カウンセリング研究ブログ

カテゴリ:書評

ナラティヴと心理アセスメント-協働的/治療的につなぐポイント

久しぶりに著書を出版しました。題して「ナラティヴと心理アセスメント-協働的/治療的につなぐポイント」です。

ナラティヴと心理アセスメント: 協働的/治療的につなぐポイント
田澤 安弘, 橋本 忠行, 大矢 寿美子, 近田 佳江, 野田 昌道, 森岡 正芳, 吉田 統子

編集は私と相棒の橋本忠行先生です。橋本先生はいま現在香川大学医学部の教授で、心理臨床家の養成に尽力されています。大矢先生は金沢工業大学、野田先生は北海道医療大学で教鞭をとっています。近田先生と吉田先生はバリバリの臨床家です。そして、森岡先生は日本を代表するナラティヴ研究の第一人者です。

1990年代のことであると思います。世界的に物語的転回(ナラティヴ・ターン)が世界的に巻き起こりました。心理療法の世界ではマイケル・ホワイトのナラティヴセラピーがよく知られていることと思います。本書は、こうした心理療法の世界だけでなく、心理アセスメントの世界にも物語的転回は起こっていたのだと主張するものです。

キーワードはダイアローグとモノローグでしょうか。心理アセスメントの結果をクライエントと語り合うダイアローグがポストモダンの方法論だとすれば、モダンの情報収集モデルでは、クライエントに対して一方的に告げるモノローグが主流であったわけです。

これまでの心理アセスメントの達人は、とにかくテスト結果を見事に解釈する力量が問われていたと思います。しかし、それでは従来的な価値観に埋没したままです。ポストモダンのアセスメントは、アセスメントのプロセスそのものがセラピーであること、協働的な文脈の中でクライエントとともにアセスメントの結果を話し合うことが重要になってきます。

遠い昔のことですが、かつてフランスの哲学者メルロ・ポンティが『ヒューマニズムとテロル』という一文を書きました。本書は、ヒューマニズムに基づいた心理アセスメントを指向するものの、従来的な情報収集のアセスメントを行っている臨床家たちに対しては、ある種のテロルとして受け取られる可能性があると思っています。というのは、自分が慣れ親しんだやり方に対して、ある意味物言いをつけるわけですから、脅威を感じない臨床家はいないと思われるのです。

本書は黙殺されるであろうか、それとも多くの賛同者を得るであろうか。おそらく、10年経過した時点で、一定の答えが出ていることと思う。その頃私は引退の時期である。どうなっているか、その日を楽しみに待ちたい。
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カウンセリングにおける言葉に「できない」と、言葉は「いらない」

今回は、私がカウンセリング場面で幾度となくであって来たクライエントの言葉、「言葉にできない」と「言葉はいらない」について呟くつもりです。言葉にできないというテーマの小田和正さんの名曲とは何の関係もありませんので、あしからず。

カウンセリングのなかで、相談者は自分の心的体験を何とか言葉にもたらそうとします。喜びや悲しみや寂しさといった心的体験を、言葉でもってカウンセラーに伝えようとするのですね。

ところが、心的体験を言葉にするのはとても難しいことです。言語至上主義のようなところのある西欧の文化圏に生きる人はまた違うのかもしれませんが、日本人がおのれの心的体験を言語にもたらすのは、至難の業です。

クライエントは言葉で表現しようとする「それ」を、表現しようとします。おっと、変な表現になりました。名状しがたい心的体験である「それ」を、努力して言葉に変換して表現しようとするのです。このような努力の感があって、それにもかかわらず言葉にすることができないとき、クライエントはその体験を言葉にできないと表現します。「それ」を言葉にしたくても、できないのですね。

このような事態に陥ったとき、哲学者のウィトゲンシュタインであれば、語り得ぬものについては沈黙しなければならないというでしょう。しかし、たとえば、ジェンドリンのフォーカシングは、そのような語り得ぬものを語るための工夫であると言えるでしょう。

カウンセリングのフィールドに、心的体験を言葉にしようという志向性と努力があるかぎり、そこには言葉に「できる」「できない」という可能性にかかわるパトスがあるようです。

ところが、カウンセリング場面には、言葉にできるとか、できないとか、もうそんなことは問題にならない領域もあります。それが、言葉は「いらない」です。

悲しみや寂しさに押しつぶされているクライエントがいるとします。カウンセラーはその心的体験を言葉にもたらそうと働きかけます。しかし、そのようなクライエントの心的体験が「何」であるのかという、静的、固定的な認識の言葉を誘い出そうとするのは、なかなかうまくいかないはずです。おそらく、せいぜい、寂しさに沈む自分のそばに誰かいてくれるだけでよい、言葉はいらないと口にするだけかもしれません。

ここが大切なところです。

悲しみという心的体験は、それ以上さかのぼって言葉にすることはできないでしょう。なぜなら、そこが底だからです。クライエントはそこにすでにたどり着いているのです。問題は、それが何であるのかと問いを立ててさかのぼることではありません。そのそこを大地として、そこでどんなドラマが展開しているのかということです。私がいま使った架空の例では、クライエントは二人の役者を登場させています。悲しみに沈む人と、その人を慰め、寄り添う人です。

君がいて、僕がいる。

チャーリー浜さんのギャグは深淵を垣間見させてくれます。悲しみに沈むあなたと、わたしが、そこに一緒にいて身を寄せている。そのドラマに、もう言葉はいらないのです。そこには、もう言葉にもたらそうとする方向性はありません。言葉もなく、ただひたすらにともにあるということだけです。

言葉は、いらない。

ロジャースのことは知りませんが、私の言うプレゼンスのカウンセリングとは、こういうことです。存在の根底にある裂け目から二人が共出現して、ただひたすらともにあるということなのです。

悲しみに打ちひしがれているときに友が一緒にいてくれた。友が一緒に泣いてくれた。慰めや励ましの言葉も掛けず、ずっと一緒にいてくれた。これがプレゼンスのカウンセリングの原型なのです。

私は小田和正さんのファンです。彼が北海道で公演するたびにライヴを見に行きます。小田さんの言葉にできないは、もしかしたら言葉はいらないという意味ではないかと勝手に思っているのですが、本当のところはどうなのでしょうか。期待しています、次の新曲は「言葉はいらない」をお願いします!!

ではまた書きます。


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カウンセリング効果の研究

最近、読んだ本があります。こちらの、ミック・クーパー著『エビデンスにもとづくカウンセリング効果の研究』岩崎学術出版、です。

日本語訳→こちら
英語版 →こちら

私自身は大規模な実証的リサーチには携わっていません。自分の役割ではないと思っておりますので。しかし、それにしても、カウンセリングの効果研究のエッセンスを要約したこの著書は、とても参考になります。

今回はひとつだけ取り上げましょう。カウンセラーの専門性にかかわる調査結果についてです。

仮説としては、カウンセラーが受けたトレーニングの水準と、カウンセリングの結果とのあいだには、直接的な関係があるのではないかというものです。比較的最近のリサーチがいくつか紹介されています。デザインは、専門的にトレーニングされたカウンセラーによるカウンセリングの結果と、準専門家のカウンセラーによるカウンセリングの結果を、比較検討するというものです。ここでいう準専門家とは、看護師、牧師、最低限のトレーニングを受けたボランティアといった、正規のトレーニングを受けていない人たちのことです。

結果はこうでした。両群のあいだに有意な差はなかった。

私のなかで、やっぱりという声と、まさかという声が、同時に鳴り響きます。

専門家と準専門家のカウンセリングの効果には差がないのだという研究結果は、たしか1960年代には出ていたと思います。残念ですが、比較的最近のリサーチでも、そうだったのですね。

もっと驚いたのは、アメリカのリサーチですが、最も優れたカウンセリングの結果を生んでいた専門家は、ソーシャルワーカーであったという結論です。サイコロジストやカウンセラーではないのです。アメリカは、ライセンスト・クリニカル・ソーシャルワーカーが開業して、普通にカウンセリングしていますからね。

みなさんは、このエビデンスについてどう思われますか。リサーチのデザインに問題がある、信頼できない結果だとして一蹴しますか。以前こちらの記事に、準専門家的カウンセラーには優れた人たちがいると述べたのですが、この本に記されているリサーチ結果では、専門家と準専門家のカウンセラーのあいだには差がないということになっています。ということは、前言を撤回しなければなりません。こうです。専門家にも、準専門家にも、優れた人がいると。準専門家のカウンセラーは、専門家のカウンセラーに劣るところはないのです。

日本でも同じような大規模リサーチが実施されないだろうか。かりに欧米と同じ結果が出たとしたなら、心の専門家などいらない、国家資格も無用だ、などという意見がエビデンスを持つことになるでしょう。いや、なるのだろうか。

私はもう効果を求めたカウンセリングは行っていません。何かを治療したり、直したりという、治療カウンセリングは行っていないのです。たとえていえば、クライエントに寄り添うような、同行二人といいますか、ただひたすら共にあるプレゼンスのカウンセリングを目指しています。それにもかかわらず、カウンセリングが展開して、気がつくとクライエントの症状が消失していたなんてことがよくあるのですが、それはあくまで結果として生起することなのです。

カウンセリングの効果研究が無駄だといっているのではありません。誰かが行う必要があると思っています。しかし、それは少なくとも私の役目ではないようです。

さあ、今回ご紹介した著書ですが、カウンセリングの専門家はもちろん、ユーザーの方々にも読んでいただけるとありがたいと思います。ああ、こういうことなのか、カウンセリングって、という概観がつかめると思います。それはユーザーにとって希望になるのだろうか、それとも、カウンセリングって大したことないという落胆になるのだろうか。

ではまた書きます。

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カウンセリングのユーザーに情報を提供すること

ささやかなカウンセリングの私設研究所を開設しています。待合室がなく、子どものプレー・ルームもありません。予算がないために作れなかったというのが正直なところです。そのため、もっぱら大人のクライエントをお招きすることになり、子どもたちのカウンセリングはままならない状況であるのが残念です。

ところが、子どものカウンセリングに関する問い合わせが後を絶ちません。札幌市内に住んでいる保護者の方々から、子どものカウンセリングはどこへ行けばよいのか情報を求められるのです。

いまはどの中学校でもスクール・カウンセラーが入っていて、子どもに何かあればすぐに利用できる状況になっています。昔とは違い、子どもにかかわる相談を受ける場はかなり増えているのです。しかし、それでもなお情報が不足しているのでしょう。

私は考えました。子どもに関するカウンセリングの情報を広く提供する必要があると。そして思いついたのが、情報を提供するポータル的なホームページの作成でした。自分の子どもがこんな状態に陥ったときにはどうすればよいのか、どこに行けばよいのか、そうした情報を提供できるようなサイトを作ろうと考えたのです。

そのようなわけで、最近、私が活動する北海道札幌市に限定した子どものカウンセリングに関する情報提供サイトを作りました。こちらの札幌子ども相談カウンセリングです。

予算が全くないので、無料のホームページ・スペースを拝借しています。業者さんに依頼する資金もないので、ソフトを使って自作しました。まあまあのサイトになったと思います。

カウンセリングの研究者であり実践者でもあるカウンセラーは、やはりネット上で積極的に情報を提供していく時代なのだと思います。カウンセリングのユーザーたちは、何か困ったことがあると、やはりまずはネットで検索する時代なのです。どこに相談すればよいのか、地域に密着した情報を、相談者の方々は求めているのです。

研究者としては、カウンセリングの実践と研究が大切なことです。しかし、それ以前のこととして、適切な情報の提供が重要なことであると思います。私利私欲を超えたところで、クライエントのためにカウンセリングは行われるのですが、情報提供もまったくもってユーザーのために行われるのです。

地域のために、まずこのような奉仕の精神がなければ、実践も研究もできないのです。研究という目的が前面に出るとき、ユーザーはただ搾取されるだけになってしまうような気がします。

またしても論旨が不明確になったような気がします。申し訳ありません。言いたかったのは、札幌に住む保護者の方々のために、子どものカウンセリングに関するサイトを作成したということにつきます。

ではまた。


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