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カテゴリ:教育

ゲーム理論の Web テストを提供: 例題動画や講義ノートも

ゲーム理論を教えるみなさま,

ゲーム理論の日本語 Web テストを見つけようとして Web をさまよったことはありませんか? 遠隔授業や Web 教材が各大学で急速に導入されつつあるいま,見つけられなくて困っている方もいるかもしれません.便利だといわれる Google フォームを用いても,Web テストの作成は大変労力がかかるものです.そこで私はささやかな社会奉仕あるいは outreach として,Web テストや動画をふくむ教材を同業者に提供することにしました.これを機に自作の Web テストをシェアーする動きが活発になることを願います.

●三原麗珠「ゲーム理論の Web テストを提供: 例題動画や講義ノートも」(限定公開; 研究者アカウントでのログイン必要)
https://researchmap.jp/reiju/works/25959933

概要.ゲーム理論の入門コースのために作製したリソースを提供する.これまで非公開だった小テストを,Web テストと通常の記述式のふたつのバージョンで限定公開する.講義ノートや解説動画はすでに一般公開されている.Web テストを作成するために考慮すべきヒントも述べた.

 

三原麗珠

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怒る シラバスのフォーマットを押し付けるのはまちがっている

2016/02/26掲載
2016/02/29 リマークを追記
2016/03/02 修正
2016/03/14 修正

大学教育基盤センター長名義で「シラバスの不掲載について(通知)」が届いた.科目案内の大学公式シラバス集掲載をまた拒否か」で書いたことと同様のことが今年もまた香川大学で繰り返されたのだ.「センター側はこの問題を解決する気もないのだな」というのが感想だ.その通知を読む限り,大学がシラバスのフォーマットを押し付けることができると何の疑問も持たずに考えているようにも見える.しかし,それはあまりにも偏った一方的で非常識な見方であることは私が何年も前から警告して来た.(私が彼らの要求を拒む理由はシラバス全文を公式システムに入力しない理由」でも書いた.) どうも警告が十分でなかったのようなので,いま一度資料も引用しながら説明する.
  • 要するに自由と包含力がない大学はダメだってことだけどね.

シラバスをデザインする権利は個々の教員 (教授,准教授,講師その他) にあり,それを所有するのも個々の教員である.これは学問の自由を巡る個々の教員,組織としての教授陣,そして国家その他の外部勢力のあいだの闘いのなかで教員たちが勝ち取って来た権利である.(一方で教授陣は「コースカタログ」という別の媒体で科目内容を一定程度制限する権利を確立した.コースカタログに記述される内容はシラバスのそれに比べて限定されていることに注意.) 香川大学の公式フォーマットは,(たとえそれがなんらかの代表の多数決の結果だとしても) 先人たちが勝ち取った権利をないがしろにするものであるので,それに非自発的に従うことは私の良心に反する.参考資料を2つ挙げる:
  • シラバスは個々の教授の知的財産であり,大学は著作権を持たないのでシラバスを学外審査機関に提供できないとしたミズーリー大学の訴えが支持された判例.提供しないのはその大学の利益には反するかもしれない.シラバスの所有権が個々の教員にあることがそれだけ重く受け取られているということだ.

  • 2000年9月5日開催の岡山大学教員合宿研修で,国際基督教大学学長絹川正吉は以下のように述べている (注1):
    シラバスというのは、教員が勝手に作るものです。
    「シラバスというのはその先生の授業経過によってまちまちですから、一概にフォーマットを決めて書くなんてことはできませんし、束ねて渡すこともほとんど意味がありません。」(注2)
    「フォーマットを作ってシラバスを規制してしまって、そのシラバスに従わなければいけないとなったら、これでは授業は硬直化してしまいます。本質的に教員がそのシラバスを作ることに反発しますね。反発しなかったら、その先生は本質的ではないのです。なぜなら知の営みというのは自由なんですから、自由な発想が大事なんですから。」

    注1.ちなみに私は学部生時代にこの教授の授業を何科目か受講したことがある.彼が大学改革 (という言葉ではなかったかもしれないが) に関心があったことは学生時代から感じていたが,シラバスに関しては個々の教員の自由を重視しないとやっていけないという,トップダウンとはちがう考えを持っていたのは知らなかった.

    注2. 
    シラバスは本来学期を通じて参照されるべきものだろう.ところが冊子になることによってそのような使い方がされにくくなっているという面はあるはずだ.その結果「シラバス冊子に掲載された科目情報は履修科目選択期間にしか参照されない」といった見解が真実を突いたものになってしまう.
高等教育のモデルとなる米国の大学でシラバスのフォーマットを探しても,たいていは recommended (or sample or suggested) format となっていて,特定フォーマットを押し付ける例はほとんど見当たらない.「シラバス作成ガイドライン」といえば香川大学では大学が勝手に定めた様式の記入方法を指す一方で,米国大学では最低限求められる内容を例示したようなものに過ぎず,シラバスをデザインする権限が最終的には教員にあることを尊重したものになっている.
  • シラバスの様式を規制した例としてはたとえば Penn State が "written (paper or electronic form) syllabus" と明示している.口頭で伝えるだけでなく書かれたものであることは要求している.
  • シラバスのシステムとしてはたとえば Stanford が全学的なリポジトリを持っている.その利用法によれば,教員にはいくつかの種類のファイルフォーマット (txt, .doc, .rtf, .pdf, .htm, .html) のファイルをアップロードする方法のほか,シラバスをふくむ Web ページの url を記入するなど複数の選択肢が与えられている.
    • 同リポジトリでたとえば "Academic Term: WINTER 2016; Subject: ECON" を選ぶと,公開範囲が "Public" となった科目がいくつか現れ,それぞれ異なるフォーマットで書かれたシラバスの pdf ファイルが見つかることが分かる.
香川大学の「シラバス作成ガイドライン」はもともとシラバスを対象として定められたものであるにもかかわらず,シラバス入力システムに入力された科目情報という,シラバスとは別物 (入力情報をシラバスと同一視している科目は多いが) に適用するというすり替えが行われているのも問題である.

シラバスの件にかぎらず,香川大学では教員が個人レベルでやればいい教育上の実践を,大学全体でやろうとした結果おかしなことになっている例がある.大学が一方的にいろいろ決めてよいという誤った前提があって,それが特に個人レベルで頑張ろうとしている教員の足を引っ張り,大学教育の質を低めている.

リマーク (2016/02/29 追記)

この記事で米国の大学における syllabi をモデルとしたのは,もともとそれが日本の大学のシラバスのモデルであったためでもあり,そこでは自然淘汰的なプロセスを経ながら関係者の権利を尊重しつつ望ましいシラバスが実現して来たためでもある.大学外部からの力によってではなく大学内部で規範が出来ていったのだ.役所主導で Web シラバスを導入して来た日本のような国の例でははじめから様式の統一自体が目的になってしまった上に関係者への権利配分の問題は度外視されており,望ましいシラバスのあり方を考えるうえでは参考にならない.

国内大学では Web シラバスと称して様式を (学部等の組織ごとに) 統一するような過剰な形式主義が目立つが,文部科学省の号令に (過度に?) 適応しようとするあまりそのような役所の様式のようなものが採用され安易に模倣されていったようだ.役所のような統一様式をありがたがるのは,集団志向教育を特徴とするわが国の教育システムに飼いならされた者たち独特な価値観が影響したのだろうが,結果的には多くの大学が同じ---しかも間違った---方向に暴走してしまったことになる.

様式を統一すれば異なるシラバスを比較するのが容易になるという淡い期待もあったのかもしれないが,そのような比較はシラバスの用途として重要なものではないうえ (科目比較は一義的にはコースカタログでできる),実際にはそのようなメリットよりもデメリットの方が目立っている.たとえばある項目は枠が大きすぎて大幅に余白を残している一方でべつの項目は枠が小さすぎて満足な内容が書かれていなかったり,シラバス全体の構成がその科目に適合してなかったり (いくつかの項目をまとめたり,分割したり,削除したり,追加したりしないと適切なものにならないなど), シラバスの内容がバランス悪いものになっている.様式の統一は過剰な形式主義であり,個々の科目に合ったよりよい書式が (シラバス様式の設計者以外から) 生まれてくる可能性を潰してしまったようだ.

27(27 未承認)

シラバスにかんする抗議のメール

科目案内の大学公式シラバス集掲載をまた拒否か」で書いたことと同様のことが今年もまた香川大学で起きつつある.「シラバス全文を公式システムに入力しない理由」ですでに述べたように私は正当な理由をもって彼らの要求を拒んでいる.以下は教育基盤センター調査研究部長へのメールに多少手を入れたものである.


シラバスチェックの結果は出鱈目であり,実際のシラバスはほぼ100パーセントガイドラインに従ったものになっている.
他の教員の自由を尊重できない奴は大学を去ってもらいたいし,けっきょく貴様らにできているのは良いもの潰すことだけじゃないか恥を知れ.その職に留まるなら少しは conducive to learning な環境を整えてもらいたい.

三原麗珠


さっきのメールで抜けてたが,システムに入力した科目情報をちゃんと冊子に印刷しろってこと.それがこちらの要求.

それにしてもほんとお前らクソというかウンコというかカスというか最低だな.なにをシラバスと呼ぶのかは担当者が決めることだろ.あんたのやり方が百パーセント正しいのか? それを他の教員におしつけてうまく行くのか? そんなこと絶対ないから.だれのやり方が正しいかは分からないが,それぞれの教員は自分の科目にたいしてはいちばん事情を知っているし最適な決定をできる立場にある.だからそれぞれの教員にまかせようということでやってきたはずだガイドラインというものは各教員が自発的に受け入れる限りのものであり,押し付けるものではなかったはずだ.

工学者ってのは最適な情報を持つ主体から決定権を奪うことがよい決定につながるとか思ってるのか? そういう集産主義的幻想は Fatal Conceit って言うんだよ.どうだ,勉強になっただろ.人文社会系と思って人のことバカにすんじゃねえよ.

あんな入力システムに入力された情報をもって「シラバス」とか呼ぶなんて野蛮人もいいところ.シラバスに限らず vita とか論文投稿のカバーレターでもそうだが「言われた通りに様式に入力しました」という形式で事足れりということにはならないだろ.それで事足れりと感じる人は役所文化にはまりすぎてるというか,野蛮というか,先進的すぎるというか.本来はその人の手紙であるべきものなんだから.そんな自分でさえ論文投稿など今やシステム化されているのだからカバーレターなど要らないだろうと思わなくもないが,それがないとエディターに対して失礼なためか,自由に記述する機会を奪うため投稿者に対して失礼なためか,とにかく権威あるジャーナルとしては野蛮なことはやらないようで,なかなか無くならないだろ.リジェクションレターでも,未だにわざわざ手紙の形で書いて来るだろ.学生に敬意を払う気はないのか,ボケ!

三原麗珠


教育基盤センター調査研究部長,

メールをもらっても返事もしないとはずいぶんと rude な男だが,貴様何様のつもりだ? は?

シラバスチェックにたいして苦情が出ているのはあんたが調査研究部長になる前からのことだが,もう10ヶ月以上経っている.よくもこれまで放置したものだ.放置したのは貴様の責任だ.

一科目の担当者として私をまともに扱っていないところから判断するに,どうせ「文系のバカが数学教えるなよ死ねよ.そんな奴に科目設計の権限など与えん」と思ってるんだろ.本当に失礼極まりない奴だ.そう貴様が思うだけなら勝手だが,掲載権を奪うのは一線を越えている.だから私は抗議する.全力で抗議する.

そもそも全学教務委員会で了承されたなんて嘘っぱちだろ.私が準備したシラバスがシラバスでないという規定があるなら出してみな.仮にそれが本当なら教員がシラバスであると学生に対して指定するものが外部からの介入で覆せることになるが,そんな権利は貴様らにはない.学問の自由の侵害だ.

担当教員がシラバスとするものを無効化するということは要するに貴様らは学生が適切な情報を受け取ることには関心がないということだ.学生から科目内容を知る機会を奪うことであり,学生の知る権利はどうでもいいと思っているということだ.科目の内容を決めるという教員にとっての最低限の尊厳を奪っているということだ.そんな邪魔者に足を引っ張らせるわけにはいかない.科目をよくしようという意思のないやつに魂を売る気はない.破壊者は断固糾弾する.

私は自分の尊厳を守るために貴様らと戦う.私は学生の知る権利を守るために貴様らと戦う.そこには一切の妥協はない.

嫌がらせを止めろ.口出しを止めろ.

なんで工学者は人間をコントロールできると考える.人間には尊厳がある.お前の考えるようには人間は動かない.私は動かない.

うぬぼれと無礼とそして無能と恐るべき集産主義思想で貴様らは大学をズタズタにしている.優れた教員たちの,そして優れていない教員たちの脚を引っ張り,闇をさまよう者たちを闇のなかに閉じ込め,光明も啓蒙も学生たちにもたらさず,ただただ教養とは対極にある現状維持を押し付けている.

学生に結局科目情報を提供しない方を選択してるのだから,貴様らは学生の事などなにも考えていない.

あんな醜いシラバスのフォーマットを押し付け,学生に科目内容が正しく伝わらなくても,自分には関係なく,他人事のようにのうのうと生きていけると考えている.

それでも貴様は教養教育の役職に醜くしがみつくつもりか? クズめ!

他の教員の尊厳を考えない足を引っ張るだけの愚策.人間の尊厳を否定するものであり,貴様らは人間として最低だ.


私は人間の尊厳のために立ち上がる.

三原麗珠

図書館の自由に関する宣言
https://www.jla.or.jp/portals/0/html/ziyuu.htm



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香川大学への提言: 昇級枠の部局配分は整数で

香川大学における教員評価を生かすための昇級枠の適切配分について提言する.センター所属教員の昇級あつかいが酷いという話も聞くが,それにも関連する. 

重要なのは各部局に教員の昇級枠を適切に整数で配分することだ.特に,各部局に枠を最低一人分は確保すべきことを提言したいと思う. 

教員評価で高く評価された教員のための昇級枠を,現状では人数比例かなにかで部局に配分しているようだが,「0.2人枠」といった1人未満の少数を割り当てもあまり意味がない.整数人数を割り当てるための何らかの比例配分方式を採用すると同時に,最低限1名分の枠は各部局に配分すべきだ.教員評価の結果で昇級に値する者の数が1名以上ある昇級枠を超える場合,部局内であれば昇級枠に該当する者を部局長が判断できる.しかし異なる部局間ではそういった判断はできず,たとえば3部局合わせて1名の枠があっても,昇級枠該当者を判断できる者もいなければ部局間調整をやって該当者を決めるためのルールも整備されていない.いわば各部局は独立した最小単位になっており,そのような場合は最小単位に一人分の枠を設けるのが普通だ.たとえば議席を人口比で配分しているアメリカ下院でも,どんな人口が少ない州にも最低1議席は割り当てる. 

「部局内であれば昇級枠に該当する者を部局長が判断」できると上で述べた.専門が異なる教員をかかえる部局ではそれは簡単なことではないかもしれないが,現実としてやらなければならないようになっているし,部局長の主観的判断を避けたければなんらかの方法を決めておくこともできる.方法としてはたとえば「昇級枠に該当する成績を挙げた者に各年ごとにポイントを与え,過去に累積したポイントが高い者に当年分の昇級枠を配分し,配分した直後に一定ポイントを差し引く」といったものがあるだろう.こういった具体的方法は各部局で編み出した方が望ましいのだろうが,全学で採用することもできなくはない,人数が少ないセンターなどに限って(前述の整数配分に代わる) 調整ルールとして採用することも考えられる.

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怒る シラバス全文を公式システムに入力しない理由

要約.様式の改善,情報の分権化,教員の責任の明確化,意思決定過程の中立性,少数者の苦痛の削減といった観点から,シラバス全文を大学公式システムに入力するわけにはいかない理由を述べる.

2013年2月16日掲載
2013年7月17日修正

科目案内の大学公式シラバス集掲載をまた拒否か」で書いたように,香川大学教育開発センター長は,私の担当科目の案内を大学公式シラバス集に載せることを留保している.私が個人的に用意した本物のシラバスの一部の情報だけしか大学公式シラバス入力システムに入力しなかったためである.本物シラバスは8ページあるのだが,「そのすべての情報を入力しても印刷されるのは2ページだけ」という問題が直接的な理由だ.

しかし仮にその問題がなかったとしても,私はシラバス全文を公式のシステムに入力したくはないのだ.要するにイヤなのだ.そしてイヤであるのに従うのはこのばあい正義に反すると考えている.以下にイヤだと思う理由をいくつか列挙する.

様式が醜い

公式シラバスのフォーマットにはさまざまな問題がある.縦の罫線を使うなど横書きの伝統的スタイルに反する誤った様式であること,高々2ページという短さは必要な情報を盛り込むにまったく不十分であること,関連文献を載せる項目を「授業計画」「参考文献」「課題」などから選べないことなどだ.これでは内容に合った適切なデザインはできない.

なかでも冒頭部分が表形式になっていることは,許されるデザインの限度を超えている.たとえば大学教員が執筆する機会の多い学術誌では,体裁を整えるため論文の冒頭部分の各情報の配置は決められており,引用文献部分のスページングやピリオドの種類なども本文とは別に定められている.しかしどんなにひどいデザインを採っている学術誌でも,タイトルや氏名や所属やメールアドレスを枠の見える表に組込むようなものは見たことがない.そうとう酷い出版社でもそのくらいの伝統は(学術誌に限らず書籍一般でも)守っているのに,香川大学の様式はそのへんの伝統を堂々と無視した勝手なものになっているのだ.

情報の分権化ができていない

わが国の大学のシラバスのモデルとなったのは米国の大学のものである.その高等教育先進国である米国の大学では,コースカタログ(香川大学全学共通科目教員ハンドブック2012年度版で言えば46頁にある Bulletin あるいは Course Descriptions のこと)とシラバスの責任所在ははっきり分かれ,後者のシラバスは教員が責任を持つべき文書と位置づけられてきたはずだ.教員がその内容をコントロールできることが重要なのに,わが大学では時間割が決まった直後 (後期科目の開講8ヶ月前) にオフィスアワーズを修正することも初回講義で受講者数を確認した直後に課題の内容を修正することも (事務に例外措置を要請して受諾された場合を除いて) できないようになっている.

大学側が教員の利用の便をはかるために様式や入力システムを用意すること自体は,特に悪いことではないだろう.教員がそれを自発的に利用する限りにおいては,シラバスは教員が責任を持つべき文書であることと矛盾は生じない.香川大学教育開発センターがシラバスの「ガイドライン」を強制ではないと説明して来たことも,この矛盾を避けるためだろう.

しかし香川大学ではシステムの運用が悪いのだ.開講3ヶ月あるいは9ヶ月前の計画段階のものを印刷冊子にまとめて配布するというレガシーを捨てきれないため (つまり Web 掲載物への特化に失敗しているため),開講時点では多くの掲載事項が現状と合わなくなる.あるいはそういう齟齬を教員が見込めば,シラバスでは多くの事項を曖昧にせざるを得なくなる.あるいは大学公式版とは別のシラバスを用意せざるを得なくなり,学生に混乱を与えると同時に (2種類のシラバスを読ませることになり) 彼らの負担を増やしてしまう.

仮に印刷冊子を継続するにしても,大学側が責任を持ってそこに掲載すべき情報は,コースカタログにあるような (注1) 計画が大きく狂わない項目に絞り込むのが最適なはずなのに,シラバス全体を中央統制的にシステムに取り込もうとしたために分権化に失敗しており,情報を授業現場に応じた最新のものに保つことができなくなっているのだ.これでは教育の質は下がらざるを得ない.

注1.私の知るコースカタログは当該年度に開講されていない科目もふくめすべての提供科目が載っており,各科目についてはカバーすべき内容の目安が目次のように列挙されている.またその内容は年度が変わってもそう簡単には変わらない.これは大学及び学部が教育内容に責任を持つことを表していると見ることができるだろう.

では大学が (システムの情報処理上のボトルネックとなっている) 印刷冊子を捨てて Web 版シラバスのみを掲載するようにシステムの運用を改善した場合はどうか? 様式がなんとか我慢できるものであって,その内容の十分なコントロール権が教員に与えられていて,変更がリアルタイムに反映され,そしてその掲載が永続的に保証されるようなシステムであれば,開講時点で情報が古くなっているという上述の問題や,掲載情報が後で消滅する問題も解消する.

プラグマティストである自分は,この段階で大学提供システムにシラバス全文を入力してもよいと思うかもしれない.あるいはそこまで条件が揃わなくても,自分の所属とは別組織が用意するシステムであるなら,外部者のコントロール権が制限されるのは仕方ないと了解して利用するかもしれない.じっさい,これと近い条件を満たすワーキングペーパーのアーカイブを自分は利用してきた.

教員の責任を曖昧にしている

大学が入力システムの運用を改善すれば,私がシラバス全文をそこに入力する可能性は十分ある.個人レベルでは仕方ない判断といえるが,それは責任ある態度とは言えない.大学教員が獲得して来た自由と責任を手放すことにつながるためだ.

ところがこの大学のこれまでの情報システム運用を見ると,改善された運用が長期間続くことはあまり期待できない.たとえば香川大学学術情報リポジトリはアーカイブした情報の安定的永続的保存を唱っていたはずだが,私の作品を掲載したページの url は数年で変わってしまった.要するにシラバスシステム運用が改善されて教員にコントロール権が十分与えられたとしても (現状では一ヶ月程度の入力期間があるのみ),この大学ではそれが一時的なもので終わってしまう可能性が高いのだ.だれしも権限がないものには責任を持てないので,改善された運用が永続的に確約されないかぎり,教員の権限も責任も長期的には不安定で曖昧なものに留まる.

大学には研究教育の自由があるはずで,外部との関わりでは国家からの自由が重要だが,大学内部においても大学教員も大学及び学部もそれぞれ自らの自由の領域を守るために戦って来たはずである.(大学自治が機能しているとすれば教員個人と教員集団の戦いということになる.なお社会選択理論によれば,教員個人レベルが持つ論理性を集団レベルに持たせることは困難である,) コースカタログとシラバスという形で責任が分離することでひとまず教員個人が獲得できた自由があったはずだ.ところが日本の大学で冊子体で提供されて来た「シラバス」は,当初から責任所在を曖昧にすることで集団の論理を押し進めて来た.そして集団の論理が暴走した結果,わが大学では三原麗珠の科目情報が掲載拒否されるなど,学生の便宜を損ねる事態にまで至ったのだ.

集団の論理が暴走して大学システムへのシラバス全文入力が強制されるようになった現状は,上記の「改善された運用が永続的に確約され」た状態とはほど遠い.教員の権限や責任が曖昧なままに留まり,大学教員が歴史的に獲得して来た自由を失うことにつながる.

「情報の分権化ができていない」の項で述べた問題が解消されたとしても,それとはべつに大学及び学部が責任を持つ領分と教員が責任を持つ領分をきちんと区別しておくことは,大学教員が歴史的に獲得して来た自由を守ることになる.また,そのことは「改善された運用が永続的に確約され」た状態を保つために必要でもあるだろう.

意思決定過程が偏っている

センター長からは「ルールとして決めたことだから守って欲しい」という指摘もあった.シラバスのシステムについては,自分は少なくとも10年くらいはことあるごとに意見を述べて来た.しかしその声が取り上げられた形跡はほとんどなく,改善にはつながっていない.

確かに私は正式な委員ではなかったが,自分の所属する図書館からは代表を出せるようにはなっていないし,一方で委員以外の意見を聞いてはならないということもない.私の意見の大部分はたとえば「括弧の前後にはスペースを入れろ」といったテクニカルなものだった.反対意見が出るはずのないテクニカルなものさえ通らない一方で,学内議論を巻き起こしそうな流行のアジェンダに基づく変更が次々と採用されて来たのは,意思決定過程に重大な偏りがある疑いが高い.

少数者に苦痛を押し付けている

そもそも社会には全体で決めるべきではない事柄が多くある.特に少数者に苦痛を与えるような決定を全体が容易に下せるような社会は望ましいものではない.そのような社会は大学のあるべき姿とはほど遠いものだ.もちろん事柄によっては国旗掲揚のような公共財的性格を持つ(各個人を異なる形で扱えない)ため,どのような選択をしても一部の個人に苦痛を与えることは避けられないものもあるだろう.

しかし (教員の扱いにかんする限り) シラバスにはそのような性格はほとんどない.ほんらい各教員がそれぞれ自分の望む形で書けるからだ.統一性についてはコンピュータなどと同様に高等教育先進国に「業界標準」があるので,通常は各教員がそれに従うことで十分確保できる.標準を無視すれば学生への伝達効率が悪くなるため,教員としてもわざわざそれに逆らう意味は限られるからだ.一方で,学生への伝達効果など気にしないやる気のない教員の科目に至っては,標準に形式的に従わせてもあまり意味はない.

もし大学として最低限載せるべき項目といったものがあるなら,その点についてのみ合意すればいい.大抵の教員は従うはずで,従わないとすればそれなりの事情があると推測すべきだろう.教員が従わないことで学生に不利益を与えるようなものなど,ものによっては教員に適切なインセンティブを与えた方がよいこともあるかもしれない.しかし無理に従わせようとして教員に多大な苦痛を与えるようではいけない.私がシラバス様式について堪え難い苦痛を受けていることは,十年以上前からわざわざ時間をかけてこのような文書を作成していることからも十分明らかであるはずだ.

さいごに

以上,様式の改善,情報の分権化,教員の責任の明確化,意思決定過程の中立性,少数者の苦痛の削減といった観点から,シラバス全文を大学公式システムに入力するわけにはいかない理由を述べた.私がなにをイヤだと思っているかはかなり伝わったのではないか.その一方で,感情を抑えて書いたため,私がこれらをどれだけイヤだと感じているかは,読者の想像レベルを越えるはずである.(強制を避けることが技術的に可能な問題で) 私がこれだけイヤだと言ってるのに強制されるという正義に反することが,私の参加する組織でまかり通っているのが許せないのだ.

大学公式のシラバス集に載せることが必要と思われる最低限の科目案内についてはすでに入力したことは再度強調しておきたい.もし大学公式 Web ページあるいは印刷冊子にその情報を掲載することをセンター長が拒否すれば,掲載した場合に比べて学生の利便性を下げ,知る権利を奪い,彼らが興味を持ったかもしれない科目に巡り会う機会も大幅に奪うことになる.だれも得しない決定は避けてもらいたいものである.
6(4 未承認)

怒る 科目案内の大学公式シラバス集掲載をまた拒否か

教養教育を実施する香川大学教育開発センターの有馬センター長に昨日呼び出され,私の担当科目の案内を大学公式シラバス集には載せられないと警告された.

(ハラスメントだとかと因縁付けられたら損だと思ったのかどうかは知らないが) あちらの対応が紳士的だったので,私も彼を罵倒したりせずに紳士的に対応した.いや,本当はそういう理由ではなくて,前日罵倒の練習をし続けて咽や頭が痛くなった上に不整脈がなかなか収まらなくなったりしたからという健康上の理由が大きい.観客も事務のおじさんひとりで,やりがいがなかったからというのもある.(笑)

センター長は私の担当する「ゲーム理論」科目の本物シラバスの素晴らしさを誉め讃えたうえで (そんなことは言われなくても知っている),それとは異なる,大学の公式シラバス集に掲載する原稿,すなわちシラバス入力システムに入力する情報について次の2点を要求して来た:
  1. 入力システムの「授業の目的」「到達目標」などに私が入力した「シラバスを参照」という一文に替えて,上記の本物シラバスから該当部分をコピーして欲しい.要するに本物シラバスの内容をすべて大学のシステムに入力して欲しい.
  2. 入力システムに私が入力したこの文書はシラバスではない」という言葉を削除して欲しい.この言葉が他のすべての科目のシラバスを否定することになるため.
私自身は同システムには「授業の概要」および「履修上の注意・担当教員からのメッセージ」など必要最低限な情報は入力したし,上記シラバスを掲載した講義用 Web ページのアドレスも入力した.しかしセンター長はそれだけではダメだと言う.その上で,以上の要求に従わなければ,来年度も今年度同様,大学公式のシラバス集 (冊子,Web 版とも) に上記科目の情報を載せることを拒否するというのだ.(今年度はこれ以外にも当該科目にたいして様々な妨害を受けた.) ずいぶん勝手な話であり,罵倒されて仕方ないこのようなことが大学でまかり通るというのも信じ難いかもしれないが,事実である.

上記2点にたいする私の意見および対応策は以下の通り:
  1. 入力システムの該当部分に本物シラバスにある情報を私がコピーしたところで印刷版では2ページで切られてしまう.どこの部分が印刷されるかは利用者には判断できないシステム仕様になっているため,やろうとしても出来ない.
  2. その文書がシラバスでないと述べるのは,学生の混乱を避けるためだ.じっさい過去に本物のシラバスはこれだと学生に何度も伝えたにもかかわらず最後まで大学公式ページのものがシラバスだと誤解され,伝えるべきことが伝わらなかったことがある.また,私は「この文書」とはっきり限定している.それなのに他のすべての科目のシラバスを否定することになるとは随分な言いがかりだ.しかし余計な誤解を最小限に留めるため,「(この科目に関するかぎり)」という言葉を補うこととし,「(この科目に関するかぎり) この文書はシラバスではない」と書き換えた.
2点目への対応だけ先に伝えたわけだが,それについてはその対応でいいとセンター長から返事があった.しかし1点目が手つかずだったので「このままでは掲載することはできません」と言われたため,上記の対応を説明した.これで来年度も上記科目への妨害が続くかどうかは分からない.妨害を続けるようであればすぐに苦情として申し出るつもりであることは伝えた.

なぜ私が本物シラバスの内容を大学のシラバス入力システムにコピーすることを拒むのか? 書ききれないほど多くの理由があるが,要するにイヤなのだ.そしてイヤであるのに従うのはこのばあい正義に反すると考えるためである.詳しくは次の記事「シラバス全文を公式システムに入力しない理由」で述べたい.

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