南国雑記帳(全卓樹)

南国雑記帳(全卓樹)

(時代の黄昏に)過ぎ去った朝の光を振り返る 【ヤーコプ・ブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化」を読む】

#(時代の黄昏に)過ぎ去った朝の光を振り返る
##ヤーコプ・ブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化」

##全卓樹

現代思想 40巻8号(2020年9月臨時増刊号) p29-p33 [目次へリンク]


##(1)

近代欧州の精神は世界のその他と何が異なっていたのだろうか。過去数世紀の欧州の軍事的技術的優越の基層に、どのような資質が潜んでいたのか。19世紀半ば以来、地上いたるところで中心的な課題であったこの問いは、21世紀の極東でもその重みを減じてはいない。それはいまだに世界が、近代欧州の達成の影のもとにあるからである。衣服から音楽まで、科学技術から政治制度まで、形のあるなしを問わず、われわれの周りにその起源を近代欧州に辿れないものは無い。

科学技術がついに人間の知能や心の働きまでも捉え始めた今日、あるいはわれわれは、欧州が主導した「近代世界」から離れて、何か別の次の世界に突入しつつあるのかもしれない。そうであればこそ尚更、われわれの本質の一部となっている近代欧州の、筋の通った深い理解、そしてその十分な咀嚼が欠かせまい。新しい世界はそれを抜きにしては、住み心地良くも美しくもならないだろうから。

近代欧州を世界のその他の地域と分かつもの、また近代欧州をそれ以前の彼ら自身と分かつもの、それが形成された時代がルネサンスである。社会集団への溶解とまどろみから覚醒した個人、宗教や社会慣習の拘束から離れた自由な思考、身の回りの環境や制度の合理的再検討と再設計。今ではわれわれ誰しもが当然と考える、これら「近代的心性」が社会にはじめて広まったのは、500年ほど前のルネッサンス時代、欧州の南、アルプスの下のイタリアにおいてであった。こう語るのは「イタリア・ルネサンスの文化」の著者、ヤーコプ・ブルクハルトである。

この著書の出版は、今をさかのぼること150年余り前の1860年である。前後して世に出た書物に、1859年のダーウィン「種の起源」、1867年のマルクス「資本論」がある。あまり広く認知されていないとしても、ブルクハルトのこの歴史書は、欧州人の自己認識と世界認識を規定するうえで、その二著と並ぶほどの影響力を持った重量級の作品である。それは出版言語のドイツ文化圏で、そしてすぐに翻訳されて欧州各国で、長らく広く読まれ、さらに世界に広く訳されて、現代でも各国で新たな読者を得つづけている。

##(2)

ブルクハルトの描くルネサンス期のイタリアは、凶暴な権謀術数政治と気高い芸術的達成が共存し、我欲の暗い情熱と澄み渡った晴朗な精神が隣り合う、美しい悪夢のような世界である。興味の対象となるのは、歴史の流れそのものよりも、政治家にせよ軍人にせよ、人文主義者にせよ芸術家にせよ、ルネサンス・イタリアを形作った個々の人間の姿である。ブルクハルトの簡素で優雅な素描にかかる人物たちの人生の挿話には、どれも何かしら時や場所を超えた典型が見出される。時代を異にし国を異にして本書が読み継がれる理由の一つは、この小説的な芸術性であろう。

歴史用語としての「ルネサンス」は、フランスのミシュレに始まる。しかしこの言葉が呼び起こす、芸術と思想と騒乱に華やいだ時代模様は、他でもなくこのブルクハルトの著作に発するものである。

本書を紐解くとそこに見つかるのは、最初のルネサンス人と目されるフェデリコ二世である。神聖ローマ皇帝にしてシチリア王であるこの人物は、ラテン語、ギリシャ語、アラビア語を自在に操り、宗教や慣習の拘束を脱した王座の上の自由精神であった。彼を後世の啓蒙専制君主の先駆とみる人も多い。王国の中央集権化のためには手段を択ばず、身の回りをイスラム教徒の親衛兵で固めた。教皇に反抗して破門されたままエルサレムに十字軍を送るという、「破門十字軍」の奇行でも知られるフェデリコの姿は、一読、脳裏に焼き付いて離れない。

またそこにはもちろん、富裕な商都フィレンツェを、最も輝かしい文化と芸術の高みへと導いたロレンツォ・デ・メディチがいる。奇矯で華美な装束の貴公子にして、ミランドーラの新プラトン主義に深く帰依した詩人でもあったロレンツォは、著名な芸術家や学者のパトロンであった。同時に彼は、危険極まりない陰謀を打ち砕いて、メディチ家の主権を確立した容赦ない政治家、イタリア諸都市のバランサーとして、フィレンツェを率いた練達の外交家でもあった。マニーフィコという尊称を奉られたロレンツォは、多くの同時代人から哲人政治の生きた証とみなされた。

怪異な姿にも事欠かない。ヴィスコンティ家最後の専制君主、フィリポ・マリアの治めるミラノ公国の描写は、まるで21世紀の完成型全体主義国家の先取りのようである。そこでは国家の一切の手段と目的が、広壮な宮城の奥にこもる、たった一人の人間の安全の保証だけに集中する。この警察国家の城郭に足を踏み入れたものは、あらゆる方向から常に見張られ、外への合図を防ぐために、窓辺に立つことさえ許されない。

名目上は教皇庁に属するローマーニャの小国リミニの主にして、教皇軍やヴェネチアの軍の要として名を馳せた傭兵隊長、シギスモンド・マラテスタの姿も忘れ難い。裏切りと嗜虐趣味、近親相姦と妻殺しの疑惑、放縦と不信仰、不道徳の汚名のなか、自身詩人でもあった彼は学問芸術の保護に力を注ぎ、辺境のリミニに不相応な建築美と名声をもたらした。この怪物に魅入られたように、ブルクハルトは幾度となく立ち返り、多くのページを割いている。

教皇権と皇帝権との対立で、イタリアでは統一権力の出現が阻まれていた。拮抗した諸都市の政治的分裂のモザイクの中、ゴンザガ、エステ、ボルジア、モンテフェルトロといった中世貴族出の軍人や成り上がりの傭兵隊長たち、メディチ、ピッツィといった商人貴族からピッコローミニのような学者上がりの教皇まで、そしてアルベルティ、ラファエロ、ミケランジェロ、レオナルドといった芸術家まで、出自の貴賤も様々な人々が、自らの才能と幸運だけを頼りに、自己を極限にまで磨き上げ、世を美しく妖しく彩っていく。安全と安逸と予見可能な人生の退屈に悩む後世の人々に、この万華鏡がなんと輝いて見えることか。そして過剰な個性たちの人生を、列伝の形でブルクハルトに伝えた、ヴィッラーニ、コルナーロといった伝記作家たち自身にも、幕間のカーテンコールのように一章が割かれ、光が当てられるのである。

ルネサンスの表舞台を彩った著名人たちと並んで、無名ではあるが、やはり時代の不羈の精神を体現する人々も数多くみつかる。それらも同じように、あるいは更に心を打つのだ。自由思想家ピエトロ・パオロ・ボスコリはメディチ暗殺の謀反の罪で捕えられ死刑を宣告された。聴聞神父との対話を通じて改心した彼は、信仰者として死のうと決意する。しかし神父のどのような議論でも、また自らのどのような省察でも、キリストの愛の信仰に至る事ができなかった。断頭台の上に頭を載せたボスコリは、刑吏に向かって、もう一瞬だけ切るのを待つように頼んだ。ずっと試みて、いまだ神との合一に至れなかったので、この瞬間に全力で、最後の試みをしたいというのだ。

##(3)

この書には今の時代に直接の示唆を与える話も発見できる。それは例えば、人文主義の興隆と衰退を語った一章である。

宗教者でも法学者でもない知識人としての「人文主義者」。古代の知識の輸入者であり翻訳者である彼らの多くは、都市国家を支配する商業貴族や軍事貴族に仕えることを生業とした。統治術の指南教師として、また子弟の教育係として、さらには執事、統計官、外交官を兼ねた実務家として雇用されていたのである。

人文主義の教えで育った貴族の子弟たちが、長じて都市国家の指導的地位に就くと、都市の大学に修辞学文献学の講座を作って、人文主義者を高給で雇い始める。自身がいっぱしの人文主義者となる統治者の子弟も少なからず出て、治者のたしなみとして、人文学はいよいよ隆盛を迎える。ギリシャ・ローマに範をとった公的演説や、同時代史の編纂を通じて、人文主義者には世評をコントロールする力が生まれる。彼らの絶大なペンの力を、統治者たちも恐れることとなる。

しかし時代が進むにつれ、こういった古代の知識やレトリックは、いまや供給過剰のコモディティとなる。世に新知識を提供する代わりに、内輪の勢力争い学派争いに明け暮れて、哲学者というよりは傲慢なソフィストとみなされ始めた人文主義者たち。その間にも、自由思想をさらに突き詰めた合理主義、それに基づく専門的技術的な知、数学的な知が勃興してくる。

ルネサンスも後期に入ると、各都市国家で共和制が廃れはじめ、世襲統治権力が確立してくる。それに反宗教改革による、言論の自由の狭まりが追い打ちをかける。最後はイタリア全体がスペインとフランスに二分されて、諸都市も独立と主権を失ってしまう。人文主義者にはもう活躍の場が無くなってしまい、大学の片隅、そして各都市の文化演劇サークルなどで、ひっそりと息をつなぐことになったのである。

##(4)

この本を著したときのヤーコプ・ブルクハルトは、スイスのバーゼル大学で歴史と美術史を講じていた。アルプスの北に住む北部欧州の有閑人たちが、陽光にあふれ柑橘の花に香る南の国にあこがれて、イタリアを旅しては旅行記を著わす。これはゲーテ以来の、ドイツ文化圏の確立した伝統でもあった。本書を北欧人が南欧人にあてた一種の告白文、堅実で温和で安定した共和国スイスの真面目な市民ブルクハルトが、情熱的で破滅的なドラマに満ちた南国イタリアを旅して、その感動を連ねた告白文とみなす事もできる。

この本を読んだ者はだれしも、登場人物たちの事績を訪ねて、イタリアを旅したいと思うだろう。難しい話は抜きにして、現代の読者はこの本を、「地球の歩き方」や「ロンリープラネット」といった旅行ガイドの、より詳細でマニアックな知的アップスケール版として用いる事もできる。ブルクハルトはそれを著書への讃辞と考えたに違いない。彼の前著「チチェローネ」は、著者自ら年月をかけて捜し歩いて仕上げた、「イタリア美術ガイド」そのものに他ならないのだから。

##(5)

イタリア諸邦の主権喪失と外国勢力への隷属で、ルネサンス時代はあっけなく幕を閉じた。しかし人文主義思想はアルプスを越えて、フランスへドイツへ、スペインへオランダへ、イギリスへポーランドへ、果てはロシアへと広まっていった。そこでそれは形を変えて、合理主義思想、人権思想、啓蒙思想、科学技術思想の扉を、次々と開いていった。産業革命と富の急激な増加、技術革新、そして近代社会の出現は、ルネサンスの自由精神の探求の直接の帰結である。

ブルクハルトが生きた19世紀中葉は、そのような合理主義と産業主義の支配する世界であった。ブルクハルトには周囲の世界の進行がなじめなかった。彼にとって同時代の精神は、ルネサンス思想の鬼子、美と自由の輝きを欠いた裏切られた約束のように見えたのである。彼には迫りくる災厄が透視された。魂を失い平準化した精神の支配する欧州に「単純化する者たち」が現れ、社会を破滅に導くであろう。晩年の彼にとって幸いだったのは、予言した全体主義の到来を、自ら目撃せずに済んだ事である。

##(6)


出版から長い時を経た本書のルネサンス観については、その後の歴史学界からの様々な批判が寄せられている。ブルクハルトの歴史観は、おそらくは経済や社会全体のダイナミズムを余りにも軽視しており、政治と文化への過度の着目がみられるかもしれない。彼の書いた歴史は、エリートたちの思想と行動に偏りすぎで、諸階級の作り出す歴史の大きなうねりを捉えるには、その視野があまりにも限定的かもしれない。

しかしそのような批判は、本書の価値と魅力をいささかも減ずるものではない。運命論的信仰の呪縛の下にあった古い人間社会を、新しい時代へ凛として導いたものは、人間が自らを変革できる自由の力を自覚したことだ、とするブルクハルトの気高いヴィジョン。これはかつてルネサンスの時代の欧州で真実であったし、おそらくは今後のわれわれにとっても真実であると、筆者には思えるのだ。

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