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【書評】小山俊樹『五・一五事件』(中央公論新社、2020年)

去る4月25日、小山俊樹先生の新著『五・一五事件』(中央公論新社、2020年)が刊行されました。


本書が描くのは、1932(昭和7)年5月15日に三上卓ら海軍の青年将校や陸軍の士官候補生らが犬養毅首相を官邸で射殺し、立憲政友会本部、日本銀行、三菱銀行、警視庁などを襲撃、茨城県の私塾である愛郷塾の塾生による農民決死隊が変電所を襲撃したいわゆる五・一五事件について、事件の詳細、三上や古賀清志らが行動を起こした経緯、さらに事件の発生が政党政治に与えた影響や関係者のその後の足跡です。


1936(昭和11)年に起きた二・二六事件に比べて、事件そのものだけでなく関係者に関する研究も乏しい五・一五事件について、各種の史料及び資料を渉猟した本書は、海軍青年将校に焦点を当てて本格的に検討するという従来の研究と一線を画す試みを行います。


その結果、五・一五事件は大正時代以来の国家改造運動の延長にあり、犬養自身の言動が直接の原因ではないこと(本書35-70、197頁)、犬養の後継の首班に斎藤実が就任したことで政党政治が中断した理由は首相の選定に与った西園寺公望が「首相は人格の立派なる者」などの昭和天皇の「希望」を重視した結果であること(本書155-159頁)、そして五・一五事件の公判に際して全国各地で減刑嘆願運動が高まった背景として、政治への介入を強める陸軍の思惑と貧富の差に起因する国民の「特権階級」に対する反発があること(本書201-203、209-220頁)が明らかにされました。


特に、三上や古賀、あるいは井上日召といった五・一五事件の中心人物に大きな影響を与え、第一次上海事変に従軍し、1931(昭和6)年に上海上空で戦死した藤井斉の人となりと行動を丹念に描写することで、事件における藤井の存在の重要さを示したことは、本書の特長と言えます。


また、五・一五事件の関係者の多くが戦後も生き延び、それぞれの道を歩んだこと、あるいは主要人物の一人であった古賀が1997年に没していることなどは、五・一五事件が単なる過去の出来事ではなく、実は現在にもつながる出来事であることをわれわれに教えます。


何より、被告となった海軍青年将校らを「赤穂義士」になぞらえ(本書201頁)、1933(昭和8)年5月16日に事件記事の差し止めが解除された際に「行為はともかく動機は純粋とする」という陸海軍側の意図(本書174-179頁)を支持する国民の姿、そして被告の犯行を「憂国の至情」(本書215頁)によるものとして古賀、三上、黒岩勇の3人に求刑された死刑を有期刑に減刑した可軍の軍法会議のあり方は、注目に値します。


すなわち、民間側の被告が厳罰に処されたことを考えれば、1895(明治28)年に李氏朝鮮の高宗の王妃である閔妃の殺害を主導した三浦梧楼が免訴放免となったこと、1928(昭和3)年の張作霖爆殺事件の真相がうやむやになったことに繋がる、「動機が適切と思われれば、軍人の行為の結果に対する責任は不問に付される」というある種の悪しき慣習が五・一五事件の軍人に対する判決の中にも認められることが推察されるのです。


このように、『五・一五事件』は、事件の前後のみだけでなく、戦後にまで視野を広げて俯瞰的に眺めることによって、五・一五事件の意味を立体的に描き出した好著と言えるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: Toshiki Koyama's "The 15th May Incident" (Yusuke Suzumura)


Professor Dr. Toshiki Koyama of Teikyo University published a book titled The 15th May Incident from Chuokoron-shinsha on 25th April 2020.

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【書評】岩井秀一郎『永田鉄山と昭和陸軍』(祥伝社、2019年)

2019年7月、岩井秀一郎先生が『永田鉄山と昭和陸軍』(祥伝社、2019年)を上梓されました。


本書は、東条英機や石原莞爾などの昭和時代の陸軍軍人としては知名度は高くないものの、「昭和史に関する書籍を繙けば、必ずと言っていいほど、その名が出てくる」(本書、230頁)永田鉄山の足跡を辿りつつ、「陸軍の時代」(同)であった戦前の軍のあり方の一側面を描き出します。


永田鉄山の事績については川田稔の『浜口雄幸と永田鉄山』(講談社、2009年)や『昭和陸軍の軌跡』(中央公論新社、2011年)、あるいは森靖夫の『永田鉄山』(ミネルヴァ書房、2011年)などがあります。そのような中で、永田鉄山の名前を歴史に残すことになる、いわゆる相沢事件に焦点を当てたことに本書の特徴があります。


1935年8月12日に起きた相沢事件という頂点に向かい、殺害された永田の人となりの紹介と殺害した相沢三郎の来歴、あるいは陸軍内における永田の位置や役割、さらに永田を失った後の軍の進路などが複合的に合わさることで、叙述の内容は奥行きを持ち、読者に相沢事件の影響の大きさが力強く訴えかけられます。


特に、第一次世界大戦により、戦争のあり方が根本的に改まり、国家総力戦の完遂のために前線と銃後の一体化が不可欠であることを学び、生前に残したいくつかの論考を通して没後も軍の方針に影響を与えた点(本書、56-57頁)や、陸軍の統制の維持のために「心血を注いだ」(同、95頁)の様子は、永田の存在の大きさを実感するには十分と言えます。


また、万事におおらかで精神論を信奉するものの陸相としては予算獲得能力を欠き、具体的な中身を伴った提案や構想を持たず、その一方で精神論への傾斜や長広舌、さらには青年将校たちの人気を得た荒木貞夫の姿(本書、137-140頁)も、合理的な思考により物事を進めようとする永田との対比を考える上で興味深いものです。


その一方で、相沢三郎の「求道者のような面を持」ち、「礼儀正しく、一途な人柄」でありながら「精神性を重視するために合理的思考に欠け」る面(本書、125-126頁)を描出することは、何故相沢が荒木を頂点とする皇道派に与し、最後は永田の惨殺に至るかを考える上でも重要な伏線をなしています。


もちろん、1914年に始まった第一次世界大戦中の出来事であるにもかかわらず、日本が中国本土のドイツ軍の拠点などを攻撃した際に「清国にある」と1912年に滅んだ清朝の名が記されていたり(本書、55頁)、相沢事件で相沢三郎の弁護人を務めた菅原裕の著書『相沢中佐事件の真相』(経済往来社、1971年)にある「幕僚等の官職に在る者を利用して窃に雷同を図り」の「窃」を「ひそか」ではなく「ぬすみ」にと振り仮名を当てる点などには、再考の余地があるでしょう。


しかし、事務机を隔てて対峙した永田と相沢との間の息をのむ攻防と凶行という結末(本書、16-19頁)を振り返る形で、永田と相沢の人となり、陸軍内の派閥抗争、さらに日本が置かれた国際的な状況といった条件を検討する本書は、一面において小説的な魅力を備え、他面において史料の丹念な調査や関係者への聞き取りの周到さの成果と言えます。


永田の死がその後の陸軍と日本の針路に与えた影響を検討する著者には、統制派の系譜に連なり永田とも親交があり、1942年に香港占領地総督となった磯谷廉介など、「永田没後の陸軍傍流の人々」の研究などでも成果を残すことが期待されます。


その意味で、『永田鉄山と昭和陸軍』は書名にふさわしい視野の広さと、綿密な研究とが絶妙な均衡を保った良書と言えるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: Shuichiro Iwai's "Nagata Tetsuzan and the Showa Army" (Yusuke Suzumura)


Mr. Shuichiro Iwai, a historian, published a book titled Nagata Tetsuzan and the Showa Army from Shodensha on 10th July 2019.

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【書評】辻田真佐憲『古関裕而の昭和史』(文藝春秋、2020年)

去る3月20日(金)、辻田真佐憲先生のご新著『古関裕而の昭和史』(文藝春秋、2020年)が出版されました。


本書、福島県福島市の老舗呉服店の跡取りとして生まれた古関勇治(1909-1989)が、5歳頃に耳にしたレコードから流れる音楽の魅力に目覚め、リムスキー=コルサコフに師事した唯一の日本人であった金須嘉之進の指導を受ける以外はほとんど独力で作曲法を身につけ、歌謡曲、軍歌、校歌、寮歌、社歌から映画・ラジオ・テレビあるいは演劇やミュージカルへの伴奏音楽、さらには祝典曲など、生涯に5000曲を超える作品を生み出した過程を描きます。


戦前は「軍歌の覇王」と呼ばれ、太平洋戦争下で「最大のヒットメーカー」(本書、180頁)となった古関が、戦後はあらゆる分野で作曲を引き受け、「大衆音楽のよろず屋」(本書、233頁)として成功を収めたことは、一見すると戦前と戦後の活動の間にある種の断絶があったことを予想させます。


しかし、本書は、古関の政治や社会に対する見解が当時としての一般的な範囲を出なかったことを示すとともに、「ノンポリゆえにかえってどんな政治的音楽でも自由自在に作れ」(本書、289頁)たことを示します。


それとともに、交響管弦楽の分野で名を成そうとしたものの、実際には「軍歌の覇王」、「大衆音楽のよろず屋」となり、「ヒットする大衆歌謡」(本書、289頁)を求められた古関が生涯にわたって「クラシックへのこだわり」(同)を持ち続け、日本における斯界の先駆者であった山田耕筰を絶えず意識していたことなどを、本書は具体的な逸話とともに活写します。


このようなあり方は、ある意味で古関の生涯に屈折を与えるとともに、他面において戦中は「米英撃滅」を唱えながら戦後は民主主義を謳歌した日本の人々のように、特定の主義主張に囚われることなくある種の融通無碍さを発揮して時流に適応する、古関のしなやかさやしたたかさを示していると言えるでしょう。


そして、題名に「昭和史」の語が用いられ、副題を「国民を背負った作曲家」とするのは、まさに、古関の多面的な姿を通して「昭和の国民を背負った作曲家」(本書、290頁)という実像に迫る点に求められます。


例えば、劇作家の菊田一夫との二人三脚によって数々の作品を世に送り出し、妻の金子が「パパは菊田一夫に殺される!」(本書、239頁)と悲鳴をあげた古関の姿は昭和40年代のいわゆる「モーレツ社員」の祖型であるかのようであり、種々の団体歌を手掛ける様子は、天皇を親とし臣民を赤子とする疑似的な親子関係としての天皇制国家が解体された後に人々が企業や学校に対して、それまでに強い帰属意識を抱いたことと比例するかのようです。


一方、「豊橋の音楽少女」(本書、46頁)の内山金子との熱烈な手紙の往来から結婚へと至る過程(本書、46-58頁)や、戦後、株取引で名をはせた金子の様子(本書、252-256頁)など主として妻の金子との関係は描かれても、家庭人としての古関の記述が必ずしも多くないことは、戦前の家父長制から戦後の「民主的な家庭」への移行という変化を参照すれば、ある種の物足りなさを覚えるものです。


それでも、古関が専属契約を結んだ日本コロンビアが所蔵する、レコード中央のレーベル部分の原稿などを綴った「レーベルコピー」に記されたレコードの製造数(本書、86-87頁)や「レコード印税計算書」(本書、105頁)などの記録を精査することで、宣伝ではない、レコードの製造数の実数に迫る手法は圧巻であるばかりでなく、著者の研究者としての力量の確かさを示していると言えるでしょう。


各種の文献を丹念に検証し、「曲は聞いたことがあるけれど、作曲者は知らない」あるいは「名前は知ってるけど、どんな曲を作ったか分からない」という古関裕而の一生を力強く描く『古関裕而の昭和史』は、音楽と日本の社会の関係を考える上でも、われわれに様々な知見を与える一冊です。


<Executive Summary>
Book Review: Masanori Tsujita's "Koseki Yuji and the History of Showa" (Yusuke Suzumura)


Mr. Masanori Tsujita, an author, published a book titled Koseki Yuji no Showa-shi (literally Koseki Yuji and the History of Showa) from Bungeishunju on 20th March 2020.

 

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【書評】君塚直隆『エリザベス女王』(中央公論新社、2020年)

去る2月25日(火)、君塚直隆先生のご新著『エリザベス女王』(中央公論新社、2020年)が刊行されました。


『エリザベス女王』は、『パクス・ブリタニカのイギリス外交』(有斐閣、2010年)、『物語 イギリスの歴史』上下巻(中央公論新社、2015年)、『立憲君主制の現在』(新潮社、2018年)など、英国の政治史や英国史に関する著作などを上梓してきた著者が初めて取り組んだ、現存する人物の評伝です。


本書で取り上げる「エリザベス女王」はアルマダの海戦でスペインの無敵艦隊を破り、弱小国イングランドの独立を守り続けたエリザベス1世ではなく、現在の英国女王エリザベス2世陛下です。


描かれるのは、本来であれば王族の一人として華やかな日々を送っていたはずのリリベットことエリザベス・アレキサンドラ・メアリが、「王冠を賭けた恋」によって退位したエドワード8世の跡を継いだ父王ジョージ6世の急逝を受けて25歳で「老大国の若き女王」エリザベス2世となるまでの過程と、その後の事績です。


21歳の誕生日の際に行った、1947年のラジオ演説の中で「私の人生は、それが長いものになろうが短いものになろうが、私たち皆が属する帝国という大いなる加盟国への奉仕に捧げられる」と誓ったことが示すように(本書、40頁)、即位後のエリザベス2世は英国の利益を最優先に置きつつも、旧英連邦の流れを汲むコモンウェルスの協調と発展を絶えず顧慮します。


その様なエリザベス2世の姿は日本においては話題となる機会が決して多くはないものの、コモンウェルスを構成する英国以外の53か国の首脳や国民から広く支持されています。


また、こうしたエリザベス2世の「コモンウェルス贔屓」ともいえる態度が、女王とエドワード・ヒースやマーガレット・サッチャー、トニー・ブレアといった英国の歴代首相とのある種の齟齬や確執を生むことになります。


その一方で、幼少期から培われた深い教養と即位の後に接する政府の機密事項やコモンウェルス諸国からの情報を分析し、総合する力を備えた女王の姿は、米国のビル・クリントン元大統領が「女王に生まれていなかったら、きっと優れた政治家か外交官になられていたことだろう」(本書、222頁)と指摘されるほどのものであることが示されます。


これに加えて、エリザベス2世の祖父ジョージ5世がウォルター・バジョットの『イギリス憲政論』(The English Constitution、1867年)にある「君主は諸政党から離れており、それゆえ彼の助言がきちんと受け入れられるだけの公正な立場を保証している」という立憲君主の理想像を体現したこと(本書、17頁)、さらにジョージ5世から立憲君主のあり方を学んだ昭和天皇が訪日の際に女王に「立憲君主制の極意」を伝える様子(本書、124-126頁)は、日英の皇室王室の関係の深さとともに、エリザベス2世の政治に対する心構えを物語ります。


それとともに、チャールズ皇太子やアン王女の配偶者との離婚や元王妃ダイアナの事故死といった王室を巡る不祥事や、25歳で即位したことで子どもたちをしっかりと育てられず、肉体的に子どもたちと接することが苦手という女王自身の「負い目」(本書、170-171)を通して、われわれはエリザベス2世が完全無欠の君主ではなく、むしろ他の人々と同じように様々な困難や苦悩に直面しつつ、それらを克服してきたことを知ります。


歴代の英国王の中で最も長命で最も長く在位するのがエリザベス2世です。それだけに、機密文書の多くが非公開であり、利害関係者も多くが存命する中で描かれる女王の像は、あるいは全体の中の一部分に止まるかも知れません。

それでも、著者は英国の王室文書館やイギリス公文書館、日本の外務省外交史料館などの一次資料や種々の研究書などから得た、ネヴィル・チェンバレン首相が人前で口に指を入れて爪をかじる癖があることなど(本書、31頁)などの大小様々な知見を惜しみなく注ぎます。

 

何より著者自身が抱く女王への敬愛の念が読者の後味を爽やかなものにする『エリザベス女王』は、英国の政治史や社会史だけでなく、20世紀から21世紀前半という同時代史を知る上でも重要な一冊と言えるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: Naotaka Kimizuka's "Queen Elizabeth" (Yusuke Suzumura)


Professor Dr. Naotaka Kimizuka of Kanto Gakuin University published a book titled Queen Elizabeth from Chuokoron-shinsha on 25th February 2020.

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【書評】高松平藏『ドイツのスポーツ都市』(学芸出版社、2020年)

去る3月25日(水)、高松平藏さんの新著『ドイツのスポーツ都市』(学芸出版社、2020年)が刊行されました。


本書は、実践、観戦、教育など、様々な側面を持つスポーツのあり方について、著者の住むドイツ、とりわけバイエルン州のエアランゲン市の事例に基づいて検討しています。


その際の手掛かりとなるのが、スポーツは都市を形成する要素の一つであるとともに、文化や価値観、伝統の影響を受けているという観点です。


例えば、本書では、ドイツにおけるスポーツ活動の根幹をなすフェライン(der Verein、協会)が企業でも学校の部活動でもなく、日本の特定非営利法人に近い運営形態でありながら、スポーツの分野に限らず様々な分野に設けられており、ドイツ社会の中で大きな役割を果たしていることが指摘されます。


また、街のスポーツクラブから欧州屈指のプロサッカーリーグであるブンデスリーガ1部の所属クラブまで、その大部分が所在する地域に根差して活動していることや、連邦制を採用するドイツでは都市の自律性が強く、スポーツクラブが「都市のエコシステム」の一翼を担うとともに、体系の循環を促す役割を果たしていることがエアランゲン市やニュルンベルク市などの事例から考察されています。


こうした本書の方針は、ある制度や技芸は表面的な仕組みや手法だけでなく、これらの要素を支える文化や文化的な価値が存在しているという考えに基づくものと思われます。


そして、このような考えは文化を「生きるための工夫」(平野健一郎『国際文化論』、東京大学出版会、2000年、11頁)と捉える見方に通じるものであり、スポーツの多義性と多様性を自ずから認める態度に繋がります。


一連の複眼的で現象の背後にある構造を捉えた記述が明らかにするのは、スポーツが経済効果や地域の知名度の向上といった即物的な効用を持つだけでなく、人々の日々の交流や健康の増進、あるいは社会への参画の促進といった目に見えない効果です。


もちろん、著者が指摘するように、ドイツも大小様々な問題を抱えています(本書、216頁)。それでも、理念や理論に基づいた目標を設定し、実現する取り組みが不断になされています。


今回はそのような大小様々な問題を乗り越えようとする取り組みや成果が紹介されただけに、今度は、克服できなかった課題や失敗例も言及されれば、読者にとってはより重要な知見が得られることでしょう。


いずれにせよ、誰もが日常生活の一部としてスポーツに取り組めることが結果的に都市や社会の活性化をもたらすという『ドイツのスポーツ都市』が示す人々とスポーツの関係は、ある種の「開かれたスポーツ像」の典型として、極めて興味深いものであり、意義あるものなのです。


<Executive Summary>
Book Review: Heizo Takamatsu's "Sports City in Germany" (Yusuke Suzumura)


Mr. Heizo Takamatsu, an author and a journalist, published a book titled Sports City in Germany from Gakugei Shuppansha on 25th March 2020.

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【書評】山崎夏生『全球入魂! プロ野球審判の真実』(北海道新聞社、2020年)

5月13日(水)、山崎夏生さんの新著『全球入魂! プロ野球審判の真実』(北海道新聞社、2020年)が刊行されました。


本書は、1982年から2010年まで29年にわたってプロ野球パシフィック・リーグの審判員を務め、2011年から2018年まで日本野球機構の審判技術委員として後進の育成に当たった著者が、現場での経験や、2014年以来雑誌や新聞などに寄稿した随筆等を基に、野球における審判の地位と価値、現在の野球界が抱える構造的な問題への提言、さらには競技の枠を超えたスポーツにおける審判の尊厳の追求がなされています。


著者の野球への愛情と審判員の権威の向上への強い意志は、前著『プロ野球審判 ジャッジの舞台裏』(北海道新聞社、2012年)からも十分に窺われるところです。


その様な著者だからこそ、野球界の弊風を指摘しても、「ここが足りない」、「そこが駄目」といった欠点を示すだけでなく、「「伝統」は上書きをしなければかび臭くなるばかり」(本書、282頁)と、具体的な解決策を提示することが出来るといえます。


例えば、「選手たちの高額の年俸は球団が媒介しているだけで、その原資を供出しているのはファンそのもの(中略)その存在と彼らへの感謝をないがしろにすれば、いつかは当然のしっぺ返しを食らうものです」(本書、246頁)と選手や球団などの「方向を見誤ったファンサービス」(同、281頁)に警鐘を鳴らすとともに、「プレーの楽しさを知る以前の子供」に「勝利のために補欠に甘んじる」といった「勝利至上主義」を強要する、アマチュア球界に根強い風潮(同、253-67頁)に対しては、ファンの視点に立った対策やあらゆるスポーツの根底にあるフェアプレーの精神の重視などが挙げられています(同、248、260頁)。


もちろん、こうした態度が「ずいぶん甘い考え」(本書、260頁)であることは、筆者自身も自覚しています。しかし、37年にわたって球史に名を遺す者から期待に応えられずわずかな期間で球界を去った未完の大器まで多くの選手を審判員として眺めてきた筆者は、「過去にスーパースターと呼ばれた選手は卓越したプレーのみならず、高い人間性も評価されている」(同)とし、表面的な数字や結果だけが選手の評価の基準ではないとします。


これは、野球という競技を行う者も観戦する者も人間であり、人間的な成長なしに選手として大成することはないという点を明快に示していると言えます。


それとともに、アマチュア球界における「勝利至上主義」の弊害が一人ひとりの選手だけでなく審判員に対する野次や非難にも懸念を示すのは、本書の大きな特徴です。


例えば、全日本野球協会の公認審判員が直面する審判員不足と高齢化の一因に「審判への非難や批判」(本書、208頁)を挙げていることは、近年、小学校の野球の試合などで判定を巡り保護者から罵倒されたり暴行されるため、審判員の登録者が減少しているといいう米国の事例を彷彿させるものです。


また、規則の誤った理解によりプロ野球の審判員を「石ころ」と連呼した解説者と実況中継者への苦言(本書、71-72頁)も、球界関係者の審判員への敬意の不足を示す象徴的な場面です。


このように、審判員の視点からプロ野球が目指すべき道とアマチュア野球のあるべき姿を模索しつつ、章間に置かれたコラムで両親への愛や審判員時代の思い出が率直に綴られた『全球入魂! プロ野球審判の真実』は、著者の真摯さと人間味豊かな気質が濃縮された一冊と言えるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: Natsuo Yamazaki's "The Truth of a Professional Baseball Umpire" (Yusuke Suzumura)


Mr. Natsuo Yamazaki, a Former Umpire of the Japan Professional Baseball, published a book titled The Truth of a Professional Baseball Umpire from The Hokkaido Shimbun Press on 13th May 2020.

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【書評】大木毅『ドイツ軍攻防史』(作品社、2020年)

去る4月29日(水、祝)、大木毅先生の新著『ドイツ軍攻防史』(作品社、2020年)が刊行されました。


本書は、大木先生が2013年から2019年にかけて専門誌『コマンドマガジン』に寄稿した論考19編に2010年の共著書『鉄十字の軌跡』(国際通信社)と書き下ろし原稿3編で構成され、第一次世界大戦、戦間期から第二次世界大戦序盤、対ソ戦、そして第二次世界大戦終盤の4つの局面を通してドイツ軍が繰り広げた攻防の歴史が検討されています。


内容そのものに即せば、同じ「こうぼう」であっても、本書がドイツ軍の「攻防」に留まらず「興亡」の歴史を扱っているといっても過言ではありません。


それにもかかわらず「攻防史」の名が与えられたことで、本書が英仏やロシアあるいはソ連といった外的との戦いだけでなく、ドイツ国防軍とヒトラー、あるいは「作戦上の有利を追って、連環の乏しい攻撃を展開した」(本書72頁)軍内部の相克などを描くことを可能にしました。


実際、ドイツや英語圏などで刊行された史資料集や近年の研究成果に基づき、第一次世界大戦の序盤で行われたマルヌ会戦から1945年3月の連合軍によるライン川の渡河までを具体的な逸話や出来事を分析し、積み重ねることで、第一次世界大戦末期のドイツ軍首脳がある意味で「ヒトラーほどの戦略センスも持ち合わせていなかった」(本書64頁)ことや、対ソ戦において劣勢となったドイツ軍が「紙の上では、強大な兵力」(本書217頁)によって作戦の遂行に当たっていた様子などが、丹念に描き出されています。


一方、「通俗的な戦記本」(本書249頁)と異なり最新の知見を渉猟しながら註が事項の補足を中心とし、引用ないし参照された箇所の明記が少ないこと、作戦や戦況の図が色の濃淡を基本としているために視認性の点で劣ることなどは、本書の中でも追補や改善の余地のある点でした。


例えば、1941年12月1日に南方軍集団司令官を解任されたゲルト・フォン・ルントシュテット元帥がウクライナ地方のポルタヴァからドイツ本国に帰還する際に土地の母娘からウクライナ式のテーブルクロスと花束を贈られた挿話(本書207頁)などは心温まる「一つの佳話」(同)であるものの、出典が明記されていないため、原典を確認しようと思う読者にとっては好ましいものではありません。


また、大小さまざまな図は本文の理解を助けるものの、読者が一目で図を理解するためには、ドイツ軍の進路を斜線、ロシア軍の進路を点線で表記するといった工夫を施す方が望ましいと言えます。


しかし、ただドイツ軍の来歴を通史的に俯瞰するだけでなく、ベルクソン(本書26頁)やショスタコーヴィチ(本書183頁)など、同時代の哲学者や音楽家の逸話を参照することで記述に奥行きを生み出しつつ、政治史や社会史などの観点からの分析を最小限に止めることで軍事史としてのドイツ軍の攻防の実相を克明に描き出した本書は、読者にとって新たな気付きや発見をもたらすことでしょう。


これからも種々の出版の計画が立てられていることも含め、『ドイツ軍攻防史』は興趣の尽きない一冊と言えるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: Takeshi Oki's "Die offensiven und defensiven Schlachten der deutschen Streitkräfte" (Yusuke Suzumura)


Mr. Takeshi Oki published a book titled Die offensiven und defensiven Schlachten der deutschen Streitkräfte (literally The Offensive and Defensive Battles of the German Armed Forces) from Sakuhinsha on 29th April 2020.

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【書評】永井晋『鎌倉幕府の転換点』(吉川弘文館、2019年)

2019年9月1日、永井晋先生の著書『鎌倉幕府の転換点』(吉川弘文館、2019年)が刊行されました。


本書は永井先生の『鎌倉幕府の転換点』(日本放送出版協会、2000年)を吉川弘文館の「読みなおす日本史」の一冊として再刊されたもので、新たに「補論」として「キャスティングボードとしての権門寺院」が追加されています。


「『吾妻鏡』を読みなおす」という副題の通り、本書が扱うのは、『吾妻鏡』の範囲となっている、以仁王による平家打倒の挙兵の計画が始まった治承4(1180)年4月から鎌倉幕府の第6代将軍の宗尊親王の京都への送還が行われた文永3(1266)年までの鎌倉幕府の歴史です。


その中から、有力豪族に担ぎ上げられた神輿としての将軍が権力の中心となり、やがて「祭祀王」へと移行する過程が、歴代の将軍や北条氏一門、さらに千葉氏や三浦氏、比企氏、さらに大江氏などの大小の豪族や文武官僚の姿を通して分析されます。


この時に用いられるのは、『吾妻鏡』の丁寧な読解だけではなく、心理学や政治学、社会学、あるいは民俗学の知見です。


さらに、慈円の『愚管抄』や藤原定家の『明月記』など、同時代の史論書や日記、あるいは寺社の記録を参照することで、比企氏の乱や第3代将軍源実朝の暗殺、あるいは承久の乱といった鎌倉幕府における大事件について、『吾妻鏡』が残そうとした記録と書かなかった、あるいは書けなかった逸話や見解をつぶさに検討します。


こうして描き出されるのは、北条氏の代替わりごとに繰り広げられる権力闘争のあり方や鎌倉幕府における武士の存在の変質、あるいは将軍家と御家人の関係の曲折であり、『吾妻鏡』を手掛かりに、聖性を高める将軍家と、世俗の権力を高めて肥大化を加速させる北条氏の協調と対立の姿が描き出されています。


『吾妻鏡』などの原典が現代語訳を基本としていることや、これまでの研究の検討が概観的になされていること、各章の参考文献が挙げられてはいるものの註が付されていないことなどは、永井先生の研究の成果を踏まえつつも、本書が純然たる研究書ではなく一般書として上梓されていることをわれわれに伝えます。


従って、本書を学術書と考えるなら、その期待は裏切られることになるかも知れません。


しかし、資料を徹底して読み込みながら、可能な限り専門用語を用いず、平易な表現によって、個別の出来事や法、制度のあり方の背後にある一人ひとりの人間の姿を描き出す『鎌倉幕府の転換点』は、初学者にとっても、研究者にとっても得るところの多い一冊と言えるでしょう。


<Executive Summary>
Book Review: Susumu Nagai's "The Turning Point of The Kamakura Shogunate" (Yusuke Suzumura)


Dr. Susumu Nagai published a book titled The Turning Point of The Kamakura Shogunate from Yoshikawa Kobunkan on 1st September 2019.

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【書評】小林淳『新版 伊福部昭の映画音楽』(ワイズ出版、2019年)

2019年5月31日、小林淳さんの著書『新版 伊福部昭の映画音楽』がワイズ出版から上梓されました。


本書は、小林さんが著し、井上誠氏が編者として名を連ねた『伊福部昭の映画音楽』(ワイズ出版、1998年)を再編集、改稿し、1998年以降の伊福部昭の活動と伊福部を取り巻く状況の変化を追補し、ワイズ出版映画文庫の1冊となったものです。


合計686ページからなり、1919年から1990年代後半までの70年以上にわたる伊福部の写真や直筆の総譜、さらに音楽を提供した映画作品の一こままで多数の図版を収録している点は、本書の大きな魅力の一つです。


また、1947年に初めて音楽を作曲した『銀嶺の果て』(監督:谷口千吉、製作:東宝)から最後の提供作となった『ゴジラvsデストロイア』(1995年、監督:大河原孝夫、製作:東宝映画)まで、48年の間に300本を超える映画音楽を書いた伊福部の足跡を編年体で俯瞰しそれぞれの時代の代表的な作品から独立系製作会社の作品、さらに教育映画や学術映画までを取り上げ、各作品の音楽の構造や特色を丹念に分析する様子からは、筆者の綿密な調査の成果が本書に惜しみなく注ぎ込まれていることを読者に教えます。


その際、著者が重視するのは、伊福部が唱えた「映画音楽効用四原則」です。


「映画音楽効用四原則」とは、(1)映画が表す感情を音楽で喚起させる、(2)場所と時代の設定を音楽で表現する、(3)物語の連続(シークエンス)を音楽で表現する、(4)映像自体が求める音楽に呼応する、という4点です(本書154-158頁)。


映画音楽を書く際に伊福部が常に肝に銘じてきたとされるのが「映画音楽効用四原則」であるだけに、本書では繰り返しこれらの項目が登場し、四原則に則って作品の分析が行われています。


これにより、伊福部の映画音楽作品の分析に一貫性が生じるとともに、分析された各作品の間の関連性や異同が明らかになったことは、本書の重要な成果の一つと言えるでしょう。


あるいは、伊福部の創作活動の中で、映画音楽と器楽・管弦楽作品、すなわち本書における純音楽とが不即不離であることを、バレエ音楽『人間釈迦』(1953年)、映画『釈迦』(1961年、監督:三隈研次、製作:大映)、そして交響頌偈『釈迦』(1989年)へと至る経緯、あるいは1954年に始まった映画『ゴジラ』の連作や『地球防衛軍』(1957年、監督:本多猪四郎、製作:東宝)などの特撮映画と『SF交響ファンタジー』第1番から第3番(1983年)の関係などを参照しつつ明瞭に描いたことも、本書の視野の広さを示します。


一方、伊福部の映画音楽を作品に即して分析するだけでなく伊福部に内在化する形で検討する手法が、特に第9章から第12章及び付章において著者の考察と感想との境目を曖昧にする傾向を示したこと、あるいは映画『ゴジラ』(1954年、監督:本多猪四郎、製作:東宝)や「映画音楽効用四原則」などの重要な作品や概念が繰り返し登場することで、一部に表現の冗長さが認められたことなどは、本書にとって容易に目につく改善を要する点でると言えるでしょう。


それでも、伊福部の家系を辿り、人となる過程における北海道での体験が映画音楽や器楽・管弦楽作品に与えた影響を詳らかにするだけでなく、作曲家、教育者、研究者としての多様な相貌を総合的に評価しようとした本書の試みは、伊福部が日本の映画の発展に与えた影響だけでなく、交響管弦楽の分野における存在の大きさをも、実証的に明らかにしています。


その意味で、『新版 伊福部昭の映画音楽』は映画音楽を通して伊福部の姿を、われわれ読者の目の前にありありと蘇らせる、良書と言えるのです。


<Executive Summary>
Book Review: Atushi Kobayashi's "Ifukube Akira and His Film Music" (Yusuke Suzumura)


Mr. Atsuhi Kobayashi published a book titled Ifukube Akira and His Film Music from Wides Publishing on 31st May 2019.

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【書評】長南政義『児玉源太郎』(作品社、2019年)

去る6月30日、長南政義先生の新著『児玉源太郎』(作品社)が上梓されました。


本書は、『日露戦争第三軍関係史料集』(国書刊行会、2014年)や『新史料による日露戦争陸戦史』(並木書房、2015年)などの著書により日露戦争の陸戦史、特に乃木希典が率いた第三軍の研究の第一人者と知られる長南先生がこれまでの研究を踏まえるとともに、『児玉源太郎関係文書』(尚友倶楽部、2014年)を用い、日露戦争の立役者の一人であり、台湾総督として植民地政策の基礎を築いた児玉源太郎の実像に迫ろうとするものです。


2段組みで427頁という本文、序章と終章を合わせて23の章立て、合計1010個に及ぶ註など、著者の自身のこれまでの研究の成果を本書に惜しみなく注ぎ込んでいることは、量的な面からも明らかです。


それとともに、質の面でも、本書が刊行された時点で児玉源太郎研究の基礎をなしている小林道彦氏の『児玉源太郎』(ミネルヴァ書房、2012年)や「日露戦争の名将」「不世出の偉才」といった一般的な児玉源太郎像の形成に大きな力を持つ司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』(文藝春秋)の記述の過ちや不十分な箇所を訂正しようという試みがなされていることは、小林氏や司馬の著作の内容が絶えず批評されていることが雄弁に物語ります。


このような量的にも質的にも重厚な本書の記述を支えるのは、著者の丹念な資料の収集と分析の成果です。また、軍事学や戦史学に対する著者の深い造詣は、軍内部における児玉源太郎の位置を相対的に把握するために有益であり、日露戦争における旅順攻囲戦や沙河会戦などでの児玉の立案した作戦の目論見と実効性の検証にも効果的に用いられていると言えるでしょう。


特に、旅順要塞の攻略において、当初は児玉が状況を楽観視していたことや、乃木希典が指揮する第三軍が限られた物資と大本営からの明確な指示の欠如という悪条件の中で最大限の取り組みを行ったことなどは、「智将・児玉、凡将・乃木」といった見方が一面的であることを、実証的に示しています。


その一方で、専門書であるものの、「威力偵察」やロシア満州軍総司令官アレクセイ・クロパトキンの「側背に対する感受性」の強さといった軍事学や戦史学の学術用語が説明なく用いられている点は、少なからぬ読者にとって理解の促進の上で改善の余地が認められると言えるでしょう。


あるいは、絶えず専門家から種々の最新の知見を吸収し、部下の自由闊達な議論を促すとともに、難局に際しても明確な判断を下す児玉の姿を描きつつ、昭和時代の軍部の首脳の不勉強さや軍部の統制の乱れを指摘する手法は、「不勉強」が何故生じたかという背景を明らかにしなければ、必ずしも説得力のある議論とはなり得ません。また、児玉と昭和時代の軍首脳の対比は、前者の備えていた特徴が特殊な事例であり、後者の姿が平均的なあり方であったという蓋然性を棄却するものでもありません。


もとより、両者の比較は本書の主たる目的ではなく、付加的な要素であることは論を俟ちません。それでも、全編にわたって具体的な史料に基づき、可能な限り推測を控える著者だけに、児玉源太郎と昭和時代の軍首脳の対比の箇所で他の場面での手法が適用されていないかの印象を受けることには注意が必要ではないかと思われます。


しかしながら、軍人、行政官、そして一家の長という多くの側面を持ち、戦争と外交の密接な結び付きを明確に理解するだけでなく、豊富な知識と優れた分析力から将来の戦争のあり方を描き出すことに成功した児玉源太郎の姿を入念に、そして立体的に描き出すことに成功しています。


また、外地にあった児玉源太郎が内地の家族に宛てた手紙の中で「クリストマス」と書き記していることを挙げ、日本におけるクリスマスの受容の歴史を知る上で民俗学的にも重要な実例となるなど、本書は、一つの分野における優れた研究成果は隣接諸科学にとっても有益であることを示す、典型といえます。


以上から、今後の児玉源太郎研究は長南政義先生の『児玉源太郎』を出発点にしなければならないことは明らかであるとともに、傑作と呼ぶにふさわしい一冊なのです。


<Executive Summary>
Book Review: Masayoshi Chonan's "Kodama Gentaro" (Yusuke Suzumura)


Dr. Masayoshi Chonan, a specialist of military history, published a book titled Kodama Gentaro from Sakuhinsha on 30th June 2019.

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