研究ブログ

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シドニー大学に移りました

2023年3月からシドニー大学に所属しています。

新しい所属先について
Faculty of Arts and Social Sciencesのなかにある
School of Humanitiesのなかにある
Department of PhilosophyのPhD課程です。
大学が用意してくれた(充実していない)個人ウェブサイト https://www.sydney.edu.au/arts/about/our-people/research-students/shimpei-endo-596.html


研究内容について
研究テーマは現在とかわらず、曖昧性 vagueness です。
真理メーカーをもちいた意味論を実際に構築することで、曖昧性の諸理論のどれもが(自分向けにカスタマイズしたうえで)使える公共のインフラを整備します。さらに、そのインフラとなっている真理メーカーというものの素性を調べることで、そもそもなにかが曖昧であるとはどういうことなのか、という問うべき問に漸近してゆきます。

計画書はここから読めます。
https://www.overleaf.com/read/hxbvpjjfjzgq


研究環境について
メインの指導教員はNicholas J.J. Smithです。曖昧性の界隈では、真理には程度があるだろう、という程度理論の擁護者として有名です。
本人のウェブサイト http://njjsmith.com/philosophy/

形式論理のテクニカルな側面の造詣が深いだけでなく、ソリテス・パラドクスへの解決にとどまらず「そもそもなにかが曖昧であるというのはどういうことなのだろうか」という哲学的な関心をわすれず、さらには「曖昧性それじたいに、どのようにアプローチしていけばいいのだろうか」という方法論についても考えている世界でも稀有な哲学者です。

サブの指導教員は(また変わるかもしれませんが、現時点では)Kristie Millerです。時間の哲学・形而上学で有名ですが、真理(メーカー)についても仕事があります。


資金について
JASSOの大学院学位取得型と一種奨学金(という名の無利子とはいえ学生ローン)を使います。
給付と貸与とあわせて毎月約22万円で、シドニーの生活費としては毎月15万円ほど(AUD1,754。2023年4月7日のレート)くらいだそうです。
参考:https://www.sydney.edu.au/study/accommodation/living-costs.html

学費が外国人は400万円(!)ほどかかるのですが、そのうち300万円はJASSOの学位取得型が負担してくれます。
差額は現地でのティーチング・アシスタントと採点で賄う予定です。
来学期から論理学のコースを担当します。


これまでの所属について
現在、所属している一橋大学社会学研究科は2023年度は休学をし、来年度に退学する予定です。
満期(3カ年)を過ごし必要な単位がとれているはずなので、単位取得満期退学(正式名称不明)という扱いになるはずです。

なお、休学をするのはここまでの日本での博士後期課程で受けていたJASSOの一種奨学金の返済免除のコロナ禍の影響による審査延期には在学していることが必要なためです。

出発の予定について
Smithが今学期はリモートを希望している関係で、まだ船橋にいます。シドニーへの出発は早くて5月末、遅くて6月末になりそうです。12月・1月と、(来年以降の)6月・7月は日本で過ごす予定です。

近くに立ち寄りの際には、面識ある人もない人も、気軽に連絡ください。

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なぜ我々は日本哲学会に入らないのか

「提題:なぜ我々は日本哲学会に入らないのか」

遠藤進平(一橋大学)

第80回日本哲学会ワークショップ「若手研究者をとりまく学会の現状と課題」における提題として

序:外からやいのやいの言うことについて

この文章は、日本哲学会の会員ではない者による、なぜ会員ではないのかについての事情説明と、こうしたら会員になることを検討するだろうという日本哲学会への提言である。最初に、提言の内容をひとことで書いておこう。それはすなわち、「日本哲学会は名前にみあっていないので参加していない。名前にみあう会になったときは加入を検討する」ということである。

自己紹介をしておこう。私は哲学者か。あるいは哲学研究者か。論理学をどう扱うのかという問題もあるにしても、関心やこれまで発表してきたことがらは、哲学以外のどこにも置くのが難しいことが多い。業績などはresearchmapを参照されたい。(https://researchmap.jp/shimpei_endo/presentations) ひとことでいうと、「言語や実在、またそれらの相互作用についての哲学的課題を、形式的手法を用いて解く」ことに関心の中心がある。哲学史とギリギリ呼んでよさそうなのはDavid Lewis (1941-2001)の再構成をしようとした発表くらいか。

私は日本哲学会の会員ではない。とはいっても、接点がまったくないわけではない。日本哲学会とのつきあいを、本筋にはほとんど関係しない余談だが、述べておこう。思い返せば2009年大会、会場校の学部1年生、たまたま哲学の初年度生向けお試しセミナーに出ていて、その担当から紹介された、会場係の手伝いアルバイトに参加した。着慣れない揃いのスーツを来て、任されたのは時間管理係だった。いまをときめく千葉雅也氏の発表で「チーン」「チーンチーン」と時間を鳴らす鐘をならしたりした。控室(たしかあれは第一校舎の一階の縦長教室だったと記憶するが)で余った弁当をもらい、冷凍して何日かはそれでくいついないだ記憶がある。その控室での印象的な出来事として、名前を知らぬ大学一年生であるわれわれに、自分の名前も名乗らぬまま、「哲学にようこそ」というようなことを言ってきたシニア層の男性がいた。彼が、係の控室になにか用事があったのかどうかは覚えていない。当時は(というか今も)「うっわー、なんかこの人自分の発話に酔いしれてるんじゃないかな、酔いしれていなくて素面なのだとしたらそれはそれで大変なことだぞ」のようなことを思った。しかし、結局、わたしはなんらかのかたちでこうして哲学に参入しているのだから、結果として歓迎という彼の発話内行為は達成された部分もあるだろう。単純な興味から、あれはだれだったのかということがすこし心残りなので、心当たりのある人はあとでぜひとも名乗り出てほしい。それから2018年大会のときは、ゲストを成田空港から立川だか新宿だかのホテルまで送り届けるという不思議なアルバイトをしたのを書いていて思い出したがそのことを書く余裕はいよいよない。

本題に移る前に、この提題の性格について、いくつか留意してほしい点をのべておく。まずはじめに、集団の意思決定一般についての、わたしの考えを述べておく。それは、自治の概念を重視する、というものである。集団の意思決定は、その集団に属している人がまずは第一になすべきことである。当たり前のことであるが、会員ではないわたしはこの日本哲学会という集団の外部にあるので、いかなる権限も持たないし、もたせるべきでもない。仮に、外部の意見に耳を傾けることになるのだとしても、それは集団のなかのひと、集団の構成員が「外部の意見もきいてみようじゃないか」といったときにはじめて開かれるものであるはずだ(今回はこのケースがあてはまるものだと理解している)。わたしへの、反論はいらないーー適切に無視をすればよい。わたしはこの件について議論をしない。議論をするとすれば、それはあなたたちがすべきことだ。よく、このような立場をとると、無責任だとかいう非難や、あるいはぜひ中にはいって変えてほしいという勧誘をうけることがある。が、勘違いしないでほしい。わたしはまだあなたがたの仲間に入っていない(入ることをかなり避け気味に躊躇している)のだから、そちらの都合で、勝手に通常は仲間に期待することを期待されても困る。自分たちの集団を変えたいなら自分たちでどうにかしてほしい。

また、「日本哲学会に入らない・入っていない哲学研究者」には、それぞれのさまざまな事情があるだろう。それらのすべて(いや、そのほとんどは)は、わたしの立場ではとうぜん代表できていない。さらに、経験的・統計的調査による検証作業などはまったく行っていない。ここでわたしが主張するのはわたしが入っていない理由であり、そのために依ったのは、わたし自身の内省とかぎられた経験である。わたしの言うことに、ある程度の普遍性が宿るのだとしたら、それは、わたしが思うくらいだから、ほかにも似たような状況の人はいるかもしれない、くらいの緩やかな推論だろう。統計的な調査の価値は認めこそすれ、貶めようというものではない。ただし、わたしはすくなくとも統計的調査を適切に実行できる訓練を受けていないし、また、聞く側にしても哲学者の多くは統計的調査を適切に評価することも難しいのではないか、という懸念はあることは申し添えておく。

破:こういうわけがあって(日本)哲学会に入っていない

わたしが、日本哲学会に入っていない主たる理由は「小さい」ことにある。人数規模や、扱われるテーマ・トピック・メソドロジーの範囲がその名前に期待するものに対して小さいのである。この項目がこの提題の核心箇所である。まずは、わたしが「日本哲学会」という名のもとに期待するようなことがらを挙げて、それが満たされていないということをみていこう。

学術会合や学会に期待される利点はさまざまだ。たとえば、自身と関心をおなじくする専門家との切磋琢磨や情報交換、というのはまず挙がるだろう。ただ、実のところ、これに関して学会、とくに日本哲学会に期待することは私には少ない。というのも、専門家個人と直接コンタクトをとったほうがわたしにとっては早くて確実だから、学会で会えることに期待するということにとりたてて必要性を感じないからだ。むしろ、会合、とくに日本哲学会大会のように大規模(とされるよう)なものに期待するのは、祝祭的要素である。自分がまったく/あまり知らなかったグループの人と、たとえ遠目でちらと見るだけでも、ばったりと会うことに価値を見出したい。ひろい意味での哲学者が一同に会する巨大フェスティバルのようなものであったら、魅力的である。うっすらとした関心はあるのだが、どうにもとっかかりのなかった関連分野の耳学問ができたり、一度会って面識はなくもないのだがわざわざメールで近況確認しあうほどでもない間柄の人と交流したりできたらとてもよいものだし、便利だろう。そのような場で自身の研究を発表することは、これまでに会ったことのない人にも届きうるという、専門的な会合にはない魅力がある。そのためには、哲学の範囲をできるだけ広くとったうえで、多種多様な営みのショーケースになっていることが望ましい。

しかしながら、現状、そのようになっているとは思えない。わかりやすい会員数からみていこう。日本哲学会の会員数は1300人程度、とある( https://gakkai.jst.go.jp/gakkai/detail/?id=G00261 以降の人数はこのサイトを参考)。 これだけでは少ないとも多いともなんとも言えない。分野全体の人数も違うし、学会に参加することへの文化による温度差などあるので比較には慎重になるべきだが、参考までに日本X学会という名称(おそらくそのX学の代表を自負する会合とみてよい?)の学会の参加人数をならべておこう。日本物理学会が約20000人、日本数学会が約5000人、日本社会学会が約3600人、といったところである。哲学により近い分野だと、日本倫理学会が900名強、美学会が1300名程度である。また、哲学内サブジャンル学会の例としては、日本科学哲学会が(実質)400名、応用哲学会が200人弱といったところ。この数値への解釈をとることは難しいが、これを知ったときは、集英社「ヤングジャンプ」と小学館「ビッグコミックスピリッツ」の発行部数の違いをしったときと似た種類のショックがあった、とだけ書いておこう。

つづいて、あつかわれるトピックや方法論の範囲をみてみよう。日本哲学会というよりは、日本哲学史学会とでもいうべきラインナップである。じっさいに、今回の2021年大会の一般発表の題目をみてみよう。哲学史上の固有名詞(テキスト名や人名)を含まない発表は、22本中の1本、早瀬 勝明「法的判断の正しさと真理の整合説、そして問答」のみである。http://philosophy-japan.org/conference/yokou_2021/ 日本における哲学研究の実際の反映というにしても、これはやや異様な比率にみえる。雑誌「哲学」最新号目次をみても、投稿論文で哲学史上の固有名詞をふくまない論考は野上「道徳についての選択的虚構主義」くらいか。 公募ワークショップふくめ、各種シンポジウムなどの企画は興味ぶかいものがある。哲学教育ワークショップは継続されていて蓄積を感じる。これらはさきにあげた哲学史研究偏重をカバーする意図もくむことができ、評価できる。しかし、これも、数がすくない。哲学教育とならんでメタ哲学系のワークショップ、たとえば投稿や出版準備、翻訳とどう付き合うか、講読のありかた、査読のしかた研修などが複数並んでいたらもっと楽しそうだ。

ほかにも、シニア研究者や非日本語話者の少なさなど、あきらかに哲学研究者として存在しているはずだが発表をしていない層が気になってくる。

このような状況でわたしが発表をする、ということを考えてみる。哲学史の集団にのりこんでいく、というのが実情に近い。それはそれでやる価値のあることなのかもしれないし、まさにわたしが期待するところの外部との出会いなのかもしれないが、わたしが出会いたい外部とは、かならずしも哲学史ばかりではない。倫理学、美学、政治思想といったひろくとったときの哲学の諸ジャンルにうっすらと触れたいのだ。

また、発表・投稿を検討するとして、自分の仕事を正当に評価してもらえるのだろうか、という不安もある。会員の専門について、こちらから確認することができなかったのだが、ここまで哲学史が多いと、そもそも趣旨がマッチするとは思えないし(ふつう投稿先を選ぶときに気にすることである)、また翻ってそもそも専門家の査読者は期待すべきではないかも、と判断してしまう。投稿のためには入会が必要であること、その際に推薦者が必要であること、投稿のタイミングが年に一度しかないという実務的な障壁とあいまって、わたしを日本哲学会から遠ざけている。

急:こうだったらいいのにな

最後に、こうなったら入ることを検討するのにな、と思うことをあげていく。これらの実現のためにはリソースの投資が必要だろう。但し書きを繰り返すが、それを投資したり、あるいは(どの程度)するかしないかを判断するのは私の及ぶところではない。わたしのような属性の人をカバーするにはそういうことが必要かもね、ということを言っているにすぎない。

(a) 名前にみあった規模拡張を、さもなくば改名を

日本哲学会設立の趣旨として、一応つぎのような文面がある。「哲学の研究を専門とする者をすべて包括した全国的な哲学会を設立致し、やがて開かれる海外哲学界との交渉に際してもその連絡に任じ、その際、我国哲学界の主要動向を代表し得るようなものでありたい。」 学会名鑑「日本哲学会」より「設立趣旨」 https://gakkai.jst.go.jp/gakkai/detail/?id=G00261

ここには「哲学の研究を専門とする者をすべて包括した全国的な大会」とある。さきほど指摘したように、おおむね哲学史の学会となっている現状はこの趣旨にかなっていないようにみえる。これを目指すのをやめたのであれば教えてほしい。あるいは、この偏りが「わが国の動向を反映している」という正当性があるならば説明がほしい。そうでないなら改善、さしあたっては多様なジャンルの包摂をめざすべきだ。そうすれば自然と会員数・発表数も増加するだろう。また、関連して、乱立したのちに運営の担い手がいなくなっている(そしてその負債が若手研究者のいくらかにまわってきている)各種中小学会の包摂を見据えてほしくもある。他に適切な立場の学会はないだろう。

あるいは、わが国の哲学を代表することはあきらめて、「日本哲学史学会」にでも名称を変更するのはどうだろうか。

(b) 哲学者の利権団体として

哲学者の利益を代弁し、交渉する、ギルド的側面があるとよい。入った個人にまず恩恵があるし、また人数が多ければ多いだけ渉外のときの圧力が高められるので、勧誘するメリットもでてくる。利権団体としてどのような活動をすればいいかの例としては、たとえば、哲学系非常勤講師の待遇改善要請を集約したり、あるいは初等中等教育での「倫理」や「道徳」科目への積極的介入による哲学・思想系大学院生のキャリアパスを確保する、などが考えられる。学問分野総体としての生存には、「椅子」の多寡が肝要だと思うが、これについて異様に競争率の高いアカデミアにおけるテニュアトラックでは不足があるだろう。哲学を代表するというのであれば、その代表している団体が、哲学じたいがやせ細ったりなくなったりしないように対策を打っていると末端としては安心だ。

また、狭義のアカデミア以外で哲学の知見をもちいて活躍している人や、すぐれた一般向け啓蒙書を表彰するなど、世間で呼ばれる「哲学」をアカデミアの側にひきよせる活動も有益だろう。哲学を研究する者は「大学組織に属しそこから生活の糧を得ている」とはかぎらない。日本数学会の「出版賞」の試み(https://www.mathsoc.jp/interested/pubprize/)が参考になるかもしれない。

 

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