研究ブログ

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土俵の上の伝承・土俵の下の伝承

 ここまでのブログでもみてきたように、素人さんたちの発言は私に対する批判として全く成立していません。その要因の一つは、前回も明らかにしたように、私が措定している言葉の定義を素人さんたちが履き違えているからです。このように出発点からボタンの掛け違いをしていては、対話が成立するわけがありません。研究者の言葉の定義を理解していないので、土俵の下で暴れているだけです。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200620.pdf

 論文のなかでは様々な専門用語が行き交っており、逐一は定義しませんが、研究者のなかで暗黙のうちに語義を共有認識している言葉もあります。そういう言葉の意味を知らないことが露呈すると、一気に素人感が出てきてしまうのでみなさんも気をつけてください。研究者どうしの暗黙の了解は、論文をたくさん読めば、感覚として身につきます。ゼミで毎週論文を読んでいるのは、そのための修行だと思ってください。

 わかりやすい一例をあげておきます。私は新書のあとがきで、「枚方市史の元担当者で、伝王仁墓など枚方市域の偽史について何かとご教示いただいていた田宮久史氏」と述べました。このなかの「教示」とは、『広辞苑』によると文字通り「教え示すこと」ですが、論文では謝辞で慣習的に用いられる言葉です。論文を執筆するにあたって情報を与えてくれた方に、御礼を述べるときによく使われます。ですから、身内にはあまり使いません。

 素人さんは、この一文をとりあげて、【1571】で「馬部隆弘氏は田宮久史氏から指導を受けたという。枚方市は定年制は存在しなかったのだろうか?」と勝手に上司と解釈しました。田宮さんは、私が枚方市に勤め始めたときにはすでに定年退職されていて、市役所近くの居酒屋などでいろいろなことを教えてもらいました。それなりの数の論文を読めば、素人さんのように「教示」と「指導」を混同するようなこともなくなるはずです。

 今回は、これと同じような事例のうち、私と素人さんたちの間で認識に最も隔たりがあると思われる言葉を取り上げます。それは「伝承」という言葉です。例えば、【264】で「馬部隆弘先生否定の七夕伝承はあるよ」、【389】で「伝承を無いものにするのも歴史改竄では?」、【583】で「地元にあった蝦夷のしゅうちょうの伝承も、処罰されたトウリョウの埋葬の伝承も、無いことになっています。歴史改ざんではないでしょうか?」と述べているように、私と素人さんたちとでは、伝承と捉えるものとそうではないものを区別する基準が異なるようです。

 素人さんは、自身の価値基準に基づき私が歴史を改竄していると断罪しますが、これは素人のやることです。以前、研究史の整理をとりあげたときに説明したように、見解の相違が生じる理由を踏まえながら議論を組み立てるのがプロの仕事です。つまり、それぞれの人の立場に立って、前提としている知識や認識まで視野にいれながら議論できるか、それとも自分しかみえていないかがプロと素人の違いといえます。

 『広辞苑』によると、「伝承」とは「①伝え聞くこと。人づてに聞くこと。②つたえうけつぐこと。古くからあった「しきたり」(制度・信仰・習俗・口碑・伝説などの総体)を受け伝えてゆくこと。また、その伝えられた事柄」とされます。①の意味では、極論を言えば、人の口づてに伝わった瞬間に伝承になります。昭和末期あたりから30年以上にわたって、しきりに人々の口から語られるようになった枚方市の七夕伝説などは、その意味では伝承にあたるのかもしれません。素人さんたちのいう伝承の定義とは、このようなものです。

 それに対して、歴史学や民俗学では、過去を考える資料として伝承を扱うので、その資料性を担保する条件が必要です。ただしそれは、「世代を超えて」「人々に受け継がれて」「それとはなしに」伝えられてきたという極めて漠然とした感覚的なものです。これらの条件が揃っていると、作為性や恣意性が薄いので資料たりうるわけです。念のために言っておきますが、ここでいう作為性とは伝承の内容についてではなく、伝承という行為に対して用いています。

 『広辞苑』の②の意味は、これを示したものと思われます。しかし、「世代を超えて」といっても、何世代以上からが伝承になるのかとなると示しようがありません。「人々に受け継がれて」といっても、何人以上からが伝承になると表現することもできません。また、「それとはなしに」といっても、人の意志が全く働かずに伝承などされるはずはないので、どこまで意志が入らなければよいのかというのも示すことが難しいです。このように明確に線引きできる性質のものではないので、研究上で用いる伝承の語義をわざわざ明文化して定義することはあまりありません。とはいっても、歴史学者や民俗学者は認識を共有していると思います。

 したがって、枚方市の宣伝工作という明確な作為性を指摘したうえで、30年程度では「世代を超えて」いないと判断する私の主張を研究者ならば素直に理解できると思います。しかし、伝承の感覚がずれている素人さんたちはそれを理解しようとしません。

 そのほか【61】で、「明治時代から #アテルイ が斬られたのは宇山という研究があり、「1972年3月井上薫「宇山に蝦夷を斬る」(『枚方市史』第2巻) アテルイの斬殺地に言及」という記載がある状態で首塚に伝承が無いわけではなくて」ともおっしゃいます。これは学説が受け継がれただけで、「人々に受け継がれて」いるわけではないので、我々研究者はこういうものも伝承とは呼びません。

 「それとはなしに」というのは、誰が言い出したのかわからないという意味でもあります。誰が言い出したのかがわかってしまえば、その人の言説なので、歴史学や民俗学ではそういうものは伝承としては扱いません。例えば【1899】で、「馬部隆弘氏は地元民の伝承は明治40年(1907)吉田東伍の大日本地名辞書から発生したもので伝承ではないと2020年述べたけど、歴史学では伝承の定義はそうなってるの?」とおっしゃいます。『大日本地名辞書』の記述は『日本紀略』という史料を吉田氏なりに解釈した学説です。その学説が広まることを、我々研究者は伝承とは言いませんし、そのような低次元の定義もわざわざしません。ある人が発した言説が、世間にどのように広まっていくのかという分析は、民俗学ではなく、どちらかというと社会学の範疇でなされるものです。

 よって、【1424】の「学者が作った伝承といえば、 #アテルイ の碑もそうで」という発言や、【1485】で「蝦夷が殺害されたという「伝承」は先祖代々のものではなく吉田東伍の学説から生まれたものだとうちも思う」という発言は、恥をさらしているだけです。さらに【1560】では「学者という巨大な影響力を持つプレーヤーが地域伝承に果たす役割を非常に軽視している」と述べ、【2646】では「なにより馬部隆弘氏が無視しているのは、学者の記録が伝承を作る作用では?」と述べています。これについては、まさにおっしゃる通りで、私は学者の記録が伝承を作る作用は無視しています。それの何が問題なのでしょうか。

 同様に、【871】では「少なくとも1970年頃伝承が発生していたらしいというのも「史実」です。」とおっしゃいます。そのような言説が発生したことは史実かもしれませんが、学説と同じで発生源がわかってしまった時点で伝承ではありません。【1229】で「ある証明は可能でも、伝承が無かった証明はなかなかに難しい。」とおっしゃいますが、稚拙な「伝承」であれば、その発生源を示すだけでないことを証明できますので思いのほか簡単です。【561】で「アテルイ伝承があったと記載した事すらも隠しているのですから。」とも述べますが、「伝承」の発生源が判明して伝承ではなくなったので、引用するだけ無駄だと判断しているんです。決して隠しているわけではありません。

 【344】で「寧ろ馬部隆弘先生は片山長三氏が牛石を牽牛石と名付けたことだけで伝承を捏造と呼んで「伝承という遺跡を破壊」しているのが馬部隆弘先生かもね。」というのも同じことです。昭和26年発行の文献で牽牛にまつわる伝承がないことを確認したうえで、昭和34年発行の牽牛石が初めて登場する文献を示し、その出発点を明示することができたので、この伝承も自動的に破壊されてしまいました。このように文献史学の方法で分析を進めているうちに、自動的に伝承が破壊されることもあるので、【262】での「歴史学者が神話伝承を相手にするのは邪道だと思う。」という批判も的外れです。【2490】では、「このままだと民俗学のテリトリーである地域伝承は「史実でない」という単一次元の価値判断に立つ歴史学の大学院生の研究の為に全部無いことにされてしまう。」とおっしゃいますが、その内容が「史実でない」からその伝承を破壊しているわけではありません。発生源がわかるようなものを伝承と扱うような民俗学者もいないと思うので、心配しなくても民俗学と私の間の協調関係は保たれます。

 先述のように、「世代を超えて」伝えられるものが伝承ですが、何世代以上からが伝承になるのかというのは示しようがありません。むしろ、何世代かもわからないからこそ伝承には資料としての価値があるわけです。これも研究者の間では常識だと思います。それに対して【1559】では、「1907年の学説が伝承を作った可能性はあるけど、では西暦何年の学説が造った伝承からは「伝承」なの?1733年「五畿内志」の学説からの影響だと何代かに渡ってるけど、馬部隆弘氏は伝承ではなく捏造と言ってる。基準が主観的で解らないし」と述べています。同様に【1682】でも、「その現象を「史実ではない」とか「学説から来たものだから伝承ですらない」と裁くのは変で。西暦何年以降だと伝承・伝承じゃないは主観だから。」と述べています。【2486】でも「西暦何年からだと歴史学的には地域伝承としてカウントされるのですか?」ともおっしゃっています。けなげで思わず笑ってしまいますが、伝承か否かは年数の問題ではありません。私の判断は決して主観的なものではなく、基準は極めて単純明快で出発点がわかるか否かなんです。

 伝承の認識が異なるため、面白い誤解もでてきます。例えば【2501】では、「馬部隆弘氏は最近枚方市宇山村に蝦夷の首長が処刑された言い伝えが存在した事は認めているけれど、それは1900年出版された吉田東伍早稲田大学教授の『第日本地名辞書』から来たものだから伝承ではないと述べてますね。少し変わったみたいです。」と述べています。ここでいう「最近」見解が「少し変わった」というのは、下記の論文を指して述べているようです。

「アテルイの『首塚』と牧野阪古墳」(『志学台考古』第20号、2020年)

 その点は、【2772】の「大谷大学紀要で旧宇山村地域に口承伝承が有ったのを出版後に記載しても、世間一般に出回るのは書籍の情報。」という発言からも明らかです。ここでいう「大谷大学紀要」に掲載されたのが2020年の上掲論文で、「書籍」とは、私が2019年に発行した『由緒・偽文書と地域社会』のことです。

 この二つの発言を整理すると、素人さんは次のようなことを言いたいのだと考えられます。2020年の上掲論文で、私は素人さんたちのツイッターを熟読したうえで批判を加えています。その過程で私は素人さんたちの意見もくみ取ったようで、2019年の著書では伝承がないとしていましたが、2020年の論文では「言い伝え」や「口承伝承」自体はあったとシレッと考えを改めて修正したらしいです。たしかにそれが事実ならば、私はとても卑怯な研究者です。

 素人さんが典拠としているのは、私の論文の「枚方市には蝦夷が殺害されたという「伝承」があると熱心に主張する方々もたしかに何人もいた。」という一文です。実際、毎週のように私の職場に来て、上述の主張を繰り返す暇なおじさんもいました。私は上掲論文で、歴史学・民俗学で伝承と呼ばれるものはカギ括弧なしで、出発点がわかるものはカギ括弧付きで「伝承」としています。このようにカギ括弧を用いて用語を整理するのも、論文ではよく用いるテクニックなのですが、素人さんたちは今ひとつ理解できていないようで、伝承と「伝承」を混同しています。

 そもそも上記の引用文では、「「伝承」があると熱心に主張する方々」が存在したと述べただけで、伝承はともかく「伝承」すら存在したとは述べていません。伝承とは、前述のように「それとはなしに」語られるものです。つまり、「熱心に主張する方々」がいるという一文は、「伝承」の片鱗すら感じられないという意味で記しました。このように一文一文まで、しっかり練って作文しているのですが、土俵の下では別の意味にみえるようです。

 土俵の下なんて見下すと、大学教員という権威を振りかざして素人を攻撃していると反論してくるでしょうね。【1250】でも「大学教員で博士という政治力で、地域社会の民俗文化を攻撃しているのが馬部隆弘氏で」とおっしゃっていますし。でも、土俵の下から座布団どころか、先に石まで投げ込んできたのは素人さんのほうなのでしょうがないですね。私は、土俵に転がっている石を上から落としているだけです。また、言うまでもないことですが、私は「民俗文化」と呼んで然るべきものを攻撃した記憶もありません。

 みなさんもまずは論文をたくさん読んだうえで、土俵の上にあがりましょう。研究者を表立って批判するのは、そのあとです。

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時期区分の有効性

 

 前回は、素人さんの動向に基づいて時期区分を試みました。今回は、その時期区分を活用しながら、素人さんたちの思考パターンについて分析してみたいと思います。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200619.pdf 

 以前も引用しましたが、私は「椿井政隆創作の文書を総称して椿井文書と定義し」ています(『由緒・偽文書と地域社会』306頁)。素人さんたちが椿井文書に初めて触れるのは第2期末期で、実質的には第3期から椿井文書に関する発言が始まります。その第3期には、【450】で「馬部隆弘先生は2005年に椿井文書とは椿井=椿井政隆作成の文書と定義し」と述べており、【494】でも「椿井文書は旧山城町椿井村椿井政隆が創作した偽文書と馬部氏は定義し」と述べているように、私の定義をきちんと理解しています。

 前回も述べたように、第2期に私への攻撃が盛り上がりをみせたころに、他者のツイートに刺激されて素人さんたちの発言が過激化し、オーバーヒート気味になるのが第3期でした。その第3期を経て、第4期に入ると椿井文書の定義に変化が生じます。【723】で「椿井政隆が書いた文書=椿井文書という定義」と述べ、【726】でも「椿井文書の定義は偽文書ではなく椿井政隆が書いたもの」と述べているように、私の定義に含まれる「創作」という偽りのニュアンスが失われ、椿井政隆が書いたもの全てが椿井文書とされるのです。

 さらに【739】では、「偽文書は偽文書はそうだけど、椿井政隆が作成したものが椿井文書だという定義なので、実在するかどうかわからない椿井政隆が作成した文書と証明しない限りは、たとえ偽文書であってもそれは #椿井文書 ではありません。」と発言が次第に難解となっていきます。【765】で「#椿井文書 の定義は椿井政隆作であって偽文書=椿井文書ではない」と述べているように、これは偽文書=椿井文書ではないという主張のようです。

 ところが、第4期も半ばとなり、やや落ち着くと、【813】では「馬部氏の #椿井文書 の定義は椿井政隆作の偽文書」と元に戻っています。私の新書が発売され、再びツイートが活性化する第7期の【1208】でも、「馬部隆弘氏は椿井政隆が作成した文書を #椿井文書 だと定義することで、椿井政隆の死後の時代も木津で偽文書を大量生産していた椿井家の仕事を見えなくさせようと画策しているとしか思えない」と述べるように木津に椿井家があるという誤解に基づいて私を攻撃していますが、椿井文書の定義そのものは本来のものに近づいています。

 そして、素人さんたちを批判した拙稿をみて、再燃するのが第9期でした。そこでは、【1787】で「椿井政隆由来の文書類を全て偽物とみてる馬部隆弘氏と藤田恒春氏の鑑定とは矛盾している」と述べるように、椿井文書の定義が明らかに変わっています。藤田氏は椿井政隆が中世文書を収集している事例を紹介されました。私はそのような収集文書を椿井文書と定義したつもりはないのですが、それをも含んだ「椿井政隆由来の文書類」を椿井文書と定義しているかのような発言が始まるのです。昨日の段階でも、【2830】で「椿井政隆関連文書が椿井文書と定義」と述べているので、素人さんのなかでは現時点でこの拡大解釈で定まっているようです。

 さらに、その後の一連のツイートを鵜呑みにした別の素人さんが、【2206】で「わたしは、ツイッター情報だけで、馬部隆弘『椿井文書』については、「馬部氏は『椿井文書』の定義を広げ過ぎている」と思ってしまってい」ると述べます。定義を広げたのは私ではなく素人さんなんですが、2000以上のツイート情報を積み重ねることで、それらしくみえてしまうのがおそろしいところです。このように第9期には、ネット情報に依存してしまうと、とんでもないことになってしまうという教科書的な反応までみせてくれます。

 以上の事例をみてもわかるように、時期区分と発言内容の変化には対応関係があります。今回示すことができたのは、気持ちが盛り上がっているところに外的インパクトを与えると、私への攻撃が常軌を逸すようになり、発言も次第に支離滅裂になっていくという傾向です。当初は正しく理解していても、頭に血がのぼるうちに、どんどん認識が変わっていくようです。我々が普段読む史料は、仮に頭に血がのぼっても、のちに冷静になってから記すものがほとんどなので、人間の心理がここまで直截に反映されることはありません。臨場感溢れる史料編は、かなり貴重なものといえるでしょう。

 3000弱のツイートをただ並べると、延々と私に対して単調な攻撃を続けているようにみえます。そこに時期区分を設けると、それぞれの時期の特徴を踏まえることができるので、変化を析出しやすくなります。そして、その分析結果が説得的であれば、時期区分の妥当性も改めて補強することができます。みなさんも実践してみてください。

 あと、くれぐれも言っておきますが、頭に血がのぼっているときに記録に残るようなことはしないほうが身のためです。

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史料収集と時期区分

 研究者には、理論的な人と実証的な人がいます。もちろん、二者択一ではないし、同じ人が書いた論文でも、扱うテーマによって傾向が変わったりもします。歴史学の場合、理論が先行しすぎると、次のような現象が起こりがちです。すなわち、自身の理論に都合のよい史料ばかりを集めて、さも自説が立証されたかのような考察に陥るケースです。それに対して、実証だけに留まってしまうと、いったい何を主張したいのかわからないという状況に陥ってしまいます。したがって、理論と実証はバランスがとても大事です。

 私の場合、そのバランスを保つために、できるだけ次のような三段階で作業を進めるようにしています。これは企業秘密だったのですが、初めて論文を書く人にはおすすめの方法ですので、遠隔授業の期間限定で公開します。

 まず第一段階は、何かしらの大まかなルールだけ設定して、何も考えずに史料をひたすら集めます。例えば、Aという武将を研究するのであれば、彼が出した手紙をまずは網羅的に集めます。第二段階は、相当量のデータがたまった段階で、数的変化をもとにした時期区分を図ります。手紙が多く出される時期や途切れる時期、ある文言が使用される時期や使用されない時期など、元データの数さえ集まれば、分類基準はいくらでも想定できます。そして第三段階で、そのような変化が生じた理由を史料を読み込みながら考察していきます。こうすることによって、第一段階と第二段階までは極力先入観を入れずに作業を進めることができます。それでいて、時期的変化の背景を分析するという明確な目的はその先にあります。そして、その分析を起点として研究対象の内面をどんどん掘り下げていきます。

 この方法だと、元データの数が多ければ多いほど、客観性の高い、安定感のある議論が可能になります。したがって、理論と実証のバランスは崩れにくいです。一番大変なのは、第一段階の作業を継続するモチベーションの維持です。一番よいのは、いっぺんにまとめてやるのではなく、普段の日課に組み込むことです。貯金箱もなかがスカスカの時は楽しみがありませんが、半分を超えてくるといっぱいにしてやろうという野望も出てきます。ですので、最初のうちは一日一回投入するというルールを作ったりします。それと同じで、史料集めも最初はしんどいですが、そこそこたまり始めると、あとは軌道に乗ってきます。一日何ページ史料集を読むとか、目標を設けるなどの工夫が必要です。このブログを始めたのも、みなさんと対話するというのが第一の理由ですが、実は単調な作業を継続させるための工夫でもあります。

 察しのいい人はおわかりでしょうが、今回は下記史料編の時期区分をしてみたいと思います。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200614.pdf

 まだ試案ですが、現在のところ、以下のように10期に時期区分できるのではないかと考えています。

第1期2017年8月14日~2019年5月9日(【1】~【26】)634日で26ツイート
第2期2019年5月10日~2019年5月19日(【27】~【180】)10日で154ツイート
第3期2019年5月20日~2019年5月29日(【181】~【536】)10日で356ツイート
第4期2019年5月30日~2019年7月12日(【537】~【1025】)44日で489ツイート
第5期2019年7月13日~2019年9月23日(【1026】~【1047】)73日で22ツイート
第6期2019年9月24日~2020年3月18日(【1048】~【1054】)177日で7ツイート
第7期2020年3月19日~2020年3月26日(【1055】~【1287】)8日で233ツイート
第8期2020年3月27日~2020年4月5日(【1288】~【1448】)10日で161ツイート
第9期2020年4月6日~2020年5月25日(【1449】~【2602】50日で1154ツイート
第10期2020年5月26日~2020年6月13日現在(【2603】~【2799】)19日で197ツイート

 時期区分の根拠は次の通りです。(少数点以下第3位を四捨五入)

第1期 1日あたり0.04ツイート 稀につぶやき始める。
第2期 1日あたり15.40ツイート つぶやきが急増する。
第3期 1日あたり35.60ツイート さらにつぶやきが増加する。
第4期 1日あたり11.11ツイート つぶやかない日が出始める。
第5期 1日あたり0.30ツイート 連日つぶやくことはなくなる。
第6期 1日あたり0.04ツイート ほとんどつぶやくことがなくなる。
第7期 1日あたり29.13ツイート 突如として激しくつぶやき始める。
第8期 1日あたり16.10ツイート つぶやく数がおちつく。
第9期 1日あたり23.08ツイート 再度つぶやく数が急増する。
第10期 1日あたり10.37ツイート つぶやく数が改めておちつく。

 第1期は私に対する反応がほぼありませんので、第2期以降のここ1年余りでの平均値を出すと、1日あたり6.92ツイートになります。これを基準値にすると、それより上か下かで素人さんたちの様子の変化がよくわかります。元データが3000近くありますので、かなり明確な時期区分ができますし、数字によってその時期区分の客観性も保たれているかと思います。

 それでは、それぞれの時期における変化について、その背景を考察していきます。第1期は、「眞葛原雪 @pririn_」が私の説に対して疑問をなげかける時期です。2017年から2年弱ほど、散発的な発言が続きます。第2期終盤の【173】で「椿井文書、最近まで注目してなかった。」と初めて椿井文書に触れているように、第1期は私の研究のうち、アテルイの首塚に関する説にしか触れません。

 続く第2期は、突如として発言が攻撃的になり始める時期です。2019年1月23日の【26】から私に対する発言はしばらくなかったのですが、5月10日の【27】を手始めに堰を切ったように攻撃が始まります。発言が過激化した理由の一つは、同じ日の【46】で「𦮙 @TaniYoko」が「歴史学を利用した当たり屋行為では?」と私に対する発言を始めたことにあるのは明白です。つまり、仲間を得ることによって、自分たちは正しいことをしていると思い込み始めたのです。

 攻撃が始まった背景は、【1597】で「令和元年5月に宮川氏へ問い合わせたということは、私が枚方市立図書館を訪問した個人情報は馬部氏へ筒抜けだったんだろうね。馬部氏にみんなで反論するつもりなんですとお伝えしたので。」との発言から判明します。つまり、「みんなで反論する」協定を結んだのが第2期開始の背景といえます。なお、「筒抜け」に関しては完全な誤解です。枚方市と私の関係についてはご存知の方も多いと思うので、これ以上踏み込むのはやめておきましょう。

 第3期は、ツイートの数が倍増し、その内容がさらに攻撃的になる時期です。その要因の一つは、アテルイの首塚に対する発言のみではなく、先述のように第2期終盤に椿井文書に対する発言も加わりはじめたことにあります。第3期の始まりは5月20日ですが、この日を境にツイートが倍増する原因は、素人さんたちとは別の方が5月19日午後10:21につぶやいた下記のツイートにもあると考えられます。

「馬部隆弘先生が神君伊賀越えについて書いてると聞いて『枚方の歴史』を読んでいるのだが、「枚方では史跡の捏造が官民によって行われているが、もはやお国柄だよね」という聞く人が聞いたら殴られそうなキレッキレ節があってヤバい」

 この一言が拡散したため、素人さんたちが過敏に反応します。私は『枚方の歴史』のなかで、次々と偽史を編み出すだけの「金銭的・時間的余力」があることから、枚方周辺地域の「生活水準や知識水準の高さを評価」しています。素人さんはこの一文について、【511】で「枚方を教育レベルと収入が低いと言」ったと全く逆の意味に曲解し、【360】で私が「枚方市民の民度をなじる」と虚言を綴ります。このように頭のなかがオーバーヒート気味になるのが第3期です。

 第4期、第5期、第6期と次第に減少するのは、言いたいことをひととおり言ったので落ち着いたからでしょう。それでも第4期がまだ多少盛り上がっているのは、7月7日に近づいているからです。今度は、七夕伝説に関する私の説に対して、何かと物申したいようです。そして七夕からしばらくのちの7月13日になると、ツイート数も減少して第5期が始まります。こう判断する根拠は、次のページにもあります。

枚方市・交野市の #七夕 伝説はでっちあげ?

 このまとめページを作ったことで、七夕伝説に関して言いたいことを言い尽くしたので落ち着くわけです。続く2019年9月24日から2020年3月18日までの第6期は、約半年間で7ツイートなので、ほぼ放置状態です。第1期と一日あたりのツイート数が0.04回と一致するので、特にきっかけがない場合は、私に対する関心はこの程度ということもうかがえます。

 そして、3月19日の【1055】に始まる第7期に再びツイート数が増加します。私の著書である中公新書『椿井文書』が、3月18日に発売されたことに触発されたのは間違いありません。この新書がツイッター上でも話題になり始めたので、イライラしている様子がよく伝わってきます。しかしその一方で、これは素人さんたちにとっても、自分たちの主張を世間に広める大チャンスでした。そのように考えていることは、次の点からも明白です。これ以前は、アテルイに関するツイートには「#アテルイ」、椿井文書に関するツイートには「#椿井文書」ときっちり整理していたのですが、中公新書の発売と同時に、私に対する発言には全てに「#椿井文書」とハッシュタグをつけるようになるのです。これのおかげで、私に対する発言の検索は容易になりました。

 3月21日の【1123】では、「ReiGonozawa @RGonozawa」がツイッター上での私への批判に合流します。これによって、三つ巴となって攻撃がさらに激化します。ただし、もともと現実世界でつながっていたことは明らかです。なぜなら、前掲の【1597】で「令和元年5月に」「みんなで反論するつもり」と発言しているのがこの素人さんだからです。

 では、3月27日の【1288】に始まる第8期で、素人さんたちが落ち着く理由を考えてみましょう。言いたいことを言い尽くしたら、だんだんツイートの数が減少していくのは先述の通りです。しかし、前回とは状況が異なります。というのも、新書が発売されて、ツイッター上では椿井文書の話題がどんどん出てきている時期だからです。まだまだ、ツイートしてもよいはずなのですが、それなりに満足してしまったようです。

 その理由も明白です。素人さんたちは、【282】で「現在伝・阿弖流為の塚は元々何も無いと白黒写真を掲載しているけれど、枚方市立図書館で勤務していた馬部隆弘先生が、そこには牧野阪古墳があったことを知らないわけがない。論文に掲載するべき情報を意図的に曲げた不正行為でしょう。」と主張するように、アテルイの首塚の地にもともと牧野阪古墳があったことを隠すという「不正行為」を私がしていると批判していました。この主張はかなり頻繁に出てきますが、私の揚げ足をとろうとするあまり生じた勘違いで、両者の所在は重なりません。

 Wikipediaの「アテルイ」の項目の履歴表示をみると、日本時間に換算して3月22日の朝から24日の深夜にかけて、アテルイの首塚の地に牧野阪古墳があったということをはじめ、素人さんの主張と同じ内容の記述が「‎Yoko Ai」という人物によって加えられています。どうやら第8期で少し落ち着いたのは、ツイッターとは別のところで言いたいことを言ってしまったからのようです。「‎Yoko Ai」はそれ以前からWikipediaへの書き込みは頻繁にしていますが、Wikipediaを用いて私を批判するのは、これを機に始まります。【2058】では自身が書き込んでいる部分について「wikipediakの「王仁」には、顕彰運動の経緯が書いてあるみたいですね。」と他人が書いたふりをしているので、人物が特定されないように一応は警戒しているようです。

 おもしろいのは、【1760】での「引用文献に重要な事が書いてあっても、自説に合わないなら考察から外すならば、研究ではなくWikipediaでしかない」という発言に対して、もう一人が何も反応しないことです。そのWikipediaに私は書き込んでいますとは、恥ずかしくていえないですもんね。私への攻撃は常に連携しているのですが、ここでは連携がうまくとれていなかったようです。

 そして空気を読めないのが、3月29日の【1328】あたりから私に対する批判に加わり始める「丸山晋司 @nemurikappa」です。【90】にもみえるように、ツイッター上ではもともと交流はありますが、他の3人とはさほど深い付き合いではないようです。【1367】で「馬部論を読まずにお聞きして申し訳ない」と述べるように、この素人さんは私の著作物を読まずに3人の発言を鵜呑みにして、私に対する批判的発言を始めます。

 いったん落ち着きをみせつつも、4月6日に始まる第9期には再びツイート数が伸びます。そのきっかけは、アテルイの首塚と牧野阪古墳が別の場所にあることを論証した下記の論文にあります。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(『志学台考古』第20号、2020年)

 ツイッター上で紹介されたこの論文を素人さんたちが目にしたのがこの日なのです。自身の拠り所をなんとか維持しようと、ここからは支離滅裂っぷりが激しくなります。『ヒストリア』に掲載される拙稿が史料を捏造しているという例の画像も、4月6日の【1448】を機に頻用しはじめています。

 4月20日頃やゴールデンウィークにはツイートが途切れますが、集中的にツイートする日も続きます。その理由は、椿井文書がたびたびメディアで取り上げられるようになるからです。それがツイッター上に反映されるたびに、激しく私を攻撃します。やはり、世間の関心が椿井文書に向くと、イライラするとともに自らの主張を広めるチャンスだと思うようです。しかし、疲れもみえており、5月25日の64ツイートをピークに少し落ち着いて現在に至ります。

 5月26日以降の第10期に入ってツイート数が減ったのも、だいたい言いたいことを言ったからでしょう。4月20日から25日にかけて、「‎Yoko Ai」がWikipediaの「王仁」の項目で私に対する批判を書き込んでいるのも、少なからず影響していると思われます。

 以上のように、ツイートの数的変化から措定した時期区分とその変化の要因を探る考察を結びつけることによって、相互にその妥当性を示すことができます。いわば、実証と理論の間に相互で裏付け合う関係を築くことができるのです。それとともに、素人さんたちの関係性やその時々の狙いなども何となくみえてきたかと思います。こうした情報を持っているかいないかで、史料の読み込みかたも大きく変わるのはいうまでもありません。あとは研究対象の内面にどんどん踏み込んでいくことで、論証に深みができてきます。また、このような時期区分は、論文を執筆する際に章立てや節立てにも有効に使えます。これから卒論を執筆する学生は、ぜひともこの方法をまねしてみてください。

 なお、第11期の訪れはだいたい予想がつきますよね。素人さんがこのブログに気付いたときです。私にみられているとわかると、発言に配慮しはじめるでしょうし、対話しはじめたら史料の客観性がなくなりますので、そのころには史料調査を打ち切るつもりです。遠隔授業が終わるのが先か、それともこのブログに気付くのが先かは蓋を開けてみないとわかりません。前回も述べましたように、史料集めは最初はしんどくても、いずれはこのようにワクワクしてきますので、そのときのことを想像しながらがんばってください。

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『週刊文春』の対談

 昨日発売された『週刊文春』6月18日号に、ジャーナリストの江川紹子さんと私の対談が掲載されました。当日の対談は、1時間を予定していたところ、時間が過ぎるのも忘れてついついしゃべりすぎ、気付けば2時間を経過していました。実は、そのあと産経新聞の取材も入っていたのですが、時計をみたときにはすでに約束の時間でした。産経の記者さんごめんなさい。

 さて、これまでも延々と繰り返されてきたのですが、ツイッター上に私の情報が出回ると、その都度、素人さんたちは「文春砲」のごとく私の不正を暴きます。

  アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200612.pdf

 今回はまず【2770】で、「出典未記載の週刊文春の枚方市内にお墓がある人物のクイズのお話、本当かしら?」とおっしゃいます。対談なので、いちいち出典など記載のしようがないのですが、どうやら私が作り話をしているといいたいようです。実は、素人さんがこの発言をすることは予想していました。ですから、対談のなかで、市役所にもっと情報開示を請求して公文書を活用しましょうと言っているんです。素人さんがいう「クイズ」とは、2007年に実施された「ひらかた検定」のことを指しています。枚方市の市制60周年を記念した周年事業ですので、何かしらの公文書が残っているはずです。残っていなければそれはそれで問題ですが、こんなことも調べずに、嘘をついているなんて言ってはいけません。

 そして、江川さんが自身のツイッターで対談記事を紹介すると、『ヒストリア』掲載の拙稿が史料を捏造しているという例の証拠画像が登場します。これを【2774】に貼り付けて、「馬部隆弘氏の研究は間違いがあるのですが、その間違いをそのまま報道するのは倫理的に問題があるのでは? #椿井文書」と江川さんのツイッターにかみつくのです。

 さらに週刊文春の公式ツイッターが対談記事を紹介すると、【2775】で同じくその画像を貼り付けて、「馬部隆弘さんも、出典元に記載されていない記述を記載されているとフェイクして、その架空の記載を元に穂谷村が裁判の証拠を椿井政隆へ依頼して改竄しようとしたと断定し、史実を曲げておいででいらっしゃいますし、厳密に言えば #研究不正 に該当しますね。 #椿井文書」とかみつきます。すると、別の素人さんもすかさず【2776】で、「訂正すれば良い。結論は変わるけれど #研究不正 #椿井文書」とたたみかけます。

 査読を受けてないという指摘が入らなかったのは物足りないですが、おおむね予想通りの反応をいただきました。素人さんがこのような主張を続ける意図を考察するうえで、いったい何に反応しているのかというのは、非常に重要な情報です。また、その主張にも変化や傾向があって、数を重ねるごとに私の分析にも深みが出てきます。そのため、素人さんの発言が予想できたのです。

 このブログでは、素人さんの発言を史料と捉え、蓄積し続けています。その史料が増えれば増えるほど、そこから立論された私の説は確度があがります。人それぞれ好みはあるでしょうが、私は数多くの史料にあたったことが透けてみえるような論文をとてもよいと思います。なぜなら、情報の確度が高いので安心して読めるからです。

 卒論を執筆する際にも、都合のよい史料だけをつまみ食いするのではなく、まずは関係しそうな史料をかたっぱしから蓄積していくという姿勢が大事です。そのときには不要でも、あとになって使える史料も出てくるはずです。そうなると、結果的に幅広く目配せの利いた卒論となるでしょう。一気に史料を集めるのも大変な労力がいりますし、何よりも面倒です。ですので、最初は何も考えずに日課にするのが一番だと思います。このブログもそこから始まりました。

 研究者の日常的な史料集めの様子を生配信することは、通常はありえません。なぜなら、別の研究者に論文のネタを取られかねないからです。このブログは、卒論指導の一環で始めたものですが、その素材に素人さんたちのツイッターを選んだのは、研究者が普段どのように史料を集め、それをどのように整理しているのか、その様子を学生のみなさんに見てもらうという狙いもありました。さすがに、素人さんたちの情報を横取りしようとする人もいないでしょうし。毎日毎日、なんと無駄なことをしているのかとあきれてみているかもしれませんが、文字から素人さんの人物像を描き出すという意味では、歴史学における史料集めから論文執筆までに至る作業となんら変わりません。

 事実、ある程度史料が集まってくると、上述のように推論もあたるようになってきます。そして、それが次第に自説として確固たるものとなってきます。ここまで来ると、どんなにひどい罵詈雑言が並ぼうが、史料集めも多少は楽しめるようになります。みなさんが選んでいる好きなテーマならば、なおさら楽しくなるはずです。

 なお、夜に読むと気分が悪くなって眠れなくなるので、ここでの史料集めはできるだけ朝の日課にするようにしています。今朝も、目が覚めるようなツイートありがとうございました。

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批判的に継承する

 論文を書くうえで批判精神は欠かせません。しかし、重厚な研究蓄積の継承も必要です。いわば、批判と継承という相矛盾した行為を両立させなければならないのです。論文を執筆する前の我々研究者は、この二つの間を右に行ったり、左に行ったりして、最適な位置を探して着地します。ですから、よい論文は読むと思わず納得するわけです。論文を読めば、結論としての最適な位置はわかるかもしれませんが、我々研究者が普段どのように右往左往しているのか、その最適な位置さがしの方法はなかなか示すことができません。その意味では、右往左往の過程も透けてみえ、不適な場所に着地する素人さんたちの言説は、思考の際に気をつけるべき点を学ぶとてもよい教材になります。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200604.pdf

 素人さんは【2683~2685】で、次のようなツイートを連投しています。「馬部隆俊氏は茄子作村の茶屋を引用しながら私市村の逢合橋について語るけど、茄子作村には茶屋前という地名があるのは知ってるはずなのにね。でもこれは少し面白い発見かも。だって、」「融通念仏宗法明上人が茄子作村の逢合茶屋で石清水八幡宮(当時だと護国寺?)の人と落ち合った場所が茄子作村の「茶屋前」という地名なら、だいたいこの古地図に「牽牛」とある場所あたり。ここから私市村の逢合橋で天野川を渡れば、倉治村機物神社へ向かう」「融通念仏宗は茄子作村の茶屋について記載しているから、私市村の逢合橋とは無関係のはず」

 前回は、下手な小芝居や人名の間違いから、人格が透けてみえるという話をしました。前回更新したのは5月31日ですが、そのわずか2日後に、さっそく「馬部隆俊」の再登場です。これについてはもはや驚きません。それよりも驚いたのは、「茶屋前」という地名を私が「知ってるはず」と指摘されたことです。正直に申しますと、恥ずかしながらこのツイートを見るまでその地名の存在を知りませんでした。素人さんが、なぜこのように決めつけるのかは、またあとで考えたいと思います。

 親切にも【2655】に「茄子作村の字名「茶屋前」がどこかは、『枚方市民俗文化財調査報告4 川越村』39頁,枚方市教育委員会,1996の吉田晶子氏のレポートに地図が掲載されている。」とお示しいただいているので、さっそく昨日確認してみました。すると、たしかに「茶屋前」の地名はありましたが、「小字」(こあざ)でした。せっかくの機会なんで、小字の説明をしておきます。

 江戸時代には、現在のように番号で住所を示す習慣はなく、田畠数枚ごとに字という地名が付いていました。検地帳では、田畠一筆ごとに右肩にその字が記されています。明治時代に入ると、村ごとに1から順番に一筆ずつ地番がつけられました。一見、合理的にみえますが、一つの村で千や二千を超える番地があると、結局どこのことを言っているのかわかりづらいです。ですので、村のなかでは相変わらず字が機能しました。明治22年(1889)には町村制が施行されて、全国的に合併がすすめられます。その結果、新たな村が成立したため、もとの村は「大字」、もとの字は「小字」と呼ばれるようになりました。

 その後、昭和37年(1962)に施行された「住居表示に関する法律」に基づき、境界線などをわかりやすく引き直したうえで、××○丁目○番○号という住居表示が振り直され、現在これが定着するに至っています。この住居表示によって、だいたいの場所がわかるようになってしまったため、大字・小字の必要性は薄れてしまいました。

 旧『枚方市史』113頁によると、茄子作村だけで100を優に超える小字があります。正確な数字は今すぐ把握できませんが、枚方市には江戸時代に37ヶ村ありましたから、市内の小字の数は3000を超えるとみてよいと思います。こんなにたくさんある小字を「知っているはず」とおっしゃるのですが、私の脳みそはそれほど性能がよくありません。

 では、素人さんは私の能力を買いかぶっているのでしょうか。そんなはずはないでしょう。となると、こういうことになるかと思います。茶屋前の小字を「知っているはず」という芝居を打つことで、私が情報を隠蔽しているかのようにみせたいのでしょう。

 茶屋前の話の前置きとして、「逢合橋について語るけど」と述べているように、どうやら私の逢合橋に関する説を批判したいようです。逢合とは互いに行き会うことを意味します。インターネットなどで調べてもらうとわかるように、逢合橋の名の由来は、織姫と彦星が年に一度会う場だという情報が広く世に出回っています。実は、この説が出始めたのは比較的最近のことです。そのことを示すために、私は融通念仏宗の中興の祖である法明上人にまつわる次のような伝承を紹介しました。

 大阪市内の深江から石清水八幡宮に向かっていた法明上人と彼のもとに向かっていた石清水八幡宮の使者が、逢合茶屋にて互いにばったり出会います。この奇遇によろこんだ法明上人は、使者から受け取った本尊の掛け軸をその場にあった松にかけて、念仏を唱えながら踊ります。これが、融通念仏宗における踊り念仏の始まりになったということです。そして、その現場となった「本尊掛松」の伝承地は、今も現地に存在します。

 もちろん、これは伝承なので鵜呑みにするわけにはいきませんが、それらしい伝承として受け継がれてきた以上は、例えば両者が出会った場所など、この話に出てくる地名の位置関係には矛盾がないとみるべきです。逢合茶屋の呼称が近世初頭まで遡りうるのに対して、当地で七夕伝説が広まるのは昭和後期になってからのことで、かつ逢合橋の名は少なくとも戦前には登場することから、私は法明上人の伝承こそが逢合橋の名前の由来だと指摘しました。ロマンチックな男女の出会いではなく、おじさんどうしの出会いの場だといわれると、たしかに腹が立つかもしれません。

 そのため素人さんは、逢合茶屋の所在は茶屋前であると批判してきます。明治時代に作成された仮製図で確認すると、茶屋前は④の位置に該当するので、ここに逢合茶屋を想定すると、③に架かる逢合橋の語源とするにはたしかに離れすぎています。ですが、茶屋の地名なんて日本中にごまんとあるので、茶屋前が逢合茶屋に該当する明確な根拠が欲しいところです。

 

 では、私が逢合茶屋と逢合橋が近接すると判断した根拠を示しておきます。よく知られるように、融通念仏宗は高野街道沿いに布教していきます。ですから、融通念仏宗にまつわる伝承もまた、高野街道沿いに展開します。深江と石清水八幡宮を結ぶのも東高野街道です。当時は、淀川の氾濫原と深野池を迂回しなければならないし、香里丘陵も避けるでしょうから、ルートはこれに限られます。ですから、法明上人と使者が出会ったのも東高野街道上でなければ、この話は根も葉もない話になり、人々の間で語り継がれるわけがありません。東高野街道は地図の①から②にかけて縦走しています。本尊掛松はその途上の⑤にあたります。ですので、逢合茶屋で遭遇し、思わず近くにある松に本尊を掛けたとするならば、やはり逢合茶屋は⑤に近接していないと話の筋が通りません。

 素人さんが想定するところに逢合茶屋があると、こういうストーリーになります。石清水八幡宮を目指す法明上人も深江を目指す使者も、なぜだか主要街道から逸れて寄り道し、わざわざ香里丘陵を登りました。そしておそろしいほどの偶然で④の茶屋前にて遭遇します。たしかにこの奇瑞を法明上人が喜ばないわけがありません。喜びのあまり山中を駆け抜けた法明上人は、斜面を下って本来通るべきであった東高野街道の⑤までたどりつくと、そこで見つけた松に掛け軸を掛けて踊りました。こんな法明上人に誰がついていくでしょうか。

 ただし、私が紹介した話にも一つ矛盾があります。逢合茶屋で逢合ったというのは話が出来すぎなのです。これは推論になりますが、逢合という地域呼称が先にあって、その語源だといわれるとしっくりくる話なので、法明上人の伝承が受け入れられたとは考えられないでしょうか。京都府八幡市で東高野街道から分岐して、東高野街道の東側を併走する山根街道という道があります。この山根街道は、地図でいうと私部村の⑥から③の逢合橋を渡って、⑤のすぐ北で合流しています。この二つの街道が再び行き会う場所だから逢合と呼ばれたとも想定できるでしょう。また、そのような交通の要衝には、茶屋があってもおかしくありません。

 素人さんは「私市村の逢合橋」とおっしゃいますが、正しくは私部村です。茄子作村の融通念仏宗信者と一体となって伝承が展開したため、本尊掛松は茄子作村の伝承として扱われることが多いですが、⑤の部分の東高野街道は私部村との村境としても機能しています。したがって、本尊掛松や逢合茶屋は茄子作村と私部村に両属するものといえるでしょう。橋の名称をつけるときに、近隣の名所にちなむことなどよくあることですし、上述の話を踏まえるならば、逢合の場は本尊掛松の⑤より北の交差点に該当することになり、③の逢合橋に近接します。

 おそらく素人さんは、茶屋前という小字を見つけたときに、これで私を足元からすくえると思い、狂喜したことでしょう。同様に、これから卒論に取り組む学生も、史料集をめくるなかで、これまで研究者がみつけていないような「大発見」をすることがあると思います。

 そのときに大事となってくるのは、批判的に継承するという意識です。素人さんはその意識に欠けているため、次の作業を怠っています。素人さんの「大発見」と私の説をすりあわせるならば、④の茶屋前から⑤の本尊掛松まで狂ったように走り、そしてそこで踊る法明上人の姿が浮かび上がるはずです。これを一度でも想像したならば、「大発見」ではないと気付き、引き出しにしまったはずです。このように、少し冷静になって、過去の研究者の説とすりあわせながら、その「大発見」が矛盾していないかどうか検証しなければなりません。

 素人さんは、さらに江戸時代に描かれた「古地図」の画像を引用して、私をなんとか追い詰めようとします。そして、④の茶屋前が「だいたいこの古地図に「牽牛」とある場所あたり」とおっしゃいます。茶屋と七夕伝説を結びつけようとするのです。しかし、その「古地図」をよくよくみると、「牽牛」と書かれている場所は、東高野街道から南に少し離れた場所で地図の⑦にあたります。つまり、素人さんは、東高野街道の右と左の違いもわかっていないようです。

 覚えている学生もいると思いますが、私は1回生向けの歴史学入門という授業で、上掲の仮製図を必ず用います。過去の景観を復原的に考察するうえで、仮製図がとても有効であることも改めて理解できたのではないでしょうか。

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小芝居と人名

 文字史料は文字通り素直に読むのもよいですが、文字にならない裏側の部分を読むというのも大事です。例えば、前回掲示した画像がそれにあてはまります。その画像とは、拙稿で引用する史料と『津田史』が引用した史料を対比して、私が史料を改竄しているということをわかりやすく示したものでした。ここに示された文字を鵜呑みにすると、私はとても悪い研究者になってしまいます。しかし、この画像を作成するに至るまでの経過を丁寧にひもとくと、むしろ情報を改竄したのは素人さんのほうで、あの手この手を使って、私をおとしいれようとしていることがうかがえました。

 素人さんたちはこの画像を幾度となく利用して、執拗に私を攻撃してきます。ところが素人さんは、この画像のことについて、折に触れて次のようなこともおっしゃいます。例えば、【1595】で「でもこの件は研究不正では。本当は言いたくなかったし、言うつもりなかったのに」、【1627】で「訂正してもらえないなら、素人とはいえ間違いを知ってしまった以上はしかるべきところに届けるしかなくなる。できればそれは避けたい。キャリアに傷がつきますから」、【2612】で「大学院時代の強い思い込みによるミスを告発するのは非常に野暮だからしたくないけれど」とみえるように、少しトーンの異なる発言をされるのです。

 以上のような、しおらしい演技を入れることで、自分たちは悪いことをしているのではないという言い訳をしているのでしょう。でも、こんなくさい小芝居を時々入れてくるあたり、本当は悪意がありますと証言しているようなものです。このように、事実からかけ離れた小芝居は、異常なまでに目立ちますし、それが真実を求める手がかりになる場合もあります。以下では、同じく事実からの乖離にあたる、誤った名前の一人歩きについて考えてみたいと思います。

 私の名前は珍しいので、物心ついた頃から「ババ」とよく間違えられてきました。「マベ」や「ウマベ」とされる場合も多いです。そういうときにどのような対処をとろうかと、今でもよく悩みます。今後も長い付き合いになりそうだと思ったら、早めに訂正します。どうでもいい人だったら、ほったらかしにします。あと、いつ気付くだろうとしばらく眺めるときもあります。このように、自分の名前で相手との距離感を探る人もいるわけです。

 ですから、自身がメールや手紙を送るときは、相手の名前に間違いがないか、何度も確認してしまう癖があります。逆にいえば、相手の名前を間違えることに対して無頓着な人は、まわりの目をあまり気にしない人ともいえるでしょう。

 名前を間違えられた経験があまりない人はわからないと思いますが、これはかなり失礼な行為で、人によっては相当に気分を害します。ゼミ発表のレジュメで引用論文の著者名を誤記していると、私が事細かく指摘するのはそのためです。社会人になったとき、大事な取引先のお名前を間違えたりしないためにも、常日頃からこういうところに心配りする癖をつけておくのは大事です。

 もちろん、ついうっかり間違えるということもあると思いますが、私の経験上、そのようなミスをする人は、日頃の行動にもやや難のある場合が多いような気がします。つまり、単なるうっかりではなく、それが日常茶飯事で、さきほど述べたように周囲が見えていないという場合が多いです。もう少し踏み込んでいうならば、思い込みが激しいため、まわりがみえていないという可能性が高いです。もちろん、このこと自体が私の「思い込み」である可能性もありますので、例によって素人さんの発言をまとめた下記の史料編からその点を指摘しておきたいと思います。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200531.pdf

 素人さんたちは、日本史の研究者ならば誰もが知っている石井進氏を【1360・1524・1535・1537】では「石川進」と間違えています。中世史研究者の藤田恒春氏も、【1345】では「藤田恒一」とされています。肝心の批判対象である私ですら、【1068・1072・1079・1080・1082・1096・1098・1120・1142・1145・1146・1148】では「馬部隆俊」となっています。下の名前が間違えられるのは、私にとって珍しい経験です。

 「枚方市字阪の一古墳概報」(『古代学研究』第9号、1954年)を執筆した宮川徏氏も、【373・1590・1591】では「宮川従」、【1451・1452・1457・1459・1463・1666・1667・1668・1684・1685・1686・1687・1732・2568・2633・2634】では「宮川徒」、【1659・1660・1662・1664・1665・1667・1668】では「宮川渉」と誤記されています。これはかなりひどいです。

 しかも、挙げ句の果てには【1666】で、「宮川徒」氏と「宮川徏さんとでは、ススムの文字が違うので別人の可能性が高いです」とまで言い切ってしまいます。戦後まもなくの1949年に発行された『古代学研究』第1号では、ガリ版刷りなので「宮川徏」と正しく記されていますが、1954年の『古代学研究』第9号では、「徏」の活字がなかったとみえて「徙」(音読み「シ」訓読み「うつ」る)の字が代用されています。そのためこのように混乱したようですが、そうだとしても原典にある「宮川徙」の引用事例がただの一度もないのは、思い込みが激しいことを露呈しているといえます。前回も引用した【2639】の一言を転用させていただくと、「出典元に書いていないことを引用するのは #研究不正」なのではないでしょうか。

 『古代学研究』第100号の総目録では「徙」は「徏」に訂正されていますし、執筆者索引では第1号と第9号に執筆したのが同一人物であることも確認できます。そもそも、近畿地方で古墳の議論をするのに宮川氏のお名前すら知らないのは、とても恥ずかしいことです。

 【2176】の「偽物だとわかりながら京都国立博物館勤務の影山春樹氏は #椿井文書 と言われてる『興福寺別院山代國綴喜郡観心山普賢教法寺四至内之圖』を昭和50年頃三重県の古書店で購入し観音寺へ周旋し」「地域住民をペテンにかけたのですか?」というツイートもずいぶんとひどい言い分です。「影山春樹」氏に対する同様の発言は、【2193・2196・2340・2409・2477・2478・2479・2561・2622】にもみえます。決して「ペテンにかけた」のではなく、京都国立博物館の技官をもってしても、椿井文書の実態までは把握できていなかったんです。なお、この絵図は昭和43年発行の『京都府田辺町史』365頁に観音寺所蔵のものとしてすでに紹介されているので、素人さんは購入年代も勘違いしています。

 そして【2499】では、「馬部隆弘氏はよくこの絵図を取り上げる際にこの経緯に言及していないけど、言及していたら印象はガラリと変わると思う」と、「影山」氏が関与したという経緯を私があえて伏せたような言いかたをします。たしかに素人さんのおっしゃるとおりかもしれません。私は新書の115頁で、「景山春樹の斡旋により三重県の古書店から購入したもの」と説明しており、「景山」さんの話はしていますが「影山」さんの話はしていませんので・・・と、笑い飛ばしたいところですが、なかなかそうもいきません。

 なぜなら、私が書いたことをないことにして、「隠蔽」したと指摘するのが素人さんたちの常套手段になっているからです。例えば、【560】にあるように、「馬部さんが、1979年3月25日河北新報報道を隠蔽して」「最も重要な報道を隠した」「酷い書籍」といった具合です。私は『由緒・偽文書と地域社会』277頁で『河北新報』の同日記事を引用しているのですが、それをなかったことにするのです。これを悪意とみるべきか、日本語読解能力の限界からくる思い込みとみるべきか、非常に悩ましいところですが、冒頭でみた小芝居、その次にみた人名の間違い、そして「隠蔽」の指摘の数の多さからして、悪意と思い込みの両方が合わさっているとみるのが妥当なところでしょう。

 以上のように、小芝居や人名の間違いから、ここまで性格が透けてみえてしまいます。変なレッテルを貼られないためにも、名前の間違いには気をつけましょう。

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史料の引用方法・・・そして、査読ふたたび

 史料から情報を得る方法はいくつかあります。大まかに区分するならば、①現物、②写真帳・影写本・謄写本などの写し、③活字になったもの、の三種でしょう。①②③の順で情報が正確であることはいうまでもありません。ですから、卒論でも可能な限りその優先順位で情報を得てください。ただし、①はコネクションなども必要で、閲覧が困難であるケースも多いです。③が最も手っ取り早い方法になりますし、くずし字を読解する手間も省けます。

 私の場合、書籍などに所収された活字史料を論文に引用する際は、閲覧が可能なものは全て写真帳や影写本などで確認するようにしています。過去の論文を読むと、当初はそこまで徹底していなかったようです。私は椿井文書の研究をするなかで、活字になることで偽文書独特の雰囲気が薄れてしまうと度々指摘してきました。おそらくそれもあって、極力裏付けをとる癖が付いたのだと思います。

 その場合、典拠は②と③の二つになってしまいますが、逐一双方を引用していてはとても煩雑になります。そのため、③の引用をベースにしておき、その引用の冒頭部分に適宜②で修正を加えたとあらかじめ一言述べておく方法をとっています。

 前回も触れた三之宮神社文書を引用する際も同様の方法をとりました。この二重引用について、素人さんも下記の史料編でコメントしています。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200530.pdf

 【535】では、「写真を引用してるんだ」と気付いており、私が三之宮神社文書を『枚方市史』から引用した際に「引用の際は枚方図書館市史資料室架蔵の写真にて校正を加える」と添えた文言も転載しています。それに続けて【536】で「枚方図書館市史資料室架蔵の写真引用した理由は、枚方市史の翻刻が間違っていたからなのかな?ならば参照文献は三之宮神社所蔵文書の写真と記載しなくてはいけないのでは? 」と指摘されます。『枚方市史』ではなく、写真のほうを典拠にしろというのです。

 しかし、読者のほとんどは枚方の図書館に通って写真をみるということはないはずです。そのため、写真史料だけを引用していては、活字史料のいったいどこにあたるのかわからず、逐一参照することができません。また、活字史料から引用して、修正した部分を逐一述べるのも煩雑です。私が普段引用する方法をとっておけば、活字史料を手元において論文と比較してもらえれば、私がいったい写真史料に基づいてどこを修正したのかもわかります。その修正が気になれば、あとで写真史料で確認することも可能です。このようにしておくことによって、私は引用史料の信憑性を確保するように心掛けています。

 2020年4月に入ると、素人さんたちの主張も豹変してきます。それが頻繁に引用される下記画像です。

 この画像に触れて、【1551】では「穂谷村の旧家の人達へも謝罪するべきでは。でないと、予算も、学問の自由も、無くなってしまうよ。これって、歴史学者が嘘の史料を作った上で穂谷村が裁判資料を改竄したと主張したわけでしょ?」とおっしゃいます。この画像左側で引用されるのは、三之宮神社文書のうちの一つ「三之宮大明神年表録」で、穂谷村が有利になるように偽作された椿井文書です。地元の考古学者である片山長三氏が、1957年発行の『津田史』に活字化していますが、誤読がままみられます。のちに『枚方市史』が改めて活字化し、さらにそれを私が写真に基づいて修正したのは先述の通りです。

 おそろしいことに、素人さんたちは私が写真に基づいて史料を修正した事実を伏せたうえで、『津田史』が引用する史料を改竄したと言い始めるわけです。【1617】で「枚方市の穂谷村を悪く言うために捏造してはダメだよ」、【2482】で「本当に書籍に書いていないことを書いたのならば、捏造( #研究不正 )だろうし、歴史学の名前で悪意を指摘された枚方市の穂谷村にとっては自分達が住んでいる市の公務員による加害では?」、【2556】で「出典元に書いてない事を捏造してまで穂谷村が裁判資料を捏造したと書く」、【2639】で「出典元に書いていないことを引用するのは #研究不正」といった具合で、留まることを知りません。

 一方、画像の右側で引用されるのは、「当郷旧跡名勝誌」に所収される三之宮神社の棟札写です。穂谷村の名が含まれる画像の赤字部分が『津田史』287頁には存在しないので、私が史料を改竄したと指摘しています。冒頭の「津田村尊光寺に残る由緒書「当郷旧跡名勝誌」(『津』二八六頁)に記される次の棟札写を引用する。」という一文は、変な切り取り方をして、私が『津田史』の当該部分を引用したかのように見せていますが、「次の棟札写を引用する」の主語は私ではなく片山長三氏です。この一文では、片山氏が津田地域の歴史を説く際に棟札写を引用することを説明しているだけです。

 私は、『津田史』287頁の棟札写は明らかに文の欠落があるのでそのままは引用していません。というのも、棟札本文に「奉加」「穂谷村」などの語がないにも拘わらず、棟札の説明文に「奉加ト有ルガ故ニ、此時代迄穂谷村芝村ハ非氏子哉」と記されているのです。つまり、ここでの片山氏は、棟札本文を一行ほど見落とすという明らかな翻刻ミスをしています。半世紀以上前のそのようなミスを今更引っ張り出してきて、私を批判されても困ります。上掲の「『津』二八六頁」という記述も、「二八七」としていないように、あくまでも『津田史』286頁から始まる「当郷旧跡名勝誌」の所在を示しているに過ぎません。

 ややこしくなった原因は、片山氏の説明の仕方にもあります。片山氏は『津田史』36頁や177頁などで上掲棟札写の翻刻を何度も掲載するのですが、融通無碍でその度に文面が異なります。しかも、そこでは上述した一行の欠落を含んだうえで分析がなされます。そのため、片山氏の研究を整理するには、『津田史』287頁の棟札写をそのまま引用してしまっては説明がつきません。幸い「当郷旧跡名勝誌」の写が『津田史』274頁に掲載されるので、これで欠落した一行を補足しておきました。決して穂谷村を恣意的に挿入したわけではありません。原文に穂谷村が入っていることは、先ほど引用した「当郷旧跡名勝誌」の棟札説明文をはじめ、諸史料からみても確実です。

 その点について、大事なことを思い出しました。上掲画像で引用される論文を投稿した後に、「当郷旧跡名勝誌」の現物にあたって該当部分を翻刻していたのです。拙著にその論文を再掲する際に、ついうっかり史料を差し替えるのを忘れていました。その翻刻をこのページの一番下に掲げておきます。

 素人さんたちの進撃はなおも続きます。中公新書のアカウントが私の新書を紹介すると、【2636】で上掲の画像を貼り付けて「馬部隆弘氏は引用元に書いていないことを書いているみたいだけれど、チェックはされましたか?」と投げかけます。やっていることはむちゃくちゃなのですが、【2523】では「馬部隆弘氏にヤクザみたいな因縁をつけられるくらいなら、確かに断るべきだったかも。こんな嫌な思いするくらいならね。」とそっくりそのまま返したい台詞を吐いたあと、「本当にみんな殺しかねないくらい怒り狂ってますから、何が起きても不思議じゃないですよ、まったく」と殺人予告まで出てくる始末です。ここまで来ると、法的措置に出たほうが無難かもと改めて思います。

 そして、【2022】では「三之宮神社関連文書も片方の言い分に立ったものだと馬部隆弘氏は主張したけど、片山長三『津田史』からの引用の間違いだった。査読を経ていたら、こういうミスはチェックできたのに。」とおっしゃいます。『枚方市史』で活字化されている事実を悪意をもって伏せているのは明白です。ここで「あれっ!?」と気付いた私のゼミの学生はいないでしょうか。さきほどの画像と比較すると気付くかもしれません。

 そうです。前回取り上げた三宅源治郎の記録や三之宮神社文書を対象とした『ヒストリア』に掲載された私の論文をやり玉にあげて、査読を経ていないとおっしゃるのです。例えば【1135】で「馬部隆弘氏の #椿井文書 論文類は査読を一度も通過していないけれど、本当に大丈夫なのだろうか?」、【1228】で「査読を通過していない論文での攻撃に、地域社会は応戦できない。言いたい放題だから」、【1542】で「訂正すればいい。査読がある論文雑誌に掲載されたわけではないし」、【2530】で「査読を通していない論文は、どれくらいを真実だとみなすべきか?そもそもなぜ査読を通過できないんだろう??」といった具合です。その数は、【1056・1096・1135・1215・1228・1234・1235・1251・1252・1382・1406・1542・1916・1918・1967・1969・1973・1985・2021・2022・2047・2101・2173・2174・2299・2342・2351・2410・2492・2530・2531・2535・2638】の33回にのぼります(2020年5月30日現在)。

 『ヒストリア』が大阪歴史学会の機関誌で査読誌であることを知らないとなると、予想以上のド素人ということになります。仮に知っていてこのような発言をしているとなると、大阪歴史学会の編集委員会で査読を経ずに掲載するという不正があったと言いたいのかもしれません。素人さんたちには、私をおとしめようとする明らかな悪意があるので、歴史学界の事情に詳しくない人を騙して引き込もうとする作戦ということも考えられます。何とも測り兼ねるので、それとなく『ヒストリア』が査読誌であることを知らせたら、どのような反応をするのか試してみました。

著者に聞く『椿井文書―日本最大級の偽文書』/馬部隆弘インタビュー(中公新書ホームページ)

 インタビューの回答のなかに、「椿井文書に関する最初の論文は、ちゃんとした査読誌に掲載されているんですが、おまえの勝手な思い込みだとか言われましたね。」と盛り込んでみたんです。案の定、【2633】でこの記事を引用してくれました。それでも【2638】で、「馬部隆弘氏の椿井文書に関する論文も査読を受けていません」と述べています。

 日本語読解能力がないという可能性も大ですが、仮に査読に不正があったというのであれば、私も大阪歴史学会の編集委員なので、何らかの対処をとらなければいけなくなります。本当に面倒な方々です。【1542】で「査読を経て掲載されれば安心して読める」とおっしゃっているので、そろそろ安心してくださればよいのですが・・・

 以前、査読の有無でしか論文の価値を測れないのは素人だという話をしましたが、査読誌名を知らなければ、さらにそれ以下の恥ずかしい人になってしまうというのがわかっていただけたでしょうか。歴史学に関する会話をしていると、自ずと雑誌名や学会名がよく出てきますので、それをどれだけ知っているかで相手のおよその見識を測ることも可能です。3回生の最初のゼミで、まずは査読誌名をずらっと板書して覚えるようにと指導するのはそのためです。査読誌かどうか判断に迷うようだったら、雑誌には「投稿規定」の欄があるので、それをみれば解決します。

 また、上掲の史料編をみていただくとわかりますが、ある素人さんが査読を通っていない、改竄だと言い出すと、それ以外の素人さんも何も調べることなくそれに追随している様子がよくわかります。もちろん人の言うことを信じるのも大事ですが、こと学問的な話をするときはそのような姿勢はとらずに、自ら調べたことに基づいて自分の意見を述べなければなりません。

 

【拙著をご購入いただいたみなさまへ】

『由緒・偽文書と地域社会』24頁の【記録1】「当郷旧跡名勝誌」を下記画像に差し替えていただくようお願いいたします。出典は、拙稿「城郭由緒の形成と山論」(『城館史料学』第2号、2004年)です。この論考を拙著に所収するにあたって早々に翻刻編をカットしたため、その存在をすっかり忘れていました。申し訳ありません。蛇足ながら、素人さんたちは査読誌かそうではないかという話が大好物のようですので付言しておきます。この雑誌も一応査読誌です。

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正しい情報の選択

 文字史料には、事実が全て反映するとは限りません。そのため、複数の史料の間で、齟齬する情報が出てくることもあります。そういうときに、どの情報をいかに適切に採択するか、そこが研究するうえでの腕のみせどころです。

 椿井文書が今井家で販売されるのは、諸史料からみて明治20年(1887)から明治30年にかけてのことです。前回ご登場いただいた中村直勝氏は明治23年の生まれなので、椿井文書の販売が過去のことになった頃に、周囲からの伝聞などでその実態を知ったことになります。その集めた情報のなかに今井家の存在が不足していたため、中村氏は椿井文書の伝来過程を誤解していました。

 それに対して私は、現在の枚方市津田に居住していた三宅源治郎が、明治44年(1911)に記した「郷社三之宮神社古文書伝来之記」に着目しました。なぜなら、今井家に椿井文書が伝来するに至った経過を記していたからです。これによると、明治21年に三之宮神社の神職三松俊季は、朱智神社の神職中川政勝から、木津の今井家が所持する古文書のなかに、三之宮神社関係のものが存在することを聞いています。言うまでもなく、これは椿井文書です。中川政勝の仲介で今井家でその古文書を目にした三松俊季は、購入を熱望するようになります。明治28年に、三松俊季の日頃からの熱弁に動かされた三宅源治郎は、ともに今井家へ向かい、結果購入に至りました。

 この史料は、20年前のことをかなり詳細に記録しているので、当時の人のことですから日記などをもとにまとめたことは明白です。事実、三宅家文書のなかには三宅源治郎が残した関連する史料も多数含まれています。なお、素人さんたちは下記史料のうち【1172】で、「椿井文書木津町今井家流通説も馬部氏が発見した旧津田村三宅氏文書が根拠。それらが本物かどうか誰か確認した?」とおっしゃいます。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200529.pdf

 勘違いされているようですが、私が「発見」したわけではありません。昭和40年代に始まる三宅家文書の調査の結果、確認されたもので、私は枚方市の市史資料室で公開されている写真帳から引用しました。本物かどうかを確認するのは、古文書が読める人ならば誰でも可能です。もう少し丁寧に説明するならば、誰でも確認できるところから引用するということは、仮にのちのち誰かに偽物だと突っ込まれても、特に問題ないと私自身が判断したことを意味します。同様に、私が新たに調査した史料も、全て撮影して市史資料室に保存しているので再検証は可能です。このようにして、私は議論の客観性を担保しています。

 【1142】では「#椿井文書 は中村直勝氏他が木津町椿井氏の「木津文書」とも呼んできたもので昔の文献にも掲載されているけれど、馬部隆俊氏が椿井文書だと鑑定している文書類は1911年津田村三宅源治郎が書いた原本閲覧不可の三松俊季が中川政勝から聞いた木津町今井家にあった椿井政隆古文書という伝聞が根拠で危うい」とおっしゃいます。【1147】でも「ではその伝聞の伝聞を記した1911年三宅源治郎の文書-津田山訴訟記の作者-は本物だろうか?筆跡はあうの?」とも述べます。【1183】では、主張点をより具体化しており、「椿井政隆→椿井政隆家族→今井良久→中川正勝→三松俊季→三宅源治郎と辿った伝聞が正しいかどうか確認しなければいけないし、」「郷社三之宮神社古文書伝来之記」「が本物かどうかの筆跡鑑定」「が必要」と述べています。

 前回も述べたように、私の説を否定したい素人さんたちは、半世紀以上前の中村説を虚偽をもって補足し、対抗しようとします。最終的には【2640】で、「中村直勝氏は木津の今井家で #椿井文書 は製造販売されたと記録している」というまでに至ります。そのうえで、私が根拠としたものを直接みることなく、徹底的に怪しい史料だというわけです。

 たしかに、明治21年段階の情報は伝聞の伝聞のようにみえます。しかし、三宅源治郎は、明治28年に3度にわたって今井家を訪問し、直接椿井文書の数々を閲覧し、今井良政と交渉のうえ購入しています。つまり、素人さんたちがおっしゃるような伝聞史料ではなく、「当事者」の記録です。むしろ伝聞史料は中村氏が残したもののほうといえるでしょう。

 今井家訪問前に三宅源治郎が得ていた情報は、素人さんがおっしゃるように伝聞の伝聞であるため、誤っていた可能性も少なくないです。しかし、三宅源治郎は今井家で情報を得ているので、仮に誤りがあったとしても、新たに得た情報で修正して記録するのではないでしょうか。

 三宅源治郎が、今井家で改めて事実関係を確認しなかった可能性はないと思います。なぜなら購入にあたって、土地約2000㎡の価格に相当する高額の代金を支払ったと自ら記しているからです。今井家まで行って伝来過程も聞かないまま、全てを鵜呑みにしてこの額を支払うでしょうか。3度も今井家に足を運んでいるのですから、直接再確認していることは間違いありません。

 三宅源治郎は、椿井政隆の息子である万次郎が今井家に質入れしたものだとも聞いています。仮に素人さんたちがいうように今井家で文書が偽作されており、それを隠すためによそから入手したものだと偽りを述べたと想定してみましょう。だとすると、江戸時代に椿井政隆が各地に写しとして頒布した椿井文書の原本が、今井家に存在したことを説明することができません。よって、椿井家から今井家に椿井文書が移動したことも事実といえます。

 あとは、それが質入れによるものであることを説明する必要があります。三宅源治郎は、明治7年から8年ころに質入れされたものと聞いています。実際、明治7年から9年にかけて編纂された『特選神名牒』という書籍に今井家所蔵の椿井文書が引用されることから、この時期に椿井家から今井家へ移動したことは裏付けられます。また、明治20年までは椿井文書が販売された形跡はなく、外に出回るとしても明治14年に井手の宮本直吉が今井家にあった「井堤郷旧地全図」を模写しているように、販売はされていませんでした。これは、明治20年以前は質草として機能しており、それ以降に質流れになったことを意味します。

 【2583】では、「椿井文書は椿井政隆の死後、木津の今井家へ質入れされたという1911年三宅文書の記録は、「建前」として説明されたものを三宅が文字通り受け取っただけ」といい、「ぶぶ漬けを真に受けただけ」とも述べます。これは三宅氏に対して言いたいのか、私に対して言いたいのか、よくわかりませんがひどい言いぶんです。でも、半世紀以上も前の話を鵜呑みにしていることから、「ぶぶ漬けを真に受けた」のはむしろ素人さんご自身ですよね。悪口は自分に返ってきますから気をつけましょう。

 椿井文書の伝来過程について、中村氏の著書ではなく、三宅源治郎の記録のほうが正しいと判断した理由をつらつらと述べてきました。論文では、ここまで詳細に記すことはありません。読者として研究者を想定しているので、ここまで丁寧に説明しなくてもおよその察しをつけてくれるでしょうし、わざわざ証明しなくてもよいことまで証明していたら話の本筋からそれてしまうからです。

 しかし、「もし仮に何か突っ込まれたらこのように返答するぞ」、という準備は何重にもしており、常に万全を期しています。その準備の一部が上述のつらつらとした文章です。これでも準備しているもののうちの一部です。論文を読むと、そのような準備をしていることはだいたい察しがつくので、研究者同士で野暮な揚げ足とりはわざわざしません。引用している古文書を一つ一つ本物かどうか確認しはじめたら、キリがないですからね。

 卒論提出後には、試問があります。私はときどき、研究者同士では聞かないような、あえて野暮な質問をしてみることもあります。「もし仮に何か突っ込まれたらこのように返答するぞ」、という準備がどれだけできているかを確認するためです。決して、意地悪というわけではありません。

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古文書の伝来過程

 どの家の蔵から出てきたか、などといった伝来過程の情報は、古文書を分析するうえでとても重要です。例えば、ある一通の借金証文が、金を貸した側の家に残っていたら借金は返済されていないということになり、借りた側の家に残っていたら借金は返済されたことになります。つまり、古文書の所在で、事実が全く逆になる可能性もあるのです。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200528.pdf

 以前も引用したように、素人さんたちは上記史料の【2306】で、椿井文書の伝来について、中村直勝氏の研究を引用して次のように述べています。

・中村直勝氏の政隆死後の時代の由緒書オーダーメイド販売業者の椿井・今井家

 1962年発行の『歴史の発見』という著書のなかで、中村氏は「明治三十年前後」に「木津に椿井(つばい)という旧家があって、」「相手の様子を観察し、その資力の程を推察し、」「作為する」と述べています。たしかに素人さんのおっしゃるとおり、明治時代に木津にある椿井家で偽作したと唱えていますが、今井家については触れていません。素人さんたちがこのように手を加える理由については、またのちほど考えます。

 なお、明治30年代ともなると、西洋の筆記用具も定着し、字体が江戸時代とずいぶん変わります。よって、その時期に作成されたものと江戸時代に作成されたものを見分けることは、経験さえあれば比較的容易です。また、江戸時代後期に椿井家で偽文書が作成されていたことは、例えば中川泉三氏が大正期にはすでに触れています。

 こうした事実を再整理するなかで、中村氏は考えを二転三転させた可能性があると私は考えています。なぜなら、1968年発行の『古文書研究』創刊号のなかでは、椿井家の名前を出さずに「今井氏というのであるとか」と不確定情報として偽作者の名を変えているからです。しかし、1977年発行の『日本古文書学』下のなかでは、「明治三十年頃に山城国木津町に住んでおった椿井氏の秘庫中から探し出されたもの」としており、今井家の名前が消えてもとに戻っています。注目したいのは、ここでは明治時代の偽作とはしていないことです。過去の誤解をとりあげるのも野暮なので、私はこれを中村氏の最終的な見解として採用しました。ただし、椿井政隆が椿井村の住人であることも、明治時代に椿井文書を販売していたのが木津の今井家であることも、多数の史料から明らかなので、江戸時代の椿井家と明治時代の今井家を混同して「若干誤解している」とのみ指摘しておきました。

 問題は、1962年段階のように、明治時代に偽作していたという大きな誤解がなぜ生じたかです。そこで、歴史学者としての中村氏の思想が形成された場である母校の京都帝国大学に着目しました。すると、戦前の京大では、若き大学院生たちがしばしば椿井文書について議論していることが確認できました。しかし、その一方で、先述の中川泉三氏が椿井文書と指摘している「興福寺官務牒疏」を、大学院生たちは正しい中世文書と誤解している場合もあります。椿井文書の存在は知られていたものの、情報が多少錯綜していたようです。大学院生の議論のなかでは、椿井家が偽作していたという情報と明治時代に木津で販売されていたという情報がしばしば出てきます。これらはいずれも事実なのですが、それを組み合わせてしまった結果、上述のような中村氏の誤解が生じたのでしょう。

 とはいえ、戦後歴史学のなかで中村氏が椿井文書に最も精通していたことは間違いありません。例えば、「興福寺官務牒疏」が椿井文書であることはどうやらお見通しのようです。1973年発行の『カラー近江路の魅力』(坤)のなかで、「南都興福寺―言わば藤原氏の勢力は平安時代中期以降、消耗して金勝寺には達せず」と明言しているからです。1441年のものという体裁をとる「興福寺官務牒疏」のなかで、金勝寺は近江における興福寺末寺の最大勢力として描かれており、1973年段階の学界ではそれがほぼ常識でした。その誤りを一般向けの本でさらっと一蹴するあたり、中村氏の卓見ぶりが伝わってきます。

 では、素人さんが中村氏の説のなかに、今井家を盛り込む意図はどこにあるのでしょうか。私は、椿井政隆の死後、息子の万次郎が明治初期に椿井文書を今井家に質入れし、明治20年頃からそれの売却が始まったと指摘しています。その根拠については改めて説明しますが、どうやらこの説を否定したいようです。そこで担ぎ出されたのが、半世紀以上も昔の中村氏の説ということになります。明治中期に今井家が椿井文書を売却していたことは、私が示したありとあらゆる史料からも明らかです。この今井家をうまく組み込めていないのが中村説の決定的な弱点といえます。そのため、中村氏のいう木津の椿井家と今井家を一体のものとしてしまえば、中村説を補強でき、私の説を否定できると踏んだようです。

 前回も述べたように、研究というのは日々進展しています。半世紀も前の研究が、その分野の第一線でなお機能しているということはまずありません。椿井文書の研究に関していうならば、前回も述べたように私とそれ以外の研究者では、踏まえている椿井文書の数が圧倒的に違います。中村氏は、ただの一つも椿井文書を引用することはありません。過去にみてきた椿井文書の印象を述べるのみです。中村氏は、椿井文書の用紙は間合紙で、書体は明朝体と述べますが、それ以外にもあらゆる様式があるのは、最近刊行した『大阪大谷大学図書館所蔵椿井文書』という報告書に並ぶ椿井文書の写真をみても明白です。つまり、実見した量は限られるようです。

 では、素人さんたちが、椿井家と今井家を合体させる手法をみてみましょう。【1218】では、椿井政隆が「木津の今井氏と姻親の関係あり」とする1927年発行の『東浅井郡志』を引用しています。それ以降、同様の発言を【1278・1404・1726・1909・1919・1945・2075・2343・2548】で執拗に繰り返します。それを根拠として、【1268】の「中村直勝氏の記録通り各神社のニーズに合わせ数カ月で由緒書を職人が明朝体で大量生産した姻親・椿井家&今井家」や、【1352】の「中村直勝が記録したように各神社仏閣が汽車に乗り木津の椿井・今井家へ由緒書を探しに行き」のように、椿井家と今井家を一体化させた記述が頻出するようになります。

 姻戚関係を殊更にとりあげるのも、私の説を否定することに目的があります。なぜなら、【1648】で「椿井政隆1人で作成し彼の死後木津の今井家へ質入れされたが馬部隆弘氏の説ですが、文献には今井家と椿井家は婚親と書いてあるので矛盾です」と述べているからです。姻戚関係にあることと、質入れしたことは矛盾しません。むしろ、姻戚という信頼関係があるからこそ、金を貸したとみることができるので、私の説の補強材料といえます。

 しかし、私の手元にある椿井家や今井家の系図のどれをみても、姻戚関係を確認することはできませんでした。とはいえ、前近代には「通婚圏」というものがあって、南山城のそれを踏まえた場合、村のなかでも家格的に最上層に位置する椿井家と今井家の間に、遠縁の姻戚関係すらないということもまず考えられません。『東浅井郡志』が指摘する姻戚関係とは、その程度のものと思われます。よって、そこから拡大解釈して椿井家と今井家を一体化させてしまうことは、到底できません。

 ここまで、椿井文書の伝来過程について少しこだわってみてきました。以上の事例から何がいいたかったかというと、江戸時代に椿井村で創作されたものも、ボタンを掛け違えて伝来の過程を少し誤解するだけで、明治時代に木津で創作されたというものになってしまうということです。このように解釈を大きく左右してしまうので、まずは伝来過程をきっちり把握することが、古文書をみる第一段階で重要な作業となります。

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研究と史料的環境の進展

 前回は、研究される時期によって、背景にある情報量も全く異なるという話をしました。古い論文が誤りで、新しい論文が正しいとは一概には言えませんが、研究がより進んでいる段階の新しい論文のほうが、より多くの情報量を前提にしている可能性は高いといえます。ゼミで扱う最初の論文は、できるだけ新しいものを選ぶようにと私が言っているのは、まずは現段階でわかっている情報をより幅広く把握しておいたほうが、効率よく次の段階に研究を進めることができるからです。

 また、時期が下れば下るほど、史料的な環境も整備され、より多くの史料を目にすることができるようになります。前提となる史料が多ければ多いほど、より過去の実態に迫ることができることはいうまでもありません。前回、それぞれの研究者が「正解」を出すに至った材料をしっかり吟味するのも大事と述べたのは、この点を意識しています。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200523.pdf

 前回も引用したように、素人さんたちは上掲史料のうち【2306】で次のように指摘します。

・藤本孝一氏の「考証に耽るあまり上代より説き付け、室町時代に編纂されたもののように叙述した」椿井政隆

 1988年段階の藤本氏のこの指摘に対して、私は2005年の論文で、「何らかの目的があったからこそ、中世の年号を付して偽装したと考える方が自然なのではないだろうか」と指摘しました(『由緒・偽文書と地域社会』309頁)。端的にいえば、無意識のうちに誤っているという藤本氏と、意識的に偽っているという私の意見が相違していて、素人さんたちはつじつまが合わずに混乱しているわけです。

 藤本氏は上述の結論を述べる前に「推測するに」と述べています。その推測の判断基準ですが、椿井政隆の作成した絵図が「現地の景観ともよく合い、作図するに当り、現地調査や史料採訪を行っていたと思える」という点と、「江戸時代中期より流行する国学の考証的学風に呼応したものではなかろうか」という点の2点です。つまり、主張の根拠は、いずれも椿井文書をみたうえでの藤本氏の印象に過ぎません。

 私は新書のあとがきで、2005年の論文は「椿井文書の全貌がわからないまま見切り発車的に発表した」と述べました。これは事実ですが、当時は100やそこら集めた程度だったので、このように考えていました。予想される椿井文書の全体量を踏まえると、まだまだ網羅はできていないと思っていたのです。

 では、先ほどの藤本氏の印象が、どのような材料から浮かんできたのかというと、藤本氏の論考のなかで使用される椿井文書は、「普賢教法寺四至内之図」「山城国普賢寺郷惣図」「興福寺官務牒疏」「飯尾山医王教寺鎮守社祭事紀巻」「高麗大寺図」「北吉野山神童子縁起」の6点のみです。

 私以前に、椿井文書について最も詳しく考察していたのは藤本氏でした。それでも6点のみであるように、椿井文書を意識的に集積しようとした研究はありませんでした。それもそのはずで、かつての偽文書は、正しい歴史を把握するために排除するべきものでしたから、それをわざわざ集積することに積極的な意義は見出されなかったのです。それに対して私が研究を始めた頃には、偽文書そのものを研究対象として、作成の目的や利用の実態から社会のありかたをみようとする研究が次々に発表されていました。私もそれらの研究に学んで、椿井文書をせっせと集めはじめたのです。しかも、藤本氏の研究以降に発行された自治体史などの史料集も多数あり、史料的な環境も間違いなく充実していました。

 結果、藤本氏と私の間には、椿井文書に関する情報量に圧倒的な差が開くとともに、椿井文書から情報を抽出する方法にも根本的な違いが生じました。「見切り発車」ながらも踏み出す勇気が出たのは、この違いにそれなりの自信も感じていたからです。私が引用している椿井文書の数々をみて、なお無意識のうちに誤ったと思うような人は、サギの被害に遭わないように気をつけたほうがよいかもしれません。

 みなさんも、これからゼミで論文を読み進めていきます。それらの先行研究は偉大で、学生の自分には乗り越えられるわけがないと思うかもしれません。しかし、われわれは様々な研究蓄積の恩恵に浴することができます。今現在の研究状況をしっかり理解し、その後に整備された史料的な環境を踏まえると、学生のみなさんでも先行研究に立ち向かうことは十分に可能なはずです。

 蛇足になりますが、以下では素人さんたちが藤本氏と私の研究を並べたうえで、藤本氏の肩を持つ理由について考えてみたいと思います。なぜなら、上述のことを踏まえるならば、常識的にみて20年近く前の研究のほうが正しいなんて、普通は思うはずがないからです。

 【1242】では、藤本氏の指摘のなかで「一番重要なのは、その #椿井文書 と思われるものを元にお墓が実際に発掘されたという点なのに、それを読者へ知らせないのは不誠実ではないかな?」と述べています。さらに【1769】では、藤本氏は「#椿井文書 と思われるものに書かれたお墓の形状が発掘された物と合致したと報告されているけど、馬部隆弘氏はそれをあえて書かなかった。」ともおっしゃります。

 椿井文書の内容をもとに発掘調査をしたところ、それと合致するものが出てきた。この事実を示すと、椿井文書が偽りであるという私の主張も一歩後退してしまう。だから私は、発掘の事実を伏せているということらしいです。私って悪い人ですね。

 そもそも、近衛基通公墓とは、近世後半のものとみられる家形石祠を近衛基通(1160年~1233年)の墓だと勘違いしたものです。明治15年に、この家形石祠に土をかぶせて隠してしまい、周辺に囲いを作るなどして整備しました。上述の発掘調査とは、このかぶせた土を取り除くものでした。ですから、椿井文書を元に調査したわけではありません。藤本氏は、発掘調査成果と椿井文書の絵図を照らし合わせて分析しているのであって、明らかに語弊があります。

 また、椿井文書に基通公墓が描かれているといいますが、これも厳密には異なっており、椿井文書に貼られた付箋に描かれているというのが事実です。その付箋は、椿井政隆が作成した絵図のなかの何もない山の斜面部分に貼られています。そこに家形石祠の略図が描かれ、椿井政隆とは異なる筆致で基通の墓である旨が記されているのです。藤本氏も指摘しているように、この絵図は明治14年段階には基通公墓付近の大西家にあったことから、基通墓を捜索していた時期に同家で貼られたのでしょう。明治15年に埋める直前の姿を描いているので、発掘したら合致する物が出てきても、さほど驚くべきことではないと思います。

 以上のようにみると、椿井政隆の動向を分析するうえで、発掘成果には触れる必要性は全くありません。また、椿井文書が後世に与えた影響を分析するうえでも、同じことがいえます。

 ここでは別の問題が浮上します。素人さんは、椿井文書をもとに発掘したら、それと合致するものが出てきたとおっしゃいますが、藤本氏の論考からそう解釈するのは相当困難です。もし、大真面目に読んでそう解釈したのならば、日本語読解能力が決定的に欠如しています。あまり考えたくはないのですが、私をおとしめるために悪意ある解釈をした可能性もあるでしょう。いずれにせよ恥ずかしいことです。

 論文をただひたすら自身の都合のよいように表面的に読むと、このようなことに陥ってしまいます。みなさんも気をつけてください。

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