研究ブログ
開業カウンセリングルームの過去・現在・未来~公認心理師の時代へ
はじめに
今回は「開業カウンセリングルームの過去・現在・未来~公認心理師の時代へ」と題して、国家資格の公認心理師以降の開業カウンセリングルームの動向を占うような記事になるかと思います。今後、全国の私設心理相談室はどうなっていくのか、ちょっと真剣に考えてみたいと思います。すでに述べましたが、共同研究者のことがあり、私にとってはいまとてもホットなテーマになっているのです。また、私自身、自宅に私設心理相談室を開設しています。大学に着任する以前、まだ病院に勤務していた駆け出しの頃から、いつか開業したいという夢があり、それをちょっとだけ実現したかたちです。開設から10年間運営しています。では、かなり長い記事ですから目次を示しておきます。
*はじめに
*公認心理師前史
*労働としてのカウンセリング
*ネット広告としてのホームページ
*カウンセラーの資格
*精神科・心療内科との関係
*変化するビジネスモデル
*おわりに
この記事を執筆した動機は、私設心理相談室を開業する公認心理師が今後ますます増えていくことを願ってのことです。個人事業主としては厳しい現実の中での経営を余儀なくされるわけですが、私なりにエールを送りたいと思います。
公認心理師前史
昔から庶民の悩みや苦しみに耳を傾けてきたのは、僧侶たちでした。お寺さんと檀家さんの関係の中でどうすることもできないことが口にされ、信仰の中で扱われていたわけです。もちろん、身近にいる人たちのあいだで相互的な扶助も交わされていたわけで、相談事は庶民にとって特別なことではなかったのです。
しかし、社会は変化していきました。個人がプライバシーを大切にして生きることのできる時代がやってきたわけです。メリットもありますがデメリットもありました。自分の悩み苦しみを周囲に口にして相談することが、容易ではなくなってしまったのです。相談事はその道の専門家へ、という流れが加速していきました。
1970年前後のことであったと思います。その頃、日本臨床心理学会の中で、心理士の国家資格化について真剣に話し合われていました。安保闘争の時代です。しかし、学会は紛糾し、賛成派と反対派が分裂して、結局のところ国家資格化の流れは頓挫してしまったのです。またしても長い冬の時代が続きました。
その後、日本心理臨床学会を中心として、民間の資格ですが、臨床心理士という名の専門資格が創設され、認定が開始されました。1980年代の後半のことであったと記憶しています。他にもさまざまな民間資格はあり、その後も増えていったのですが、臨床心理士は公立学校のスクールカウンセラーになるための要件とされたこともあり、民間資格としてはとても権威のある資格になっていったのです。その養成は、全国の大学院の指定校で行われることになりました。受験するためには修士修了レベルの学歴が求められ、取得するにはなかなか難関の資格になったように思います。
臨床心理士の資格を取得した人たちが、少しずつカウンセリングルームを開業して、独立するようになっていきました。そして、1990年代の半ばに、インターネット革命が起こります。ウィンドウズが販売されたのもこの頃でした。パソコンが大衆化し、手紙や電話からメールへと通信手段が転換し、インターネットが庶民のものとなっていったのです。いまとは違って、グーグルではなく、ヤフーの検索エンジンが大活躍した時代でもありました。それ以来、企業だけでなく、個人のユーザーにも、ウェブサイトないしホームページがどんどん普及していったわけです。インターネットへのアクセスは、いまやパソコンよりもスマホの方が上回っており、カウンセリング・ユーザーの検索行動にも大きな変化が起こっています。
ここまでを要約すると、公認心理師前史として注目されるのは、臨床心理士というかたちでカウンセラーとしての専門性を高めようとする試みがあったこと、それから広告媒体が電話帳からホームページやSNSを活用したインターネットへと移行すると同時にパソコンやスマホが普及したこと、この二点が特に注目されることであったと思います。
いま現在、開業カウンセラーたちはカウンセリングルームを紹介するウェブサイトを作り、またSNSなどを通じて積極的に発信することによって宣伝活動を行っています。ではここで、広告メディアとして電話帳しかなかった頃の逸話をひとつだけ紹介しておきましよう。
認知行動療法や構成主義心理療法で著名なマイケル・J・マホーニーのお話です。私の記憶違いでなければ、たしか彼です。それにしても,これからお話しすることがどこに書いてあったことなのか思い出せないものですから、自分が嘆かわしいです。ブリーフセラピーか構成主義系の編集本(日本語訳はありません)の序論に書かれていたのは確かなのですが、うーん、思い出したら追記することにします。
マホーニーは学部学生の頃、自分の専攻を選択しなければならなくなって、大変悩んだそうです。何となく心理学にしようか……どうしようか、選択できずに開業カウンセラーに相談することを決意しました。当時は、カウンセリングルームを調べるとなると電話帳しかない時代です。電話帳を開いたマホーニーは、たくさんある名前から誰を選択すればよいのか皆目見当がつかず、けっきょくのところ「エイッ」と勢いで、一つのカウンセリングルームを選んだのだそうです。
なんと、彼が偶然に選んだのはミルトン・エリクソンだったのです。
彼は、その頃ミルトン・エリクソンの名前など知りませんでした。あのエリクソンであることを知ったのは、ずーっと後になってからのことだったようです。運命だったのかもしれません。マホーニーは結局のところ、あのバンデューラーのもとで心理学を専攻する決意をしたのです。
少しわき道にそれたかもしれません。次は、開業心理士たちがこれまで行ってきたお仕事、いま現在行っているお仕事について考えてみましょう。
労働としてのカウンセリング
開業カウンセラーの多くに認められるのは、スクールカウンセリングとの兼務でしょうか。相談室だけでは経済的に難しいところがあるので、収入の不足分を補うことを目的としている方が少なくないと思います。もちろん、労働に対する対価として収入を得るわけですから、責任をもって、しっかりとした専門性の高いお仕事をしているカウンセラーがほとんどであると思います。そう信じています。
何ともロマンのないお話になります。私たちは資本主義経済の世界を生きています。食べていくために労働し、労働の対価を手にするのです。無料で行われるカウンセリングは奉仕なのでのぞきますが、開業心理士にとってカウンセリングは労働であると規定されるはずです。食べていくためのカウンセリング、そうです、まさに生活がかかっているのです。利潤を得ること、もうけを生み出すこと、つまり収支がプラスにならなければ、廃業に追い込まれるという厳しい現実が待っています。オットー・ランクやカール・ロジャーズから始まりましたが、クライエント(来談者)という呼び方はペイシェント(患者)という呼び方への反省から生まれた経緯があります。しかし、このクライエントですが、露骨に言えば、商業主義マル出しの呼び方に聞こえなくもありません。ロジャーズは、最終的にはクライエントではなく、パーソンという呼び方をするようになりました。
カウンセリングという労働に対してクライエントが支払う金額は、単純な経済原則によって決定されます。そうです。需要と供給です。クライエント側の需要とカウンセラーの頭数が合致する一点で、おおよその料金の相場が決まってくるわけです。その他にもさまざまな条件がありますが、ここでは述べません。相場を下回る安い料金でサービスを提供する心理士のところへはたくさんの利用者が集まるはずですが、一定の利潤を得るには薄利多売型の多忙な労働を行わねばならないでしょう。一方で、有名な心理士のところへはネームバリューのおかげで多くのクライエントが集まるでしょうから、相場を上回る比較的高額な料金設定でも大丈夫なはずです。
クライエント側には経済的な事情があります。経済的に困窮している方は高額なカウンセリングを受けることができません。裕福な方はあまり料金を気にすることなくサービスを受けるはずです。では、一般的な世帯について考えてみます。厚生労働省が2018年に発表した世帯年収の平均は545万円でした。中央値は427万円で、平均世帯年収以下の割合は61.5%でした。このデータから判断すると、一定期間カウンセリング・サービスを継続して利用可能な恵まれた世帯は、限られていると考えざるを得ません。利用者としては、出来るかぎり安価なカウンセリングルームを探して申し込むはずです。アメリカの開業カウンセラーたちの年収はマネージドケアが背景にありかなりの額に上りますが、ユーザーの視点から言えば、日本の開業心理士の平均年収はあまり期待される額には届かないであろうことが推測されます。
このような経済的な事情があり、開業したくても踏み出せないでいる臨床家は潜在的にかなり存在しているはずです。私としては私設心理相談室の増加を願っているのですが、残念ながら、これから先も爆発的に増えるようなことはないでしょう。
ネット広告としてのホームページ
一番注意が必要なのは、「比較優良広告」の禁止でしょう。他の医療機関よりも優れていることを示して特定の医療機関へ患者を誘導するような誘引性を示す広告は禁止されることになったのです。いくつか列挙してみましょう。たとえば、治療の内容や効果に関して患者の体験談を掲載することはNGです。「2週間で90%の患者で効果がみられます」のような、治療効果に関する表現はNGです。医療従事者の略歴に○○の研修を受けた旨の記載はNGです。特定の医師のキャリアとして、その医師が行った手術件数の記載はNGです。
このように、医療機関へのネット規制はとても厳しいものになりました。ホームページに記載できるのは、本当に限られた情報になってしまいました。このガイドラインに違反する医療機関があれば、厚労省に通報するように勧められています。
ホームページを含めたネット広告に関する法的な注意点は以上です。次は、法的な問題ではなく検索エンジンのグーグルに関わる注意点について触れておきます。
すでに述べましたが、NTTのタウンページなどの電話帳が有力な広告媒体であった時代は終わりました。いまはネット広告が中心的な役割を担っており、ツイッターやフェイスブックなどのSNSはもちろん、ネット広告としてのホームページが重要になっています。多くのユーザーはカウンセリングルームの所在について調べるとき、スマホやパソコンでネット検索します。開業心理士としては、自分のホームページが検索順位のできるだけ上位に表示されるように、ということは多くのユーザーの目に触れるように、サイトのSEO(検索エンジン最適化)を行う必要があります。
検索エンジンのシェアは、いま現在グーグルの(ほぼ)独占状態が続いています。ヤフー検索も実はグーグルのエンジンを使っています。ホームページを作るときには、必ずグーグルの「検索エンジン最適化スターター ガイド」や「ウェブマスター向けガイドライン」を熟読して、ガイドラインに違反しないように注意しましょう。検索順位を上げるための不正な行為はスパムと呼ばれています。グーグルはネット上を巡回監視していますので、不正を発見した際にはアルゴリズムによる自動の調整だけでなく、手動で直接対策してペナルティを与えてきます。そうすると、ホームページの検索順位が一気に下落したり、最悪の場合はインデックスが削除されて検索画面から抹消される事態にもなりかねません。結果としてカウンセリングルームへの申し込みは途絶え、廃業を余儀なくされるという悪夢を招くことになるかもしれません。
いまも、これから先も、ネット広告としてのホームページは財産です。法的に問題のないように、そしてグーグル的に問題のないように、いろいろなことに注意しながらホームページを育てていきましよう。
カウンセラーの資格
いま現在各地で開業しているカウンセラーは、公認心理師や臨床心理士の有資格者だけではありません。民間のカウンセラー養成機関が私的に発行している資格や、産業カウンセラー資格などを掲げて、相談業務にあたっている人たちは少なくないのです。その他にも、アロマセラピー、催眠、タロットや水晶などによる占いカウンセリング、霊的世界を専門とするスピリチュアル・カウンセリングなど、この世界の裾野はとても広いのです。相談者の方々にはとても広いニーズがあって、それに適した場所を探すことになるわけです。
ここからは、ユーザーが求めるカウンセリングの内容を、いわゆる心理的支援にあたるものに限定してお話します。つまり、占い系やアロマ・リラクゼーション系のカウンセリングは除いた議論になります。
私自身、一介の大学教員ではありますが、カウンセリングは生きた人間が行うわけであるから、カウンセラーのパーソナリティや受けてきたトレーニングこそが大切なのであって、資格など二の次であるというスタンスでやってきました。いまも基本的にこの考えは変わっていません。ただ、民間資格が乱立する中、心理的支援に関わる唯一の国家資格が設立されたわけですから、これからは公認心理師の有資格者であることが開業カウンセラーの必要条件になってくるものと確信しています。
私の狭い交流関係の中のことを言えば、臨床心理士ではなくとも、非常に技量のある、優れたカウンセラーがいることは事実です。反対に、臨床心理士ではあっても、○△□な人はいるわけです。かなり前に、あるカウンセラーの養成講座に関わっていたことがあるのですが、そこで出会った臨床心理士ではないカウンセラーたちの中には、安心できる臨床を行っている方々が何人もいたものです。それにもかかわらず、公認心理師の有資格者であることを開業カウンセラーの必須条件であると考えるのは、背景にある時代の流れからなのです。
今の段階で、日本国民の全体に公認心理師の名称と役割が浸透しているとは到底思えません。それは、これから先の大きな課題になります。しかし、心理カウンセリングに関して、一定水準の専門知識と技量の有ることを利用者に対して保証するべく創設されたこの国家資格を、心理的支援を生業とするのであれば取得するのが義務であろうと今は考えています。そのようなわけで、これからはこんなスタンスで行こうと思います。「心理的支援を求めるときには公認心理師のところへ行きましょう。でも、公認心理師ではなくても優れたカウンセラーがいることは否定しません。それは事実です」それにしても、これまで重要視されてきた臨床心理士の資格はどうなるのであろうか。時の流れとともに、消え去っていくのであろうか。
最後に、公認心理師は医師のような業務独占資格ではありません。あくまで名称独占の資格です。有資格者でなければ公認心理師を名乗れないということです。ということは、これまでのように、公認心理師ではなくても心理カウンセリングを行い、それに対する対価を得ることができるということです。開業カウンセラーの世界は、これから公認心理師とそうではない人たちの世界に二分されていくことでしょう。そして、厳しい経済的な競争の中で、生き残りをかけた「経営戦略」を実践し続けねばなりません。どちらに軍配が上がるのか予想できませんが、その答えを出すのはあくまでカウンセリング・サービスを求めるユーザーであることを忘れてはならないと思います。(文章のこの部分には、われながら違和感を持っています。というのは、クリスチャンが集まるある会合でノンクリスチャンと呼ばれた時の違和感が、いまも忘れられないからです。公認心理師に対する非-公認心理師を区別することは、私と同じような違和感・疎外感を誰かに体験させてしまうはずなのです。もちろん、そんなつもりで書いているのではないのですが)
精神科・心療内科との関係
その一方で、このような現実もあります。昔と比較して、精神科受診の敷居がとても低くなったように思います。精神科は合わせて心療内科も標榜できるので、メンタルヘルス・ユーザーにするとかなり受診しやすくなっているはずです。ここから言えるのは、精神科・心療内科を受診する患者さんたちの層と、心理士のカウンセリングルームを来談するクライエントの層が、かなりの程度重なりあっているということです。精神科クリニックは心理士を雇用してカウンセリングを提供しているところが少なくありませんし、最近ではクリニックの傘下で心理相談室を経営しているところもあります。さらに、これは少数派ですが、精神科の薬を飲みたくない患者さんたちのために、薬物療法を極力行わないクリニックや薬をまったく処方しないクリニックも出現しているようです。
これは、精神科・心療内科といった医療機関側から、心理相談室にも来談可能な患者さんないし相談者の層を取り込んでいこうとする動きのように思われます。別言すれば、心理士のカウンセリング・サービスがあるのとないのとでは、外来患者数に多少なりとも影響が及ぶような時代になりつつあるということなのかもしれません。
この街には精神科・心療内科クリニックが多すぎやしまいかと囁かれるときがあります。おそらく、どの都道府県でも都市部にお住まいの方は、こんなささやきを耳にしたことが一度ではないはずです。クリニックも過当競争の時代に入ったのかもしれません。このような時代に生きているクライエントの方々は、どのクリニックを受診しようか迷うかもしれません。そして、クリニックを受診しようか、それとも開業カウンセラーのところへ行こうかと一度は迷うはずです。
メンタルヘルス関連のサービスを利用するユーザーの層は、このように重なり合っています。それだけに、私たちカウンセラーは、厳しい競争の世界を生き抜いていかねばならないのです。医療機関で行われるカウンセリングの料金は、私見ですが、開業カウンセラーのそれよりも低く設定されているところがほとんどのようです。そのせいか、予約してから受診まで数カ月も待たなければならないクリニックが、なんと多いことでしょう。
変化するビジネスモデル
これからのカウンセリングルームは、サービスの多角化と事業の規模の拡大がますます進んでいくことが予測されます。そのような現実によって生み出されるのは、相談室間の格差の拡大です。伝統的なビジネスモデルを踏襲して言わば細々と運営しているカウンセラーたちが大半を占める中、比較的規模の大きな会社組織のサービス提供体が増大していくことによって両者の間に経済的な格差が生じ、それがますます拡大していくはずです。
格差によって隔てられるであろう両者にはどんな違いが認められるのでしょうか?まず大きな要因と考えられるのは、個々のカウンセラーの生き方の問題なのかもしれません。何とか食べていけたらそれでよいという人は、そもそも経営の拡大など眼中にないはずです。その一方で拡大することをもくろんでいる心理士たちには、自分をそうさせる何か強い動機や目的があるはずです。失敗を覚悟して事業を拡大するわけですから、相当な決意があるに違いありません。
これは経済的格差にもつながっていることと思いますが、それよりもカウンセリングルームの経営の安定に関わる重要な問題があります。それは、宣伝の方法とそのスキルを手にしているか否かという、能力的または知識的な格差のことです。
すでに述べましたが、広告としてもっぱら電話帳に依存していた時代は終わりました。いまはネットを媒介とした広告がほぼすべてです。そのために、自分のホームページをしっかりと作る、ネット広告を配信する、ツイッターやフェイスブックなどのSNSに積極的に発信していく、などの努力を惜しまずに注ぎ込む必要があります。こうしたネットリテラシーに明るい心理士たちは、ネット上に露出の機会が増え、結果として多くのクライエントを自分のカウンセリングルームのホームページに誘導することができるでしょう。
ここです。つきつめると、現代では、このネットリテラシーを極める者と、不得手な者のあいだに様々な格差が生み出されていくように思われるのです。ここがうまくいかなないと、事業を拡大したくてもできないでしょうし、細々とした個人事業所の経営さえままならない事態にもなりかねないのです。これからカウンセリングルームを運営していくためには、実務はもちろんのこと、ネットリテラシーにも明るい臨床家を目指す必要があるのです。
おわりに
公認心理師資格のワーキンググループの討論の段階で、開業領域が蚊帳の外に置かれているなという印象を持っていたのですが、やはり蓋を開けてみると教育・医療・福祉・司法・産業の五大領域についての規定しか取り上げられていませんでした。とても残念なことです。私設心理相談室というジャンルは臨床心理学という学問の黎明期からあったわけですから、公認心理師法とその関連法案のどこかに一言でよいから取り入れてほしかったと、本当にそう思います。
ぼやきになりました。
言い忘れたことがあります。開業すると事業届を税務署に提出して、毎年税務申告する必要があります。あまりにも当たり前のことなので失念していました。いろいろとお得な面があるので、ぜひ青色申告にしてみましょう。地域の商工会議所に入会すると、いろいろなサービスを受けることができますので、それもお忘れなく。
長時間おつきあいくださり、大変ありがとうございました。若手の臨床家の皆さんは、10年ぐらい経験を積んだら、ぜひ開業のことをお考えください。大学院終了直後の開業は色々な意味で無謀ですから、それはおやめください。ではまた書きます。
日本心理臨床学会第38回大会が終わりました
さて、今年はシンポはなしです。いつもやっていた「治療的アセスメントについて考える」はまた次年度以降ということになります。
昨年に引き続き、研究発表を一題、単独で行ってきました。今年はPTSDを対象とした単一事例研究でした。来談の30年くらい前、幼少期に被った単回生のトラウマがその人の人生に甚大な影響を及ぼし、三カ月程度の時間制限のブリーフセラピーで劇的に改善した一例を報告しました。
いつものようにデイリーデータを分割時系列分析によって解析したもので、今回は特に身体性といいますか、内受容感覚の変化に注目しました。というのは、トラウマ/PTSDのセラピーが、最近になって身体感覚にアプローチするものが増えてきたような印象があったからです。私の行ったブリーフセラピーでは、クライエントの身体性にターゲットを絞って働きかけたわけではないのですが、PTSDの大きな症状、つまり特異的な外傷性記憶の侵入的想起(フラッシュバック)、回避行動、意識の過覚醒状態や狭窄などの回復に並行して、内受容感覚のさまざまな領域が肯定的に変化していったことが理解されました。効果量も大きかったです。
それにしても、フロアからの質問に答えられなかったことが一つあります。
対象としたクライエントは、インテークと、特に一回目セッションの直後に大きな変化を見せました。数量的に、大きなブレイクポイントがいくつもの変数に生起したのです。どうしてセラピーの最初期に急激に変化したのか、セッションの中で何か特別なことがなかったのか、そのような質問があったのですが、私は正直に「わかりません」と答えるしかありませんでした。いろいろな変化が見て取れるのは後半のセッションなのですが、一回目とインテークでは特に何も起こった感じがしていません。クライエントの許可をとってすべてのセッションを録画していますから、それを見返してチェックしたことももちろんあるのですが、何も特別なことは見て取れないのです。
分からないことを素直に分からないと言えること、本当に勇気が必要です。分かったような理屈を考え出してまことしやかに返答したとしても、私にとっては何の意味もありません。
いつだったかブリーフの黒澤先生がどこかでおっしゃっていました。ブリーフは本当に短期間で終了するので、クライエントに変化が起こったとしても、どうしてなのか分からないという趣旨のことです。私も今回同じことを口にしました。本当に分からないのです。
変化は突然にやってきます。長期的なセラピーであったとしても、変化そのものは突然に起こるものです。まあ、だから変化というのですけれど。少しずつ変化して、ある時点で質的な転換が起こる、これはマルクス主義経済学でいう量の質への転換です。この転換がどうして起こるのか、こたえようがありません。せいぜい、どのようにして起こったのかについては、しどろもどろに答えられるのかもしれません。
年を取ると口が達者になってくるものです。しかし、研究に関しては、データから分からないものについては沈黙を守るようにしたいと思います。とても勇気がいるのです。「うーーーーん、分からない」と口にすることは。
カウンセリングと医学モデルの関係
ナラティヴと心理アセスメント-協働的/治療的につなぐポイント
MMPI日本版にまつわる憂慮
多元的ブリーフセラピーの効果研究
すでにあったデータをまとめたものですが、私なりに工夫して作った短期療法の方法、多元的ブリーフセラピーの効果研究がかたちになりました。かなり前に出来上がっていたのですが、こうしてアップする暇もなくて、やっと初公開です。
効果量の算出と臨床的有意性の検定を行いました。効果量とか、臨床的有意性の考え方は、まだまだ日本の臨床心理学の世界では馴染みがないのですが、世界的なスタンダードに従った効果研究です。もちろん、いろいろな限界を含んでいるのですが。
結果は驚きです。我ながら驚きました。効果量が大であったり、臨床的有意性がクリアされたりで、出木杉の結果なのです。おそらく、数多くのバイアスを含んでいることは確実でしょう。しかし、脂の乗り切っていた頃の私の治療成績を反映しているとも言えるわけでして、きわめて私的な効果研究と考えていただけると幸いであります。
論文執筆にあたって必須の、効果量と臨床的有意性については、また機会を改めて書かせていただこうと考えています。では、効果研究の要約部分のみ記載することにします。この論文は、おそらく来年度に発表できるでしょう。
要約
本論は、筆頭著者の私設心理相談室に来談したクライエントについてセラピーの成績を分析した、きわめて個人的な効果研究である。
第一研究における分析の対象は、ある期間に私設心理相談室に来談した53人である。彼女らを、時間制限短期療法である多元的ブリーフセラピーに導入した。インテークから初回セッションまでが○○±○○日、初回セッションから最終セッションまでが○○±○○日、最終セッションからフォローアップまでが○○±○○日、平均セッション回数が○±○回、であった。対象者には、インテーク、最終セッション、フォローアップの際に、STAIとPOMSを計3回実施した。分析の結果、フォローアップの時点で、STAIの特性不安(d=1.47)、POMSの緊張-不安(d=1.31)、抑うつ-落込み(d=1.74)、怒り-敵意(d=0.93)、活気(d=0.88)、疲労(d=0.78)、混乱(d=1.20)について、中から大の効果量(d=0.78~1.74)が認められた。
第二研究における分析対象は、上記の心理尺度についてインテーク時に逸脱値を示した高得点者である。フォローアップの時点で、STAIの特性不安(N=45, d=1.79, 改善率68.89%, 臨床的有意性[アリ])、POMSの緊張-不安(N=35, d=1.23, 改善率71.43%, 臨床的有意性[アリ])、抑うつ-落込み(N=43, d=2.49, 改善率74.42%, 臨床的有意性[アリ])、怒り-敵意(N=26, d=1.81, 改善率80.77%, 臨床的有意性[アリ])、活気(N=34, d=1.29,改善率64.71%, 臨床的有意性[ナシ])、疲労(N=30, d=1.52, 改善率60.00%, 臨床的有意性[ナシ])、混乱(N=41, d=1.69, 改善率70.73%, 臨床的有意性[アリ])について、効果量の算出と臨床的有意性の検定を行った。その結果、すべての変数が大の効果量を示し(d=1.23~2.49)、活気と疲労以外の5変数に臨床的に有意な低減効果が認められた。
以上の結果から、多元的ブリーフセラピーは、不安、抑うつ、怒りなど、クライエントの気分の落ち込みや感情の高ぶりに対して、私設心理相談室という構造的枠組みのなかできわめて高い静穏効果を発揮することが理解された。
効果研究における時系列データのスパン
それとは別に、何らかの心理テストを毎日行って、デイリーデータを効果判定のために使う場合もあります。その際には、基本的にはベースライン期、介入期、フォローアップ期にセグメントを分割して、いわゆる分割時系列分析を行ってレベルやスロープの変化を検定するわけです。
さて、上に述べた二つの方法を使って効果研究をしている私ですが、研究を進めるにつれて頭を悩ませるようになりました。こんなことが起こってきたのです。
たとえば抑うつ気分に対するセラピーの効果を調べているとしましょうか。単一事例研究です。BDIをインテーク、最終セッション、フォローアップに行います。RCIを計算すると、臨床的に有意な抑うつの変化が認められます。デイリー・データはPOMSの下位尺度Depressionでとるとします。しかし、時系列分析をやって検定すると、レベルの変化がないのです。(反対もまたしかり)
デイリー・データの検定結果と、節目で行うテスト結果の矛盾。
同じ抑うつでも測っているドメインが微妙に違っている、これも理由の一つかもしれません。デイリー、ウィークリー、マンスリーの違いにも起因しているのでしょう。
自分が出したい結果を事前に熟考してそれに適合した特性を持つ尺度を選択したり作成したりすること、さらには出版バイアスも絡んでくるでしょう。
私はかつてエビデンスとは無縁の人間だったのですが、いまはその世界に分け入っています。すると、いろいろなことが見えてくるのです。エビデンスの世界も、まさに作られている、構築されているのだと。
意味不明になってきました。もとい。
特に感情領域に関するカウンセリングの効果研究をしていると、デイリー・テータとマンスリー・データという、スパンの違いによる結果の齟齬がますます明瞭になってきました。都合の良い方のみ取り上げて、出版バイアスもろだしの成果を発表するのは、フェアじゃないなと思います。感情に限って言えば、効果研究はマンスリーの方がいいような気がしています。今の段階では。それが、臨床的に感じるセラピストとしての感覚ともかなり一致しています。
でも、デイリー・データの凄味も肌で感じており、まだ答えは出ません。
ブリーフの森俊夫先生が逝ってしまった
2013年のことでした。ある学会のシンポに森先生をお招きしたことがあります。その時のお話を少し書きたいと思います。
シンポでの発言は、まあよいでしょう。私の思い出となっているのは、夜の懇親会で交わした言葉と、学会会場の喫煙室で交わした言葉です。私も森先生もスモーカーでした。二人で一服しながら何気なくかわした言葉が忘れられません。
森先生は、私にこう言いました。「ブリーフはいいよー。たまらなくて」 先生の、あの笑顔で。
それに対して、私はこんなことを答えたと記憶しています。長期の継続カウンセリングをやってきた自分は、たまってしまったクライエントとかかわるだけで新規の方々を新たに受け入れることが困難となり、それで今はもっぱら短期療法を行っていると。
「ああ、そうなの」
こう応答して、森先生はこの話題をこれ以上続けず、他の話題に移っていったような気がします。
北海道に戻って、数日がたったある日、突然あることがひらめきました。こうです。「たまっている」という言葉には、別の意味があったに違いないと。
森先生がエリクソニアンであることを忘れていたわけではないのですが、「たまる」にはクライエントがたまっていくという意味のほかに、「あんた、たまってんじゃないの」的な意味があったような気がしたのです。
うーむ、確かにたまっている。いろいろなことが。だからいまも、もがいているんだな。
ジワーッと効いて、ある日突然気が付く、そんな浸透力のある言葉を発するのが、もしかしたら森先生なのかもしれないと思った私です。
クレッチマーの性格論を取り入れた見立てもナイスでした。森先生によると、私は循環と粘着のミックスなのだそうです。これ、ドンぴしゃです。セラピーで言えば、ロジャーズ的な流儀も、パールズ的な流儀も、いずれも捨てがたいのです。粘着に関しては、自分の穴をずっと掘り続けてきた点でも納得できるのです。俺流といいますか。循環に関しては、喫煙室での接近戦といいますか、生身の私を肌で感じ取っていただいたご感想なのだと思います。(自分としては、クレッチマーの分類にはない「非定型」というのが一番しっくりきます)
今年度のブリーフサイコセラピー学会は、私の勤務校で開催されます。森先生と再会できることを楽しみにしていたのですが、それはもうかないません。たった一度しかお会いしたことがないのに、なんだかずっと心の中に住みこんでメッセージを発し続ける方といいますか、一度お会いしたら忘れられない方なのです。森先生のお弟子さんたちは、きっと深い悲しみと喪失感の中にいることと思いますが、私もなんだかさみしい感じがしています。一度しか会っていないのに。
森俊夫先生のご冥福をお祈りいたします。
感情的洞察力と感情成分の関連
さて、カウンセリングを生業とする私ですが、時系列分析を学ぶにつれて分かってきたこと、驚いたことなどを呟きたいと思います。
ある心理尺度を使って、クライエントの協力の下、日次の時系列データを収集しています。その尺度には、抑うつ、不安、など、通常の感情成分が複数と、マインドフルネスに類似する感情的洞察力が盛り込まれています。
こんなことが分かってきました。
われわれ心理士は、特に洞察指向のカウンセラーであれば、クライエントの感情的洞察力が高まった日には感情成分が穏やかになる、つまり数値としては低くなると考えるはずです。感情的洞察力と感情成分のあいだには負の相関といいますか、いや、負の回帰があると考えるわけです。しかし、感情的洞察力と感情成分のあいだには、それだけにとどまらない、いくつかの連動のパターンがあるようです。
いまわかってきたのは、日次の時系列データを基本として考えると、①感情的洞察が高まると感情成分が穏やかになるという負の回帰のパターン、②感情的洞察力と感情成分の変動が無関係のように推移し、互いにかい離している、連動していないかのようなパターン、そして、③感情的洞察が高まると感情成分の数値も高まってしまう正の回帰のパターンです。
これらのパターンにどのような意味があるのか、今考えています。少しずつその意味が見えてきたので、来年あたり成果を発表するつもりでいます。感情を感知することがすなわち動揺に直結しているのが③です。感知することが心の平静につながっているのが①です。②はまさに解離といえるでしょう。感情が彷徨っているのです。おそらく、①と②と③のあいだをスイッチするようなブレイクポイントが、セラピーのプロセスの中で起こっているはずです。
時系列分析から、クライエントをこれまでとは違った視点から理解して援助する方法が見えてくるような気がしています。まだまだ勉強しなければ。
ではまた書きます。
時系列分析による事例研究
シングル・ケース・スタディ、単一事例研究といえば、応用行動分析のスキナーの伝統があると思います。スキナー派の行動分析では、これまで、統計的な解析はあまり行われてこなかったのですね。意外ですけど。最近は、いろいろと言われていますけど、統計解析のフィルターをくぐっていなければ、やはり効果のことをうんぬんとはできないのでしょうね。
時系列分析と言えば、ハミルトンの教科書が標準です。やっと、私はやっとここにたどり着きました。でも、数学的な世界なので、チンプンカンプンなのは否定できません。振り返れば、若いころ経済学、特にマルクス・エンゲルスの経済学にはまっていたのですが、対極にある計量経済学はパスしていました。1980年代のことです。しかし、1980年代の業績で2003年にノーベル経済学賞を受賞したのが、あのグレンジャーなのですね。
最近、グレンジャーを読んでいます。共和分とか、因果性とか、インバルス応答分析の領域です。奥深いですね。雁相関ならわかりますけど、見せかけの回帰について深く考察し、その後の時系列分析の標準を作ったのが彼なのですね。
ARIMAモデルによる分割時系列分析は、臨床心理学を指向するものにとって必須と思いました。でも、なにせサンプルサイズの問題がついて回るのですね。ひとつのセグメントにつき40~50は必須のようですから、なんといいますか、ベースラインのそれが不足してしまうのです。感情のボラティリティについて解析したくても、GARCHモデルにのせるには、それだけのサイズが必要です。
統計学を専門とする先生にお願いしたいところです。サンプル数がかなり少なくても、時系列分析が可能な手法を開発してください。最近だといろいろあるのですが、まだ不十分のようです。MCMCやブートストラップ法の展開に期待です。
臨床心理学、応用行動分析、カウンセリングを専門とする人たちは、これからは時系列分析を習得する必要があります。Time series analysis です。エビデンスといいますか、実証的に考えるのであれば、この分野の発展は不可欠なので、私のような事例研究至上主義の人間は目くじら立てずに時を待つのがよいでしょう。
河合ハヤオ的な事例研究か、時系列分析による事例研究か、別れ道ですかね。この先どうなっていくのか、推移を見守っていきたいと思います。頑張れユング派!!、そしてスキナー派!!
採用試験の適性検査としてMMPIを使用すること
2013年のことです。こんな記事があります。「愛媛新聞オンライン2013.6.28」です。
http://www.ehime-np.co.jp/news/local/20130628/news20130628807.html
内容は、公務員の採用試験で適性検査を行ったのだが、その中の一つとして組み込まれている心理テストのMMPIに含まれている質問項目が、人権侵害に当たるのではないかというものです。具体的には示しませんが、性的な内容を含む質問項目がいくつかあり、受験者はそれに対してイエスかノーで答えなければならないのです。
当時、性的なマイノリティの団体から抗議文が出されたり、2013.5.29の国会の法務委員会で議論され、議事録も残っています。
さて、いろいろ考えてみましょう。
国や、地方自治体や、企業の多くは、採用試験の際に、必ずと言ってよいほど適性検査を行ってきました。そのなかには、いわゆる心理テストも含まれています。作り話ですが、例えば、ある企業で「最近の新入社員は性格的におとなしいのばかりだ。今年は、ちょっと攻撃的で、バリバリ仕事をしてくれる人材を採用しよう」ということになれば、性格テストを行って攻撃的な性格の新人を採用するわけです。人間を選別するわけですが、心情的にはともかく、企業にとっては合法的な心理テストの活用になります。
昨年問題になったのは、採用試験に心理テストを使うこと自体ではありません。その中身が疑問視されたのです。それも、人権を侵害するのではないかという、穏やかではない訴えでした。
あなたならどうしますか。採用試験なり、その面接で、自分の性的な志向性を面接官に質問されたら、答えますか。おそらく、返答に窮するでしょう。はっきりいって、それが面接での質問なら、セクハラ面接になるはずです。
数年前から、性的な内容の質問項目を含むMMPIが採用されてきたらしいのですが、事の重大さが気づかれないまま使われてきたのは、おそらくそれがテストに含まれるいくつかの質問項目だったからなのでしょう。その質問項目を、対面式の面接で面接官が尋ねたとしたら、すぐさまセクハラ!!!ということがわかるでしょうが、そのようなわけで見えないものにとどまり続けたのではないでしょうか。
私は地方自治体などの採用試験には関知していませんが、一人の心理臨床家として、その性的な質問項目を含んだMMPIを使うことが多いです。私はあまり使いませんが、広く使われているぺっくの抑うつ尺度BDIにも性的な項目が含まれています。なぜ使うのか。それは、援助を目的としたときに優れた力を与えてくれる心理テストであるからです。
インフォームド・コンセント、あるいは契約の上に成り立つ臨床の場面でこのようなテストを使うことと、採用試験の場で使うことには、やはり大きな意味の違いがあるように思います。人権を侵害する使い方にならないように、やはり採用試験で使う場合には、様々な注意が必要に思います。もちろん、臨床場面で使う場合にも、クライエントの人権を侵害しないように、細心の注意を払って使う必要があると思います。クライエントの主訴が性的な問題でない限り、いきなり性的なことを聞き出すカウンセラーが×なのは言うまでもないでしょう。
採用試験に性的内容を含む心理テストを行うときには、これには性的な内容が一部含まれています。それに関しては、回答を拒否するのも、答えるのも、受験者の自由であり、答えなかったからと言って不利益を被ることはないと確約することが、まずは必要だと思います。しかし、おそらく、国会で議論されるに至ったことでもありますし、今後、地方時姿態などの採用試験には、性的質問項目を含む心理テストは利用されなくなっていくような気がします。個人的には、ぜひそうなってほしいと思います。性的な悩みがあるとかないとか、性生活に満足しているとかいないとか、ふつうじゃない性にはまったことがあるとかないとか、せいてきよっきゅうがいぜんよりなくなったとかどうとか、なかなか答えにくいですからね。答えるほうの身になると。
ではまた書きます。
研究倫理と多重関係
今回は、研究倫理と多重関係についてつぶやきたいと思います。
2013年に発刊された雑誌「臨床心理学」の第13巻3号(75)の特集は、「研究の方法を知る」でした。このなかに敬愛する金沢吉展先生の「臨床心理学実践研究の倫理」という一文があります。今回は、この中に書かれていることから、いろいろと夢想してみます。
金沢先生は、臨床心理学における倫理原則を、次のような七つにまとめています。
1.相手を傷つけない。
2.専門的な行動の範囲内で相手の健康と福祉に寄与する。
3.相手を利己的に利用しない。
4.一人一人を人間として尊重する。
5.秘密を守る。
6.インフォームド・コンセントを得る。
7.人々を公平に扱い、社会的な正義と公正と平等の精神を具現する。
金沢先生の記述のなかで私の胸を打ち抜いたのは、次の記述です。
「ここで、研究を行っている側が臨床家であるから、その研究者自身で援助を行うべき、と考える方もいるかもしれないが、それは相手との間に研究者-研究参加者と臨床家-クライエントという多重関係(原則3)を生むことになるため、その研究者自身は援助を行ってはならない。」
臨床家である人が研究者として分析することは、多重関係になるということです。それを回避するには、例えば事例研究であれば、同僚がペーパーを執筆するという解決策が述べられています。
みなさん、いかがですか。通常の心理学の実験的研究であれば、研究者本人が実験を行うことが常識であると思います。しかし、臨床心理学の場合、そこには多重関係が生まれてしまうわけで、実践的にクライエントとかかわる人間と、データを取って分析し、論文にまとめる人間は、異なるべきであるというのです。
この倫理規定に従うと、おそらく、ほとんどすべての研究が倫理違反を犯していることになるでしょう。たとえば、事例研究論文は自分で関与したクライエントのことを論文化するものがほとんどですから、こんなんはすべてアウトになるのです。臨床心理学系の学会賞を取った人たちはみな、重大な倫理違反を犯して受賞したことになるでしょう。
金沢先生には、以前一度シンポのコメンテーターをお願いしてお世話になったこともあり、この論文を目にしてからいろいろなことを考えさせられました。私も、多重関係に関して違反してきたことがわかり、反省を迫られたのです。どうしようか。私は自分で執筆する事例研究論文こそが重要であると考えてきました。もしもこのスタイルが多重関係という倫理規定違反に抵触するのであれば、方向転換せざるを得ません。
私がこれから進むべき方向。
研究のためにチームを組んで行うのが、一番良いような気がします。そうすれば、実践するものと、分析するものを分離することが可能です。チームでなくとも、信頼できる仲間と、ペアを組んで二人で分担するのもよいのかもしれません。いずれにせよ、一人で実践し、一人で執筆するスタイルの単著論文は、これから淘汰されていくような予感がしています。
最近、生まれて初めて共著論文を書きました。投稿したばかりで、まだ査読結果も戻っていません。単独研究から共同研究へと方向を転換していくうえで、私にとってマイルストーンとなるべき論文です。
少しずつ方向転換しよう。自分にとっての当り前は、すぐに非常識になる。一人で研究するのはもうそろそろやめにしよう。信頼できる仲間たちと、話し合いながら、協働して進んでいこう。
皆さんは、どう思いますか。研究における多重関係。今すぐに方向転換できなくても、近い将来に転換できるように、着々と準備しませんか。これはまだ一部の研究者が問題提起しているだけで、学会等の倫理規定に盛り込まれているわけではないのですが。ではまた書きます。
データ改竄と研究倫理
私の研究領域はカウンセリング心理学でして、研究が大成功したとしても、ノーベル賞とは無縁です。せいぜい、はい御苦労さまと一言かけていただけるとありがたい、そんな世界かもしれません。つまり、世界を揺るがすような研究領域とは言えないわけです。
しかし、実際の相談者の方々にお願いして、いろいろなリサーチをさせていただいておりまして、彼女ら/彼らには多大なご苦労をかけているわけです。そうした意味でも、心をこめて、精いっぱい研究させていただけることを感謝したいと思います。
さて、最近はブリーフセラピーの効果研究をしています。セラピーの効果を調べるために、相談者のみなさまには、事前テスト、事後テスト、フォローアップ・テストの三回データを取らせていただいております。
できるかぎりバイアスがかからないように、一人ひとりのデータの集計は、その人がすべてのカウンセリング・プロセスを終えてから行うようにしています。すべてのプロセスが終わるとデータを数値化してエクセルに打ち込んで行きます。一人終結するごとにです。
倫理的な問題があって、コントロール・グループをおかないデザインにしています。ですから、改善ありの判定は、評定尺度のカットオフポイントを頼りにしています。パーセンタイルで言いますと、セラピー開始前に70以上の尺度が、セラピー終了後に69以下に低下していれば、臨床的な優位を持って改善したと判定するわけです。改善群と非改善群の人数をノンパラで比較するという、極めて簡単なデザインです。
さて、ここで研究者個人の倫理が問われます。データ改竄の誘惑です。
データのなかには、事前テストで高得点であるものが事後テストで70までしか下がっていないものもやはりあります。ここで悪魔がささやくのです。一点くらい改竄してもよい、罪にはならないさと。もう一点下がるだけで改善群としてカウントされるのだと。
データ改竄の誘惑と、自分の倫理観がしばし対話を始めます。
みなさんはいかがですか。ここで簡単に誘惑に負けるようでは、研究者として失格です。もう、転職した方がよいでしょう。研究者として恥を知るべきです。誰も見ていないでしょう。しかし、やってはいけないことなのです。そんなこと言われなくても分かっているさと楽観している人ほど危ないかもしれません。自分もいつか誘惑に負けるかもしれない、気をつけねば、そのようにしていつも自分を自制している方であれば、過ちは起こしにくいはずです。
世界を揺るがすことのない研究領域であっても、データの改ざんだけは戒める必要があります。研究倫理の教育が、これからますます重要になって行くことでしょう。
それから、コツコツ研究していけばいつかは報われるとか、諦めなければ夢はかなうとか、そのような楽観的な展望は研究の世界には通用しないかもしれません。10年以上研究したが、結局何の成果も得られなかったなんて事が、この世界にはゴロゴロしているのです。まあ、だからこそ悪魔がささやき、倫理的に問題のある出来事がたまにマスコミをにぎわすような気もするのです。
人様に警告するより、私自身が自戒したいと思います。これからも倫理規定を順守していくつもりです。
不安に関する新たな発見
こういうことです。
私は、いま、ブリーフセラピーをもっぱら行っています。インテーク面接は、情報を収集するというよりも、短気力動精神療法のトライアル・セラピーのように行ってみます。つまり、クライエントが体験過程に初回からコンタクトするように、比較的インテンシヴに働きかけるのです。涙を流す方もいますし、とてもディープなカウンセリングになることがあります。
私はこのようなインテーク面接が始まる前と、終わった後に、STAIの状態不安を測定しています。インテークの前後で不安・緊張がどのように変化したのかモニターするのです。もちろん、このとき特性不安も測定させていただきます。特性不安は、ブリーフセラピーが終結するときも測定します。つまり、データとしては、インテーク時の前後の状態不安、セラピー開始前後の特性不安のデータが揃うわけです。
こんなことを発見しました。
インテークにおいて、状態不安が逸脱値から正常値に下降する人たちを状態不安変化群とします。そして、ブリーフセラピー開始時に特性不安が逸脱値を示していた人が終結時に正常値に下降するものを特性不安変化群とします。
なんと、インテーク時の状態不安変化群の93%が、終結時の特性不安変化群に当たることが判明しました。つまり、クライエントの特性不安に関するセラピーの効果を、インテーク時点で、状態不安の変化から予測することができるのです。まあ、ドロップアウトした人を含めると、88%の人たちを予測ということで、少し値が下がるのですが。
セラピー関係がクライエントに安心感・安全感を与えることで状態不安は下がります。それが、のちのちのセラピーの効果を予測することができるのです。反対に言えば、インテーク時に状態不安が正常値に下降しなかったり、あるいは上昇してしまう場合には、セラピー終結時に特性不安に変化がないか、あるいは悪化させてしまう可能性が高まるのです。
これ、ヴィゴツキーの発達の最近接領域の理論を応用した、ダイナミック・アセスメントそのものですね。クライエントのいまある否定的側面や肯定的側面をアセスメントするのではなくて、ポテンシャルといいますか、近い将来をアセスメントするわけですからね。精神医学・精神病理学の領域では、ブランケンブルグが見据えつつも実現することのできなかった領域です。
来年の心理臨床学会か、日心か、感情心理学会で発表するつもりです。かなり強い法則性が感じられます。実証的にも基準をクリアできそうです。
ではまた書きます。
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カウンセリングに向いている人、いない人
治療的/協働的アセスメントのインスティチュートを設立するには
ついこの間のことです。幸運なことに、スティーヴン・フィン先生のコンサルテーションを受ける機会に恵まれました。ありがたいことです。ケースに関する助言だけでなく、リサーチや教育に関することまで、懇切丁寧に話して下さいました。私が事前に彼に渡した翻訳原稿にはかなり不正確なところがあったのですが、それにもかかわらず本質をしっかりとつかんで、ちゃんと把握しているところが凄かったですね。一級の世界的な臨床家は、やはり一味違います。
この札幌にも、治療的/協働的アセスメントのインスティチュートを設立することができないだろうか。この手法を実践したい臨床家は、いまや札幌にはたくさんいます。これによって恩恵を得る相談者はたくさんいるはずです。
臨床家の皆さんは、いま勤めている職場環境で、できるかぎり原法に近づくよう、さまざまな努力をしているようです。しかし、技法の修正には限界があると思います。やはり、スタンダードな形式を守った、標準型の治療的アセスメントを行う施設が必要なのです。
資金が必要です。家を一軒建てるくらいの費用が必要です。治療的アセスメント専門のセンターを立てることができたら、そこに札幌市内の心理臨床家が本業の勤務時間外に集結して、活気のある施設にすることができるはずです。
天から資金が降ってこないだろうか。もしも・・・・・・○○があたったら・・・・。これ、不謹慎な発言ですね。
有志が集まって、互いに出資して、どこか部屋を借りることは可能だろうか。いや、無理でしょう。金銭的に恵まれた裕福な臨床家など、日本では考えにくいことです。
いま、考えています。治療的アセスメントの研究センターを作りたい。相談者の方々は無料か、低料金でお迎えしたい。そのかわり、研究にご協力いただけることが期待されます。臨床家たちはボランティアで実践し、研究を深めていく。
しっかりと企画して、どこか企業に出資をお願いすることも可能かもしれない。メンタルヘルスに興味を持っている企業に打診して、協力してもらい、研究成果を報告するかたちであればどうだろう。うーん、このご時世、甘いかな。
夢想。
ではまた書きます。夢で終わらせたくないですね、これ。
ヴィゴツキーの情動論が面白い
ヴィゴツキーを読んでいると、情動と感情をあまり区別しないで使っているような気がします。ヴィゴツキーの研究者に聞いてみたいところですが、いまの段階ではそんな印象を持っています。
ヴィゴツキーはとても情動を大切に扱っていました。当時の心理学は、情動など無用の長物と考えていたのですから、先見の明があったといえます。彼はスピノザの情動論に強く影響されていて、現代のダマシオなんかと類似する考えを述べています。
何と言っても、情動は発達するのだと考えていることが画期的です。低次の情動から、高次の情動へと、子どもの情動から大人の情動へと、それは発達していくのです。ジャクソニズムの影響が強いようです。低次と高次の転換点を演出するのは、思考ないし認知です。情動に意味ないし概念が介在することによって、受動性から能動性へと転換するわけです。
ヴィゴツキーにとって、感情が思考や行動を動かすわけですが、感情と思考の統一体で話を進めると、思考を下僕とする情動から、思考を主人とする情動へと発達するわけです。
子どもはもちろんですが、たとえば知的障害は、高次精神機能の発達不全として捉えられています。この場合も、呈示の情動が現われやすいです。高次精神機能が崩壊した精神疾患の場合も、低次の情動が発現します。ヴィゴツキーは、クレッチマーの原始的反応がそれであると指摘しています。爆発的な反応や短絡反応のことです。
情動に振り回されない、理性的な人間になることが究極の目的のようにも思われます。しかし、ヴィゴツキーの晩年の心理システム論では、ドラマなる概念が打ち出されています。ここでは、思考を主人とする情動によって構成される階層と、思考を下僕とする情動によって構成される階層が、葛藤を起こすことが論じられています。人格のダイナミズムはドラマである。
いま、悩んでいます。ヴィゴツキーは、どちらに進もうとしていたのでしょうか。情動の制御された理性的な人間でしょうか。それとも、理性的な部分と非理性的な部分が葛藤する揺れ動く人間でしょうか。私は後者なのだと思います。しかし、そうだとすると、ヴィゴツキーのスピノザ主義がどこにいってしまうのか、ちょっと分からなくなるのです。
うーん、しばらく考えてみます。ではまた。
[追記]
こちらに『ヴィゴツキーの情動論』を書いてみました。
→http://www7b.biglobe.ne.jp/~nopporo-counseling/vygotsky-emotion.html
心理士の専門性とは
さて、今年に入って、心理士の国家資格化に反対する方々が声明を発表するなど、内部的にいろいろな声が聞こえてきました。力動的な立場の心理士たちのようです。既得権益を守るために反対するのではありません。現在の案では、心理士の専門性が担保されないので、そのままで法案が通るとまずいのではないかというものなのです。
心理士の専門性とは何か。
大学あるいは大学院でのカリキュラム案を見ると、いまひとつ分からないところがあります。学部卒+現場での経験コースと、大学院コースの二本立てのようにも理解されますし、学部+大学院のような積み上げ式のようにも受け取れます。
おそらく、反対の声をあげている心理士たちは、学部コースの教育体制について疑問なのでしょう。学部を出て現場へ、そして受験となると、専門性が担保されないというわけです。社会福祉士などは、こちらの養成課程に近いと思うのですが、それではあかんというわけです。
積み上げ式なのか、二系統の養成コースなのか、どちらなのでしょう。
さて、むかしむかし、精神分析学というひとつの流派がありました。フロイトの身近にあったベルリンのインスティチュートなどは、分析家の候補生として、医師以外のものは認めていませんでした。しかし、フロイドは非医師であっても、優れた人材であれば、心理学・教育系(あるいはPH.Dをもつ数学者も)の人たちも受け入れるように指示しました。
しかし、医師のみに限定せよという立場を固守する流派や分析家個人もおりました。アメリカに渡った、カレン・ホーナイなどがそうでしたっけ。やはり、ここにも、分析家としての専門性は、医師に限定しなくちゃ守られませんよという主張があったわけです。おかげで、エーリッヒ・フロムが米国を離れて南米に行ってしまったのですが。
さーて、かつての精神分析の世界は、分析家は医師に限るべきである、そうしなければ専門性が担保されないと主張していました。けれども、その後、心理士などがどんどん参入していきました。
今回、日本でも、相同的な主張をする方々が出てきたようです。みっちり勉強した、専門性を備えた人間が心理士となるべきであって、学部卒のレベルじゃあ・・・・・というわけです。
心理士の専門性とは何か。
これ、私の理想論です。国家資格関連のカリキュラムとは何の関係もありません。私は思うのです。学部で臨床心理学を勉強して、大学院の修士課程で二年間学んだだけでは、即戦力にはならないような気がするのです。ということは、学部、修士に加えて、後期博士課程を修了した感じだと、現場に出ても即戦力になるような気がするのです。これ、理想です。米国のモデルですね。
私よりも上の世代の話をしましょう。もうすでに引退したか、そろそろ引退するか、そのあたりの心理士たちです。彼ら/彼女らは、学部教育を受けただけで現場に出た方が少なくないように思います。おまけに、当時は臨床心理学の科目などあまりなく、心理学系の科目を叩きこまれたはずです。そして、現場に出てから、血のにじむような研鑽をしていったのです。あの時代だったから、可能だったと、そう思います。
いまは、心理士になりたければ、修士課程に進学することが常識になっていると思います。しかし、修士課程を出てから現場に出たとしても、やはりみっちりと研鑽する必要があります。
何が言いたいのか、自分でも分からなくなってきました。だから国家資格化に反対するのではなく、学部卒による受験に反対するのでもありません。博士後期課程を基礎資格にせよと言っているのでもありません。
私なりに、もう少し心理士の専門性について考えてみることにしますわ。心理畑の外部の人たちから、わりとよく言われるのです。「中身が問われますよね」と。
ではまた書きます。
記録媒体の変化
すると、案の定、商品自体がほとんどまったくありませんでした。VHS単体の商品は皆無です。かろうじて、VHSとDVDの再生・録画機能が内蔵している商品が、どこにいってもひとつだけでした。それもまた金銭的に高価で、とても驚きました。数年前であれば、1万円を切るお値段で手軽に手に入ったものですが、4万円台なのです。
高いですね。
お店の御好意で、かなり勉強してもらいました。ほとんど半値で譲ってくれたのです。ありがとうございます。
はてさて、これから時間を作って、アナログからデジタルへの移行をしなければなりません。膨大な時間を要する作業になりそうです。いままでさぼっていた付けが回ってきました。仕方のないことです。
記憶媒体は、時代とともに変化します。もう、アナログの時代が終わり、デジタルが当然の時代となっています。私もすでに、新たに記録するときにはデジタルにしているのですが、以前のデータの管理までは手が回らずに、アナログのまま手つかずのままになっていました。
反省。
データの管理にとても労力を注がねばなりませんが、それも研究者の寿命が終わる定年までです。私はあと15年あります。助手を雇えるほどの大先生ではありませんから、すべて自分でやらねば。
ぼやきになってしまい、申し訳ありません。お見苦しい記事になってしまいました。
懐かしい再会
建物はそのままです。懐かしい。当時のまんまでした。そんなことよりも、お世話になった院長先生や、スタッフのみなさんと歓談することができ、感謝に堪えません。当時のスタッフは、あまり残ってなかったですね。でも、いろいろと親密にしていた男性看護師がいまや副院長になっていて、驚きももの木ですわ。精神医療について、在職していたとき、よく語り合ったことを思い出します。何人か、当時のスタッフとも歓談できて、ありがたいことです。
院長先生は、私にとって、いろいろな意味で恩人です。かなり時間をいただいて、いろいろなことを歓談することができました。自分はいま大学に勤めていますが、お話をしていると、まだ自分がその病院に勤務しているかのような錯覚に見舞われたほどです。在籍していた頃は、本当にいろいろなことを教わったなー。精神医療のなかで生きる心理士というアイデンティティ、なんだか院長先生に与えて頂いたような気がするのです。いろいろなことを任せて頂いて、とても自由に仕事していたような気がします。振り返ると、私はとても恵まれていたような気がします。
今日は、ただの日記です。私にとっては、とても思い出に残る一日になりました。
ではまた書きます。
統合失調症の子供を支える母親のカウンセリング
以前、精神科に勤めていた頃のお話です。統合失調症の方に対する援助だけでなく、その母親に対する援助をいろいろと行っていました。心理士としての立場ですから、もちろんカウンセリングを介したお付き合いになります。母親をカウンセリングで支え、その母親が子供を支えると言いますか、子供を支えている母親がくじけそうになったとき、一時的に母親の支えになるようなカウンセリングなのですが。
大昔に、子供を統合失調症にする母親、みたいな理論が流行った時代がありました。ベイトソンの理論を取り入れた、フリーダ・フロム・ライヒマンでしたっけね。もちろん、その後、フェミニズムの立場からけしからんと言って叩かれましたけど、当然でしょう。病原性の母親と言いますか、母親が子供を病気にする様な論旨でしたからね。
私が支えてきた母親たちは、ライヒマンのいうような方はほとんどいませんでした。ダブルバインドでがんじがらめになっているような方は、ほとんど体験しなかったのです。反対に、自分のせいで子供を病気にしてしまったのではないかと自分を責め、悩み苦しむ母親が多かったような気がします。
母親がくじけると、統合失調症の子ども(もちろん成人です)に悪い意味での影響を及ぼすことは必至です。ちょっとくじけても、崩れ落ちないように、支え続けること、それが私の仕事の一つであったような気がします。
精神科を離れたので、もうこのような援助はしていません。しかし、統合失調症が軽傷化したと言われる時代になっても、やはりご本人を支え続けるご家族はたくさんいらっしゃいます。そんなご家族、母親を支える援助がまたしたいのですが、いろいろな事情でいまはできそうにありません。
でも、いつか私は戻るでしょう。そこに。