氏の説と変わるものではないことは今更、言うまでもないだろう。結局のところ、アレクシオス1世自身が皇帝になるまでセバストスの地位にあったのだから、それを基準に新しい爵位を考え出すのに誰の助言も必要なかった、という見解だって十分、成り立つはずだから、この件に関して根拠もなく助言者捜しに熱中するのは、報われることの少なく、実りの薄い営みのようにも見えなくもない。

 

 さて、本節の後半部にもなかなかショッキングな文章が登場する。589頁末尾から3行目に始まる「アレクシオスは即位当初、先々代皇帝以来宮廷に地盤を持って皇位を狙える位置にあったドゥカス家よりも、盟友としてのアルメニア系の武家家門のタロニテス家を取り立てた」という文がそれである。次頁の「おわりに」第1段落5行目でも「宮廷内反乱はドゥカス家ほかのアンチ・コムネノス勢力に留まらず…」などと草生氏は語っているので、どうやら草生氏の脳内では、ドゥーカス家はアレクシオス1世の政権において皇帝の座を脅かす潜在的ライヴァルの一番手であったかのような認識が確固たる地位を占めていることが推察される。ところが、そうした認識は、まったく遺憾なことに評者の見解とは大きく隔たっているのである。なぜ、草生氏がこうした認識を持つに至ったのかについて、正確なところは御本人に聞いてみないと分からないが、ドゥーカス家が「アンチ・コムネノス勢力」だったと氏が考える根拠をあえて探してみると、思い当たるのは以下の二つの出来事くらいではなかろうか。

 ①コムネノス兄弟の反乱が成功した直後、アレクシオスが婚約者のエイレーネー・ドゥカイナと離別して前皇帝の妃マリア・アラニアと結婚するのではないかという噂が流れ、アレクシオス自身、そのプランにまんざらでもなかったが、カイサル、ヨハネス以下のドゥーカス家一派の猛反発を受けてそのプランの撤回を余儀なくされたこと。この事件の余波を受けて皇妃マリアは皇帝宮殿から退去することになった(『アレクシアス』第3巻1章2節-2章7節、3章5-7節)。

 ②皇帝アレクシオス1世の暗殺を目論んだニケフォロス・ディオゲネスの陰謀事件にコンスタンティノス・ドゥーカス(皇帝ミカエル7世と皇妃マリア・アラニアの子。アレクシオス1世の長女アンナの最初の婚約者)が関与していた可能性があること(cf. Basile Skoulatos, Les personnages byzantins de l'Alexiade : analyse prosopographique et synthèse, pp.57-60, esp. p.60)。

 ①に関して言えば、アレクシオス1世がマリア・アラニアとの結婚を断念してエイレーネーの実家のドゥーカス家との和解が成立した後には両家の間には目立った諍いは生じていない。それどころか、エイレーネーの2人の兄弟のうち長兄ミカエルはプロートストラトール(軍人としてはメガス・ドメスティコスに次ぐ高位の官職)、次兄ヨハネスはデュラキオン長官、次いでメガス・ドゥクス(海軍長官)として皇帝を軍事面から強力に補佐する任務を負っていた(cf. Basile Skoulatos, Les personnages byzantins de l'Alexiade, pp.145-150, 202-205; D. I. Polemis, The Doukai. A Contribution to Byzantine Prosopography, London, 1968, pp.63-70)。なお、さらに細かいことを言うと、アレクシオス1世治下のドゥーカス家は、必ずしも一枚岩の存在とは言えず、兄のコンスタンティノス10世の家系と弟のカイサル、ヨハネスのそれは互いに独自の利害関係に基づいて行動していた様子が窺える。これを①の事例に引きつけて言うと、ここでアレクシオス1世の妻としてのエイレーネー(カイサル、ヨハネスの孫)の権利が守られたことで、コンスタンティノス10世の孫にあたる同名のコンスタンティノス(皇妃マリア・アラニアの息子)の将来が不透明になる、という結果が生じているのである。もっとも、このときは、アレクシオス1世が、将来、生まれてくる自分の娘とコンスタンティノスを婚約させ、彼らを自分の後継者とすることを約束するなど、後者の地位を尊重する態度を示したために大事には至ってはいない。

 そして②に見たように、上記コンスタンティノス・ドゥーカスが、ニケフォロス・ディオゲネスの皇帝暗殺計画に関与した疑いが発生するのは、アレクシオス1世に長子ヨハネス(後のヨハネス2世)が誕生し、コンスタンティノスの帝位継承の望みが事実上、断たれた後のことであることも指摘しておく必要があるだろう。言い換えれば、皇帝に嫡男が誕生するまでは、皇帝とコンスタンティノス・ドゥーカスの間には、とくにいがみ合う理由などなかった、ということである。このように見ていくと、ドゥーカス家がアレクシオス1世政権下で「アンチ・コムネノス勢力」の急先鋒であるかのように捉える草生氏の見解がどれほど実態から遠く離れた場所にあるかが分かるのではなかろうか。

 

 これと同様に、先に引用した草生氏の文章の後段、アレクシオス1世は「ドゥカス家よりも、盟友としてのアルメニア系の武家家門のタロニテス家を取り立てた」という一文も評者には初耳に属する情報だった。おそらく、これは、アレクシオス1世の姉の夫であるミカエル・タロニテスがパンヒュペルセバストスという高い爵位を授けられていることを踏まえての発言であろう。確かに爵位だけを見れば、ミカエル・タロニテスのそれは、セバストスであったミカエルとヨハネスのドゥーカス家兄弟よりも上位である。しかるに、これについては、アレクシオス1世即位当時の状況を鑑みれば、もう一人の姉婿であるニケフォロス。メリッセノスにカイサルの位を授与している手前、それと釣り合いを取らせるための人事であったことは衆目の一致するところであろう。アレクシオス1世にとっては、年長の義兄がへそを曲げられたら困るという気兼ねや配慮もあったのだろう。一方、ドゥーカス家の兄弟はアレクシオスよりも年下であり(1081年当時、アレクシオスは24歳、ミカエルは20歳、ヨハネスは17歳くらいだった)、過度の気遣いは無用だったと考えれば、こうした爵位の格差も説明がつく。さらにもう1点、付け加えておけば、ドゥーカス家の兄弟がアレクシオス1世の信頼厚い将軍として後に大車輪の働きを示すのに対して、ミカエル・タロニテスの方はプロートヴェスティアリオスという宮廷官職をあてがわれたものの、ほとんど目立った活躍は見られないことをどう解釈したらよいのだろうか。結局、彼はニケフォロス・ディオゲネスの陰謀に連座していたことが発覚し、目を抉られて失脚するのである。そうしたことも彼が自分の処遇に不満を募らせていた傍証になるだろう(cf. Basile Skoulatos, Les personnages byzantins de l'Alexiade, p.211f)。

 なお、タロニテス家の成員をアレクシオス1世が重用したことの証しとして、草生氏が「ミカエル・タロニテスの2人の息子ヨハネスとグレゴリオスにもセバストス位が下されている」(590頁1行)と語っているのもやや正確さを欠いた記述のように思われる。評者の不勉強のせいかもしれないが、ミカエル・タロニテスの息子にグレゴリオスという名の人物がいたことを評者は寡聞にして知らない。もしもここで名前が挙がっている人物が1104年頃、トレビゾンド長官在任当時に反乱を起こしたグレゴリオス・タロニテスを意味しているのだとしたら、この人物はミカエル・タロニテスの息子ではなく、甥である(cf. Basile Skoulatos, Les personnages byzantins de l'Alexiade, pp.116-118)。そして、誠に遺憾なことに、仮に草生氏が意図していたのが、このトレビゾンド長官であったとしても、この人物がセバストス位を帯びていたのかどうか評者には確認できなかった。草生氏はこれに関する典拠を提示していないが、是非、本件に関する情報源を開示していただきたいところである。

 

 さて、あれこれ議論を重ねてきた第4節もようやく末尾に近づいてきたが、本節は最後の最後まで気を抜くことができない。本節末尾の2つの文章を吟味してみると、まだまだ語るべき課題が現れてくるからである。まず、第1の文章を以下に引用する。

「また対外使節、同盟者にセバストス類号が与えられており、アレクシオスが設計したセバストス位のシステムは、外部・宮廷外勢力を「身内」へ取り込む装置として有為に機能したように思われる」(590頁1-3行)。

 この文章を最初に目にしたとき、恥ずかしながら評者には草生氏が何が言いたいのか分からなかった。そこで草生氏がこの文章に付した註69を参照してみると、そこには、12世紀中にビザンツから海外に派遣された外交使節のうちでセバストス類位の爵位保持者が使節を務めた事例が5つあることが報じられていた。どうやら、草生氏にはそうしたことがセバストス位のシステムが「外部・宮廷外勢力を「身内」へ取り込む装置として有為に機能した」証左のように見えたようだ。評者は頭を抱えたくなった。これらの外交使節がセバストスやそれに類する称号を帯びているのは、彼らがビザンツ宮廷においてそれに相当する地位の持ち主であったために他ならず、それ以外の意味づけをあえて加える必要などどこにもないように思われたからである。なぜ、こんな常識的なことが分からないのかが分からないため、くどいようだがもう一度、言っておこう。12世紀に海外に派遣されたビザンツの外交使節がセバストスかそれに類する爵位を帯びているのは、彼らが外交官だったからではなく、そうした爵位を帯びている人々が外交官に選ばれたためなのである。ここまで書いてまだ分からない向きがあるならば、草生氏がF. Dölger のRegesten der Kaiserurkundenに基づいて紹介している12世紀中、5度にわたって海外に派遣されたビザンツ使節団が、具体的にいかなる人物によって率いられていたのかを確認してみればよいだろう。草生氏が挙げる5例について年代順に提示すると以下のようになる。最初の番号が、Regestennに付された整理番号、丸括弧内が比定される年代、以下、A(通常は外国君主の名。国家や都市の場合もあり)に対してB(ビザンツからの外交使節の名前)を派遣、というように表記する。以下に見るように、重要な外交使節の場合には複数の使節の名前が提示されているのが通例である。

1) Nr.1358a(1147):フランス王ルイ7世に対して、セバストスのミカエル・パライオロゴスとミカエル・ブラナスを派遣。

2) Nr.1429(1159):イェルサレム王ボードゥワン3世に対して、プロートセバストス、ヨハネスとプロートストラトール、アレクシオス・アクスークを派遣。

3) Nr.1442(1161):アンティオキア女公コンスタンツェに対して、メガス・ドゥクス、アレクシオス・コムネノス、ニケフォロス・ブリュエンニオス、首都長官かつセバストスのアンドロニコス・カマテロスを派遣。

4) Nr.1477(1167):パンセバストス・セバストスかつメガス・ヘタイレイアルケスのゲオルギオス・パライオロゴス、セバストスのマヌエル・コムネノスを派遣。

5) Nr.1647(1198):ヴェネツィアに対して皇帝(アレクシオス3世)の親族かつパンセバストス・セバストスのヨハネス・ノミコプーロスを派遣。

 リストを一瞥すれば分かるように、ここに登場する外交使節の中には、セバストスとそれに類する称号が付されていない者も少なくない(5例あわせて10人中4人)。その意味でセバストスとそれに類する称号を帯びていることが、この時期に外交使節を務めるための必要条件でもなければ、絶対条件でもないことが確認できるのである。さらに、草生氏と同様にF. Dölger, Regesten に基づいて、項目の冒頭に “Gesandschaft”の語があるのを目印に、ビザンツ側の外交使節の名前が明示され、なおかつ、セバストスとそれに類する称号の保持者がそれに含まれていない事例を探してみると、そうした事例は皇帝マヌエル1世の治下(1143-1180)だけで20例(F. Dölger, Regesten, 1353, 1357, 1363, 1378, 1398, 1401, 1406, 1422, 1435, 1447, 1451d, 1453, 1459, 1464, 1496, 1515, 1519, 1526, 1527b, 1527e)にものぼることが明らかになった。これだけで草生氏が示した事例の4倍である。もっとも、この件には補足が必要であり、レゲステンでは明記されていないが、実際にはセバストスの爵位を帯びていたことが別の史料から確認できる人物も上記20例の中には含まれていた(たとえば、1155年にドイツ皇帝フリードリヒ1世の許に派遣されたミカエル・パライオロゴスとヨハネス・ドゥーカスのように。cf. F. Dölger, Regesten, Nr.1401; J. -F. Vannier, “Les premiers Paléologues. Étude génélogique et prosopographique”, dans J.-C. Cheynet et J. -F. Vannier, Études prosopographiques, Paris, 1986, pp.123-187, esp. p.154; D. I. Polemis, The Doukai. pp.127-130)。

 以上のことから確認できることをまとめておこう。第1に、ビザンツ外交使節の任務を果たすうえでセバストスとそれに類する称号を帯びる必要は必ずしもなかった。第2に、セバストスとそれに類する称号を帯びている場合でも、それが常に史料中に明記されるとは限らなかった。このことも、こうした外交使節が任務を遂行するうえで、彼らが帯びた称号が何か重要な役割を果たしたわけではなかったという事実を明らかにしていると言えそうである。

 

 話が長くなってまったく恐縮だが、我々の議論はまだまだ終わらない。第4節最後の以下の文章もなかなか衝撃的だからである。

「そのため外部勢力の助力を必要としない水準までコムネノス体制が確立すると、セバストス位はその役割を終え、形骸化していくのは必然であったといえよう」(590頁3-4行)

 まず気になるのは前段である。コムネノス朝の時代に限らず、千年以上に及ぶ長い歴史の中で、ビザンツ帝国が「外部勢力の助力を必要としない水準」に達したことなどいまだかつてあっただろうか。ユスティニアヌスが西方領土の再征服を目指して精力的に遠征軍を送り出していた時期ですら、東方国境の平穏を保つため、ササン朝ペルシアに対して多額の貢納を支払って融和的政策を採らざるを得なかったことはよく知られた事実であろう。また、以前の議論の繰り返しになるが、「夷をもって夷を制す」るのがビザンツの基本政策である限りにおいては、国力の充実の度合いはそうした対外政策に直接的な影響を及ぼすものではなかった、という言い方もできるだろう。

 ここで引用した文章においてもうひとつ気になるのは、草生氏は、ビザンツが「外部勢力の助力を必要としない水準までコムネノス体制が確立すると、セバストス位はその役割を終え、形骸化していく」時期をいったい、いつのことと考えているのかが結局、よく分からないことである。というのも、もしもそれが、コムネノス朝の政権基盤がほぼ安定するアレクシオス1世の治世後半からマヌエル1世の治世くらいまでと考えていたなら、セバストス爵位はまだ十分に価値があったし、そうではなく、セバストス称号の保持者が増大してその価値が大きく減退したアンゲロス朝あたりのことを想定するなら、現実は「外部勢力の助力を必要としない」どころではなく、まさしくその正反対だったからである(イサキオス2世がブルガリア人の自立を阻むためにハンガリーの支援を求めたことや、フリードリヒ・バルバロッサの十字軍接近の報に恐れをなしてサラディンとの同盟を結ぼうと必死になったことを思い出せば十分だろう)。ここに至れば、また同じ結論に戻るだけである。セバストス位の価値減退と帝国の外交政策の間には何の直接的な連関も見出すことはできない、というのがそれである。

 なにか、こんな当たり前の結論を確認するためにこれだけの紙幅を費やしてきたことに多少の空しさを感じないわけではないのだが、いったん乗りかかった船なので、疲れた身体に鞭打って、もう一踏ん張り、「おわりに」の検討へと進むことにしたい。この「おわりに」もわずかに2段落しかないのだが、議論すべきポイントは山積みである。

 まず初っぱなの文章、「アレクシオスの爵位改革は、コムネノス家門支配を宮廷に導入し、進行中であったビザンツ帝国統治機構の転換を象徴するが」というくだりまではよいとして、それに続けて「実質は名誉称号の濫発に帰結したものとして、象徴的な位置づけに留まってきた」とあるのはいただけない(590頁、「おわりに」の冒頭から数えて1-2行目)。このような文章を目にすると、本当にコムネノス朝支配体制の本質を理解していないのだなぁ、という詠嘆というか落胆というか、冷え冷えとした寂寥感で胸が満たされてきて、深い悲しみにさめざめと泣きたい気分になってくる(あくまでも個人の見解です)。新しい爵位制度に体現された精神が、血となり、肉となってコムネノス朝の支配体制を形づくっていたことにどうして気付かないのだろうか。これに続く「部外者への登用にセバストス贈位が機能していた」ことを理由に「セバストス爵位創設の意義として、コムネノス家門を優遇するためであったとする」既存の研究上の見立ては十分なものとは言えないだろう」(590頁、「おわりに」の冒頭から数えて3-4行目)という言い回しにも、頭をかしげざるを得ない。もしもこの言い分が正しいとすれば、コムネノス朝期の皇帝政権の屋台骨を支えたのは、皇帝の親族一門ではなく、セバストス位と引き替えに外部から取り込んだ「部外者」だった、ということになるだろう。果たしてこのような見解は、どのような具体的なデータに基づいて実証されるのだろうか。

 この後、草生氏は、アレクシオス1世の爵位改革が一門の宥和と静謐に貢献しなかったことを強調すべく、「そもそもコムネノス家門は必ずしも一枚岩とはいいがたく、宮廷内反乱はドゥカス家ほかのアンチ・コムネノス勢力に留まらず、皇帝の兄弟間の内紛としても起きていた」と語る(590頁、「おわりに」の冒頭から数えて4-6行目)。「コムネノス家門は必ずしも一枚岩」ではなかった、という認識はおそらく正しい。それだからこそ、一門の安定と宥和を保障する仕掛けが必要とされたのである。ドゥーカス家がはたして「アンチ・コムネノス勢力」と言えるのか、という議論は1度したので、ここでは繰り返さない。「皇帝の兄弟間の内紛」というのが、アレクシオス1世と兄のセバストクラトール、イサキオスの関係を指しているのか、あるいはヨハネス2世と弟のイサキオスのそれ、さらにはマヌエル1世と兄の同名のイサキオスのそれを示すのか、ここでは分明ではないが、コムネノス朝支配体制においてこうした、皇帝のもっとも近しい親族が皇帝にとって最大の政治的ライヴァルとして立ち現れたことは事実である。しかし、それは、コムネノス朝支配体制の構築に失敗したことの証しではなく、それに成功したがゆえに発生した内在的な矛盾を示していることを見誤ってはならない。もう少し、具体的にいえば、国内において「コムネノス一門」の外に目立った競合者がいなくなると、皇帝権力に対抗しうる存在は身内の中から出現することが必然化したのである(このあたりのことは、拙著『幻影の世界帝国』38-54頁で議論しているので参照のこと)。これに類する話は洋の東西を問わず、あちこちで目にする話であり、たとえば我が国の歴史を眺めてみても、鎌倉時代に執権の北条氏が、競合する有力御家人を一掃した後には北条氏の一門内から反得宗勢力が台頭したり、徳川家康が天下を統一したと思ったら、3代将軍の後目を巡って嫡男の家光の対抗馬に弟の忠長が浮上するなど、類話はいくらでも挙げることはできそうである。

 ともあれ、以上の議論に続く「この改革が、家門を優遇してその団結による政権安定を期したものとすれば、早い段階で破綻しているといえよう」(590頁、「おわりに」の冒頭から数えて6-7行目)という言い草も、随分、無体なものと言わざるを得ない。改革を実行した途端に、それまで直面していた様々な問題がまるで魔法のように雲散霧消することなど、現実の世界ではまず起きることではないだろう。改革の効力が現れるまでにはそれなりの時間が必要だったのであり、その間も試行錯誤が重ねられて、徐々に事態の改善が図られたのだ、と考えるのがより自然な見方ではないだろうか。そして、そうした見方にたてば、アレクシオス1世の改革は失敗したが、ヨハネス2世以降のそれは有効だったなどと2つの段階を区別する必要もないことも明白である。先にも述べたように、アレクシオス1世の下では必要に迫られ、ある意味、行き当たりばったり、手探り状態で着手された爵位改革は、時間と共に徐々に微修正が加えられ、ようやくヨハネス2世の下で、本来の基本原則に沿った形に整えられ、マヌエル1世の下でほぼ完成の域に到達したのである。その意味で、この改革は、コムネノス朝3代を通じて徐々に完成度を高めていった、一繋がりの遠大な計画だったと言うことができるのであり、それぞれの時代における完成度には違いはあれ、その目指す方向性は一貫していたと考えることができるのである。

 他方、時代を経るにつれセバストス爵位の保持者が増大し、12世紀末近くになるとそれを保持することの価値がかなり低下したこと、そしてそれに代わるかのようにデスポテス以下の個人称号が幅を利かすようになったことは事実であろう(590頁、「おわりに」第1段落末尾の2行)。ただし、この現象も、Aの制度が機能不全に陥ったから、まったく別のBの制度に取って代わられたのだ、というように考えるとしたら、それは明らかに誤った見方である。この点で草生氏が一連の新しい個人称号に関して「デスポテス(主人)、ガンブロス(皇帝の甥)、オイケイオス(家人)」(590頁、「おわりに」第1段落最終行)という訳語を付しているのは、状況を正しく認識していなかったことを露見させるものと言えるだろう。これに関しては、先に草生氏も参照していたL. スティルノンの論文(L. Stiernon, “Notes de titulature et de prosopographie byzantines. Sébaste et Gambros”, REB, 23, 1965, pp.222-243)の論旨に沿って解説するのが1番、簡便な方法であろう。この論文において、スティルノンは、12世紀コムネノス朝の支配エリートを8つの等級に分類している(ibid., pp.222-225. このうち、下位の等級、すなわち、第6位のノベリッシモス、第7位、クロパラテス、第8位、プロエドロスは11世紀以前に由来する爵位であり、以下の考察からは除外する)。

1) Basileis(「バシレウス」の複数形):このカテゴリーに含まれるのは、現職の皇帝と皇妃、共治帝(普通は正帝の長男)とその配偶者である。皇帝に男子がない場合には、長女の配偶者が帝位継承予定者(ガンブロス)としてこれに加わる。

2)セバストクラトール:現職皇帝の息子、兄弟、父方の叔父および彼らの配偶者。

3)皇帝のガンブロイ(ガンブロスの複数形):皇女の配偶者、皇帝の義理の兄弟(皇帝の姉妹の配偶者か皇妃の兄弟)、義理の叔父(父方の叔母の配偶者)。このカテゴリーに含まれる人々は、皇帝との親近性に基づいて、カイサル(皇帝長女の夫)、パンヒュペルセバストス(次女の夫)、プロートセバストヒュペルタトス(三女の夫)、セバストヒュペルタトス(末娘の夫)というようにさらに細かく区分される。

4)皇帝の甥と従兄弟:セバストクラトールの息子。皇女の息子。プロートセバストス。

5)セバストス:上記よりも遠縁の皇帝親族。

 見ての通り、これらの「新しい個人称号」の序列は、皇帝からの親近性を基準に設定されていた。つまり、アレクシオス1世の爵位改革において目指された基本原則に則って構築されていたということである。以上の理解に基づけば、一般名詞の意味に影響されて「デスポテス」を「主人」と訳すことも、「ガンブロス」に「皇帝の甥」という不正確な訳を付すことも、いずれも適切な所為とは言えないことが分かるだろう。これら一連の「新しい個人称号」が創設されたのは、それ以前の爵位制度に取って代わるためではなく、そこに生じていた不具合を修復し、本来の機能を回復させるためだったのである。

 この新たな制度のメリットは、プロートセバストス以上の上級称号保持者に限定すると、常に新陳代謝を繰り返しながら、全体の数はほぼ変わらずに抑制できるという点にあった(というのも、子供の世代になると、皇帝との距離がそれだけ遠ざかったため、爵位は1ランク低くなるのが通例だったためである。セバストクラトールの子はプロートセバストス、さらにその子はセバストスというように。それと同時に皇女の配偶者が外部から参入し、皇帝の甥や従兄弟よりも上位の席次を占めた。拙著『幻影の世界帝国』27頁参照)。かくして、セバストス称号の価値が暴落した時点においても、コムネノス朝の爵位システムは、それを補完する道具立てを加えながら、十全に機能し続けることになったのである。また、スティルノンの論文では直接、言及されていない「オイケイオス」に関しても、「家人」という訳は正確なニュアンスを伝えていないように思われる。この点については、先に紹介した1196年付けのラウラ修道院文書に登場する「皇帝のオイケイオス」称号の持ち主が、ロゴテテース・トーン・セクレトーンかつメガス・ロガリアリオスという民政部門トップに立つ大物官僚ヨハネス・ベリッサリオテスであったという事実が参考になるだろう。おそらく、「皇帝のオイケイオス」という称号に込められた意味は、皇帝の全幅の信頼を受けた「股肱の臣」といったところが妥当なように評者には思われるのである。

 

 さて、ここまで長々と語ってきたことを振り返ってみれば、草生論文の最後の段落に結論部分として提示された「人材配置、爵位運用からみるに、アレクシオスが求めたのは、信頼のおける「味方」を、異邦人、異端者からでさえもリクルートする仕組みであったように思われる。セバストス位は、アレクシオス1世コムネノスにとっての宮廷戦略上の急務として、外部勢力に宮廷内に地位を得させるための「新奇策」であり、外部勢力としてのコムネノス家門を優遇することになったのは、それに付随した事態であったといえる」(590頁、「おわりに」第2段落1行目から591頁1行目まで。ここに出てくる「外部勢力としてのコムネノス家門」という表現が一体何を意味するのか評者にはよく分からなかった)や「セバストス位の創設は、アレクシオスの統治ガバナンスの一環と評価でき、有為の「外部」者を抜かりなく取り込む手腕やそのリーダーシップを示したものといえよう」(591頁2-4行)といった文章がとても首肯できる代物ではないことが分かるだろう。コムネノス朝の爵位システムの機能に関して、皇帝との親近性を基準として皇帝一門の構成員相互の宮廷内序列を決定し、それを政権運営の基軸に据えたことと、このとき創設させた爵位を使って外国君主の歓心を購おうとしたことと、どちらが主でどちらが従であるかは、普通にこの時代の通史を学んだ者の目を通して眺めれば、一目瞭然ではなかろうか。しかし、それでも、今回、提示された新説に対する未練が捨てきれないのであれば、『アレクシアス』でも、ヨハネス・キンナモスやニケタス・コニアテスでも何でもよいから、この時代を扱った歴史書の任意の頁を開いてみればよい。軍を率いるコムネノス朝の皇帝と轡を並べて出陣し、共に奮戦する高級軍人たちのほとんどが皇帝の親類縁者で固められていることが再確認されることだろう(その他の軍幹部も皇帝の私的従者あがりなど、皇帝との個人的関係の持ち主が大半だった)。

 

 なお、この点に関してさらに付言しておくと、コムネノス朝時代には、ヨハネス2世の片腕となったメガス・ドメスティコスのヨハネス・アクスーク(トルコ系)や同帝治下のカイサル、ヨハネス・ロゲリオス・ダラッセノス(ラテン系)、マヌエル1世の下でラテン人傭兵部隊を率いていたと思われるボードゥワンなど、宮廷で高い地位を享受した外国出身者が何人も確認できることは事実である。しかし、ここにおいても、彼らがビザンツ宮廷に参入するきっかけとなったのは、セバストスやそれに類する爵位の授与を介してではなく、皇帝との個人的関係の締結、とりわけ皇帝との縁戚関係に基づくものであったことを見逃してはならない(ヨハネス2世とヨハネス・アクスークはヨハネス2世の少年時代からの朋友関係。後に皇帝の孫娘とアクスークの息子が結婚。ヨハネス・ロゲリオス・ダラッセノスはヨハネス2世の長女の配偶者。ボードゥワンは、マヌエル2世の再婚相手アンティオキアのマリーの兄弟)。このように、皇帝が外国出身者を一門に取り込もうとする場合には、皇族の子女と通婚させるという手法が用いられた。こうした婚姻関係を通じた縁戚者の拡大、という方策は、先に見た「ガンブロス」称号保持者の位置づけとも通底するものと言えるだろう。言うまでもなく、彼らは皇帝の縁者と結婚することで「ガンブロス」その他の称号を得て皇族に加入したのであり、決してその逆ではなかった。他方、皇帝からセバストス爵位を受領しながら、皇帝親族との通婚関係が確認できない外国出身者(1094年の教会会議に出席したセバストス位保持者のうち、マリノス・ネアポリテスやコンスタンティノス・フンペトロスといった面々)は、家系をビザンツに残すことなく、彼ら一代限りで歴史の闇に消えている。こうした事例は、外部勢力を十全な意味でビザンツ支配エリートの内部に取り込むにはセバストス位の授与だけでは十分ではなく、皇帝親族との通婚が伴う必要があったことを示しているように思われる。評者が今回のコメントの冒頭近くにおいて、草生論文に不満な点のひとつとして「「婚姻関係の締結を介した部外者の取り込み」という論点が明示的に考慮されていないこと」を挙げたのは、以上のような理由からなのであった。

 

 さて書き出したときには予想もしなかったほどの長丁場となった我々の議論の道のりもようやく終着点に達したように思われる。随分、議論は尽くしてきたように見えるので、ここで筆を置いてもよいのだが、なんだかそれだと、言い放しで終わってしまいそうであり、何のまとめもしないで退出するのも無責任なことのようにも思われるので、最後に3点ばかり、今回の論文に照らして感じた訓戒めいた事項を以下に書き留めることで結びとしたい。

 

 第1は先行研究に取り組む姿勢である。それに対しては、真摯かつ謙虚に向かい合うべきであり、自説に都合がいいように操作したり、曲解したりすべきではない。

 第2は、史料を読み、そこから自分なりの解釈を導き出す際の思考の組み立て方に関してである。歴史的文脈の前後関係を捨象して、歴史的事象の小さな断片のみを切り出し、それに拡大解釈を加えることで個人的な思い込みに適合したストーリーを紡ぎ出すような芸当は厳に慎むべきことである。史実に対して恣意的で客観性に乏しい解釈が頻出するような論文は、本題に入る以前に読者の信頼を失うことは必定である。

 そして第3は、実証的、論理的基盤が脆弱なままで、定説をひっくり返そうとするような無謀な挑戦はしないこと、である。それは、登山の知識も十分な装備も持たぬ素人が、有能なガイドもシェルパも伴わずに単独でエベレスト登頂を目指すようなものである。その意気の高さを称える人がいたとしても、それは面白半分にしているのだから、その声を真に受けてはならない。

 

 先輩づらして説教めいた言葉をたれるのは評者の本意ではないのだが、さらに一言付け加えておくと、コムネノス朝に限らず、政治体制や社会情勢を論じようとするならば、やはり通史的な情報は一通りさらっておくのは、最低限、必要な準備作業と言うべきだろう。

 それにしても今回の論文にまつわる最大の謎は、草生氏のような新進気鋭の優秀な学徒が、このような、学術批判にさらされれば持ちこたえることは困難であろうことが容易に推察される論考を公にすることに何の躊躇いを示していないことである。このあたりのことは、草生氏ご本人にお答えいただくしかない。今回のコメント作成に関しては、草生氏御本人にも通知済みであるため、返信が届き次第、合わせて本欄に掲載したいと考えている。

                                          (2022年3月31日)

 

 

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小林功「「見えなくなっている」人々を求めて-7~8世紀ビザンツ帝国の有力者」について

昨日(2021年12月13日)の昼前、髙田 京比子, 田中 俊之, 轟木 広太郎, 中村 敦子, 小林 功 (編集)『中近世ヨーロッパ史のフロンティア』昭和堂(2021年12月14日)の謹呈本が「著者一同」という短冊付で拙宅に届いた。京都大学文学部・大学院の西洋史研究室において服部良久先生に師事した中近世ヨーロッパ史の気鋭の研究者たちが恩師の退官を機に結集した論文集である。当方の専門とするビザンツシ史とその隣接領域に関する論考も何編か収録されており、タイトルに掲げた小林氏の論文もそのひとつである。

 タイトルに興味をそそられて小林氏の論文をすぐに読み始めた。G.Ostrogorsky以来の通説によると、7世紀の大変動の時代を期に、古代末期には主流であった大土地所有制が解体に向かい、それに代わって、中期ビザンツ時代には小土地自由農によって構成された村落共同体がビザンツ農村のスタンダードになってゆく。ところが、そうした状況は9世紀後半から10世紀にかけて「有力者」と呼ばれる人々が台頭すると再び変化することになり、彼らが小農民の土地を兼併し、土地領主と化すことで改めて大土地所有制が復活する、といった歴史の流れが一般的なビザンツ農村史の標準的な理解であった。要するに、この学説によると、古代末期から続いた大土地所有制(その担い手は元老院身分貴族)と9世紀半ばに姿を見せる宮廷有力者や軍人貴族層との間の7~8世紀は、「貴族不在の時代」のような様相を呈することになる。これに対して、今回の小林論文は、この空白の時代にも、史料にははっきり現れないにせよ、相当規模の所領を有する地方名望家や中央の官僚家門などの支配エリート層(氏の言うところの「見えなくなっている」人々)が存在していたことを明らかにし、ビザンツ史上、一貫してこの種の支配層の存在は途切れることなく続いたことを論じる意欲的な論考になっている。以前から中期ビザンツ軍事貴族家門の淵源をできるだけ前の時期まで遡らせようとする試みは欧米の学界で進められていたことは筆者(根津)も承知している。ただし、よく知られているように、ビザンツにおいて家名が出現しはじめるのは早い例で8世紀後半、それがある程度、流布するのは10世紀以降という状況において、それ以前の個人名しかない時代に父と息子2人の個人名だけを根拠に同様の名前のパターンを呈する後の時代の貴族家門の始祖ではないか、と類推するような手法は、仮説としては成り立つとしても、その当否を論証する術もなく、結局、そうだったかもしれないが、真偽は不明のままで議論は打ち止めになるのが関の山というところであろう。ともあれ、氏の言うところの「見えなくなっている」人々が存在していたとしても、それがこれまで「見えないまま」になっていたのは、必ずしも学界の怠慢のせいではなく、そうならざるを得ない理由があったのだということには留意しておく必要があるだろう。

 話がそれたが、小林問題に戻ろう。氏はさまざまなデータを駆使して、7~8世紀にも実質的な支配エリート層が存在したことを証明しようと試みている。論文の内容を要約、解説するのが本稿の目的ではないので、ここではその作業は省略する(興味のある人は原文を参照してください)が、一通り読み終わったかぎりでは、一部の議論について、どうにも納得しかねるポイントが散見したことは告白せざるを得ない。そこで、とくに気になった3つのポイントに関して13日16時過ぎに氏にメールで質問したところ、同日19時40分過ぎに氏から回答のメールを受領した。せっかくの学問的な対話を私信の枠内に限定させるのも、もったいないように思われたので、氏の了解を得て、以下に筆者の質問メールと小林氏からの回答のそれを転載することにした。なお、小林氏のメール引用文の後にはオフレコ扱いにするよう指示された文章が続くが、その部分は氏との信頼関係を維持するためにここでは公開しないことを申し添えておく。これら2つのメール引用文の後に、小林氏の回答に対する筆者の簡単なコメントを付して、本稿の結びとしたい。

 

(以下引用:根津のメールは12月13日16時39分発信、小林氏の返信は同日19時44分に受領)

金沢の根津です。

このたびは、御共著「中近世ヨーロッパ史のフロンティア」を賜り、誠にありがとうございました。本日の昼前に受領しました。貴兄も中心となって編集の労に携わったとのこと、大変な御苦労であったと推察いたします。

 

ビザンツ中期のエリート家門の起源の問題は私も関心のあるテーマでしたので早速、拝読させていただきました。

最新の研究文献の渉猟ぶりなど、さすがこの道のエキスパートと感服しました。

他方、幾つか気になる点も残ったことも事実です。以下、ごく簡略に列記しておきます。

 

1)近年、盛んに研究書が公刊されているビザンツ期小アジアの考古学・景観学調査の知見が、花粉学以外には利用されていないのはなぜでしょうか。「はしがき」を見ると、本論集所収の一部の論文は、かなり前に脱稿されたものだということですので、その影響もあるのでしょうか。

2)以下の点はこれまでも言ってきたことのように思うのですが、文章構成のあちこちでやや性急な結論づけが見受けられるように感じました。たとえば、331頁あたりでは「見えなくなっている」有力者の存在を示す事例として、サルディニア、シチリア、小アジアのパフラゴニア地方の例が示されているのを受けて、「こうした事例からは、各地域のローカルな有力者が広く帝国全域に存在していることが示唆される」と結論づけられています。しかし、これだけの例で、「広く帝国全域」に同様の事例が存在することを万人がどうしたら納得できるのでしょうか。同じ小アジアだからといって、パフラゴニアに「有力者」がいたとしても、それはキリキアに「有力者」がいたことを意味するわけではありません。また、パフラゴニアとキリキアに「有力者」がいたことが仮に判明したとしても、それは小アジア全域に「有力者」がいたことを立証したことにはならない、というのが普通の考え方のように思います。

3)同様に論旨が性急と思われる点をもう1点。334頁の終わり近く、貴兄のいうところの「見えなくなっている」家門のメンバーが軍務を中心とする地方官職に就いている者が多いことが指摘された上で、コンスタンティノス5世が抜擢した軍団指揮官たちにも「見えなくなっている」家門の出身者がいたと考えるのが自然である、と結論づけられ、その具体例としてアナトリコン長官のミカエル・メリッセノスの名が挙げられています。おそらく、地方の軍事組織の幹部層の主要な供給源が現地の中小名望家出身者であったであろうことについては私も同意します。他方、テマ軍団の司令官についても同じ原理で任命がなされたかどうかは検証の余地があるのではないでしょうか。皇帝としては、属州に駐屯する軍隊が現地の有力者を頭目に戴いて地方軍閥化して中央の統制が効かなくなる事態は避けたいのは当然であり、そのためには現地軍の司令官には自分の腹心を据えて統制を図ることも十分に考えられることと思われます。一方、たとえばマケドニア朝期のレオン6世からコンスタンティノス7世の治世のように、そうしたリスクは承知のうえで、現地事情に精通した地元の門閥家門の出身者に軍指令権を一任するような状況もありえたのは事実です。結局、何が言いたいかというと、コンスタンティノス5世が地方軍団を支持基盤とし、地方の軍組織の幹部層が現地有力者で占められていたことが事実であったとしても、その2点だけを根拠に、地方軍団の司令官が地元の有力者だったと考えるのは性急ではないか、ということです。あえてしつこく繰り返しておけば、軍団司令官と地方軍事組織の将校クラスの人事では異なる原理が働く可能性があるということです。いずれにしても、この疑問に答えを出すのは、一人一人の軍団司令官の出自に関して綿密なプロソポグラフィー研究を行ってからということになるのではないでしょうか。

(根津のメール引用ここまで。以下は小林氏からの返信です)

 

早速のご連絡、ありがとうございます。今日は井上先生からも丁寧なご礼状をいただいたのですが、実は編者のところには届いておらず、わたくしはまだ現物をみておりません…。 

また、貴重なコメントありがとうございました。

上に書いたような事情で、自分の書いたものを参照できないのですが、とりあえず校正を見ながら、簡単にお返事させていただきます。

1.についてはご推察の通りで、最終的に(修正版を)脱稿したのが去年の春、ちゃんと原稿を書いたのはさらに1年くらい前で、『生まれくる…』と執筆時期がある程度重なっている(なので花粉の話がけっこう出てくる)感じです。

(去年の読書会大会の報告が、一応は今回の拙稿から若干進んだ(そして、ちょっと方向性を変えた)バージョンになる感じです)

なのでその他の考古学等の文献、使っていないわけではないけれどあまり反映されていないものもあれば、まだ入手できていなかったものもあります(入手したけど脱稿までに読めなかったものもあります)。

3.については、どちらかというと本稿ではコンスタンティノス5世時代については中央の状況をメインに書いたので、あっさりになってしまっていることは否めないです。ただ、わたくしの指摘は地方軍団の司令官に地方の有力者を任用した、ということであり、彼らの地元に任用した、ということではないです。766年の陰謀に関わった人物に元ロゴテテースのシチリア長官のアンティオコスがいるように、地元から離れたところで官職に就く事例はおおいにありえますし、そもそもタグマタにはそのような意図もあるのでしょう。コンスタンティノス5世は自らを支える人材を地方から抜擢しようとした、というのがここでの論旨になりますので、むしろ地方の有力者を中央(あるいは自分の周囲)に引っ張り出してくることが重要で、「地元で任用する」というのは彼が(少なくとも主として)意図するところではなかったと思います。

(もちろん、このことが拙稿で十分に論じられていないことは重々に承知しております)。 

2.に関しては、7〜9世紀初頭のエリートに関する研究は最近ぼちぼち研究が出てきたところで、全体としてなおも推論に依拠する部分がかなりあり(以前ご指摘いただいたシェイネらのアルギュロス家に関する話などもそうです。…ただアルギュロス家については、マリアノス&エウスタティオスと2代分の名前の一致を考えると、ある程度の説得力はあるかな、とは判断しています)、現時点での研究状況ではこれが精いっぱい、というのが正直なところです。ご指摘の点はごもっともで、わたくしとしてももう少しデータがそろってきた段階で再検討が必要であることは十分に認識しております。 

ここまでのところ、ResearchMapへ掲載していただいて結構です。

(また、何か思うことができたら連絡させていただくかもしれません)

(引用ここまで)以下は、この回答に関する根津のコメントである。

 

問いの1)については、氏の言い分を了としておきたい。近く、この方面に関しても重要な成果が期待できるだろう。 

問いの3)について。「軍団司令官については必ずしも地元で任用するわけではなく、別の任地に配属する場合がある」という回答は当方も予想していた返答だった。その場合であれば、軍団司令官人事と地方駐屯の軍隊幹部層のそれとは任用のルールが異なることは本文中ではっきりと明示すべきであり、今回の論文ではそのあたりの説明が不十分であったことは否定できまい。いずれにしても、軍団司令官がいかなる出自でどのような任地に配属されたのかなど、具体的なプロソポグラフィー的データを提示することなく、一般的な結論めいた発言をするのは、読者にとっては不親切で無責任な行為と言わざるを得ない。今回の論文ではこの部分はメイン・モティーフではなく、詳細な検証をする余裕はなかった、という言い分もないわけではなかろうが、その場合には、真偽の分からない結論を唐突に読者に放りつけるような行為は書き手としては誠意に欠けるものと評されても仕方あるまい。

より問題なのは、2)についての回答である。どうやら氏はこちらの問いの意味を十分に理解できなかったのか、あるいは理解できた上で意図的にはぐらかしているか、のいずれかのようである。筆者の質問の趣旨は、いくら単発的な事例を積み上げても、それを根拠にその例が全体の趨勢になっていることを証明することにはならないのではないか、ということである。問題なのは、提示する具体例が少ないことではない。氏の論法には飛躍があり、氏が証明したいと思っていることを証明するのに、ここで用いられている氏の論法は役に立っていない、ということなのだ。先に結論が見えてしまうと、そこに至る検証のプロセスがおろそかになるのは氏の別の著作でも認められる習癖のように思われる。より慎重な姿勢が求められるように筆者には感じられた。

(2021年12月14日15時30分)

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中谷功治「ビザンツ帝国:千年の興亡と皇帝たち」中公新書、2020年覚書

中谷功治『ビザンツ帝国―千年の興亡と皇帝たち―』(中公新書2020年)

本書を、期待を持って読み始めたことは間違いありません。そうした期待は、遺憾なことに第4章の半ば以降(10世紀後半を扱った部分)以降、急速にしぼむことになってしまいました。それまでの記述が最新の研究成果を採り入れた非常に意欲的なものだっただけに、その落差に愕然とせざるを得ません。本書は、初学者が初めて手にするかもしれないビザンツ史の本となる可能性も高いと思われるだけに、そこに多くの事実関係の(なかには信じられないレヴェルの)誤謬が続出するのには目を疑いました。著者に連絡を取り、増刷時の訂正の約束をとりつけたので事態は改善に向かっていると信じたいところです。以下に本書の初刷において筆者(根津)が見出した問題箇所のリストを提示しておきます。なお、リスト中にも記しましたが、本書には、とくに後半部において史実の解釈についても、いろいろ異論を挟みたいところは少なくないのですが、以下では事実関係の誤りに限定していることをあらかじめおことわりしておきます。


中谷『ビザンツ帝国』問題箇所リスト
(頁と行数、カギ括弧内に当該箇所からの引用、コメントの順)

① 23頁:図版「ユスティニアヌス帝と随臣 右から4人目がベリサリウスとの説がある」:一般にベリサリウスとされているのは皇帝の左隣の人物では?(写真では右から6人目)。右から4人目、大司教と皇帝の間に顔を出している人物は、以前は銀行家のユリアヌス、近年はベリサリウスに代わってイタリア戦線を指揮した将軍ヨハネスという説があることをかつて私は河出の『図説』で紹介したことがありますが、さらに私の知らない新しい説が出ているのでしょうか。

② 170頁2-3行目「当然のこととして、ニケフォロスの息子たちにも栄達が待っていた。バルダスはカイサル、レオンはクロパラテスという皇族の爵位を獲得する。」:
 正しくは、カイサルになったバルダスはニケフォロス2世の父親、レオンは弟。この頁の13行目には「ヨハネス帝はニケフォロス帝の子どもたちを政権から排除する一方」との記述もありますが、これも「弟(クロパラテス)のレオンとその息子たち」と修正する必要があります。ちなみにニケフォロス2世には皇帝に即位する以前、バルダスという名前の息子が一人いましたが、軍事演習中の事故で亡くなっています(典拠はSkylitzes ed. Thurn, p.260; Leo the Deacon, tr. A-M.Talbot and D. F. Sullivan, p.91)

③ 172頁9-10行目「手を焼いたバシレイオス・レカペノスは、地中海の島に流刑中であったもう一人のバルダス、ニケフォロス2世フォカスの息子を鎮圧軍のトップにあてた。」:ここに登場するバルダスは、ニケフォロス2世の息子ではなく、甥(皇帝の弟、クロパラテスのレオンの息子)。

※11-12世紀のイタリア海運都市やノルマン人と教皇権との関係など、細かい表記の仕方に違和感がある箇所は少なくないのですが、このあたりは個人的な見解の違いとも言えるので、その種の歴史解釈に関する問題は、今回は割愛しておきます。

④ 194頁最終行から次頁1行目「彼の後継は弟で共同皇帝のコンスタンティノス8世であったが、皇弟にも息子はおらず、2人の娘、ゾエとテオドラがあるのみであった」
 実は、ゾエとテオドラの上にエウドキアという早くに修道院に入った娘がいたことをプセルロスが語っています(M. Psellos, II-5, ed., Renauld, I, p.28)。なので、厳密を期せばコンスタンティヌス8世の娘の数は「3人」が正解です。ただし、この時代を専門にしてない人にそれを知らないのを責めるのはいささか酷でしょうが。

⑤ 195頁11-12行目「ゾエは若い愛人ミカエル・オルファノトロフォスと共謀して彼を暗殺したらしい。」 次の行にも「ゾエの夫となることで帝位を得たミカエル4世オルファノトロフォスは」という記述あり。「オルファノトロフォス」(孤児院管理長官)という官職は、ミカエルではなく、その兄で宦官のヨハネスが帯びていた称号です。ちなみに皇帝になる前にミカエルが帯びていた官職は「パンテオンのアルコン」(Skylitzes ed. Thurn, p.390)、皇帝になってからの添え名はho Paphragon(「パフラゴニア人」)。

⑥ 198頁12-13行目「後者は皇帝が首都に創設した「法科」大学校の責任者(モノフュラクス)に任命された。」:クシフィリノスが任命されたのは「ノモフュラクス」(nomos「法」+phylax「番人、監督」の意)。イージーな校正ミスとも言えるでしょうが、初学者がこのまま覚え込んだりしたらと思うと、なおざりにはできません。

⑦ 201頁3行目、1047年に反乱を起こしたレオン・トルニキオスについて「コンスタンティノス9世の甥にあたる人物」と記述。これについてプセルロスは、トルニケスは、コンスタンティノス9世の「母方のexanepsios」と伝えています(M. Psellos, VI-99, ed., Renauld, II, p.14)。「エクスアネプシオス」の箇所をJ.-C. Cheynetは「従兄弟」と訳しており(Pouvoir et contestations à Byzance (963-1210), 1990, p.60)、E. A. Sophoclesの「ローマ・ビザンツ時代のギリシア語辞典」p.479には「従兄弟の息子」とあるので、いずれにしても「甥」という訳は正確ではないでしょう。

⑧ 203頁10行目「新たな皇帝に擁立されたのはパフラゴニア地方に基盤をもつイサキオス家のコムネノス」:正しくは「コムネノス家のイサキオス」。誰でも分かるケアレスミスという点では許容範囲内かも。

⑨ 228頁8行目「ロマノス3世の息子レオンが戦死し」:正しくは、ロマノス4世ディオゲネスの息子レオン。

⑩ 235頁8-9行目、第1回十字軍によるアンティオキア攻囲戦のくだり、「勝手に東方の都市エデッサに進んで、ここにエデッサ伯領を形成するブロワ伯エティエンヌのような人物も出る。」 どうしてこのような荒唐無稽な文章が出来するのか、絶句するしかない文章。エデッサ伯領を建設したのは、ブロワ伯エティエンヌではなく、ボードゥワン・ド・ブーローニュ(ゴドフロワ・ド・ブイヨンの兄弟。第2代イェルサレム王。ゴドフロワが王号を帯びなかったことを勘案すれば、初代イェルサレム王)です。彼はアンティオキア到着の直後に本隊から離脱して独自行動に転じ、1093年3月にエデッサの支配権を獲得しました(エリザベス・ハラム編 ; 川成洋, 太田直也, 太田美智子訳『十字軍大全 : 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』、東洋書林、 2006年、117-121頁)。ブロワ伯エティエンヌがアンティオキア攻囲戦に耐えきれず、戦線を離脱したのは事実ですが、彼は1098年6月に陣中を離れ、アレクサンドリア経由で海路、フランスに帰国したと報じられている(エリザベス・ハラム編『十字軍大全』124頁)ので、エデッサ伯領との接点は見つけられません。エティエンヌはその後、1101年の十字軍に加わって再度、聖地に向かっていますが、1102年5月にラマラで戦死しており、ここでもエデッサ伯領と関わりを持ったようには思われません(エリザベス・ハラム編『十字軍大全』156-157頁)。

⑪ 242頁3-4行「皇帝が派遣した甥ヨハネス・コムネノスの部隊は、スミルナ、エフェソス、サルディス、フィラデルフィアなどの都市の奪還に成功する」:このとき、小アジア諸都市の奪回戦の指揮を執っていたのは、皇帝の甥のヨハネス・コムネノスではなく、皇帝の義理の兄弟(皇后エイレーネーの兄)ヨハネス・ドゥーカスです(Demetrios I. Polemis The Doukai : A Contribution to Byzantine Prosopography, London, 1968, No.25, pp.66-70)。

⑫ 246頁2-5行。第2回十字軍に関する記事。仏王ルイ7世の軍勢のコンスタンティノープル通過の記述の後に「西欧軍はクレルヴォーのベルナール(シトー派修道院長)という精神的支柱をともなっていたものの、やはり方針は定まらなかった」という文章。素直に読むとクレルヴォーのベルナールは十字軍に同行していたように読めますが、実際にはそうした事実はありません。ベルナールが第2回十字軍の勧説に大いに活躍したことは有名ですが、そこから十字軍遠征にまで同行したと考えるのは飛躍があるでしょう。

⑬ 257頁末尾から3行「アレクシオス3世のもう一人の娘エイレネの夫はアレクシオス・パライオロゴスで、その子息が1261年にコンスタンティノスを奪回するミカエル8世である。」アレクシオス3世の娘婿アレクシオス・パライオロゴス(J.-F. Vannier, “Les premiers Paléologues: Etude généalogique et prosopographique”, dans J.-C. Cheynet,et J.-F Vannier, Etudes prosopographiques, Paris, 1986, No.29, pp.170-172)とミカエル8世の父親は別人。なお、後者の個人名はアンドロニコスJ.-F. Vannier, “Les premiers Paléologue”, No.32, pp.176-178)。

⑭ 271頁10-12行目。アンドロニコス2世パライオロゴスの再婚相手モンフェラート侯女ヴィオランテ(エイレネと改名)の記事。「父親のモンフェラート侯グリエルモ7世はテサロニキの支配者であったから、彼はこの都市を妻の持参金として受け取った。」
 おそらく、本書の中でもっとも衝撃的な文章。拙著『聖デメトリオスは我らとともにあり』でこのあたりの話はいたしましたが、第4回十字軍のコンスタンティノープル占領後にモンフェラート侯ボニファッチョによって建国されたテサロニケ王国は1224年にエペイロスのテオドロスによって滅ぼされ、さらに1246にはテサロニケの町はエペイロス系の君主の手から当時のニカイア皇帝ヨハネス3世の手に渡っていました。ですので、テサロニケの町はアンドロニコス2世が即位する何十年も前からビザンツ系国家の支配下にあったことになります。なぜ、このような信じがたい事実誤認が生じたのかは正直、分かりません。もしかすると、アンドロニコス2世がモンフェラート侯女と結婚する際、テサロニケの町を名目上、花嫁の持参財産として明示することで、テサロニケ王国滅亡以来、モンフェラート侯家が主張していたテサロニケに対する請求権を同家の面目を保ちつつ放棄させる段取りが整えられたのだ、という話を、現実のものと誤解した結果でしょうか。(2020年6月30日)

 

本書の刊行から半年以上が経過しましたが、本ブログに最近になって気付いた人もいるようなので、以下の情報を追記しておきます。あわせてご参照ください。(2021年1月31日追記)

現在、著者の中谷功治氏の以下のresearchmapのブログ欄に本稿よりもさらに詳細な正誤表が掲載されています。

https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/509045/e05e28ad7b92fca7365dbb055525a71d?frame_id=1018647

 

 

 

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リウトプラント『使節記』邦訳本(知泉書館、2019)覚書

 本書が労作であることは間違いない。とくに本文中に引用された古典作品や聖書の該当箇所に関する解説は詳細で非常に有用である。長年の近眼のおかげか未だに老眼鏡のお世話にならずに済んでいるが、註の字の小ささにはいささか難渋したことは告白しておく。それはともかく、全体を通読してみると、幾つか気になった箇所もあることは事実である。以下、備忘録代わりに箇条書きで提示する。行頭の括弧付の数字は、該当の節数である。

(7)本文17頁6行目から7行目にかけて、「そしてこれ故に、彼(ロマノス)は我々の王、くだんのフゴの庶子である娘を、自分の同名の甥(のちのロマノス2世)と結婚によって結び付けたわけです」という文がある。ロマノス2世は、ロマノス1世の娘ヘレナと皇帝コンスタンティノス7世の間に生まれた息子だから正確に言えば、ロマノス1世の孫に当たる。翻訳書では、付論I(159頁)においてこの箇所が引用された際にも「甥」と表記されており、こうした表記が原著者のリウトプラントの事実誤認に基づくものであれば、ことさらに些細な瑕疵を言い立てるのも詮無いことなので、そのままスルーすべきかと評者も思っていた。ところが、同箇所が再度引用された付論II(188頁)では、正しく「孫」とされているのである。そこで、訳者が底本として用いたと思われるLiudprand of Cremona, Relatio de Legatione Constantinoplitana, Edited and translated with Introduction and Commentary by Brian Scott, London, 1993(訳者はそう明言していないが、本校訂版の編者B. スコットのコメンタリーを参照した箇所が訳書の注釈に多く見られることからそのように推察した)で該当箇所を参照してみると、英訳(同書30頁)に以下のように訳出されているのを見出した。This was why Romanos joined in wedlock his own nephew and namesake with the illegitimate daughter of our king, the aforesaid Hugh. ちなみに同じスコットによる校訂版のラテン語原文(同3頁)は以下の通り。Et haec causa fuit, quod nepoti suo et aequivoco regis nostril eiusdem Hugonis spuriam coniugio copulavit. 英訳で「甥」と訳されているnepoti(主格nepos)は、手元のラテン語辞書(Charlton T. Lewis, An Elementary Latin Dictionary)を見ると、最初に出てくる訳語は “a grandson, child’s son”だから、リウトプラントは2人のロマノスの親族関係を正確に理解していたことが分かる。他方、邦訳でこの箇所を「甥」と訳出しているのは、上記スコットの誤訳を踏襲してしまったことが原因であると見てよかろう。

(15)註66(31頁)に「ポルフュロゲニータ」が帝国外の異民族に嫁ぐ事例は、確かに見当たらない」とあるが、この点はもう少し議論が必要であろう。本文中でリウトプラントはビザンツの高官から、緋産室生まれの皇女(「ポルフュロゲニータ」)が、異民族と交わるということは聞いたことがない、と言われているが、実際には、コンスタンティノス7世の異母姉アンナ(皇帝レオン6世の皇女)がプロヴァンス王(後にイタリア王、皇帝)ルイ3世に嫁いでいた可能性があるからである(ただし、この婚姻が成立したかどうかについては研究者間で論争がある。詳しくは、拙著『夢想のなかのビザンティウム―中世西欧の「他者」認識―』、昭和堂、2009年、36―37頁、および註43を参照)。
 他方、先のビザンツ高官の発言にもかかわらず、コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトスは『帝国統治論』のなかで、異民族のうちでフランク人だけは特例的にビザンツ皇帝家との縁組みを許されている、と語っているのは有名である(Constantinus Porphyrogenitus, De administrando imperio, eds., Gy. Moravcsik and R. J. H. Jenkins, Washington D. C., 1967, pp.70-73. 前掲拙著14頁も参照)。この発言は、皇女アンナのプロヴァンス王への降嫁を許した父レオン6世を免罪することを目的に為されたのだと一般的には説明されている。このあたりの話は、訳者が作成した参考文献リストには欠落しているが、R. J. Macrides, “Dynastic Marriages and Political Kinship”, in J. Shepard and S. Franklin ed., Byzantine Diplomacy, Aldershot, 1992, pp.263-280でかなり詳しく論じられている。
   なお、後から気付いたのだが、本訳書の系図1(231頁)には、ビザンツ皇帝レオン6世の娘アンナ(902没)が(プロヴァンスの)ルードヴィヒ3世と婚姻関係にあることが表示されている。そうであれば、この縁組みをどう解釈すべきか、本文中や注釈の中で触れて欲しいところである。

(19)註79(37頁)において、ブルガリア使節が宴席の場で自分より上座に就いているのを目にしたリウトプラントがいたく憤慨した理由について、「洗礼志願者」のような出で立ちのブルガリア人が、司教である自分より上位にいるのに苛立ったのだ、と記され、あたかも教会位階制度上の秩序が無視されていることが彼の憤慨の原因であるかのように読めてしまうが、こうした書き方は読者をミスリードするものであろう。リウトプラントはブルガリア使節の装束が「洗礼志願者」のようだった、と語っているだけであり、彼らが洗礼前の修行者だと思い込んでいたとはどこにも書かれてはいない。その後の本文の展開から分かるように、問題の本質は、ドイツ皇帝の名代であるリウトプラントが、自分より格下の存在と思っていた、見るからに粗野そうなブルガリア使節の下位に置かれたことであり、それ以上でも以下でもあるまい。

(40)註151(71頁)の「リウトプランド」は、自らも所属するゴート人が、広義のゲルマン族に含まれ…」という表記は、上手の手から水が漏れた例と言えようか。リウトプラントがランゴバルド系であることは、訳者自身、解題(xv頁)や付論I(134頁)で語っていることなのだが。

*本邦訳書全体を通じて強く感じるのは、注釈中で参照される文献が総じて古いことである。とくに今日ではなかなか入手も困難と思われる19世紀や20世紀初頭の文献が次々と提示されているところを見ると、これは訳者のある種の「美学」と見なすべきなのかもしれない。そうした印象がどれだけ事実に裏付けられているのか確認するため、巻末に付された参考文献リストから刊行年を調べてみると、「研究文献(欧文)」という項目に掲げられた135の文献(そのうち2つは刊行年の記載なし。F. Dölger, Regestenは第1巻の刊行が1924年、第2巻(改訂増補版)のそれが1995年とあるので2つとして計算。それゆえ母数は134。ちなみにRegesten第1巻の前半部(565-867)は2009年、後半部(867-1025)は2003年に改訂増補版が出ている)のうち、19世紀の文献が18 (全体の13.4 % )、20世紀前半(1901-1950)が26 (19.4%)となり、合わせて32.8%となり、参考文献のおよそ3分の1が70年以上前、そして10冊に1冊以上が120年以上前の文献によって占められていることが分かった。次いで、20世紀後半を10年刻みで数えてみると、1950年代: 5 (3,7%)、1960年代: 19 (14.2%)、1970年代: 22 (16,4%)、1980年代: 17 (12.7%)、1990年代: 22 (16,4%)となり、20世紀後半の50年間全体で63.4%になる。これに対して21世紀に刊行された書籍は 5 (3,7%)を数えるのみ(2010以降は2013刊行の文献が1種だけ)。このような結果になったのは、訳者「あとがき」(211頁)によれば、本邦訳書の原型を成したと思われる科学研究費補助金の研究成果報告書が完成したのが2004年のことというから、その後に刊行された文献については十分な目配りができなかったためかとも推察される。これはこれで問題がないわけではないが、評者がそれ以上に問題があるように感じるのは、訳者が、大昔の文献を「古典的名著」などと呼んで高く評価し、それらに大きく依拠していることに何の引け目を感じないどころか、むしろそうした態度を積極的に正当化しているようにすら見えることである。たとえば、本訳書96頁、註205で「コンスタンティノープルにおける絹織物業に関する古典的研究は、いまなおLopez, R. S., The Silk Industry in the Byzantine Empire, Speculum 20 (1945) p.1-46である」とか、あるいは同168頁、註44の「ニケフォロス・フォーカスに関する研究のスタンダードワークは、いまなおシュランベルジェの名著である。Schlumberger, Gustave, Un empereur byzantin au dixième siècle : Nicéphore Phocas, Paris, 1890 (2e éd., 1923)」といった言説がその典型であろう。もしも、こうした言説が最新の研究をフォローしていないことの免罪符として使われているのだとしたら、それは研究者としての識見を問われることになるのではなかろうか。
   ビザンツの絹織物産業にせよ、ニケフォロス2世フォ-カス帝の研究にせよ、上記文献の刊行以降も数々の参照すべき文献が刊行されているのはくどくど言う必要もあるまい。絹産業については、今日では、Anna Muthesius, Studies in Silk in Byzantium, London, 2004がまず参照されるべきであろうし、今回の訳書との関連では、同じAnna Muthesiusの “Silken Diplomacy” in Jonathan Shepard and Simon Franklin eds., Byzantine Diplomacy : Papers from the Twenty-fourth Spring Symposium of Byzantine Studies, Cambridge, March 1990, Aldershot, 1992, pp.237-248も必読であろう。ニケフォロス2世に関しては、Rosemary Morris(訳者も論文を2編だけ挙げている)の主著Monks and Laymen in Byzantium, 843-1118, Cambridge, 1995に加え、小アジア軍事貴族層に関するフランス学界の重要な貢献(Le traité sur la guérilla (De velitatione) de l'empereur Nicéphore Phocas (963-969), texte établi par Gilbert Dagron et Haralambie Mihăescu ; traduction et commentaire par G. Dagron ; appendice “Les Phocas” par J.-C. Cheynet, Paris, 1986; Jean-Claude Cheynet, The Byzantine Aristocracy and Its Military Function, Aldershot, 2006など。最近では、Luisa Andriollo, Constantinople et les provinces d'Asie mineure, IXe-XIe siècle : administration impériale, sociétés locales et rôle de l'aristocratie, Leuven,2017)を無視することはできない。さらに最近、ニケフォロス2世に関する5つの主要なテクストの原文と英訳を集めたDenis Sullivan, The Rise and Fall of Nikephoros II Phokas, Five Contemporary Texts in Annotated Translations, Leiden, 2018も刊行されている。『使節記』本文中でも言及のある、東方の対アラブ・イスラーム戦については、Georgios Theotokis, Byzantine Military Tactics in Syria and Mesopotamia in the 10th Century: A Comparative Study, Edinburgh, 2018 も参照されるべきだろう。
 訳者の恩師、故渡辺金一教授は、ビザンツ封建制論争にせよ、N.スヴォロノスがヴァティカン図書館で発見した「テーベの土地台帳」にせよ、はたまたH.-G. ベックのビザンツ国制史研究にせよ、そのときどきの学界でホットな議論が交わされていた最新のテーマに勇んで飛びつく「新しもの好き」の一面を有していたが、そうした渡辺教授が、今、その学問上の後継者であったはずの訳者の「学風」を目にしたら、いかなる感慨を抱いただろうか。いずれにせよ、こうした「学風」が後進の若手研究者に共有されることのないことを評者は願ってやまない。
 本訳書の註109(50頁)の記事から、評者は、訳者が近刊の『世界歴史体系(ママ。 正しくは「大系」であろう)イタリア史 I 』(山川出版社)において「ビザンツ帝国とイタリア」という部分を担当されていることを知った。今後、長く参照されるべき文献であるだけに、そこでの記述は、本訳書のなかで繰り返し参照されているJules Gay, L'Italie méridionale et l'Empire Byzantin : depuis l'avènement de basile Ier jusqu'a la prise de Bari par les Normands, 867-1071, Paris, 1904 やVera von Falkenhausen, Untersuchungen über die byzantinische Herrschaft in Süditalien vom 9. bis ins 11. Jahrhundert, Wiesbaden, 1967 に留まらず、 できれば最新の研究成果(Mladen Ančić, Jonathan Shepard and Trpimir Vedriš eds., Imperial Spheres and the Adriatic: Byzantium, the Carolingians and the Treaty of Aachen (812) , London, 2018; Daniëlle Slootjes and Mariëtte Verhoeven eds., Byzantium in Dialogue with the Mediterranean : History and Heritage, Leiden, 2019など)を、それが無理ならせめて、Michael McCormick, Origins of the European Economy: Communications and Commerce, A.D. 300-900, Cambridge, 2001やSalvatore Cosentino, Storia dell’ Italia bizantina (VI-XI secolo). Da Giustiniano ai Normanni, Bologna, 2008 くらいは十分に踏まえた上での議論が展開されていることを切に願いたい。

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小林功『生まれくる文明と対峙すること:7世紀地中海世界の新たな歴史像』を読む

  著者の小林功氏より送っていただいた『生まれくる文明と対峙すること:7世紀地中海世界の新たな歴史像』(ミネルヴァ書房2020年1月)を読了した。小林氏との付き合いは彼が京都大の学部生の頃に遡るから、かれこれ30年にも及ぶことになる。ある種の戦友意識を共有する仲と言えようか。著者との仲を思うと、以下のような小文を公表して著者の不興を買うのは我ながら余計な仕儀に思えなくもない。さりとて率直に感じたことを黙ったままにしておくのも学問的に不誠実な態度のようにも思われるし、何より精神衛生上、よろしくない。要するに、ここでの行為は、イソップ寓話のミダス王の耳を目撃した床屋が穴を掘ってその中に叫んだのと同様の所業なのである。

 もとより以下に書き連ねた文章は、本書を一読後に幾つか気になった箇所を備忘録代わりに書きなぐった覚書に過ぎず、学術誌に掲載されるような精密な分析に基づいた書評の体を成すものではない。著者が参照している中世初頭の東地中海情勢に関する最新の研究文献の多くも評者は親しく接してはいないことも申し添えておかねばなるまい。それゆえ、本稿の眼目は、本書で語られた細々とした事実関係を著者と同じ土俵で精査することではなく、本書の議論展開の仕方や考察の妥当性を検証することに限定されることになるだろう。なお、以下での議論は本書を通読していることが前提となっているため、未読の人にはいささか不親切な体裁になっていることもご承知おき願いたい。

 本書において、とりわけ気になったポイントは以下の3点である。
①コンスタンス2世の西方遠征と皇帝の意図をいかに評価するのか。これについては、イタリア本土の作戦行動と北アフリカのそれを別個に考察する。②「シチリア艦隊=救世主」説(これは著者の用語ではなく評者が便宜的に命名)の妥当性。③ローマ帝国の「後継者」をめぐる議論。以下、順を追って論じていこう。

 最初に①について。著者の記述によれば、662年に大軍を率いてコンスタンティノープルを出立したコンスタンス2世は、同年秋、南イタリアのタレントゥムに上陸、南イタリアもおけるランゴバルド勢力の拠点ベネヴェントを攻囲したがそれが容易に陥落しないと見て取ると作戦を中断して北上を開始、ナポリを経由してローマに入ったのが663年6月であったという。ローマに12日間滞在した皇帝はその後、同じ道を引き返し、ナポリを経てシチリア島に渡り、シュラクサに入り、その地を座所とした。
 皇帝が相当な大軍を擁していたにもかかわらず、ベネヴェント攻囲戦を途中で切り上げ、イタリア北部のランゴバルド王国との直接対決の素振りも見せなかった点などから、著者は、今回の遠征の主たる目的はランゴバルド勢力との対決にはなく、イタリア本土における作戦行動は兵力の消耗を避け、比較的短期間で切り上げられたと語っている(120-123頁)。著者によれば、イタリア本土の作戦行動が短期間で切り上げられたのも、皇帝のローマ滞在が2週間弱に留まったのも、当初のプラン通りだったということになる。本当にそうなのだろうか。外交や戦争は基本的に利害関係を異にする相手と渡り合う行為だから自分の思い通りに進むとは限らない、というか、そうならない方が普通だろう。今回の例でいえば、ベネヴェントを攻めてみたものの思いのほか抵抗が頑強で手間取ったことなどがその例だろう。ユスティニアヌス時代の対東ゴート戦争が緒戦こそ大成功だったものの次第に泥沼化してイタリア全土が荒廃したことは周知の事実であり、ユスティニアヌス時代と比べて遙かに国力の乏しい当時のビザンツ帝国が同じことはできないのは自明のことだったから、皇帝が当初からランゴバルド勢力との全面対決に消極的であったことは十分に頷ける。とはいえ、そうした事実関係の推移が、当初からのプラン通りだったかどうかはまた別の話ではないだろうか。自戒を含めて思うのだが、事件を後代から俯瞰することのできる我々は、それぞれの出来事を合理的に意味づけようとして、あたかもそれらは当初から計画されていたシナリオに沿って整然と進められたかのように事の推移を整理し直してしまいがちなのではなかろうか。ここで言いたいことは、コンスタンス2世のイタリア本土における作戦行動が皇帝の思い描いた当初の計画通りに進んだのか、それとも、様々な局面で決断を迫られ、結果としてそのようなものに帰着したのか、いずれであったかは結局、明らかではなく、無理して前者の解釈を採らなくてもいいのではないか、ということである。なぜ、そのことが気になるかと言うと、前者の解釈を採ると、プランの作成者としての皇帝の英明さが強調され、場合によっては実際以上に彼の偶像化が進むおそれがあるからである。コンスタンス2世の慧眼ぶりを過度に強調するのは危険である。ただ、この件に関して、これ以上の議論は水掛け論に陥りかねないため、このくらいにして次の論点に移ることにしよう。
 イタリア本土から撤収した皇帝の一行はシチリア島東岸部に位置するシュラクサに拠点を定めた。シュラクサは、もともとシチリア属州の首府であり、島の東部に位置して東方からの連絡を取りやすい位置にあったから、シチリアにおける皇帝の座所としては最適の場であることは明らかであろう。また、地中海の地図を見れば一目で分かるように、シチリアは地中海のほぼ中央に位置し、イタリア半島と北アフリカの両方同時ににらみを利かせられる位置にあったから、著者が言うように、皇帝の真意が北アフリカであったなら、この地は前方作戦基地として理想的であったことも容易に理解できるところである。
 一方、すんなりと理解できないのは、その後に実施された北アフリカにおける作戦行動の顛末である。小林氏の記述によれば、皇帝は、ニケフォロスという名の部将を北アフリカに派遣したが、後者がアラブ軍の小部隊と交戦して敗北してすぐにシチリアに逃げ戻った後は何ら有効な手立てを講じることもなく、一見したところ、無為にシチリアで時を過ごしている。その後、皇帝は暗殺されたため、彼が抱いていたであろう遠大な計画は結局、達成されぬままに終わった。1万を超える大軍を擁しながら皇帝がシチリアから動こうとしなかった理由について、小林氏は北アフリカに陸上兵力を送り込むのに十分な艦隊がシチリアに存在しなかったことを想定している。皇帝軍をイタリアに送り届けたビザンツ艦隊はすでに東方に帰還しており、北アフリカ作戦に投入することはできなかったと氏は語る(そうかもしれないが、本当にそうかは明証に欠ける)。著者の見立てによれば、艦隊不在という問題を解決するために皇帝が採った方策は、帝国の西方領土一円に艦隊税を課し、得られた資金で艦隊を新造することだったようである(127-8頁)。ところが著者も言うように艦隊建設は容易ではなく、艦隊の完成を待たずに皇帝が暗殺されてしまったことが彼の北アフリカ作戦が不発に終わった理由だった、ということになる。
 もしも北アフリカ作戦のプランが小林氏の説くとおりであるとすれば、正直に言って、かなり杜撰な作戦と言わざるを得ない。先にも述べたように、小林氏の議論に従うとコンスタンス2世の遠征はほとんど皇帝の思い描いたシナリオの通りに進行していたような印象を受けるが、一行をイタリアに運んだ艦隊はすぐに東方に舞い戻り、北アフリカ作戦に投入する艦隊は現地調達する、というプランが当初からの計画であったとすれば、立案者の才覚にはかなり大きな疑問符がつくのではないだろうか。コンスタンス2世が引き連れていた陸上兵力が1万を超える大軍であったことは著者の小林氏も繰り返し指摘していることである。言うまでもないことだが、動員する兵力が大きければ大きいほど、補給その他のコストは膨大なものとなる。それゆえ、大軍を動かすのであれば、作戦期間は極力、短く抑えることが計画立案者の腕の見せ所であったであろう。その点で、大軍を集めておきながら1箇所に留め置いて、長期間、待機させる、という今回の皇帝の策が事実であれば、まったくもって愚かな策であると言うほかない。大軍が駐留すれば、たちまち周囲の食糧事情は逼迫してくるであろうし、そうでなくとも外来の軍勢が我が物顔で居座り、無為徒食を続けられたら、そのコストを背負わされた現地住民の不満や怨嗟の念が次第に高じて深刻な社会不安を醸成するであろうことは容易に想像されるところである。大軍を率いてやってきた皇帝が、これから金を集めて艦隊を建設するから、それができるまで待っていろ、その間の飲食、宿泊コストはおまえらが負担しろ、などとシュラクサの市民に告げたなら、彼らは唖然とし、次の瞬間には計画のアバウトぶりにあきれ果て、無能な皇帝に愛想を尽かしたのではなかろうか。そのような計画が当初からのものだったと考えるのと比べれば、皇帝一行をイタリアに送り届けた艦隊が何らかの事情で一足先に東方に帰還を余儀なくされ、輸送手段を失った皇帝がシチリアに足止めされることになった、と考える方がまだ蓋然性が高いように思われる。この場合、皇帝のシチリア逗留は当初から彼が望んで引き起こしたわけではなく、予想外の事態が出来した結果に過ぎないことになる。もしもそうであるならば、彼は、東方から再び艦隊が戻ってくるのと同時に作戦行動を再開させるつもりであった、と見るべきであろう。艦隊をゼロから建設し、艤装を施し、乗員に鍛練を積ませてからおもむろに遠征に乗り出す、といった悠長な仕事ぶりは、本来、臨戦態勢にあったはずの皇帝にはそぐわないように思えてならないのである。

 次に、皇帝の努力の結晶とも言うべきシチリア艦隊が次の時代にその力を存分に発揮する、というテーゼの検証に移ろう。先にも述べたように、小林氏の著書には艦隊税の徴収に関する記述は見られたが、どのような形で艦隊が建造されたのか、造船に必要な木材はどのようにして調達され、造船施設はどこでどのように整備されていたのか、船員はどのようにしてリクルートされたのか、といった具体的情報は一切、提示されてはいない。史料がないのだから当然である。それゆえ、極端なことを言えば、艦隊税の名目で集められた税が本当に艦隊建造に用いられたのかどうかすら、本当のことは分からない、というのが正直なところだろう。小林氏が指摘するように、7世紀後半から北アフリカにおいてアラブ軍が沿海ルートではなく内陸のそれを選ぶようになったことがビザンツ艦隊の脅威を回避するためであったという説が受け入れられるとしても、そうしたビザンツ艦隊の活発な活動をコンスタンス2世の艦隊税導入の成果と結びつけるのはやや性急なように思われる。当のビザンツ艦隊がどこでどのようにして整備されたかは依然として定かではないからである。もちろん、その艦隊が艦隊税を元手としてシチリアで建造された可能性はある。しかし、それはひとつの仮説にすぎず、所与の事実として受け入れるのは難しい。

 同様の問題は第7章「守勢から攻勢へ」の議論にも当てはまる。670年代以降、ビザンツ艦隊は勢いを盛り返し、672/73年のシュライオン沖の海戦の勝利に見られるように目覚ましい活躍を示すことになった。その最大の要因として、著者の小林氏は、コンスタンス2世がシチリアで建造に着手した「シチリア艦隊が(すべてではないだろうが)シチリアから東部地中海域に進出し、アラブとの戦いに投入された」(174頁)ためである、という極めて注目すべきテーゼを提示している。「シチリア艦隊=救世主」説と評者が呼ぶのはこれである。このテーゼは確かに魅力的ではあるが、それを真実と信じるためにはさらなる検証が必要なのではなかろうか。まず、史料的に確認できることを挙げてみよう。①シチリアに拠点を定めたコンスタンス2世は西方属州に艦隊税を課した(その税で本当に艦隊が建造されたかは厳密に言えば定かではないが、建造された、と仮定しておく)。②670年代以降、ビザンツ艦隊が攻勢に転じ、目覚ましい活躍を示すようになる。史料的に確認できるのはこの2点であり、相当な戦力を持ったシチリア艦隊が東方海域に回航されたとか、シュライオン沖の海戦でビザンツ艦隊の主力を占めたのがシチリアで建造された軍船だった、とかいった具体的な情報は管見の限りではないようである。では、どうしてビザンツ艦隊の主力を成したのがシチリアからの艦船だったと考える必要があるのか、というと、著者は「エーゲ海までアラブ艦隊が容易に進出できる状況において、東方領域で艦隊が増強されたとは考えにくい」(174頁)ことをその根拠として挙げている。正直に言うと、評者は、この推論は極めて根拠が脆弱であると思う。この時期のアラブ艦隊はエーゲ海の内部に安全な寄港地を確保してはいなかったから、この海域内で活動できる期間は限定されていたのは明白である。仮にアラブ艦隊がマルマラ海にまで侵入することがあったとしても、そうした脅威は一時的なものであり、造船事業を含む広範な経済活動を長期にわたって麻痺させるようなものではなかったのではなかろうか。9世紀前半から10世紀半ばまでクレタ島がアラブ人に占領されていた時代、エーゲ海の島嶼部やギリシア、小アジア西岸部はクレタのアラブ海賊の襲撃にさらされ、その頻度や密度は7世紀のアラブ艦隊の襲来の比ではなかったと思われるのだが、そうした状況においてもビザンツ帝国は強力な艦隊を建造し、数次にわたりクレタ再征服を目指した大規模な艦隊遠征を実行に移している。それができたのは9-10世紀にはテマ制を初めとした防衛システムがすでに整備されたいたからであり、7世紀にはそうした態勢にはなかった、という反論は成り立つまい。コンスタンス2世がシチリアでできたことが、同時代のコンスタンティノープルにいた皇帝にできなかったとは思えないからである。
 評者が「シチリア艦隊=救世主」説よりもむしろビザンツ艦隊が東方地域で再建されたとする見解(「艦隊自前再建」説とでも呼ぶべきか)に傾くもうひとつの理由は、シチリアから回航されてきた艦隊が不慣れな海域ですぐに完璧なパフォーマンスを発揮できたのかいささか疑問に思うからでもある。言うまでもなく軍船を動かしていたのは生身の人間である。あたかも図上演習のように地図の上で駒を瞬時に動かすように空間移動させるわけにはいかず、新天地で最初から最高の働きができるとは限らない。想像してみよう。西方属州の血税を結集し、同地の人々が必死の思いで軍船を建造し、乗員も集めて艦隊を編成したとき、彼らの多くは、自分の身の回りの人々や生まれ育った故郷がこれで守ることができると思ったのではなかろうか。だとしたら、中央政府のお偉方の一声で東方海域に回航することを命じられた艦隊乗組員の感情はどのようなものであっただろう。家族や親族と離れて見知らぬ海へと進むように命じられたとき、彼らに十分な士気を保たせることはできただろうか。さらに、いざ東方を目指して出撃したとしても、移動する艦隊には補給も休養も必要である。航路上に寄港地を定め、エーゲ海に入って作戦行動を開始すれば、各地の島嶼や沿海部の海軍基地に入港して補給を行い、船体のメインテナンスを受ける必要もあったであろう。木造船の寿命は短い。乗員も常に補充が必要だ。そのたびにまるで輸血を施すようにシチリアから新しい艦隊がやってきたのだろうか。むしろ、長期にわたって持続的にビザンツ艦隊の活動が持続されたこと自体、エーゲ海島嶼部と小アジア・バルカン沿岸地域にそれを支えることを可能にする基盤が存在していたと見るべきではないだろうか。そうであれば、この地域に造船能力だけが欠けていた、と推定するのは理屈に合わないことになる。乗員の供給源としても、多島海で漁労や沿海交易に勤しみ、ときには海賊に変貌して、エーゲ海を自分の庭のように知悉する島嶼部や小アジア西岸、ギリシアの海の男たちの存在を忘れてはなるまい。海と共に暮らした彼らの伝統は紀元前に遡り、途切れることなく現代にまで至っているのである。
 もちろん、以上の議論も史料上の裏書きを欠く以上、仮説の域を出ないことは小林氏の所論と変わるところはない。問題はどちらの議論の方が蓋然性が高いと思われるかにかかっている。評者としては、670年代以降にビザンツ艦隊が盛り返したことに関して、ことさらにコンスタンス2世の個人的な功績を顕彰する必要はないのではないか、という立場である。東方海域でのビザンツ軍の態勢挽回にシチリア艦隊の貢献が仮にあったとしても、それは一時的なカンフル剤としての効果に過ぎず、より重要なのは、同海域において長期にわたり効率的な艦隊の維持と運用を可能にした現地システム(それには新たな軍船建造と乗員補充も含まれる)の構築の方であったと評者は考えている。長年のつきあいを経て思うのだが、著者の小林氏はひらめきの人なのだろう。そこから繰り出される仮説は大胆で斬新である。ただやや詰めが甘いところも散見される。ひとつの事象に対する解釈が複数ある場合、自分の解釈がベストであり、他の解釈がなぜ成り立たないかを説明することが求められるが、小林氏の場合には、スパッと正解とされるテーゼが提供されると、それ以外の可能性を考え、そうした可能性が成り立たないことを丹念に検証していく作業が不十分な場合が少なくない。そのため、氏の所説について、「そのように言えるかもしれないが、もっと別の解釈の余地もあるんじゃないの」という読後感を得る場合がままあるのである。それから、まったくの蛇足だが、本書の、196頁に「ミジジオスの息子のヨハネスは、彼のものと思われる印章がシチリアで発見されているので、シチリアにいたことは確実である」と著者が記していることにも一言触れておこう。ビザンツの鉛印章は書状や発給した文書に付されるものだから、印章が発見された場所に当人がいたとは限らないのは、印章学を囓ったことのある学者なら誰でも知っている常識である。

 最後に取り上げるのは、ローマ帝国の「後継者」をめぐる議論である。最初に言っておくが、評者はこうした「文明論」に類するスケールの大きな議論は個人的には苦手である。この手の議論は学問的に厳密な検証には向かないのも理由のひとつだ。そうした意味で以下の評者の見解はピントが外れたものかと危惧されるのだが、門外漢の放言としてお付き合い願いたい。
 本書の第9章において小林氏は、アラブ軍の首都攻撃を退けたビザンツがローマ帝国の「後継者」としての地位を不動のものとしたのの対し、ビザンツを打倒することのできなかったアラブ勢力はローマ帝国の「後継者」たり得ず、その一方で、自らが征服したササン朝ペルシアに対してはその歴史を自己の伝統の一部として完全に取り込むことができていたことを対比的に論じている。仮にそのような対照性が認められるとして、その場合には、後代にいたって振り返ったときにそうした違いが認められた、という話と、同時代の、たとえばここで問題となっている7世紀の人間がそうした違いを認識していたか、という話は切り離して論じる必要があるだろう。たとえば、本書224頁以下で著者はササン朝のフスラヴ1世がイスラーム世界において高い評価を受けていたことを語る際、註76でその情報元として掲げられているのは11世紀セルジューク朝の宰相ニザーム・アルムルクが著わした『統治の書』であるから、問題となっているは前者のそれと見るべきだろう。ニザーム・アルムルクはペルシア人だったから、自民族の偉大な過去に特別な思い入れがあったことはその点で不思議なことではあるまい。気になるのは、そうしたササン朝ペルシアへの肯定的評価が非ペルシア系のムスリムにも、どの程度、共有されていたのかという点である。こうした方面には評者はまったく不案内であるため、具体的な事例を挙げた説明が得られれば有り難いところである。
 これに対して、同じく著者が第9章で展開している、ビザンツ皇帝の「地上における神の代理人」「キリスト教世界の守護者」というイメージは、対アラブ戦の敗北が続くなかで大きく傷ついたが、654年のアラブ軍のコンスタンティノープル攻囲失敗以降、大きく転換し、「神に守られる皇帝」というイメージが確認された、という議論は、基本的には事件の同時代人の認識が焦点になっているように思われる。この手の議論で難しいことは、この種の理念や崇高なスローガンが、どの程度、同時代人に真剣に受け止められていたのか、それともある種のお題目として、各人の行動を正当化するための方便に利用されていただけなのか、区別することが往々にして困難なことである。たとえば、著者は221頁において非カルケドン派に対して妥協的な態度を取る皇帝に対する一部の聖職者の批判が、対アラブ戦が敗北続きであることも相まって、属州総督や軍隊の不穏な動きを惹起させたことを語っている。だが、皇帝に対するこの種の属州総督や軍隊の反抗的な態度は、無理に「キリスト教世界の守護者」イメージが損なわれたから、などと言わずとも、相次ぐ敗戦によって軍事的統率者としての皇帝の権威が失墜したため、と考えても何の問題もないだろう。もちろん、反乱した側が自己の立場を正当化するため、打倒すべき相手が異端であるとか、「キリスト教世界の守護者」として適任ではない、などと言い立てることはあり得る。しかし、その場合には、彼らが蜂起した本当の理由が、皇帝が「キリスト教世界の守護者」に相応しくなかったからなのか、それとも他の理由(自らの野心の実現のためであれ、地域の政治的独立の達成であれ、あるいはそれ以外であれ)によるものなのか、しっかり見極める必要がある。多くの場合、人間は理念のためだけに生命を危険にさらすことはできない、それに踏み切るのは相応の実利が伴う場合に限られる、というまったく即物的な感覚を評者は有している。ビザンツではどうだったのだろうか。

 気になった点を書き連ねた結果、思いのほか長文となった。さすがにくたびれてきたのでこのあたりで筆を置くことにしよう。冒頭に記したように、この小文は評者の腹にたまったガスを吐き出したようなものである。吐き出してはみたものの、それで気分が晴れたかと言えばそれほどでもない。いずれにしても、これを機に特段、著者の反論を求めたり、広く学界 に論争を引き起こしたりするものではないことを申し添えておく。     
 (2020年3月22日記)
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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