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カテゴリ:書評

2023年に巡り合った印象的な10冊の本

2023年も今日を含めて残すところあと2日となりました。


そこで、今年読んだ書籍の中から特に印象深い10冊を刊行日順に選ぶと、以下の通りとなります。なお、文庫化や再版の作品は除き、一人の著者で複数の書籍が刊行された場合はとりわけ素晴らしい1冊を選んでいます。

 

  • 君塚直隆『貴族とは何か』(新潮社)
  • 竹内桂『三木武夫と戦後政治』(吉田書店)
  • 温又柔『私のものではない国で』(中央公論新社)
  • 岩井秀一郎『今村均』(PHP研究所)
  • 増田弘『政治家石橋湛山研究』(東洋経済新報社)
  • 澤宮優『天守のない城をゆく』(青土社)
  • 植朗子『キャラクターたちの運命論』(平凡社)
  • 高坂正堯 『歴史としての二十世紀』(新潮社)
  • 岡本隆司『物語 江南の歴史』(中央公論新社)
  • 伊東潤『デウスの城』(実業之日本社)


君塚直隆先生の『貴族とは何か』(新潮社)は、英国の事例を手掛かりとして、身分制度としての貴族のあり方の変遷と、貴族が社会状況の推移に伴っていかなる役割を担ってきたかを明快に説き起こしており、「貴族とは何か」という力強い書名とともに貴族の持つ意味をよりよく知るための格好の一冊となっています。


竹内桂先生の『三木武夫と戦後政治』(吉田書店)は、三木武夫研究の第一人者である竹内先生の博士論文とその後のご論考をもとにした一冊で、「クリーン三木」「バルカン政治家」「議会の子」といった広く知られたあだ名以上に、高らかに掲げた理念と派閥政治家として権力の維持との間で腐心する様子などが実証的に描かれており、これまでの三木武夫研究を集約し、今後の研究の出発点となる快著です。


温又柔さんの『私のものではない国で』(中央公論新社)は、「国」や「ことば」について小説の形を通して絶えず問い続けてきた温さんの一つの到達点というべきもので、平明な語り口の中に凝縮された濃密な目的意識が、読む者に「当たり前のこととは何か」を鋭く提示する一冊です。改めて小説の持つ力の大きさが実感されます。


岩井秀一郎先生の『今村均』(PHP研究所)は、平時であれば可もなく不可もない一人の軍人として生涯を終えたかも知れない今村均が、時世の奔放な流れによって歴史の表舞台に登場し、「不敗の名将」となった過程とその後の姿を、丹念な史料の検討や調査を通して、活き活きと描き出す、意義深い一冊です。


増田弘先生の『政治家石橋湛山研究』(東洋経済新報社)は、現在の石橋湛山研究の基礎を確立した増田先生が政治家としての石橋湛山の事績に焦点を当てた一冊で、特にご専門の一つである公職追放問題の研究から得られた成果による石橋の追放問題の検討は、類書にはない大きな特徴となっています。


澤宮優さんの『天守のない城をゆく』(青土社)は、「日本のお城と言えば天守閣」という通念を打ち破る一冊で、城の成り立ちから文化財としての城の保護、さらには現在の「再建ブーム」まで取り扱うことで、城が決して過去の遺物でも、天守閣によってもっている建造物でもなく、今なおわれわれにとって身近で、しかも広がりのある存在であることを丁寧に描く、優れた一冊です。


植朗子先生の『キャラクターたちの運命論』(平凡社)は、『岸辺露伴は動かない』や『ゴールデンカムイ』『鬼滅の刃』など6つの漫画作品を取り上げ、登場人物たちを翻弄する「運命」が作者による創造の枠を超えて、それ自体で大きな意味を持つことを作品そのものに即して明快に説いており、すでに読んだ作品はもう一度読み直したく思われ、未見の作品は手に取りたくなる魅力を湛えた快作です。


高坂正堯先生の 『歴史としての二十世紀』(新潮社)は、1996年に没した高坂先生の講演を書籍化したもので、1990年の講演当時の国際情勢と現在の世界情勢に通底する「国際秩序の転換期」とそのような大きな変化に直面して世界がどのように対応すべきかを考えるための、得難い一冊となっています。


岡本隆司先生の『物語 江南の歴史』(中央公論新社)は、「中原」を中心として展開した中国の歴史を考える上で不可欠な、長江流域の江南地方に焦点を当てることで、「一つの中国」という考えの持つ虚構性と中国の多様性を歴史的、同時代的に検討する一冊となっています。岡本先生の該博な中国史に対する理解と洒脱な筆致は、本書の魅力を一層高めています。


伊東潤先生の『デウスの城』(実業之日本社)は、関ケ原の合戦で主家を失うという運命の岐路に直面した3人の若者が島原の乱で再会を果たす様子を描いた一冊で、「神とは何か」「信仰とは何か」といった人間の存在そのもに関わる問いを正面から取り上げ、最新の歴史研究の成果と、研究の隙間を埋める想像力の絶妙な融合を堪能できる快著です。


今年も著者の皆さん、編集者の方々、そして出版社の不断の努力によって、様々な素晴らしい書籍に巡り合えたことを感謝します。


そして、来年も素敵な1冊を手にできることを楽しみにしています。


<Executive Summary>
My Best Ten Books of 2023 (Yusuke Suzumura)


I selected my best ten books of 2023. In this occasion I show the list and breif commnets of these books.

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【書評】君塚直隆『貴族とは何か』(新潮社、2023年)

去る1月25日(水)、君塚直隆先生のご新著『貴族とは何か』(新潮社、2023年)が刊行されました。


貴族の姿を古代から現代にいたるまで通覧する本書は、特権的身分としての貴族ではなく、自らに課せられた「高貴な義務」を果たすことで社会の発展と人々の福祉に貢献する存在としての貴族の姿を鮮やかに描き出します。


特に、古代以来世界各地で生まれた身分としての貴族が消滅・解体する過程と、現在も「貴族院」を有し、社会に対して一定の影響力を保つ英国の実情を対比させる様子は圧巻です。


すなわち、特権的地位に安住したことが大革命におけるフランスをはじめとして、各地の貴族の衰亡をもたらす一方、積極的に政治や社会活動に参画したことが英国の現在に繋がったことを分析するのは、貴族の存在をよりよく理解するために重要な手掛かりを与えます。


また、英国の貴族の特徴として豊かな経済的基盤に着目し、その経済力が社会貢献活動に繋がり、人々の尊敬を勝ち得たという点を説得的に解き明かすことは、社会経済史の側面からも興味深い視座を提供するものです。


日本についても1300年来続いた貴族と明治維新後の華族制度が健宇されます。そして、大半が脆弱な経済基盤しか有していなかったことが華族から社会貢献の機会を奪い、歳費のある貴族院議員となることへの欲求を高め、「高貴な義務」を果たすよりも目先の利益を優先する結果になったとするのは、説得力があります。


世界の歴史を巨視的に眺めつつ、現在の問題とのかかわりから貴族の姿を捉え直し、権利だけでなく責務を果たすことで社会の健全な発展に寄与するという心構えと実際の行いによって、誰もが「貴族」になれるという視点は、貴族の持つ意味の可能性を力強く訴えます。


何より、国家はそれじたいで存在するのではなく、一人ひとりの国民が形成するものであることを考えれば、本書の描く「誰もが貴族になれる」という発想は、国家も徳を備え世界の健全な発展に寄与することが重要であるという立場に帰着します。


これは、例えば日本は他国を指導するに足る徳を十分に備えてはいないという石橋湛山の植民地放棄論や、日本は国家としての経済力に見合うだけの国際社会への交換を行う必要があるという稲盛和夫の素封家国家論にも繋がる味方です。


その意味でも、『貴族とは何か』は、貴族の成り立ちと発展、そして現代的な意義を解き明かすだけでなく、より多くの方が手に取り、それぞれの興味と関心に従って読み進めることで多くの知見を得られる、意義深い一冊なのです。


<Executive Summary>
Book Review: Naotaka Kimizuka's "Kizoku towa Nanika" (Yusuke Suzumura)


Professor Dr. Naotaka Kimizuka published book titled Kizoku towa Nanika (literally What Is an Aristocrat?) from the Shinchosha on 25th January 2023.

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【書評】伊東潤『一睡の夢』(幻冬舎、2022年)

昨年12月14日(土)、伊東潤先生の小説『一睡の夢』(幻冬舎、2022年)が刊行されました。


前作『天下大乱』(朝日新聞出版、2022年)では、徳川家康と毛利輝元という、ともに自らの凡庸さを自覚する2人を対比させ、関ケ原の戦いへと至る過程に焦点を当て、1990年の英国のテレビドラマHouse of Cardsのように人々の欲と野望に満ちた姿が取り上げられました。


今回は、関ケ原の戦いを経て公儀から一大名へと転落した豊臣家と、新たに日本を支配する地位を手にした徳川家との相克を、徳川家康と淀君を通して描き出します。


このときに手掛かりとなるのは、『天下大乱』で取り入れられた「徳川家康と豊臣秀頼のどちらが時間を味方につけているか」という考えです。


年齢の差が50歳あり、一方はやがてこの世を去り、他方はこれから人となるという両者の違いは、本作でも重要な役割を果たします。


すなわち、かつては栄華を誇ったものの今や多くの大名が離反し、難攻不落の大阪城を除いては頼るべきもののない豊臣家にとっては、徳川家康の寿命が尽きるまで生き延びることが不可欠であり、徳川家康としては存命中に最大の敵である豊臣家を滅ぼさなければ徳川家の安泰はないという点は、両家の対立に緊迫感を与えます。


また、実父である浅井長政と養父の柴田勝家を戦乱の中で失った淀君にとって豊臣家、何よりわが子の豊臣秀頼の安寧こそが唯一の願いであるとともに、母であるお市の方から教えられた「乱世にあって最も大切なのは誇り」という考えは揺るぎのないものであり、徳川家に膝を屈してでも家を永らえるか、豊臣家の誇りをもって最期を迎えるか、という葛藤は、「無位無官ながら嫡男を生んだということだけで豊臣家を差配し、選択を誤った」と思われがちな淀君の人物像に奥行きを与えるものです。


これに対し、本作の徳川家康も「智謀に長けた狸爺」といった通念に修正を迫るものに他なりません。


武将としては凡庸ながら治世にはその凡庸さが必要な徳川秀忠に征夷大将軍としてのあるべき姿を示しつつ、成長の跡が認められない様子に煩悶とするありさまは、「父としての家康」という新たな像を提示します。


しかも、「父としての家康」の苦悩は徳川秀忠に対してのみではなく、「徳川家の父」として次の世代にも及ぶことは、優れた武将ながらその勇武さは治世に無用となる松平忠直への評価や、将軍家の藩屏となるべき徳川義直への訓導の場面に鮮やかに示されるとともに、その後の「徳川の平和」を予告するものでもあります。


そして、徳川家康と淀君との間の父と母の争いをより一層印象深いものにするのは、誇りよりも家の安泰のために方策を尽くす豊臣秀吉の正室であった高台院や、豊臣家の家宰でありながら徳川方の離間策によって大阪城を去った片桐且元、大坂冬の陣の際の、勲功を上げることを優先する牢人たち、あるいは駿府と江戸の二元体制下に生きる徳川家の諸臣や豊臣家滅亡後に備えて戦功を残すよう配慮された徳川家譜代の諸将などの姿です。


『武田家滅亡』(角川書店、2007年)で滅びの中に光る未来への期待を印象深く書いた手腕は今回も健在であり、簡潔な文体と最新の歴史学の成果を積極的に取り込んだ構成が加わることで、物語は重厚で濃密な歴史絵巻となりました。


「天下の静謐のためには戦わなければならない」という逆説的な状況を通して戦乱の世の最後を生きた人々の様子を知るためには、『一睡の夢』は欠かすことの出来ない快作です。


<Executive Summary>
Book Review: Jun Ito's "Issui no Yume" (Yusuke Suzumura)


M. Jun Ito published book titled Issui no Yume (literally A Dream During a Nap) from the Gentosha on 14th December 2022.

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【書評】峯村健司『ウクライナ戦争と米中対立』(幻冬舎、2022年)

去る9月20日(火)、峯村健司さんの新著『ウクライナ戦争と米中対立』(幻冬舎、2022年)が刊行されました。


本書は、2022年2月24日(木)に始まったロシアによるウクライナへの侵攻を開始したことを受け、現在の世界は従来の国際秩序の転換点にあるという理解に基づき、峯村さんが各分野の専門家と行った討論をまとめたものです。


対話に参加したのは、2020年に6回にわたり幻冬舎が主催した連続講座「米中激突!どうなる『新冷戦』」で峯村さんが議論を行った鈴木一人、村野将、小野田治の各氏と、小泉悠と細谷雄一の両氏でした。


国際政治、宇宙政策、安全保障、防衛政策、ロシア研究など、対話の相手の専門分野は異なるものの、本書を貫くのは、ロシアによるウクライナへの侵攻によって明らかになった現在の米国の対外政策や安全保障政策が、中国による台湾併合に向けた軍事行動としての台湾有事の可能性を高めるのであり、台湾有事に対して日本はどのような対応策を講じるべきかという問題意識です。


こうした観点からなされる対話から導かれるのは、世界の超大国としての米国が世界の警察官の役割を放棄した現在、国際秩序は米ソが対立した冷戦期のように米中の二極の対立を基軸としつつ、19世紀半ばから20世紀初頭の帝国主義時代のように多極化が進み、複数の大国による権力に基づく政治、すなわちパワーポリティクスの時代の到来という構図です。


一連の議論の中でしばしば強調されるのは、新しい国際秩序の中で日本はいかなる立場に置かれるかという点です。


日本国内では遠い国の話と思われがちなウクライナ戦争ではあるものの、実際には国際秩序の転換をもたらす出来事であり、新たな秩序の下で生き残るための、新しい国家戦略や国のあり方を議論することが必要という考えは、読者に重要な視点を提供します。


それとともに見逃せないのが、いずれの対話も専門家への質問と回答という一方的なあり方ではなく、聞き手である著者が時に各専門家と踏み込んだ議論を行っていることです。


ノンフィクション作家のコーネリアス・ライアンが取材の対象について徹底して調査を行ったうえで、それでも解き明かせなかった問題について聞き取りを行ったように、著者も、米中両国に特派員として駐在した経験を持ち、両国の政治や経済、社会などの様々な問題について確かな理解を備えているために、聞き役に徹するのではなく、質問者であると同時に対話者になったと言えるでしょう。


もちろん、聞き手は回答者を引き立てる存在であり、その役割は限定されていると考えることもできます。


それでも、5人の専門家との対話を通してウクライナ戦争に関する問題の所在が明らかになり、さらにウクライナ戦争が台湾有事の可能性を高める構造が示されたのは、ひとえに著者が専門家から真摯な回答を引き出すための十分な力量を持ち、その力量を遺憾なく活用していたからに他なりません。


奇しくも現在日本国内で重要な政治上の課題となっているのは、防衛費増額問題です。


戦後の日本の安全保障政策の転換点ともも称される防衛増額問題は、日本に住む人々一人ひとりにとって重要な意味を持ちます。


また、本書のように多様な観点から問題を考える姿勢は、事柄を一面から眺めるだけでは得られない、対象についての新たな理解をもたらします。


それだけに、時事的な話題を取り上げつつも今後日本と世界の進むべき道を模索する『ウクライナ戦争と米中対立』は、価値の変動期だからこそ大きな意味を持つと言えるのです。


<Executive Summary>
Book Review: Kenji Minemura's "The Ukraine War and Confliction between the USA and China" (Yusuke Suzumura)


Professor Kenji Minemura published book titled The Ukraine War and Confliction between the USA and China from the Gentosha on 20th September 2022.

 

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【書評】岩井秀一郎『服部卓四郎と昭和陸軍』(PHP研究所、2022年)

去る6月29日(水)、岩井秀一郎先生のご新著『服部卓四郎と昭和陸軍』(PHP研究所、2022年)が出版されました。


本書は、大東亜戦争中に二度にわたり参謀本部戦争課長を務めた服部卓四郎の生涯と昭和期の陸軍のあり方に焦点を当て、陸軍の体質が個人にいかなる影響を与えるか、そして一人の軍人の行動がいかにして組織全体の動向を左右するかを実証的に検討した一冊です。


今回「太平洋戦争」ではなく「大東亜戦争」の呼称が用いられているのは、服部の著書が『大東亜戦争全史』であることと、服部と「太平洋戦争」の呼び名が対応しにくいという観点によるものです。


陸軍大学校を卒業し、フランスに留学するなど「エリート」としての道を歩み、1939年のノモンハン事件によって注目を集めて大東亜戦争の指導的立場を得たこと、そして戦後はGHQの下で戦史の編纂に携わったことなど、服部の足跡は一見すると華やかであり、また時代の変化を巧みに生き抜いたと思われます。


しかし、本書は未刊行の資料や各種の文献を活用し、昭和期の陸軍が積極的な戦略や作戦を高く評価するという体質を持った組織であり、そのような気風の中で「エリート」として経験を重ねた服部が自ずから積極論者となったことを明らかにします。


また、参謀本部の下僚であった辻政信らとともに積極論を唱えた服部が戦中の陸軍全体の進路を方向付けたことは、陸軍の組織としての欠陥であるとともに、個人が現に存在する欠陥をさらに大きくしたとすることは、説得的です。


あるいは、優れた知識と洗練された人柄を備えていたものの視野の広さや謙虚さに欠け、責任感の点でも問題があったにもかかわらず、服部が参謀本部作戦課の後輩たちから高い評価を得ていた理由を考究し、一つの結論を得たことも見逃せません。


すなわち、人柄といった表面的な事柄ではなく、服部の戦中の責任を明確にすることは、その指揮の下で作戦の立案に携わった参謀本部作戦課の人々にとって自らの責任を認めることに他ならず、そのために服部への批判を抑えることで自分たちも「戦争責任」から逃れようとした可能性が指摘されている点は、組織と個人または個人間の関係を考える上でも重要となります。


社交性を活かして大使館駐在武官となり、他国の外交官や軍人と交際して情報を収集することが最も適任であったと指摘される服部が戦争遂行の中心的な役割を担ったこと、そしてそうした人物に作戦課長の要職を任せた陸軍の構造的な問題は、今日のわれわれにとっても組織と個人のあり方をよりよいものとするために重要な知見を提供します。


そして、「服部に全ての責任を負わせるのではなく、巧みな処世術で激動の時代を生き抜いた服部を通して戦前から戦後の日本のあり方を考えたい」という執筆の意図に貫かれた『服部卓四郎と昭和陸軍』は、今後服部卓四郎を考える際に欠かすことが出来ず、昭和期の陸軍や太平洋戦争に関わる研究の基礎をなす好著と言えるでしょう。


既刊『永田鉄山と昭和陸軍』(祥伝社、2019年)に続く岩井秀一郎先生の「昭和陸軍もの」がさらに続けられ、『昭和陸軍』として一冊にまとめられることが期待されます。


<Executive Summary>
Book Review: Shuichiro Iwai's "Hattori Takushiro and the Showa Army" (Yusuke Suzumura)


Mr. Shuichiro Iwai published book titled Hattori Takushiro and the Showa Army from the PHP Institute on 29th June 2022.

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【書評】室靖治『「記録の神様」山内以九士と野球の青春』(道和書院、2022年)

去る6月30日(木)、室靖治さんの『「記録の神様」山内以九士と野球の青春』(道和書院、2022年)が刊行されました。


本書はプロ野球パシフィック・リーグの第2代記録部長を務めたほか、野球規則の検討や1936年に始まる日本職業野球連盟とその後継組織による公式戦の記録の整備など、野球界の発展の基盤を支えた山内以九士の人となりを、孫である著者が描く一冊です。


新聞記者として培った取材や調査の能力をいかんなく発揮して山内が残した随筆や論考を渉猟し、関係者への聞き取りを徹底して行うとともに、「母方の祖父が山内以九士」という他の追随を許さない立場を最大限活用し、親族だからこそ知ることのできる日常生活の様子や豊富な図像資料を織り込むことで、山内以九士という一人の人物を通して1910年代から1970年代初頭までの日本の野球界の変遷を辿れるのは、本書の大きな特徴の一つです。


また、話をしながらでも編み棒を動かせるほど編み物に熟練し、福砂屋のカステラが大の好物で、煎茶にも一家言持ちながら、自分一人では湯を沸かすことさえできないという逸話はなど、しばしば「奇人」「変人」と称された山内の趣味人ぶりと生活力のなさを示します。


一方、「家の敷地を通るだけで宍道湖まで行ける」と称されるほどの財力を誇り、島根県松江市を代表する豪商であった山内佐助商店の跡取り息子に生まれながら、家業ではなく野球に関わる仕事にあらゆるものを注ぎ込んで取り組んだことで家運が傾き一家が零落する姿は、一つのことに全てを賭けることの崇高さと悲惨さをも伝えます。


それとともに、徴兵検査で丙種合格となるほど体躯には恵まれなかったものの記録に傾ける情熱は他の追随を許さないという山内のような人物がいたからこそ、社会的な地位の低かった職業野球が技術だけでなく制度の面でも発展できたことを具体的な逸話に基づきつつ丹念に実証する本書の姿は、野球を行うのも、観るのも、そして記録するのもいずれも人間であるという、ごく当然ながらわれわれがしばしば忘れがちな事実を改めて教えるものです。


職業野球の草創期から発展期という「プロ野球の青春時代」を駆け抜け、『ベースボール・レディ・レコナー』のような米国球界も注目する画期的な成果を残して日本球界の進歩に大きく貢献するとともに、長女を30歳で失うと2人の遺児をとりわけ可愛がるなど、山内は多岐にわたる相貌を持ちます。


その意味で、『「記録の神様」山内以九士と野球の青春』は山内以九士をよりよく知るだけでなく今後の山内研究の出発点となるとともに、野球という競技の持つ奥行と幅の広さを鮮やかに映し出す好著と言えるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: Myasuji Muro's "Yamanouchi Ikuji, the God of Baseball Records, and the Springtime of Baseball" (Yusuke Suzumura)


Mr. Yasuji Muro published book titled Yamanouchi Ikuji, the God of Baseball Records, and the Springtime of Baseball from Dowa Shoin on 30th June 2022.

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【書評】マンボウやしろ『あの頃な』(角川春樹事務所、2022年)

去る2月18日(金)、マンボウやしろさんの小説『あの頃な』(角川春樹事務所、2022年)が刊行されました。


本書は、新型コロナウイルス感染症の「誕生」に始まり、「コロナ下」の人々の姿や「コロナ後」の世界の様子、さらに新型コロナウイルスと人間の対峙などを主題とする書下ろしの短編25作からなります。


一見すると相互に繋がりの内容に思われる25編ながら、実際には「コロナ下」での出来事が未来の世界の背景として織り込まれるなど、綿密に練り上げられた構成は作品の魅力を高めます。


また、芸能界での活動から出発し、現在はラジオ番組の司会や舞台の脚本の執筆などを主たる活動の場とするという著者自身の経歴は、「ラジオのコロナ」や「鉄仮面」「闇コロナ営業」などの各章にいかんなく発揮されています。


その一方で、日々の光景が未知の世界への入り口となることを教える「役者と魂」や、人間そのものへの深い信頼を宿す「世界一のギタリスト」は、『ランゴリアーズ』や『トム・ゴードンに恋した少女』といったスティーヴン・キングの作品のように、冷徹な恐怖と豊かな人間性を巧みに融合させることに成功し、読者の注意を惹きつけて離しません。


もちろん、線の太い描写や日常的な語彙に基づく叙述などは、一面で初めて執筆された小説ゆえの、これからのさらなる変化を予告する特徴であるかもしれず、他面では職業小説家と最初の小説を上梓した作家との違いかもしれません。


しかし、時に世相を風刺し、時に何気ない出来事が世界の真理へと繋がることを示唆する豊かな発想力と創造性は本作の大きな魅力です。


その意味でも、『あの頃な』は、今後「コロナ文学」を考える際に不可欠な一策であるばかりでなく、他の様々な主題での創作活動への期待を高める一冊と言えるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: Manbou Yashiro's "Ano Koro Na" (Yusuke Suzumura)


Mr. Manbou Yashiro published book titled Ano Koro Na from Kadokawa Haruki Corporation on 18th February 2022.

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【書評】伊東潤『威風堂々』上下巻(中央公論新社、2022年)

去る1月10日(月)、伊東潤先生のご新著『威風堂々』上下巻が中央公論新社から出版されました。


本書は佐賀新聞での連載をまとめたもので、大隈重信が幕末維新期の動乱から明治時代における新国家の建設、そして新たな発展の段階を迎えた大正時代までどのように生き、何を目指し、何を成し遂げたかが描かれています。上巻の副題は「幕末佐賀風雲録」、下巻は「明治佐賀風雲録」です。


要領のよさでは人一倍の能力を発揮した「河童の八太郎」が鍋島閑叟や江藤新平、大木喬任、副島種臣、佐野常民ら佐賀藩の人々の薫陶や切磋琢磨を通して時代を牽引する存在となる様子からは、本書が一種の教養小説もしくは青春小説であることを伝えます。


また、持ち前の弁舌の巧みさや理財への明るさ、さらに語学の堪能さや思考の明晰さなどにより、維新後は新政府内の小勢力となった佐賀藩を代表し、薩摩藩の大久保利通や長州藩の伊藤博文といった傑物から多くを学び、自らの政治的な信念と感覚を磨き上げる過程は、作品に奥行きを与えます。


これに加えて、最新の研究成果を積極的に摂取し、1889(明治22)年に来島恒喜の投げた爆弾により重傷を負い、右足を失った遭難事件について、馬車の中の大隈が右足を上にして組んでいたことを記したり、柏木綾子との出会いから結婚に至るまでの課程などは、歴史的な事実の描出と、それぞれの事実が埋めきれない余白を補う作者の創造性を知るための格好の事例です。


一方、2度にわたり内閣総理大臣を務め、後に私学の雄となる早稲田大学の前身である東京専門学校を設立して人材の育成に尽力し、さらに日本の文明の水準を向上させるための啓蒙団体である大日本文明協会を初めとして様々な民間団体の会長職などを兼ねるなど、大隈の活動は多岐にわたります。


そのため、明治時代に入ってからは政治家としての活動を中心とし、教育者としての事績が続くものの、その他の側面については記述の分量が少なくなっているという点については、読者の間で是非の判断が分かれるかも知れません。


しかし、「日本がよりよい国になるためには何をなすべきか」という考えが青年期から最晩年まで大隈を一貫する問いであったことも否めません。


従って、本書が国を実際に動かす政治と、よりよい社会の担い手を育てるための教育に特に注目したことは、大隈の多様な姿を見失わせるのではなく、むしろ象徴的な事例を通して大隈の重層的な活動を力強く表現しています。


このように、『威風堂々』は歴史書と小説との間を巧みに架橋することで、歴史小説の妙味を存分に堪能できる好著と言えるのです。


<Executive Summary>
Book Review: Jun Ito's "Ifu Dodo" (Yusuke Suzumura)


Mr. Jun Ito published two-volume book titled Ifu Dodo (literally Full-Blown Dignity) from Chuokoron-Shinsha on 10th January 2022.

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【書評】伏見博明『旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて』(中央公論新社、2022年)

今年1月26日、伏見博明氏の『旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて』(中央公論新社)が刊行されました。


本書は伏見宮家の第24代当主で1947(昭和22)年に皇籍離脱を行った伏見博明氏に行った全10回の聞き取り調査の結果をまとめたもので、編者は古川江里子先生と小宮京先生です。


1409(応永16)年に成立し、天皇一家及び直宮家以外の旧皇族の「本家」、あるいは「もうひとつの天皇家」とも称される伏見宮家の最後の当主であり、戦後は皇籍を離れて一人の市民としての日々を送った伏見氏の足跡を振り返る本書が特に注目するのは、皇族の日常生活や、戦時中の皇族のあり方、さらに天皇と皇族の関係です。


例えば、幼少期から人前に立つための心構えを教えられ、学習院初等科に進学して以降は通学のために電車に乗る場合でも決して居眠りをすることはない、あるいは食事や就寝は伏見宮邸の広い自室で一人で行うといった逸話は、天皇を守るための存在としての宮家のあり方がどのようなものであったのかを示す格好の事例です。


また、皇籍離脱の際に昭和天皇が対象となった11の宮家の行く末を案じ、天皇家と旧皇族との交流の場である菊栄親睦会を設けたことや、家産のあった宮家は皇籍離脱後も一定の生活水準を維持できたものの、宮内省の土地を借りていた宮家はその後の税金の支払いなどで経済的に困窮し、さらに旧宮家を利用しようとする人々に騙されて不本意な生涯を送ることもあった、といった話も、11宮家を取り巻くその後の生活の過酷さを物語ります。


その一方で、15歳で皇籍を離脱した伏見氏が自ら将来への大きな期待を持ちながら新たな人生を踏み出し、「日本人がいないから」という理由でケンタッキー州に4年間留学して見聞を広めたこと、あるいは年の近しい当時の皇太子明仁親王との学習院時代からの交流などは、氏の屈託のない人柄をよく表しています。


惜しむらくは会社員時代の伏見氏の活動に割かれた紙面がわずかであったことで、これは一面において本書の主題との関係の結果であり、他面では現在でも会社員時代に関わりのあった人たちとの利害関係に配慮したためであることが推察されます。


しかし、こうした点は本書の持つ意義を損なうものではありません。


現在、皇位継承権者が3名のみとなり、安定した皇位の継承そのものが危うくなるなど、皇室のあり方はこれまで以上に重要な問題となっています。


そうした中で旧宮家の皇籍への復帰も、問題の解決のための選択肢として議論されています。


一見すると適切な案のようにも思われる考えながら、本書が示す皇族としての生活のあり方は、「生まれながらの民間人」となった旧宮家の人々がはたして皇族に求められるあり方の基準をどこまで満たせるかが新たな問題になりうることをわれわれに教えます。


その意味でも、『旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて』は戦前の皇族の行動様式を活き活きと伝えるだけでなく、「皇族とは何か」、「皇位の安定的継承の何が問題か」を考えるための格好の手掛かりとなる一冊と言えるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: Hiroaki Fushimi's "Born in the House of Fushimi-no-Miya: The Originator of the Former Imperial Families" (Yusuke Suzumura)


Mr. Hiroaki Fushimi published a book titled Born in the House of Fushimi-no-Miya: The Originator of the Former Imperial Families from Chuokoron-shinsha on 26th January 2022.

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【書評】岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』(祥伝社、2021年)

去る12月10日(金)、岩井秀一郎先生のご新著『最後の参謀総長 梅津美治郎』(祥伝社、2021年)が刊行されました。


本書は、1944(昭和19)年7月に参謀総長となり、翌年9月2日に戦艦ミズーリ号の艦上で大本営全権として降伏文書調印式に臨んだ「最後の参謀総長」梅津美治郎を取り上げ、大分県中津町に生まれた「是永美治郎」が2・26事件、ノモンハン事件、ポツダム宣言受諾と敗戦処理の3つの「後始末」を行うに至ったかを検討します。


陸軍大学校を首席で卒業したことが示す明晰な頭脳を持ちながら、派閥を形成したり他の軍人兵士と「親分子分」の関係を作らなかったこと、さらに喜怒哀楽を示さない態度であったことなどから、「陰謀家」「何を考えているか分からない」「統制派の巨頭」といった批判を受けて来たのが梅津でした。


その様な梅津の足跡をこれまでの研究成果や各種の史資料、さらに梅津家への聞き取りと資料調査によって描くことで明らかになるのは、軍人の政治への干与を強く戒めた「軍人勅諭」に忠実であった姿です。


一方で、軍人の本分を守り、政治と距離をとったことで、かえって軍が危機的な状況を迎えた際に梅津が輿望を担って「後始末」の役目を託されたという事実は、昭和に入ってからの軍部が常態を逸するだけでなく、異常な状況が改められないままであったことをわれわれに教えます。


それとともに、「東條英機ではなく梅津が首相兼陸相であれば日米開戦を避けられた」といった主張について、その時代を経験していないわれわれが安易に判断するのは避けるべきという著者の抑制的な態度(本書245頁)は、梅津の禁欲的ともいえる態度に通じるものがあります。


こうした姿勢は梅津に対する評価を著しく高めたり過小に見積もることを避け、秩序を重んじ、慎重に事柄を進めつつ判断すべき時に適切な判断を下す梅津の姿を明瞭に描き出すことに大きく寄与しています。


梅津家が所蔵する一家団欒の様子を収めた写真(本書115頁)といった一人の人間としての等身大の像も紹介する『最後の参謀総長 梅津美治郎』は、これまでの梅津美治郎研究を概観するために好適であるとともに、今後の梅津研究のために不可欠な一冊といえるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: Shuichiro Iwai's "Yoshijiro Umezu, the Last Chief of the Army General Staff" (Yusuke Suzumura)


Mr. Shuichiro Iwai published a book titled Yoshijiro Umezu, the Last Chief of the Army General Staff from Shodensha on 10th December 2021.

 

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【書評】伊東潤『夜叉の都』(文藝春秋、2021年)

去る11月22日(月)、伊東潤先生の小説『夜叉の都』(文藝春秋、2021年)が上梓されました。


「武士の府を築く」という大義のために生涯を捧げた源頼朝とその志を貫徹しようとする北条政子の姿を描いた『修羅の都』(文藝春秋、2018年)を受け、前作が断片的に描いた頼朝の亡き後の鎌倉府の様子が主題となります。舞台となるのは第2代将軍源頼家の治世である1199(建久10)年から、藤原頼経が第4代将軍となる1226(嘉禄2)年までの27年間です。


夫である源頼朝の築いた「武士の府」を守るため、時に政敵を排除し、時に後鳥羽上皇という超人的英雄を擁する朝廷と対決し、さらに肉親にも非情な態度で臨む北条政子は、「私は死ぬまで夜叉の道を行くのか」と疑念を抱きつつも、己に課せられたと信じる道を歩み続けます。


源頼家の独裁的な統治を抑えるために13人の宿老の合議制が確立された鎌倉府は、相次ぐ政争や宿老の引退や死没を経て、次第に北条政子の弟である北条義時に権力が集中します。


このような歴史的な出来事を背景に、北条政子が「武士の府」の維持のために迫られる決断の数々と人の親ゆえの懊悩、さらにわずかな土地でも所領を増やすためには肉親をも裏切る鎌倉武士たちの餓狼のような姿が、恬淡とした筆致で書き進められます。


また、入念な文献の調査と最新の研究成果を取り込み、「ちなみに」の一語とともにそれらの内容を挿話的に紹介することは物語に奥行きと広がりを与えます。


その一方で、源頼家の遺児である公暁が源実朝を暗殺した経緯のような、学界で定説が確立されていない問題を作品の中に組み入れることで一つの答えを示すとともに物語の展開の重要な要素とする点は、歴史上の話題を取り上げ、時代の雰囲気を可能な限り再現しつつ、作者の歴史に対する見方を示すという意味での歴史小説の真骨頂と言えるでしょう。


特に、物語の終盤で政子と義時という実の姉弟を待ち受ける展開は読者の予想を超えるものであるとともに、そうした状況へと至る伏線の設定は、『鳴門秘帖』や『剣難女難』における吉川英治の洗練された手腕を彷彿とさせるものです。


あるいは、人物の造型や構成だけでなく、後鳥羽上皇の挙兵の報を受けて御家人たちに呼びかける北条政子の様子を描く五級の階の場面は『修羅の都』と直接に結び付くもので、前作の読者にとってはひときわ感慨深いものとなることに違いありません。


そして、「餓狼」とも表現される鎌倉武士たちが見せる快活な笑顔や、源頼家や源実朝が自己との苦闘の末に凛然とした姿を示す様子は多くの惨劇とも言うべき出来事とともに紡がれる物語だけにますます印象深く、読み手に強い印象を与えます。


最後に「夜叉」の持つ真の意味を了解した北条政子の姿を含め、『夜叉の都』は歴史小説の魅力に満ち、読者の注意を引いて逸らさない傑作です。


<Executive Summary>
Book Review: Jun Ito's "Yasha no Miyako" (Yusuke Suzumura)


Mr. Jun Ito published a book titled Yasha no Miyako (literally The City of Yaksha) from Bungeishunju on 22nd November 2021.

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【書評】古田元夫『東南アジア史10講』(岩波書店、2021年)

去る6月18日、古田元夫先生のご新著『東南アジア史10講』(岩波書店、2021年)が刊行されました。


本書は青銅器時代から現在に至るまでの東南アジアを対象に、地域の地理的、文化的、政治的、宗教的な特徴と変化を時代の推移とともに概説します。


人種的には南方系のモンゴロイドに属する人々を中心とするものの、言語や宗教の面で多様で、あるいみで「まとまりのない」(本書5頁)を結ぶ共通性として稲作農業と海域に形成された交易網を挙げる本書が描くのは、陸域に基盤を置く国家と海域を中心とする国家の盛衰です。


紀元前からの中国歴代王朝の影響や、7世紀のイスラム教成立後のインド洋におけるムスリム商人の活動、さらに16世紀以降本格化するポルトガル、スペイン、日本、オランダやイギリスといった新たな外来商人の活躍の様子からは、インド洋と太平洋を結ぶ地理的な特性が東南アジア地域に交易網の中心の地位を与えるとともに、その後の欧米諸国による植民地支配の加速をもたらしたことがよく分かります。


特に植民地支配の進展からナショナリズムの勃興を経て、第二次世界大戦とその後の東南アジア諸国の独立、そして東西冷戦への主体的な対応を取り扱う第5講から第8講までは、それまでの東南アジアの歴史とその後の現在までの過程を知るためにも重要な箇所です。


そして、こうした本書の記述を支えるのは、日本を含む周辺の大国や欧米の勢力からではなく、東南アジア各地のその時々の状況に対する徹底した分析から出発する視点です。


一見すると冷徹にも思われる本書の視線は、むしろ各時代の東南アジア地域が置かれた様子を明らかに描き出し、説得力を持って読者に迫ります。


2021年4月の様子までを収めた本書は、最新の話題を専門家が平易に解き明かすという新書の特色を遺憾なく発揮しています。


それだけに、『東南アジア史10講』は、今後日本にとっても国際社会にとってもますます重要度を増す東南アジア地域のこれまでとこれからを知るためにも、必読の一冊と言えるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: Motoo Furuta's "The Ten Lectures of History of Southeast Asia" (Yusuke Suzumura)


Professor Emeritus Dr. Motoo Furuta published a book titled The Ten Lectures of History of Southeast Asia from Iwanami Shoten on 18th June 2021.

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【書評】歴史街道編集部編『日本陸海軍、失敗の研究』(PHP研究所、2021年)

去る7月29日(木)、歴史街道編集部の編集による『日本陸海軍、失敗の研究』(PHP研究所、2021年)が刊行されました。


本書は昭和時代の陸海軍の活動及び太平洋戦争の和平交渉の3部に分けられ、9人の執筆者が雑誌『歴史街道』に寄稿した論考14報及び雑誌Voiceの掲載論文1報をまとめて刊行した一冊で、執筆を担当したのは初出順に保阪正康、岩井秀一郎、小谷賢、大木毅、早坂隆、原剛、戸髙一成、松田十刻、平塚柾緒の各氏です。


気鋭の歴史学者からノンフィクションの大家まで幅広い執筆者が取り扱うのは、日本の陸海軍の「失敗」、すなわち日中戦争の拡大から日米開戦、そして敗戦へと至る過程です。


二・二六事件、諜報活動、太平洋戦争における戦略、作戦、戦術のあり方、戦争の帰趨に影響を与えた重要な海戦の実相、和平交渉の実態などを検討することで「失敗」から出発して演繹的に様々な問題が明瞭な輪郭を描くのは、本書の特徴です。


しかも、戦前から戦中にかけての陸海軍の「失敗」を検証した結果は、決して過去の事例の検討に留まらず、今日のわれわれに多くの教訓を示します。


それは、時には不条理な出来事に対抗するためには力だけでなく知性も必要であることを教え(本書37頁)、常に自分たちに都合のよい状況判断や希望的観測に基づいて行動する「ベスト・ケース・アナリシス」の危うさを伝え(本書46頁)、あるいは情報が大局を変えることを示します(本書128頁)。


いずれも時代や状況のいかんにかかわらず妥当性を持つ事柄だけに、こうした点を丹念な考察の末に導き出した執筆者の努力は高く評価されるものです。


もちろん、本書のような諸論考の集成は、しばしば執筆者の違いによる研究や調査の手法あるいは分析の精度の相違が問題とならざるを得ません。


今回も小説的な筆致から学術的な批判に耐え得る内容まで、書き手の特徴が現れています。


それでも、「日本陸海軍の失敗」を共通の関心事とし、この一点を明らかにするために集められた論考の軸は全編を通して揺るぎません。


そして、『日本陸海軍、失敗の研究』を手に取る人は、本書を読み終えた後に「もちろん、戦争ないほうがいいに決まっているが、ないほうがいいということを知るためにも、軍事のメカニズムと怖さは知っておく必要があるはずだ」(本書26頁)という指摘の意味を改めて問い直すことになるでしょう。


軍事や戦史に興味を持つ人だけでなく、むしろこうした点に関心の薄い人ほど、『日本陸海軍、失敗の研究』を一読することの意味は大きいのです。


<Executive Summary>
Book Review: Editorial Department of Rekishi Kaido's "Studies of the Failure of Imperial Japanese Army and Navy" (Yusuke Suzumura)


Editorial Department of Rekishi Kaido published a book titled Studies of the Failure of Imperial Japanese Army and Navy from PHP Institute on 29th July 2021.

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【書評】君塚直隆『王室外交物語』(光文社、2021年)

去る3月17日、君塚直隆先生のご新著『王室外交物語』(光文社、2021年)が刊行されました。


「人類にとって外交とはそもそも王様同士の付き合いから始まったものではないか」という視点に基づく本書は、紀元前14世紀の古代中東から現在の王室外交のあり方までを通覧します。


当事者が対等な関係に基づいて相互に対等性を認めることが外交の第一歩であり、大国が周辺国を従える状況では外交は生まれないという指摘(本書26-27頁)は、本書の根幹をなす考えです。


この考えが説得的であることは、対等な存在としての「外国」を認めず、他国は朝貢国でなければ属国であると考えた中国の歴代王朝において外交を専門に担当する部局(外務部)が1901年まで設けられなかった例を思い浮かべるだけで十分でしょう。


また、時に呼称の違いが関係者の力関係を反映し、ローマ教皇庁における序列が各国の格を示し、他国よりもより高い位置を求めてときにいさかいが生じる様子(本書88-91、123-127頁)などは、外交が古代から近代へと至る過程でどのように変化したかを象徴的に示します。


それとともに、各国を代表する大使の役割が「知り、聞き、報告する」から「勤勉に聞き、助言する」、「機敏に行動しながら交渉する」、「無駄な点は省いて必要なことのみを自身の見解を交えながら報告する」と、15世紀から16世紀にかけて変質したことも、外交の成熟を感じさせるものです。


18世紀に至り「同質性、貴族性、自立性」を備えた外交官(本書135頁)が外交を担う一方で、1914年に始まった第一次世界大戦の終結が各国の政体に変革をもたらし、欧州各国で王政が廃され「宮廷外交」も終わりを告げたこと(本書145-150頁)も、外交が政治の一部であるという事実を改めてわれわれに教えます。


ところで、君塚先生の主たる研究対象である英国王室、特にエリザベス2世を取り上げ現代の王室外交を論じる第4章は、20世紀半ば以降も職業外交官など実務者による「ハードな外交」だけでなく即物的な利害を超えた王侯による「ソフトな外交」の価値が失われていないことを示します(本書152-194頁)。


本書のもう一つの勘所である継続性と安定性こそ現在の王室外交の特長という観点については、エリザベス2世の事例だけでなく今後の日本の皇室の「国際親善」にも当てはまることが示唆されており(本書229-230頁)、興味深く思われます。


世界の歴史を背景としつつ個別の事例を通して「宮廷外交」と「王室外交」の変遷を検討し、最後は「王室外交」の将来まで見通す『王室外交物語』は、豊富な図版とともに、読み応えのある一冊です。


<Executive Summary>
Book Review: Naotaka Kimizuka's "Tales of Royal Diplomacy" (Yusuke Suzumura)


Professor Dr. Naotaka Kimizuka published a book titled Tales of Royal Diplomacy from Kobunsha on 17th March 2021.

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【書評】茂木大輔『交響録 N響きで出会った名指揮者たち』(音楽之友社、2020年)

2020年10月5日、茂木大輔さんのご新著『交響録 N響きで出会った名指揮者たち』(音楽之友社、2020年)が上梓されました。


本書は、オーボエ奏者で指揮者の茂木さんが、1990年から2019年まで首席オーボエ奏者として在籍したNHK交響楽団で共演した指揮者のうち、特に記憶に残った34人を取り上げ、印象的な出来事や思い出が綴られています。


1990年11月に初めて共演したヴァーツラフ・ノイマンから2017年10月のクリストフ・エッシェンバッハまで、巨匠から若手まで彩り豊かな指揮者との共演の様子を、文筆家としても名を成す筆者が瀟洒な筆致で振り返ります。


20世紀の途中までオーケストラにとっての指導者であり、教師であり、君臨するカリスマであったのに対し、20世紀後半から21世紀にかけて、世界中のオーケストラの演奏能力が飛躍的に向上したことで、むしろ音楽の時間の中にオーケストラとともに身を置き、瞬間ごとの音楽思考を重ねていけることが重要な資質となる、というのが、筆者の「指揮者観」です。


こうした見方は演奏者として第一線で活躍するだけでなく指揮者としても研鑽を重ねる筆者ならではのもので、こうした視点から描き出される34人の姿は自ずから印象的なものが揃うことになります。


確かに練習の具体的な内容や演奏の細部についての言及が少ないのは、第一線で活躍する指揮者の実像に迫るためには物足りなさを覚えるものかもしれません。


しかし、本文の中でも触れられているように、「自分に注意されたことしか聞いていない」という音楽家のある種の特質を反映した結果であるとともに、練習や演奏の詳細といった個別の内容よりも指揮者そのものの音楽に対する取り組み方や楽屋での何気ない一言などがかえってそれぞれの本来の姿を現しているということを筆者が直感的に見抜いたためと言えるでしょう。


また、演奏者との信頼関係の深さから予定された練習時間よりも早く切り上げるヴォルフガング・サヴァリッシュや外山雄三と、双方に絶大な信頼を寄せながら予定通りの時間まで練習を行うヘルベルト・ブロムシュテットの違いや、「ラヴェルなどのフランス音楽には独特の音色があり、それを実現するための演奏法(ことに弦楽器)がある」という方針で作品に臨んだシャルル・デュトワの姿から、オーボエ奏者から指揮者に転じたエド・デ・ワールトの話題に関連して、元来オーボエとクラリネットはそれぞれ自分が旋律楽器の主役と考えているから暗黙のライバル関係にあるといった逸話が紹介されるなど、本書には茂木さんのこれまでの演奏者としての経験と指揮者としての知見がちりばめられ、さらに随筆家としての手腕が遺憾なく発揮されています。


それとともに、われわれ読者としては、「この指揮者が選ばれているのか、意外!」、「あの人が載っていないのは残念」と、聞き手の見る指揮者の姿と演奏者の側からの評価との異同がどの程度かを知ることも、本書を読み進める際の楽しみの一つです。


2026年に創立100周年を迎えるNHK交響楽団の20世紀末から21世紀初頭の歴史を概観するとともに、指揮者と演奏者の関係を通して交響管弦楽のあり方を知るという意味でも、『交響録 N響きで出会った名指揮者たち』は格好の好著であり、続編の上梓も期待される一冊と言えるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: Daisuke Mogi's "The Great Conductors I Met the NHK Symphony Orchestra" (Yusuke Suzumura)


Mr. Daisuke Mogi, a conductor and Oboe player, published a book titled The Great Conductors I Met the NHK Symphony Orchestra from the Ongaku No Tomo Shaon 5th October 2020.

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【書評】朝日新聞取材班『米中争覇』(朝日新聞出版、2020年)

去る10月30日(金)、朝日新聞取材班による『米中争覇』(朝日新聞出版、2020年)が上梓されました。


本書は、朝日新聞が2018年12月から2020年5月にかけて掲載した「米中争覇」及び2020年4月の連載「コロナ危機と世界 リーダーの不在」を再構成したものです。


新型コロナウイルス感染症の拡大を巡る対立、軍備拡張だけでなく宇宙探索で極地開発など繰り広げられる競争、技術上の覇権争い、ソフト・パワーの観点から見た比較、さらに世界各地で行われる外交上の相克を通し、米中両国の覇権争いの経緯と展開、そして今後の見通しが描かれます。


米中両国の政府当局者や専門家、さらに日本の関係者への取材と状況の分析によって明らかになるのは、米ソの冷戦はソ連が米国に比べて脆弱な経済力を向上させることが出来なかったために終結とソ連の崩壊に繋がったのに対し、米中の対立は中国の経済の規模が米国に肉薄していること、あるいはソ連の衛星国が限定的であったのに対して中国は「一帯一路」政策などを通して世界各地に勢力を扶植しており、少なくとも現時点では早期の体制の崩壊へと至る可能性が低いということです。


また、米国のトランプ政権は「米国第一主義」を掲げ、従来の米国の伝統的な外交政策と一致しないものの、国防上の懸念から中国への警戒感を高める共和党主流派と産業の空洞化の影響を受ける労働者を主たる支持基盤とする民主党も中国への強硬な姿勢を示しており、「トランプ外交」と「アメリカ外交」が交わるのが対中政策であるという点は、たとえ米国に新政権が誕生しても中国への対応が劇的に変化する余地に乏しいことを示唆します。


さらに、こうした中で、米中の対立から距離を置く日本が果たしうる役割の大きさが指摘されるなど、本書は米中の覇権争いが日本に無関係ではなく、むしろ重要な問題であることも指摘します。


確かに、新聞の連載をまとめたという特徴から、本書の重点が事実関係の整理やそれぞれの出来事の背景の分析などに置かれ、今後の「米中争覇」の推移や世界のあり方への展望といった側面に割かれる紙面は必ずしも多くはありません。あるいは、両国の覇権争いの解決策が明確に示されているわけでもありません。


それでも、現在の国際社会にとって最大の懸案事項の一つであり、今後も確実に世界の動向に大きな影響を与える米中の対立の経緯を理解することは、これからの展開を見通すために不可欠です。


その意味で、『米中争覇』は覇権の多元化が加速する今後の国際社会の姿をよりよく知るための格好の一冊と言えるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: The Asahi Shimbun Reporting Team's "The US China Struggles" (Yusuke Suzumura)


The Asahi Shimbun Reporting Team published a book titled The US China Struggles from the Asahi Shimbun Publications on 30th October 2020.

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【書評】横田祐美子『脱ぎ去りの思考』(人文書院、2020年)

今年3月30日、横田祐美子先生のご新著『脱ぎ去りの思考』(人文書院、2020年)が刊行されました。


本書は、横田先生が2018年11月に立命館大学に提出した学位請求論文「脱ぎ去りの思考 : ジョルジュ・バタイユにおける思考のエロティシズム」を基に、博士論文の内容を全面的に書き改めたものです。


バタイユの著作に即し、実証的にバタイユの思索を辿りつつ、概念の操作だけに留まる思考のあり方を批判し、プラトンやカントとは異なった方法で「知を愛する」営みを模索した「知を愛する人」としてのバタイユのあり思想の特徴が丹念に描かれています。


しかも、バタイユに焦点を当てるものの視野は古代から現代までの哲学史、さらに日本における西洋哲学の受容にも向けられており、結果として本書の記述に奥行きと厚みをもたらします。


例えば、バタイユの主著の一つであるMéthode de méditationを既存の『瞑想の方法』ではなく『省察の方法』と訳出することは、一面において本書の新規性の表れであり、他面ではバタイユがデカルトの哲学を視野に入れるものです。


フッサールがCartesian Meditations(『デカルト的省察』)を著していることも示すように、デカルト以降の哲学者にとってデカルトは無視出来ないのですから、哲学者としてのバタイユが『省察の方法』を書いたのは当然でしょう。


その意味で、このような訳出の作業を通して、バタイユがデカルトの哲学とは異なった方法で思索を進めたことが明らかになるのは、本書の方法論上の特徴とも言えます。


バタイユから出発するものの文献の解釈に止まらず、バタイユを通して「知を愛する」という「欠けたものを追い求める」能動的な働きとしての「エロス」あるいは「エロティシズム」のあり方をも明らかにしようとするのは、意欲的な試みに他なりません。


惜しむらくは、大学に属さず図書館の司書としての生業を持ちつつ思索を続けたことが挿話的に取り扱われていても、バタイユの思想の形成にどのような意味を与えたかが十分に検討されていない点です。


ベルクソンやサルトルの事例を参照するまでもなく、大学が哲学の発展の中心となったドイツに比べ、フランスの哲学の担い手は、大学人だけでなく、中等教育機関や在野の人物たちでありました。


それだけに、社会的な地位と創造的な活動とがどのような関わりを持つかを考察することは、一人の人間としてのバタイユの姿をより鮮やかな輪郭とともに描き出したことでしょう。


しかし、バタイユが唱えた「非‐知」を「知の否定」ではなく、「概念のヴェールを絶えず脱ぎ去る」積極的な独自の哲学であったことを論証する本書は、ページをめくるたびに残されたページ数が少なることが惜しまれる一冊です。


<Executive Summary>
Book Review: Yumiko Yokota's "Stripping Thinking" (Yusuke Suzumura)


Dr. Yumiko Yokota of Ritsumeikan University published a book titled Stripping Thinking from Jimbun Shoin on 30th March 2020.

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【書評】澤宮優『世紀の落球』(中央公論社、2020年)

去る8月10日(月)、澤宮優さんの新著『世紀の落球』(中央公論社、2020年)が刊行されました。


本書では、「筋書きのないドラマ」とも呼ばれる野球が持つ偶然性を代表する要素の一つである落球に焦点を当て、勝負の行方を左右したとして人々に知られる3つの落球が取り上げられています。


登場するのは、2008年の夏季オリンピック北京大会で行われた野球の3位決定戦で飛球をグラブの先に当てて落とした埼玉西武ライオンズのG.G.佐藤、全国高校野球選手権大会3回戦で飛球を追ったもののファウルゾーンで転倒した、1979年の石川県代表星稜高等学校の加藤直樹、そして、1973年8月5日の読売ジャイアンツ戦で守備の定位置の打球を捕ろうとして転倒した阪神タイガースの池田純一の3選手です。


いずれも野球愛好家の間では広く知られる話題であり、今も「あれがなければ…」と言われる場面となっています。


これに対し、筆者は、「何故、捕れなかったのか」ではなく、「捕れないことで批判を受けたが、その後どのような道を歩んだか」に着目し、本人や関係者への聞き取りや当時の報道などを丹念に調査します。


確かに、米国代表に敗れたことで日本代表は北京五輪の野球で4位になったものの、敗戦の原因とされるG.G.佐藤は帰国後にライオンズの優勝に貢献する活躍をしましたし、加藤は落球があったとはいえ大会中の打撃は好調であり、池田もタイガースの重要な戦力として実績を残しました。


一方で、こうした活躍が「世紀の落球」の前では存在感に乏しいのも事実です。


人々が落球にのみ目を奪われる理由としては、「思いがけない出来事により状況が一変するという」という落球の持つ劇的な側面や、プロ野球や高校野球といった高い水準で活躍する選手が落球という未熟に見える振る舞いをすること、あるいは他人の失敗を目にしてある種の満足感を覚える嗜虐性などが考えられます。


それでは、一回の失敗によってそれまでの取り組みの全てを否定したり、「優勝できなかったのはあの落球のせい」と結果論的に責任を問うことは、果たしてどの程度まで許容されるのでしょうか。


このような問いに対する本書の回答は明快です。すなわち、本書が辿り着くのは、落球は確かに失敗かも知れないものの、「一つのミス、一つの負けが選手を生涯にわたって苦しめるのはあまりに不条理だ」(本書179頁)という視点であり、「ある印象的なワンプレーだけにこだわらず、もっと広い目で選手やチームを見ていってほしいと切実に思う」(本書178頁)というスポーツファンへの願いです。


こうした願いは、もしかしたらあまりに人間的すぎるものかも知れません。


しかし、これまでも多くの人が見逃してきたり価値を置いてこなかった事柄に着目し、ある時は埋もれた名選手を蘇らせ(『巨人軍最強の捕手』、晶文社、2003年)、ある時は何の変哲もないと思われた役に新たな価値を与え(『三塁ベースコーチ、攻める。』、河出書房新社、2012年)、またある時は記憶の忘却に抗ってきた(『集団就職』、弦書房、2017年)のが著者です。


その様な著者の根底にある、人間への深い信頼は本書にも脈々と流れていることは、佐藤、加藤、池田の3選手を取り上げた3つの章に続き、失敗を犯した選手がどのように失敗を受け止め、克服したかを描く第4章「ミスのあとの人生をどう生きるか」を一見するだけでも明らかです。


もし、「手痛い失敗を経験した敗者の物語」を読もうと本書を手にする読者は期待を裏切られることでしょう。


何故なら、『世紀の落球』は、失敗に挫折することなくそれぞれの方法で過去を受け止め、そして新たな道を見出した、「敗れざる者たちの物語」なのですから。


<Executive Summary>
Book Review: Yu Sawamiya's "The Great Ball-Drop of the Century" (Yusuke Suzumura)


Mr. Yu Sawamia, a nonfictioneer, published a book titled The Great Ball-Drop of the Century from Chuokoron Shinsha on 10th August 2020.

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【書評】小西徳應、竹内桂、松岡信之『戦後日本政治の変遷――史料と基礎知識』(北樹出版、2020年)

去る4月1日、小西徳應先生、竹内桂先生、松岡信之先生の編著書『戦後日本政治の変遷――史料と基礎知識』(北樹出版、2020年)が刊行されました。


本書は、冨田信男、楠精一郎、小西徳應の3氏による『新版 日本政治の変遷』(北樹出版、1993年)の内容を踏まえつつ、取り上げる時期を1945年から現在までに限定しされています。


具体的には、第1部「占領から独立」、第2部「55年体制」、第3部「連立内閣の時代」からなり、見開き2頁の左側には「敗戦を巡る決断」から「第48回総選挙と民進党の分裂」まで80項目が立てられ、右側には取り上げる話題に関連した議事録や回顧録、新聞記事などの資料や、重要な選挙の結果などが紹介されています。


また、巻末の資料には「自由民主党の派閥の変遷」、「主要政党の変遷」、「戦前資料」と、それぞれの項目で取り上げた文献を含む資料一覧が掲出され、いつの時代にどのような出来事があり、それぞれの出来事は同時代の人々にどのように捉えられ、いかに報じられたかを知るための重要な手掛かりとなっています。


各項目の記述は中立的、抑制的であるため、それぞれの出来事がどのような意味や構造を持つのかを知りたいと思う読者にはやや物足りないかも知れません。


こうした場合には、右側の資料紹介の欄や巻末の資料一覧が有益で、これらの情報からさらに知見を深めることが出来ることでしょう。


その意味で、『戦後日本政治の変遷――史料と基礎知識』は、戦後の日本の政治史の教科書として学習者の学びを増進させるだけではなく、この分野に興味や関心を持つ一般の読者にも格好の入門書となり、専門家にとっても1945年以来の日本の政治の変遷を的確に把握するために欠かせない一冊です。


<Executive Summary>
Book Review: Tokuou Konishi, Kei Takeuchi and Nobuyuki Matsuoka's "Changes of Japanese Politics in the Post-War Period" (Yusuke Suzumura)


Professor Tokuou Konishi, Dr. Kei Takeuchi and Dr. Nobuyuki Matsuoka's published a book titled Changes of Japanese Politics in the Post-War Period from Hokuju Shuppan on 1st April 2020.

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【書評】池上英子・田中優子『江戸とアバター』(朝日新聞出版、2020年)

去る3月30日、池上英子先生(ニュースクール大学)と田中優子先生(法政大学)の共著書『江戸とアバター』(朝日新聞出版、2020年)が刊行されました。


本書は、2018年12月9日(日)に法政大学市ケ谷キャンパス外濠校舎薩埵ホールで行われた第13回朝日教育会議「江戸から未来へ アバター for ダイバーシティ」の内容を基に書き下ろされました。


当日のシンポジウムでは、田中優子先生の講演「江戸文化とアバター」、池上英子先生の講演「アバターで見る知の多様性--ダイバース・インテリジェンスの時代」、そして田中先生と池上先生に落語家の柳家花緑さんを交えたパネルディスカッションが行われました。


今回の書籍化に際しては構成が以下のように改められています。


序章 江戸と仮想世界--二つの覗き窓から(池上英子)
第一章 落語は「アバター芸」だ! 柳家花緑さんとの対話(池上英子)
第二章 「アバター主義」という生き方(池上英子)
第三章 江戸のダイバーシティ(田中優子)
終章 アバター 私の内なる多面性(田中優子)


5つの章の表題や書名そのものからも明らかなように、本書は「アバター」の概念を手掛かりに、一つの身体の中に潜む複数の「わたし」の姿を、異常なもの、病的なものとして捉えるのではなく、むしろ「わたしの中の多様性」を肯定的なものとし、社会の中の多様性へと拡張することの意義を説きます。


その過程で示されるのは、単一の普遍の下に集約される「ユニバース」ではなく、多元的な「マルチ・バース」という考えであり(本書122頁)、落語が単なる話芸ではなく「常識に対する非常識」を語るという視点であり(本書76頁)、あるいは、厳しい身分秩序の裏側で人々が様々な名前を用いることでそれぞれの場で多様な関係を結んだ江戸時代の姿(本書182-294頁)でした。


「アバター」を通して現在の社会の多様性を考えるとともに、江戸時代の「多名」や「別世」を参照することで「マルチ・バース」の可能性を検討する方法は、戦略的であるとともに説得的です。


もちろん、『江戸とアバター』という書名からも推察されるように、本文の中で江戸時代の社会の多様性が当然のこととして前提され、明治時代以降の社会のあり方の変遷が検討されることはあっても江戸時代に多様な社会が成立し得た理由が明示されていない点には、ある種の物足りなさが残ります。


しかし、社会学や脳科学などの最新の研究成果と江戸研究、さらに落語家による実体験に即した談話は、本書が持つ理論的な弱み十分に補うとともに、より活発な議論をもたらします。


その意味で、『江戸とアバター』は、多様性を認める社会を実現することは困難を伴うとしても不可能ではないことを、具体的な事例とともに示した好著ということが出来るでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: Eiko Ikegami and Yuko Tanaka's "Edo and Avatar" (Yusuke Suzumura)


Professor Dr. Eiko Ikegami of the New School and Professor Yuko Tanaka of Hosei University published a book titled Edo and Avatar from Asahi Shimbun Publications on 30th March 2020.

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【書評】小山俊樹『五・一五事件』(中央公論新社、2020年)

去る4月25日、小山俊樹先生の新著『五・一五事件』(中央公論新社、2020年)が刊行されました。


本書が描くのは、1932(昭和7)年5月15日に三上卓ら海軍の青年将校や陸軍の士官候補生らが犬養毅首相を官邸で射殺し、立憲政友会本部、日本銀行、三菱銀行、警視庁などを襲撃、茨城県の私塾である愛郷塾の塾生による農民決死隊が変電所を襲撃したいわゆる五・一五事件について、事件の詳細、三上や古賀清志らが行動を起こした経緯、さらに事件の発生が政党政治に与えた影響や関係者のその後の足跡です。


1936(昭和11)年に起きた二・二六事件に比べて、事件そのものだけでなく関係者に関する研究も乏しい五・一五事件について、各種の史料及び資料を渉猟した本書は、海軍青年将校に焦点を当てて本格的に検討するという従来の研究と一線を画す試みを行います。


その結果、五・一五事件は大正時代以来の国家改造運動の延長にあり、犬養自身の言動が直接の原因ではないこと(本書35-70、197頁)、犬養の後継の首班に斎藤実が就任したことで政党政治が中断した理由は首相の選定に与った西園寺公望が「首相は人格の立派なる者」などの昭和天皇の「希望」を重視した結果であること(本書155-159頁)、そして五・一五事件の公判に際して全国各地で減刑嘆願運動が高まった背景として、政治への介入を強める陸軍の思惑と貧富の差に起因する国民の「特権階級」に対する反発があること(本書201-203、209-220頁)が明らかにされました。


特に、三上や古賀、あるいは井上日召といった五・一五事件の中心人物に大きな影響を与え、第一次上海事変に従軍し、1931(昭和6)年に上海上空で戦死した藤井斉の人となりと行動を丹念に描写することで、事件における藤井の存在の重要さを示したことは、本書の特長と言えます。


また、五・一五事件の関係者の多くが戦後も生き延び、それぞれの道を歩んだこと、あるいは主要人物の一人であった古賀が1997年に没していることなどは、五・一五事件が単なる過去の出来事ではなく、実は現在にもつながる出来事であることをわれわれに教えます。


何より、被告となった海軍青年将校らを「赤穂義士」になぞらえ(本書201頁)、1933(昭和8)年5月16日に事件記事の差し止めが解除された際に「行為はともかく動機は純粋とする」という陸海軍側の意図(本書174-179頁)を支持する国民の姿、そして被告の犯行を「憂国の至情」(本書215頁)によるものとして古賀、三上、黒岩勇の3人に求刑された死刑を有期刑に減刑した可軍の軍法会議のあり方は、注目に値します。


すなわち、民間側の被告が厳罰に処されたことを考えれば、1895(明治28)年に李氏朝鮮の高宗の王妃である閔妃の殺害を主導した三浦梧楼が免訴放免となったこと、1928(昭和3)年の張作霖爆殺事件の真相がうやむやになったことに繋がる、「動機が適切と思われれば、軍人の行為の結果に対する責任は不問に付される」というある種の悪しき慣習が五・一五事件の軍人に対する判決の中にも認められることが推察されるのです。


このように、『五・一五事件』は、事件の前後のみだけでなく、戦後にまで視野を広げて俯瞰的に眺めることによって、五・一五事件の意味を立体的に描き出した好著と言えるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: Toshiki Koyama's "The 15th May Incident" (Yusuke Suzumura)


Professor Dr. Toshiki Koyama of Teikyo University published a book titled The 15th May Incident from Chuokoron-shinsha on 25th April 2020.

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【書評】岩井秀一郎『永田鉄山と昭和陸軍』(祥伝社、2019年)

2019年7月、岩井秀一郎先生が『永田鉄山と昭和陸軍』(祥伝社、2019年)を上梓されました。


本書は、東条英機や石原莞爾などの昭和時代の陸軍軍人としては知名度は高くないものの、「昭和史に関する書籍を繙けば、必ずと言っていいほど、その名が出てくる」(本書、230頁)永田鉄山の足跡を辿りつつ、「陸軍の時代」(同)であった戦前の軍のあり方の一側面を描き出します。


永田鉄山の事績については川田稔の『浜口雄幸と永田鉄山』(講談社、2009年)や『昭和陸軍の軌跡』(中央公論新社、2011年)、あるいは森靖夫の『永田鉄山』(ミネルヴァ書房、2011年)などがあります。そのような中で、永田鉄山の名前を歴史に残すことになる、いわゆる相沢事件に焦点を当てたことに本書の特徴があります。


1935年8月12日に起きた相沢事件という頂点に向かい、殺害された永田の人となりの紹介と殺害した相沢三郎の来歴、あるいは陸軍内における永田の位置や役割、さらに永田を失った後の軍の進路などが複合的に合わさることで、叙述の内容は奥行きを持ち、読者に相沢事件の影響の大きさが力強く訴えかけられます。


特に、第一次世界大戦により、戦争のあり方が根本的に改まり、国家総力戦の完遂のために前線と銃後の一体化が不可欠であることを学び、生前に残したいくつかの論考を通して没後も軍の方針に影響を与えた点(本書、56-57頁)や、陸軍の統制の維持のために「心血を注いだ」(同、95頁)の様子は、永田の存在の大きさを実感するには十分と言えます。


また、万事におおらかで精神論を信奉するものの陸相としては予算獲得能力を欠き、具体的な中身を伴った提案や構想を持たず、その一方で精神論への傾斜や長広舌、さらには青年将校たちの人気を得た荒木貞夫の姿(本書、137-140頁)も、合理的な思考により物事を進めようとする永田との対比を考える上で興味深いものです。


その一方で、相沢三郎の「求道者のような面を持」ち、「礼儀正しく、一途な人柄」でありながら「精神性を重視するために合理的思考に欠け」る面(本書、125-126頁)を描出することは、何故相沢が荒木を頂点とする皇道派に与し、最後は永田の惨殺に至るかを考える上でも重要な伏線をなしています。


もちろん、1914年に始まった第一次世界大戦中の出来事であるにもかかわらず、日本が中国本土のドイツ軍の拠点などを攻撃した際に「清国にある」と1912年に滅んだ清朝の名が記されていたり(本書、55頁)、相沢事件で相沢三郎の弁護人を務めた菅原裕の著書『相沢中佐事件の真相』(経済往来社、1971年)にある「幕僚等の官職に在る者を利用して窃に雷同を図り」の「窃」を「ひそか」ではなく「ぬすみ」にと振り仮名を当てる点などには、再考の余地があるでしょう。


しかし、事務机を隔てて対峙した永田と相沢との間の息をのむ攻防と凶行という結末(本書、16-19頁)を振り返る形で、永田と相沢の人となり、陸軍内の派閥抗争、さらに日本が置かれた国際的な状況といった条件を検討する本書は、一面において小説的な魅力を備え、他面において史料の丹念な調査や関係者への聞き取りの周到さの成果と言えます。


永田の死がその後の陸軍と日本の針路に与えた影響を検討する著者には、統制派の系譜に連なり永田とも親交があり、1942年に香港占領地総督となった磯谷廉介など、「永田没後の陸軍傍流の人々」の研究などでも成果を残すことが期待されます。


その意味で、『永田鉄山と昭和陸軍』は書名にふさわしい視野の広さと、綿密な研究とが絶妙な均衡を保った良書と言えるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: Shuichiro Iwai's "Nagata Tetsuzan and the Showa Army" (Yusuke Suzumura)


Mr. Shuichiro Iwai, a historian, published a book titled Nagata Tetsuzan and the Showa Army from Shodensha on 10th July 2019.

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【書評】辻田真佐憲『古関裕而の昭和史』(文藝春秋、2020年)

去る3月20日(金)、辻田真佐憲先生のご新著『古関裕而の昭和史』(文藝春秋、2020年)が出版されました。


本書、福島県福島市の老舗呉服店の跡取りとして生まれた古関勇治(1909-1989)が、5歳頃に耳にしたレコードから流れる音楽の魅力に目覚め、リムスキー=コルサコフに師事した唯一の日本人であった金須嘉之進の指導を受ける以外はほとんど独力で作曲法を身につけ、歌謡曲、軍歌、校歌、寮歌、社歌から映画・ラジオ・テレビあるいは演劇やミュージカルへの伴奏音楽、さらには祝典曲など、生涯に5000曲を超える作品を生み出した過程を描きます。


戦前は「軍歌の覇王」と呼ばれ、太平洋戦争下で「最大のヒットメーカー」(本書、180頁)となった古関が、戦後はあらゆる分野で作曲を引き受け、「大衆音楽のよろず屋」(本書、233頁)として成功を収めたことは、一見すると戦前と戦後の活動の間にある種の断絶があったことを予想させます。


しかし、本書は、古関の政治や社会に対する見解が当時としての一般的な範囲を出なかったことを示すとともに、「ノンポリゆえにかえってどんな政治的音楽でも自由自在に作れ」(本書、289頁)たことを示します。


それとともに、交響管弦楽の分野で名を成そうとしたものの、実際には「軍歌の覇王」、「大衆音楽のよろず屋」となり、「ヒットする大衆歌謡」(本書、289頁)を求められた古関が生涯にわたって「クラシックへのこだわり」(同)を持ち続け、日本における斯界の先駆者であった山田耕筰を絶えず意識していたことなどを、本書は具体的な逸話とともに活写します。


このようなあり方は、ある意味で古関の生涯に屈折を与えるとともに、他面において戦中は「米英撃滅」を唱えながら戦後は民主主義を謳歌した日本の人々のように、特定の主義主張に囚われることなくある種の融通無碍さを発揮して時流に適応する、古関のしなやかさやしたたかさを示していると言えるでしょう。


そして、題名に「昭和史」の語が用いられ、副題を「国民を背負った作曲家」とするのは、まさに、古関の多面的な姿を通して「昭和の国民を背負った作曲家」(本書、290頁)という実像に迫る点に求められます。


例えば、劇作家の菊田一夫との二人三脚によって数々の作品を世に送り出し、妻の金子が「パパは菊田一夫に殺される!」(本書、239頁)と悲鳴をあげた古関の姿は昭和40年代のいわゆる「モーレツ社員」の祖型であるかのようであり、種々の団体歌を手掛ける様子は、天皇を親とし臣民を赤子とする疑似的な親子関係としての天皇制国家が解体された後に人々が企業や学校に対して、それまでに強い帰属意識を抱いたことと比例するかのようです。


一方、「豊橋の音楽少女」(本書、46頁)の内山金子との熱烈な手紙の往来から結婚へと至る過程(本書、46-58頁)や、戦後、株取引で名をはせた金子の様子(本書、252-256頁)など主として妻の金子との関係は描かれても、家庭人としての古関の記述が必ずしも多くないことは、戦前の家父長制から戦後の「民主的な家庭」への移行という変化を参照すれば、ある種の物足りなさを覚えるものです。


それでも、古関が専属契約を結んだ日本コロンビアが所蔵する、レコード中央のレーベル部分の原稿などを綴った「レーベルコピー」に記されたレコードの製造数(本書、86-87頁)や「レコード印税計算書」(本書、105頁)などの記録を精査することで、宣伝ではない、レコードの製造数の実数に迫る手法は圧巻であるばかりでなく、著者の研究者としての力量の確かさを示していると言えるでしょう。


各種の文献を丹念に検証し、「曲は聞いたことがあるけれど、作曲者は知らない」あるいは「名前は知ってるけど、どんな曲を作ったか分からない」という古関裕而の一生を力強く描く『古関裕而の昭和史』は、音楽と日本の社会の関係を考える上でも、われわれに様々な知見を与える一冊です。


<Executive Summary>
Book Review: Masanori Tsujita's "Koseki Yuji and the History of Showa" (Yusuke Suzumura)


Mr. Masanori Tsujita, an author, published a book titled Koseki Yuji no Showa-shi (literally Koseki Yuji and the History of Showa) from Bungeishunju on 20th March 2020.

 

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【書評】君塚直隆『エリザベス女王』(中央公論新社、2020年)

去る2月25日(火)、君塚直隆先生のご新著『エリザベス女王』(中央公論新社、2020年)が刊行されました。


『エリザベス女王』は、『パクス・ブリタニカのイギリス外交』(有斐閣、2010年)、『物語 イギリスの歴史』上下巻(中央公論新社、2015年)、『立憲君主制の現在』(新潮社、2018年)など、英国の政治史や英国史に関する著作などを上梓してきた著者が初めて取り組んだ、現存する人物の評伝です。


本書で取り上げる「エリザベス女王」はアルマダの海戦でスペインの無敵艦隊を破り、弱小国イングランドの独立を守り続けたエリザベス1世ではなく、現在の英国女王エリザベス2世陛下です。


描かれるのは、本来であれば王族の一人として華やかな日々を送っていたはずのリリベットことエリザベス・アレキサンドラ・メアリが、「王冠を賭けた恋」によって退位したエドワード8世の跡を継いだ父王ジョージ6世の急逝を受けて25歳で「老大国の若き女王」エリザベス2世となるまでの過程と、その後の事績です。


21歳の誕生日の際に行った、1947年のラジオ演説の中で「私の人生は、それが長いものになろうが短いものになろうが、私たち皆が属する帝国という大いなる加盟国への奉仕に捧げられる」と誓ったことが示すように(本書、40頁)、即位後のエリザベス2世は英国の利益を最優先に置きつつも、旧英連邦の流れを汲むコモンウェルスの協調と発展を絶えず顧慮します。


その様なエリザベス2世の姿は日本においては話題となる機会が決して多くはないものの、コモンウェルスを構成する英国以外の53か国の首脳や国民から広く支持されています。


また、こうしたエリザベス2世の「コモンウェルス贔屓」ともいえる態度が、女王とエドワード・ヒースやマーガレット・サッチャー、トニー・ブレアといった英国の歴代首相とのある種の齟齬や確執を生むことになります。


その一方で、幼少期から培われた深い教養と即位の後に接する政府の機密事項やコモンウェルス諸国からの情報を分析し、総合する力を備えた女王の姿は、米国のビル・クリントン元大統領が「女王に生まれていなかったら、きっと優れた政治家か外交官になられていたことだろう」(本書、222頁)と指摘されるほどのものであることが示されます。


これに加えて、エリザベス2世の祖父ジョージ5世がウォルター・バジョットの『イギリス憲政論』(The English Constitution、1867年)にある「君主は諸政党から離れており、それゆえ彼の助言がきちんと受け入れられるだけの公正な立場を保証している」という立憲君主の理想像を体現したこと(本書、17頁)、さらにジョージ5世から立憲君主のあり方を学んだ昭和天皇が訪日の際に女王に「立憲君主制の極意」を伝える様子(本書、124-126頁)は、日英の皇室王室の関係の深さとともに、エリザベス2世の政治に対する心構えを物語ります。


それとともに、チャールズ皇太子やアン王女の配偶者との離婚や元王妃ダイアナの事故死といった王室を巡る不祥事や、25歳で即位したことで子どもたちをしっかりと育てられず、肉体的に子どもたちと接することが苦手という女王自身の「負い目」(本書、170-171)を通して、われわれはエリザベス2世が完全無欠の君主ではなく、むしろ他の人々と同じように様々な困難や苦悩に直面しつつ、それらを克服してきたことを知ります。


歴代の英国王の中で最も長命で最も長く在位するのがエリザベス2世です。それだけに、機密文書の多くが非公開であり、利害関係者も多くが存命する中で描かれる女王の像は、あるいは全体の中の一部分に止まるかも知れません。

それでも、著者は英国の王室文書館やイギリス公文書館、日本の外務省外交史料館などの一次資料や種々の研究書などから得た、ネヴィル・チェンバレン首相が人前で口に指を入れて爪をかじる癖があることなど(本書、31頁)などの大小様々な知見を惜しみなく注ぎます。

 

何より著者自身が抱く女王への敬愛の念が読者の後味を爽やかなものにする『エリザベス女王』は、英国の政治史や社会史だけでなく、20世紀から21世紀前半という同時代史を知る上でも重要な一冊と言えるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: Naotaka Kimizuka's "Queen Elizabeth" (Yusuke Suzumura)


Professor Dr. Naotaka Kimizuka of Kanto Gakuin University published a book titled Queen Elizabeth from Chuokoron-shinsha on 25th February 2020.

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【書評】高松平藏『ドイツのスポーツ都市』(学芸出版社、2020年)

去る3月25日(水)、高松平藏さんの新著『ドイツのスポーツ都市』(学芸出版社、2020年)が刊行されました。


本書は、実践、観戦、教育など、様々な側面を持つスポーツのあり方について、著者の住むドイツ、とりわけバイエルン州のエアランゲン市の事例に基づいて検討しています。


その際の手掛かりとなるのが、スポーツは都市を形成する要素の一つであるとともに、文化や価値観、伝統の影響を受けているという観点です。


例えば、本書では、ドイツにおけるスポーツ活動の根幹をなすフェライン(der Verein、協会)が企業でも学校の部活動でもなく、日本の特定非営利法人に近い運営形態でありながら、スポーツの分野に限らず様々な分野に設けられており、ドイツ社会の中で大きな役割を果たしていることが指摘されます。


また、街のスポーツクラブから欧州屈指のプロサッカーリーグであるブンデスリーガ1部の所属クラブまで、その大部分が所在する地域に根差して活動していることや、連邦制を採用するドイツでは都市の自律性が強く、スポーツクラブが「都市のエコシステム」の一翼を担うとともに、体系の循環を促す役割を果たしていることがエアランゲン市やニュルンベルク市などの事例から考察されています。


こうした本書の方針は、ある制度や技芸は表面的な仕組みや手法だけでなく、これらの要素を支える文化や文化的な価値が存在しているという考えに基づくものと思われます。


そして、このような考えは文化を「生きるための工夫」(平野健一郎『国際文化論』、東京大学出版会、2000年、11頁)と捉える見方に通じるものであり、スポーツの多義性と多様性を自ずから認める態度に繋がります。


一連の複眼的で現象の背後にある構造を捉えた記述が明らかにするのは、スポーツが経済効果や地域の知名度の向上といった即物的な効用を持つだけでなく、人々の日々の交流や健康の増進、あるいは社会への参画の促進といった目に見えない効果です。


もちろん、著者が指摘するように、ドイツも大小様々な問題を抱えています(本書、216頁)。それでも、理念や理論に基づいた目標を設定し、実現する取り組みが不断になされています。


今回はそのような大小様々な問題を乗り越えようとする取り組みや成果が紹介されただけに、今度は、克服できなかった課題や失敗例も言及されれば、読者にとってはより重要な知見が得られることでしょう。


いずれにせよ、誰もが日常生活の一部としてスポーツに取り組めることが結果的に都市や社会の活性化をもたらすという『ドイツのスポーツ都市』が示す人々とスポーツの関係は、ある種の「開かれたスポーツ像」の典型として、極めて興味深いものであり、意義あるものなのです。


<Executive Summary>
Book Review: Heizo Takamatsu's "Sports City in Germany" (Yusuke Suzumura)


Mr. Heizo Takamatsu, an author and a journalist, published a book titled Sports City in Germany from Gakugei Shuppansha on 25th March 2020.

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【書評】山崎夏生『全球入魂! プロ野球審判の真実』(北海道新聞社、2020年)

5月13日(水)、山崎夏生さんの新著『全球入魂! プロ野球審判の真実』(北海道新聞社、2020年)が刊行されました。


本書は、1982年から2010年まで29年にわたってプロ野球パシフィック・リーグの審判員を務め、2011年から2018年まで日本野球機構の審判技術委員として後進の育成に当たった著者が、現場での経験や、2014年以来雑誌や新聞などに寄稿した随筆等を基に、野球における審判の地位と価値、現在の野球界が抱える構造的な問題への提言、さらには競技の枠を超えたスポーツにおける審判の尊厳の追求がなされています。


著者の野球への愛情と審判員の権威の向上への強い意志は、前著『プロ野球審判 ジャッジの舞台裏』(北海道新聞社、2012年)からも十分に窺われるところです。


その様な著者だからこそ、野球界の弊風を指摘しても、「ここが足りない」、「そこが駄目」といった欠点を示すだけでなく、「「伝統」は上書きをしなければかび臭くなるばかり」(本書、282頁)と、具体的な解決策を提示することが出来るといえます。


例えば、「選手たちの高額の年俸は球団が媒介しているだけで、その原資を供出しているのはファンそのもの(中略)その存在と彼らへの感謝をないがしろにすれば、いつかは当然のしっぺ返しを食らうものです」(本書、246頁)と選手や球団などの「方向を見誤ったファンサービス」(同、281頁)に警鐘を鳴らすとともに、「プレーの楽しさを知る以前の子供」に「勝利のために補欠に甘んじる」といった「勝利至上主義」を強要する、アマチュア球界に根強い風潮(同、253-67頁)に対しては、ファンの視点に立った対策やあらゆるスポーツの根底にあるフェアプレーの精神の重視などが挙げられています(同、248、260頁)。


もちろん、こうした態度が「ずいぶん甘い考え」(本書、260頁)であることは、筆者自身も自覚しています。しかし、37年にわたって球史に名を遺す者から期待に応えられずわずかな期間で球界を去った未完の大器まで多くの選手を審判員として眺めてきた筆者は、「過去にスーパースターと呼ばれた選手は卓越したプレーのみならず、高い人間性も評価されている」(同)とし、表面的な数字や結果だけが選手の評価の基準ではないとします。


これは、野球という競技を行う者も観戦する者も人間であり、人間的な成長なしに選手として大成することはないという点を明快に示していると言えます。


それとともに、アマチュア球界における「勝利至上主義」の弊害が一人ひとりの選手だけでなく審判員に対する野次や非難にも懸念を示すのは、本書の大きな特徴です。


例えば、全日本野球協会の公認審判員が直面する審判員不足と高齢化の一因に「審判への非難や批判」(本書、208頁)を挙げていることは、近年、小学校の野球の試合などで判定を巡り保護者から罵倒されたり暴行されるため、審判員の登録者が減少しているといいう米国の事例を彷彿させるものです。


また、規則の誤った理解によりプロ野球の審判員を「石ころ」と連呼した解説者と実況中継者への苦言(本書、71-72頁)も、球界関係者の審判員への敬意の不足を示す象徴的な場面です。


このように、審判員の視点からプロ野球が目指すべき道とアマチュア野球のあるべき姿を模索しつつ、章間に置かれたコラムで両親への愛や審判員時代の思い出が率直に綴られた『全球入魂! プロ野球審判の真実』は、著者の真摯さと人間味豊かな気質が濃縮された一冊と言えるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: Natsuo Yamazaki's "The Truth of a Professional Baseball Umpire" (Yusuke Suzumura)


Mr. Natsuo Yamazaki, a Former Umpire of the Japan Professional Baseball, published a book titled The Truth of a Professional Baseball Umpire from The Hokkaido Shimbun Press on 13th May 2020.

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【書評】大木毅『ドイツ軍攻防史』(作品社、2020年)

去る4月29日(水、祝)、大木毅先生の新著『ドイツ軍攻防史』(作品社、2020年)が刊行されました。


本書は、大木先生が2013年から2019年にかけて専門誌『コマンドマガジン』に寄稿した論考19編に2010年の共著書『鉄十字の軌跡』(国際通信社)と書き下ろし原稿3編で構成され、第一次世界大戦、戦間期から第二次世界大戦序盤、対ソ戦、そして第二次世界大戦終盤の4つの局面を通してドイツ軍が繰り広げた攻防の歴史が検討されています。


内容そのものに即せば、同じ「こうぼう」であっても、本書がドイツ軍の「攻防」に留まらず「興亡」の歴史を扱っているといっても過言ではありません。


それにもかかわらず「攻防史」の名が与えられたことで、本書が英仏やロシアあるいはソ連といった外的との戦いだけでなく、ドイツ国防軍とヒトラー、あるいは「作戦上の有利を追って、連環の乏しい攻撃を展開した」(本書72頁)軍内部の相克などを描くことを可能にしました。


実際、ドイツや英語圏などで刊行された史資料集や近年の研究成果に基づき、第一次世界大戦の序盤で行われたマルヌ会戦から1945年3月の連合軍によるライン川の渡河までを具体的な逸話や出来事を分析し、積み重ねることで、第一次世界大戦末期のドイツ軍首脳がある意味で「ヒトラーほどの戦略センスも持ち合わせていなかった」(本書64頁)ことや、対ソ戦において劣勢となったドイツ軍が「紙の上では、強大な兵力」(本書217頁)によって作戦の遂行に当たっていた様子などが、丹念に描き出されています。


一方、「通俗的な戦記本」(本書249頁)と異なり最新の知見を渉猟しながら註が事項の補足を中心とし、引用ないし参照された箇所の明記が少ないこと、作戦や戦況の図が色の濃淡を基本としているために視認性の点で劣ることなどは、本書の中でも追補や改善の余地のある点でした。


例えば、1941年12月1日に南方軍集団司令官を解任されたゲルト・フォン・ルントシュテット元帥がウクライナ地方のポルタヴァからドイツ本国に帰還する際に土地の母娘からウクライナ式のテーブルクロスと花束を贈られた挿話(本書207頁)などは心温まる「一つの佳話」(同)であるものの、出典が明記されていないため、原典を確認しようと思う読者にとっては好ましいものではありません。


また、大小さまざまな図は本文の理解を助けるものの、読者が一目で図を理解するためには、ドイツ軍の進路を斜線、ロシア軍の進路を点線で表記するといった工夫を施す方が望ましいと言えます。


しかし、ただドイツ軍の来歴を通史的に俯瞰するだけでなく、ベルクソン(本書26頁)やショスタコーヴィチ(本書183頁)など、同時代の哲学者や音楽家の逸話を参照することで記述に奥行きを生み出しつつ、政治史や社会史などの観点からの分析を最小限に止めることで軍事史としてのドイツ軍の攻防の実相を克明に描き出した本書は、読者にとって新たな気付きや発見をもたらすことでしょう。


これからも種々の出版の計画が立てられていることも含め、『ドイツ軍攻防史』は興趣の尽きない一冊と言えるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: Takeshi Oki's "Die offensiven und defensiven Schlachten der deutschen Streitkräfte" (Yusuke Suzumura)


Mr. Takeshi Oki published a book titled Die offensiven und defensiven Schlachten der deutschen Streitkräfte (literally The Offensive and Defensive Battles of the German Armed Forces) from Sakuhinsha on 29th April 2020.

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【書評】永井晋『鎌倉幕府の転換点』(吉川弘文館、2019年)

2019年9月1日、永井晋先生の著書『鎌倉幕府の転換点』(吉川弘文館、2019年)が刊行されました。


本書は永井先生の『鎌倉幕府の転換点』(日本放送出版協会、2000年)を吉川弘文館の「読みなおす日本史」の一冊として再刊されたもので、新たに「補論」として「キャスティングボードとしての権門寺院」が追加されています。


「『吾妻鏡』を読みなおす」という副題の通り、本書が扱うのは、『吾妻鏡』の範囲となっている、以仁王による平家打倒の挙兵の計画が始まった治承4(1180)年4月から鎌倉幕府の第6代将軍の宗尊親王の京都への送還が行われた文永3(1266)年までの鎌倉幕府の歴史です。


その中から、有力豪族に担ぎ上げられた神輿としての将軍が権力の中心となり、やがて「祭祀王」へと移行する過程が、歴代の将軍や北条氏一門、さらに千葉氏や三浦氏、比企氏、さらに大江氏などの大小の豪族や文武官僚の姿を通して分析されます。


この時に用いられるのは、『吾妻鏡』の丁寧な読解だけではなく、心理学や政治学、社会学、あるいは民俗学の知見です。


さらに、慈円の『愚管抄』や藤原定家の『明月記』など、同時代の史論書や日記、あるいは寺社の記録を参照することで、比企氏の乱や第3代将軍源実朝の暗殺、あるいは承久の乱といった鎌倉幕府における大事件について、『吾妻鏡』が残そうとした記録と書かなかった、あるいは書けなかった逸話や見解をつぶさに検討します。


こうして描き出されるのは、北条氏の代替わりごとに繰り広げられる権力闘争のあり方や鎌倉幕府における武士の存在の変質、あるいは将軍家と御家人の関係の曲折であり、『吾妻鏡』を手掛かりに、聖性を高める将軍家と、世俗の権力を高めて肥大化を加速させる北条氏の協調と対立の姿が描き出されています。


『吾妻鏡』などの原典が現代語訳を基本としていることや、これまでの研究の検討が概観的になされていること、各章の参考文献が挙げられてはいるものの註が付されていないことなどは、永井先生の研究の成果を踏まえつつも、本書が純然たる研究書ではなく一般書として上梓されていることをわれわれに伝えます。


従って、本書を学術書と考えるなら、その期待は裏切られることになるかも知れません。


しかし、資料を徹底して読み込みながら、可能な限り専門用語を用いず、平易な表現によって、個別の出来事や法、制度のあり方の背後にある一人ひとりの人間の姿を描き出す『鎌倉幕府の転換点』は、初学者にとっても、研究者にとっても得るところの多い一冊と言えるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: Susumu Nagai's "The Turning Point of The Kamakura Shogunate" (Yusuke Suzumura)


Dr. Susumu Nagai published a book titled The Turning Point of The Kamakura Shogunate from Yoshikawa Kobunkan on 1st September 2019.

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【書評】小林淳『新版 伊福部昭の映画音楽』(ワイズ出版、2019年)

2019年5月31日、小林淳さんの著書『新版 伊福部昭の映画音楽』がワイズ出版から上梓されました。


本書は、小林さんが著し、井上誠氏が編者として名を連ねた『伊福部昭の映画音楽』(ワイズ出版、1998年)を再編集、改稿し、1998年以降の伊福部昭の活動と伊福部を取り巻く状況の変化を追補し、ワイズ出版映画文庫の1冊となったものです。


合計686ページからなり、1919年から1990年代後半までの70年以上にわたる伊福部の写真や直筆の総譜、さらに音楽を提供した映画作品の一こままで多数の図版を収録している点は、本書の大きな魅力の一つです。


また、1947年に初めて音楽を作曲した『銀嶺の果て』(監督:谷口千吉、製作:東宝)から最後の提供作となった『ゴジラvsデストロイア』(1995年、監督:大河原孝夫、製作:東宝映画)まで、48年の間に300本を超える映画音楽を書いた伊福部の足跡を編年体で俯瞰しそれぞれの時代の代表的な作品から独立系製作会社の作品、さらに教育映画や学術映画までを取り上げ、各作品の音楽の構造や特色を丹念に分析する様子からは、筆者の綿密な調査の成果が本書に惜しみなく注ぎ込まれていることを読者に教えます。


その際、著者が重視するのは、伊福部が唱えた「映画音楽効用四原則」です。


「映画音楽効用四原則」とは、(1)映画が表す感情を音楽で喚起させる、(2)場所と時代の設定を音楽で表現する、(3)物語の連続(シークエンス)を音楽で表現する、(4)映像自体が求める音楽に呼応する、という4点です(本書154-158頁)。


映画音楽を書く際に伊福部が常に肝に銘じてきたとされるのが「映画音楽効用四原則」であるだけに、本書では繰り返しこれらの項目が登場し、四原則に則って作品の分析が行われています。


これにより、伊福部の映画音楽作品の分析に一貫性が生じるとともに、分析された各作品の間の関連性や異同が明らかになったことは、本書の重要な成果の一つと言えるでしょう。


あるいは、伊福部の創作活動の中で、映画音楽と器楽・管弦楽作品、すなわち本書における純音楽とが不即不離であることを、バレエ音楽『人間釈迦』(1953年)、映画『釈迦』(1961年、監督:三隈研次、製作:大映)、そして交響頌偈『釈迦』(1989年)へと至る経緯、あるいは1954年に始まった映画『ゴジラ』の連作や『地球防衛軍』(1957年、監督:本多猪四郎、製作:東宝)などの特撮映画と『SF交響ファンタジー』第1番から第3番(1983年)の関係などを参照しつつ明瞭に描いたことも、本書の視野の広さを示します。


一方、伊福部の映画音楽を作品に即して分析するだけでなく伊福部に内在化する形で検討する手法が、特に第9章から第12章及び付章において著者の考察と感想との境目を曖昧にする傾向を示したこと、あるいは映画『ゴジラ』(1954年、監督:本多猪四郎、製作:東宝)や「映画音楽効用四原則」などの重要な作品や概念が繰り返し登場することで、一部に表現の冗長さが認められたことなどは、本書にとって容易に目につく改善を要する点でると言えるでしょう。


それでも、伊福部の家系を辿り、人となる過程における北海道での体験が映画音楽や器楽・管弦楽作品に与えた影響を詳らかにするだけでなく、作曲家、教育者、研究者としての多様な相貌を総合的に評価しようとした本書の試みは、伊福部が日本の映画の発展に与えた影響だけでなく、交響管弦楽の分野における存在の大きさをも、実証的に明らかにしています。


その意味で、『新版 伊福部昭の映画音楽』は映画音楽を通して伊福部の姿を、われわれ読者の目の前にありありと蘇らせる、良書と言えるのです。


<Executive Summary>
Book Review: Atushi Kobayashi's "Ifukube Akira and His Film Music" (Yusuke Suzumura)


Mr. Atsuhi Kobayashi published a book titled Ifukube Akira and His Film Music from Wides Publishing on 31st May 2019.

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【書評】長南政義『児玉源太郎』(作品社、2019年)

去る6月30日、長南政義先生の新著『児玉源太郎』(作品社)が上梓されました。


本書は、『日露戦争第三軍関係史料集』(国書刊行会、2014年)や『新史料による日露戦争陸戦史』(並木書房、2015年)などの著書により日露戦争の陸戦史、特に乃木希典が率いた第三軍の研究の第一人者と知られる長南先生がこれまでの研究を踏まえるとともに、『児玉源太郎関係文書』(尚友倶楽部、2014年)を用い、日露戦争の立役者の一人であり、台湾総督として植民地政策の基礎を築いた児玉源太郎の実像に迫ろうとするものです。


2段組みで427頁という本文、序章と終章を合わせて23の章立て、合計1010個に及ぶ註など、著者の自身のこれまでの研究の成果を本書に惜しみなく注ぎ込んでいることは、量的な面からも明らかです。


それとともに、質の面でも、本書が刊行された時点で児玉源太郎研究の基礎をなしている小林道彦氏の『児玉源太郎』(ミネルヴァ書房、2012年)や「日露戦争の名将」「不世出の偉才」といった一般的な児玉源太郎像の形成に大きな力を持つ司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』(文藝春秋)の記述の過ちや不十分な箇所を訂正しようという試みがなされていることは、小林氏や司馬の著作の内容が絶えず批評されていることが雄弁に物語ります。


このような量的にも質的にも重厚な本書の記述を支えるのは、著者の丹念な資料の収集と分析の成果です。また、軍事学や戦史学に対する著者の深い造詣は、軍内部における児玉源太郎の位置を相対的に把握するために有益であり、日露戦争における旅順攻囲戦や沙河会戦などでの児玉の立案した作戦の目論見と実効性の検証にも効果的に用いられていると言えるでしょう。


特に、旅順要塞の攻略において、当初は児玉が状況を楽観視していたことや、乃木希典が指揮する第三軍が限られた物資と大本営からの明確な指示の欠如という悪条件の中で最大限の取り組みを行ったことなどは、「智将・児玉、凡将・乃木」といった見方が一面的であることを、実証的に示しています。


その一方で、専門書であるものの、「威力偵察」やロシア満州軍総司令官アレクセイ・クロパトキンの「側背に対する感受性」の強さといった軍事学や戦史学の学術用語が説明なく用いられている点は、少なからぬ読者にとって理解の促進の上で改善の余地が認められると言えるでしょう。


あるいは、絶えず専門家から種々の最新の知見を吸収し、部下の自由闊達な議論を促すとともに、難局に際しても明確な判断を下す児玉の姿を描きつつ、昭和時代の軍部の首脳の不勉強さや軍部の統制の乱れを指摘する手法は、「不勉強」が何故生じたかという背景を明らかにしなければ、必ずしも説得力のある議論とはなり得ません。また、児玉と昭和時代の軍首脳の対比は、前者の備えていた特徴が特殊な事例であり、後者の姿が平均的なあり方であったという蓋然性を棄却するものでもありません。


もとより、両者の比較は本書の主たる目的ではなく、付加的な要素であることは論を俟ちません。それでも、全編にわたって具体的な史料に基づき、可能な限り推測を控える著者だけに、児玉源太郎と昭和時代の軍首脳の対比の箇所で他の場面での手法が適用されていないかの印象を受けることには注意が必要ではないかと思われます。


しかしながら、軍人、行政官、そして一家の長という多くの側面を持ち、戦争と外交の密接な結び付きを明確に理解するだけでなく、豊富な知識と優れた分析力から将来の戦争のあり方を描き出すことに成功した児玉源太郎の姿を入念に、そして立体的に描き出すことに成功しています。


また、外地にあった児玉源太郎が内地の家族に宛てた手紙の中で「クリストマス」と書き記していることを挙げ、日本におけるクリスマスの受容の歴史を知る上で民俗学的にも重要な実例となるなど、本書は、一つの分野における優れた研究成果は隣接諸科学にとっても有益であることを示す、典型といえます。


以上から、今後の児玉源太郎研究は長南政義先生の『児玉源太郎』を出発点にしなければならないことは明らかであるとともに、傑作と呼ぶにふさわしい一冊なのです。


<Executive Summary>
Book Review: Masayoshi Chonan's "Kodama Gentaro" (Yusuke Suzumura)


Dr. Masayoshi Chonan, a specialist of military history, published a book titled Kodama Gentaro from Sakuhinsha on 30th June 2019.

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【書評】芝山幹郎『スターは楽し 映画で会いたい80人』(文藝春秋、2019年)

去る10月20日(日)、映画評論家の芝山幹郎さんの新著『スターは楽し 映画で会いたい80人』(文藝春秋、2019年)が刊行されました。


本書は、『文藝春秋』の2006年6月号から2018年8月号まで掲載された連載「スターは楽し」から80編を選び出して文春新書の一冊としてまとめたものです。構成は、1人の俳優に4ページが割り当てられ、俳優の紹介が3ページ、それぞれの俳優の出演作品から取り上げられた「DVDベスト3」が1ページとなっています。

「名人」、「怪人」、「巨人」、「妖人」、「野人」、「麗人」、「才人」、「奇人」の8つの項目に10人ずつ俳優の名前が並ぶ様子は壮観です。


また、ハリウッドに留まらず、ヨーロッパや日本の映画界で活躍した俳優も取り上げあれているのは著者の目配りと関心の広さを示しており、モーリス・シュヴァリエと山田五十鈴が「名人」の枠に収められ、丹波哲郎とトム・クルーズを「怪人」としているのも絶妙な選択と言えるでしょう。


映画そのものに劣らず、出演者や監督、さらに制作会社の様子や制作当時の世相にまつわる、聞けば誰もが納得するものの、多くの場合つい見逃しがちな情報を巧みに織り込み、対象を描くのは芝山さんの著作に共通する特徴です。


その独自の色合いは本書にもいかんなく発揮されており、チャールトン・ヘストンに関するカーク・ダグラスとバート・ランカスターの逸話や『カサブランカ』で演じたイルザ役に対するイングリッド・バーグマンの反応などは、時に読者の頬を緩ませ、時に読者に意外な感興を催させることでしょう。


しかも、著者の中で俳優や作品の評価の基準が確立されているため、本書の中には、低迷期を指摘された俳優や内容の物足りなさへの不満を表明された作品が少なからずあります。


それでも、読者が顰蹙しないのは、本文の隅々に著者の映画そのものへの以上の深さが表現されていることが明らかであり、しかも様々な観点から対象が分析されているためです。


惜しむらくは「DVDベスト3」の欄が3ページ目の最終行から始まっており、1作品目の題名と内容の紹介がページをまたいでいることです。


作品紹介を上下4行の2段組みで収めるなど工夫がなされているものの、見栄えと読者の読みやすさの点で物足りさなさを覚えるのは、本書の最大にして唯一の改善点と言えるでしょう。


しかし、こうした点は本書の内容そのものにはいささかの影響も与えませんし、160文字で1本の作品の魅力を余すところなく伝える力量は、芝山さんの健筆家ぶりを象徴的に示しています。


本書が取り上げたのは連載の半分以下の俳優たちです。それだけに続編の上梓が待望されるところです。


<Executive Summary>
Book Review: Mikio Shibayama's "The Joy of Being the Star" (Yusuke Suzumura)


Mr. Mikio Shibayama, a film critic, published a book titled Star wa Tanoshi (literally The Joy of Being the Star) from Bungeishunju on 20th October 2019.

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【書評】峯村健司『潜入中国 厳戒現場に迫った特派員の2000日』(朝日新聞出版社、2019年)

去る9月11日(水)、朝日新聞出版から峯村健司氏の新著『潜入中国 厳戒現場に迫った特派員の2000日』が刊行されました。


本書は朝日新聞の記者である著者が2007年から2013年まで中国総局特派員として取材した内容を中心に、その後収集された最新の情報や専門家の談話などを総合して書かれた一冊です。


最初の単著である『十三億分の一の男』(小学館、2015年)が示す通り、筆者は丹念な取材によって手にした情報を生きいきとした筆致で描くことが出来ます。


中国が実用化を目指すステルス戦闘機殲20の姿を世界に先駆けて撮影した直後に当局に拘束された際の取調室の椅子の感触や中国のと北朝鮮の国境を流れる図們江で密輸業者が現れるのを待つ場面の緊張感、あるいは中国初の空母を建造する上海の造船所の作業員の宿舎に充満する香辛料の香りなどは、筆者が靴底をすり減らして取材していることを伝えるとともに、読む者に筆者の取材の過程を追体験する機会を与えています。


また、2018年の建国70周年記念式典を取材するために北朝鮮に赴く場面で、搭乗した高麗航空の客室乗務員から「機内での写真撮影は禁止です」と制止されたり、平壌で「何を撮影してもよいが、軍人だけはだめだ」と注意される様子も、何気ないとはいえ、その場に居合わせる者ならではの視点での描写と言えるでしょう。


さらに、2010年にそれまでの取材の結果から北朝鮮の金正日総書記の大連への極秘訪問の時期と宿泊先を推測する記述は筆者の取材能力と情報収集能力の高さを物語ります。


しかし、折角撮影した金正日氏の写真を中国当局の担当者との6時間に及ぶやり取りの末に消去しなければならず、しかも同じ会場に到着し、ともに拘束された共同通信社のカメラマンが3台のカメラを用意していたために全ての写真が消去されるのを逃れ、金正日氏の写真を撮影した功績で2010年度の新聞協会賞を受賞した逸話は、大小様々な蹉跌の上に優れた記事が生まれることを示唆します。


このように、本書は地道な取材活動によって得られた成果を惜しげなく盛り込んだ、実践的で読み応えのある仕上がりとなっています。


その一方で、いくつかの難点を見出すことも、決して難しくはありません。


例えば、筆者は1949年の中華人民共和国の成立以降の中国軍の動向に焦点を当てることで、中国の海軍力の増強を大きな転換点と指摘します。


もちろん、国産初の空母の建設を進める現在の中国の様子から、建国以来の転換期を迎えていること判断することは適切です。


それでも、清朝末期の1870年代から表面化した海防派と塞防派の対立、すなわち海を渡ってやって来るイギリスを脅威と考えるのか、国境線を接するロシアに備えるべきかという国防の基本の違いを念頭に置けば、理解の奥行きが異なるのではないでしょうか。


すなわち、「東洋随一」と謳われた北洋艦隊が1894年から1895年の日清戦争で壊滅して以降、大規模な海軍力を有してこなかった中国の方針の持つ意味を別な角度から検討することが可能になったことでしょう。


あるいは、筆者は「あとがき」において、「中国寄り」という朝日新聞に対する一部の読者の評価を認めた上で、自らがどれほど「中国寄り」とは異なる姿勢で取材してきたかを強調します。


朝日新聞の歴史を紐解けば、親中派の広岡知男氏が社長となり、北京支局長の秋岡家栄氏が文化大革命や毛沢東体制を礼賛する記事を書いてきたことは広く知られるところです。


ただし、朝日新聞の過去のあり方と現在の記者の取材や執筆の活動との間に必然的な関連はなく、むしろ一人ひとりの読者は書かれた記事の内容に従って、書き手を「中国寄り」や「中国に批判的」と判断するものです。


従って、筆者の主張は、自らの立場の正当性を主張するように思われながら、かえってあらかじめ予防線を張っているように見受けられ、隔靴掻痒の感を免れません。


これに加えて、「時計の針をXX年前に戻そう」という言い回しが繰り返し用いられているために表現の点で読者が散漫さを覚えることは、充実した内容との対比において改善の余地があったと考えられます。


しかしながら、これらの点は文字通り筆者が体を張って手にした情報に基づいて執筆されていること、また、一部の内容は筆者が朝日新聞に連載した記事に基づいているという本書の特徴からすれば当然のことであると言えます。


その意味で、歴史的な検討の射程や表現の問題は本書にとって一種の笑窪であり、本書の価値をいささかも損なうものではありません。


むしろ、『潜入中国 厳戒現場に迫った特派員の2000日』は、峯村健司記者の緻密さと大胆さを兼ね備えた取材の成果が惜しみなく反映されているという点で、『十三億分の一の男』に続く、貴重な同時代史の快作となっているのです。


<Executive Summary>
Book Review: Kenji Minemura's "Infiltrating China" (Yusuke Suzumura)


Mr. Kenji Minemura, a staff writer of the Asahi Shimbun, published a book titled Sennyu Chugoku (literally Infiltrating China) from Asahi Shimbun Publishing on 11th September 2019.

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【書評】三春充希『武器としての世論調査』(筑摩書房、2019年)

去る6月10日、三春充希さんの新著『武器としての世論調査--社会をとらえ、未来を変える』(筑摩書房、2019年)が上梓されました。


本書は、世論調査や選挙結果といった定量的な情報を分析することでわれわれの行動様式や意識を探るとともに、これらの情報を通してわれわれの生きる社会のあり方を検討し、社会をよりよく変えるための可能性を模索することが目指されています。


具体的には、第I部「世論調査」において全国で行われた全ての世論調査を総合することで内閣支持率と政党支持率の推移を検討し、それぞれの数値の持つ意味が検討されます。


また、第II部「データでとらえる日本の姿」では、世論調査と実際の選挙の結果を用いることで、各政党の地盤や地域ごと、あるいは都市と地方といった違いの持つ特徴が考察されるとともに、世代ごとの政治的な関心や年齢別の投票率の推移から国政選挙の投票率が1990年を境に急落する「投票率の崩壊」の背景に迫ります。


そして、第III部「選挙と世論」において、選挙が世論をどの程度まで適切に反映するのか、世論調査の結果からどの程度まで選挙の情勢を推定することが出来るのか、さらに世論調査で得られる情報を通して一人ひとりの有権者がどのように社会を変えることが出来るのか、という点が検討されています。


実際の分析には統計学的な手法や著者が考案した方法などが用いられているため、本書の内容をわれわれが再現することは容易ではありません。また、口絵に描かれている、与党の得票率が野党を上回る「与党列島」やその反対の「野党列島」の図も、印象的ではあるものの一般の読者が再現することは難しいでしょう。


その意味で、われわれは本書に示された全ての情報がどこまで正確であるのか、あるいはどこまで適切であるかを検証する術を持ち合わせていません。


その一方で、「与党列島」、「野党列島」といった印象的な図を含め、本書で用いられている数値がいずれも実際に行われ、公表されている世論調査や選挙結果に基づいているという点は大きな意義を持っています。


何故なら、本書は著者しか知りえない特殊な分析の手法を用いることはあっても、分析の基礎となる数値は誰もが目にし、入手することが出来る公知の事実だからです。


すなわち、いかにもさりげなく示されている「実際の選挙結果」と「野党の票を合算」した図の対比や「都市化の程度に対する政党の得票率の分布」といった表は、いずれも著者が丹念に情報を収集し、様々な手法で分析を行った結果であり、著者の苦闘の成果が惜しげなく提供されているのです。


しかしながら、「世論調査は新聞社やテレビ局のでっち上げ」、「1000人くらいにしか聞いていない世論調査は信用ならない」といった意見はあるでしょうし、「メディアが流す選挙の情勢報道は当てにならない」という指摘もあることでしょう。


こうした態度に対して、著者は統計解析における適切な母集団の標本数を数学的に説明しますし、報道機関による選挙の情勢報道は各社の威信をかけているため信頼性が高いことを証拠に基づいて示しています。このような手当ては、著者の視野の広さを推察させるだけでなく、人々が持つ世論調査に対する思いなしがどのようなものであるかも明らかにしています。


もちろん、第II部の日本の社会の地域的な特徴に関する記述がやや平板であったり、都市化の程度が政党の支持の高低に繋がる理由の説明も定型的であることなどに、読者はある種の物足りなさを覚えるかもしれません。


さらに、特に第III部で垣間見られる「社会は変革されなければならない」という考えにも、検討の余地はあるでしょう。

それでも、「世論調査が分かれば社会の全てが分かる」といった安易な考えから明確に一線を画し、世論を知るためには世論調査だけではなく各種の統計を分析したり社会や個人のあり方を観察することであるという態度を保持すること、さらにはわれわれの政治参加の方法は多様であり、一人ひとりが尊重されるべきであることを明確に訴えていることなどは、著者の抑制的な姿勢と、事実に基づいて論考を進めようとする意志を表していると言えます。


何より、終始一貫する将来への期待こそは、「未来を変える」という本書の副題を力強く支えます。


『武器としての世論調査』は、世論調査の解説や選挙の分析に留まらず、社会と触れ合う実感の中から、様々な方法で一人ひとりの権利と生活を守り、よりよい社会を実現することを目指す、希望の書と言えるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: Mitsuki Miharu's "Public Opinion Poll as a Weapon" (Yusuke Suzumura)


Mitsuki Miharu published a book titled Public Opinion Poll as a Weapon from Chikumashobo on 10th June 2019.

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【書評】芝山幹郎『スポーツ映画トップ100』(文藝春秋、2018年)

去る9月20日(木)、芝山幹郎さんの新著『スポーツ映画トップ100』(文藝春秋)が出版されました。


本書は芝山さんが文藝春秋の総合スポーツ雑誌Sprots Graphic Numberの2013年11月14日号から2018年4月12月号に連載したコラム「映画はスポーツが好き」に基づき、各作品を1位から100位まで順位付けしています。


取り上げられるのは『フィールド・オブ・ドリームス』(原題:Field of Dreams、1989年)、『ロッキー』(原題:Rocky、1976年)、『炎のランナー』(原題:Chariots of Fire、1981年)といった名作から『俺たちフィギュアスケーター』(原題:Blades of Glory、2007年)や『燃えよ!ピンポン』(原題:Balls of Fury、2007年)などの喜劇的な作品、さらに『東京オリンピック』(1965年)のような記録映画まで幅広く、競技も野球、サッカー、ボクシングから自転車、スキー、ローラーゲーム、ドッジボールまで33種目です。


いずれも個性豊かな作品を揃えつつ、芝山さんは博覧強記ぶりを発揮して作品そのものの魅力と作品を取り巻く社会情勢や政治、経済の動向、文化的な状況や映画の歴史など様々な観点から一つひとつの映画の特徴を丁寧に描き出します。


俳優としても監督としてもクリント・イーストウッドを高く評価するためにイーストウッド関連の作品が複数取り上げられたり、『東京オリンピック』を取り上げながら監督の市川崑が強く影響を受けたレニ・リーフェンシュタールの『オリンピア』(原題:Olympia、1938年)が言及されていない点などは、芝山さんの嗜好を知る上でも興味深い点です。


「マスメディアがあまり扱わない競技を題材にしても、面白いスポーツ映画はかならず撮れる」(本書5ページ)という信念の下で書き進められる本書は、映画とスポーツの相性のよさをわれわれに教えるとともに、既知の作品の内容を思い出し、未知の作品については本編を鑑賞する楽しみを芝山さんの時に厳しく、時に温かな筆致によって堪能できる良書と言えるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: Mikio Shibayama's "Sports Movies Top 100" (Yusuke Suzumura)


Mr. Mikio Shibayama published a book titled Sports Movies Top 100 from Bungeishunju on 20th September 2018.

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【書評】岩野美代治『三木武夫秘書回顧録 三角大福中時代を語る』(吉田書店、2017年)

2017年11月14日、吉田書店から岩野美代治氏の回顧録『三木武夫秘書回顧録 三角大福中時代を語る』が上梓されました。


本書は明治大学三木武夫研究会の一員である竹内桂氏が2010年6月17日から2016年3月24日まで22回にわたって行った岩野氏への取材に基づいています。


岩野氏は明治大学に入学した1953年から三木武夫事務所に出入りし、私設秘書を皮切りに公設第二秘書、公設第一秘書として35年の間三木に仕え、その後も三木の長女高橋紀世子氏の政策秘書を務めるなど、60年以上にわたって公私ともに三木武夫と三木家に関わり続けています。


今回、ほとんど表舞台に出ることのなかった岩野氏の証言がまとめられたことで、間近に接してきた岩野氏だからこそ知りえた三木武夫の事跡や、これまで指摘されてきた事実が裏書されることになりました。


例えば、1976年2月にロッキード事件が発覚したたために事件への対応が最優先されたことが、昭和51年度予算の成立後に解散総選挙を行って長期政権を目指していた三木の計画の実現を阻んだことや、三木の地元である徳島県の各団体と三木の関係、1973年から始まった田中派の後藤田正晴と三木の支援する久次米健太郎が参議院徳島地方区で対立する「阿波戦争」を巡る三木と三木派の取り組み、あるいは三木の死後に起きた後継者に関する動きや賢夫人とされる三木夫人の睦子氏の様子などは、三木武夫と三木家に深く関わってきた岩野氏ならではの逸話の典型と言えます。


また、1980年6月27日に起きた自民党三木派の解散と河本派の結成の過程とその後の三木と河本敏夫の間柄についての岩野氏の回想は、大野睦伴の死後に大野派が船田派と村上派に別れ、佐藤栄作の首相退任後に佐藤派が福田派と田中派となったように、領袖が望まなかった派閥の分裂という事態の一つの類型を示しています。


さらに、岸信介、佐藤栄作、田中角栄が代表する金権政治に対して、「クリーン三木」とも呼ばれた三木は「金のかからない、きれいな政治」の象徴的な存在として知られます。しかし、本書では三木が派閥を維持し、総理総裁の座を目指すためにどのように政治資金を調達し、集めた資金を活用していたかについて具体的な証言がなされています。


三木や三木派が受けていた政治資金は他の派閥に比べれば少なかったという岩野氏の証言は、本書の中でも言及される読売新聞の渡邉恒雄氏が、1979年9月に三木から解散総選挙の可能性を打診された際、「総理総裁は無限に金が入ってくるんだ」と言われて「反金権でクリーンを売り物にしていた三木さんにしては大胆な言葉だと意外に思った」と回想していること[1]と符合し、「クリーン三木」のあり方を考える際の一つの手掛かりを与えると言えるでしょう。


その一方で、聞き手である竹内氏の問いかけに対して岩野氏が明確な回答を示さない場面が散見された点については、人物が存命中であるなどの理由から答えを示すことがはばかれることを示唆しており、回顧録の持つ難しさをわれわれに伝えます。


あるいは、三木がとりわけ注力した鳴門大橋の建設について、大鳴門橋を道路のみの「単独橋」とするか鉄道も含む「併用橋」とするかで意見が分かれる様子が描かれるものの、本文中で「単独橋」や「併用橋」についての説明がないなど、聞き手と話し手には自明ながら読者にとっては馴染みの薄い事項や語句の解説が不足しがちであったことは、本書のもどかしい点です。


このように、いくつかの改善点はあるのの、本書は政治における秘書の役割の大きさを如実に物語るとともに、政党政治史や政治家論、さらに選挙論などでの研究の発展に寄与します。

そして、聞き手である竹内氏の篤実な学風が岩野氏から重層的な回答を引き出しており、『三木武夫秘書回顧録 三角大福中時代を語る』は一人の人間としての三木武夫の素顔を生きいきと描き出すことに成功した、良書となっています。


[1]御厨貴監修, 渡邉恒雄回顧録. 中央公論社, 2007年, 349-350頁.


<Executive Summary>
Book Review: Miyoji Iwano's "Memoir of Miki Takeo's Secretary" (Yusuke Suzumura)


Mr. Miyoji Iwano published a book titled Miki Takeo Hisyo Kaikoroku (literally Memoir of Miki Takeo's Secretary) from Yoshida Publishing on 14th November 2017.

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【書評】澤宮優『ニックネームで振り返る野球昭和史』

去る2016年5月20日(金)、ノンフィクション作家の澤宮優さんがベースボール・マガジン社より『ニックネームで振り返る野球昭和史』を上梓されました。


本書は『ベースボールマガジン』の連載記事をまとめたもので、日本職業野球連盟が発足した1936年から現在に至るまで80年を超える日本のプロ野球の歴史を振り返り、人々の印象に深い足跡を残した選手たちを取り上げ、ニックネームがどのように生まれ、何を意味し、そしていかなる役割を果たしたかを説きます。


第1章から最終章まで本書を構成するのは5つの章で、「スタープレーヤーの群像」(第1章)、「スクリーンから飛び出したヒーロー」(第2章)、「一芸に秀で、異名をとった職人たち」(第3章)、「神様、仏様…ひたすらにチームに捧げた男たち」(第4章)、「昭和から平成へ--ニックネームはどこへ行くのか、プロ野球はどこへ行くのか」(最終章)となっています。


これらの各章で取り上げられるのは、「弾丸ライナー」の川上哲治や「ミスタージャイアンツ」こと長嶋茂雄、あるいは「眠狂四郎」と呼ばれた土屋正孝、「オバQ」の田代富雄から「トルネード投法」で日米を席巻した野茂英雄や「ゴジラ」で親しまれた松井秀喜など、多種多様な選手たちです。


本名よりニックネームが有名な選手、ニックネームを聞けば野球場で躍動する姿が鮮やかによみがえる選手、さらには本名に覚えはなくともニックネームで後世に記憶されている選手など、本書に登場する選手の姿を通して、われわれは野球とニックネームの関わりの深さを目の当たりにします。


その一方で、本書には容易に目に付く物足りなさもあります。


例えば、選手にニックネームが与えられる場合の傾向として、本書では「選手につけられたニックネーム」と「選手の持つ技術につけられたニックネーム」という分類が用いられています。しかし、実際には前者は選手自身の身体的、能力的特徴や社会的属性、球団内での役割などより細分化することが出来ますし、後者も技術だけでなく試合中の行動や特殊な能力などを含んでいることを考えるなら、大きな潮流を把握する傍らでニックネームが付けられる際の具体的な仕組みが見逃されがちになります。


また、「野球昭和史」と銘打ちながら野茂、松井、さらには三浦大輔や黒木知宏など近年まで現役であった選手を取り上げていることは「昭和の匂いを残した平成の名選手」という理由を与えられてはいるものの、「昭和の野球」という枠組みからは逸脱していると言わねばなりません。


何より、「昭和の野球」や「昭和の匂い」というときの「昭和」が郷愁的な響きを持って語られることは、読者に「素晴らしい時代は過去にあり、現在はその余韻が残るのみ」という印象を与えかねず、昭和であれ平成であれ、優れた選手や印象深い選手は人々の記憶に変わらず残り続けるという筆者の意図と必ずしも一致してはいません。


しかしながら、こうした難点があるにもかかわらず、本書はニックネームを通して、われわれは、一つのニックネームが誕生する背景に選手自身の特徴や選手の持つ技能だけでなく、その時々の観客が置かれた社会的、政治的、経済的な状況や観客と選手を取り巻く世相が大きな力を発揮していることを理解します。そして、こうしたあり方は、かつて伊東一雄が看破したように「野球は言葉のスポーツ」ということを明瞭に示しているのです。


野球だけでなく様々な分野で印象深く、どこか愛嬌のあるニックネームを持つ人材が少なくなり、即物的な呼び名が増えている現代において、プロ野球という一つの対象からニックネームを与える者と与えられる者の関係を重層的に描く本書は、野球の文化的、社会的、民俗学的、さらには意味論的な相貌を浮き彫りにする貴重な一冊といえるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: Yu Sawamiya's "Nikkunemu de Furikaeru Showa Yakyushi" (Yusuke Suzumura)


Mr. Yu Sawamiya published a book titled Nikkunemu de Furikaeru Showa Yakyushi (literally History of Baseball in the Showa Era Seen from Nickname) from Baseball Magazine Sha on 20th May 2016.

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【書評】渡邊大門『流罪の日本史』

去る11月7日(火)、筑摩書房からちくま新書の一冊として『流罪の日本史』が刊行されました。著者は歴史学者の渡邊大門先生です。


本書は、現在も「あんな部署に異動なんて、まるで島流しだ」というように日常会話で用いられる「島流し」の基となった流刑について、最初の流人から流刑の制度が廃止された新刑法の成立までの1400年以上の時期を対象に、代表的な事例や象徴的な出来事に焦点を当てながら通史的に検討します。


取り上げられるのは、史上初めて流刑が適用された允恭天皇の皇女である軽大娘皇女から、関ケ原の戦いに敗れて八丈島に流され、明治維新後まで本土への復帰がかなわなかった宇喜多秀家とその末裔まで様々で、崇徳院や源頼朝、後醍醐天皇や真田昌之と信繁の父子といった人口に膾炙した人々だけでなく史料の丹念な調査によって無名の存在も言及されされています。


種々の事例を通して分かるのは、流刑が死罪に次ぐ重刑として適用された時代から権力者による権勢の誇示の手段へと変化する過程と、中国の制度を模倣した律令時代から江戸時代の公事方御定書まで、多くの法令が流刑をいかに規定し、運用していたかという点です。


例えば、流罪の性質の変化は都から離れた遠国に配流するだけでよかった時代から交通網が発達した戦国時代以降の社会基盤の変化が密接に影響していること、あるいは流罪となったものが罪を許されるか否か、配流地でどのような待遇を受けるかは罪状や流された当人の改悛の情の有無だけでなく、為政者との関係や本人の地位や名声と密接にかかわっていることも、本書が強調するところとです。


信頼性の高い史料に基づいて書き進められる本書は、史料の正確さによって議論への信頼性を高めるものの、時に「詳細は分からない」という記述をもたらすことになります。俗説や巷説を紹介することは史料に対する批判的な理解を行う訓練を受けていない一般の読者への配慮という著者の学問的良心の現れといえます。その一方で、一般書という形式を考えるなら、適宜俗説や巷説を交える方がより立体的な議論を可能にしたかも知れません。


それでも、日本における流刑の歴史を制度面と実例に基づいて検討し、日々の住まいから遠く離れた見知らぬ土地に流され、帰郷を許される日を心待ちにし、あるいは支援者から送られるわずかな食料や日用品に不快謝意を示す流人の姿を浮き彫りにする本書は、「某所へ流された」という一言で片付けられがちな出来事の内奥に迫ります。


「何故流されたのか」という理由だけでなく、「配流地に辿り着くまでどうだったか」、「流されてからどうなったか」といった点も入念に調査し、平易な筆致によって力強く描く『流罪の日本史』は、流罪を巡る様々な知見を読者に提示する良書といえるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: Daimon Watanabe's "Ruzai no Nihonshi" (Yusuke Suzumura)


Dr. Daimon Watanabe published a book titled Ruzai no Nihonshi (literally Japanese History Seen Through Exile) from Chikumashobo on 7th November 2017.

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【書評】張晟喜『まど・みちお 詩と童謡の表現世界』

去る6月16日(金)、『週刊読書人』第3194号(2017年6月16日号)に、張晟喜『まど・みちお 詩と童謡の表現世界』(風間書房、2017年)に対する私の書評「童謡研究の発展に寄与する意義深い一冊」が掲載されました1。


以下に、本文の内容を加筆、修正した記事をご紹介しますので、ぜひご覧ください。


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童謡研究の発展に寄与する意義深い一冊
鈴村裕輔


張晟喜の『まど・みちお 詩と童謡の表現世界』は、童謡『ぞうさん』の作詞者であるまど・みちお(1909-2014)に焦点を当て、まどの創作の過程と表現の有り様を検討する。


本書は序章と終章を含む7つの章からなり、議論の中心となるのは5つの章である。


すなわち、第1章「まど・みちおの歩みと詩作--台湾時代」では、まどが9歳から34歳まで台湾に在住していた点に注目しつつ青年期の創作活動を検討し、第2章「まど・みちおの歩みと詩作--戦後」においてまどの代表作『ぞうさん』の成立の過程に焦点を当てながら戦後の童謡作詞家としての事跡が考察されている。さらに、まどの作品を視覚や聴覚の観点から分析する第3章「まど・みちおの認識と表現世界」、作品の中に数多く登場する動物や植物をまどがどのように捉え、しかなる表現を試みたかを検討する第4章「まど・みちおの表現対象--動物・植物」、そして詩人として出発したまどが、詩と童謡についていかなる考えを抱いたかを検証し、さらに韓国を代表する童謡詩人でありまどと同世代であったユン・ソクチュン(1911-2003)との対比を試みるのが第5章「まど・みちおの詩と童謡」だ。


まどが新聞や同人誌、専門誌に掲載した作品を『まど・みちお全詩集』や関連書から収集し、各作品の特徴を実証的に検討する本書は、まどの作品の全貌を明らかにしようとする意欲に満ちている。また、視覚や聴覚、触覚、嗅覚といった感覚を手掛かりにまどの創作の過程を丹念に辿る様子は著者の実直さを示す。


その一方で、例えばまどの童謡観や児童観の妥当性を吟味せず、「(まどの)童謡観は、子どものもつ素晴らしい語感を失わせまいとする童謡の使命がまどの思いの背後にあることを感じさせる」(本文229頁)と肯定する様子は、議論の厳密さを失わせる。


また、まどの作品としては『ぞうさん』と並んで広く知られている『やぎさんゆうびん』が本格的な検討の対象となっていない点は、本書の網羅性を低める結果となっている。


このような物足りなさを含んではいるものの、本書の価値が色褪せないのは、著者の実直さと丹念さとともに、まどとユンの比較という視点の新しさにも求められよう。


近年、周東美材の『童謡の近代-メディアの変容と子ども文化-』(岩波書店、2015年)を筆頭に気鋭の研究者による童謡研究が進んでいる。


『まど・みちお 詩と童謡の表現世界』はこうした研究の流れに掉さし、今後、張晟喜は童謡研究の分野でより大きな成果を残すことだろう。


その意味で、本書は著者にとって最初の単著であるばかりでなく、童謡研究の発展に寄与する意義深い一冊なのである。
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1 鈴村裕輔, 童謡研究の発展に寄与する意義深い一冊. 週刊読書人, 3194号, 2017年, 6頁.


<Executive Summary>
Book Review: Mado Michio: His Poetics and Children's Song (Yusuke Suzumura)


A book review for Mado Michio: His Poetics and Children's Song written by Dr. Jang Sunghee of Hosei University and published by Kazama Shobo was run on the Dokushoj, No. 3194. This time I introduce the review for the readers of this weblog.

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【書評】菊田康彦『燕軍戦記』(カンゼン、2016年)

去る3月11日(金)、フリーライターの菊田康彦さんの新著『燕軍戦記――スワローズ、14年ぶり優勝への軌跡』がカンゼンから出版されました。


本書は、著者が総合スポーツサイト「スポーツナビ」で2010年から執筆する、東京ヤクルトスワローズの試合の様子や選手の状況などを伝える「燕軍戦記」と、その後継で2015年から「ベースボールチャンネル」に連載されている「新・燕軍戦記」の記事のうち、2011年から2015年の内容をまとめるとともに、特別記事として真中満監督と声優の松嵜麗さんとの対談を収録しています。


描かれるのは、小川淳司監督の下でリーグ優勝を目指しながら終盤で失速して2位となった2011年、一時は首位になったものの最終的に3位に留まった2012年、ウラディミール・バレンティン選手が日本記録となる60本塁打を放ったものの最下位となった2013年、2年連続の6位ながら山田哲人選手や川端慎吾選手らが台頭した2014年、そして真中満監督の下で14年ぶりのリーグ優勝を達成した2015年と、衰退から躍進へと至る5年間です。


対象に近すぎると温情的、あるいは微温的な内容になり、距離を置きすぎると批判的で峻厳的な論調になりやすいのは、政治や経済の評論に留まらず、スポーツにも当てはまる事実です。

筆者は、時にスワローズの欠点を直接に指摘し、時に選手の将来に期待します。これにより、読者は日々の試合に全力で臨む選手や指導者の姿を思い描けるだけでなく、筆者がスワローズという対象を淡々と分析するだけでなく、一人の応援者として捕らえていることを知ります。


このような筆者の姿勢が、丹念な取材の結果であることは容易に理解できます。それとともに、スワローズの前身である国鉄とサンケイの歴史も踏まえた記事が示すとおり、目の前の出来事を歴史の中に位置づけて叙述しようとする米国の野球評論、さらには米国の野球界に対する筆者の造詣の深さも見逃せません。


スワローズに関する報告記事の集成でも、評論集でもなく、過去5年間のスワローズが何を目指し、どのような取り組みを行い、いかなる結果を収めたのかをわれわれに教える本書は、「14年ぶり優勝への軌跡」であるとともに、貴重な同時代史的資料でもあります。


14年ぶりのリーグ優勝を実現したスワローズのその後の歩みとともに、続編の出版が期待される一冊です。


<Executive Summary>
Book Review: Yasuhiko Kikuta's "Tsubamegun Senki" (Yusuke Suzumura)


Mr. Yasuhiko Kikuta released a book titled Tsubamegun Senki (literally The Legend of Swallows) from Kanzen on 11th March 2016.

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【書評】岩崎充益『都立秋川高校――玉成寮のサムライたち』

昨日、青山高校の前校長の岩崎充益先生の著書『都立秋川高校――玉成寮のサムライたち』(パピルスあい、2015年)を読み終えました。


本書の書評は以下の通りです。


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岩崎充益の『都立秋川高校――玉成寮のサムライたち』(パピルスあい、2015年)は、東京都立青山高等学校の校長などを歴任し、1997年4月から2001年3月まで「最後の舎監長」として在籍した著者が、全国初の全寮制公立学校である東京都立秋川高等学校の開校から閉校までの36年間を描く。


秋川高校は、日本にも英国のイートン校のような全寮制公立学校を作り、東京から日本の教育を変えたいという東京都教育委員会教育長の小尾乕雄の発案により1965(昭和40)年に開校し、2001(平成13)年に閉校した。


当初は「エリート養成の教養教育」を目指しながら、「エリート教育」を忌避する当時の教育界の雰囲気を反映して「鍛える教育」と「人間教育」に転換したために進学実績が伸び悩むとともに、「停学または家庭謹慎を2回すると無期停学」という厳格な指導が生徒の自由を抑圧するとして裁判にまで発展するなど、学校のあり方が次第に社会の需要にそぐわなくなったこと、そして1990年代後半からの都立高校改革によって体育・福祉への転換が計画されたものの2000(平成12)年に起きた三宅島の噴火により三宅高校などが併設されたために新学校の開設が頓挫するなど、秋川高校は理想と現実の乖離に弄ばれた36年間を過ごしたといってよい。


筆者は、そのような秋川高校の姿を通して、私立学校と異なり、究極的には「建学の理念」が不要である公立学校において特定の理念を掲げることの難しさを端的に描き出す。


また、全寮制公立学校の開設を推進しながら、「全寮制は私学に任せるべきだ」と指摘していた小尾の発言は、教育行政に携わる者の発想の一貫性のなさを浮き彫りにする。

それとともに、全寮制公立学校の構造的な困難を把握していながら秋川高校を開設し、しかも法的な裏付けを取ることを怠り続けた小尾や東京都の教育行政に携わった者たちの態度に、「富士山型から八ヶ岳型へ」と特定の進学校の実績が突出する状況を改め、なだらかな進学実績の実現を標榜して学校群制度を導入しながら、実際には都立高校の凋落といわれる事態を招いた歴史と同じ、当事者としての主体的な取り組みを欠く、無責任さを見出すことができる。


すなわち、学校群制度が導入されたことを最大の契機とする地盤沈下の代償を都立高校がほぼ40年かけて支払い続けたのと同じように、学校は作ったものの必要な措置が取られなかった秋川高校は36年後に閉校という形で行政の無作為の代償を支払わされたのである。その意味で、われわれは、筆者が指摘するように、秋川高校の開設(1965年)と学校群制度の導入(1967年)がほぼ同じ時期に起きたことに注意しなければならない。


一方で、本書が描く、開設要員であった教員がいずれも高い意欲をもって生徒の指導や舎監業務に従事していたものの、異動や新規採用によって人材が流動するのに伴い、当初の教育方針に疑問を持つ教員が増えてゆく様子は、物事を軌道に乗せるだけでなく、進路を維持することの難しさを教えるといえよう。


しかし、本書がなお議論を深める余地を残していることも事実である。


例えば、秋川高校の寮の名前である玉成寮の名前を用いて「玉成寮のサムライたち」という副題を添えているものの、実際には、かつての在校生の活動に関する記述に割かれる紙面の割合は低く、もっぱら教職員の事跡に関する叙述が多いことは、本書の最大の欠点である。もちろん、5715名の卒業生の多くが健在である以上、直接例示するには憚れる逸話もあるだろうし、利害関係者が多いために当事者が口をつぐむこともあろう。だが、「玉成寮のサムライたち」の姿が最後まで断片的にしか描かれなかったことは、隔靴掻痒の感を免れ得ない。


また、「法整備をし、国策として全寮制国立中高一貫校を設立してもらいたい」という筆者の主張は傾聴に値する。しかし、現在の日本において全寮制の学校への実需が少ない以上、法の整備や教育の理念の提唱から一歩進み、保護者や生徒に「全寮制の学校が必要なのだ」という理解を普及させる取り組みをしなければ、もし国立中等教育機関が設立されたとしても、最後は「寮つきの学校」、「家庭のしつけの代わりをする学校」と見なされた秋川高校と同じ結末を辿ることになりかねない。


このように、本書はいくつかの見逃せない課題を含んでいる。


それでも、全寮制公立学校という日本で最初の取り組みの苦悩と葛藤、そして挫折を恬淡とした筆致で述べることで、公立学校の可能性と限界を明らかにするとともに、行政の便宜主義的な態度をも映し出すことに成功した本書は、日本の教育の過去と将来、そして現在を考えるために深い意義を有する一冊である。


*岩崎充益. 都立秋川高校――玉成寮のサムライたち. パピルスあい, 2015年.
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<Executive Summary>
Book Review: Tokyo Metropolitan Akikawa High School: Samurais of Gyokuseiryo (Yusuke Suzumura)


Tokyo Metropolitan Akikawa High  School: Samurais of Gyokuseiryo written by Mitsumasu Iwasaki was published from Papyrus I on January 2015. This book describes 36 years history of Akikawa High School from its beginning to closing.

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【書評】栗原康『学生に賃金を』(2015年)

今年2月に出版された栗原康の『学生に賃金を』の書評を『週刊金曜日』の2015年4月10日号に寄稿する機会を得ました1


そこで、今回は同誌に掲載した書評を、一部加筆修正の上でご紹介いたします。


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書評『学生に賃金を』(栗原康、新評論、2015年2月)
鈴村裕輔


敵と味方を単純化する論法、熱意は伝わるものの情緒的すぎる文体、そしてしばしば飛躍し錯綜する議論の展開と、『学生に賃金を』の弱みは容易に目に付く。何より、「学生に賃金を」という題名が本書の内容を十分に表現していないのは、見過ごせない欠点である。


だが、日本の公的奨学金が教育の機会均等という理念から逸脱し、貸金業者の事業の一環であるかのような様子を示している現状に焦点を当て、追及する筆致は力強い。


例えば、機構の奨学金635万円が借金として残っている筆者の体験や、諸外国との比較によって「貸与型の日本の公的奨学金は世界の常識からすれば学生ローン」であると指摘する点(54頁)などは、日本の公的奨学金が持つ根本的な問題をわれわれに教える。


あるいは、第3章「〈借金学生〉製造工場」や第4章「悪意の大学」は、1943年の大日本育英会に始まる日本の公的奨学金制度が、教育の機会均等を実現するための方法ではなく、政府の教育政策を補う手段として用いられてきた過程を明瞭に描いており、
「何故、日本の公的奨学金は給付ではなく貸与なのか」という本書の中心的な問いに率直な答えを提示する。


一方、民間の給付型奨学金制度に言及しないことは議論の説得力を弱めている。また、大学の無償化というもうひとつの大きな問題に対して、「学生は認識や知識などの共同財の消費者であるとともに、教員とともに知的活動を行っている。だから、対価が支払われるべきだ」という論法で挑むものの、「受益者負担の適正化」を掲げて貸与型の有利子奨学金の枠が広げられる現状からすれば、あまりに理想主義的で無力である。


それでも、今後深刻な社会問題となる公的奨学金制度の問題に正面から取り組む本書の意義は大きく、さらなる議論が待たれる。
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1 鈴村裕輔, 書評『学生に賃金を』. 週刊金曜日, 2015年4月10日号, 53ページ, 2015.


<Executive Summary>
Book Review: "Pay for Students" by Yasushi Kurihara (Yusuke Suzumura)


I wrote a book review of Yasushi Kurihara's Pay for Students for Shukan Kinyobi of 10th April 2015. In this time I run a revised version of this review.

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【書評】川田順造『<運ぶヒト>の人類学』(2014年)

いささか旧聞に属しますが、2014年9月、文化人類学者の川田順造氏の著書『<運ぶヒト>の人類学』が刊行されました。
 

ヒトをhomo portans(運ぶヒト)として捉える視点から議論を進める本書について、私は大修館書店の『体育科教育』の連載「スポーツの今を知るために」において「川田順造『<運ぶヒト>の人類学』が教える「ヒトとスポーツの関係」」と題して取り上げさせていただきました1
 

今回は、その内容の一部を改め、書評としてご紹介いたします。
 

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川田順造『<運ぶヒト>の人類学』(岩波書店、2014年)


日頃はごく当然のことと思っているものの、当然と思う理由を問われた際に回答に困るという場面は、日常的な光景である。
 

野球を知らない人が試合の中継の映像を見て、「どうして野球は右の方ばっかりに走るの?左の方には誰もいないのに」と、一塁に走る打者の姿を不思議に思うのは、スポーツの分野における、素朴ながら、「それは、規則だから」と返事をする以外に答えを見つけにくい問いかけといえよう。
 

また、このような「なぜ」という問いをある競技が発生した理由にまで遡らせるとき、実はわれわれはその場しのぎの答えさしか持ち合わせていないかもしれないということが明らかになる。
 

例えば、「なぜ、ヨーロッパで剣道が生まれず、日本でフェンシングが誕生しなかったのか」、あるいは「日本では相撲が、ヨーロッパではボクシングが生まれた理由はどこにあるのか」といった問いは、一見すると愚問のように思われるものの、「ある地域のある人々の間で特定のスポーツが誕生したのは偶然か、それとも必然か」という根本的な疑問に繋がるものなのである。
 

もちろん、このような問いには様々な答えがあるし、隣接諸科学の知見を参照して答えを考えるのも一つの手段である。
 

そのような隣接諸科学の知見を援用する試みとして、われわれは文化人類学者の川田順造氏が上梓した『<運ぶヒト>の人類学』(岩波新書、2014年)を挙げることができる。
 

ヒトの特徴をモノの運搬に求め、地域によって異なるヒトの身体形質の特徴を「西アフリカ内陸の黒人」、「近世以後のフランスを中心とする地域の主な住民である白人」、「日本人やアメリカ先住民も含む黄人(モンゴロイド)」に分ける著者は、身体のモノの運搬や道具の使用方法などを、3つの種類のヒトを実地調査や図像資料の分析によって比較する。
 

そして、「西アフリカ内陸の黒人」の特徴は前腕と下腿が体幹に比べて長く骨盤が前傾し、大腿背面の大腿屈筋が長いこと、「近世以後のフランスを中心とする地域の主な住民である白人」の身体形質と身体の使い方の特徴は肩と上腕の相対的な発達にあり、「日本人やアメリカ先住民も含む黄人(モンゴロイド)」は体幹に比べて四肢が相対的に短く、腕よりも腰、腕も伸展ではなく曲げて引き付ける動作を重視する特徴があると指摘する。


さらに、著者は、このような身体形質や体の使い方の特徴が具体的に現れる場面の一つにスポーツを挙げ、「白人」においては腕や上体を伸展させるボクシングやフェンシングが、「黄人」では相撲や柔術、剣術といった腕を曲げて引き付けるスポーツが発達すると述べる。
 

確かに、このような説明は、「地域やヒトの相違がスポーツの発生に影響を与えるか」という問いかけに対する回答の一つでしかなく、この他にも種々の答えがあることに疑問の余地はない。しかも、身体形質や身体の使い方の側面に注目し、フェンシングや相撲をスポーツへと発展させた精神的な要素への言及がないことに疑問を覚える人がいるかもしれない。
 

しかしながら、『<運ぶヒト>の人類学』の見解は、著者が提唱した「文化の三角測量」、すなわち文化的にも地理的にも著しく隔たり、相互に直接の影響関係が乏しい三つの文化を比較する方法を応用したものであり、結果として、「腕や体の伸展」、「腕を曲げることを特徴とする」といった、従来にはない答えが得られることになるのである。
 

その意味で、『<運ぶヒト>の人類学』は、文化人類学だけでなく、スポーツの分野にも有益な一冊といえるのである。
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1 鈴村裕輔, 川田順造『<運ぶヒト>の人類学』が教える「ヒトとスポーツの関係」. 体育科教育, 60(1): 71, 2015.
 

<Executive Summary>
Book Review: Junzo Kawada's "Anthropology of Homo Portans" (Yusuke Suzumura)


Professor Dr. Junzo Kawada published Anthropology of Homo Portans from Iwanami Shoten in September 2014. In this time I release my review for this book.

 

 

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Book Review: Kenji Minemura's“A Man of 1/130000000”

Book Review
Kenji Minemura. A Man of 1/1300000000 (Shogakkukan, 2015)
Written by Yusuke Suzumura (Hosei University, Japan)

The title of this book “A Man of 1/130000000” is somewhat ambiguous for the readers. What does it mean? When you turn a few pages, everyone should recognise that the title is so adequate to tell the characteristics of this book for us.


A Man of 1/1300000000 is a book which deals with Xi Jinping, the most powerful person of the People’s Republic of China (PRC), written by Kenji Minemura.


Minemura studied abroad in Renmin University of China in 2005 and was appointed a special correspondent at China of the Asahi Shimbun in 2007. He is one of well-known journalist in Japan who write many articles concerning on China.


Ten years’ experiences in China would be one part of remarkable backgrounds of this book. Nevertheless A Man of 1/1300000000 is not a book collecting the results of author’s reporting assignments but rather a sketch of contemporary China with author’s original viewpoints.


Well, what is the original viewpoint? It is a struggle for power that is such unique standpoint of this book.


“Crocking down both tigers and flies” is a slogan of Xi Jinping and according the supreme man’s command mandarins or entrepreneurs were arrested and punished—it is very common scenes after the establishment the Xi administration.


It is often understood that such series of actions represents Xi Jinping’s challenge to solidify the foundation of his power. On the contrary, the author clearly points out that the foundation of Xi’s power is already formed, since Hu Jinto and Jian Zemin, his predecessors, could not extensively expose corrupt (pp.99-100). That is to say, Minemura indicates that the “Anti-corruption” movement is not a part of processes to reinforce Xi’s power but the result of such activity. He also discusses the reason why Xi Jinping can exposure corruptions right after starting of his administration. By this discussion, he makes his answer that Hu’s “Full Retire” of 2012, in which Hu retired his all posts including General Secretary of the Chinese Communist Party, President of the PRC, and Chairman of the Central Military Commission to exclude Jian’s influence in political circles: after Hu’s “Full Retire”, Xi can control the state without senior members’ interference.

Serious struggle between Hu and Jian is described vividly in Chapter 4 ‘Document: A Birth of New Emperor’ (pp.104-132). This chapter implies that the author could get to the core of the object by its detailed and specific description. In this meaning, we can say Minemura continues the descent of Theodore White’s The Making of the President, 1960 (Atheneum Publishers, 1961), which is the production of deliberate and accurate research with the Kennedys.


In addition, the author’s research results at the Fairbank Center for East Asian Research of the Harvard University were applied in Chapter 1 ‘A Village Lovers Live’ and Chapter 2 ‘The Search for Xi Jinping’s Only Daughter!’. We can be satisfied with an elaborated and fine detective story in these chapters: the author wrote vividly processes how to penetrate the inside of the “Lovers’ village” or to find out Xi’s daughter Xi Mingze.

Having presence and tension is another important strong point of this book which is supported by the numerical numbers. For example, a description of an engine speed (6000/min; p.35) and the number of students in the graduation ceremony at the Harvard University in which Xi Mingze also attended as a graduate (167 students; p. 58) should bring the readers to the steep grade to the “Lovers’ village” or the ceremony. By these precise deptictions, we feel sympathy to described scenes of this book.


Indeed, a subtitle “The Greatest Struggle for Power of Man on the Emperor of China” is a kind of seriously expression; a concatenation of relatively short sentences, which is very similar to articles in a newspaper, give simplicity to the book and at the same time make it so monotonous. However it is clear that this book has some strong points, as we mentioned, not only timeliness of the theme but also originality of perspective and methods.


Mr. Tsuneo Watanabe, the Chief Editor of the Yomiuri Shimbun and once he was a star writer of the Political Desk, has searched the inside and outside of the political fields and published some memorable books including Habatsu—Anatomy of the Conservative Party (1958) or Inside Information of the White House—Power Politics of the USA (1971). It is very fascinating for us that Minemura will gain the name not only as the journalist but also the author as with the case of Mr. Watanabe, because the author of A Man of 1/1300000000 shows his cultivated ability to find the truth behind the phenomenon and delineate what he sought out.


<要旨>
【書評】峯村健司『十三億分の一の男』(小学館、2015年)


今回、3月2日(月)の本欄で紹介した峯村健司の『十三億分の一の男』(小学館、2015年)の書評の英語版を紹介します。本文の内容は日本語版と同様です。

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 【書評】峯村健司『十三億分の一の男』(小学館、2015年)

去る2月26日(木)、朝日新聞の峯村健司記者の著書『十三億分の一の男--中国皇帝を巡る人類最大の権力闘争』(小学館)が刊行されました。


そこで、今回は同書についての私の書評を下記の通りご紹介いたします。


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「十三億分の一の男」とは、一見すると掴みどころのない題名である。果たして何が「十三億分の一」なのであろうか。しかし、どこでもよい、数ページをめくるだけで、これほど本書の特長を明確に示す書名のないことに誰もが気付かされるだろう。


中国の最高実力者である習近平氏を取り上げる本書は、著者にとっては最初の単著書である。


著者は、2005年に中国人民大学に留学し、2007年からは朝日新聞の中国特派員を務め、朝日新聞の中国関連の記事を精力的に執筆する記者として知名である。


その意味で、本書は著者の10年にわたる中国での体験を基にした書物である。しかし、『十三億分の一の男』は、記者が取材の結果をまとめただけの本ではない。むしろ、取材の成果を織り交ぜつつ、独自の視点で対象を分析した、現在の中国の見取り図であるといえる。


それでは、著者の独自の視点とは何であろうか。副題に示された「権力闘争」こそが、本書に精細を加える視座である。


「トラもハエも同時に叩く」とする習近平氏の指示の下、「腐敗撲滅」の名によって政府の高官や企業家たちが拘束され、ときに党籍を剥奪され、ときに実刑判決を下されているのは周知の事実である。


これは、一見すると習氏が権力基盤を磐石にするための措置と思われる。しかし、著者は、胡錦濤や江沢民といった歴代の政権では実現しなかった本格的な汚職の摘発を習氏が断行しているのは、権力基盤が固まっていなければできないことであるとしている(本書99-100ページ)。


すなわち、「腐敗撲滅」運動は習氏の権力固めの過程ではなく、権力が確立された結果であるというのが、著者の見立てであり、政権が発足した初期から汚職の摘発を行えたのも、胡氏が江氏の影響力を排除するために自らも党総書記、国家主席、中央軍事委員会主席から完全に引退する「全退」を行ったことで、習氏は党長老の干渉なしに政権を担当できた結果であるとされる。


胡氏と江氏の主導権争いは本書第4章「ドキュメント 新皇帝誕生」(104-132ページ)に詳述されている。その記述が細部に及び、しかもいずれの項目も具体的な事実に基づいている点は著者が対象に深く食い込んでいることを雄弁に物語っており、本書はケネディ家の居間に座っていなければ聞き出せない類の情報に満ちたセオドア・ホワイトのThe Making of the President, 1960 (Atheneum Publishers, 1961)の系譜に連なるといっても過言ではない。


あるいは、筆者が2013年6月から1年間ハーバード大学フェアバンク研究センターに客員研究員として在籍した成果による第1章「愛人たちが暮らす村」や第2章「習近平の一人娘を探せ」は、取材の対象である「愛人村」の内部への潜入や習氏の愛娘である習明沢氏を探り当てるまでの過程を巧みに描き出しており、平凡な探偵小説よりも優れた仕上がりとなっている。


緊迫感と臨場感は本書のもう一つの特長であり、その特長を支えるのが、折に触れて挙げられる具体的な数値である。


例えば、「愛人村」の急な坂道を上る際のエンジンの回転数を6千回転と記し(本書35ページ)、習明沢氏も出席したハーバード大学の卒業式の場面において卒業生の数を167名と書くこと(本書58ページ)で、読者はあたかも坂道を上り、卒業式に列席するかのような感覚を覚えるだろう。こうした細やかな点も見逃さずに書き記すことで、われわれは目にする内容への共感を覚えるのだ。


確かに、「中国皇帝を巡る人類最大の権力闘争」という副題はやや過剰な表現であるし、新聞記事と同様の、比較的短い文章の連続は、一面では簡潔さを生み出すものの、ときに単調な印象を与えかねない。


それでも、本書は取り扱う題材が時宜を得ているだけでなく、着眼点や記述の手法の点で、優れた強みを持っていることは明らかである。


読売新聞の渡邉恒雄氏は、政治部の記者時代に政界の裏面までくまなく視界を広げただけでなく、取材の結果を『派閥――保守党の解剖』(弘文堂, 1958年)や『ホワイトハウスの内幕――アメリカの権力政治』(読売新聞社, 1971年)などの書籍にまとめ、世に問うている。


最初の著作で取材の能力と得られた情報の分析の能力の高さを遺憾なく示した峯村健司氏が、今後、かつての渡邉氏のように報道においてだけでなく出版の分野でも名声を確立するか、大いに注目されるところである。
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<Executive Summary>
Book Review: "A Man of 1/1300000000" by Kenji Minemura (Yusuke Suzumura)


Kenji Minemura, a staff writer of the Asahi Shimbun, published a new book A Man of 1/1300000000 (in Japanese Jusanoku bun no ichi no otoko) on 26th February 2015. Today I write my review on this book.

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梅棹忠夫著(ベフ、クライナー、中牧編)"Japanese Civilization in the Modern World"

2013年10月、Bier'sche Verlagsanstalt(ボン大学日本学科出版会、http://www.biersche-verlagsanstalt.de/)から、ハルミ・ベフ、ヨーゼフ・クライナー、中牧弘允の編になるJapanese Civilization in the Modern World: an Introduction to the Comparative Study of Civilizationsが出版されました。


本書は、梅棹忠夫の『近代世界における日本文明:比較文明学序説』(中央公論新社、2000年)を英訳したもので、梅棹の主著『文明の生態史観』(1957年)の各論に相当する論考17編を収録しています。英訳を担当したのはベス・ケーリです。


ベフとクライナーは2003年にケーリとともに『文明の生態史観』をAn Ecological View of Histry: Japanese Civilization in the World ContextとしてメルボルンのTrans Pacific Pressから上梓しています。


その意味で、Japanese Civilization in the Modern World: an Introduction to the Comparative Study of Civilizationsは梅棹の文明論を英訳する二つ目の作品となります。


日本国内での知名度の高さに比べ、外国における梅棹の名声が決して高くないのは、梅棹の主要な著作がほとんど日本語で書かれ、外国語で発表された論文や著作が少ないことに由来すると考えるクライナーやベフらが、英語圏の人々にも梅棹の議論をよりよく知ってもらおうとして刊行した本書は、梅棹の文明論を知るだけでなく、日本の文化人類学の発展の過程を知るためにも重要な一冊といえるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: "Japanese Civilization in the Modern World: an Introduction to the Comparative Study of Civilizations" Written by Umesao Tadao (Yusuke Suzumura)


Japanese Civilization in the Modern World: an Introduction to the Comparative Study of Civilizations written by Umesao Tadao was pulbished from Bier'sche Verlagsanstalt in October 2013. It was an English translated version of Umesao's Kindaisekai ni okeru Nihonbunmei (2000) and edited by Harunmi Befu, Josefu Kreiner and Hirochika Nakamaki and translated by Beth Cary.

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【書評】『ID野球の父―プロ野球に革命を起こした『尾張メモ』再発見』

先日刊行されたアメリカ野球愛好会の機関誌『ダッグアウト』の「新刊書籍案内」欄に、アメリカ野球愛好会会員でノンフィクション作家の戸部良也さんの新著『ID野球の父―プロ野球に革命を起こした『尾張メモ』再発見』(ベースボール・マガジン社、2012年)を書かせていただきました1

戸部さんは昨年12月15日(土)に心臓発作で78年の生涯を閉じられましたが、戸部さんの生前に上梓された最後の著作である本書について、「新刊書籍案内」の内容を加筆、修正して書評としましたので、ご案内いたします。

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戸部良也『ID野球の父―プロ野球に革命を起こした『尾張メモ』再発見』(ベースボール・マガジン社、2012年)、1470円

「日本プロ野球におけるスコアラーの草分け」ともいわれ、鶴岡一人時代の南海ホークス、そして広岡達朗が監督を務めた西武ライオンズの野球を情報の面から支えたのが、尾張久次(1909-1985)であった。

本書では、職工として大阪毎日新聞社に入り、戦後に運動部記者となった尾張が、どのようにして取材の対象であったプロ野球の世界に身を投じ、当時は大リーグにも存在しなかった、定量的、定性的な情報に基づいて野球を行う「データ野球」を確立したかが、尾張から著者に寄託された膨大な資料と、長年プロ野球の取材に携わった著者の入念な調査によって明らかにされる。

尾張の微細な点にまで着目した情報の収集が1950年代に大リーグ関係者を驚かせたこと、凡庸な捕手であった野村克也が尾張の薫陶を受けることで「データ野球」に開眼する姿などは、OPSやWHIPといった計量野球学の用語が日常化した現在の日米のプロ球界から見れば、すでに過去の話かもしれない。

それでも、大リーグに先んじて日本が経験と勘に頼るのではなく、統計学的な手法を導入したこと、その先駆者が溢れるほどの情熱によって未踏の分野を開拓したという事実、そして、汎用型電子計算機が普及するはるか以前に紙と鉛筆で様々な情報を克明に分析した姿は、読者に深い印象を与えることであろう。

「協調性」や「器用さ」が注目されがちな日本のプロ野球の隠された特徴を知るためにも、また、尾張久次という人物の事績を知るためにも、本書は格好の一冊である。

そして、日米中韓、さらには中南米諸国での豊かな取材経験を背景として独自の「野球ノンフィクション」を確立した著者が生前に刊行した最後の書籍によって、「データ野球」の基礎を築くことに生涯をかけた尾張の姿を克明に知ることができたのは、われわれ読者にとって、実に得難い機会であるといえるだろう。
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1 新刊書籍案内. ダッグアウト, 14(1): 11, 2012.

<Executive Summary>
Book Review: "Father of 'ID Baseball': Rediscovery of 'Owari Memorandum'" (Yusuke Suzumura)

Mr. Yoshinari Tobe published the last book Father of "ID Baseball": Rediscovery of "Owari Memorandum" from Baseball Magazine Sha in 2012. In this time I ran my review on this book.
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【書評】『逆面接』新版(清水佑三、2006年)

12月1日(木)、2013年3月卒業予定の大学生と大学院生に対する企業の採用活動が始まりました。


企業への就職を希望する学生は、これから就職活動に励むことになり、その中の少なからぬ人たちが、大学や官公庁、あるいは民間企業や各種団体の主催する「就職活動支援セミナー」の類の催しに参加することになるでしょう。


そのような「就活生」が手元に置いて目を通して得るところのある本の一つが、清水佑三の『逆面接』新版(東洋経済新報社、2006年)です。


これは、2003年12月に刊行された『逆面接』の新版で、受検者の質問力を知るとともに、理解能力や志望度をも測るための手法として開発された面接の手法である「逆面接」の意義と価値、そして実際的な効用を、企業の人事担当者や就職活動を行う学生を対象として説く内容となっています。


「就活生」の視点からすれば、「逆面接」の仕組みを教える『逆面接』は、世に溢れる「就活ノウハウ本」と変わるところがないように見えるかも知れません。


しかし、「すぐれた科学者は仮説を手もとにおき、頑迷な神学者は先入観を手もとにおく」(104頁)という一文が象徴するように、面接という観点から人間の本質の一端にも深く切り込むのが本書の大きな特徴であるといえます。その意味で、人事担当者や「就活生」だけでなく、人間の行動のあり方に興味を持つ人も一読に値するといえるでしょう。


実際には、就職活動中の学生が採用面接の現場で「逆面接」を体験する機会はそれほど多くはないかもしれません。そのように考えれば、「逆面接」に焦点を当てた本書は、「就活生」にとってあまり役に立たない本となることでしょう。


しかしながら、 第2章「面接の基礎知識」と第3章「コンピテンシー面接」は、「逆面接」だけでなく、面接そのものの構造、面接というものが持つ特徴を簡潔かつ平明に説明しており、その点で、これから実際に面接を受けようとする「就活生」にとって、「面接とは何であるか」という分かっているようで分かっていない事柄を知るためのよい手掛かりといえます。


「難しいことを難しく言っているうちは大学の教授どまり。難しいことを分かりやすく言うことこそが大切」というのが持論であった著者が面接そのものの本質を明快に解き明かしている本書は、示唆に富む一冊になるといえるでしょう。

 

<Executive Summary>
Book Review: Yuzo Shimizu's Gyaku-mensetsu(Yusuke Suzumura)


Gyaku-mensetsu (Informational Interview) written by Mr. Yuzo Shimizu in 2006 is one of useful and beneficial books to students who go about getting a job, because Mr. Shimizu explained the structure and nature of interview examination.

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ソムリエはワインを作ってはならない

自称、他称を含め、世の中には様々な肩書や呼び名があります。


その意味では世界は唯名論的に存在しているのかもしれませんが、最近知った風変りな呼び名は、「本のソムリエ」というものです。どうやら、sommelierにちなんだ造語のようで、頭は働かせよう、というところでしょうか。


ところで、私がこの「本のソムリエ」という呼び名を知る契機となったのは、思わぬ経緯から清水克衛という人の新著『商売はノウハウよりも「人情力」』(現代書林、2010年)を読んだためです。


この人は「本のソムリエ」として講演活動などを行っているとか。世の中には様々な人がいると思った次第です。


肝心の書籍の内容は「石田梅岩に学ぶ」と謳うものの、その追随者たちが興した石門心学をつまみ食いしながら「いかにして商売をうまく進めるか」を説く、いわゆる「ハウツー本」です。


石田梅岩が、固定的な秩序が支配した江戸時代にあって、商人の存在意義を正当化するために格闘した結果としての心学という側面が閑却されており、「石田梅岩に学ぶ」というのが、「ハウツー本である」ということを隠すための方便に使われているのは明らかです。


ソムリエがワインを作れるかといえばそうではなく、ゴルフのレッスンプロが公式戦で優勝できるかといえばそうではないように、「本のソムリエ」という人の書く本が優れた内容をもつかといえばそうではない、という事実を理解するために読む分には、あまり害のない本といえましょう。


「石田梅岩に学ぶ」と思うなら、岩波文庫の『都鄙問答』を手に取る方が、よほど現実的です。

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技術ならざる人間の存在の課題としての「自然と人間」の問題

以下は、『法政哲学』第4号(2008年)に掲載された、『自然と人間』(大東俊一、菅沢龍文、奥田和夫、大貫義久編、梓出版社、2006年)の書評です。


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 「キーボードをたたけば文字が出る」というように行為と結果に対応がある場合、その対応の背後にある原理を知ろうとする人は少ない。なぜなら、原理を知らなくとも期待する「答え」を得られるからだ。だが、行為と結果の間に対応のない、いわば未知の問題に遭遇するとき、問われているのは事象の根本に存する原理が何であるかだ。身近な例でいえば、温暖化や異常気象といった気候変動に象徴される環境問題は、二十一世紀の人類にとって不可避なだけでなく、自ら「答え」を生み出さなければならない課題のひとつである。本書は、そのような答えのない問題としての環境問題を考察する際の糸口を提供する。

 「古代ギリシア」「ルネサンスから近代」「近代」「現代」「日本」の五部に分かたれた本書では、主として西洋哲学の歴史を彩った哲学者たちを中心に論が進められる。具体的には、ソクラテス、プラトン、アリストテレスからデカルト、ホッブス、カント、ヘーゲルらを経て実証主義者や現象学者へと続く太い流れが対象となっている。

 自然と人間とのかかわりをみるのに古代ギリシアのミレトス派とヘラクレイトスから筆を起こす本書の姿勢は、迂遠なものと映るかもしれない。しかし、事物を合理的、体系的に説明しようとした古代ギリシア人の思考様式の末裔が西ヨーロッパで誕生した近代科学であることを考えれば、この態度が重要なことはすぐにわかる。つまり、過去を知ることが未来への指針になるのであり、近代科学の負の副産物として生じた環境問題の根源を探る上で西洋哲学の流れに従いながら「自然と人間」への問いの展開を確認することが、得てして技術革新によって問題の解決が図られる環境問題に新たな視角を提供することになるのである。

 残念ながら、本書には、北極圏の氷の溶解を食い止める方法は書かれていない。だが、古代ギリシア哲学から日本の伝統的な自然に対する見方までを考察することで、自然と人間の持続可能な共存のあり方がいかなるものであるかを考える際に重要な手がかりを与えてくれる。網羅性のゆえではなく自然と人間のかかわりの多様性のために生まれたのが本書の含む幅広い論点であり、技術ならざる人間の存在の課題としての「自然と人間」の問題を考える上でも、示唆に富む一冊だ。

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