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カテゴリ:書評

Śrīmālādevī-siṃhanāda Sūtra

The other day, I read a novel written by a Japanese famous drama producer Juro Kara(唐十郎), “Devadatta(ダイバダッタ)”. Devadatta is originally a name of a disciple (and probably a cousin) of Gautama Buddha, however, finally betrayed him. He wanted to kill Gautama Buddha with poison, but he accidentally killed himself with that poison. In a Japanese manga “Buddha” by Osamu Tezuka(手塚治虫), Buddha let him hear a final word for him, “Your enemy was just yourself, Devadatta…”. Devadatta becomes a motif of a character of many stories, and Kara’s “Devadatta” is one of examples. In his novel, a woman named ‘Asura’, probably originated by one of the eight legions and a guardian of Buddhism(阿修羅), named a man called “Daiba(大場)” as “Daibadatta”, similar to the name “Devadatta”. Asura was a kind of psycho and she tried to establish a newly-risen religion, but failed because she could not emanicipate herself from a worldly desires and worries. She had believed in a sham god. They were all a kind of drunken people and Daiba was suffered quite a lot from the occasion. Daiba murmured “God was not there. There were mere human beings.” This is a typical incident that happens to men/women who misbelieve in something.

 

By the way, what is the original story underlies the novel? I think this story is hommage from Ch. 12, Devadatta(提婆達多品)and Ch. 25, The Bodhisattva Avalokiteśvara(観世音菩薩普門品)of “Saddharma Puṇḍarīka Sūtr(法華経)”.Both Devadatta and Asura appear at the scripture, however, the actual logic underlay is very different from Kara’s novel, or even Tezuka’s manga.

 

In “Saddharma Puṇḍarīka Sūtr”, Gautama Buddha said that what Devadatta did is necessary for Buddhas and for the rise of Buddhism, and during metempsychosis(輪廻転生) similar things happened again and again.From the view of Mahāyāna Buddhism(大乗仏教)every being has a potential to become Buddha, therefore possess Buddha-nature. After long and severe time of metempsychosis, Devadatta will surely become atathagata(如来). One of the main ideas in Mahāyāna Buddhism is that we are embraced by a tathagatagarbha(如来蔵)and each of us are a part of it. This is similar to an almost crazy trial to explain the universe by a universal quantum mechanics with a single “truth” (as in Stone-von Neumann theorem, and you may study quasiparticlean emergent phenomena of assembled particles as a single assemblage, 準粒子)idea in physics). This is one of the bases of Vajrayana(密教), which regard the universe as a macrocosm and ourselves as microcosms: everything can be explained by a hierarchical interaction map it encloses.

 

Saddharma Puṇḍarīka Sūtr itself, however, is a little difficult to understand as an essay that scientists can also understand (including an interseting part of Ch.25, The Bodhisattva Avalokiteśvara(観世音菩薩普門品)); you need a good sense of metaphor.Prince Shotoku(聖徳太子)in ancient Japan, wrote down Sankyo Gisho(三経義, which introduces three scriptures, Saddharma Puṇḍarīka Sūtr, Śrīmālādevī-sihanāda Sūtra(勝鬘経) and Vimalakīrti-nirdeśa Sūtra(維摩経). They are very important scriptures one might read through. Saddharma Puṇḍarīka Sūtr describes all the beings have potential to be Buddhas after a substantially long period. Vimalakīrti-nirdeśa describes a person should be a dumb if understands correctly, which resembles one of “see no evil, hear no evil, speak no evil(見ざる、聞かざる、言わざる)” idea. Śrīmālādevī-sihanāda Sūtra itself is described as a scripture for women (typical to Indian culture), but I think this scripture is easiest to understand of the three because the ideas described are concrete and related to every day lives. It is a miniature of whole Mahāyāna Buddhism thoughts, therefore is useful introduction for not only women but also men in the case.

 

The ideas start from the relation between pratītya-samutpādadependent origination, 縁起and dhármaa kind of order, 法), between dhárma and ātmanself,我). With the thought of sarvasaskārā anityāall things have changing nature, 諸行無常)and sarvadharmā anātmānaabsence of separate self, 諸法無我), all the signs we regard have no stable identities themselves and every being is interconnected. With śānta nirvāaNirvāa, 涅槃静寂), we are free of sufferings with no desire. All the advancement of our lives are just expedients(方便)to be a Buddha,and people always have to keep in our minds; the advancement is not for your own selves, but for all the beings.

 

There are three distinct classes for believers in Buddhism, Sraavakahearer, 声聞), pratyekabuddhaself-centered awakened, 縁覚) and bodhisattvaa person who wants to be a Buddha菩薩). Japanese people can easily imagine what they metaphorize with the kanji characters used. There is a clear distinction among former two and the last one according to whether one understands the situation described in the previous paragraph or not. A bodhisattva should think of dukha satyaeverything is suffering, 苦諦), samudayasatyathere is a reason that assembles sufferings, 集諦), nirodha satyayou may somehow be released from the sufferings , 滅諦)and mārga satyathe methodologies for the releases, 道諦).

 

For example, if you are always happy, you may be ignoring something very important.Think of the people who mind for today’s weather all the time, and are happy when it is sunny and sad when it is rainy. Do you remember the weather of Hiroshima was sunny and bright when Atomic bomb was dropped to the city? Does this mean Hiroshima was a city of ‘arrogant’ nationalities and there was a good reason to destroy the city with nuclear weapon, as such imitating Sodom and Gomorrah? Probably you may always keep in mind this doubt. In Buddhism, there were some occasions that not only the sun but also the rain was a sign of goods. Obviously you cannot tell anything only from the weather. Also, you may avoid of all the hacking & tracking around somebody else’s behavior or computers to be in more relaxed, Nirvāa states with better thoughts,released from unnecessary sufferings; too much communication destroys everything, as Claude Lévi-Strauss suggested.

 

ダイバダッタ
唐十郎
幻戯書房(2015/04/23)
値段:¥ 2,700


ブッダ全12巻漫画文庫 (潮ビジュアル文庫)
手塚 治虫
潮出版社(2002/11/01)
値段:¥ 6,108


法華経〈上〉 (岩波文庫)
岩波書店(1976/10/18)
値段:¥ 1,145


法華経〈中〉 (岩波文庫)
岩波書店(1976/11/16)
値段:¥ 1,037


法華経〈下〉 (岩波文庫 青 304-3)
岩波書店(1976/12/16)
値段:¥ 1,123


勝鬘経 (佛典講座)
雲井昭善
大蔵出版(1998/04)
値段:¥ 3,780


梵漢和対照・現代語訳 維摩経
岩波書店(2011/08/27)
値段:¥ 6,156


 

 

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ガダラの豚

 大分前に書いた中島らもさんの『ガダラの豚』(集英社文庫)についての記事を紹介しようと思います。

 

 『ガダラの豚』のストーリー自体は呪術医を研究している大ボケ民族学者・大生部多一郎教授(名字は「おおうべ」と読みますが、私には漢字表記だと「だいじょうぶ」にしか読めません。)が新興宗教にのめり込んだ妻・逸美を奇術師のミスタ・ミラクルとともに救出するのが第I部、ケニアに渡って大呪術師・バキリから以前気球の墜落により死んだと思われていた娘の志織を奪い返すのが第II部、仲間の死を乗り越えて東京でバキリとTV局で対決するのが第III部という、ギャグあり格闘漫画テイストありの荒唐無稽なドタバタコメディです(人がいっぱい死にますが。。。)。基本的にただのコメディだと思って頂いていいと思うのですが、中島らもさんの素晴らしい所は重要なポイントもちゃんと押さえられている所です。

 

 一つは「超能力」や新興宗教の「奇跡」に対する大生部教授やミスタ・ミラクルの態度(名前の持つ怪しさは気にしないで下さい)で、本当は「超能力」や「奇跡」があるのかも知れないけど、何らかの「トリック」で説明できるのでそんな未知のものの存在を仮定しなければならないことはない、ということです。種明かしをすれば何だ、ということが次々と出てきますが、トリックや新興宗教に騙されてしまうのは普段から「こうだ」と決めつけていることと逆のことを目の前で示されて、実は違うのかも知れないと思うことです。どちらでも決めつけていることには変わりなく、逆のように見える事実の提示ですぐ逆転してしまうものです。こういったものに対抗する一番簡単な方法は、周りから邪魔を受けない所でその「現象」が自分で再現性を持って操作できるかどうか確かめて、それができなければ端からネタだと思うことだと思います。怪しげな所に連れ込まれたり、本筋とは関係のない何の役に立ちそうもない「能力」を見せられれば誰でも警戒するでしょうが、周りになじめばなじむほどトリックが見破りにくくなります。その時に何故そうなるのか、間の過程はブラックボックスでもいいので、少なくとも入力は自分が実際に操作できるよく知っているもので説明してもらえなければ、例え教科書に書いてあることでも「ネタだ」と思えばいいということです。実験系の研究者の方の中には「自分の実験以外全て信じない」という極論を述べられる方もいますが、何事でもいちいち確認をしておいた方がいいことは間違った態度ではないと思います。「未知のもの」を感じることは重要ですが、「生命力」とかいうよく分からない自分で操作できない概念で説明されても気にする必要はありませんし、科学の専門用語でも相手がよく分かっていないのをいいことにアナロジーが成り立たないのに適当につなげて話される場合もあるので、とにかく「未知のもの」を「既知のもの」に変える手がかりがなければ、「未知のもの」には手を出さない方がいいということです。センスのある人ならそれがどういう「トリック」なのか言い当てることができます。

 

 新興宗教の場合は、誰か大切な人が亡くなって心神喪失状態の時にそれらしい話をして心の隙間につけ込み、隔離して睡眠もとらせず理性の弱まった状態でマインドコントロールをするようなので、その時にこういったポイントが分かっていると助けになるかも知れません。『ガダラの豚』のプロローグでは阿闍梨の隆心師が「オカルティックなものが「非在」であれ「実在」であれ、「どうでもいい」ことなのだった。自分が認める認めない、客観的科学が認める認めない。そんなことは師にとっては「放っといたらよろしい」ことなのだ。」と考えていますが、これは仏教の「諸法無我」における神に対する考え方と似ています。自分の分かりようもない領域には手を出しても意味がない、ということだと思います。

 

 ストーリー自体は第II部・第III部で本当の呪術が出てきたり哲学が出てくるのでだんだんこういった方向からは反れてドタバタ劇になっていくのですが、それはご愛嬌だと思います。とても面白い本です。でもミスター・ミラクルが。。。(T_T)。あと、メカニズムなしに有意差うんぬんかんぬんだけで呪術の存在が認められたことにはならないです。それにらもさんご自分が麻薬をやっていたからって、小説中で中学生のいたいけない男の子に普通にマリファナを吸わせているのもどうかと思います。

 

 余談ですけど、物の本質を知ることが相手を無力化するという考え方は、世界中の神話で見られるそうです。もともとはSF作家のアーシュラ・K・ル・グゥインのファンタジー小説『ゲド戦記』でも、真の魔法がさぐりだすべきものは真の名、ものの本質ということになっています。案外こういったことにベースを置いているのかも知れません。

 

 中島らもさんは2004年に酔っぱらって階段から転落し、脳挫傷、外傷性脳内血腫のため亡くなられました。らもさんらしい亡くなられ方だったと思うのですが、小説・エッセイ・脚本はもとより、講演・ライブ活動も行われる多才な方だったので、惜しまれます。

 

 

中島らも『ガダラの豚』全3巻セット (集英社文庫)
中島 らも
集英社(2012/02/01)
値段:¥ 1,677


ゲド戦記(6点6冊セット) (岩波少年文庫)
アーシュラ・K. ル=グウィン
岩波書店(2009/03)
値段:¥ 4,968


小型新約聖書 詩編つき - 新共同訳
日本聖書協会
日本聖書協会(1997/01)
値段:¥ 1,404



 

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【改訂】死者の書

折口信夫さんの『死者の書』、読みました。短く流れるような文体で読み易いと同時に、瑞々しい表現が頭にすっと入って来て素晴らしかったです。話の根底には八百万の神を下目に仏教のようなキリスト教のような概念が横たわっていました。物語に登場する滋賀津彦は、小学館の『学習まんが少年少女日本の歴史』にすら登場する大津皇子のことですが、日本書紀に登場する天若日子から隼別皇子を経て仏教的に転生して来ているような話になっています。過去生と未来世の話も出て来ますしね。大津皇子については、
「人間の執心と言うものは、怖いものとはお思いなされぬかえ。
其亡き骸は、大和の国を守らせよ、と言う御諚で、此山の上、河内から来る当麻路の脇にお埋けになりました。其が何と、此世の悪心も何もかも、忘れ果てて清々しい心になりながら、唯そればかりの一念(耳面刀自への想い)が、残って居る、と申します。」
「言うとおり、昔びとの宿執が、こうして自分を導いて来たことは、まことに違いないであろう。其にしても、ついしか見ぬお姿ー尊い御仏と申すような相好が、其お方とは思われぬ。」
とありますし、法華経の話も出て来ますので転生によりセイバー系の人物として形作られていく過程なのでしょうが、生前に一点の曇りとしてあったものが怨念のようなものに変化したものを、郎女が鎮める話です。本来の大津皇子の人格が完全に保たれていればこのような話にはならないと思われますが、少しあった執心だけがいつまでも残って
「おれの名は、誰も伝えるものがない。おれすら忘れて居た。長く久しく、おれ自身にすら忘れられて居たのだ。可愛しいおれの名は、そうだ。語り伝える子があった筈だ。語り伝えさせる筈の語部も、出来て居ただろうに。ーなぜか、おれの心は寂しい。空虚な感じが、しくしくとこの胸を刺すようだ。」
という、セイバーの責務の為には自分の名など構わず投げ出せる筈の元々の人格とは異なったものになっています。セイバーが自分はセイバーだなんて言えば百害あって一利もないのは歴史が証明していますし、自分の名を捨ててでもある行動を取るのがシステムに最適になる状況は大なり小なり皆経験出来る筈です。だからそういった状況に置かれてどう行動を取って来たかがその人を形作るのです。そういったものが取り除かれて残った執心が、祟りのように迷信深い人には見える事象となった描写は物語の各所でありました。もう少し科学的に考えれば、人の意識は故人が亡くなるか亡くなる直前には消えてしまいますし、故人の意識と同一のものが幽霊や怨念になって後世に影響を及ぼすとは考え難いです。ただ、「執心」と形容されるような何らかの情報のもつれが間接的に後世に「祟り」のようなものとして見える事象になること、これは厳密な証明はまだないにせよ、科学的メカニズムとしての候補が全くない訳ではありません。その場合、「祟り」を無くすには故人が亡くなってからどうこう鎮めようとしても無理で、故人が亡くなるような原因からして事前に取り除かないと何の意味もないというある意味現実的な話になってきます。『百億の昼と千億の夜』じゃないですけど、伝えておくべきことは故人が生きている内に伝えておくべきだという話でした。

死者の書・口ぶえ (岩波文庫)
折口 信夫
岩波書店(2010/05/15)
値段:¥ 756


死者の書(上) (ビームコミックス)
近藤 ようこ
KADOKAWA/エンターブレイン(2015/08/24)
値段:¥ 799

法華経〈上〉 (岩波文庫)
岩波書店(1976/10/18)
値段:¥ 1,145


法華経〈中〉 (岩波文庫)
岩波書店(1976/11/16)
値段:¥ 1,015


法華経〈下〉 (岩波文庫 青 304-3)
岩波書店(1976/12/16)
値段:¥ 1,123

百億の昼と千億の夜 (ハヤカワ文庫JA)
光瀬 龍
早川書房(2010/04/05)
値段:¥ 907


百億の昼と千億の夜 (秋田文庫)
光瀬 龍, 萩尾 望都
秋田書店(1997/04)
値段:¥ 761

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かくれた次元

2015/10/08は用事を済ませた後、京都の丸善に行ってきました。京都の丸善は本の揃えと展示の仕方にバランス感覚とセンスがあって良かったです。洋書も充実していますし、京都の本文化もまだ暫くは大丈夫そうです。これを見ればTSUTAYAが如何にヤバいかが分かります。京大生協のショップルネもそもそも丸善ほど大きくないのが デメリットなのは分かりますが、昔を知っているのでもうちょっと頑張れるんじゃないか、とは思います。

例えば8日は「動物学・生態学」のコーナーでエドワード・ ホール『かくれた次元』(みすず書房)が表を向いて展示されているのを見つけたので、思わず購入してしまいました。動物学・生態学としてはちょっと異質な本ですが、その関係者でもみすず書房と聞いたら興味を惹き易いですし、少なくとも日高敏隆訳のインパクトくらいはお分かりになると思います。ある程度内容を理解していないと出来ないセレクションなので、感心しました。

「多数の人々の積極的な協力と参加なしには、一冊の本といえども出版には至らない。それらの人々すべてが不可欠だったのに、表紙のカバーに記されるのは著者の名前だけである。けれどこの最終的な産物は一つのチームの共同の努力の賜物であることを、著者はよく知っている。チームのメンバーの中には、その役割がとくにはっきりしていて、その助けがなかったら原稿が出版社の手にわたらなかったであろう人々が、いつも何人かいる。私がとくに謝辞を述べたいのは、これらの人々に対してである。」

という文章や、別種の個体間の相互作用と同種の個体間の相互作用を分けて考える、

「これら二つの進化圧の間には、きわめて重要なちがいがある。異種間の競争の舞台では、第一級のものだけが発展する。それはその種全体を包含した競争であって、一つの種の動物の異なる系統の競争ではない。これに対し、一つの種の中での競争は、品種を洗練させ、それぞれの品種の特徴的な性質を強調してゆく。いいかえれば、種内競争はその動物の出発点での形を増強するのである。」

などどこかで聞いた話、小さい頃訪ねたことがあるChesapeake Bayの島でのシカの大量死が栄養失調でなく過密によるストレスで起こること、小さい頃住んでいたRockvilleでのドブネズミを使った個体群密度の維持のメカニズムとストレスや異常行動の関係の実験、そのシンクでの(I)平常と変わらない攻撃的ドミナント・オス、(II)攻撃・性行動を忌避するオス、(III)過剰に攻撃的で性的な下位オス、(IV)汎性愛的オス、(V)外へ出て行く謎のオスのクラス分けなど、興味深い話題が多いです。10-12匹のドブネズミで一つの集団を形成するようになるなど、物性屋や相転移屋さんが興味を持ちそうな話題もありました。勿論out of dateな議論もありますが、とても面白く読めます。

そこで抜粋を幾つか。

「風の方角とにおい、踏んでいる氷と雪の感じを手掛かりとして、エスキモーは目で見ては区別のつかない氷原を一○○マイル以上も旅するのである。アイヴィリク族はさまざまの風に対してすくなくとも一二の異なった呼名をもっている。彼らは時間と空間を一つにまとめており、視覚的空間よりはむしろ、聴覚・嗅覚空間に生きているのだ。さらに、彼らの視覚的世界の表象はX光線にも似ている。彼らの画家は自分に見えようと見えまいと、そこにあると知っているものを全部描きこむ。浮氷の上でアザラシを狩る男の絵や彫刻は、氷の上にあるもの(狩人と犬たち)ばかりでなく、その下にあるもの(息を吸うため息抜き穴へ寄って行くアザラシ)も描くのである。」

人が違えば全く異なる表象空間に住んでいることを示してくれる人類学的な記述ですね。

「現代人は、スペインやフランスの洞窟の一五、○○○年以前の壁画を見る場合、あまりにも性急に結論を下さないようにしなければならない。過去の絵画の研究によって二つの事実を知ることができる。すなわち、(一)われわれ自身の反応から、われわれの視覚の体系と予期するものについていくらか知ることができ、(二)過去の時代の人間の知覚世界がそのようなものであったかもしれないという何らかの観念を得ることができるということである。しかしながら、われわれが現代において彼らの世界について描くイメージは、継ぎ合わせて復元された博物館の壷のようにつねに不完全であり、原型の単なる近似物にすぎない。人間の過去を解釈しようとする試みに対する最大の批判は、その試みが過去の視覚世界の上に現在の視覚世界の構造を投射しているということである。」

同じ社会に属している人同士でも表象は異なってくるのに、それが歴史や古典、考古学の世界になればこういうことになるのは当たり前ですね。常に謙虚な姿勢が必要です。

「偉大な芸術はまた深いところで伝達をおこなう。時によるとメッセージが完全に到達するのに、何年もあるいは何世紀もかかることがある。実際、真の傑作がその最後の秘密を譲り渡し、それについて知るべきことをすべて知り尽くしたなどということは決してありうることではない。」

「アメリカ人が日本人の行動様式をいい表そうとするとき、もっともよく使うのは、「遠回し」ということばである。日本で何年も過し、最少限ぎりぎりのところで妥協して暮してきたあるアメリカの銀行家の話によると、彼にとっていちばん扱いにくく手強かったのは、日本人が遠回しなことであった。「気狂いになるのにいちばん手取り早いのは、古い型の日本人を相手にすることだ。やつらは要点の回りをぐるぐるぐるぐるとまわるだけで、それ自体を取り上げることは絶対ないのさ。」同じように、ただちに「要点にとり組もう」とするアメリカ人の強情さが、日本人に解せないのだということを彼らはもちろん気づかない。われわれアメリカ人が、なぜいつも「論理的」であろうとするのかがわからないのである。」

きつい言い方ですが、古い日本人でなくても現在でも「要点の回りをぐるぐるぐるぐるとまわるだけ」の人物は日本人には結構いますね。例えばイギリスの場合、問題点を問題点だと把握することはきちんと出来るようで、部外者に対する体面はともかく問題は内々には処理されて数年すれば問題が解決する場合もあります。日本の場合、論理的かどうかよりも当事者の権力の大きさや対峙した場合の面倒臭さの方が優先される場合も多く、逆ギレしたり如何にして被害者を加害者に仕立て上げるのかに執念を燃やし始め、更なる状況悪化を招いて退っ引きならなくなることが多々あります。国のやり方を見ていれば分かり易いでしょう。

「私が一九五七年に日本を訪問した際、もっとも大きい成功をおさめていたイエズス会宣教師は、地方の慣習を取入れて、会の規範を侵していた。三段論法的な前置きを手短かにすませて、スイッチを入れかえ、要点の周囲をまわりながら、カトリック信者になると、どんなにすてきな感じ(日本人にはこれが大切)がするかを微に入り細を穿って述べたてたのである。」

というのもこれに類似していますね。

こんなきつい表現だけではなく、エドワード・ホールはこうも述べています。

「西洋と日本のちがいは点のまわりの動きや点への接近、交差点に対して線を強調することなどだけではない。空間の全経験のもっとも基本的な相が西洋と異なっているのである。西洋人が空間について考えたり語ったりするとき、彼らはものの間の距離を念頭においている。西洋では、ものの配置を知覚し、それに反応するように、そして空間は「空虚」だと考えるように教えられている。このことの意味は日本人と比較したとき明らかになる。日本人は空間に意味を与えるように―空間の形と配置を知覚するように―訓練されている。このことを表すことばがマ(間)である。このマ、すなわち間隔、が日本人のあらゆる空間経験における基礎的な建築上の区切りなのである。これは生花において働いているのみでなく、他のあらゆる空間の配置でもかくれた配慮となって作用している。日本人はマを扱い配置するのにきわめて熟達しており、欧米人に感嘆と、ときには畏敬をさえ、ひきおこさせるのである。空間を取扱う巧みさは、かつての首府京都の郊外にある一五世紀の禅寺、竜安寺の庭に集約的に現われている。庭の現われ方そのものが驚きをひきおこす。暗い、羽目板で囲まれた本堂を通ってある角を曲ると、突然力強い創造力の発現の前に立たされる。一五個の岩が砂利の海から立上っているのである。竜安寺を見るのは感動的な体験である。人はその秩序、静寂、極度な簡素の修練によって圧倒される。人間と自然がどうしたものか形を変えて、調和の中にあるものとして眺められるのである。ここにはまた、人間と自然の関係についての哲学的伝達がある。庭の石は、どこから眺めてもその一つがいつもかくれているように配置されている(これは恐らく日本人の心への、もう一つの手掛かりであろう)。彼らは記憶と想像がつねに知覚に参与すべきだと信じているのである。
 日本人が庭を作るのに巧みな理由の一つは、彼らは空間の知覚に視覚ばかりでなく、その他あらゆる感覚を用いることにある。嗅覚、温度の変化、湿度、光、影、色などが協同して、身体全体を感覚器官として用いるように促がす。ルネッサンスとバロックの画家の単一点遠近法に対して、日本の庭は多くの視点から眺められるように設計してある。設計者は庭の鑑賞者をあちらこちらに立止まらせる。たとえば池の真中の石に足場を与えて、丁度よい瞬間に目をあげて思いがけない見通しを見つけるようにするのである。日本人の空間の研究は人をある点まで導いて、そこで何かを自力で発見できるようにするという日本人の習慣を説明する。」

多分に仏教的な視野、まさに「かくれた次元」ですね。論理性の話と同次元と言う訳でもないようで、どちらか一つを立てるしかない競合排他的でもないと思われるので、両立は可能でしょう。最近TLでもこれに類似するある研究が評判になっているのを見かけたような気がしますが、日本人のしたオリジナリティの高い研究には、こういうものも多いような気はします。私は外国の文化習慣的なことに関してはアメリカとイギリスのことが少し分かる程度なので、大陸ヨーロッパのことすらよく分からないので、この本でのそれぞれの差異についての解説は興味深かったです。ただアラブ人の方々の記述が流石に相手を理解しているものではないように見受けられましたが、アメリカ人とアラブ人の間は論理以前に文化的にもやり難い部分があることは人類学の眼鏡を借りれば分かり易くなるような気がします。そういった意味でお薦めの本でした。『江戸しぐさ』とか馬鹿なことを言っていないで、ちゃんとした人類学者の比較文化学に基づいて何か言えばいいのに、と思います。妄想を広めて良いことなどはありません。
かくれた次元
エドワード・T・ホール
みすず書房(1970/10/30)
値段:¥ 3,132

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部分と全体(幕)

 ここで離れた所から聞いていたエリザベートが対話に加わった。「いったい、あなた方は若い世代があなた方の言われている大きな関連というような、そんなにむずかしい問題に興味を持てるとお思いですか?あなた方が、時折ここやあるいはアメリカの大きな研究の中心地における物理学について話していることから私が想像すれば、若い世代の興味はほとんど個々の細かい点にだけ向けられていて、大きな関連などはまるでほとんど禁句ででもあるかのように蔭にかくされているように見えます。それについては、口にすべきではないとでも言うように。色あせた古代の天文学のように、次の日蝕や月蝕を、円や周転円の重ね合わせで計算することだけにすっかり満足してしまって、それに対するアリスタルコスの太陽中心の惑星系のことを忘れてしまったあの時代のようなことが、ここでも起こり得るのではないでしょうか?あなた方の大きな関連についての一般的な疑問に対する興味が、完全に消えてしまうということが起こり得るのではないでしょうか?」

しかし私は、ここではそれほど悲観的でありたくなかった。そこで反論した。「細かい点に対する興味はよいことであり、かつ必要なことだ。なぜならば、われわれは結局、実際はどうなのかということを確かに知りたいのだから。そしてお前も、ニールスがいつも好んで引用したただ充実だけが明晰さに導くという句を覚えているだろう。タブーについても私はそれほど不満足ではない。なぜならばタブーというのは、それについて人が語ることを禁ずるためにおおい隠してあるのではなく、多くのむだ話や冷かしに対して、それを保護するためにあるのだからだ。昔からあるタブーの論拠としては、やはりゲーテによって次のように述べられている。賢者の他は誰に告げてもならぬ、ただ凡俗は嗤うだけだろうと。だからタブーに対しては抵抗すべきではない。いつの世でも若者たちの中の幾人かが、絶対的に真面目でありたいという願望から、どうしても大きな関連についても熟慮しようという人が存在するものであって、そのときにはその人数の多少などは決して問題ではないのだ。」

 プラトンの哲学について沈思したことのある人なら、世界が描像によって定められていることを知っている。だからこの対話もまた、最近のミュンヘンでの年月の忘れがたい烙印として、私の心に焼きついた一つの描像によって閉じられるべきであろう。

 

(中略)

 

フォン・ホルストが彼のヴィオラをとり、二人の若者の間に坐って彼らと、若き日のベートーベンによって書かれたセレナード・ニ長調を奏ではじめた。その曲は生命力と歓喜にあふれ、その中には無気力と疲労感をしりぞけ、いたる所で中心的秩序への信頼がつらぬき通されていた。じっと耳を傾けている間に、ニールスの言ったように人間は常に人生の大きな戯曲の中において聴衆であり同時に共演者であって人類の時間のスケールで計れば、たとえわれわれ自身の協力はごく短くても、生活も音楽も学問も、絶えることなくさらに前進するにちがいないという確信を、私はますます深めていったのであった。

 

ハイゼンベルク『部分と全体』(みすず書房)了

 

 

 

量子力学について勉強された方なら、最後に「描像」という言葉が出て来たことに感慨を覚えるでしょう。維摩居士に少し近付いた心境です。

 

部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話
W.K. ハイゼンベルク
みすず書房(1999/11)
値段:¥ 4,860


梵漢和対照・現代語訳 維摩経
岩波書店(2011/08/27)
値段:¥ 6,156


 

 

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魔女狩りの社会史

以前書いたノーマン・コーン『魔女狩りの社会史』(岩波書店)についての文章の一部を改変して掲載します。

 

ノーマン・コーンには『ユダヤ人世界征服陰謀の神話――シオン賢者の議定書』『千年王国の追求』『魔女狩りの社会史――ヨーロッパの内なる悪霊』という、集団的妄想が如何に社会的常識になって大量虐殺を導くかを解析した大量虐殺三部作があるのですが、これはその一篇です。この著作では魔女狩りが成立するまでが著され、魔女狩り本体の議論には至っていませんが、魔女狩りとは其れ程までに長大な論考を必要とするのです。ちなみに『ユダヤ人世界征服陰謀の神話――シオン賢者の議定書』は現在では『ユダヤ人世界征服プロトコル』という題名でダイナミックセラーズ出版から出ていますが、これはヘイトスピーチ本ではなくその逆の本ですのでお間違えのないよう。またドイツばかりが槍玉に上がっているようですが、これはノーマン・コーンがユダヤ系イギリス人だったからかも知れません。

 

魔女狩りは「中世末期から近代にかけてのヨーロッパや北アメリカにおいてみられた魔女(Witch、男性も含む)や魔女魔術行為(Witchcraft)に対する追及と、裁判から刑罰にいたる一連の行為のこと。」と定義されます。ノーマン・コーンは、魔女狩りが成立する為の必要条件は人々が魔女集会=サバトの実在を信じられること、拷問を伴う裁判権の行使の自由が保証されていることであったとしています。魔女集会では空中飛行した魔女たちが集まって近親相姦・幼児殺し・人食いが行われていたと信じられていましたが、近親相姦を除いて当時の反社会的行動のステレオタイプで、2世紀頃のローマでも同様のことがキリスト教徒について信じられていました。ローマの神々を信じる人々にとっては全能で遍在する不可視の神は異様で、終末論を唱えて市民を無視するキリスト教徒は反社会的であり、よってローマやゲルマンの伝承にあるような上記の行動を取っていた筈だと言う思い込みがあったようです。それは馬鹿げたことなのですが、3世紀になってキリスト教がローマに浸透するまで迫害は続きました。魔女集会が現実にあったという物証は何もなかったのですが、それが罪として裁かれるには拷問による自白の強要が必須でした。現に、拷問が行われなかったイングランドでの魔女狩りは不活発でした。

 

魔女魔術に関しては、良い目的で行われる魔術は「白魔術」、悪い目的で行われる魔術は「黒魔術」とされていましたが、魔女狩りではこの両方が追及の対象でした。「魔女」とされる人々は社会的疎外者が多かったようです。未来を予言する力を持つともされたのですが、白魔術により薬物の調合や病気の治療、豊作を招き、黒魔術により毒物の調合や殺人を行ったり凶作などの災厄や不幸を招いたりもすると考えられていました。この魔女魔術を使えるということ自体が悪魔との結託を示すものとして、その行為の結果如何に関わらず追及の対象でした。

 

魔女狩りは中世の異端審問抜きには考えられません。異端審問では普通のカトリックの人々よりも清貧であった人々が、教義の違いや教皇に従わないという理由で異端とされ、拷問により悪魔と結託したという自白を得て殲滅させられました。魔女という概念は元々「自分たちが望む人々に豊穣と富と力を授けることができ、それと同時に、自分たちの敵を病気と死で打ちのめすことができる」という原始人のシャーマニズムに根ざすものでした。ところが中々理解し難い、毒舌で怒りっぽく、すぐ脅しにかかる、もしくは見た目が奇妙だというだけで周りの人々から怪しまれるこれらの「魔女」を、農民たちがマレフィキウムという「害悪をもたらす魔術」を行う存在として訴え、異端審問官が悪魔との結託というキリスト教に対する背信行為として裁くのが魔女狩りの実態でした。さらには、隣人に後ろめたい行為を行った人々がその後ろめたさを解消するために、隣人は実は魔女であって裁かれるべきなのだと思い込む為に、魔女狩りが利用されることも多々ありました。魔女行為が現実に行われていたという物証が全くないのに、審問官は拷問により供述を得てそれらが辻褄の合わないままに異端者として焚刑に処していました。無実の疑いなら神はその人に拷問を耐える力を与える筈だという思い込みもありました。その焚刑は凄惨で、初期においては出来るだけ長い時間苦しみを与え続けるために弱火でジリジリと焼き、背中が焼け落ちて肋骨が剥き出しになり、早く殺してくれという悲痛な叫びも聞き届けず、灰になるまで焼かれて遺灰は川に流される、もしくは焼け焦げた遺体が見せしめで放置されているという有様でした。ただそれでは余りにも非人道的だというので、後には斬首した遺体を焚刑に処するようになりました。

 

キリスト教において「悪魔との結託」が罪であるという考えは、実は其れ程古いものではありません。旧約聖書においては初期のアモス書(BC8世紀)や第二イザヤ書(BC6世紀)では、神ヤハウェは善悪全てを引き起こすものとして描かれていました。ヨブ記(BC5世紀)になると神の廷臣としてのサタンが登場し、歴代志(BC4世紀)ではサタンが固有名詞となりました。続く3世紀ほどの黙示録文学が著される間にサタン=悪であるという考えが定着したようです。中世から近代になると世界が悪魔の手の内にあり、悪魔と同盟する人間はどこにでもいる、キリスト教徒とされていえる内の1/3は実は魔女だと言う現代の新興宗教的な考え方が流行って来ます。果てはただの病気や精神的苦痛、気の迷いも悪霊によるものだという考え方が流布します。悪を専門に行う悪魔と言うのはユダヤ教から見れば比較的新しい考え方なのですね。

 

SF作家のアーシュラ・K・ル・グゥインのファンタジー小説『ゲド戦記』では、真の魔法がさぐりだすべきものは真の名、ものの本質ということになっています。JRR・トールキンの『指輪物語』でも、ガンダルフ(共通語)などはアマンでの本名のオローリンの他に、シンダール語のミスランディア、ドワーフ名でのサルクーンなどの名を持ちます。私にも本名の他にも、生まれた当時に人名用漢字になっていたら付けられていた筈の名や、女性だった場合に付けられていた筈の名など、様々な名があるそうです。物の本質を知ることが相手を無力化するという考え方は、世界中の神話で見られるそうですが、それが漫画や小説でもよく出て来るのはこの為ですね。科学と相容れる要素だった筈の魔法も、魔女狩りによって顔無しになってしまったのでした。

 

終いに大阪文化館の『魔女の秘密展』でgetした絵葉書、グスタフ・アドルフ・シュパンゲンベルク『ワルプルギスの夜』(1862年)の画像をどうぞ。右上から何か飛んで来ていますw

 

 

 

魔女狩りの社会史―ヨーロッパの内なる悪霊 (岩波モダンクラシックス)
ノーマン・コーン
岩波書店(1999/09/07)
値段:¥ 4,320


ユダヤ人世界征服プロトコル
ノーマン コーン
ダイナミックセラーズ出版(2007/03)
値段:¥ 2,160


千年王国の追求
ノーマン コーン
紀伊國屋書店(2008/05)
値段:¥ 5,184


ゲド戦記 全6冊セット (ソフトカバー版)
アーシュラ・K. ル=グウィン, Ursula K. Le Guin
岩波書店(2006/05/11)
値段:¥ 7,560


ホビットの冒険 オリジナル版
J. R. R. トールキン
岩波書店(2002/12/07)
値段:¥ 3,024


文庫 新版 指輪物語 全10巻セット (評論社文庫)
J.R.R. トールキン, 瀬田 貞二, 田中 明子
評論社(2005/12)
値段:¥ 7,776


 

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21世紀の資本

トマ・ピケティ『21世紀の資本』(みすず書房)を読んだので、感想を記しておきます。

 

帯にも描かれているのは、資本の収益率をr、所得の成長率をgとした時に、r > gとなった時に資本への過剰な富の集中が起こってしまい、持続不可能な格差を産み出すというものです。これが資本主義者のrと民主主義者のgの対立となるという、直観的には当たり前のことに思えます。ただこのようなことを示すにも、一般の方から見れば多くの議論を必要とするので、日本語にして600頁くらいの著作になる訳です。一般の方が思われるほど単純ではないですね。

 

例えば、Yを生産量、Lを労働量、Kを資本量とし、Aを技術などのスケール、alphaを労働分配率、betaを資本分配率とした時に、有名な「コブ=ダグラス型生産関数」

$Y = AL^{\alpha}K^{\beta}$

がありますが、これは生産量が生産要素と同次関数で、代替弾力性が一定の時に成り立ちます。資本と労働の分配率が安定で、社会秩序が調和的に見えるということが魅力的なのです。ただこの関数は現実のパターンの多様性を上手く認識出来ないようです。21世紀の資本と労働の代替性は弾性値が1より大きいですし、伝統的農業社会では1より小さいらしいです。つまり資本と労働の分配率は全然安定でなく、弾性値が1より大きいのなら働かずに資本を動かすだけで楽に暮らして行ける人が多くなることを表しています。それが一定値以下ならまだしも、多数派を占めれば社会が崩壊するのは当たり前ですね。極端な例を挙げれば第一次・第二次産業無しに第三次産業だけの社会など存在出来ないのですから。ピケティはバルザックの『ゴリオ爺さん』の引用でそのギャップを表しています。

 

また、「クズネッツ曲線」で有名なクズネッツは、1914年から1945年にかけての富裕国で見られた急激な所得格差低下は、人々の階級間の移行という穏やかなプロセスだとしましたが、ピケティは二度の世界大戦とそれに伴う激しい経済的ショックの影響だとしています。当時の富裕国以外の経済発展の過程では、その後格差縮小が見られなかった為です。また課税や金融政策も格差拡大に貢献したとしています。経済学は実験科学ではないので、厳密に制御された対照実験が組めないので「解釈」の違いが屢々生まれる訳ですね。私はエントロピーのことを考えるのなら、経済発展の結果は通常格差が拡大するのではないかと思うので、ピケティの解釈には賛成です。格差縮小の特効薬が恐慌や戦争と言うのも皮肉な話ですね。ピケティはそれ以外の格差縮小に貢献する要素として、アジアで現在見られ、アフリカでは失敗しているような物理的資本以外の知識や技能など人的資本の拡散を上げていますが、これについては実証的なデータを孫引きする必要があるようです。

 

その他にも国ごとの経済状況の異なりが議論されています。例えばドイツは2010年の時点で純外国資産がGDP50%を占めていますが、これは19世紀末のイギリスやフランスには及ばないものの、現在両国の純外国資産がほぼ0なので、貿易黒字の恩恵を被っていることが考察されます。ドイツは20世紀の間に公的債務をインフレで相殺してきた歴史もあります。また日本やイタリアでは民間資本が多いですが、日本はイタリアとは異なり企業の純貯蓄が多く家計が其れ程多い訳ではないので、家計の貯蓄に其れ程拘っても仕方がないことも書いてあります。

 

ピケティは十分位数や百分位数を利用して格差を表現するのに妥当な指標を設定しようとしていますが、私はそれには疑問を持っています。十分位数や百分位数は恣意的な閾値だからです。ではどのような指標ならいいかと言うと、それはまだここには書けませんが、少し関連することとして社会生物学の知見を挙げておきます。

 

労働を余りせず自分のランニングコストを掛けずに資本による所得ばかりを得て生活していると、社会生物学上は「チーター」になる可能性が出て来ます。個体内では自分だけが増殖して得になろうとするが、個体(システム全体)の恒常性を損なってしまうがん細胞のようなものですね。生物は利己的である側面もあるので、こういったシステム上は損になるがローカルに見れば得になる個体が出現するのはある意味避けられないのです。「囚人のジレンマ」という状態に陥り易いのです。そして「チーター」でない個体の割合がシステムによるコスト/ベネフィットの比を下回ってしまうと、システムは崩壊します。生物はクローン性を保つために、細胞レベルではDNA修復機能の活性化による変異の抑制(と同時に危機的環境ではわざと誤りがちな修復を行って多様性の確保)、個体レベルでは継代時間依存的に出現する「チーター」の老化による活動抑制、種レベルでは生殖隔離による他戦略の混合の抑制などを行っていると考えられます。

 

では全員がチーターになってシステムが崩壊するのをどう防げるかと言うと、ゲーム理論上はシステムに貢献する協調には協調、裏切りには裏切りで返す戦略が優位になります。その中でも協調者同士、チーター同士、協調者とチーターが共同で関わった事例で得られるコスト/ベネフィットの値に基づき、ある一定の割合でしっぺ返しでなく「許し」を与え、自分の相手に対する認識が誤っていた場合にそれをフォローする戦略が優位になります。さらにシステムに新規加入者が居る条件下では、利益が高い時はそのままの対応、低い時は対応を変える戦略が優位になります。実際はそう簡単な理論には落ち着かないでしょうが、経済学とゲーム理論で何がシステムを損なわない社会的な「正義」かは考察出来る可能性があるのです。

 

興味のある方はWebサーチや以下の参考文献、さらにはそこに引用されている文献を孫引きするなどしてさらなる知見を得て下さい。

 

21世紀の資本
トマ・ピケティ
みすず書房(2014/12/09)
値段:¥ 5,940


進化のダイナミクス 生命の謎を解き明かす方程式
Martin A. Nowak
共立出版(2008/02/20)
値段:¥ 5,184


 

 

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On Liberty

John Stuart Mill “On Liberty” (WHITE CRANE PUBLISHING) を読みました。「自由」という政治的概念について述べたエッセイです。功利主義を社会や国に当て嵌めたもので、国家の権力に対する諸個人の自由を提唱した物ですね。これを妨げるのは他人に実害を与える時のみというのがこの自由のみそです。功利主義における利益とされる個性や、多様性、天才の保証が文明の発展の為に必要ともしています。Tocquevilleの著作に比べると具体性が欠けて分かり難い点もあると思いますが、今尚読み継がれ吟味されている古典です。Millが精神疾患に倒れた時に支えてくれた奥さんの影響でMillは倫理観や女性の権利についての考えを改め、奥さんと協力してこの本を書きましたが、奥さんは本の発行の直前に突然亡くなったので、Millにとっては奥さんとの思い出となっていたそうです。

 

Millは国家が全て同一種の人々で構成されている訳ではないことから、政府の専制や、Tocquevilleも指摘していたそれよりもさらに事態を悪化させる多数派の専制は市民の自由に依りコントロールされなければならないとしています。特に多数派の専制はそれが適切とは限らないのに「空気」を醸成し法による保護が効き難いため危険だとしています。その為に思想や発言の自由は常に保証されるべきで、個性も創造性や多様性の保持のために必要としています。ただ最終章にある経済への政治の介入は良くないとしていたのは前ケインズ主義的ですね。最終章の応用の話は現代人には同意出来ない部分も多々あると思います。

 

Millの功利主義的な指摘をゲーム理論や協調性の進化の視点から考えてみると、Millは多細胞生物の個体とは異なり個人を単位とする比較的穏やかな連合体を国家として考えているようで、環境への適応は多様性による維持で対応するべきだと見ていたようです。他人に実害を与えないと言うのは協調性の維持に必要で、それ以外は自由にすることで多様性を担保することを考えていました。Millは社会の進化の初期段階では社会は少ない人口と恒常的な戦争に曝されており、首長の専制化に置かれているとしましたが、それが発展に従って個人の自由が大きくなっているとしました。社会的協調性の進化では次のモデルがTraulsen and Nowak (2006) PNAS 103: 10952-5. で提唱されています。ネットワークによる利益をb、コストをc、ネットワークに含まれる最大集団サイズをn、集団数をmすれば、

$\frac{b}{c} > 1 + \frac{n}{m}$

でないと社会的協調性は安定ではありません。つまり、初期社会のようにまだbが小さくcが大きい状態では、mが大きくnが小さい少人数社会が多数存在している状態しか許されないのです。少人数を上手く纏めるには専制しかないでしょう。社会が発展してbが大きくcが小さくなれば、mが小さくnが大きい少数の大社会も可能になってきます。このモデルには現れていませんが、社会がある程度大きい方がbが大きくcが小さくなる場合、大社会化が加速します。一方、社会のクローン性をF(がん細胞のような自分だけの利益を追求するチーターを排除するために重要な指標)、有効集団サイズをNe(遺伝ではないので一倍体と同様に考えます)、変異率をµとすれば、

$F = \frac{1}{\sqrt{1+4N_{e} \mu } } > \frac{c}{b}$

でなければネットワークが安定でないこと(Ohta and Kimura 1973, Genet Res Comb 22: 201-4.; Nowak and Sigmund 1998 Nature 393: 573-7.)より、bが大きくcが小さくなれば環境が安定していてもクローン性は低くともよく、利益率の良い社会では多様性が担保されやすくなります。環境が激変している時はこの議論は成り立たず、多様性が高い方が生き残り易くなるので進化の揺り籠が保障される訳です。これらのモデルは問題を極度に単純化すると同時にMillの議論の多くの部分を反映出来ていませんが、その一部は以上の議論で理解しやすくなります。

 

今の日本で行われている格差拡大政策は国家が将来コントロールの効き難くなる巨大企業にテコ入れして貧民をさらに貶めるという、国民国家的には持続可能性が低そうな政策で、国家でなく巨大企業が支配するグローバル化社会の形成が加速されるでしょう。絶対主義のように貴族を貶めて市民にテコ入れし、互いに憎悪させることで国家の統制をコントロールしていたのとは逆の政策ですし、ここに挙げた(所得再分配の欠如に依り)格差は徐々に産まれていっても市民の自由が保証された世界とも違う訳ですが、どうなのでしょうね。

 

On Liberty (English Edition)
John Stuart Mill(2011/03/30)


自由論 (岩波文庫)
J.S. ミル
岩波書店(1971/10/16)
値段:¥ 842


 

 

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ボルツマンの原子 理論物理学の夜明け

デヴィッド・リンドリー『ボルツマンの原子 理論物理学の夜明け』(青土社)を読みました。ルートヴィッヒ・エードゥアルト・ボルツマン(1844-1906)は原子(分子)が個々には無秩序な振舞をしても、集団に統計学と確率論の技法を用いれば秩序だった振舞をすることを提唱した最後の古典物理学者であると同時に理論物理学者の先駆けですね。エントロピーを現すS= klogWの式はあまりにも有名です。

 

ボルツマンが研究をしていた時代は、原子などイメージし難く見えない物がどうして認識されるのか、そもそも原子説は本当なのかが疑問を呈され、科学者の間でも意見が割れていた日々でした。マッハなど科学哲学に傾倒した学者は「原子という概念は必要ないし、原子のことを考えるのも憚られる」と主張していました。物質の構造・状態・変化を知る上で無くてはならない概念を考えてはいけないというのですから、ウィーンの学界などに与える悪影響は甚だ大きいものでした。ボルツマンが統計力学を用いて理想気体のエントロピーが原子(分子)論的にも不可逆過程では増大することを示したH定理は今でもきちんとした証明は為されていないのですが、そのH定理に対する疑念もこのような見解から激しくなっていました。ボルツマンは熱力学を確率論的に捉えていたのですが、マクロな熱力学の法則を絶対化して考える学者にはボルツマンの熱の運動説などは理解出来なかったのです。統計力学の基礎には確率論的なマクスウェル分布があり、そこにボルツマンが原子(分子)の存在を前提とした運動論的なボルツマン方程式を導入したのです。ギブズは見かけ上は運動説に拘らず別の角度から相律や自由エネルギー、ギブズーヘルムホルツの式を提唱し、統計力学の大成を見たのです。運動説に最初は反対していたプランクが1900年の量子論で変節するまでは、ボルツマンには辛い時代が続きました。ボルツマンも反対者が多いとは言え時代の寵児ではあったのですが、異動に関するトラブルなどでいつも精神疾患に苛まれていたようで、1900年頃にそれは酷くなり最期には自殺してしまいます。1905年はアインシュタインの「奇跡の年」で、「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」に関する5つの論文が出版され、前二者はボルツマンの理論に依ることも大きいのですが、その直後にボルツマンは不幸な最期を迎えたのです。

 

ボルツマンは生前、ダーウィンの進化論を熱心に広めようとしていました。生命そのものが熱力学的な現象で、「生物の生存闘争全体は、したがって原料を求める争いではないーあらゆる生物の原料は空気、水、土の中にあり余るほどある。またエネルギーを求める争いでもない。こちらは熱の形であらゆるものに充満している。熱い太陽から冷たい地球へと流れるエネルギーの形で利用できるようになる、エントロピーをかけた闘いである。」と述べています。適者生存という単純な規則を適用した進化とは一種の統計力学で、個々の生物が相互作用し、種としての性質が現れてくるというのです。生物の原料の問題は例えば窒素・リン酸・カリウムに関しては一般に制限栄養素となるので間違いですが、後半のシュレーディンガーの先駆けとなった見解は、今尚生物学における重要な課題となっているのかも知れません。

 

ボルツマンの原子―理論物理学の夜明け
デヴィッド リンドリー
青土社(2003/02)
値段:¥ 2,808


 

 

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リーマン 人と業績

 D・ラウグヴィッツ『リーマン 人と業績』(シュプリンガー・フェアラーク東京)を読みました。連続多様体概念の創始者ベルンハルト・リーマンの短い伝記とその業績の解説書です。以下、その要約です。

 

***

 

 ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン(1826-1866)は牧師である父と同じく敬虔なキリスト教徒でした。肉体的にも精神的にも虚弱で内向的であり、ヒポコンドリーであったようです。リーマン全集には、自己省察に耽ってアナロジーを用いることにより「精神過程の法則」の「心の中での知覚」から「現存在と歴史的発展の解明」を導き出そうとしていた記述があります。自己の内部に万有宇宙が反映しているというような東洋的、密教的な思想が背景にあったようです。一方、学問においては完璧主義で、ギムナジウムでは課題が未完であるとして提出しないことが屢々あり、教師たちを悩ませたようです。

 

 そのようなリーマンが数学の教授として行った講義は、現代でも通用する程当時としては革新的で洗練されていたと言われています。現代の解析学の教科書でもルベーグが「ルベーグ積分」を着想する切掛けとなった「リーマン積分」の定義など、リーマンが確立した概念は多々あります。リーマンはコーシーの概念を洗練化させて複素関数の正則性や留数の概念を定着させましたし、何よりも関数を写像と捉えたり、集合論やトポロジーの先駆けとなった抽象数学の基礎を築いたことは大変重要です。当時の数学者から見れば計算をせずに論理だけでアクロバティックなことをしているとされることもあったようですが、現代では圏と関手を除けば数学は集合と写像の言葉で全て書かれているといっても過言ではないでしょう。その基礎をリーマンは築いたのです。その基礎から始まって多価関数とリーマン面の関係や代数的関数とコンパクト性の関係など、今では当たり前のように受け入れられている諸概念を確立していきます。解析接続の考え方もオイラーに始まりリーマンが発展させました。幾何学・代数学・解析学というそれまでは異なっていた諸分野を同型写像の同値類として統合するリーマンの考察はヒルベルトにより洗練されて大成し、現代数学の基礎となります。つまり、数と式を扱っていた算術と代数、変数を扱っていた解析、図形を扱っていた幾何が、全て集合を扱う数学となり、集合の構造は集合として与えられ、幾何学と代数学は積集合の部分集合を、解析学は冪集合の部分集合を扱うようになったのです。

 

 リーマンが築いた現代物理学の基礎としては何と言ってもリーマン幾何学が挙げられるでしょう。リーマン以前の空間概念はオイラーがR3空間を考案して哲学者のカントなどもこれを継承していたのですが、リーマンはさらに高次の連続多様体を考案し、教授資格取得講演でそれを披露してガウスの喝采を浴びることになります。この時の講演は教授資格取得講演のお題の候補三題「三角級数による関数の表現可能性問題の歴史について」「2つの未知量の2つの2次方程式を解くことについて」「幾何学の基礎にある仮説について」の内の一つだったのですが、リーマンは幾何学のお題は三番手でガウスが取り上げるまではその準備をしておらず驚いたという逸話があります。つまり急ごしらえのお題だったそうです。元々ガウスの非ユークリッド的な曲面論ではガウス曲率K= k1k2 = 0でも一般に平均曲率H= (k1 + k2)/2 ≠ 0となり、より高次の空間への埋め込みが必要でした。リーマンはその埋め込みの前提が必要のない理論を立て、テンソル解析やアフィン連結空間を勘案して、これらを後にワイルが『リーマン面の理念』で精密化し、現代物理学に応用されます。この幾何学にアインシュタインの光速度不変の原理を加えれば特殊相対性理論が、慣性質量と重力質量の等価性を加えれば一般相対性理論が容易に導き出されるのはよく知られたことです。ds2= -dx02+ dx12 + dx22 + dx32という「時空間」の概念を捉えるのに一役買っている訳です。

 最後に、余り知られていないリーマンの哲学者としての側面として、電磁気学や重力の物理学から余剰次元のようなものの匂いを感じ取っていたこともあるようで、高次元空間への興味とも結びつくように思えますが、それはあまり確かなことではありません。兎に角、リーマンの先駆性は今なお驚くべき対象なのかも知れません。

 

 大学学部の数学を学ぶに当たって、数学を計算技術でなく学問として捉えるのなら、リーマンとその周囲、後世の学者の辿った道筋を知るのは学問としての数学を勉強するのに大変役に立つのだろうと思いました。ここには多くが記されています。学問とは基本的には巨人の肩に乗って行われること、学者の評価が如何にフラジャイルなもので、多くの誤解と偏見に基づいており、それは時を経ても尚続くこともあれば文献学的にも分からなくなってしまうこともあることも、この数学史の本は教えてくれます。

リーマン―人と業績
D. ラウグヴィッツ
シュプリンガー・フェアラーク東京(1998/02)
値段:¥ 4,968


 

 

 

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