カウンセリング研究ブログ

カテゴリ:趣味

カウンセリングの道具、それは水晶玉

カウンセリングの道具、それは水晶玉です。今回は、極めてまじめなカウンセリングの道具論です。カウンセリングルームの室内音響については、以前こちらの記事で語ったことがあります。今回は、小道具といいますか、私のカウンセリングスタイルにとって役に立つ道具のお話です。

いまはもう道具を使うことが少なくなってきたのですが、病院臨床でやっていた頃、私は机にさまざまな人形をおいて、それを道具として使っていました。何と表現すればよいのか嘆息いたしますが、まあいってみれば、卓上サイコドラマのようなことを行っていたのです。相談者の方にある気持ちにフィットする人形を選択してもらい、さらに自分を現わす人形を選択してもらい、その人形同士に対話してもらったのです。ゲシュタルト療法のエンプティ・チェアのようなことを、見に注を使ってやっていたなんて表現することも可能でしょう。

いまとなっては、こうした道具を使わないで、そのままエンプティチェアを行うのですが、最近になって、やはり小道具は必要かもしれないと思い直すようになりました。しかし、人形には欠点があります。つまり、個々の人形にはキャラクターが備わっていて、クライエントのイメージとぴったりしないことが少なくなかったからなのです。

そこで考えました。そうだ、色つきの水晶玉を数個使えばいい。そうすれば、クライエントは水晶玉の色にのみ自分を重ねればよいわけで、人形のようにあらかじめ備わっているキャラクターからくる拘束を免れることができるのです。

探しました。色つきの水晶玉を。ありました。それはジャグリングに使うクリスタルの玉です。色とりどりで、これは使えそうです。しかし、私としてはゲーテの色彩環の六色、つまり赤、青、黄色、緑、橙、紫の六色にしたかったのですが、それはかなわないようです。近々仕入れることにしよう。

けれども、卓上にカラフルな水晶玉を配置しているカウンセラーのところにやってくるクライエントは、それを見てどう思うのであろうか。もしかしたら、あっ、このカウンセラーは水晶占いをする人、みたいに怪しまれるかもしれない。本当は水晶玉を使って卓上サイコドラマをしたいだけなのに、もう誰も相談に来なくなってしまうだろうか。

水晶玉で占います、であれば、ある程度市民権を得ている行為である。しかし、水晶玉を使ってエンプティチェア・ワークを行います、となると、怪しいことこの上ない。どうしよう、やっぱりやめておこうか。うーん、もう少し考えてみます。

ではまた。


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カウンセリングと守秘義務

どのような職業であれ、職務上知り得た秘密をむやみに漏らしてはならないというのは、もはや社会常識であると思います。個人情報保護法も施行されて久しいですし、職種にかかわりなく、私たち国民はユーザーたちの秘密を保護しなければならないのです。

われわれカウンセリングの世界に生きるカウンセラーも同じです。人さまの相談業務にかかわる者たちは、クライエントないしユーザーの秘密を守らねばなりません。

守秘義務です。

守秘義務を私なりの言葉で表現すれば、次のようになるでしょう。つまり、クライエントから耳にしたお話は、墓まで、あの世までもっていくのだと。

しかしながら、私は研究者として、クライエントのみなさまにお願いしていることがあります。それは、毎回のカウンセリングをICレコーダーで録音させていただき、プライバシーに配慮した上でその内容を使用することがあるので了承いただきたいということです。研究上、このような条件を了承して頂ける相談者のみカウンセリングを行っています。料金を無料にして。

これは、どちらかと言えば研究倫理にかかわることであると思います。では、職業倫理にかかわる問題としての守秘義務の違反について考えてみましょう。

カウンセリングを含めて対人援助を実践する人間は、相談者のプライバシーにかかわる諸問題を傾聴する立場にあります。それは、クライエントにとって、人さまにはオープンにすることができない問題であることがほとんどでしょう。そうした個人情報をカウンセラーがぺらぺらと、あちこちで口にしたとすれば、それは重大な守秘義務違反になります。

そんなおしゃべりなカウンセラーが存在するのであろうか。

相談者の承諾もないまま、地域の研究会や学会で発表しているカウンセラーはいないだろうか。

クライエントの許可なく、その人のカウンセリングの内容を使ってスーパーヴィジョンを受けていないだろうか。

心理テストの数量的データだから個人が特定されるはずもないので、研究のためのデータとして無許可のまま平気で使っているカウンセラーはいないだろうか。

勤務していた病院や相談機関を退職するときに、カルテのコピーやクライエントの記録を個人的に持ち出していないだろうか。

クライエントの許可を得ていないカウンセリングのマテリアルを、授業の中で学生に講義している大学教員はいないだろうか。

守秘義務を遵守しているから自分は大丈夫と思っているカウンセラーはいないだろうか。

職務上他機関のスタッフなどと連携しなければならない場合には、クライエントの個人情報を開示して伝えあう必要があるでしょう。しかし、私たちは、ちょっとした気の緩みから、まったく職務上の関係がない、気心の知れた第三者に情報を漏らしてしまうことがあるのだと気を引き締める必要があると思います。情報を漏らしてしまうのは、みずしらずの他業種の人ではなく、気心の知れた顔なじみの同業者なのかもしれないと、ふと思ったのです。最近ちょっと報道があったものですから、いろいろなことを連想して。

これは自戒の意味もあるのですが、自分は大丈夫と過信する人ほど危ないと思います。自分も秘密を口にしてしまう危険があるかもしれないから毎日気をつけようというカウンセラーであれば、クライエントの不利益になるような情報の漏えいはしないような気がしているのです。

クライエントやユーザーの秘密を守らねばならないのは、カウンセラーに限ったことではありません。すべての職種の人間に課された義務です。これは大丈夫と思って当たり前のように行っていることが、実は重大な倫理違反であったなどということは、多くの方々が体験していることなのではあるまいか。倫理観も時代とともに変化するはずです。時代の変化に目配せを怠らない、感性豊かな人間であることが、クライエントの保護を全うできる援助者の重要な資質のひとつであるような気がします。

少し抽象的な議論になりました。ではまた書きます。


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ファイアストーンのヴォイス・セラピー

バフチンのポリフォニー論やハーマンスの対話的自己の理論に惹かれて、いつしか自分のカウンセリングを「声の心理療法」と呼ぶようになっていました。そして、「声」や「ヴォイス」に関連する文献を手当たり次第に読みあさっていた時期があります。

そんななかで、ああ自分が行っていることに似ていると思った著書があります。それは、ファイアストーンのヴォイス・セラピーです。

Robert W. Firestone (1988) Voice Therapy: A Psychotherapeutic Approach to Self-Destructive Behaviour. Human Science Press.

Robert Firestone, Lisa Firestone, and Joyce Catlett (2002) Conquer Your Critical Inner Voice. New Harbinger Publications.

このヴォイス・セラピーは、基本的に三つのステップから成り立っています。

まず第一のステップです。ここでは、クライエントのネガティヴな思考プロセスが識別されます。つまり、自分の自信を喪失させるような内的な声をあらわにするのです。クライエントは、そのような破壊的な声になり切って、目の前の自分に対して二人称で話しかけます。私である汝に向けて罵りの言葉を吐くのですね。これ、パールズのゲシュタルト療法で行うエンプティ・チェアの技法やサイコドラマ的な手法ですね。グリーンバーグの情動焦点化療法でも使っています。

第二のステップは、このような破壊的な声の攻撃によって自分がどのような自滅的行動パターンをとっているのか理解し、日常の自分自身に対する影響を洞察していきます。

第三のステップは、ロールプレーによってあらわになった内的な声に対して、クライエントが「言い返す(talk Back)」ことをしてもらいます。実際にその声が目の前にいるかのようにして、言い返してもらうわけです。

これでステップは終了です。

このヴォイス・セラピーですが、日本語に訳されたビデオも見ることができます。恥ずかしながら、ついこの間まで知りませんでした。奥さまのリサさんのデモンストレーションです。こちらです。

http://www.shinri.co.jp/video/video%5B3%5D04.html

そう、この感じです。私もこんな感じでカウンセリングを実践しているような気がします。ただ雰囲気としては、グリーンバーグのこちらの感じにもっと似ているのですが。

自分のオリジナルのように思える技法であっても、歴史を紐解いて行くと必ず先駆者がいるものです。当然のことなのですが。しかし、既存の者たちを独自の視点で組み合わせると、そこにオリジナルが生まれます。哲学の技術論で言うところの(発見に対する)『発明』ですね。カウンセリングの世界も、まさにそのようなものであると思います。

私もそろそろ自分のカウンセリング・スタイルについてまとめた著作を出さねばならない年齢になってきました。まあ、それは自分の問題です。みなさんも、一度ファイアーストーンのヴォイス・セラピーに触れてみてください。そこにはバフチン的なポリフォニーの世界が開けていますよ。

ではまた書きます。


[追記]

文中で奥さまと表現しましたが、どうやら娘さんのようですね。訂正します。それから、ヴォイス・セラピーのステップは、いま現在、五段階に細分されています。

1.批判的な内的な声が何と言っているのか同定する
2.その声はどこからやってきたのか、誰の声なのか認識する
3.批判的な内的な声に言って返す
4.自分の行動がその声によってどのような影響を与えられているのか理解する
5.みずから抑制をかけている行動を変化させる

こんな感じですね。

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アスペルガーなど軽度発達障害のカウンセリングと障害の受容+α

最近、アスペルガーの方が起こした事件の裁判があり、その判決が求刑よりも重いことに対して、さまざまな抗議の声明が出されているようです。こちらのヤフーの記事をご覧ください。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120812-00000520-san-soci

一介の臨床家として、軽度発達障害に対する偏見や誤解、それから差別が広がらないことを祈っています。

さて、今回は、軽度発達障害のカウンセリングと障害の受容というテーマで呟きたいと思います。どちらかと言えば発達障害を持つ本人よりも、その保護者に関するお話になると思います。プライバシーの問題がありますから、具体的な事例については書きません。あくまで架空のお話といいますか、一般論として書くつもりです。

軽度発達障害の「軽度」とは、文字通りの意味です。障害としては重篤なレベルにはないが、
軽微なレベルの障害があるということです。ここが大きな問題であると思います。障害が軽度であるがために、そのようなものとして、本人も周囲も、なかなか気がつきにくいのです。

軽度にもやはり様々なレベルがあると思います。たとえば、中等度と軽度のあいだは、障害のない健常と軽度のあいだとは、やはり程度の違いがあるわけです。

発達障害は、子供が成長する過程で、少しずつ目に見えるものになってくるでしょう。特にコミュニケーションという重大な社会生活のプロセスに、つまづきが出てくるはずです。あるいは、保護者の目からすると、この年齢の子供であれば普通にできることが我が子はできない、おやっという驚きがいつしか芽生えてくるはずです。

このような子どものつまづきや、保護者の驚きは、障害の程度によって、顕在化してくる時期はまちまちでしょう。ある子どもは、それが1歳を過ぎた頃に現われるかもしれませんし、また別の子は中学校や高校に入学してから現われるかもしれません。

わが子は発達障害かもしれない。

保護者がこのようにして気づくことは、いわゆる障害の受容と表裏の関係にあることでしょう。小さい頃から我が子のことをうすうすとは感じていたが・・・という保護者の方々は少なくないのかもしれません。

相対性理論のアインシュタインは何らかの発達障害だったかもしれないという研究者がいます。哲学者のウィトゲンシュタインもアスペルガーか統合失調症だったかもしれないという話があります。まあ、このような偉人たちの話はともかくとして、私たちの身近に存在している発達障害のことをお話しましょう。

これは架空の作り話です。

A子さんは、会社に勤めてからもう20年以上になります。大学を卒業してから、事務系のお仕事を続けていました。A子さんにはずっと悩みがありました。むかしから些細なミスがあり、性格的にも職場ではちょっと変わった人と見られていました。そんな彼女がカウンセリングにやってきました。悩みは、ごく普通のことでした。恋のこと、仕事のこと、趣味のこと、その他もろもろです。しかし、カウンセラーは、なんとなくA子さんに発達障害的な匂いをかぎ取ります。特徴的なのは、独特の話し方にありました。彼女の生きずらさは、どうやら軽度の発達障害に発していたようです。しかし、それが軽微なものであるために、彼女は障害年金などの社会保障を受けることができませんし、自分でも最近まで障害のことに無自覚的であったのです。最近出版された発達障害者の告白本を読んで、自分と似ているなと思ったそうです。

私はもっぱら青年期以降の大人を対象としてカウンセリングを行っています。ですから、子供の発達障害はどうしてももれてしまいます。私がそのような子どものカウンセリングに関与するとしたなら、おそらく遊びを介したカウンセリング、プレー・セラピーを主として行うことでしょう。

では成人の軽度発達障害の方々とは、どのようなカウンセリングによって関わっているのか。答えはこうです。ごく普通のカウンセリングです。ただ、こちらの応答が多義的・曖昧にならないように、ストレートなコミュニケーションに留意しています。そして、いつもよりも少し情動を生かしたやり取りを心がけます。これは、目の前のクライエントが情動的になることを目指しているのではなく、私自身が情動によってつないでいく感じでしょうか。淡々としていながらも、自分の喜怒哀楽を言葉と矛盾させずに、そのままの自分でいると言いますか。感覚の世界の話なので、何とも表現が難しいです。

寄り添うタイプのカウンセリング、軽度発達障害の方々にもやはり、私は同じような関与をしているような気がします。解決したり、治したりするようなタイプのカウンセリングではありません。喜びや悲しみを共にするのです。

ではまた書きます。


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