Researchlog by Noriko Arai

カテゴリ:講演

サイエンスカフェ「科学の言葉としての数学」

日本学術会議が主催するサイエンスカフェが毎月第4金曜日に文部科学省の情報ひろばで開催されています。
今月10月22日は、ICUの北原和夫先生のコーディネートで、私がお話させていただきます。タイトルは「科学の言葉としての数学」です。
数学には、未解決問題を解くという側面の他に、自然現象や社会現象を解明するという科学に対して表現形式となる言語を提供する、という重要な側面があります。今回は、人工言語としての数学に焦点をあててお話をしたいと思います。
ご来場をお待ちしています絵文字:笑顔

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札幌サイエンスカフェにて

札幌三省堂にて『いやでも役に立つ数学』というお話をさせていただく。
このタイトルは、「嫌」が「役に立つ」にかかっているのか「数学」にかかっているのか、曖昧なのだけれど、そこを一緒に考えて楽しんでいただければと思い選んでみた。

会場には3人、少年といっていい年頃の参加者があった。
私には「ハッピーになれる算数」という小学校高学年から読める本はあるけれども、なんとなく参加者は大人だけだろうと思っていたから、ちょっと意外だった。
トークの後、そのうちの一人が、私のところにやってきて「サインをしてください」と言う。差し出されたのはかなり薄汚れた「生き抜くための数学入門」だった。正直に言うと、こんなに手垢のついた自分の本を見るのは初めての経験だった。それでつい、(あまりにうれしかったので)「ずいぶん汚れてるね」と言ってしまった。
少年はうつむいて、「小学校の朝読書で読んでから、何度も何度も読んだので」と言った。中学2年生だという。
「生き抜くための数学入門」は、無限という概念を通して、中学までの直感頼みの数学理解の曖昧さを実感し、「数学の言葉」で表現することの必然について書いた本だから、たぶん中学生には難しい。それで、つい「わかったの?」と聞いてしまった。
すると少年は「全部はまだわからないので、また読みます」と言う。「でも、わかったところは、とてもおもしろかったです」と。

まるで「ヴェニスの商人の資本論」のような立派な本に接するときのように、私なんぞの本を大切に読んでくれる読者がこの世の中にいる。「有難い」というのは、こういうときのための言葉なんだろうな、きっと。

君のために、また本を書くね。

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「数学って何のためにあるの?」公開授業

本日は、埼玉県立浦和第一女子高校にて講演会というか授業でした。
私はポリシーとして、中学校や高校での『講演会』はお引き受けしません。
だって、もし自分が17歳だったら、突然どこかの知らないおばさんがやってきて、「自分はこんな風に研究者になった」みたいな話をされたら、うっとおしいと思うでしょうからね。第一、「数学って、いいな」とは思いますが、「数学の美しさ」なんて、よくわかりませんから、そういう意味でもお話すべきことはないのです。
なので、講演会を依頼された場合には、不遜ながらいくつかお願いをしています。

まずは、講演ではなく授業をさせていただくこと。
事前に宿題を出して、みなさんに提出していただくこと。
授業には、数学の先生だけでなく、国語や英語や音楽などできるだけいろいろな科目の先生にご参加していただくこと。

これだけお願いすると、「ではまたの機会に」とおっしゃる学校もありますが、浦和第一女子高校さんは、「それでも来てください」とおっしゃってくださったので、お引き受けしました。今回授業をする対象は全校生徒1100人超。さすがにこれだけの人数に授業をするのは初めてです。

選んだ題材はこちら。

ここに一辺10センチの正方形があります。
(1)この中に、無限の面積をもつ図形を描くことが
できるでしょうか?
(2)この中に、無限の長さをもつ図形を描くことが
できるでしょうか?

出来る場合には、具体的にその方法を、
出来ない場合には、その理由を論理的に書きましょう。


この問題は前任校の演習でよく使った問題でもあり、「数学にときめく」でも扱った問題です。こういう問題は(高校生ならば)学年によらずに考えることができると同時に、主たる課題が数学的な処理よりも、「論理的に考え、表現する」ことにあるので、生徒に数学の別の面を感じてもらうのによい問題だと思っています。また、塾に行っている子や成績が良い子が有利ということがないので、全員同じスタートラインに立つことができる、という意味でも良い問題だと思っています。

予め、問題をお知らせして、生徒のみなさんにはシルバーウィークの間に考えてもらい、提出してもらいました。800枚を超える答案を2日間で見て、授業計画を立て、今日の授業に臨んだわけですが。宿題を見て感じたのは、「考えてはいるのだけど、うまく言葉にならないもどかしさ」を多くの生徒さんが感じているな、ということ。
手順(アルゴリズム)を言葉で言いたいのだけど、(説明なしの)図にしかならない。理由を書きたいんだけど、うまくまとまらない。そんな気持ちが行間に現れていました。

みんな本当は論理的にパキッと言いたいんですね。でも、言えない。言えたらいいのになぁ・・・悔しいなぁ・・・、と、そう思っているみたい。
でも、その気持ちこそが論理的表現力を身につけるための第一歩だと思うんですね。

というわけで、今日の授業では、いろいろなタイプの回答を(本人がわからないように加工して)いくつか紹介し、その表現のどういうところが論理的に破綻しているかを説明しながら、どんな風に書けば論理的で『素敵』なのか、みんなと一緒に考えました。

外は台風前の冷たい雨が降っていましたが、授業のあった体育館内は私語もなく、とても意欲的で素直な生徒さんばかりで、とても楽しく授業をさせていただきました。感謝です絵文字:女性

「数学って何?」浦和一女で講演 :産経ニュース



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「数学は言葉」講演@名古屋多元

名古屋大学数学教育セミナーからの依頼で、「数学は言葉」というタイトルで講演をさせていただきました。
その際、「倫理や宗教観、世界観などは背負っている文化背景等によって、大きく異なるが、論理(体系)はひととおりであるように見えることは興味深い。チョムスキーの普遍文法と同様に、人間には(脳に損傷がない限り)、論理の種のようなものが共通で埋まっているように思われる」ということを例を交えてお話しましたが、質疑応答の時間に
「やっぱり自分は、さまざまな論理があると思うし、それを無視してはいけないと思う」
という質問が出ました。
この反論にはたびたび出くわすのですが、これらの反論の多くは、以下のことを正しく理解していないために起こるものです。
  • 論理がひととおりであっても、公理系のとりかたによって、結論は千差万別である。よって、論理がひととおりであることは、(見かけ上の)結論がひととおりになることを意味しない。
  • イデオロギーや「ものの見方」の多様性は、論理の違いではなく、公理系の違いによるものである。
つまり、「彼には彼の論理がある」といった文章の中の論理は、多くの場合「公理系の違い」を意味していて、「彼の論理」が「論理」として説明付けられうる、ということが既に、「彼の論理」が、アリストテレスの意味での論理に包含されていることを意味します。

論理は決して、人々の多様性を否定するものではありません。
論理がひととおりであることを否定することは、異なる公理系をもつ人々が、議論によって解決に至る道を否定することにもつながります。
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「役にたたなきゃ数学じゃない」

6月11、12日は、私が所属する国立情報学研究所でオープンハウスを開催しています。
今年は、MITのメディアラボの副所長である石井裕先生、オブジェクト指向スクリプト言語の開発者であるまつもとゆきひろさんが基調講演をされる、ということで、たいへん注目が集まったオープンハウスでした。事前申し込みも過去最高を記録したそうです。

そんな中、(人選ミスによって絵文字:絶望)所内からは私が基調講演者に選ばれてしまい、どうしようかと迷ったのですが、数学のお話をさせていただきました。
タイトルは「役にたたなきゃ数学じゃない」。

この話が生まれるにはいくつかのきっかけがあったのですが、いちばん大きなきっかけは、7年前、作家の重松清さんから受けた質問でした。
「なんで、数学は記号や符号が羅列してあるんだろう。わからない人にとっては、「読めない」ということが最大のハードルになっていると思う。あれは日本語で表現できないんだろうか」

実は人間には2つのわからなさがあって、ひとつは概念の複雑さ、なんですね。たとえば、「ルベーグ可測」とか「n次元ホモトピー球面」なんていう概念はその概念を定義するまでに後ろに数十の概念の定義があって折り重なっているわけです。そういう複雑さです。
もうひとつは、なかなか気付かないんですが、量があまりに膨れると、人間はやっぱりわからなくなる。その一番よい例が「天璋院様のご祐筆の妹のお嫁に行った先のおっかさんの甥の娘」という吾輩は猫であるにでてくる説明です。ひとつひとつの関係は単純なのに、量が増える(話が長くなる)とわからなくなる。実は、複雑さと量はトレードオフの関係にある、というのが、complexity理論の結果わかっていることです。複雑さを回避しようとしたら、量が爆発する。量をコンパクトにしようとすると、どうしても定義をしたり記号を使ったりして、情報を圧縮しなければならない。

そういうようなお話をさせていただきました。250人を超えるお客様にお越しいただきました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。




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ナイスステップな研究者 シンポジウム

昨年12月、国立科学政策研究所から「理解増進・成果普及」部門においてナイスステップな研究者に選定していただきました。そのシンポジウムが本日、文部科学省で開催され、私も参加してきました。
みなさん、本当にすばらしい研究成果で、ただただ感動して聞くばかり。特に、トランジスタモデルの世界標準化のものすごいバトルを勝ち抜いた広島大学の三 浦道子先生には、同じ女性研究者の端くれとして本当に感銘を受けました。トランジスタモデルの標準化の世界は「winner takes all」の弱肉強食の世界だそうです。投票で決まるのだそうですが、プレゼン中、自分のよさをアピールするだけではだめで、相手の弱点を徹底的に叩かなけ れば勝ち抜けないそうです。三浦先生は2006年にPenn Stateのチームと最後一騎打ちになったとき、14:17で惜敗されたそうですが、2008年にリベンジされ、42:2で圧勝し、高耐圧トランジスタの 部門の標準化モデルを勝ち取ったそうです。小柄な三浦先生が世界でその戦いをされたことを思うと、なんだか目頭が熱くなりました。
とりの講演は、「21世紀の錬金術師」といわれ、世界的に注目されている材料化学の東工大の細野秀雄先生でした。あ、そうでした。今日の10時からNHKに登場されるのでした。詳しくはそちらで。
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埼玉県教育委員会にて講演

今年度は埼玉県教育委員会と2つの共同研究を始めます。
一つ目は、初等中等教育における実践型情報モラル教育の研究です。もうひとつは、論理的表現力向上のためのトレーニング方法の開発です。

情報モラルの教育は、これまで冊子の配布やビデオの視聴などによる座学が中心でした。体験型と銘打ったものでも、情報モラルについて体験できるゲーム等のソフトを使っての学習が多く、生徒がリアリティをもたせることが難しいのが課題でした。学習直後には、著作権・個人情報などについての認識はそれなりに高まるのですが、知識と行動に乖離が見られたるのです。たとえば、著作権とはなにかという設問には正しく答えられるのに、Web上の他者の文章をそのままコピーすることに抵抗がなかったりする、というのはその典型的な例です。

そこで、生徒にリアリティをもって情報を発信するときの責任やその方法について実践的に学ばせる方法として、竹島小学校の「竹の子記者制度」に着目しました。竹島小学校では私たちの研究室で開発したNetCommonsというCMSを学校HPに活用しているのですが、その中の「汎用データベース」というモジュールを使って、子どもたち自身に学校に関する記事を外部に向けて配信させています。もちろん、何のチェックもなく記事を配信するのは危険ですが、NetCommonsの「記事承認機能」を活用して、生徒が書いた文章を担当の先生がチェックして、内容に問題がない場合だけ外部に公開しています。文章がわかりにくい・何らかの権利を侵害している、など問題がある場合にはそのつど添削指導をし、問題を解決してから外部公開しています。
これは、単なる作文指導のように見えますが、実は、
  • 状況を共有していない他者に伝わる論理的な文章を書く
  • 情報モラル等のルールを守って情報を発信する
  • Web拍手やコメントの数などの外部評価を通じて、情報発信力を高める
など、通常の作文指導を超えた効果があると考えられます。千葉県のO小学校での実践例でも、単位先生に提出するだけの作文と、他の生徒の目にさらされ、コメント等の評価が戻ってくる作文では、作文の質向上の度合いに大きな差があることがわかっています。
「他者からの評価」というと、子どもが心に傷を負わないか、ということが懸念されるかと思いますが、O小学校では「自信をもって情報を発信できる」と述べた生徒の割合が、事前が35%であったのに、事後は90%まで向上したことから、前向き・具体的なコメントをするように、など事前に一定のルールを設ければ、効果的な指導になることが期待されます。

参考文献:
Noriko H. Arai, Ryuji Masukawa
Proceedings of the 10th IASTED International Conference on Computers and Advanced Technology in Education   127-131   2007年10月
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藤原科学財団50周年記念講演会

王子製紙社長だった藤原銀次郎氏は、1938年(昭和13年)、私財を投じて藤原工業大学(現慶応義塾大学理工学部)を創設、また共立女子大学への寄付するなど育英事業に尽力されました。そして、満90歳のときに私財1億円を寄付して創設したのが藤原科学財団です。その藤原科学財団が50周年を迎え、記念講演会が開催されました。

そんな伝統ある財団の50周年に私などがパネラーとして登場するのはあまりに場違いですが、たぶん、「身近な科学」とか「文系と理系の狭間」という文脈で選んでいただいたのかと思います。(あるいは、単なる誤解で選ばれたのかも絵文字:うーん 苦笑
ご一緒させていただいた、村山斉さんと束村博子さん、コーディネーターの読売新聞の柴田さんは、全員同年代で話がはずみ、楽しくお話させていただきました。

あまりに楽しくて、何を話したのかよく覚えておらず・・・近日中に読売新聞で記事になるのが、やや恐ろしい私です。
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