研究ブログ

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Niewöhner, Zum Begriff ,,Monismus``

Friedrich Niewöhner, Zum Begriff ,,Monismus``: Ein Nachtrag zu Horst Hillermann: Zur Begriffsgeschichte von ,,Monismus`` (Archiv für Begriffsgeschichte XX, 1976, p.214-235), Archiv für Begriffsgeschichte 24 (1980): 123-126.

ヘッケル自身の一元論の起源についてHillermannは述べていない.そこで,ここで注意しておく.ヘッケルは,言語学者シュライヒャー(印欧語)から一元論概念を取ったように思われる.シュライヒャーは比較言語学にはじめてダーウィン的な手法を持ち込んだ人物であるが,ヘッケルによれば,それは二元論と一元論の対立を示しているという.そして,世界観として維持が可能であり,また化学方法論として適切なのは一元論だけだ,とも.そのようにして,一元論が「自然全体の批判的理解や,そのための批判的方法」として理解される.

Hillermann は「ヘッケルとオストヴァルトの一元論」と一括りにしているが,両者は区別すべきである.たとえば既にエルトマンは,1914年に,ヘッケルの一元論は唯物論的一元論あるいは進化論的一元論,オストヴァルトのそれはエネルギー論的一元論であることを指摘している.このことはオストヴァルトもヘッケルも認識していた.

マウトナーは1924年,ヘッケルの一元論がきわめて多義的であることを批判した.このことも注意すべきである.

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Hillermann, Begriffsgeschichte von Monismus

Horst Hillermann, Zur Begriffsgeschichte von ,,Monismus``, Archiv für Begriffsgeschichte 20 (1976): 214-235.


「一元論 Monismus」の概念の由来は,通常ヴォルフに帰せられ,ヴォルフ学派の哲学辞典では「唯一の種類の実体のみを許す」立場であると規定されている.ヴォルフはドイツ語でもラテン語でも一元論に言及している.ヴォルフの受容はドイツ語によるよりもラテン語によって進んだと考えるほうが適切であるが,ラテン語版の内容は常にドイツ語のものに沿っていることに注意すべきである.


一元論という概念は,常に二元論と対立する形で提示された.二元論という概念の起源は,18世紀の宗教史的な記述の中に見出せる.ペルシアの神統系譜学や宇宙生成論,あるいはツァラトゥストラの教えである.こうした意味での二元論は,キリスト教の教義に反すると考えられた.二元論が知名度を得たのはベイルとライプニッツが,それをマニ教(二重の原理を持つ)と同一視したことによる.ヴォルフの一元論は,ベイルの一元論と二元論のペアの前段階として位置づけられる.ベイルの重要性はハミルトンの記述(1839年)を見てもよくわかる.


ヘーゲル学派および,唯物論的・一元論的俗流哲学の登場とともに,一元論は知名度を得るようになった.例えばゲッシェルは,ヘーゲルの哲学と神学をキリスト教と調和させるために一元論を論じた.


また,19世紀後半からは,一元論は,自然科学に基礎を持つ,教会・国家・哲学からの解放運動のスローガンとなり,世界観的改革の旗印や,代替宗教としても機能するようになった.例えばダーウィンの進化論に基づくヘッケルの一元論は,宗教・哲学・政治の改革手段として唱えられ,反教会の路線を取ったためにプロイセンにおいては無視できない影響力を持った.


新しい倫理としての役割も担った.オストヴァルトは,エネルギーをできる限り有用に使うことが倫理的だとした.代替宗教として,キリスト教の刷新も主張した.しかし,第一次世界大戦の惨禍の中で,遅くとも20年代には一元論はドイツ語圏から消滅した.


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Tanaka, Die Ursprünge des Ostwaldschen Antiatomismus

Minoru Tanaka, Über die Ursprünge der antiatomistischen Anschauung von Wilhelm Ostwald,Wissenschaftliche Zeitschrift der Humboldt-Universität zu Berlin. Mathematisch-Naturwissenschaftliche Reihe16 (1967): 983-985.


ファン・ト・ホッフ,アレニウスらによる物理化学の誕生は,現代の化学への移行段階として極めて重要である.だから,彼らとともに物理化学に寄与したオストヴァルトが反原子論に与したことは注目に値する.オストヴァルトの立場を,化学的な研究において追跡してみよう.


最初,彼は自分が運動論の支持者だったと書いている.正確な時期は不明だが,学位論文(1877/78年)においては原子仮説を支持していたことが明らかだ.それから運動論への批判を開始するが,それでもアレニウスのイオン説に好意的だったことは注目に値する.


エネルギー論への言及は,1877年に既に見られるが,本格的には1890年春から展開される.1892年のLehrbuch der allgemeinen Chemieが代表的である.1895年のリューベックでの学会では,明らかにマッハの影響を受けた議論を行っている.その後,20世紀に入っても反原子論的な主張を続けた.


Lehrbuchには,「一般化学において,歴史的なアイディアの発展は,論理的なものと多くの点において一致する」という注目すべき記述がある.この歴史批判的な思考法は,経験的観念論にも,科学的唯物論にもなりえるものである.マッハの力学史の影響からか,それとは独立にオストヴァルトが自身で考え出したのか不明だが,いずれにしても,このようにしてオストヴァルトは経験的かつ反原子論的思考に至った.


当時は原子論に従って親和力を扱うことが困難だった.熱力学と分子論の組み合わせによって第一歩が踏み出されたが,この傾向に反対したのがオストヴァルトである.触媒の研究(1894年,1901年)において,オストヴァルトは原子仮説を使わないことで,いくつかの中間反応や,効率的で精密な決定方法を見出したのだった.


オストヴァルトは,気体運動論が不毛であると断じていた.しかし,この点に関してはオストヴァルトは自伝において,レントゲンによるX線の発見から物質が粒子状の構造を持つことが確立され,それによって原子論の不毛さが解消されたと書いている.

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Kox, Lorentz on quantum theory

A. J. Kox, Hendrik Antoon Lorentz's struggle with quantum theory, Archive for the History of Exact Sciences 67 (2013): 149-170.


電子論やローレンツ変換で知られるローレンツの量子論への貢献を調べた論文.ローレンツの黒体放射の問題に関する態度は,彼の物質観(電子論)に強く影響を受けている.ローマ講演では,レイリー・ジーンズの法則,特に等分配則の問題の明晰な分析を行った.等分配則の一般性を示すときに,ギブスの統計力学理論が重要な働きをしている.彼は新しい考えを検討するときに,きわめて注意深かったし,技術的な詳細を修得しようとしたが,それは,できるかぎり古典論を維持するという目標のために生かされた(新しい量子力学は,量子仮説を不可欠のものと見る新しく若い世代から登場した).ローレンツは古典物理学者であった.しかし,ローレンツは,新しい考えに対して完全に否定的だったわけではない.それは,光量子に対する態度の変化に見てとることができる.

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Morrison, Unifying Scientific Theories (Introduction)

Margaret Morrison, Unifying Scientific Theories: Physical Concept and Mathematical Structures (Cambridge: Cambridge University Press), Introduction, 2000.


科学における「統一」を扱ったMorrisonの本の導入部分を読んだ.統一は存在しない,としばしば科学哲学では指摘されてきた.しかし,統一が科学理論の発達のなかで一定の役割を果たしてきたことは明らかな事実である.そして,これまでの研究で明らかになっているような,非統一を無視することも許されない.そこで,(1)どのように統一が生みだされ,(2)それがどのような形而上学的な意味を持っており,(3)それが理論の構築と確証においてどのような役割を果たしたのか,を問題として考えなければならない.
統一と説明は異なる.D-Nモデルで考えると,統一は説明の特殊事例であるように見えるかもしれない.しかし一方で説明は,ファインマンの言うように,メカニズムに対する言明を含む.だが,ニュートンによる統一や,マクスウェルによる統一は,結局のところ力や場に対するコミットを避け,数学的な関係によって統一を果たしたのだった.そこでは,どのように力が伝わるのか,どのように場を電磁波が伝播するのか,というメカニズムに関する発言は見られない.この本では,いかに統一と説明が異なるかということ,一方を他方によって表現することは出来ない,ということを示す.
統一には二種類ある.還元論的な統一(電磁気と光の例)と,二つの別個の現象を同じ理論のもとに統合する統一(電弱理論の例)だ.後者は存在論的な還元を意味しない.前者はそれを含みうるが,しかしその存在論的な含意は統一が達成された仕方に依存する.
Morrisonの主張は二つである.ひとつは,統一は説明力を持つようなものとして理解されるべきではない,ということ.現象の統一を可能にするような機構はしばしば,そうした現象の説明を可能にするような機構と同一ではない.二つ目は,統一は科学的活動において非常に重要だが,自然の還元主義的な見解や存在論的な統一に関してはあまり含意を持たない,ということだ.結局のところ,統一に関する「統一」的見解は存在しない.

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Turner, Maxwell on Physical Analogy

Joseph Turner, "Maxwell on the Method of Physical Analogy", British Journal for the Philosophy of Science 6 (1955): 226-238.

マクスウェルの物理的アナロジーを扱った古典的論文である.

マクスウェルは1870年に英国科学振興協会で行った講演で,物理的アナロジーは二つの物理理論の間の数学的な形式の類似性,あるいは科学的な例示,もしくは科学的メタファーであると規定し,物理的アナロジーに関して三つの特徴を指摘した.すなわち,(1) 物理的アナロジーは純粋な数学的形式と物理的仮説の中間的方法であること,(2) 科学の諸分野間の部分的な類似性には二つの意味があること,(3) さまざまな物理的アナロジーの正確だがもっと経済的な表現に適した新しい言語が存在する可能性があること,である.Turnerは,マクスウェルの1850年代から1870年代にかけての著作から,これらの特徴を再構成していく.

(1) 代表的な例は静電気と流体のアナロジー.電気現象を探究するにあたって,マクスウェルは流体を単なる物理的仮説として,あるいは数学的形式として採用したのではない.そこで導入された電気的流体は,より理解しやすい形で数学的定理を証明できるような仮想的流体であり,また数学的記号のみが適用されるよりももっと広範囲にわたる物理的問題に適用できる.そこからは,より具体的な数学的関係を与えることを可能である.
(2) アナロジーは,ある科学理論が他の理論に対してある一部の事例においてのみ類似するという意味で不完全である.アナロジーは,ある一群の現象を記述する量が「物理状態」(理論とは独立に別にこれを定義する条件がある)を表現する一方で,それに対応するもう一方の分野における量が「単なる科学的概念」(理論とは独立にこれを定義する条件がない)であることがあるという意味で不完全である.
(3) ベクトル解析の導入が新しい言語の例とされる.マクスウェルが電磁気学を作ったとき,彼はファラデーの方法とベクトル解析の中間にいた.しかし後には,マクスウェルはベクトル解析を電磁気学の自然な言語とみなすようになった.[しかし引用で示されているように,実際にはマクスウェルはベクトル解析ではなく四元数を電磁気学の数学的表現として用いていた]
物理的アナロジーは,理論から生み出されるだけでなく,理論を作り出すことのできる方法である.それはひとつには,物理のある分野における数学的問題に対する解を別の物理の分野に移すことによって,もうひとつには,新しい理論的・実験的探究の方針を与えることによる.アナロジーは研究の手段として有用であり,またアナロジーは読者に対して説明をするときにも役に立つ.
最後に,デュエム,マッハ,キャンベルらの見解が提示される.ほとんどマクスウェルのものと同じだが,デュエムやマッハはオストヴァルトなどの伝統に連なっているために仮説の役割を否定する一方,マクスウェルにとっては仮説は検証されれば問題のないものであることには注意しなければならない.

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Hon & Goldstein, Maxwell's Contrived Analogy

Giora Hon and Bernard R. Goldstein, "Maxwell's Contrived Analogy: An Early Version of the Methodology of Modeling", Studies in History and Philosophy of Modern Physics 43 (2012): 236-257.


マクスウェルの電磁気学関連の著作は,(1) 1858年の論文「ファラデーの力線について」,(2) 1861年から62年にかけての論文「物理的な力線について」,(3) 1865年の論文「電磁場の動力学的理論」,(4) 1873年の本『電気磁気論』の四つに分けられる.1858年,マクスウェルはトムソンから「物理的アナロジー」を継承し,それをファラデーの力線概念と結びつけて電磁気学を作った,というのはよく知られている.マクスウェルの方法を,現代の理論物理学におけるモデル概念から解釈する向きもある.この論文では,まずマクスウェルのアナロジーはトムソンの「物理的アナロジー」に変更を加えた「数学的アナロジー」であること,また当時モデルなる言葉がまさに作られる過程であったことから,モデルという方法論が出現する過程としてマクスウェルの論考を読む必要があることを指摘する.

マクスウェルの1858年論文では,ファラデーの力線を数学的形式に持ち込むことが目標とされた.そこでマクスウェルはトムソンの「物理的アナロジー」を参照しつつ,力線と非圧縮性流体の管とのアナロジーを考えるが,この非圧縮性流体とは完全に架空のもので,物理的な実在との対応は考えられていなかった.この架空の流体に対して数学的構造を付与していき,その結果を実験と対比させる,というのがマクスウェルの考えた新しい方法「数学的アナロジー」なのだった.これは,トムソンの「物理的アナロジー」(二つの物理的領域——例えば熱と電気——の間のアナロジー)とは異なることに注意しなければならない.トムソンの場合にはアナロジーは双方向であり得るが,マクスウェルの場合は実在しない非圧縮性流体から電磁気現象への一方向である.トムソンはまた,二つの物理的な領域の数学的な構造の同一性を指摘するためにアナロジーに訴えたのだが,そこから新しい物理的アイデアを得ることはしなかった.おそらくトムソンは,非仮説的な理論を作ることを好んだがために,マクスウェルの行った道を進まなかったのだろう.

マクスウェルの「数学的アナロジー」は,トムソンの「物理的アナロジー」とは著しく異なるものであり,その改変の故に新しい物理理論を作り出す力を持っていた.マクスウェルは,現代で言うモデルを考え出したのだと言える.

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有賀,ローレンツ『物理学』日本語版

有賀暢迪「ローレンツ『物理学』日本語版の成立とその背景:長岡・桑木と世紀転換期の電子論」『国立科学博物館研究報告.E類,理工学』第36巻(2013年),7-18頁.


ローレンツの『物理学』は1913年に長岡半太郎と桑木彧雄により邦訳され,プランクの『理論物理学汎論』が翻訳されるまで,理論物理学のもっとも権威ある教科書だったという.当時の広告でも「世界の学界が有せるローレンツ氏物理学の最新版」と謳われた.それはいかなる意味で最新版だったのであり,またどのような経緯で邦訳されるに至ったのだろうか?

有賀はまず電子論をめぐる欧州の状況を整理し,1908年にはローレンツの電子論に有利な実験的証拠がかなりの程度蓄積されていたことを確認する.当時,アインシュタインの相対性理論は,電子論の発展版とみなす見解が主流だった.電子論に興味を持った経緯は長岡と桑木とで異なっていた(長岡は物質観の問題から,桑木は絶対運動などの力学の基礎の問題から)が,いずれにせよ電子論には早い段階から接していた.桑木は1909年に,長岡は1910年にローレンツを訪問した.ローレンツは長岡に教科書を邦訳してみないか,との提案を持ちかけ,桑木が共訳者として適当だろうこと,そして増補改訂として数十頁にわたる「敷衍」を送ろうとの提案を行った.ローレンツ訪問の際に電子論から相対論へ至る革命が話題になっていたこと,ローレンツが電子論の中心人物だったこと,これらは長岡・桑木に教科書邦訳の十分な意義を与えた.

有賀は,ローレンツ『物理学』が他の教科書に比べて持っていた特色を確認する.Thomson & TaitやPoynting & J. J. といった教科書は当時邦訳されておらず,RieckeやWarburgの教科書は実験物理学の教科書だった.ローレンツ『物理学』は古典物理学ではあったが,理論物理学の教科書であり,また下巻(長岡担当)には「電子論に依て説明すべき現象」という一章を設けて陰極線・X線・ゼーマン効果・放射能などの新現象とその電子論との関係を論じていた.かなり先端的な話題をも収めた教科書だった.

日本語版の出版にあたっては,ローレンツから長岡への書簡(2通;1911年8月31日付,1912年3月22日付)を見ることで,増補改訂にあたっての事情を垣間見ることができる.それによると,下巻の増補内容はロシア語版と同一であろうことが分かる.また,実験に関わる数値に関する(おそらく長岡からの)改訂案にもローレンツは同意を与えている.出版された日本語版では,5節分が増補され,電子論の部分にもいくらかの改訂がなされている.こうした増補改訂がなされたという事実を踏まえれば,確かに,ロシア語版を別にすれば,「最新版」という宣伝文句は正当化できる.

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