研究ブログ

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前期の最後に

 ようやく前期の遠隔授業も終わりがみえてきました。前期の最後となる今回は、学生諸君ではなく、世間一般に問いかけたいと思います。

  直近の【3288】でも「#椿井文書 の絵図と城館発掘結果が合致するのは、作成年月日が戦後で、作者は研究職の誰かだから」と述べるように、素人さんたちの主張はあまりに支離滅裂なので私の立場が揺らぐ心配はありませんでしたが、正直なところをいうと、ごく一部の人が素人さんたちの発言を真に受けている様子は少しだけ気にはなっていました。幸い私の場合は、過去に執筆した論文がいつでも証明してくれるので黙殺すれば済むのですが、そうではない人の場合を想像すると、誹謗中傷が拡大する当事者の気持ちが少しだけわかって恐怖を感じました。そして、これが人を死に追いやるのかと思うと怒りも感じました。

 しかし、研究の時間を割いてまでして、素人さんたちの相手をするのは明らかに無駄です。ところが、このタイミングで史料閲覧機関が悉く閉鎖したため、日常の研究業務が滞り始めました。これも何かの運命だと思って、空いた時間で素人さんたちの発言を分析してみようと軽い気持ちでこのブログを始めてみました。そうしたところ、SNSでの誹謗中傷が社会問題として話題になってきたので、歴史学者なりにこの問題を分析するのもそれなりに意味があるのではないかと思い始めてきました。そこで、学生を相手にゼミの前後や飲み会などでしているような話を積み重ねつつも、せっかくの機会なので世間に問うことも視野に入れてみました。

 前々回も述べましたように、中傷とは「無実のことを言って他人の名誉を傷つけること」です。根拠がない時点で、この行為自体はとても恥ずかしいものなのですが、とくにSNSが発達してから、こうした問題は世の中に蔓延しています。その理由の一つは、匿名で発信できるということにあるかと思います。そしてもう一つの理由は、自らの姿を鏡で客観的にみることができないためでしょう。

 匿名ゆえの自由な発言にはそれなりの意義があることは認めます。また、そういう世界があるおかげで、実名で勝負するという研究者の世界にあるプロ意識の存在は際立ちます。では、自らの姿を鏡でみせるにはどうしたらよいか思案しました。それへの回答の一つが、この史料編の作成です。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200722.pdf

 我々歴史学者は、文字を扱うプロです。文字を鉄パイプ程度の武器にしかできない素人さんたちとは異なり、私たちは文字のあらゆる活用方法を知っています。そこで、素人さんたちの姿を映し出す鏡として史料編を作成してみた次第です。素人さん以外の方々も、この史料編をみて誹謗中傷になりかねない批判はやめておいたほうがよいと気付いていただければ幸いです。そして鏡を作成したら、次はそれの見せかたが課題となってきます。

 素人さんは私の研究について、【2025】では「馬部隆弘氏の新規性は大阪府で椿井文書かもしれない文書類を見つけた点で、滋賀県や京都府では戦前戦後と自治体史では史実ではない事が書いてある #椿井文書 だと書かれていたんだけどな」とおっしゃいます。椿井文書の存在は広く知られているので、私の研究には新規性があまりないといいたいようです。【2546】でも「椿井文書自体は昔から有名だった」、【2790】でも「畿内でよく知られた椿井文書が新しい発見かの様に語られる先行研究軽視」などとおっしゃっています。では、何が椿井文書であるのか、克明にした研究がかつてあったのでしょうか。素人さんたちの言い分は、病気の存在を知っていることと病気の治療方法を知っていることを同一視しているようなものです。

 問題の本質は、椿井文書の存在が知られているのになぜ使われてしまうのかというところにあるのですが、それすら理解できていないようです。手前味噌になりますが、私の研究はそのカラクリを明らかにした点に価値があると自負しています。ですから、これから我々が進むべき方向や進んではいけない方向を示すことができたのではないでしょうか。

 それと同様にこのブログでも、事実に基づいた私の発言が、曲解されて誹謗中傷となっていくカラクリを分析してきました。そのカラクリを共有するだけでも、世の中が間違った方向に進むのを多少なりとも抑止できるのではないかと考えています。これが、歴史学者としての私なりの鏡の見せかたです。

 素人さんの発言は、いつも同じ内容の繰り返しで単調になってきました。史料的にも十分なサンプルが集まりましたので、そろそろ自身の姿をみてもらうという実験に移ってもよいかと思っています。ご協力いただける方は、このブログをツイッターで紹介していただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。

 素人さんは【2892】で「馬部隆弘氏は主張するけれど、出典に書かれていない記載が根拠だから立証不可能。お年召しの方ばかりになったけれど、穂谷村の人達には謝罪するべきだと思うんだよ。」とおっしゃいます。誤ったことを記載しているので、謝罪しろというのです。【2919】でも「書いていないのに書いてある事にして「裁判記録を椿井政隆に頼んで改竄してもらった」と言われても、旧穂谷村の人達は困ると思うんだよ。この点は旧穂谷村と枚方市へ謝罪した方が良いと思う。」とおっしゃいます。この件については、素人さんたちがあれこれ手を加えたうえで、私が史料を改竄したというありもしない事実を創り出したことは、すでにこのブログで説明しました。

 ですから、【2964】で「この件は論文を修正した上で、旧穂谷村と枚方市へ謝罪するべきだと思う」とおっしゃいますが、『この件はツイッターを修正した上で、私と周辺関係者へ謝罪するべきだと思う』とそっくりそのままお返しします。素人さんたちの発言は、端からみれば誰の目にも明らかな誹謗中傷ですので、間違ったことを言ったら謝罪すべきだというご自身の発言に責任を持ってほしいものです。

 素人さんは、【1550】で「歴史学界は、」「みんなで謝罪に行くか、きちんとした訂正検証論文を書かないといけないのでは?書きっぱなしは無責任だと思う」とおっしゃいます。私の研究不正は、私だけの問題でなく、私の研究不正を放置している歴史学界全体の問題なので、皆で訂正するなり再検証するなりの必要があるとのことです。これも、そっくりそのまま『ツイッター上の方々は、みんなで謝罪に行くか、きちんとした訂正検証ツイートを書かないといけないのでは?書きっぱなしは無責任だと思う』とお返ししておきます。素人さんたちの不正は、ツイッターの世界にいる皆さんが放置した責任かもしれません。ですから、素人さんたちの改竄について是非とも再検証をしてください。その素材として、史料編をご活用いただければ幸いです。

 【1551】では「謝罪するべきでは。でないと、予算も、学問の自由も、無くなってしまうよ。これって、歴史学者が嘘の史料を作った上で穂谷村が裁判資料を改竄したと主張したわけでしょ?」とおっしゃいます。歴史学の自浄作用がなくなれば、予算も学問の自由もなくなってしまうといいたいようです。であるならば、自浄作用がなくなれば、ツイッターの世界の自由もなくなってしまうかもしれませんね。

 これまで、素人さんたちに絡まれた方々も多くいらっしゃいます。ですからツイッター上では、素人さんたちのことをみてみぬふりをする方たちばかりです。素人さんについて「そういう行動する時点でアレさが際立ってるので、早く病院行ってください」とおっしゃる方もいるので、素人さんたちの存在や異常な行動については広く知られているようです。その方々はすでにお気づきだと思いますが、素人さんとは議論がどうしてもかみ合いません。なぜなら話の根拠がないからです。しかし、これ以降は、史料編という共通の土台のうえで議論が可能です。このように史料を共有して議論を深めようとするのも、歴史学の発想です。

 なにも、素人さんたちと論戦をしてほしいと言っているわけではありません。そんなことをしても、素人さんたちのことですから、史料編の内容はなかったことにして自身が誹謗中傷されたと思い込んでしまうだけです。そうなると、改めて根拠のない反論をしてくるはずなので、不毛な議論を繰り返すのみで問題の解決にはつながりません。この史料編を読んで何を思うか、リンクを貼って少しずつでもいいのでご意見や感想をツイートしてくださるだけで結構です。

 前々回も述べたように、素人さんは「批判と誹謗中傷の境界」をとっぱらってツイートしています。しかし本来は、その一線を越えていないかどうか立ち止まって考えることこそが重要です。その一線が史料編のコメントのなかのどこなのか、みんなが少しずつ考えるだけでも、誹謗中傷が発生するカラクリを共有できるのではないでしょうか。それだけでも大きな前進だと思います。よろしくお願いします。

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新たな時期区分案について

 先日、このブログでもお伝えしたように、素人さんたちの動きはしばらく安定期が続いていましたが、6月末から支離滅裂期間に入りました。素人さんたちが七夕に関する私の所説に物申したいのは以前からも述べてきた通りで、予想通りそれに関するツイートが連発されました。そして七夕を過ぎると、嘘のように静かになりました。なんともわかりやすい方々です。ですので、時期区分を新たに追加したいと思います。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200718.pdf

 6月14日更新のこのブログでは、第10期まで時期区分していましたが、新たに第11期と第12期を加えることとします。

第1期2017年8月14日~2019年5月9日(【1】~【26】)634日で26ツイート
第2期2019年5月10日~2019年5月19日(【27】~【180】)10日で154ツイート
第3期2019年5月20日~2019年5月29日(【181】~【536】)10日で356ツイート
第4期2019年5月30日~2019年7月12日(【537】~【1025】)44日で489ツイート
第5期2019年7月13日~2019年9月23日(【1026】~【1047】)73日で22ツイート
第6期2019年9月24日~2020年3月18日(【1048】~【1054】)177日で7ツイート
第7期2020年3月19日~2020年3月26日(【1055】~【1287】)8日で233ツイート
第8期2020年3月27日~2020年4月5日(【1288】~【1448】)10日で161ツイート
第9期2020年4月6日~2020年5月25日(【1449】~【2602】50日で1154ツイート
第10期2020年5月26日~2020年6月28日(【2603】~【2922】)34日で320ツイート
第11期2020年6月29日~2020年7月7日(【2923】~【3229】)9日で307ツイート
第12期2020年7月8日~2020年7月17日現在(【3230】~【3285】)10日で56ツイート

 時期区分の根拠は次の通りです。(少数点以下第3位を四捨五入)

第1期 1日あたり0.04ツイート 稀につぶやき始める。
第2期 1日あたり15.40ツイート つぶやきが急増する。
第3期 1日あたり35.60ツイート さらにつぶやきが増加する。
第4期 1日あたり11.11ツイート つぶやかない日が出始める。
第5期 1日あたり0.30ツイート 連日つぶやくことはなくなる。
第6期 1日あたり0.04ツイート ほとんどつぶやくことがなくなる。
第7期 1日あたり29.13ツイート 突如として激しくつぶやき始める。
第8期 1日あたり16.10ツイート つぶやく数がおちつく。
第9期 1日あたり23.08ツイート 再度つぶやく数が急増する。
第10期 1日あたり9.41ツイート つぶやく数が改めておちつく。
第11期 1日あたり34.11ツイート つぶやく数が激増する。
第12期 1日あたり5.60ツイート つぶやく数が激減する。

 さて、第12期はいつまで続くのでしょうか。私は、さほど長くは続かないと読んでいます。

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無知が招く誹謗中傷

 前々回は、『河内鑑名所記』の原本に記された「はたほこ大明神」というくずし字を読めない素人さんが、その文字をトリミングして消去した事例を紹介しました。そして、その画像をもとに、『河内鑑名所記』の原本には「はたほこ大明神」とは記されていないと主張し、私の揚げ足をとろうとするのです。また、前回にみた事例では、私が触れてもいない西井長和氏所蔵史料を引用したことにし、疑わしい史料を用いていると批判していました。前回以降のわずかな期間にも、【3267】で「馬部隆弘氏は式内社片野神社は本当は星田神社の交野大明神と、片山長三の実弟・西井長和の「星田懐古誌」p.28-29,昭55掲載の極楽寺神名帳を根拠に云われる」と述べているように、素人さんたちの発言は無限ループで読者を疲弊させます。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200717.pdf

 誤解とはいえ、それを根拠に悪意をもって研究不正となじってくるわけなので、客観的にみれば明らかな誹謗中傷です。最近は、SNSでの誹謗中傷が話題になっていますが、研究者も他人事ではないといえるでしょう。そこで私は、誹謗中傷と受け止めてただ泣き寝入りするのではなく、研究者として積極的に対処しようと考えました。【2048】でも指摘されているように、「ネットで誹謗中傷されていると思うような人だと、新しいものは生まれないはずです」から。

 その試みが、素人さんたちの発言を誰しもが自由に見ることのできる史料として残したうえで、その内容を分析するこのブログです。史料としてみることで、少し距離を置いて冷静に読むことができるようになり、誹謗中傷という表層から掘り下げて、問題の核心にも少しずつ迫ることができるようになりました。この分析結果が、SNSでの誹謗中傷を少しでも減らす一助となればと思っています。

 このように視角を変えることで、新たに見えてきたことをいくつか紹介しておきます。まずは、通常の歴史学とは異なる新たな分析方法についてです。2019年に私への批判が高揚しているところに、外的インパクトが加わると素人さんたちは支離滅裂な発言を始めました。その仮説をより確実なものとするには、実験を繰り返して、同じような結果になるか検証しなければなりませんでした。そこで、2020年3月の新書発刊直後に、素人さんたちを対象とした論文を公表しました。それによって得られた実験結果は、まさに私の期待通りでした。このように、通常の歴史学にはない実験という方法が目新しい点といえるでしょう。

 しかも、この実験の結果、期待していた発言もいくつか得ることができました。私の論文について、【2091】で「馬部氏は文書で反論したから、それでいいのでは?うちも反論するだけです。」とおっしゃるのです。知識レベルに雲泥の差があることを自覚せず、私のことを対等だと認識していることがこれでわかりました。だから臆することなく発言するわけです。勘違いしているようですが、私は「反論」しているわけでなく、たしなめているんです。

 このブログで最初に述べたように、「金銭的・時間的余力」があるため、ついつい偽史に入れ込んでしまう点に私は北河内の地域性を感じています。これが意味するところは、日常生活に必ずしも必要とされない歴史をわざわざ勉強したり、それによって自らの知識レベルが高いと錯覚したりする傾向にあるということです。もちろん皆が皆というわけではなく、こういう傾向にある人が多いという意味ですが、多いだけに連鎖反応も起こりやすいです。この傾向は、かつて枚方市で窓口業務をしていたときに市民の方々から得た発言で、身にしみて感じていました。しかし、史料的根拠を明示できないため、この点については論文では印象論に留まっていました。そのため、【2051】で「地域性なのか、学者に異常に冷淡かも。相手にしてない。」ともおっしゃるように、学者を学者と思わない地域性を文字に残してくれたことは大変貴重な成果といえます。学者の意見を軽視したうえで、利益獲得や宣伝のためには偽史だろうが何だろうが手段を選ばずに用いるというしたたかな地域性についても、素人さんたち自らがエビデンスを残し続けてくれています。

 臆することがない理由は他にもあります。【2677】で、「批判と誹謗中傷の境界、うちらにはやはりわからないなぁ。法曹家の意見はうちらの直観とかなり違うし。」ともおっしゃるのです。「批判と誹謗中傷の境界」がないという一言から、無責任な発言が続くのも思わず納得してしまいました。

 納得した理由は次の通りです。中傷とは、『広辞苑』によると「無実のことを言って他人の名誉を傷つけること」です。批判とは、いうまでもなく「事実」に基づいて行うものです。我々研究者は、批判が誹謗中傷にならないように、その発言の根拠が「無実」ではなく、「事実」であることを慎重に確認したうえでことに及びます。批判が誹謗中傷になった瞬間、無知をさらすことになってしまい、研究者として致命傷を負うからです。それに対して、無知をさらしても匿名なので特に恥ずかしくない素人さんは、「事実」か「無実」かを特に慎重に判断する必要はありません。それに伴い、「批判と誹謗中傷の境界」もとっぱらってしまうわけです。

 【3116】で「好き放題書くなら、ブログでいいのでは?うちはもう好き放題で書いてるべ。」といい、続く【3117】では「他人に有料で文章を販売するのはとても責任があるもんね。」とおっしゃいます。無料のSNSだったら、無責任に誹謗中傷をしてもよいというお考えなのでしょうが、そんなこと許されるわけありません。公言するからにはそれなりの責任が生じます。【3117】では続けて、「電子書籍ですら国立国会図書館で保管される。子々孫々に(うちは子供いなくとも、うちの家系は残るわけで)恥をかかせることはできないよ。」とおっしゃっています。このブログも、史料集を完成させることに目的の一つがありますので、最終的には編集しなおして冊子にするつもりです。つまり、国立国会図書館に納本されるわけなんですが、子々孫々に恥をかかせることがなければよいですね。

 皆さんも、卒論のなかで先行研究を批判することになるはずです。素人さんの事例をみてもわかるように、無知に基づく批判は誹謗中傷になりかねません。また、論文での批判が誹謗中傷になった瞬間、無知をさらしてしまうことになります。これらのことを肝に銘じておいてください。

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文末脚注も大事な情報

 論文では、あらゆる史料を駆使して議論を構築していきます。いうまでもないことですが、その典拠を明示しなければ、議論の客観性は担保できません。とはいっても、引用史料の典拠を本文で逐一記すと非常に煩雑になります。そこで論文では、史料の典拠を文末脚注に整理することで、円滑に議論を組み立てていきます。

 逆にその論文を検証するのであれば、脚注にある史料に逐一あたっていくという作業が必要になります。今回はそれを怠るとどのような結果になるのか、いつもの素人さんたちにご登場いただいて説明しておきます。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200711.pdf

 私は『由緒・偽文書と地域社会』442頁で、次のように述べています。

「交野社」を蘭阪が「カタノ大明神」と呼んでいることと、国内神名帳をもとに作成した勧請神名帳には「交野大明神」がよくみられるという一致に注目したい。勧請神名帳は広く流布していることから、蘭阪もこの手の史料を目にしていた可能性が高い。つまり、延喜式神名帳との連続性も踏まえているのである。

 延長5年(927)にまとめられた「延喜式神名帳」には、全国各地の主要な神社がリストアップされており、そのなかに交野郡内の神社として「片野神社」の名があげられています。この神社の所在は、江戸時代になると忘れ去られていました。そこで並河誠所という人物が、交野郡坂村にある一宮は郡内で氏子が最も多い神社なので、これがかつての片野神社だと主張しました。それに対して三浦蘭阪という人物は、交野郡星田村にある「交野社」が片野神社に該当すると批判します。ところが現在は、並河誠所の説が通説となっています。

 並河誠所の主張は、後世の氏子数という極めて薄弱な根拠しかないのに対し、三浦蘭阪の主張には史料的な根拠が数々あります。そのため、どうみても三浦蘭阪の説のほうに軍配があがると私は判断しました。拙著では、三浦蘭阪が根拠としたと思われる史料を逐一検証していますが、上掲の一文はその一部にあたります。

 ここで私が注目したのは、星田村の「交野社」のことを三浦蘭阪が「カタノ大明神」と称していることです。延喜式神名帳と同じ時代に、国単位で主要な神社をリストアップした国内神名帳と呼ばれるものがあります。当然のことながら、延喜式神名帳と国内神名帳は重複する箇所が多いはずですが、河内国の国内神名帳は残念ながら残っていません。ただし国内神名帳は、中世になると各地の神前仏前などでの行事で使われる勧請神名帳に転用されます。そのため、国内神名帳の内容は、少しずつ形を変えつつも広く世の中に伝わっています。したがって、勧請神名帳は延喜式神名帳をベースとしながらも、少しずつ手が加わったものと評価できます。その勧請神名帳にしばしばみられるのが、「交野大明神」という呼称なのです。つまり、三浦蘭阪はいずれかの勧請神名帳を目にしている可能性が極めて高く、かつその内容と延喜式神名帳の間の連続性も知っているということになります。

 私のこの解釈に対して、素人さんたちは西井長和『星田懐古誌』上巻(交野詩和会、1979年)に掲載される次の写真を画像として貼り付けて、たびたび批判を加えてきます。

 

 

 この画像は、西井長和氏が所蔵される天文4年(1535)の勧請神名帳の一部です。個人が所蔵していることからもわかるように、勧請神名帳は比較的広く流布していました。この画像を貼り付けて【1046】では、「西井長和の星田懐古誌と馬部隆弘氏の由緒・偽文書と地域社会449頁を時系列にすると、馬部氏が引いた西井所蔵1535年神名帳の交野大明神書き込みの年代をいつとするかによって三浦蘭阪1834年の交野大明神が初出にもなる。原本何処だろう?」とおっしゃいます。西井氏所蔵の勧請神名帳を引用して私は議論しているけれども、画像によると「交野大明神」は行間への書き込みなので、天文4年から時期が下る可能性もあるといいたいようです。

 【1054】でも「#馬部隆弘 氏の由緒・偽文書と地域社会の片山長三の弟・西井長和所蔵の天文四年(一五三五)奥書の神明帳の交野大明神=星田神社=河内国交野郡式内社片野神社説はこの通り本文に書き添えられた物で真贋不明ではないかしら」ともおっしゃっています。行間への書き込みなので、この情報は「真贋不明」らしいです。【2672】でも、「馬部氏が片埜神社は星田神社という根拠の、片山長三の弟・西井長和所蔵(現在行方不明)の天文四年(一五三五)奥書の神明帳の交野大明神は、ちょっと記載が小さすぎて、後から付け足したものに見えるけどどうなんだろう?」とおっしゃっています。

 西井氏ご所蔵のものは、数ある勧請神名帳のうちの一つに過ぎません。ですから、他の勧請神名帳と比較すれば、写し忘れがあったから後で行間に書き足したことは明白です。しつこいようですが、【2716】でも「馬部氏も引く1941年西井長和「星田懐古録」(1979)28頁「ここに掲げた写真は編者所蔵の天文四乙未年の奥書のある神明帳である。」と同様の指摘をしているので引用しておきます。何がいいたいのかというと、素人さんは上掲拙著の一文に付けている文末脚注を明らかに見落としているということです。その脚注には、次のように史料の典拠を明記しています。

「恒例修正月勧請神名帳」・「花鎮奉読神名帳」(三橋健『国内神名帳の研究』資料編、おうふう、一九九九年)。勧請神名帳については、三橋健「研究の意義、方法及び範囲」(同『国内神名帳の研究』論考編、おうふう、一九九九年)。

 このように、私は西井さんのご著書も引用していませんし、ましてや西井さんご所蔵の勧請神名帳も引用していません。私が引用している勧請神名帳には、行間ではなく本文にしっかり「交野大明神」と記されています。

 最近になって素人さんたちは、勧請神名帳が西井さんご所蔵の一点物というわけではなく、世の中に流布しているものだとようやく気付いたようです。すると、あの手この手で主張を変えてきます。【2718】では「河内国の観心寺恒例修正月勸請神名帳」「は馬部隆弘氏が引いた西井長和「星田懐古録」(1979)28頁の神名帳とほぼ同じ。馬部氏はこれを式内社が並べられた神名帳と勘違いされたのでは?」とおっしゃっています。勧請神名帳に並ぶ神社名と延喜式神名帳に並ぶ式内社が完全に一致しないことは、「片野神社」から「交野大明神」へと呼称が変化しているように、私だって把握しています。このように中世的な変化を遂げつつも、式内社の痕跡を残したものが勧請神名帳なのです。こうした私の理解は、上掲の拙著の一文を読んでいただければわかるかと思います。むしろ、「勘違い」をしているのは、勧請神名帳が世の中に流布していることを知ってもなお、私が西井さんご所蔵の勧請神名帳を引用していると主張する素人さんですよね。

 【2731】でも「河内国の観心寺恒例修正月勸請神名帳」「は式内社を列挙したわけじゃない。」とおっしゃいますが、そんなことは百も承知です。さらに別の素人さんが【2741】で、「馬部さんは「式内社」が列挙された神名帳だと思ってたのね、「交野大明神」が掲載された、河内國の歓心寺の正月の勧請の神名帳を。それで星田神社が式内社片野神社だと思い、片埜神社を攻撃した。」とおっしゃいます。しれっと、西井さんのものから観心寺の勧請神名帳にすりかえたうえで、これは式内社を列挙したものではないという主張に重点を移すわけです。連携プレーを駆使しながら、必死になって主張を軌道修正している様子が伝わってきます。

 他の研究者はどうかわかりませんが、私の場合は「はじめに」と「おわりに」と脚注をみたうえで論文を読み始めます。主張点とともに、どのような素材を扱っているのかをあらかじめ把握しておくと、手っ取り早く理解ができるからです。ゼミ発表の様子をみていると、脚注をしっかりみていない人がいるようですが、実は脚注も論文のなかの重要な要素であることを理解していただけたかと思います。

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くずし字は読めたほうがよい

 活字史料が充実している分野では、くずし字を読む機会は少ないです。とはいっても、くずし字の読解はやはり日本史を研究するうえでの基礎技能なので、できるだけ身につけておいたほうが無難です。今回は、簡単なくずし字すら読めない素人さんが実際におかしてしまった過ちを、反面教師として紹介します。

 大阪府交野市にある機物神社は、七夕伝説の織姫を祀る神社となりつつありますが、これは近世中期に始まる由緒が徐々に拡大していった結果です。そのことを示すため、私は『由緒・偽文書と地域社会』253頁で、近世前期の機物神社について次のように指摘しました。

機物神社の初見史料は延宝七年(一六七九)の『河内鑑名所記』で、そこでは「はたほこ大明神」とされる。『日本国語大辞典』(小学館)によると、はたほこ(幢)とは、「小旗を上部につけたほこ。または、ほこを上部につけた旗竿」で「朝儀や法会の儀仗として用いる」ものである。このように、本来は織女との関係性を窺わせる神社ではなかった。

 この私の指摘に対しても、素人さんらしい意見が次々に提示されています。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200709.pdf

 例えば【598】では、「はたほこの旗は「織物」だから、天棚機比売大神が祭神でも何も矛盾がない」とおっしゃいます。素人さんの思い込みの激しさはもうおわかりでしょうが、こういうのを拡大解釈や屁理屈といいます。ホコの先に織物がぶら下がっているから、織姫を祀っているはずだというのは短絡的に過ぎます。素人さんは、物干し竿にタオルがぶら下がっているだけで、織姫を思い出すのでしょうか。

 当初は、ホコの先に織物がぶら下がっていると述べていましたが、【1179】になると「はたほこもまた「織物」」とさらに解釈が拡大します。そして【1924】でも「機織神社の件も馬部隆弘氏の指摘は変で、彼の言う通り「はたほこ」ならそれも織物です」、【1927】でも「機織神社の件も馬部隆弘氏の指摘は変だと思う。彼の言う通り「はたほこ」ならそれも「織物」の一種だし」と、拡大解釈は留まることを知りません。

 日本語の構造からして、ハタホコはハタの付いたホコです。ホコの付いたハタではありません。チョコバナナはバナナの付いたチョコではなく、チョコの付いたバナナです。チョコバナナはスーパーのお菓子売り場とは無縁の存在だと述べたところ、チョコバナナはチョコの一種だからそんなはずはないと批判しているようなものです。

 素人さんの進撃はさらに続きます。刊本の『河内鑑名所記』には、次の図版のように、右上隅の枠内に変体仮名を用いて「はたほこ大明神」と記されています。

 

 それに対して素人さんは、『河内鑑名所記』の原本にあたる次の図版を掲げます。

 

 これを貼り付けたうえで、【786】で「馬部隆弘氏は機物神社は昔ははたほこ(憧)で、織女や七夕と無関係と書いたけど、原作者直筆の河内鑑名所記に貼られた絵にはこの絵」「の様に枠内の神社名や村名が無」いと述べます。たしかに刊本で「はたほこ大明神」と記されているところが、原本では空白となっています。これは、もしかしたら鋭い指摘かもしれません。

 しばらくのちの【1924】でも、同じ図版を引用して「河内名所鑑の初版の図画の現代語訳が出版されていますが、はたほこも何も描いてない」とおっしゃいます。「原作者直筆」から「初版」に変わっていますが、引用されているのは刊本のもとになった原本なので「初版」ではないです。【1925】でも「初版にはないんですよね。機物神社に「はたほこと書いてあったとしても、絵師が後から描き足したものなので記録とまではいえない」、【1927】でも「そもそも初版には「はたほこ」の文字は無い。「はたほこ」は絵師が後から付け足した」とおっしゃいます。

 要するに、三田浄久が執筆した原本には「はたほこ」が記されておらず、刊本を作成した際に絵師か彫師が追加で入れたわけなので、記録たりえないというのが素人さんのもう一つの主張のようです。最近では、【2955】で「初版に無いなら挿絵の絵師の誤記をまず疑うのが普通では?」、【2957】で「後の絵師のミスプリだと思う」と私の研究姿勢まで批判します。だったら、「はたほこ」は織姫を意味するというさっきまでの議論は、いったいなんだったのかとなってしまいます。結局のところ、ただ単に私の説にいちゃもんをつけたいだけなんでしょう。

 では、素人さんが引用する原本の図版上端をみてください。素人さんがトリミングしているため全文は読めませんが、何か文字があります。トリミング前の原本にあたってみると、「はたほこ大明神 此上けんしの滝」と記されていました。枠内に書き込みがあると作画の邪魔になるため、三田浄久は原本では表題を枠外に記しているんです。『河内鑑名所記』に掲載される他の挿絵も、ほとんどはそうなっています。

 素人さんのことなんで、これすらも他者が後世に書き込んだものとおっしゃるかもしれません。そこで注目されるのが、表題の左側に追筆で「二合」と記していることです。この書き入れも、ほとんどの挿絵にみられます。そのほか、原本のページによっては、時折「未不合」や「いまた不合」との記述もみられます。これらは、できあがった刊本の原版と原本を校合した際に、三田浄久が記した「チェック済」を意味するメモでしょう。初校段階では、問題がある部分のみに「未不合」や「いまた不合」と記し、再校段階で校了に近い意味で「二合」と記していったものと考えられます。挿絵に関していえば、原本の枠外に記された表題が、挿絵のなかに正しく反映されているかどうかも確認事項となったはずです。したがって、枠外の表題は原本作成当初から三田浄久が記していたものと考えられます。これでも「はたほこ」は記録たりえないといえるでしょうか。

 通常であれば、肝心の情報をトリミングして消去したうえで、他者を批判するというのは明らかな不正です。しかし、消去しているとはいえ、「○た○こ○明神」と読むことは可能です。つまり、悪意をもって消したわけではなさそうです。ということは、この程度のくずし字も読めないのに、プロの研究者を批判していることになります。とても恥ずかしいですね。

 せっかく歴史を学ぶのですから、簡単なくずし字くらいは読めたほうが、このような恥もかかずに済むと思います。

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