Researchlog by Noriko Arai

カテゴリ:本

科学と文学が記述できること・できないこと

瀬名秀明さんの「エヴリブレス」が徳間文庫から刊行されることになり、どういうわけかSF初心者の私が「解説」を依頼されました。「エヴリブレス」のご紹介もかねて、ここに全文を掲載します。

「科学と文学が記述できること・できないこと」

1956年の夏、ダートマス大学において集中的な会合を開くことが提案された。提案者は、後に人工知能の大御所となるジョン・マッカーシー、マーヴィン・ミンスキー、ナザニエル・ロチェスター、クロード・シャノン。彼らは、人間の知的活動とは何か、人間はどのように学ぶのか、その活動はコンピュータによってシミュレート可能か――こうした問いを科学として真っ向から探究することを呼びかけた。このダートマス会議によって、AI(Artificial Intelligence, 人工知能)という分野が誕生し、科学者によってコンピュータと共棲する社会の具体的イメージが「当然起こる未来」として語られるようになったのである。

しかし、人工知能という企ては、何も1956年に突如始まったわけではない。その起源は、近代科学そして近代哲学のスタートまでさかのぼることができる。

ニコラウス・コペルニクスやガリレオ・ガリレオより前の時代、世界は生物に喩えて説明がなされていた。石は元来、大地に属していた。だから、手を放すと、まるで母を慕うように石は地に落ちる。一方、炎は太陽に属していた。だから、煙になると母である太陽を目指して、上へ上へと昇っていく。このような説明が、アリストテレスに始まり、レオナルド・ダ・ヴィンチに至るまで受け継がれた揺るぎなき世界観であった。

ところが、ガリレオはそれとはまるで異なる方法で世界の理を表現した。それは、数学である。「一瞬」のうちに起こる落下という物理現象を、ガリレオが数式で表して見せたとき、「世界はいつかすべて数式で表現できるのではないか」という、近代科学の原動力となるアイデアが生まれた。哲学者で政治学者であったホッブスは「法学要綱」さらに「リヴァイアサン」の中で、理性は計算可能であると述べ、「弱いAI」につながる概念を提示している。ここにおいて、ごく少数の公理と、計算可能な理性によって、人間が本来到達可能なすべての真なる命題に到達することを目指すという近代科学の方法論が明言されたのである。

この近代科学の方法論をイデオロギーにまで膨らました張本人は、ルネ・デカルトであろう。彼は方法序説という80ページに満たない小冊子を発表することで、私たち人類を近代という時代へ、「数学記述主義」ともいえるイデオロギーの中へ放り込んだのである。一方、それに対して、デイヴィッド・ヒュームは論理のもっとも痛いところを次の一文で突いた。「私の指を傷つけるよりも、全世界を破壊する方がましだ、という決断は理性に反するものではない」と。論理的整合性は、皆が同じ結論にたどり着くための十分条件にはなり得ない。

だが、それは哲学における対立にしか過ぎない、と多くの「科学者」は考えた。なにしろ、「科学的である」とは「数学で記述できる」と「実験で確認できる」の二つとほぼ同義語として用いられており、実践者や思想家が科学者に「格上げ」されるには数学記述主義を受け入れるより他なかったからである。

さて、デカルトから始めるイデオロギーを忠実に、しかも無意識に受け継いだ人が、アラン・チューリングである。彼は23歳のとき、現代のコンピュータの原理となるチューリング機械というアイデアを発表した。それはまさに、「(合理的に)わかるとは、何か」に関する計算モデルであった。チューリングのアイデアに基づいて作られた現代のコンピュータとは、その意味で、「数学で世界の理は表現できる」という近代科学のイデオロギーを、忠実に、また極端な形で具現化しようと試みた人工物だといえよう。
となれば、「人工知能は可能か」という問いは、デカルトやホッブスの末裔である近代合理主義と、ヒュームの末裔である経験主義のどちらが「真の世界」に近いのかを三百年の時空を超えて問うテーマだともいえる。


瀬名秀明がBrain Valley以降、一貫してテーマとしてきたのも、まさにそのことだろう。コンピュータの脳であり母語である数学という言語は強靭さと柔軟さを兼ね備え、しかも必要に応じて成長していく。しかし、意外なところに脆さを抱えてもいる。数学が持つこれらの特性は、私たちの未来を、人工知能と共棲する私たちの未来を、どのように形づくるのか。彼は、その具体的なイメージを現在生み出されつつある技術から見定めたいと考えているのだろう。「エヴリブレス」でも近作「希望」でも、声や視野あるいは腕など、身体機能の一部を失い、それを技術によって補う人々が繰り返し登場する。これも、彼が考える「人の機能は機械によって置き換えることが可能か」という問いの立て方の現れではないだろうか。

「コンピュータは自らの意思を持たない」あるいは「コンピュータには真のクリエイティビティはない」と切って捨てて、安全な場所からコンピュータと人間の境界を描くのは易い。あるいは、逆に、「コンピュータは人間と同じく意思と感情を持ちうる」として、それを描くのも易い。瀬名秀明が探り当てようとし、ときに信じ、ときに迷い、それでも描こうとし続けるのは、デカルトやヒュームそして、今、多くの科学者や哲学者が格闘している、「科学が記述できること・できないこと」の境界イメージである。

「デカルトの密室」までは、「なぜ私はそこに境界線があると思うのか」をエビデンス・ベースで硬質に描く傾向があったが、「エヴリブレス」や「希望」ではその緊張感がすっと消えてなくなっているように感じる。自らがこのテーマに対して持つパースペクティブに関して、作者が自信を深めている証しなのではないだろうか。


さて、ここから先はやや雑談である。
友人である「セナさん」とお酒を飲むと、いつも彼の小説のヒロインの話になる。私が「ねぇ、こんなに美人で聡明できれいな心を持っている女性が、10年も20年も音信不通になった主人公を愛して待ち続けるなんて、あり得ないわよ。だって、他の人が放っておかないもの」と言うと、セナさんはやや不服そうな顔をする。「それに、名前がいつも杏子とか真理子とか栞なのね。騒々しくて男にだらしがない明美というヒロインの話も読んでみたい」というと、今度は困った顔をする。
彼はクールなリアリストである一方、根っからのロマンチストなのである。

エヴリブレス (徳間文庫)
瀬名秀明
徳間書店(2012/11/02)
値段:¥ 660

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「よりみちパン!セ」ようやく復活

拙著「生き抜くための数学入門」「ハッピーになれる算数」(理論社)について、ご心配のメールをたくさん頂き、申し訳なく思っております。
大震災後、いろいろなことがありましたが、拙著2冊を含む「よりみちパン!セ」シリーズは、イースト・プレスさんから出版していただけることになりました。
「生き抜くための数学入門」は7月14日、「ハッピーになれる算数」は9月発行とのことです。
読者の皆様には、大変ご心配をおかけし、申し訳ありませんでした。

本ブログで、「よりみちパン!セ」シリーズが朝日新聞出版から復活する旨お知らせした2日後の3月11日に、東日本大震災が起こりました。
みなさまご存じのとおり、一時は紙やインクの流通も止まり、出版業界を取り巻く様々な環境変化がありました。
そういう中で、「こういうときだからこそ、未来をつくる子どもたちに良い本を届けたい」と情熱を持ってくださったイースト・プレスさんに心より感謝いたします。




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朝日新聞出版さんからは、(私がブログで公開してしまったことにご配慮いただき)次のような文をお送りいただきました。

朝日新聞出版は、「よりみちパン!セ」シリーズの出版について検討してまいりましたが、東日本大震災による市場環境の変化なども踏まえ総合的に判断した結果、最終的にこれを断念することにいたしました。
震災の影響もあって検討に時間がかかってしまい、著者をはじめ関係者の皆様にご迷惑をおかけしたことを申し訳なく思っております。心よりお詫び申し上げます。》


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数学の言葉が果たす役割

先月、光村図書の「国語教育相談室」に巻頭エッセイを寄稿しました。
「国語と数学の関係については、「言語的活動」にスポットライトを当てて書いてほしい」という依頼だったのですが、いざ書こうとした矢先に、大震災が起こりました。震災後1週間は頭がまったく動かず、何も手につかない状況だったのですが、10日目に「書こう」と思って、以下のような文章を書きました。

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「数学の言葉が果たす役割」  

この原稿が読者の目に触れる頃には、桜の花はその枝をしならせるようにして満開のときを迎え、そして惜しむことなくその花びらを風に任せた後だろう。桜前線は函館まで達しただろうか。それとも角館あたりであろうか。

今、東京でこの原稿を書いている私にとって、桜前線がどこにあるかよりほかにひと月後の日本の姿に関して予測できることは何もない。それほどまでに今回の震災はとてつもない大災害であった。否、それはまだ過去形ではない。私がこの原稿を書いている現在、福島第一原発の事故は予断を許さない状況であり、多くの作業員や自衛隊員、消防隊員、警察官が文字通り命がけで復旧作業にあたっている。被災地の物資不足は深刻で、飢餓状態で孤立している地域からの悲痛な訴えがネット上に流れている。
直接の被害に遭われた方々、そして今まだ不安な日々を過ごされている方々に心からお見舞いを申し上げます。

四十六億年の地球という星にとってみれば、今回のような地震は何度も経験してきたことなのかもしれない。しかし、それによって、日本国民はひと月先の見通しが立たない辛い状況に立たされている。その渦の中で、人間生活というものがいかに「見通し」ということを支えとして成り立っているかを痛感するばかりである。水や食料が手に入る見通し、生活の基盤が存在している見通し、子供を無事に生んで育てていける見通し、そうした見通しが立つからこそ、私たちは安心して、昨日、今日、明日と生活を続けていくことができるのである。

人類がこの星に出現したのは二十五万年から四十万年ほど前といわれているが(※)、私たちの祖先は長い間、他の生物同様に、運を天に任せる生活をしていた。最初から「見通し」を立てる技術を持っていたわけではないのである。その生活は、時に、集団の半数以上を失うことになるような厳しい生活であったことが考古学の研究からわかっている。見通しを立てられるようになることは人類の幸福のために不可欠のことであった。

最初の「見通し」は、経験の蓄積による因果律によって始まったと考えられる。「鯰が暴れると地震が起こる」とか「夕焼けが異様に赤いと大災害が起こる」などの言い伝えが今でも各地に残るけれども、そこには、因果関係を把握することで厄災を避けたい、見通しを立てたいという人類の願いがこめられている。このような因果律は神話などの物語として、それぞれの文化圏において長く口伝されてきた。

このような経験の蓄積による因果関係の把握の他に、人類は未来予測のための別の手段を手に入れた。それが数学という言葉である。人類は約一万数千年前頃に本格的に農業を開始したとみられているが、農業は狩猟採集生活とは異なり、年に一回ないし二回しか主要な収穫が得られない。構成員が飢えずに来年の収穫祭を迎えるには、なんとしても暦や割り算等の数学的技術が必要となる。数学は役に立たない高等な趣味としてではなく、確実に次の年を迎えるための「見通し」を立てるための技術として生まれたのである。後に、数学と科学は分化したが、科学の共通言語として数学の役割は、数千年の間、変わることはなかった。

「見通し」を立てる技術は、確かに人類を幸福にしてきた。私たちは作柄を見通し、飢餓を避ける術を徐々に身に付けた。また、星の運行を見通し、大洋を航行する術を手に入れた。こうして生まれたさまざまな科学技術によって、私たち人類はまさに「地に満ちるまでに」増え、繁栄を謳歌してきたのである。そのような生物は地球上に他にはいない。たとえば、桜は毎年多くの実を落とすけれども、そのほとんどが桜の木に成長することなく途中で絶えてしまう。
私たちが繁栄すればするほど、増加した私たち全員が来年も飢えることなく幸福な春を迎えるためには、より高度かつ精度の高い未来予測の技術とそれを支えるための数学の言葉が求められるようになる。逆にいえば、たった一つでも見通しが外れたなら、それは一地域の厄災では済まず、人類全体に影響が及ぶほどに脆弱な基盤の上に私たちの社会は形成されることを意味する。

では、数学と科学は、人類のその求めに応じることができるのだろうか。もちろん、それぞれの持ち場で懸命に研究してはいるけれども、数学もそして科学も、残念ながらその求めに応じられる程に十分に発達してきたとは言えない。私たちがある程度の精度で予測できる自然現象はごく限られており、社会現象となれば、ほぼ未知の領域なのだから。そのことはリーマンショックによる世界金融危機の際にも多くの数学者が指摘した。金融商品の創造とその格付けに数学を適用してよいほどには金融工学は発達していない。同様に、地震予測とその影響についても、やはり数学を持ち込み確率によって語ることができるほどには発達をしているわけではない。

けれども、力不足を自覚しながらも私たち人類は、未来を見通すための技術をこれからも磨いていくことだろう。否、磨いていかなければならない。
皆で揃って来年の桜を無事に眺めるためにも。
(※)ここではいわゆる「新人」の意。
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書評(「コンピュータが仕事を奪う」)

拙著「コンピュータが仕事を奪う」をいくつかの媒体で取り上げていただきました。感謝しつつ、備忘のためリンクを記します。

東洋経済
教育の見直し迫るコンピュータの進歩

ITPro
コンピュータが仕事を奪う

日経BP
電脳は人脳とどう異なるか「それを知らなければ失職する時代」が到来した

はてなブックマークニュース
旅と読書の思考法、数学に学ぶ問題解決、コンピュータとの仕事争奪戦――はてなブックマーク 新刊ピックアップ

日本教育新聞

日経ビジネス
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ノート・レポート 「コンピュータが仕事を奪う」刊行

みなさんは、ドラえもんを観ていて、不思議に思ったことはありませんか?

ドラえもんは22世紀生まれの子守ロボットです。のび太くんの玄孫(ひ孫の子)のセワシくんのもとからドラえもんがやってくるところから物語は始まります。

私が不思議に思ったのは、タイムマシンのことでも、タケコプターのことでもありません。
ドラえもんが量産されるような未来には、ドラえもんと同等かそれ以上に有能なロボットが、社会のいたるところで活躍しているはずです。
そんな未来で、のび太くん(あるいはセワシくん)にできる仕事があるのか。そのことがひっかかってしょうがなかったのです。

大学に進んだとき、経済学部の友人にそのことを尋ねてみました。すると、友人は「そのときこそ、人間は数万年にわたって続いてきた『労働』から開放されるんだよ」と底抜けに明るい顔で言います。「そして、人間はもっと知的で生産的なことをするようになるんだよ」と。

うーん・・・でも、ドラえもんよりのび太くんのほうが知的で生産的だという気がしないんだけれどもなぁ。それに、そういうロボットは、技術と資本を持っている企業が生産して、独占し、自己の目的のために使用するのだろうから、のび太くんの所有物にはならないんじゃないの?

そんな会話をしてからあっという間に30年近い月日が経ちました。
ドラえもんはあくまでもSF漫画です。ドラえもんやアトムのようなロボットはまだ当分開発されそうにありません。狭い意味では、私の心配は杞憂だったということでしょう。
ただし、この30年間の間に、ロボットやコンピュータは劇的に発達しました。そして、実際にいくつかの職業はコンピュータによって代替されました。
しかも、これはほんの序章に過ぎないのです。
過去40年間にわたって指数的に向上したCPU速度と記憶容量、1990年代後半に急速に実用化が進んだ「機械学習」の技術、そして、2000年代のネットワークの爆発に伴い急速に集積するデジタルデータによって、経験から妥当な判断を自律的に下すことができるロボット(プログラム)が増えているからです。それらのロボットはドラえもんのように人型(あるいはネコ型)だとは限りません。姿かたちを持たず、あなたの携帯の中で、あるいはネットワーク上で24時間働いているかもしれません。そうして、着実に、人間を代替していきます。

のび太くんは、そして私たちは、この状況をどのように受け止め、そして、何をするべきなのか。そのことについて考え、書いてみたのが、「コンピュータが仕事を奪う」という本です。

この本を、国立情報学研究所に赴任してちょうど10年の節目に刊行できることを大変ありがたく思います。なぜなら、この本は、私のような凡庸な数学者が、情報研という森に迷い込み、10年かけて見聞した「不思議の国」の記録でもあるからです。
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韓国版「ハッピーになれる算数」

理論社から出版した数学の一般書、「ハッピーになれる算数」と「生き抜くための数学入門」がともに韓国で翻訳出版されました。
が、「ハッピーになれる算数」の翻訳版はさっぱり向こうの出版社から送られてこないので、どんな風に翻訳されたのか、どんな風にあちらで読まれているのかさっぱりわからなかったのです。
そんな話を知り合いにしたら、その方のお友達が韓国に旅行された際にわざわざソウルの本屋さんに行って、写真を撮ってきてくれました!
ハッピーになれる算数韓国語版
こちらがその写真です。
ソウルの大型書店以外にも、チョンジュという街の本屋さんにも置いてあったそうです。

日本語版はオレンジ100%さんが表紙と挿絵を描いてくださったのですが、著作権の関係でしょう。韓国のイラストレーターの方が新たにイラストは描き下ろしたようです。

ちょーっと気になったのが、私の役の女性教師らしきイラスト。

だって、サザエさんもびっくりなきつめのパーマに眼鏡、なんですよね~。私はどちらもしてないのに。

そういえば、一昔前の日本の女性研究者ってこういう風貌でとらえられていたような気がするんですよね。牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡と、きつめのパーマorひっつめに結んだ髪、の組み合わせ。
が、今は、リサーチガールズの面々の写真をご覧になればわかるように、みなさんおしゃれできれいです。たまにResearchmapの写真を見て、「女優さんみたい・・・」と思うこともあるくらい。

こんなところに、思わぬ時代の変化を感じました。


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読売新聞ブックレビュー:数学は言葉

読売新聞の10月22日夕刊に「数学は言葉」を取り上げていただきました。

「数学語」で語ればスッキリ

・・・三段論法、帰納法などを駆使し、あいまいな日常言語が、論理的な数学語に置き換えられる様は、混沌(こんとん)とした社会に進むべき道を示してくれるように切れ味鋭い。

深く読んでいただけて感激です。感謝。





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ノート・レポート 「計算とは何か」刊行

本日、Math Storiesの第二弾、「計算とは何か」が刷り上ってきました。

Amazonでごらんになると、「数学は言葉」と表紙の違いがあまりよくわからないかもしれませんが、「数学は言葉」の方は重松清さんが推薦文を書いてくださり、真っ青な帯がついています。
一方、「計算とは何か」の方は、瀬名秀明さんが推薦文を書いてくださり、私が大好きな「アマガエル色」の帯となっています。ふたつ並ぶと、けっこう理工系の棚では目立つ存在かもしれません。

さて、瀬名さんですが。

そうか、こうして私たちは世界に生まれ、世界を見つめ、自分を世界に近づけ、歩んできたのか。
本書を読むことで私たちは世界を変える。
そして自らの内に育んできた勇気と力を取り戻す。
これは勇者についての物語だ。  瀬名秀明

というしびれるような推薦文を寄せてくれました。
でも、不思議だったんですよね。瀬名さんには原稿だけお渡しして、この本のテーマは、私からはあえてお伝えしなかったので。けれども、瀬名さんはちゃんと、計算が勇者の物語であることを読み解いてくださいました。さすがSF作家は違うなぁ。

計算はルークが持つライトセーバーにも似ていて、それは圧倒的な敵を倒すことができる手段にもなるし、その力に溺れると、己を滅ぼすこともある。でも、勇者はライトセーバーを持って、未来を切り拓く運命にあるのです。
というわけで、書店や図書館で手にとっていただければ、たいへん嬉しいです。

計算とは何か (math stories)
新井 紀子, 新井 敏康
東京図書(2009/10/07)
値段:¥ 1,890

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「数学は言葉」の対象は?

ウェブ上で、「数学は言葉」の読者対象がよくわからない、というご指摘がありましたので、少し具体的に説明をしたいと思います。

「数学セミナー」の4月号(つまり新入生向けの号)では、毎年、新入生に向けて、大学の数学の入門編や、大学の数学のつまずくポイントを紹介するのですが、ある年に、ちょっとおもしろいイラストが掲載されたことがありました。
大学入学後に学ぶ数学の道のりを山道にたとえたものだったのですが、大学の数学を乗り越えるための山場(試金石)となるのが、イプシロン-デルタ論法、集合・位相、線形空間である、というものでした。この3つで8割が脱落する、というのが大学で数学を教えている教員の実感ではないかと思います。今はかなり多くの大学で、イプシロン-デルタ論法を教えることを諦めています。それくらい乗り越えるのが困難なのです。
線形代数や微積分の計算が多く含まれる試験では、試験の結果はおおよそ平均点を中心にして分布するのに対し、集合・位相の試験では、結果が完全に二極化します。また、同じ線形代数の問題でも、rankや逆行列の計算は皆が取り組むのに対して、「○○が線形空間であることを示せ」という問題は白紙が相次ぎます。これらは特定の大学や学部で起こる現象ではなく、多くの大学の数学教員が経験していることではないかと思います。

では、位相の定義が複雑か、「○○が線形空間であることを示せ」という問題の証明が数学的に困難か、というと、そうではないのです。たぶん、論理を身に着けている学生にとっては、これらは(複雑な行列の計算問題より)「楽勝な」問題であるはずです。

つまり、(科学の言葉である数学的な)論理とは、それを既に身に着けている人にとっては、ごく当たり前なスキルである一方、それを持たない人にとっては、どうやって身に着ければよいか皆目見当がつかない、というタイプのスキルなのです。

しかし、論理を持っているかどうかで、21世紀を生き抜けるかどうかは大きく左右されます。であれば、「論理力がない人はだめなんだよね」とか「最近の学生は論理力がどんどん落ちていて、イプシロン-デルタなんて、教えようがない」と嘆いているだけでは、数学の教員として怠慢だと言われても仕方がない、どうにかして、論理を教育する方法はないものだろうか・・・ここ数年あれこれ試行錯誤を繰り返してきました。そして、たどり着いたのが「言語教育の方法論で数学を教える」ということだったのです。まだ完成からは程遠いと思いますが、まずは一度まとめることでご批判を仰ぎたいと考えています。

イプシロン-デルタ論法など、数学系の学生以外関係ない、と思われるかもしれません。確かに、イプシロン-デルタ論法は、数学系以外の方には直接必要がない「知識」だろうと思います。ですが、この本で扱っているのは、知識ではなく、論理的スキルなのです。イプシロン-デルタ論法はあくまでも、そのトレーニングの題材として登場するに過ぎません。

ですので、論理が必要なのに、論理力をつけるために具体的にどのようなトレーニングをしてよいかわからない、というすべての方に向けてこの本を書いたつもりです。




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