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本郷村善九郎【追記あり】

【追記】空梅雨の日本でしたが、やっと雨が降ってきました

江戸時代に飛騨国で「大原騒動」(1771-1788)と呼ばれる一揆が起こりました。そのうち安永騒動では、首謀者の一人とされた本郷村善九郎(十八歳)が安永三年(1774年)に獄門になりました。

【追記】本郷村善九郎は幼い頃から神童の名が高く、純粋かつ胆力と正義感に富んだ人物だったと言われています。高原の小天狗との異名を取り、妻のおかよは養子に入った善左衛門の娘で、幼い時から仲良くしていたそうです。


処刑の四日前には、妻のおかよに次のような手紙を書いています。

 

尚なお申上げ候 私のともだちの衆中様へも右の趣
伝え下さるべく候
一つ書きおき申し候こと承り候へば
風便あしく之れ有候へば 私にも
相はて申し候様に相聞 候間
拙者義もかくご致し申候 
其の方にも あきらめ成さる可
此の世にては あひ申さず候 然れども
一度あひ申候へば 残心も
御座なく候 此の上御両親様 

随分 ずいぶん ずいぶん
大切に頼み上げ奉り候 さて
その方にも をふりどのと
仲よく相くらし なさるべく候
扨て又随分 ずいぶん
松乃丞様大事に成され下さるべく候
此の間も鉈見村 
与十郎殿より柿一わ
石神長重郎殿よりは一わ下され候
御礼申さる可く候此上にも
随分 ずいぶんの

仕合能くて ゑんとを
つい方にも相成り候へば
罷帰御目に懸かり申す可候
然しながら 罷り帰る事は志ようふ志ようにて御座候へば
いとまごい一筆入れ
其の上いとまごいのため申し入れ度 
如此に御座候  以上
十二月一日
おかよどの         善九郎  

 

 

また、辞世の句は次のようになっています。近世も半ばになると農民でも和歌や俳句を嗜むものが居たようです。

 

寒紅は無情の風にさそわれて莟みし花の今ぞ散り行く

常磐木と思ふていたに落ち葉かな

 

一次資料には、その資料に触れなければ分からない多くのことが書かれていると思います。私は大原騒動については学習まんが少年少女人物日本の歴史21農民一揆(小学館)で知っていたのですが、今回初めて手紙を原文で読んで心を打たれました。安永騒動の大沼村久左衛門という人物も、飛騨は勿論越中・美濃・尾張にまで名が通った人物だとは知りませんでした。Wikipediaに記載されているトクヴィルアメリカのデモクラシーの項を読んでも、先日記した情報から受ける印象とはかなり異なってくると思います。

 

豊臣秀吉と徳川家康、黒田官兵衛(来年のNHK大河ドラマの人物)との関係などでも、秀吉は

 

秀吉、常に世に怖しきものは徳川と黒田なり。然れども、徳川は温和なる人なり。黒田の瘡天窓は何にとも心を許し難きものなりと言はれしとぞ

 

と述べています。官兵衛は荒木村重が織田信長に対して謀反を起こした際に村重に幽閉されても翻意はしなかったなど、それまで主君を裏切ったことはなかった筈なのですが、家康は温和な人というのと対照的な表現になっているのも、原文を読まないとなかなか分からないことです。

 

 

 

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同窓会

『巨神兵東京に現わる』という映像作品を観ました。短い作品ながら『風の谷のナウシカ』の前編として面白いものでした。本編の『ヴァンゲリヲン新劇場版:Q』よりも良かったくらいです。

 

***

 

小学校の同窓会に出てきました。21年ぶりに会う人ばかりだったので、感慨も深かったです。ただ、小学生の時は仲良くしていた友達が亡くなったという話を聞き、居たたまれなくなって一次会終了後に退席しました。

 

私は、自分が仕事を出来るか出来ないかなどは管理職が仕事の分担をすることには重要ですが、それで人間の価値が決まってくるのではないと思っています。それよりもかけるべき時にかけるべき言葉を持っている、そういう事の方が大切だと思っています。相手の人生がかけがえのないものであることを論証するのは、造作もない事の筈でした。私は失念していたのですが、少なくとも小学生の頃の自分には、出来た筈のことでした。

 

ところが、今時分の私にはそういう言葉を臆面もなくかけることが出来そうにありません。私は5年ほど前までは実家に住んでいたので、実家の直ぐ近くで身近だった人にそういう話があったことも知りませんでした。私は高校の部活の後輩を水の事故で亡くしましたが、いろいろあって葬式にも出席出来なかったので、親御さんとは手紙のやり取りを続けていますし、事ある度に教会まで墓参りに行っています。ところが今度の事はそれ以上にショックでした。中高と私立の学校に行ったので疎遠になるべきではなかった。

 

頭がいいとか悪いとかそういうことではなく、かけるべき言葉の力を持つべきという、初心を噛み締めることしか出来ませんでした。何事も究極的にはそこに繋がるべきだと考えていたので、昔よりも却って無力になった時自分を思い知らされる出来事でした。人間味は失うものではありません。

 

 

 

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アメリカのデモクラシー


アレクシ・ド・トクヴィル『アメリカのデモクラシー』(岩波文庫)を読みました。トクヴィルの『旧体制と大革命』(ちくま学芸文庫)については、以前少し触れました。現在でもアメリカの民主主義を語る上で欠かせない古典的名著として読まれているそうです。私は5年前に『旧体制と大革命』を読んだ際は、最初の数頁を読んだだけで「私は今とんでもないものを読んでいるのではないだろうか。」と思ったのですが、かねてから読みたいと思っていた『アメリカのデモクラシー』を今回読んで、その先見性と預言性(アメリカとロシアの冷戦体制を予見したかのような内容など)に改めて驚嘆しました。私の33年余りの人生で指折りの出会いです。

 

アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)
トクヴィル
岩波書店(2005/11/16)
値段:¥ 945


アメリカのデモクラシー〈第1巻(下)〉 (岩波文庫)
トクヴィル
岩波書店(2005/12/16)
値段:¥ 1,092


アメリカのデモクラシー〈第2巻(上)〉 (岩波文庫)
トクヴィル
岩波書店(2008/03/14)
値段:¥ 819


アメリカのデモクラシー〈第2巻(下)〉 (岩波文庫)
トクヴィル
岩波書店(2008/05/16)
値段:¥ 882


トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』で力点を置いて解説したのは、市民革命で重要な二つの概念、「自由」と「平等」のうち「平等」で、「自由」は「平等」の中からどのように生まれるのかについての説明に腐心していました。

 

「平等」という概念は、公共精神や法律の傾向、為政者・被治者の行動原理に多大な影響を与えます。これはヨーロッパでは行政の効率化のために絶対主義の時代から取り組まれて来たことであります。イギリスのピューリタンの流れを組むアメリカへの初期移民もこのシステムを受け継ぎ、初期移民は最初から均質だったために「平等」の浸透はヨーロッパよりもアメリカで顕著でした。「平等」の浸透は富や力の集中の低下と、身分制の消失を意味します。相続法が長子相続で先祖代々の富が受け継がれて行くか、それとも分割相続で不動産は必然的になくなり動産が経済の主体となるかなど一つをとっても、その政治・経済に与える影響は明らかでしょう。権力者の地位の低下とブルジョワの台頭は、知能が成功の鍵となり学問による統治が行われ、確率論的に現れる知性の力が支配することに繋がります。ただし、これは貴族政に比べ民主政では市民の平均的な知性が上昇する一方で、群を抜いた知性が現れることを妨げる可能性もあることを示します。全ての市民は自己の地位の上昇をゼロからスタートさせなければならず、家系により得られる富や権力に基づいた余暇による知性の向上の促進が不可能になり、そのデメリットが知性の母体となる市民の総数の増加によるメリットを上回る場合もあるからです。アメリカでは為政者よりも被治者に優れた人物が多いと語るのも、市民の知性がある一定以上にはならない為に山師的な為政者に人気が集まることが多いからとしています。それらを踏まえて私は、日本の国会議員に二世議員が多いのも、親議員の政治家としての環境を受け継げば必然的に議員として成功しやすくなることから、二世議員の存在自体に異議がある訳ではありません。

 

一方の「自由」などの諸権利は、アメリカではピルグリムの宗教性に基づくものであり、それらの概念は社会システムの構築に最初から大きな影響を与えていました。貴族の居ない不毛の大地で、ブルジョワ的民主主義がいち早く花開く元となったのです。また、今日のアメリカでは弱くなっているものの、town, county, stateと地方自治の主体が連邦政府に比べて大きな権限を持ち、自助と結社に依る地方分権が進んでいてDIYDo It Yourself)の精神が顕著であることも認めています。トクヴィルはここでアメリカ北部に比べて南部では市民の資金が乏しく規律も緩くなり、town中心からcounty中心の政治となって奴隷制も支配的になることを提示し、後の南北戦争の切掛けを読み取っています。

 

トクヴィルは民主主義においては熱に侵されやすいので法制度的には不安定になるが、憲法は安定して一貫した立場を貫くとしています。本文から引用すると、

 

民主制の法律は一般に最大多数の利益を目指すものである。というのも、それは国民全体の多数に発し、多数者は錯誤を犯すことはあっても、それ自体に反する利害をもつはずはないからである。

ところが、貴族制の法律は少数者の手に富と権力とを独占させる傾向がある。貴族はその本性上つねに少数者だからである。

そこで一般に、民主制の立法目的は貴族制のそれより人類に有益だと言える。

だが利点はここまでである。

立法者の知識は貴族制の方がはるかにすぐれており、民主制はこれにとうてい太刀打ちできまい。貴族制には自制心があり、決して一時の衝動に引きずられない。長期の計画をもち、しかも好機到来まで計画が熟するのを待っていられる。貴族制のやり方は賢明である。あらゆる法律の総合的効果を同時に一点に収斂させる術を知っている。

民主制ではそうはいかない。その法律はほとんどつねに欠陥を有し、また時宜を得ていない。

それゆえ民主制がとる手段は貴族制のそれに比べて不完全である。しばしば、意図せずに自分自身の利益を害することもある。だが民主制が目指すところは貴族制の目的より有益である。

その本性あるいは構造が悪法の一時的弊害に耐えられるようにできている社会、法の一般的傾向の帰結が現れるまで滅びずに待っていられるような社会を想像していただきたい。民主政治はその欠陥にもかかわらず、このような社会を繁栄させるにはやはり最適の政治であることはお分かりであろう。

 

また、後の福祉国家・行政国家の到来もこう預言しています。

 

公権力が民衆の手に落ちると、主権者は不満を募らせ、すべてに最善を求める。

こうなると改良の精神は多様な対象に広がり、限りなく細かなことまで及ぶ。とりわけ費用のかかる改良事業に手がつけられる。自力で生活できない貧民の状態の改善がそれである。

加えて、民主社会には明確な目標のないある動揺が存在する。そこには一種の慢性の熱病が蔓延し、あらゆる種類の改革を志向する。そして改革はほとんどいつも高くつく。

君主政および貴族政においては、主権者が生来もつ名声欲と権力欲を野心家が煽りたて、莫大な浪費をさせることがある。

民主政では主権者が貧しいから、その暮らしをよくしてやらねば主権者の好意は決して得られない。金を使わずにこれを行うことはまず不可能である。

さらに、民衆が自らその立場を考えるようになると、以前には感じたことのないたくさんの必要が生じ、これらを満たすには国家の財源に頼るほかない。このため、一般に公租は文明とともに増大するように思われ、税金は知識の普及につれて高くなっている。最後に、しばしば民主主義の政府を他の政府より高くつかせるもう一つの原因がある。民主政も時として費用を節約しようとするが、これを成功しえない。というのも、節約の術を知らないからである。

民主政治の下では方針が変わりやすく、責任者はそれ以上に頻繁に交替するから、事業の運営が稚拙であったり、中途で放置されたままになったりする。前者であれば、国家は目的の大きさに比べて不当な浪費をすることになり、後者の場合には、無駄な費用をかけることになる。

 

トクヴィルは、民主制では革命が起きにくいとされる原因について、次のように考えています。

 

人々が相似たものになればなるほど、知性の平等の教義が次第に人の信念に浸透し、いかなる革新的思想家にとっても、一国の人民の精神に対して大きな力を得てこれに影響を及ぼすことは一層難しくなる。このような社会では、だから突発的な知的革命は稀である。なぜなら、世界の歴史に目をやれば、人間の考えに巨大で急激な変動を生んだものは理論の力というより一人の人間の名前の権威であることが分かるからである。

 

これは平和を愛する心にも繋がるとされていますが、ファシズムの預言については、次のような記述があります。

 

貴族制の社会では、野心はしばしば遠大な目標にまで広がるが、限界は厳として存在する。民主的諸国では、通常それは狭い範囲で動いている。だが、一度その範囲から出ることがあると、制約するものは何一つないかのように見える。そこでは人間は弱く、孤立し、落ち着きがない。前例はほとんど力がなく、法律は長続きしない。そのため新しいものへの抵抗が弱く、社会はおよそ健全で確固たる基盤をもっているようには見えない。そのため、野心家が一度権力を手中にすると、どんなことでもできると思い込む。そして権力を失うと、これを取り戻すために国家を転覆することを考える。

 

具体的には、

 

専制がこの世界に生まれることがあるとすれば、それはどのような特徴の下に生じるかを想像してみよう。私の目に浮かぶのは、数え切れないほど多くの似通って平等な人々が矮小で俗っぽい快楽を胸いっぱいに想い描き、これを得ようと休みなく動きまわる光景である。誰もが自分にひきこもり、他のすべての人々の運命にほとんど関わりをもたない。彼にとっては子供たちと特別の友人だけが人類のすべてである。残りの同胞市民はというと、彼はたしかにその側にいるが、彼らを見ることはない。人々と接触しても、その存在を感じない。自分自身の中だけ、自分のためにのみ存在し、家族はまだあるとしても、祖国はもはやないといってよい。

この人々の上には一つの巨大な後見的権力が聳え立ち、それだけが彼らの享楽を保障し、生活の面倒をみる任に当たる。その権力は絶対的で事細かく、几帳面で用意周到、そして穏やかである。人々に成年に達する準備をさせることが目的であったならば、それは父権に似ていたであろう。だが、それは逆に人を決定的に子供のままにとどめることしか求めない。市民が楽しむことしか考えない限り、人が娯楽に興ずることは権力にとって望ましい。権力は市民の幸福のために喜んで働くが、その唯一の代理人、単独の裁定者であらんとする。市民に安全を提供し、その必要を先取りして、これを確保し、娯楽を後押しし、主要な業務を管理し、産業を指導し、相続を規制し、遺産を分割する。市民から考える煩わしさと生きる苦労をすっかり取り払うことができないはずがあるまい。

 

ということです。トクヴィルは軍部の下士官が好戦的になる可能性が最も高く危険であるとしたので、伍長上がりのヒトラーの出現を預言していたかのようです。

 

トクヴィルは平等社会の実現にあたって重要な集権制には二種類あって、国のあらゆる地域に共通に関わる事柄に関する政治の集権と、ある特定の地域のみに関わる事柄に関する行政の集権があります。政治の集権に関しては国力の増大への貢献と市民の自律性低下という功罪がありますが、行政の集権に関しては公共精神の減退しか招かないというのがトクヴィルの意見です。トクヴィルは、

 

小さな国家の中に暴政がうちたてられると、それは他のどこにおけるよりも不愉快なものである。なぜなら他と違って行動半径が限られているので、暴政がすべての範囲を覆ってしまうからである。大きな目標を特に立てえないので、それは無数の些事に口を出す。暴政は暴虐であるとともに口うるさくもなる。その本来の領域である政治の世界から出て、私生活に浸透する。行為にとどまらず趣味まで指導し、国家の次には家庭を支配しようとする。もっとも、こうしたことは滅多に起こらない。実をいうと、自由こそ小さな社会の自然の条件である。そこでは政治は野心にとってあまりにも僅かな誘惑でしかなく、個人の資金にも限界がありすぎて、主権的権力がただ一人の人間の手に集中することはあまりない。もし起こっても、被治者が結集して、共通の努力によって暴政と暴君を一挙に転覆することは難しくない。

 

とも述べています。また、アメリカにおいて権限が広く多様性のある各州を一つに束ねているのは愛国心と宗教心(ただし、政教は厳格に分離している)であるとしています。

 

さらにトクヴィルは、グローバリズムの到来をこう預言しています。

 

私がアメリカについて言うことはさらに現代人のほとんどすべてに当てはまる。人類の中の多様性は消えつつある。同じ行動様式、同じような思考と感性が世界の隅々に見出される。これは単に諸国民の相互の交流が増し、互いに忠実に真似し合うようになったからだけではない。どの国でも、人々は一つのカースト、一つの職業、一つの家系に固有の思想と感情からますます離れ、どこでも変わらぬ人間そのもののあり方から直接発する思想や感情を同時にもつようになるからなのである。こうして人々は真似し合わずとも、似たものになりつつある。彼らはあらゆる道が一点に集まる大きな森の中に散らばる旅人のようなものである。すべての人が中心点に気づき、その方向に歩を進めれば、彼らは、探し合うことも気づくこともなく、互いに見知らぬまま、いつの間にか接近し、同じ場所に集まってはじめて驚くことになるだろう。特定の人間でなく、人間そのものを研究と模倣の対象とするあらゆる国民は、森の中心に導かれるこれらの旅人のように、最後にはみな同じ習俗の中で出会うことになるであろう。

 

 

 

このトクヴィルの思想を受けて、現代日本の政治はどのように考えられるでしょうか。日本は一時期「一億総中流」と称されましたが、それは平等に基づく民主政治が浸透した結果であると思われます。現在格差が生まれて来たのは、そこに自由権に基づく市場原理の影響が大きくなった為だと考えられます。政治家が劣化しているという意見も、民主主義の必然的帰結であることもトクヴィルは示していました。政治的に不安定だが憲法はなかなか変わらないことなど、今の日本は民主主義の極端な例のようです。ネット上では欧米には見られない程ありとあらゆる意見が垣間みられるのも、表現の自由の極みを体現していると考えられます。以前JT生命誌研究館の中村桂子先生とネット上でコミュニケートさせて頂いたのですが、その時の政治・経済についてよく分からなかったことがここに来てようやく分かるようになってきました。ミヒャエル・エンデの言う「時間どろぼう」とは市場原理とそれを招き入れた民主政であるのです。中村先生の元の投稿はこちらで、中村先生とのやり取りは以下の通りです。全て公開されていますが、リンク先が辿りにくいためここに記します。

 

足立:私も憲法の平和主義の条文を改正する改憲には反対です。戦争は多くの理不尽さと隣り合わせなので、日本が戦争に巻き込まれることも、他国を戦争に巻き込むことも極力避けるべきですし、他国での平和維持活動も軍事力無しに行う方法もある筈です。しかし当面の問題は経済の停滞にある筈で、今度組閣される安倍内閣も憲法改正よりも先にこちらを優先課題として取り組むでしょう。先生は新自由主義がお嫌いなようですが、私は以下の理由で新自由主義的な政策も已む無しと考えています。中国の故事ではないですが、国というものは国民が健康で文化的な最低限度の生活を営む事を保証すれば、後はあってないようなものなのが一番良いものだと思います。 “…there is no such thing as society. There are individual men and women, and there are families.Margaret Thatcherがイギリスにおいて言ったのと同じように、現代の日本人の活動の単位は基本的には個人や家族で、徒党を組むことは少なく、イデオロギーの元で徒党を組んだ場合は得てして他の徒党と軋轢を産みやすいものだと思います。科学技術政策にも通じるかも知れませんが、複雑化した世界で国がイデオロギーをもって国民を動かす時代はもう終わり、あるのは個人/家族と世界で、個人/家族の活動とその他の人々との緩やかな連携が個々の地域や国の個性的な「美しさ」とでも言うものを自然発生的に創りだすのではないかと思います。財政再建のためにも国家の役割の縮小は必要で、そのための新自由主義的な政策ではないかと思います。土地やお金に執着する人も出てくるでしょうが、そういう人も多様性として認めつつ、私たちの立場としてはそれだけに縛られない価値観を研究や教育の場で提供出来れば、それでいいのではないでしょうか。

 

 

中村先生:国家の役割の縮小が必要であるというお考えは賛成です。地域の活性化、個人や家庭の役割の大切さもその通りです。しかし、現在進められている新自由主義は、結局「世界をカジノ」にしました(ロナルド・ドーアさんも著書で指摘されていますし、銀行の方と話しても当事者としてそこに巻きこまれざるを得ないことに疑問を持っている人はたくさんいます)。これを変えなければいけないと思います。浜矩子さんも経済学者として新しい考え方を出されています。一人一人が気持よく生きることを大事にしたいので、竹中平蔵さんが作り出した今の新自由主義の流れにはどうしても賛成できません。

 

 

足立: 中村先生、お返事有り難うございます。「新自由主義(libertarianism)」は竹中さんのものが今は印象に強いですが、日本においては元々、中曽根さんがバブル前に導入したものですね。私は1979年生まれなので物心がついた頃には既に中曽根さんが総理で、中村先生が仰るような「落ち着いた共同社会」というものを経験していない可能性があります。Libertarianismに浸かって成長してきたので、世代間のギャップがあるのかも知れません。Libertarianismの是非はさておき、新自由主義から脱却するのなら、過去を知らない私たちの世代以降が民意の大勢を占める前のここ十年間の施策が非常に重要になってくると思います。改憲も経済も、中村先生の仰る様に実は今非常に重要なことに取り組んでいるのではないかと思います。

 投票しても変わらないという人もいますが、それは2-3年のスケールで観ているからで、中曽根さんの施策がその後20年以上の長きに渡って日本に影響を与え続けたように、長期的な視野での施策が問われていると思います。私も中村先生と同じ生命科学者の端くれで政治や経済はとんと疎く、定まった意見がある訳ではないのですが、今後を踏まえてしっかりと物を考えて行かなければならないと思います。安倍さんの最近の動向ではまだLibertarianism雰囲気がしますが、副総理になるという麻生さんは首相だった時代に国と国との間の富の再分配のような新自由主義でなく、内需拡大による景気刺激を打ち出していたので、そこから学んでいこうと思います。私は今の自民党を支持している訳ではないですが、麻生さんの経済のセンスは優れたものがあると思うので。経済が国民の人格まで左右するのならそこから始めないといけません。

 

 

中村先生:なるほど。世代間のギャップをよく考えて答を探さないといけませんね。なんだかとても年寄りになった気分ですが、おばあさんの知恵ということもあるぞと思い、「落ち着いた共同社会」のよさを発信していきます。

 

 

以下はそのことに関するトクヴィルの見解です。

 

民主社会に生きる人々にとって沈思黙考は難しいというだけなく、彼らは当然のようにそもそも考えることを重んじない。民主的な社会状態と諸制度はたいていの人々を不断の行動に駆り立てる。そして行動に適する精神習慣が常に思考に適するとは限らない。行動する人間はしばしばおおよそのところで満足せざるを得ない。細部まで一つ一つ徹底しようとすれば、計画をやり遂げるところまでいかないに決まっているからである。自分では暇がなくて深く考えたことのない観念に絶えず依拠するのも仕方がない。というのも、厳密に正しい観念に依拠することより、時期を失わずに観念を活用することの方がずっと大きな助けになるからである。そして、結局のところ、行動する人間にとっては、自分の従う原理のすべての正しさを確認するのに時間を費やすよりも、いくつかの誤った原理を利用する方が危険は少ない。世の中は長大な学問的論証によって動いているわけではない。個別の事実のすばやい把握と大衆の移ろいやすい情念についての日々の観察、時の偶然と好機を逃さぬ巧みさ、これらがすべての問題を決定する。

(中略)

これらの国を構成する人々の大部分は今現在の物質的享楽を貪欲に求めており、しかも自分のおかれている地位に常に不満をいだき、いつでも自由にそこから離れられるから、財産を取り替え、あるいは増やす手段のことばかり考えている。このような精神傾向の人々にとっては、どんなものであれ、富への最短の道を開く新たな方法や労働を短縮する機械、生産コストを削減する道具や快楽を刺激し増幅する発見は、すべて人間の頭脳の最も素晴らしい成果のように見える。民主的諸国の人民はもっぱらこの方面で学問に熱中し、これを理解し尊重する。貴族制の世紀に人が学問にとりわけ求めるのは精神の満足だが、デモクラシーにあっては肉体の満足である。

(中略)

それに私は学問の崇高な使命を信じるものである。たとえデモクラシーが人を学問それ自体のための研究に向かわせないとしても。他方でそれは研究に携わる人間の数を途方もなく増大させる。これほど数多い人々の中から、ただ真理への愛のみに燃える思弁の天才が時に生まれてくることがないとは信じられない。そうした天才は、彼の国と時代の精神がどうあれ、自然の最奥の秘密を明らかにしようと努めると確信してよい。彼の才能の羽ばたきに手をかす必要はない。これを抑止しなければよいのだ。私が言いたいのは次のことに尽きる。すなわち、境遇の恒常的な不平等は、抽象的真理を求める誇り高くはあるが実り少ない研究に人を閉じこもらせ、それに対して、民主的な社会状態と諸制度は、学問に直接役に立つ応用だけを求める態度に人を向かわせるのである。

 

市場原理が、基礎研究等の活動に合わないことは以前述べました。研究とは元々は富と余暇を持つ貴族のものでありました。

 

上記の内容と関連のある、現代社会における個人の社会からの孤立化に関しては、こう預言されています。

 

逆にどんな職業も万人に開かれ、無数の人々が絶えずある職業に就いてはまた離れ、仕事仲間といってもさまざまで、数が多いために互いに見知らず、無関心で、ほとんど目に入ることもないとなると、社会のつながりが崩れて、労働者は皆一人きりになり、最小のコストで最大限の金を稼ぐことしか求めない。彼を抑制するものは消費者の意向だけである。

 

私はそのような社会の消失による国のシステムの崩壊を防ぐためにも、以前主張したように地方分権化と参議院改革を行うべきだと考えていますが、そのことに関して。現在のアメリカでは上院でも下院と同じく直接選挙制が導入されている為状況は違うでしょうが、トクヴィルは訪れた当時のアメリカの二つの議会を次のように描写しています。

 

ワシントンの下院議場に入ってみれば、この大会議場の俗っぽさに驚愕の思いをするであろう。往々にして、どんなに目を凝らしてもそこには一人の著名人も見出せない。ほとんどすべての議員は無名の人物で、名前を聞いてもどこの誰とも分からない。大半は田舎弁護士や小売商人で、最下層の階級に属する人々さえいる。教育がほとんどあまねく行き渡っている国で、人民の代表がつねに正しく字を書けるとは限らないという。

この議場のすぐそばに上院の扉が開いており、その狭い議場の中にアメリカの著名人の大多数がいる。そこにいるどの一人をとってみても、名声が記憶に新しい人がほとんどである。雄弁な弁護士、すぐれた将軍、有能な法律家、またよく知られた政治家が議員となっている。この議場から発せられる弁舌は悉く、ヨーロッパの最高の議会論争に劣るまい。

 

これが二院制の本来の在り方で、基本的には下院が優先されるが上院が行き過ぎを押しとどめるということでしょう。上院議員に司法権の判事を加えれば、トクヴィルが民主主義の暴走を食い止める為に描いた「知識人」層が分かります。地域自治に加え、「知識人」が純粋民主主義の修正に重要であるということです。このことについては、トクヴィルは次のように述べています。

 

われわれフランス人のある者たちによると、共和政とは、今日まで信ぜられて来たような多数者の支配ではなく、多数者の代弁をする者の支配である。この種の政府にあっては、人民が支配するのではなく、人民の最大幸福を知る者が支配する。これは都合のよい区別であって、これによれば、国民に諮ることなく国民の名において行動することができ、国民を踏みつけながら、国民の感謝を要求することが許される。加えて、共和政の政府こそは、すべてをなす権利を承認しなければならない唯一の政府であり、最高の道徳律から常識の命ずる通俗規範に至るまで、人間が今日まで尊重してきたものを無視してよい、ただ一つの政府であるという。

以前は、形式の如何を問わず、専制は嫌悪すべきものだと考えられていた。だが、今日では、人民の名において行使されるならば、正当な暴政、神聖な不正というものがある、という発見がされた。

 

「人民の最大幸福を知る者」という知識人の目を経てもなお多数派による国家の暴政があった時のために、憲法の不動性と国民主権を上回る立憲主義の原則が伺えます。

 

また、「市場原理」は粗悪だが廉価な大量消費財を作り出すためのシステムで、これは現在では既に発展途上国の採るべき戦略であり、先進国である日本の採るべき戦略ではないと思います。これからの日本はスイスのような、高価で質の高い財やサービスを提供する戦略にシフトした方がいいと思います。

 

 

トクヴィルは、民主制の下での詩については、次のように語っています。

 

貴族的な世紀には、個人一人一人と同様、個々の国民も他のあらゆる国民から離れてじっとしている傾向がある。

民主的な世紀には、移動性が極度に高まり、人々は性急な欲求に駆られて、絶えず居所を変え、さまざまな国の住民が混じり合い、知り合い、話を交わし、金のやり取りをする。それゆえ同じ国の構成員が相互に似てくるだけではない。国民自体も互いに似通ったものとなり、見る人の目には、全体が一つの巨大な民主政体を成しているに過ぎず、一国の人民がその市民であるように見える。このことが人類の姿を初めて明確に浮かび上がらせる。

(中略)

民主的詩人たちが神々や悪魔や天使に肉体の形を与え、これらを天降らせて地上で戦う様を描こうとしても、彼らは常に凡庸で精彩に欠けて見えるであろう。

だが、もし彼らが描き出す大きな出来事を神の宇宙に対する一般的な計画に結びつけ、至高の主の御手を示すことなく、その御心に直ちに立ち入ろうとするならば、彼らは読者の称賛と理解を得るであろう。同時代の人々の想像力が自ずとこの道をとるからである。

 

以前、野田秀樹さんと別役実さんの談話で現代のものの考え方は近景の次が超遠景になってしまってその間がないとされたことを述べましたが、このような厨二病やラノベの蔓延はトクヴィルによれば民主制によるものと捉えられます。こんな所まで預言は及んでいます。

 

 

『アメリカのデモクラシー』は、次のような文章で締めくくられています。

 

私は、現代の人々の中に、諸国の人民がこの地上で自らの主人となることは決してなく、過去の出来事と人種や土地、あるいは気候に由来する何か克服し難く、物質的な力に必然的に支配されると考えてきた者たちがいるのを知っている。

これは誤った怠惰な教義であり、無力な人間と軟弱な国民しか決して産まぬであろう。神は人類を完全に独立した存在にも、根っからの奴隷にも創られなかった。たしかに、神は、人間一人一人の周りに、脱することのできない決定的な囲いをめぐらされた。だがその広い限界の中では、人は強力で自由である。諸国の人民も同じである。

今日の諸国民はその内部で境遇を不平等にすることはできまい。だが境遇の平等が国民を隷属に導くか自由に導くか、文明に導くか野蛮に導くか、繁栄に導くか困窮に導くか、それは彼ら次第である。

 

トクヴィルは預言者でも何でもなく、トクヴィルの知性が起こりうることを取捨選択した結果が彼の著書の「預言性」に繋がってきたのでしょう。これは「知識人」の本懐だと思われます。トクヴィルからモンテスキュー、ロックへと遡る旅は、この巨人の里で多くの巨人たちの肩を借りて物を観ることに繋がってくると思います。

 

 

 

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羅生門

黒澤明監督の名作『羅生門』を観ました。今回が二度目でした。芥川龍之介『藪の中』が原作で、同氏の『羅生門』からは羅城門という舞台と着物を剥ぎ取るという行為などのモチーフを拝借しています。粗筋はご存知の方が多いと思いますが、

 

平安時代。荒れ果てた都の羅生門で、杣売り旅法師が放心状態で座り込んでいた。そこへ雨宿りのために下人がやって来る。下人は退屈しのぎに、2人がかかわりを持つことになったある事件の顛末を聞く。

ある日、杣売りが山に薪を取りに行っていると、武士・金沢武弘の死体を発見した。そのそばには、「市女笠」、踏みにじられた「侍烏帽子」、切られた「縄」、そして「赤地織の守袋」が落ちており、またそこにあるはずの金沢の「太刀」と妻の「短刀」がなくなっていた。杣売りは検非違使に届け出た。旅法師が検非違使に呼び出され、殺害された武士が妻・真砂と一緒に旅をしているところを見たと証言した。

やがて、武士殺害の下手人として、盗賊の多襄丸が連行されてくる。多襄丸は女を奪うため、武士を木に縛りつけ、女を手籠めにしたが、女が「生き残った方のものとなる」と言ったため、武士と一対一の決闘をし勝利した。しかし、その間に女は逃げてしまったと証言した。短刀の行方は知らないという。

しばらくして、生き残っていた武士の妻が検非違使に連れて来られた。妻によると、自分を手籠めにした後、多襄丸は夫を殺さずに逃亡したという。だが、眼前で他の男に抱かれた自分を見る夫の目は軽蔑に染まっており、妻は思わず自分を殺すよう訴えた。あまりのつらさに意識を失い、しばらくして目を覚ましたときには、夫には短刀が刺さって死んでいた。自分は後を追って死のうとしたが死ねなかった、と証言した。

そして、夫の証言を得るため、巫女が呼ばれる。巫女を通じて夫の霊は、妻は多襄丸に手籠めにされた後、多襄丸に情を移し、自らの夫を殺すように彼に言ったのだと回顧した。そして、これをきいた多襄丸は激昂し、妻を生かすか殺すか夫が決めていいと言ってきたのだという。しかし、それを聞いた妻は逃亡した。多襄丸も姿を消し、一人残された自分は無念のあまり、妻の短刀で自害したと証言した。

だが、杣売りは、下人に「3人とも嘘をついている」と言う。杣売りは実は事件を目撃していたのだ。そして、杣売りが下人に語る事件の当事者たちの姿はあまりにも無様で、あさはかなものであった。(Wikipediaより)

 

となります。この作品のテーマは「視点」。それは映画のカメラワークにも最初から現れていて、山の中を歩く杣売りが前方の茂みを掻き分けて行く時の視点、下から木の梢を見上げる視点、山の傾斜の上から下を眺める視点、さらには渓流から上方の丸太橋を眺める等、最早人間ではなく魚や両生類のような視点も見受けられます。このカメラワーク一つをとっても普通でないので、この作品に只ならぬ世界を感じさせます。

 

この視点の魔術により、ある事件という客観的事実は一つしかないはずの事象を当事者三人が全く別の事象として捉えていたことを語るのが、この映画です。多襄丸は自分が強くて女性も惚れる程のものだと語り、武士の妻は後ろめたさを語り、武士の霊(とされる者)は嫉妬と無念を語ります。

 

しかし、杣売りの語る事実(に一番近いとされるもの)は映画を観られたら分かると思うのですが、本当に情けないものでした。当事者は自分の都合の良い事実があったと思い込み、手前勝手な言い訳をしているだけのようです。さらには杣売りまでが、自分に都合が良い話を一部していたことが発覚します。

 

「正しい人間なんているのか。みんな自分でそう思っているだけじゃないのか。」

 

下人の言葉が突き刺さります。だから私は人の噂話にはあまり重きを置かず、出来るだけ客観的な事実のみを捉えるように努力しています。アカデミズムの方もゴシップ好きな方が多いのですが、私は私自身が客観的な事実が分かっている範囲で、主観的に判断が分かれる以前に客観的に間違ったことを平気で噂しているアカデミズムの方を何人も見て来たので、自分が噂の発信源にはならないようには努めています。物語れる程情報を持っているのは自分だけですし、それすら「渓流から上方の丸太橋を眺める」視点を持ち得ないと事実にはならないからです。

 

『羅生門』のキャストは『七人の侍』の世界の菊千代や勘兵衛、平八、七郎次その他端役の人々など共通のキャスティングが見られ、能楽やNHK大河ドラマと同じく配役の妙が見られて面白かったです。(了、バットマン三部作の放映とともに)

 

羅生門 デジタル完全版 [DVD]
角川映画(2010/07/23)
値段:¥ 2,940


 

 

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世界樹木神話

 
世界樹木神話
ジャック ブロス
八坂書房(2008/10)
値段:¥ 3,990


以前、J・ブロス『世界樹木神話』(八坂書房)という本を読みました。生物学的な知見では誤りが多く見受けられたのですが、民俗学的な事項に関して纏めておこうと思います。

 

「樹」に対する信仰はほとんどの宗教で見受けられ、「宇宙樹崇拝」が為されている宗教も多々あります。ギリシャ、エジプト、メソポタミア、インダス、中国、天空の城ラピュタと、古代文明のあった所には必ず宇宙樹崇拝が付き纏い、最近古代文明があったのではないかと報告されたメキシコでもそれは見受けられます。メキシコと他の文明とは交流が最近までなかったと考えられるので、人間は「宇宙樹崇拝」を行い易い傾向があるのでしょう。その理由は、樹は地下の深淵に張り巡らされた根から地表部の幹を介して天界へと広がる枝葉までを繋ぎ止める、特徴的な形状をしているからではないかと推察されています。つまり、人間と自然を結び付けるものではないかと考えられていたからだと言われています。

 

「樹」に対する信仰と同じく、「石」に対する信仰も世界各地で見られるのですが、「石」が不変な静的生命を表すのに対し、「樹」は生死を繰り返す永遠に再生可能な動的生命を表すとされています。動物は細胞が特定の機能を持つと万能性のある細胞にはなかなか戻れなくなり、だからこそiPS細胞の研究が注目されているのですが、植物は一般的に部分からでも個体が再生を出来る「全能性」を持ち、再生が容易です。

 

その宇宙樹崇拝の中で最も壮大なものが北欧神話に見られるモクセイ科の巨大なセイヨウトネリコのユグドラシルで、その根は主に三系統からなり、一つは神々アースたちの地下世界アースガルズに通じ、そこからは運命の泉/若返りの泉ウルドが湧き出ています。ウルドは潜在的能力、種子、萌芽の世界、地下の闇に包まれた水と腐植土の世界を象徴します。今ひとつは先史時代の氷の巨人「霜のツフルセ」の世界に通じ、そこからは知恵と賢明の泉ミーミルが湧き出ています。最後の一つは死者の国ニヴルヘイムへと通じ、そこでは現生人類を含むありとあらゆる生命を育む地下の水の源泉、フヴェルゲルミルが湧き出ているとされています。

 

北欧神話の主神オーディンは元々戦争の神でしたが、英知と神秘的知識の支配者となるために三つの試練を受け、そのうち二つはこのユグドラシルと関係しています。第一の試練はミーミルの泉の水を飲む為に片目を担保に差し出すことで、これによりオーディンは隻眼となりました。第二の試練は飲めば詩人や学者となりあらゆる情報を物語ることが出来るとされる詩人の蜂蜜酒を飲む為に策略を廻らせたことです。第三の試練はユグドラシルの樹に自ら吊るされて槍で突かれ、他界の秘密の言語であるルーン文字の秘密を得ることでした。その結果、オーディンは単なる戦士の神だけではなく、詩人と賢者、即ち予知能力を持ったシャーマンの神となったのです。全ては世界の終末ラグナロクに備える為で、ヴァルハラ宮殿に戦死した勇者たちを集めるのもこの為です。ラグナロクではオーディンは狼フェンリルに飲み込まれて死亡するのですが、ユグドラシルは残り、最終的にロキの陰謀で命を落とした善の神バルドルが復活し、新たな世界が始まるとされています。ユグドラシルはこの時新たなる人類を天地創造の際と同じように産み出すとされています。北欧神話とは破壊と再生の物語なのです。

 

オーディンに限らず、シベリアのシャーマンなどは一般的に自らを生け贄に捧げることで力を得るのが通過儀礼となっています。シャーマンが魔法使いや魔術師と異なるのは、その召命が本人の意志ではなく、シャーマンを選んだ精霊たちの強制によるものだということです。シャーマンになる可能性のある者は子供の頃から精霊たちに苦しめられ、神経質である為に他人と交わらず、しばしば鬱状態となりますが、一旦召命を受け入れればシャーマンとなります。そうでなければ狂人か廃人となるか、周囲の人々に殺されてしまうそうです。たとえシャーマンとなったとしても、一生苦痛を耐え忍ぶそうです。

 

 

 

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甲状腺で最大82mSvの被曝可能性

毎日新聞の記事で、国連科学委員会が福島第一原発の事故での1歳児の甲状腺被曝量は最大82 mSvであり、がんのリスクの基準である100 mSvを下回ったので健康への明確な影響はないとしています。私はこの見解はおかしいと思うので、10 mSv以上の被曝量が最大予想される全ての乳児は補償の対象とされ、将来甲状腺がんを患った場合は全員医療費が完全に補償されるべきだと思います。

 

理由は、以前論述したように放射線障害の臨床的知見が観られなくなる200 mSvという基準は全人口の平均的な基準で、個人のレベルでは相同染色体の片方の遺伝子に変異を持つため放射線感受性が通常より5-400倍高いと同時に、その遺伝子変異ががん抑制遺伝子の変異であるため発がん性も高くなっている細胞を体内に突然変異により持つ可能性のある人が人口の1割程度は存在しているため、これらの人の安全基準は通常の10倍厳しい20 mSvとするべきだと理論的に予想したためです。物理学や化学のような同一の性質を持つ粒子や分子を大量に扱って統計的に処理する実験とは違い、生物学では少数の対象がその性質に大きなバラツキがある状態を考慮しなければならないので、平均値だけでなく外れ値も大きな意味を持ちます。1割のマイノリティーというのは個人の尊重を考慮するには決して無視出来ない値です。

 

日本では安定ヨウ素剤の予防服用の指標は100 mSvとされており、国連科学委員会の見解はこれに乗っ取ったものでしょうが、WHOの基準は元々10 mSvであり、これは私に近い背景の指標だと思われます。国連科学委員会が何故WHOの見解を採らないのか不明ですが、私は甲状腺がんの医療費の補償は絶対に行われるべきだと思います。

 

 

ただ、不安を煽るだけではよくないので、放射性セシウムの内部被曝は少ないと見積もられる話も記録しておきます。以前、『福島原発のヨウ素』(論文はこちら最大2000人程度を補償すればいいらしいです)という記事で紹介した早野龍五先生が、福島原発事故での放射性セシウムの内部被曝は少ないという論文を発表されています。こういった実証的なデータの積み重ねが、引き続き求められていると思われます。

 

 

 

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興福寺

先日、興福寺に行ってきました。藤原冬嗣ゆかりの南円堂(重文・1741年再建、灯篭は空海が銘文を選び、橘逸勢がそれを書いた。学習まんが少年少女人物日本の歴史6空海pp.102参照)と、北円堂(国宝、1210年再建)の特別公開を観るためです。興福寺は法相宗の大本山です。藤原鎌足が山科に建てた山階寺が飛鳥に移って厩坂寺となった後、藤原不比等により平城京に移されて興福寺となりました。興福寺は藤原氏の氏神である春日大社と神仏習合で一体となって栄えました。

 

興福寺は天平文化を伝える国宝・阿修羅像等を含む八部衆像や十大弟子像などで有名です。興福寺は国宝を多数所持しています。

 

国宝・山田寺の仏頭は1937年に東金堂の本尊の薬師如来像の台座から見つかり、一大ニュースになりました。この仏像は白鳳文化を伝えるもので、蘇我倉山田石川麻呂が建てた山田寺において非業の死を遂げた石川麻呂の冥福を祈って685年に完成したものです。石川麻呂は入鹿の従兄弟で、大化の改新にも関わり右大臣にもなりましたが、謀反の密告を受けて自害しました。これは中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀と言われています。仏像は興福寺に迎えられた後、1411年の火災で頭部以外は焼失しました。

 

国宝の無著(右)・世親(左)菩薩立像は運慶作です。非常に力強いですね。

 

国宝の天燈鬼・竜燈鬼像はユーモラスな邪鬼です。

 

国宝・三重塔(鎌倉時代初期再建)です。

 

重文・南円堂(1741年再建)の頂点。

 

国宝・五重塔(室町時代に再建)。

 

国宝・東金堂(室町時代に再建)。

 

興福寺は平清盛と対立し、清盛の子の重衡による南都焼き討ち(1180年)の際に東大寺とともに焼失しました。私が伊豆で設けていた細胞性粘菌の定点調査地は、この重衡が源氏から南都へ身の引き渡しをされるのを恐れて逃げて隠れ住み、追いつめられて最後には切腹したという伝説のある鷲頭山の中腹にもありました。史実では南都側に引き渡されて木津川畔で斬首されたことになっています。『平家物語』の主要人物の一人ですね。重衡は伊豆の地元では「中将さん」として親しまれています。

 

 

春日大社の萬葉植物園にも寄りました。こちらは大賀のハスNelumbo nucifera

 

臥竜のイチイガシQuercus gilva

 

庭園内の一景。

 

ムラサキLithospermum officinale ssp. erythrorhizon。生薬・染料・口紅として有名ですが、現在では絶滅危惧種です。

「託馬野に 生ふる紫草 衣に染め いまだ着ずして 色に出でにけり」

笠女郎 巻三三九五

 

フタリシズカChloranthus serratus。名前の由来は能の演目『二人静』。鬘能のこの演目では、装束を着た静御前が乗り移った菜摘女が、昔を思い出して舞を舞い始めます。すると、そこへ静御前の霊も現れて、菜摘女と共に、義経の吉野落ちの話や鎌倉にて頼朝の前で舞を舞わされたことを思い出しながら舞います。そして、再び神主に回向を頼んで静御前の霊は消えるのでした。シテの静御前とツレの菜摘女の二人が面を付けて共に舞う物で、シテとツレが基本的には呼吸を合わせながら微妙な差異を設けるのが難しい珍しい演目です。

 

 

 

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タコライス

今日作ったタコライスが大変美味しかったので、沖縄について書いてみようと思いました。

 

本日は沖縄の「本土」復帰41周年で、中国からの発信もあり沖縄の独立論が再燃しているようです。私は、沖縄の独立は将来的には果たされてもよいが、それは現時点で行われるべきではないと思います。道州制の導入制の際には沖縄を独立州として優遇し、将来の独立に備えさせるべきだと思います。

 

独立の可否を左右させる因子としてはやはり中国という国家の存在が一番大きいです。つまり、中国がウイグル人やチベット人の地で行った占領の仕方や現在行っている統治の仕方は大変抑圧的なので、それと同じ戦略を独立後の沖縄に対しても行う可能性が高いからです。中国が新疆ウイグル自治区やチベット自治区で行っている内政が改まらない限り、沖縄の独立は危険だと思われます。第一、沖縄がかつて中国の属国であったという事実が国境線を定めることに関与することを許せば、東アジアや東南アジア、中央アジアのほとんどの国は中国領になってしまうでしょう。実はアジアのほとんどの国はモンゴルの支配下にあるとしてもいいことになります。そうならないのは、通常の国家では主権者である人民が主権の及ぶ領域を確保するために独立を望むからです。現在の沖縄県民の89%が中国に対して否定的であるので、沖縄を中国の属国とするべきという判断は成り立たないと思います。

 

私がよく理解出来ないのは韓国の出方で、このような精神的な問題に収まらない実利的な外交問題の火種を作る国としては中国の方が現在の日本よりもどう考えても当て嵌まるような気がするからです。韓国も将来的には日本と同様の路線を辿る可能性が高いと思うので、韓国・ロシア・日本は協調した路線を辿るべきだと思われます。日本と諸外国との領土問題は、敗戦後70年近くも経ってしまい、状況も変化してしまったので、日本側は原則に捉われない融通性のある対処を採るべきではないでしょうか。アメリカが困っているのも日本側が小さい火種を態々外交問題に発展させるような発言を(精神的な意味はあっても実利的な意味はないとは言え)行っていることだと思います。

 

 

 

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一角獣の謎(日本より)

近松門左衛門は「虚実皮膜論」という芸術論を持ち、芸の面白さは虚と実との皮膜にあると唱えたといわれています。現実と無関係の訳ではないが、完全なノンフィクションにもしないところに、作者の演出を込めて面白みを与えているというのです。『太陽の帝国』も『ファウスト』もその視点から考えました。フランスの革命前夜については、冲方丁さん原作のアニメ『シュヴァリエ~Le Chevalier D’Eon~』が登場人物のほとんどに実在の人物を扱ったファンタジーとなっています。

 

 

最後に、現代の日本に戻ってもう一つだけ頸木の「虚実皮膜」を紹介しましょう。日本のアニメで、『serial experiments lain』というものです。

 

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serial experiments lain』のストーリーは、

 

コミュニケーション用コンピュータネットワーク端末「NAVI」(ナビ)が普及した現代、中学生の岩倉玲音は、死んだはずの四方田千砂からのメールを受け取る。その日以来、玲音は見えないはずのものを見るようになる。四方田千砂のメールの言葉に興味を持ち、大型の「NAVI」を手に入れるが、それ以来更に奇怪な事件に巻き込まれていく。

物理世界(リアルワールド)と電脳世界(ワイヤード)、二つの世界・二人の玲音(lain)が混濁し錯綜する果てにあるものは?-人は誰しも繋がれている-・-私は遍在する-(Wikipediaより)

 

というものです。主人公の玲音/レインは物語が進むに従って次第にリアルとアンリアルの世界の境を越えて行動出来るようになり、世界を変える力を持つようになるというのが虚構的な側面ですが、背景には現代日本にも共通する社会的な「空気」があります。

 

物語中、「わたしはこんな所にいなくていいの。こっちの世界に早く来て。」ということを伝えてくる、死んだ筈の少女・四方田千砂が出てきます。「ここは私が本当にいるべき場所じゃない」という別世界への憧れを持つ人はいると思いますが、これはブロードバンド時代によりインターネット社会が爆発的に普及し、ネットに依存する人が増えることをその少し前の1998年に予見していたものです。serial experiments lain』のストーリー上では、物理的な肉体を遊離して精神的な繋がりの中を生きることとして表されています。ただそれは、物語終盤にコードまみれの痛々しい姿になった玲音に対して玲音のただ一人の友達、ありすが投げかけた言葉「違うよ……」「よく判らないけど、玲音の言ってる事、間違ってると思う」「こんなに冷たいけど、生きてるよ、玲音の体あたしだって、ほら」に否定されています。物語中、ネット社会の発達によって実在感の失われた記号論的ゲームに生きているような感覚が否定的に描かれていますが、そういった描写は玲音の父親やありすの台詞に繋がってきます。

 

玲音/レインは自分のネット上の分身’ = lainの行動に悩まされます。「人は人の記憶の中にしか実体なんか無い、だからいろんな私がいたの」「私がいっぱいいたんじゃ無くて、いろんな人の中に私がいただけ」ということに気付き、他人の記憶を書き換えることでそれを解消しようとしますが、lainは一人歩きしてそれも叶いません。しかも自分が社会から次第に抹殺されていき、家族も実は偽りのものであったことが発覚し、玲音/レインは増大する力とは対照的に精神的に追いつめられていきます。これは正に情報が削ぎ落され記号論化した噂話がinformation cascadeによりネット上で暴走する様に似ています。そんな中、自分のことをだと名乗る玲音/レインを創った存在、デウス(天主様)= 英利政美の存在が明らかになり、玲音/レインはデウスと対決することになります。玲音/レインは結局自分を創ったデウスの存在も無かったことにしてしまいます。その過程でただ一人記憶をいじらないで友達として側に残っておいてほしかったありすの怖がる姿を見て、彼女の記憶もいじって玲音/レインは完全に独りぼっちになってしまいます。最後には皆に影響を及ぼせる点で皆と繋がってはいますが、実際には普通の会話が出来ず繋がっていないとも言える、複雑な状況になります。ネットワーク社会と自我、人と人との繋がり、日本社会の「空気」を考えさせる古典的な名作だと思います。映像美術としてもアヴァンギャルドな表現が観られました。

 

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これまで国家と国民の持つ頸木の例をいろいろ観てきました。イギリス、アメリカ、ドイツのものは人類普遍的な性格が強いですが、日本のものは主体性のない「空気」も含む特殊なものでした。国民が国家を統制するためには憲法などの法規があり、それ以前に「自然権」というものが想定されています。一方、多数派の専制を防ぐ為には、トクヴィルは「知識人」が鍵を握るのではないかと言いました。トクヴィルは多数派の専制がマスコミにより構築されることを想定していましたが、ネット社会の発達した現代ではマスコミよりもネット自体に「情報が削ぎ落され記号論化した噂話がinformation cascadeにより広まる」という大きな影響力があるように感じられます。「知識人」の重要性はますます高まるのではないかと考えられます。

 

国家の統治機構においては、「知識人」の役割は上院が果たすものだと考えられます。これにはイギリスやフランスなどの伝統的なヨーロッパ国家におけるエリートの議会としての立場と、アメリカ・ロシア・ドイツなどの連邦制をとる国家における地方の代表者としての議会の立場の二通りが考えられます。民衆の代表は下院なので下院の方が優先されることは多く、上院は下院の決定をチェックする役割があります。イギリスの貴族院では何らかの功を成し遂げた一代貴族が議員となり、フランスの上院は間接選挙制なのでどちらもエリート的な立場の者が議員となります。アメリカの上院では人口に関係なく各州から2名、ロシア連邦院では連邦を構成する行政・立法府より1名ずつの代表が選出され、ドイツ連邦参議院では各州政府から議員が任命されます。連邦制の国家では地方の力が強いのです。

一方日本の上院に相当する参議院は、下院に相当する衆議院と選挙方法に大した差はなく、議員の質も似たようなものです。選挙が行われた時期の違いに起因するねじれ国会の温床になっているだけのような気がします。そこで私は、これからの日本の将来を考える上では、「参議院をどうとらえるか」が一つのバロメーターとなると思います。

 

私は、日本は中央集権的な国家ではなく地方分権的な国家である方が相応しいと思うので、連邦制や道州制の導入には賛成で、その一つの現れとして参議院改革は考えられます。政府は出来るだけ「小さな政府」を目指し、地力の強い日本の文化を興隆させるためにも積極的な地方分権化と地域の特色の促進を行うべきです。それは歴史的に見て日本は地方が強い国柄だったからです。

 

日本に中央集権体制の導入が試みられた時期は二回あり、一つは大化の改新以来の公地公民制や律令制度の導入で、もう一つは明治維新です。しかし、古代の律令化は結局上手くいかず墾田永年私財法で崩壊しますし、近代の西洋化も敗戦で挫折します。日本は元々私地私民の方がお国柄に合っていると思うのです。敗戦後の極東国際軍事裁判でもドイツにおけるヒトラーとその側近たちに責任があったような解釈は結局産まれず、何となく戦争を避けようがないという「空気」が日本を戦争に駆り立てていったように思われます。中央集権化は有能なトップがいれば状況対応がスピーディーに進み、責任の所在も明確で確実に業務も遂行されるというメリットがありますが、それは改革時に有効な体制で、安定期にはトップの能力の欠如、民意の多様性の反映の欠如、縦割り行政、格差増大等のデメリットが顕在化します。明治維新において富国強兵や殖産興業を進める上では有効な体制でしたが、これを大正期において日本の国民性により相応しい地方分権化にスイッチしなかったことが敗戦を招いたと私は思っています。戦後の高度経済成長でも中央集権化は有効だったでしょうが、もう低成長時代に入って久しいので、日本はそろそろ地方分権化を進める時期だと思っています。

 

だいたい天皇中心主義は江戸期の国学の中でも非実証主義者として当時から批判されていた平田篤胤が提唱したもので、何故尊王論が台頭したのか、私にはよく分かりません。地方分権こそが日本のあるべき姿だと私は思います。

 

よって、参議院改革(改憲が必要)をするのなら、まず議員の半分は地方の行政府・立法府の代表を地方の統治機構が選定し、もう半分は「知識人」として参議院の議員資格(分野別)の試験に合格し、被選挙権を得た者の中から国民の選挙で選んだものを認定するなど、その程度の制度改革はしてほしいものです。また、現状維持よりはみんなの党が主張するように韓国と同じような一院制にした方が良いと思っています(ただし、フランス革命期の一院制の国民公会は恐怖政治を引き起こしたため、3年で廃止されました)。自衛権の制定やその他裁判所の判例に合わせた修正などは、裁判所の解釈に合わせているだけです。法律制度上は判例拘束性をとらない日本では将来的には改憲した方がいいかも知れませんが、それ程大きな変革ではないと思われます。国の在り方に関わる抜本的な改革としては地方分権化、さらには選定基準がよく分からず末端の意見を全く代表していない「有識者」ではなく、本当の意味での「知識人」を国政に参与させることが必要です。地方分権化、国会議員の資格制の一部導入による教育・人物評価観の変革などは多くの国家観に関わることなので、参議院とは何なのかを、今の政党の方々に問うてみたいです。

 

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“The Unicorn in Captivity and No Longer Dead” が何を意図して描かれたものなのか、今となっては正確なことは分かりません。しかしユニコーンが柵に囲われ鎖で繋がれた世界観は、500年を経てもなお人々の想像力を働かせ、例えば村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』での「壁」に囲われ一角獣の住む世界などにも類似の表現として現れ、私たちの心を捉えることもあるのです。(了、ラヴォアジエの219回目の命日に

 

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ジェネオン・ユニバーサル(2012/12/21)
値段:¥ 7,350




 

 

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一角獣の謎(ドイツより)

オバマ大統領とスピルバーグ監督のギャグはさておき、一般民衆の頸木と君主の頸木の間、ブルジョワや貴族たちの頸木はどういうものだったのでしょう。ここで話は19世紀のドイツに戻ります。ヨハン・ヴァオルフガング・ゲーテ(1749-1832)は、ドイツの詩人・劇作家・小説家・自然科学者・政治家・法律家として有名です。『若きウェルテルの悩み』『ファウスト』などの作品で世に知られています。

 

『ファウスト』は、15世紀から16世紀にドイツに実在したと思われるドクトル・ファウストの伝説を下地に、ゲーテがその死までの36年間を費やして完成させた壮大な戯曲です。終戦時の昭和天皇の日常を描いた『太陽』の監督、アレクサンドル・ソクーロフによる翻案については以前記述しました。また、チェコのヤン・シュヴァンクマイエルも翻案を映画化しています。『ファウスト』を原案とした漫画も手塚治虫により出版されています。

 

「ファウスト」はラテン語で「幸福な、祝福された」という意味で、このような名前の由来を持つ人物の登場する作品は現代では数多くあります。粗筋は、

 

天上の序曲

天使たち(ラファエルミカエルガブリエル)の合唱とともに壮麗に幕開けられた舞台に、誘惑の悪魔メフィストーフェレス(以下メフィスト)が滑稽な台詞回しでひょっこりと現れ、主()に対してひとつの賭けを持ちかける。メフィストは「人間どもは、あなたから与えられた理性ろくな事に使っていやしないじゃないですか」と嘲り、主はそれに対して「常に向上の努力を成す者」の代表としてファウスト博士を挙げ、「今はまだ混乱した状態で生きているが、いずれは正しい道へと導いてやるつもりである」と述べる。メフィストはそれを面白がり、ファウストのを悪の道へと引きずり込めるかどうかの賭けを持ちかける。主は、「人間は努力するかぎり迷うもの」と答えてその賭けを容認し、かくしてメフィストはファウストを誘惑することとなる。

 

第一部

ファウストが悪魔メフィストと出会い、あの世での魂の服従を交換条件に、現世であらゆる人生の快楽・悲哀を体験させるという約束をする。ファウストは素朴な街娘グレートヒェンと恋をし、子供を身ごもらせる。そしてあい引きの邪魔になる彼女の母親を毒殺し、彼女の兄も決闘の末に殺す。そうして魔女の祭典「ワルプルギスの夜」に参加して帰ってくると、赤子殺しの罪で逮捕された彼女との悲しい別れが待っていた。

 

第二部

皇帝に仕えることにしたファウストは、メフィストの助けを借りて経済再建を果たす。その後、絶世の美女ヘレネーと美男パリスを求め、ギリシャ神話の世界へと、人造人間ホムンクルスメフィストとともに旅立つ。ファウストはヘレネーと結婚し、一男をもうけるが、血気にはやるその息子は死んでしまう。現実世界に帰ってきた後ファウストは皇帝を戦勝に導き、領地をもらう。海を埋め立てる大事業に取り組むが、灰色の女「憂い」によって失明させられる。そうしてメフィストと手下の悪魔が墓穴を掘る音を、民衆のたゆまぬ鋤鍬の音だと勘違いしながら死ぬ。その魂は、かつての恋人グレートヒェンの天上での祈りによって救われる。(Wikipediaより)

 

となります。少なくとも第一部の筋だけは知っておられる方も多いと思います。

 

メフィストは、人間の向上のためになくてはならないものだという立ち位置にあります。メフィストは基本的に虚無指向、ネガティブ指向の人間の側面を表すと考えられ、現実主義で理性があり真理を理解するが文句ばかり言い、それを主に窘められています。メフィストは自分を「常に悪を欲して善を成すあの力の一部分」と評し、世の中の事象全てが善悪を含めて主の思し召しにより起こるのだという昔のキリスト教的な問題のある思想を体現しています。

 

一方のファウストは理想主義の探求者なのですが、そのためにネガティブ指向に陥っており、聖書の文句「言葉ありき」をとっても、それを「意味(こころ)ありき」から「力ありき」「業ありき」と顕在的でネガティブな方向に読み替えるという苦悩を示します。ファウストが「留まれ、お前はいかにも美しい」という言葉を唱えれば、メフィストに魂を奪われてもいいという契約を結んだことは有名です。この契約には2つの意味があります。即ち、自分の破滅は自分の責任により起こるのだということと、自分の念願を成就するまでは悪魔の力を利用出来るということです。これはファウストとヘーレナーとの間の子供「少年の形の御者」という詩人の「自分のいちばんだいじな宝を散じることで自己を完成する人間」という性質にも受け継がれていきます。ただ、詩人は喋ることが仕事ですが、ファウストが表す富貴は寡黙に行動するという違いがあります。

 

この物語は「ファウスト=理想主義」「メフィスト=現実主義」「グレートヘン=大切な何か」の三つ巴の葛藤ともとれます。もう少し視野を広げれば、ドイツにおける中世の閉鎖的で素朴な時代(第一部)からルネッサンス、ナポレオン戦争を経てドイツ統一という悲願に進んで行く道(第二部)のありとあらゆる要素をメタファーした壮大な戯曲ともとれます。ファウストが最後に行おうとした「埋め立て事業」は、ドイツ統一のことを表しているようにも思えます。ドイツが実際に統一されたのはビスマルク体制下の1871年でゲーテの亡くなった後であり、その後の二つの大戦と冷戦を経てドイツが本当の意味で落ち着いたのは再統一の1990年になります。つまり、ゲーテの死後も「悲願」が達成されるまでに150年以上の歳月を要したのです。ファウストの救いはここにあったのかも知れないですし、ドイツ統一の遅れ、産業革命の遅れが二つの大戦の遠因となっていったので、この物語の持つ意味も大きくなってくるような気がします。ビスマルク曰く、「賢者は歴史に学び、愚か者は体験に学ぶ」。

 

この戯曲のテーマは「絶えず努め励むものをわれらは救うことができる」ということですが、これは求める心の強い人間にとっては如何なる体験も成長に役立ち、その人間の人格は次第に形成されていくということでしょう。ファウストの場合、最初は自分を救うと同時に滅ぼすことが目的だったのが、最後には人々を救う方向に求めるものが向かった為に主の許しを得たのでしょう。最初から人々を救うことが目標だったのではありません。

 

ただし、ファウストが救われたとされたのは全て死後の世界で、妄想の世界でありました。ファウストは結局自分の帰りを待ち続けていた助手のワーグナーの元には帰ってこなかったのです。メフィストはファウストの死の際に、

 

過ぎ去った、とは馬鹿な言葉だ。どうして過ぎ去ったのだ。過ぎ去るのと、きれいに無いのとは、全く同じことだ。永遠の創造とは、一体何の意味だ。創造したものを、無に突き落すなんて。過ぎ去った、ということに、なんの意味があろう。それなら初めから無かったのと同じではないか。それなのに、何かあるかのようにぐるぐる回っている。おれはむしろ永遠の虚無のほうが好きだな。

 

という言葉を残しています。思想や歴史に観られる輪廻の輪からは、なかなか解脱することは難しいようです。

 

一般民衆と君主との間、ブルジョワや知的エリートたちには好まれそうな戯曲が『ファウスト』でした。ここにも歴史の頸木はあるようです。(続く)

 

ファウスト〈第一部〉 (岩波文庫)
ゲーテ
岩波書店(1958/03/05)
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ファウスト〈第二部〉 (岩波文庫)
ゲーテ
岩波書店(1958/03/25)
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ファウスト [DVD]
紀伊國屋書店(2012/12/22)
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ヤン・シュヴァンクマイエル ファウスト [DVD]
日本コロムビア(2005/02/23)
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ファウスト (朝日文庫)
手塚 治虫
朝日新聞社(1994/03/01)
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一角獣の謎(アメリカより)【おまけ付き】

イギリスでの頸木はエドワード1世やウォレスなど人の上に立つ立場の者からの視点で書きましたが、それに対して一般民衆はどうだったのでしょうか。ここで時代は飛びますが、太平洋戦争時にイギリス人の少年だったSF作家JG・バラードの自伝から観てみましょう。これはスティーヴン・スピルバーグ監督により映画化され、『太陽の帝国』として公開されました。物語は

 

 

日中戦争中の1941の上海。イギリス租界で生まれ育ったイギリス人少年ジェイミー(通称ジム)は、日本の零戦に憧れる少年。だが、日英間で開戦し日本軍が上海のイギリス租界に侵攻した際に、避難民の大混乱のなか両親とはぐれる。独りぼっちになった少年は中国人少年に追い回されるが、不良アメリカ人のベイシーに救われる。

生き抜くために空き巣・泥棒などの悪事を重ねるが日本軍に捕らえられ捕虜収容所、そして蘇州収容所へ送られる。飢えと病気、戦争の恐怖で死や絶望に囲まれ庇護もなく淡々と成育していくジェイミーだが、しだいに収容所の人々との交流の中に生きる知恵と希望を見出していく。一人の無邪気な少年が戦争のもたらす現実に翻弄されながらも、健気に生き抜こうとする姿をありありと描写する。(Wikipediaより)

 

となります。ジムは物語の冒頭では非常によく喋る利発的な少年として描かれていますが、そのような「神童」が戦争に巻き込まれて最後は疲れ果てた失意の少年として帰ってくる物語です。世界の大きな動きの前では、純粋な少年の行動など無に等しいことが描かれ、途中で何回もジムが何かをしてくれるのではないか、という表現がありますが、そのような伏線は全て無に帰してしまいます。

 

主演の子役はバットマン新三部作のバットマン役クリスチャン・ベール。戦争の最中、日本兵との交流も虚しくなっていく部分に、彼の存在が消えて行く様が徐々に描かれています。ジムはイギリス人でありながら日本への思いを持つ一方で、アメリカにも惹かれていきました。収容所近くの蘇州の飛行場をアメリカ軍のP51ムスタングが機銃掃射した際(1945116日にそういう事実があったと記録にあるそうです)は、建物の上に登って狂ったように喜ぶところにも、彼の混乱が伺えます。

 

 

したたかな現実主義者のアメリカ人ベイシー役は『シェルタリング・スカイ』や『マルコヴィッチの穴』に出演した名優ジョン・マルコヴィッチ。『キング・オブ・キングス』ではナポレオンに「絹の靴下の中の糞」と評された希代の外交家タレーランを演じました。ベイシーは姑息な行動に場違いなユーモアが感じられる時もあり、台詞やジェスチャーに現れない部分でもいろいろネタが仕込んであって楽しめました。

 

揚子江での中国がイギリスやアメリカなどに食い物にされている様。その帝国主義で得られた富が終盤のスタジアムで捕虜たちの死の行軍の際に亡霊のように象徴的に現れるところ。シンボリックな演出や表現が随所に観られる、古典的な意味で良い作品でした。

 

尚、蘇州飛行場には陸軍がいるのに中国本土からは出撃したことのない海軍の零戦の特攻隊が出るシーンでは、疑問を投げかける方も多いようです。これはおそらく海南島か上海などの海軍航空隊からフィリピンや日本本土などへ転属となったパイロットのシーンではないかと思われます。実際にそういった転属というものはあり、悲壮な情景だったそうです。日本の兵隊がジムの屋敷から夜中に白装束で飛び出して来たり、伊武雅刀が大きな盥桶で身を清めていたり、原爆の閃光を観たというのは風俗の考証や事実関係に疑問はありますが。

 

帝国主義の崩壊と第二次世界大戦、イギリス人とアメリカ人、日本人、中国人の違い、自己のアイデンティティと社会の大きな流れなどの関係がよく描かれた作品だったと思います。ユニコーンこそがジムなのです。このサイトでは良く出来た評論が掲載されていますので、ご参考までにどうぞ。(続く)

 

太陽の帝国 特別版 [DVD]
ワーナー・ホーム・ビデオ(2002/03/08)
値段:¥ 3,129




おまけ

 

 

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一角獣の謎(イギリスより)

昨日のタペストリーでは、 “The Mystic Capture of the Unicorn” で貴婦人がユニコーンを宥め、 “The Unicorn Killed and Brought to the Castle” でユニコーンが殺されて捉えられている所に貴人の夫婦のような人物が観られ、 “The Unicorn in Captivity and No Longer Dead” でユニコーンは蘇るが柵で囲われ鎖で繋がれています。また、このタペストリーはフランス王ルイ12世とブルターニュの君主アンヌ・ド・ブルターニュの結婚を祝したものだったようです。よって、ユニコーンはブルターニュのケルト系ブルトン人たちの象徴で、フランスがこれを治めるための係争があった後、貴人のルイ12世と貴婦人アンヌの結婚でフランスとの連合が決定的となり、フランスによる柵と鎖で管理されることとなったということを表しているようです。柵や鎖はフランスがブルターニュの利益を貪ることを表す頸木のようです。このような国家によるマイノリティーの搾取を、市民に依る国家の統制に変えたのがロックの「自然権」です。

 

このような頸木の例としては、詳しくはどのようなものが見出せるでしょうか。ブルトン人は1066年のウィリアム1世によるノルマン・コンクエストの軍隊の大部分を占め、またブルターニュは百年戦争では英仏の主要な係争地の一部でした。イギリスとフランスとの関係に深く関わっているのですが、ここで目を議会政治が勃興する頃のイギリスに移してみましょう。

 

***

 

イギリスの封建議会政治の成立には、シモン・ド・モンフォール、エドワード1世、エドワード3世の3人が重要です。

 

イギリスの封建議会制度は、ノルマン・コンクエストの後にウィリアム1世が政策の諮問や裁判のために貴族を集めたキュリア・レジスが原型で、1215年のマグナ・カルタの成立の時にもこれは利用されました。その後、エドワード1世の父王ヘンリー3世の時代には議会に変わりました。レスター伯シモン・ド・モンフォールは失政を続けるヘンリー3世に対して反乱を起こし、1265年に開いた議会では貴族の他、各州から騎士と市民(ブルジョワ)を2名ずつ招集した庶民の議会を開催しました(ただし、この時の議員の選定基準はモンフォールのご都合主義だったと言われています)。しかしモンフォールは結局皇太子エドワード(エドワード1世)にイーヴシャムの戦いで敗れ、戦死します。エドワード1世はこの父王の時代の経験から、統治方法としての議会の有用性を痛感したそうです。エドワード1世の治世には議会はほぼ定期的に開催され、1295年の世界史に出てくる「模範議会」を開いた時はモンフォールの議会制を踏襲した上で、全てのコミュニティの支持を得るために全てのコミュニティに議員の候補者を出すよう奨励し、騎士・市民にも貴族の決定の追認だけでなく議員としてのその他の権利も認めました。その際、全ての人々に関わる事柄は全ての人々に同意されるべきであるという原則を示しました。ただ聖職者集会と議会は「模範議会」が開催された時以外は別々に開催されており、聖職者と庶民は分離したままでした。

 

エドワード1世は、メル・ギブソン監督/主演の映画『ブレイブハート』に出てきます。これは歴史映画というよりはフィクションの色合いが濃く、メル・ギブソン演じるスコットランドの英雄ウィリアム・ウォレスの殺人犯としてのアウトロー的性格が弱められ、1689年の名誉革命時に権利の章典で提出されジョン・ロックなども『統治二論』で唱えたことで広まってきた「自由権」が400年ほど前に提唱されたことになっています。さらにはエドワード3世がウォレスの息子であるなど、かなりやりたい放題な設定になっています。エドワード1世はマイホームパパであると同時に賢王、イングランド史上屈指の名君、中世ヨーロッパ史上有数の名君とも呼ばれていたのですが、残虐非道な暴君として描かれています(スコットランド側からみればそうかも知れませんが)。エドワード1世自身は平均身長が155 cm程度だった時代に190 cm程の身長があったので、「長脛王」と呼ばれました。

 

エドワード1世はスコットランド王の空位に乗じてスコットランドを統治下に置き、スコットランド王が代々戴冠式に用いたStone of Destiny(上写真参照、1296年から1996年まで、Scone寺院からウェストミンスター寺院のエドワード懺悔王の椅子の下に移動されていました。現在ではエディンバラ城(下写真参照)に返還されています。)を強奪しました。

これに反発してウォレスがゲリラ戦をしかけ、1297年のスターリング・ブリッジの戦い(写真は現在のスターリング橋、昨日のスターリング城より徒歩で行ける)でイングランド軍に対して大勝利を収めました。

これはハリネズミのようなスコットランド槍歩兵部隊をイングランド騎士が崩せなかったためです。しかしエドワード1世は1298年のフォルカークの戦いで以前に征服したケルト系ウェールズ人(写真はプリンス・オブ・ウェールズの‘Sword of State’ で、大英博物館所蔵)のロングボウ部隊を投入し、装甲を貫通する程のロングボウの威力の前にスコットランド槍歩兵部隊は壊滅し、ウォレスは辛くも戦場を脱出しました。

このロングボウ部隊はイギリスとフランスの百年戦争の時代にもエドワード黒太子が使用して陸軍力が優っていたフランスの騎士団に大打撃を与え、イギリスでも貴族は百年戦争やバラ戦争での出費で疲弊したので、両国で貴族の力が弱まり絶対主義の時代の到来の遠因となります。ウォレスは1305年にイングランド側に捕らえられて処刑されますが、その後はロバート・ドゥ・ブルースがウォレスの意志を引き継ぎ、一時は所領を全て失いながら1307年のエドワード1世の死後に活動を再開し、1310年にスコットランド王ロバート1世となり、1328年にはエドワード3世と和解してスコットランドの独立を確約させます。エドワード1世は現在、ウェストミンスター寺院内の質素な棺の中で眠っています(写真は、ロンドン塔にあるエドワード1世の礼拝堂)。

 

エドワード1世の孫のエドワード3世の時代には貴族の目を避けさせるため貴族と庶民を分けて議論させるようになり、二院制が成立しました。このことから、身分制がない現代の日本で間接選挙制でなく地方の代表でもない参議院が有用なのかどうかは、私はよく分からないと思います。

 

以上、国家からマイノリティーへの頸木が、徐々に後の市民から国家への頸木へと変化していく様が、イギリスの歴史にも現れています。(続く)

 

この写真は大英博物館所蔵のルイス島のチェス

 

 

 

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一角獣の謎(フランスより)

フランスよりの美術品の展覧会「貴婦人と一角獣展」が国立新美術館で開催され、大阪の国立国際美術館にも来るそうです

 

メトロポリタン美術館所蔵の美術品に、“The Hunt of the Unicorn” という1495-1505の間に南ネーデルラントで作成された一連の七つのタペストリーがあります。ヴァロワ朝のフランス王ルイ12世(「民衆の父」)とブルターニュ公国最後の君主アンヌ・ド・ブルターニュの結婚を祝うものでした。私はスコットランドのスターリング城でそのレプリカの作成(2014終了予定)の様子を2009年に観ました。このタペストリーの示す意義の解釈としては、ペイガニズムという自然崇拝・多神教的なものと、キリスト教的なものがあります。ペイガニズムでは騙された恋人たち、キリスト教ではキリストの受難を表しているとされています。私は「復活」したユニコーンが鎖に繋がれ柵に捉われていることから、ユニコーンが復活したキリストとは考えにくいと思っています。ペイガニズムのものかも知れないのですが、タペストリーの作られた経緯から君主との何らかの関わりも持っているのではないかと思っています。ユニコーンはケルトのドルイド教の伝承にも出てきますね(ブルターニュはケルト人の国でした)。

 

皆さんはこのタペストリーに何を観ますか?(続く)

 

The Hunters Enter the Woods.

 

The Unicorn is Found.

 

The Unicorn is Attacked, or the Unicorn Leaps the Stream.

 

The Unicorn Defends Itself.

 

The Mystic Capture of the Unicorn.

 

The Unicorn Killed and Brought to the Castle.

 

The Unicorn in Captivity and No Longer Dead.

 

スターリング城

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日本の未来

復古的改憲論に関する議論がブームになってきているようです。復古的改憲論とは、自衛隊を軍隊とすること、経済的自由の憲法による制限、天皇の元首化、愛国心の義務付け、人権に対して義務の履行を求めること、人権の公益及び公共の秩序による制限などのことです。つまり、先日の自民党の改憲案が相当する訳です。私は侵略戦争が目的とならないのなら自衛隊が軍隊となっても構いませんし、憲法改正の発議の条件を緩める96条の改正も、成文憲法を持つ国の中では容易に改憲が可能なフランスのような実質的軟性憲法の国家になっても構わないのならそれでいいと思います。裁判所の判例もいろいろあるので、それに合わせた改憲もいいと思います。ただ先日述べたような「自然権」の否定に繋がるような人権に対して義務の履行を求めること、人権の公益及び公共の秩序による制限に関しては否定的です。人間は自由が基調であるとするべきだからです。経済的自由の憲法による制限も、私は現行憲法でも充分達成できていると思います。

 

一方、これらの流れと並行して、天皇の元首化、愛国心の義務付けも改憲論議に紛れ込んでいます。私はこれらの思想は明治維新以来の尊王論の亡霊として捉えているので、あまり賛同出来ません。

 

日本の歴史をひも解いてみると、日本は基本的に地方の力が強い国でした。古墳時代において天皇は「治天下大王」であり、地方の数多くの王の中の代表という立ち位置でした。大王が天皇となってからも地方には有力豪族があり、その後の貴族政治、武家政治、大名の乱立や幕藩体制を通じて、地方の力は強いものでした。それが江戸時代中期からの国学の発展により尊王論が台頭し、明治維新後の急速な中央集権体制の確立、その後現代でもまだ続く東京への政治・経済・文化の一極集中化がある訳です。ヨーロッパのような教皇や皇帝、絶対主義や帝国主義の歴史のないところに、欧米列強に追いつけ追い越せと異端の関係を制度化したのが明治維新なのです。日本の歴史から見ればごく最近の思想が、天皇中心主義や復古的な意味での愛国心なのです。

 

そういう訳で、私は日本を戦争への道に駆り立てた自国に閉じた思想は好きではありませんし、天皇は「象徴」という微妙な立場のままの方が古代からの日本的でいいと思っています。愛国心の鼓舞等は止めた方がいいと思います。

 

ただ、私はまだ読んでいないのですが、安倍さんは著書『新しい国へ』の中で、政治においても経済においても外交においてもかなりバランス感覚のとれた提案をいろいろなさっているようです

 

私はグローバル化と世界の均質化が進行すれば、経済的な意味での中心は結局資源などの国の大きさに依存したファクターに決定付けられるようになると思います。つまり、ロシア、カナダ、中国、アメリカ、ブラジル、オーストラリア、インドなどが経済的な中心となる可能性が高いということです。ブラジルなどは将来的には中国を抜くのではないかとも言われています。日本のような中堅国家が目指すのは、政治や経済的なリーダーとしての道ではなく、やはり特異な文化国家としての道だと思います。社会民主主義国家の北欧、中継貿易国家のシンガポールなど、独自の路線をとる国はありますが、日本も丁寧で細やかな気配りが出来る文化的素地があるので、そういう方向を活かせるような魅力ある国造がいいと思います。気のいいおっとりとしたオタクで擬人化できるような国民性でいいと思います。昨日今日のテレビを観ていても、廃棄物処理とリサイクルにおける他の国では観られないような日本の細やかな気配りや、牛首紬など消えかかった伝統産業がヨーロッパなどの文化に新たな活路を見出しているという話がありました。日本の弁当も外国の人から見ればアートだという評判は高いです。漫画やアニメ等の文化が世界的に親しまれていることは言うまでもありません。そういう文化を守り育てて行けるような国づくりが出来ると良いですね。これを地方分権と高度技術・伝統産業の育成の中で実行し、アメリカや東アジアの国々との関係も、経済的な課題だけでなくそういった視点で見直して行ければいいと思います。

 

 

 

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憲法改正論議【追記あり】

阪口正二郎さんの「憲法改正論 多数決で決められないこと」という記事が朝日新聞に掲載されていました。本題は昨年4月に発表された自民党の憲法改正草案(PDF注意)についてですが、この草案で将来的には一番重要になってくるのはやはり憲法12条の改変、現行憲法13条の「個人」が「人」、「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に改変されたことと、憲法97条の削除でしょう。

 

憲法12条

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

->

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

 

憲法13条

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

->

全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

 

憲法97条

この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

->

[削除]

 

 

阪口さんの仰るように、立憲主義というものは国家を諸個人の自由を守る為の人為的な存在として、国家の動きを憲法で規制するという立場です。諸個人の自由は「自然権」として、国家の成立以前に天賦の人権として与えられているものの筈でした。「自然権」とは、国家に付随する憲法以前の権利で、第12条の改正案にあるような義務の履行とはそもそも無関係なのです。この考えを元に、現行憲法97条がある筈です。

 

憲法13条では、「個人」が「人」とされたことで、個人の権利の保障が為されるのかどうかが曖昧になりました。「個人」が「個人」とされることにより、市民革命や産業革命における個人の権利の保障に基づく発展が望まれたのですが、それが曖昧になっていることはそれらの社会的基盤を揺り動かす原動力となりかねません。それに代わって「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」となることで、国民に代わって国が前面に出てくる機会が増えています。また、憲法前文の改正では、諸国民や人類、全世界などの表現が消え、日本国や日本国民などに閉じた世界になっています。国民主権、平和主義、基本的人権の尊重もその具体性がよく分からなくなっています。

 

「国家」については、古くはプラトンやマキャヴェッリなどの理論があり、ホッブズは「万人の万人に対する闘争」という生態学的な状態を防ぐ為に、国家理性が存在するとしています。それに対してロックは、先ほど述べたように自然権がまず存在し、国家は諸個人の自由を守る為の人為的な存在として、憲法で規制されているとしました。この「自然権」が、人間を人間足らしめる考えだともとれます。この流れが市民革命へと繋がっていくので、憲法97条は古代から近現代への歴史の流れを一文に集約していると見なせます。この否定と、憲法12・13条や前文における改正で国家が前面に出てくることから、改正草案はホッブズへの回帰を促しているようにも見受けられます。

 

それでもこれに代わる新たな世界観が提示出来ていればいいのですが、他の改正点は天皇の元首化、国旗・国歌の制定や自衛権の制定、緊急事態に関する事項、その他裁判所の判例に合わせた改善点や修正など、世界観を提示するという程の大きな変革はないように見受けられます。これではローカルな全体主義の国にまた逆戻りするようにも捉えられかねないので、何故このような草案になったのか、疑問に思います。

 

【追記】問題の性質によっては、多数決で決めるのがトクヴィルの言うような「多数派の専制政治」になる場合もあります。京都府出身の国会議員山本宣治は、1929年の治安維持法の制定に少数派として反対し、右翼団体の人物に刺殺されました。治安維持法のその後を考慮すれば、Information Cascadeの理論を持ち出すまでもなく多数決が国家の長期的な意味での繁栄に不適切な決議を産んだことは明らかです。ホッブズの言うような「リヴァイアサン」という怪物国家を暴走させないための歯止めが、ロックの言う「自然権」なのでしょう。

 

 

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鉛の兵隊

「量産型助教」という表現にはうけました。私は正に「量産型助教」なので、白い奴に3分待たずに12機撃墜されたりするのですかね。

 

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唐組の『鉛の兵隊』の再演を観てきました。イラク戦争とアンデルセン『しっかり者のスズの兵隊』にインスパイアされた作品です。唐十郎さん自身は昨年の転倒の影響で今回はご出演されず、久保井研さんが中心になっておられました。

 

自衛隊、アメリカ、ムサンナー、大日本帝国陸軍、ジャコバン、イスラーム、セポイの乱などのキーワードを聞けば、歴史ファンの方は違う印象を受けるかもしれませんが、ものがたりは、

 

 

幼き日、姉・冴と二風谷と共に故郷・鷹栖(北海道上川郡)で見た、死の大佐・一木清直率いる旭川第七師団の幽霊部隊。今なお、その影に引きずられるかのように、自衛官になった月寒七々雄は、まだ戦渦の残るムサンナ州へと発つのだった。そんな七々雄の身を守ろうと、冴は二風谷にある依頼を申し出る。どっかでいつか「弟にすり替わって」。かつて、路頭に迷う祖母と幼い自分を救ってくれた月寒一家のため、なんとかその依頼に応えるべく、スタント事務所<ドタンバ>に二風谷はいた。その二風谷のもとを、ムサンナ州での任期を終えた七々雄が訪れるのだが……。

 

「暗い渦の底の涯。人はそこをのぞくまい、たどるまいと目閉じ、耳ふさぐのが、常、なりわい……が、あの男ばかりは、その渦を逆からたどり、筋を外れて、歩いている」

死んだ恋人・ララを今でも追い求める伝説のスタントマン・荒巻シャケの命懸けのスタント、入れ墨師の娘・小谷の奏でる弦音響く中、消えた指紋の渦探し、独りはぐれた鉛の兵隊が、止まった砂時計に手を掛ける。

 

 

というものです。若者たちのアイデンティティ、「指紋」、「スタント」を巡るミクロなレベルでの物語、昭和ファンタジーが、マクロな歴史的視点と象徴的に交差する所に、唐組独特の滝のように流れる台詞の洪水が「砂時計」「トマト」「塩」「銀の匙」「鉛の兵隊」「渦」などの隠喩表現とともに畳み掛け、壮大な「詩」を形成します。唐組の芝居はそのテンポと息づかいを間近に感じないと充分に堪能出来ないので、興味のある方は是非紅テントに足を運ぶことをお薦めします。岡山では5/3, 4、東京では花園神社や鬼子母神で5月から6月にかけて上演されます。

 

 

 

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マクシミリアン

このサイトを読んでいると、恐怖政治や国王を殺したことが出てくるので、フランス革命[(I),(II)参照]のことかと思いました(時間が前後しているようですが)。ゲームの世界にも世界史は反映されているのですね。

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自由

2002年、健康増進法が成立しましたが、その第2条には、

 

「国民は健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯に渡って、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない。」

 

とあります。日本国憲法の第25条1項の生存権の規定では

 

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」

 

としているので、健康な生活を送ることは権利であり、それもプログラム規定説と言って生存権には国に何かを強制するような法律的な効力はないとする立場が通説の筈でした。国側においてもそれは義務とは言えず、まして個人においては権利を行使するかどうかは自由な筈でした。

 

ところが健康増進法ではそれが義務になってしまっています。この文面に、最近の日本で観られる、他人の行動が一挙手一投足まで自分の考えと合わないと気が済まないという「空気」をどうしても感じてしまいます。日本人が日常でもネットでも他人に干渉し過ぎるということは私が滞在していたアメリカやイギリスの社会とは異なりますし、外国の方々にとっても一時感じられていた「日本人は優しい」というイメージは現在ではとっくに崩れ去ってしまっています。

 

日本国憲法の第13条では、

 

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

 

とされています。つまり、基本的人権は「公共の福祉に反しない限り」尊重されなければならず、市民革命が勝ち取って来た個人の自由もそれに倣う筈でした。公共の福祉に反するかどうかは、権利の制限に関わる非常に重要な問題なのでその合憲性が裁判所で注意深く審査されます。自分の健康増進に努めなければ公共の福祉に反するというのは論理的ギャップがあり過ぎ、憲法13条に矛盾するような気もします。違憲審査は訴訟が起こらない限りは行われず、また健康増進法の第2条も具体性に欠けるのでこのことで訴訟が起こるような気はあまりしないのですが、昨今の非科学的な「健康ブーム」には現代日本の社会の根底に横たわるある種の異様さが感じられない訳でもありません。

 

 

 

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新しい天使



A Klee painting named "Angelus Novus" shows an angel looking as though he is about to move away from something he is fixedly contemplating. His eyes are staring, his mouth is open, his wings are spread. This is how one pictures the angel of history.

His face is turned towards the past. Where we perceive a chain of events, he sees one single catastrophe which keeps piling wreckage upon wreckage and hurls it in front of his feet. The angel would like to stay, awaken the dead, and make whole what has been smashed. But a storm is blowing from Paradise; it has got caught in his wings with such violence that the angel can no longer close them. The storm irresistibly propels him into the future to which his back is turned, while the pile of debris before him grows skyward. This storm is what we call progress.

Walter Benjamin Theses on the Philosophy of History, (1940)

この天使はじっと見詰めている何かから、いままさに遠ざかろうとしているかに見える。その眼は大きく見開かれ、口はあき、そしえ翼は拡げられている。歴史の天使はこのような姿をしているに違いない。彼は顔を過去の方に向けている。私たちの眼には出来事の連鎖が立ち現れてくるところに、彼はただひとつの破局(カタストローフ)だけを見るのだ。その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集め繋ぎ合わせたいのだろう。ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けている未来の方へ引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。

ベンヤミン・コレクション1近代の意味』(ちくま学芸文庫)p.653

ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)
ヴァルター ベンヤミン
筑摩書房(1995/06)
値段:¥ 1,575

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アメリカ的なもの

残り一人のボストンのテロ容疑者は拘束されたようです。オバマ大統領の演説、「9000人の警官対19歳の少年テロリスト」という表現、容疑者が拘束されて歓喜が沸き起こる市民の中に「アメリカ的なもの」を観たような気がしました。日本人の方でもアメリカに長く住まわれるとアメリカ的な思想に染まってこられるようです。アメリカのアフガン介入やイラク戦争に観られたように、アメリカが本気で相手になれば世界のどこの国・民族であろうが「9000人の警官対19歳の少年テロリスト」という状況になるのは明らかだと思います。イラクの中東一の戦車部隊はアメリカ軍の前にあっという間に無力化されました。それに対抗するにはテロくらいの道しかないというのもその後のテロの連鎖が現しています。無差別テロのようなものを実行するのは勿論言語道断で、アメリカ流「正義」にも一理はあるのは認められます。ただ、今回の場合はその可能性は幾つかあると思いますが、いずれにせよテロが起こる背景というものはもっと噛み締める必要があるのではないでしょうか。私としてはボストン市民と一緒に歓喜の波に呑まれることはちょっと出来ないことでした。

 

私個人の助けを必要としている人など世界のどこにもいないでしょうので、私個人がテロに対して何らかの対策をとるというのは出来ない相談です。私が出来るのは自分の採りうる幾つかの道を辿ることで、少しでも世の中に貢献していくことだけだと思っています。直ぐには理解されなくても、年月が経てば理解されるようなことを少しでも出来ればと思っています。

 

 

 

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ボストンテロ事件

ボストンのテロ事件の容疑者とみられる二人組がMITで警官を射殺し、ボストン郊外の銃撃戦でそのうち一人が射殺され、一人は逃走中らしいです。私は2008年の4月から11月までハーバード大学に滞在していました。また、マラソンもやっていたので、仮にボストンマラソンに参加していれば、スタートから4時間過ぎという爆破のあった時間帯には丁度ゴールインしていたでしょう。またテロ事件のあった場所にある地下鉄のBoylston駅はよく知っていますし、現場から400 mほど離れたCharles Riverの河岸は自転車でよく通っていました。MITにも勿論行ったことはありますし、銃撃戦のあった場所の直ぐ東にあるMt. Auburn Cemeteryという墓地には帰国直前に観光に行きました。容疑者の逃走経路であるMassachusetts Ave.Mt. Auburn St.も勿論通ったことがあります。ハーバード大学のキャンパス自体はMt. Auburn St.から100 mほどしか離れていませんし、Massachusetts Ave.も私の下宿先から1.5 kmほどしか離れていません。私は刑事事件の現場に直接出くわしたことはないのですが、自分の生活圏内だった場所がこのような事件の舞台になったことを受けて、世界には未だ貧困や戦争、争いごとに苦しんでいる人々がいますが、自分の住んでいる恵まれた環境が物騒な世界とも一続きになっていることを確認しました。

 

Mt. Auburn Cemeteryについては以前の別サイトのブログで取り上げたことがあるので、以下に一部を再現します。行った当時は静かな場所だと思ったのですが、今でもそうだとは最早思えないでしょう。ハーバードで刺激を受けた直後なので今の私とは大分違う文章内容ですが。

 

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アメリカのH周辺ではSharp-shinned Hawkを見てお仲間だと思ったり、Tufted Titmouseを見たり、また冬に備える為か異様に肥ったHouse Sparrowを大量に見ました。アメリカから日本に帰る前に、一度訪ねてみたいと思っていたMt.Auburn Cemeteryに行きました。ここには鳥がたくさん居るという噂だったので、行ってみると大量のAmerican Robinが見られました。普通種なので珍しくはないのですが、この鳥の天国になっていました。American Robinはコマドリとは違う属に分類される、ずっと大型の種です。アメリカでRobinと言えばこの種です。その他にもBlack-capped ChickadeeWhite-breasted NuthatchDark-eyed JuncoNorthern Cardinal (&)Pileated WoodpeckerBlue Jayなども見られました。50羽ほどの鳥の群れがやってきたと思ったら、案の定European Starlingでした。Robin Pathという道もあったので、歩いてみるとSugar MapleTulip Treeが生えていました。

 

Mt. Auburn Cemeteryは人気のなく寂しい所でしたが、当日は陽の光が射して来て風が落ち葉を舞い上がらせる中、静寂の空間を2時間ばかり散策することが出来ました。人ごみが元々あまり好きではないので、こういった中を静かに過ごすのはかなり爽快でした。花が咲けば大変美しい場所になるらしく、ここに葬られている人々は墓地と自然がある程度調和した中、静かに眠れるようです。写真2枚目はBigelow Chapel3, 4枚目はStory Chapelです。

 

 

 

前回帰国した時に、滝田洋二郎監督『おくりびと』を観ました。ストーリーは

 

プロのチェロ奏者を目指していた小林大悟。しかし、ある日突然所属していた楽団が解散、大悟程度の奏者は掃いて捨てるほどいるため、夢を諦め、1800万円出して購入したチェロを売り払い、妻とともに田舎の山形県酒田市へ帰ることにする。

就職先を探していた大悟は「旅のお手伝い」という文句と給料等の条件に惹かれ、旅行代理店か何かだろうと考えながら、その会社・NKエージェントの面接へ。即日採用決定となった大悟だが、その会社の業務内容とは納棺(=NouKan)だった。妻にどんな会社か詳しいことを言えないまま、納棺師への道を歩む大悟。ある日、妻に仕事内容がばれた大悟は「そんな汚らわしい仕事は辞めてほしい」と懇願される。

 

というものです。この映画では人の死に際する人々の喪失感と同時に懐古感、また生が他の生き物の死あるがゆえに成り立っていることが巧妙に描かれています。涙も笑いもある良質の邦画だと思いますが、Mt. Auburn Cemeteryを彷徨っていて思い返したのがこの映画のことでした。無数にある墓碑の下には非常に多くの人々の人生、またその人と関わりのあったさらに多くの人々の思いが込められているはずで、静寂と生き物のいる美しい風景の中に、これらの事柄が浮き立ってくるのではないかと、元々墓地好きな僕はこの場所が好きになりました。

 

しかし自分が死ぬ段になってこのような場所に葬ってもらいたいかと言うと、答えはNOです。僕は自分の墓碑を造って欲しくないですし、できれば反物質葬にしてもらいたいですが、お金が非常にかかりそうなので(というか技術的に無理?)、合法的に墓碑を造らないで処理してもらいたいです。

 

昔、『ブレスオブファイアIVうつろわざるもの』というゲームがありました。ストーリーは

 

泥の海に隔てられた二つの大陸間では、西側のフォウ帝国と東側の連合諸国で古くから戦争が続いていた。長く続いた戦争は両国に疲弊をもたらし、双方は一時休戦を余儀なくされる。

休戦成立から1年後、戦災を受けた人々を見舞いに前線の町セネスタへむかった東側の大陸のウィンディア王国王女エリーナが行方をくらましてしまう。前線に捜索部隊を送ることでフォウ帝国を刺激することを恐れた東側連合は大々的なエリーナ王女の捜索ができないでいた。エリーナの妹、ニーナは東側連合フーレン族族長のクレイと共に、エリーナ捜索に旅立つことを決意するのだった。

 

全体として、神と人間との対峙や、人間の愚かしさと美しさ・可能性を描いているというのですが、そこには「うつろわざるもの」(=普遍性)としての神と、「うつろうもの」(=多様性、進化)としての人が出てきます。「うつろわざるもの」の主人公の一人フォウルは、人間が生き残るに相応しいか疑問視しており、一時は人間の優しさに触れ、人間の持つ可能性を信じようとしますが、その後に帝国の残酷な攻撃を受け、人間の愚かさに絶望します。しかし結局は弱く愚かで矛盾するが美しい人を受け入れ、神の力と、不完全なディース以外の全ての神を元の世界に返してしまいます。永遠のものである「うつろわざるもの」と、無常のものである「うつろうもの」は相容れないものであるという世界観で、ディースただ一人が世界を見守っていくことになるのですが、これと似た世界観の映画にヴィム・ヴェンダース『ベルリン・天使の詩(Der Himmel über Berlin)』があります。

 

守護天使ダミエルは、長い歴史を天使として見届け、人間のあらゆるドラマを寄り添うように見守った。だが親友カシエルに永遠の生命を放棄し、人間になりたい、と打ち明ける。やがてサーカスの舞姫マリオンに想いを寄せるダミエルはついに「壁」を境に東西に隔てられた街・「ベルリン」に降り立った…。

 

というストーリーなのですが、この映画では天使は永遠のモノトーンの世界の中で決して人間に干渉することなく、ただ只管人間を見守って行く存在として描かれています。しかし主人公の天使はただ見守っているだけの存在に耐えられなくなり、永遠の命を捨ててまでカラーの世界として描かれている人間の世界へと入ることを決めます。人間には生死があり、揺れ動く感情があるからこそ感じられる美しさがあるからでしょう。これは山下和美『不思議な少年』のソクラテスの話にもありました。

 

しかし、僕は逆に、たとえ未来永劫に続くモノトーンの世界に閉じ込められ、自分の存在や思いを相手に知られること無くただ只管見守り続けるだけの存在になったとしても、叶うなら天使になることを選びたいです。人間とは相容れない存在となり、失う物が大きかったとしても世界の行く末が見守られるののなら一興ですし、元々自分の仕事は残っても、自分の名前は忘れられて行っていつの間にかいなくなっているというような最期が理想だからです。だから墓碑は要らないと思っています。仕事の都合上どうしても名前を明示させて責任を明確にする必要があっても、一度仕事が確立してしまえばその必要もないと思っています。『ベルリン・天使の詩』とは真逆の考え方、「うつろわざるもの」への憧れがあります。

 

では過去に実際にそういう人が居たかと言うと、名前が残りにくい時点で調べるのは難しいと思うのですが、僕は個人的にフランスのリシュリューや日本の源頼朝が好きです。源頼朝は判官びいきであまり人気がないのは知っていますし、多くの同族を殺した冷酷な人物だなどと言われますが、僕は義経に関しては寧ろ弟だから殺さざるを得なかったのだと思っています。頼朝が武家中心の社会をつくろうとしていた時に、戒めていたのにも関わらず朝廷から勝手に官位・官職を貰ったり、東国武士たちに対する専横が目立ち、頼朝は義経を他の武士たちと同じ扱いにしようとしたとは言っても、自分の弟がこの体たらくでは他の武士たちに対して示しがつかないことは明らかです。義経がただの軍事の天才ならば誅殺するまでも行かなかったかも知れません。頼朝は自分の政治構想の実現のためには何でも実行する傾向がありますし、義経の追放もその一つの現れかも知れません。

 

頼朝の人物像を推定するには肝心な部分の記録が欠落していて難しいのですが、頼朝がただの冷酷な人物だと考えると説明がつきにくいような本人の行動や周りの反応が数多くあります。一例を挙げると、承久の乱の時に北条政子が頼朝の御家人に対する「御恩」を思い起こさせて御家人の心を打ち、「奉公」を導き出すことに成功した、という有名な話があります。

 

頼朝が築いた武家社会の基盤となる「御恩と奉公」の考え方は、それまでの律令制のように王だけが君臨し、王の前では誰もが平等であるという思想とは異なり、互恵的な関係で、個人主義が利己主義に陥るのを防ぐという意味で現代社会の理念にも通ずるものがあると思うのです。頼朝の功績は既に存在した複雑で一時的な主従関係を単純・恒久的な制度として確立したことで、これは明治維新になって律令制が復活するまで武家社会の規範となります。日本が他のアジア諸国と異なり急激な近代化に成功した理由としては、それまでの武家社会が築いて来た政治・経済の制度や倫理観が優れていたからであるという考え方もあり、その武家社会の規範となっていたのは元はと言えば鎌倉幕府の諸制度、「御恩と奉公」などの概念ったでしょう。ヨーロッパでも封建的主従関係はありましたが、日本ではヨーロッパのように領地の私有や農奴の隷属などはなかったので、「御恩と奉公」は日本独自の社会契約だと思われます。

 

鎌倉時代の「御恩と奉公」の関係が崩れたのは、「御恩」が土地という量に限りのすぐあるものに基づいていたためですが、現代では土地が経済の基盤ではなく第三次産業に基盤があるため、経済的な限界は遥かに上にある筈です。また、身分制度もほとんどないため、現代で「御恩と奉公」を持ち出しても昔の封建社会には戻りえません。頼朝が基礎を築いた「御恩と奉公」の制度が、歴史的にどのように形作られ、人々の心を変えて行ったのか、興味のある所です。侍所・政所・問注所の様々な資料をトクヴィルのような人に分析して説明して貰いたいです。そうすれば中国起源の律令制とは異なる日本独自の制度・思想の良さが少しは見えてくるかも知れません。同時代の二人の大物、平清盛や天下の大天狗の政治と比較するのも面白いと思います。武田信玄に学んだ猛将・東照大権現が崇拝したのもそれだけの理由がある筈です。テロが多発する現在、日本の進むべき道を示して欲しいものです。

 

九条兼実が頼朝を評して曰く、「威勢厳粛」なり。相矛盾するかのような表現が両立する頼朝の人物は一筋縄ではなかったのでしょう。

 

おくりびと [DVD]
アミューズソフトエンタテインメント(2009/03/18)
値段:¥ 3,990

ブレス オブ ファイアIV うつろわざるもの
カプコン(2000/04/27)
値段:¥ 6,090





 

 

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Information Cascade

‘Information Cascade’ という概念があります。これは人々が他人の行動を観て、自分自身が私的に受け取っているシグナルとは独立に他人と同じ行動を採ることを指しています。その結果、オリジナルの情報から予想される行動とは全く異なる行動が大多数を占めることもあり得るのです。非合理的な行動、ある行動が一過性で長続きしないことの説明ともなっています。この概念が成り立つには、

 

I) 社会の構成員が決定を順次行う

II) 構成員が各自の保持する情報に基づいて合理的に判断する

III) 構成員がその他の構成員の保有する情報に直接アクセス出来ない

IV) 構成員の採りうる行動が賛成/反対の別のみなど、種類が限られている

 

という条件が必要です。全体主義国家のような情報統制とシステムの単純化が行われている状況下での噂話などはまさにこの例に当て嵌まる訳です。

 

賛成という事象とその確率をAp、反対という事象をR、賛成時の高いシグナルをH、反対時の低いシグナルをLAが起こった時にHの起こる確率とRが起こった時にLの起こる確率をqとおくと、ベイズの定理とq>0.5より

$\begin{equation} P\[A|H\]=\frac{P\[A\]*P\[H|A\]}{P(H)}= \frac{P\[A\]*P(H|A)}{P(A)*P(H|A)+P(R)*P(H|R)}= \frac{pq}{pq+(1-p)(1-q)}>p \end{equation}$

となり、Hシグナルによりpは単調増加、Lシグナルによりpは単調減少します。賛成と反対のどちらを採るかの確率が五分五分の場合、構成員はp>0.5と信じるのなら賛成、p<0.5と信じるのなら反対の立場を採りやすくなります。

結果、賛成の回数をa、反対の回数をb、試行の回数をa+b=nとおくと、

$ \begin{equation} P(A|Previous, Personal Signal)=\frac{pq^{a}*(1-q)^{b } }{p*q^{a}*(1-q)^{b}+(1-p)(1-q)^{a}q^{b } } \end{equation}$

となります。つまり、試行回数が充分大きくなれば賛成か反対のどちらかの結果に収束することは必ず起こり、それはオリジナルの賛成か反対かの情報に依存せず、さらに最終的には多数決に見えても実際は初期の少数者の判断に依存することもあり、その結果は不安定であるということです。個人の評判に関する噂話などもこれに該当します。ベルリンの壁崩壊もこれに依って起こったとする説があります。

 

私はこういう話を知っているので、いい加減なことを口数多くペラペラ喋ったり(試行回数の人為的増加)、空虚な論理を言葉巧みに印象操作しているだけの人(シグナル強度の人為的改変)が大勢を握ることが可能な噂話には一切関知せず、自分が得られる生の情報のみを信じることにしています。その分失敗することも多いですが、特に人の評価で噂話というものを信じて間違いを起こすことは避けたいとは思っています。

 

 

 

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ミクロ経済学的に見た科学技術政策

今、必要があって大学レベルの経済学を三日漬で学んだのですが、そこで得られた知見から科学技術政策の在り方をごく大雑把に考えてみました。

 

まず科学技術研究における競争的資金の獲得と成果の達成に市場原理が当て嵌まりやすいか、ミクロ経済学的な原理を考えてみましょう。結論から言うと、現段階の科学技術研究を市場原理で最適化するのは不完全競争市場における市場の失敗により不可能だと考えられるので、それに沿った施策をとるか、完全な市場原理を導入するための改革が必要だと思われます。

 

ここで消費者を一般国民、生産者を研究者と仮定しましょう。完全競争市場とは、(1)多数の消費者、生産者の存在(2)市場への参入・退出の自由(3)生産物の同質性(4)情報の完全性の4つの条件が成り立つ市場のことです。科学技術研究においてはこのうち(1)はともかく、(2)は科学技術研究をやめる自由はあっても特定の分野に後から参入する自由は得にくいので成り立たず、(3)も研究成果は全く異質のものばかりで成り立たず、(4)も情報は研究成果の公表までは特定のコミュニティ内に秘匿されるため成り立ちません。完全競争市場では消費者と生産者の余剰の和が最大となることで安定し、社会厚生が最大となるパレート最適が容易に達成され、(研究)資源の配分が最適化されるのですが、今の科学技術研究の在り方ではそれは無理ということです。よって、(I) 不完全競争市場であることを承知した上での政策をとるか、(II) 完全競争市場が成り立つ改革を行う必要があります。

 

(I)   については、科学技術研究の市場は研究費の額の硬直性が起こる寡占市場もしくは、研究成果に基づいた研究者ごとのブランドがある独占的競争市場であると考えられます。そのため寡占者もしくは独占者が権力を持って研究費が過剰に集中するような流れをつくることが可能です。独占度は研究成果の公表に要した研究費用をP、研究成果の量Qを変数にした総費用の曲線の接線の傾きである限界費用MC、研究の一般国民からの需要の研究費用に対する弾力性Ed=-dQ/dPx P/Qとおけば、ラーナーの独占度(P-MC)/P=1/Edで計算可能で、研究費用が何%不当に高めになっているかを示すことが出来ます。

 

ここで観られる「市場の失敗」を解決するには、まず市場の独占の禁止が必要です。研究費の集中は基本的には好ましくないのです。巨額の研究費を要し、研究費の平均費が研究費の量の増加に沿って効率化して逓減するビッグサイエンスに限っての場合は、巨額の研究費を要するプロジェクトが多数の小規模の研究室で行われていては却って効率が悪いので独占が好ましくなりますが、この場合は研究費が適切に使われ、無駄がないかどうかを厳しく審査する必要があります。具体的にはパレート最適が達成出来る様にP=MCとなるように競争的研究費を設定し、そこでは研究成果の量Qに対する平均費用ACMCの曲線から算出した補助金(P=ACとなるように独立採算性をとれる基盤研究費)を別に与えて生産者が立ち行かなくなることを防ぐのです。電気会社や通信産業、鉄道産業において公共料金を設定し、補助金も与えるか、携帯使用料のように基本料金と使用料金の二部構成にして価格を抑える努力がされているのと同じ原理です。現実の研究では巨額の研究費をもらっているプロジェクトではほとんど使用していない機器を購入したりもしているので、規制は厳しくするべきです。

 

研究成果自体は一度に多数の人が利用可能なので非競合性であり、またフリーライダーが現れる場合も多いので排除不可能性もあるので、公共財と見なされるために「市場の失敗」も起こります。そのような汎用性が高い研究の場合は、社会的限界便益がMCと等しくなるように政府が利用料金を徴収する必要がありますが、こちらは算出が極めて難しいでしょう。

 

「市場の失敗」は情報の不完全性でも起こるのですが、これに対しては研究者の履歴の公開等のシグナリングや査読制度などのスクリーニングが有効だと思われます。

 

 

(II)  を達成するには、新たな分野への研究者の参入をしやすくする草の根の萌芽的研究とそのための人件費の手厚い援助、研究の価値の多少が結果的に無視出来るような大量の研究成果の発表を保証するこちらも草の根の萌芽的研究とそのための人件費の手厚い援助、さらには情報開示の完全性を保証するために研究成果をごく早期の段階で共通のデータベースに登録し、情報の共有を大胆に行うことが必要ですが、これは自由主義的な側面も持ちながら多分に社会主義的でもあるので、(I) の施策と組み合わせて行う必要があるかも知れません。

 

以上、概念の定義が曖昧で現実に計算出来るものなのか分からないものが多いですが、草の根研究の重要性が少しでもお分かりになればよいと思います。

 

 

 

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K大の変化

今日、K大学生協の本屋である○ネに行くと、改装がされていました。中は本棚が少なくなってデザインがよくなり、本を座って読むことのできるゆったりとしたスペースがありました。ところが見せかけの部分でなく肝心の本の方は、前と配置換えがされていて実用書や文庫・新書が奥から前に出て来ており、人文・社会科学の専門書がその奥にあって自然科学の専門書は一番奥のスペースにありました。自然科学のラインナップでは数学・情報学・物理学は以前と同程度の品揃えがあったのですが、化学・生物学は本の多様性が大幅に減少し、地学の本にいたっては専門のコーナーすら与えられずに生物学・生化学のコーナーの片隅に少しだけありました。Amazon全盛の時代でも実際に手に取ってみることの出来る本選びは未だに大切なものだと思うのですが。。。

 

先日、日本の科学のプレゼンスが低下していることを書いたのですが、K大生においても本のニーズが実用書や文庫・新書に偏っているようです。科学の専門書のニーズが低下していそうなことからも、大学の就職予備校化とアカデミズムの地位の低下が見てとれそうです。自然科学に至っては物理学がまだその地位を保っているようですが、その他の分野はK大生にとっても何をやっているのかよく分からない、そういう状況なのかも知れません。先日紹介した文部科学省のデータからは日本は物理学のシェアが大きく、数学や情報学などの計算機科学のシェアは小さいことが分かるので、数学や情報学などの本のニーズはおそらく物理学生から来ているものでしょう。

 

日本の科学の次世代は物理学がメインになり、その他の分野は衰退していくのだと思います。科学論文数・科学論文の被引用度や本のニーズだけでなくいろいろな側面で私たちのようなテーマ重視の昔ながらの研究者は少なくなっていることが感じられます。その代わりにラボ運営をビジネス的に捉えてプレゼンは得意なのですが、自分の地位を上昇させるかそれを保つことに熱心でテーマ設定には節操がない研究者層が増えて来ているようです。これでは遠謀深慮の研究計画は立てられようもなく、「研究」という名のただのラボマネージメントビジネスが罷り通ってしまうのではないでしょうか。以上の話題だけでなく至るところで私たちの居場所は確実に少なくなってきている実感がありますが、これも時代の流れに取り残されているからかも知れません。

 

 

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科学における日本の役割の低下

沖縄科学技術大学院大学の柳田充弘先生が日本発の論文数の低下について嘆いておられました。

 

詳しいデータはこちらになります。科学論文数の世界的な増加に比較して、日本発の論文数が伸び悩んでいることが分かります。2000年までの間に日本のプレゼンス(シェア)は躍進しましたが、2000年以降にプレゼンスが低下しています。論文の被引用度も他の国に比べて大して上がっておらず、トップ論文のシェアはむしろ減少しているので、質が高くなっている訳でもないようです。国際共著割合は他の国と同様に増加しているので、国際化の波に乗り遅れている訳でもありません。

 

官僚の方々は「この国の科学をあるべき、正しい道に導いて行く」と仰って研究費の集中、重点化、5年おきに生まれる新研究分野への研究費特化による研究者の先鋭化を行ってきたのですが、その結果がこれではまるでブラックユーモアのようです。重点化政策と日本のプレゼンスの低下に因果関係が本当にあるのかどうかはまだ不明だと思いますが、無関係ではないと思っている研究者の方は多いと思います。

 

柳田先生は、雑草派の研究者の本音として「まず生きるに最低限の生活費をください。そして些少の研究費をください。研究テーマは自由に選ばさせてください。でもたとえ50万円の研究費でもどのような成果が得られたかきちんと評価されるのはいいです。でもテーマは自由にやらせてください。」ということを挙げられています。重要なのは最低限のサポートでもいい研究は出来るということです。これには私も全く共感するのですが、私も含め裾野の研究者の居場所はもう無くなってしまうようです。

 

 

 

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スナーク狩り再び


アニメ『PSYCHO-PASS』の縢秀星。

 

 

真実に辿りついた直後に、消滅。

 

ルイス・キャロルの“The Hunting of the Snark” みたいですね。

 

 ‘It’s a Snark!’ was the sound that first came to the ears,

And seemed almost too good to be true.

Then followed a torrent of laughter and cheers:

Then the ominous words, ‘It’s a Boo-‘

Then, silence.

 

The Hunting of the Snark (Penguin Classics)
Lewis Carroll
Penguin Classics(1998/04/01)
値段:¥ 1,942


 

 

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人生最後の日

徳島は大分暖かくなってきましたが、私の自宅の近くの河口のヒドリガモAnas penelopeはまだ北の国には帰っていないようです。

 

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2011年に亡くなったスティーブ・ジョブズの「毎日が人生最後の日だと思う事にしてその日やることの意義を問いかける」という2005年のスピーチのことをご存知の方は多いと思います。私も漫画『アイアムアヒーロー』に出てくるDQNならぬZQNがごとく、ゾンビ系研究者となって久しいので過去の記憶が断片的に残っているだけでそれを繰り返し喋っているに過ぎないので、人生最後の日のことを念頭において行動した方が良いのではないかと思い始めました。

 

今日が人生最後の日なら、やはり自分が今までやってきたことを一言で纏めよう、そう思います。後世に名を残すとか自分がいなくなった後にはどうでもいいことではなく、またゾンビ系研究者には満ち足りた研究者人生などは無縁なのでそういうことも関係なく、断片的な記憶を幾つか纏めておいて路傍の草として誰かの目に留まる事があればいい、ということです。

 

私のやりたい(かった)ことを一言で纏めるなら、

 

「生き物(もしくは国家)には社会戦略の同一性を保つため、構成員の自己アイデンティティの変化の速度に見合った最適なシステムサイズが存在し、また寿命もそれに応じて存在する。自己アイデンティティの保持のためには時には排他性も現し、他者の受入との間でコスト/ベネフィットに見合ったあるバランスを保って切り替えを行う」という仮説を証明することです。

 

専門的なことを言えば、生物の階層構造、分子・細胞内小器官・細胞・組織・器官・個体・個体群・「種」・群集・生態系の様々なスケールにおいて、異なる階層での原理をそのまま他の階層にも当て嵌めていいとは限らないです。しかし、細胞(個体)・個体群・「種」のスケールでは、私は既にそれらしい現象があることを発見し、その因子のうち幾つかの同定を行っています。

 

この研究を進めるに当たってはいろいろなレベルで問題があるのですが、その研究を進める為の環境づくりが私の目下の目標で、それに関連することが出来た日は、道半ばでも「人生最後の日」として良いでしょう。

 

話を生き物から国家の成り立ちや有り様にまで広げるのは途方もない飛躍で、そのような最終目標に到達出来る見込みは現時点では全くないのですが、本当の「人生最後の日」が来るまでに、その飛躍に向けた情報整備のために幾つかのことが出来れば良いとは思っています。

 

この場でこういうことを書いたので、当面はこの線で自分の行動を規定していきたいと思っています。

 

アイアムアヒーロー 1 (ビッグコミックス)
花沢 健吾
小学館(2009/08/28)
値段:¥ 560


 

 

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10年

私は以前10年ぶりに中高の同窓生に会って、10年間の間に人生経験はいろいろ積んでも根っこのところは皆変わらないな、と思ったものです。ところがそれは私の出身中高というごく限られた世界での話であって、10年経てば人はやはり変わるものではないか、と最近思い出しました。年齢を重ねて責任のある役職に就くようになるとそれまでと変わらない人もいれば変わる人もいる、そういうことに直面したような気がしました。

 

個人の能力に合わせて仕事を配当するのはごく当たり前のことだと思いますが、どんな能力の人どうしでも根っこのところではお互いに認め合える、そういう関係が理想だと思っていました。能力に見合わない仕事はさせないもので、出来なかったからといって直ぐに詰るのではない、そういうものだと思っていました。私は昔から特別扱いされるのが非常に苦手で、今でも学生さんと同じ目線で話されるとそれでも構わないというよりは寧ろ喜ばしいものだと思っていました。指示するされるでは立場の違いはあっても、基本的には相手は同格だと思っていました。ところがラボの運営に当たってはボスが他のメンバーと友達付き合いのようなことをしてはいけないとはよく聞きますし、それがラボ運営に当たって本当に必要不可欠のことなのかどうか、判断をしかねているところです。私の現在のステージは何だかよく分からないのでそれはともかく、責任のあるステージに進むと考え方も変わるのかも知れません。自分が社会的にどういうroleをとるべきなのか、しっかり見定めようと思っています。

 

 

 

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善き人のためのソナタ

1984年頃の東ドイツの監視社会を描いた映画『善き人のためのソナタ』を観ました。何度か観た事があるのですが、やはり名作だと思います。第79回アカデミー賞外国語映画賞を受賞しています。

 

粗筋は、

 

1984年の東ベルリン。国家保安省(シュタージ)の局員ヴィースラー大尉は国家に忠誠を誓っていた。ある日彼は、反体制の疑いのある劇作家ドライマンとその同棲相手の舞台女優クリスタを監視するよう命じられる。さっそくドライマンのアパートには盗聴器が仕掛けられ、ヴィースラーは徹底した監視を開始する。しかし、聴こえてくる彼らの世界にヴィースラーは次第に共鳴していく。そして、ドライマンが弾いたピアノソナタを耳にした時、ヴィースラーの心は激しく揺さぶられる。(Wikipediaより)

 

となっています。この映画の大きなテーマの一つは、「誠実さ」となっています。これは映画の始めでは国家の監視の下の密告や裏切りにより仕事を出来なくさせられ自殺した演出家のイェルスカを形容する言葉ですが、この言葉はそのまま「誠実に」国家に忠誠を誓っていた主人公のヴィースラーにも当てはまります。監視する側とされる側を繋ぐ唯一の接点だったのです。

 

ヴィースラーはシュタージの幹部でありながら、例えば食堂でも幹部席に座らずに一般の席に座る事を好み、上司のグルビッツの立身出世のための会話を聞いても淡々とした表情を浮かべています。イェルスカの死の際にドライマンがピアノを弾きながら、ベートーヴェンの『熱情ソナタ』を聞くと悪人になり切れないとレーニンが述べていた逸話を語りますが、これがヴィースラーの半生にそのまま当て嵌まってきます。握りつぶされる才能に触れ、冷淡なヴィースラーに変化が訪れる時でした。

 

クリスタがドライマンを裏切る瞬間を目の当たりにした時の尋問者ヴィースラーの表情、クリスタに「許してくれ」と呼びかけるドライマンの表情など、演出上に見せ所がたくさんあります。冷戦体制を終結させたゴルバチョフのソ連共産党書記長就任のニュースがクリスタの死の直後に流れるなど、ドラマチックな展開もあります。カメラワークもヴィースラーとグルビッツの会話でカメラのピントの合わせ方を変える事で二人の思いを現すなど、情緒的なものがありました。

 

こういう映画を観ていると、私もいろいろな人に「こんな自分が生きていて許してくれ」と言いたくなります。イギリスにいる時はラボから遅い時間に帰宅したあとのセントラルヒーティングの切られた寒い自室の中で、ラヴォアジエの伝記でその死の辺りを読んでいて、ラグランジュのごとく読み進めることが出来なくなったこともあります。琴線に触れるドラマというものがあるようです。

 

Antoine Lavoisier: Science, Administration and Revolution (Cambridge Science Biographies)
Arthur Donovan
Cambridge University Press(1996/04/11)
値段:¥ 3,994



 

 

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TOTO LE HEROS

TOTO LE HEROS』という映画を観ました。映画の説明は

 

自分が向かいの家の子供と産院で取り違えられたと信じる男の悲痛な一生と、人生の幸福を取り戻すための旅を実験的な手法で描く悲喜劇。(goo映画より)

 

となります。『魔法少女まどか☆マギカ』のように、HEROSと題打っても全然ヒーローの映画ではないのかと思いきや。。。ラスト30分前になるまでに結末が予想出来なかった映画は久しぶりです。自分の思い描く「ヒーロー」と、現実の「ヒーロー」とは齟齬があるものですが、ここまで意外性のあるヒーロー像には参りました。誰が為の人生か。。。神様なんていないと多くの人は思っているのかも知れませんが、視点の魔術、人生とは不思議なものだということが、ミスマッチな音楽の下で現実と想念が混在し時系列が入り組んだ映像から浮かび上がってきます。91年カンヌ映画祭でカメラ・ドールを受賞したのも納得です。曲芸の様に自由な発想の表現によるストーリー展開が楽しめるという、映画の原点を感じさせてくれる作品でした。

 

トト・ザ・ヒーロー [DVD]
角川書店(2012/10/26)
値段:¥ 1,280


 

 

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ボクには世界がこう見えていた

小林和彦さんという統合失調症らしき患者さんの書かれた闘病記を拝見しました。内容としては同病の患者さんの書かれたものとしては例外的に理路整然としており、発症に従ってそれが失われて行ってその経緯を知るには大変理解しやすい文章でした。一見フィクションのミステリー小説の様にもとれてその不可思議な世界に惹き込まれていくのですが、これは事実を著したものだそうです。

 

小林さんの発症の原因としてはストレスが原因かも知れないとのことで、一般的に信じられている同病の典型的な原因と一致します。小林さんは女性関係も引き金となったと述べておられますが、そういう説はあるようですが因果関係は不明であるというのが現在の医学会の見解だと思います。

 

この闘病記の一番の核となるのが「関係妄想」で、「周囲に起こっている現実を自らに結びつけて考える妄想。周囲の行動・言葉に過敏で自己に関係して捉えるがそれに動じることも多く妄想まで発展し現実離れしていく。」とWikipediaには記載されています。周囲の方には理解できない論理的飛躍に基づいて事物の関連性が謳われる時、それは「関係妄想」となります。小林さんは非常に状態の悪い時を除いて個々の会話の部分は論理的整合性がとれているのですが、全体としては論理の飛躍のある部分が多く結果的には他人に理解のできない「関係妄想」に陥ってしまっています。現在も闘病生活を続けておられる小林さんは未だにこの妄想から完全には脱却されておられないようですが、小田急線の運行情報を知りたい時にたまたま小田急線の時刻表が目の前に捨てられていた、そのようなことが何度も続くと某かの存在の意思を感じられずにはいられなくなるのかも知れません。小林さんの「関係妄想」は、思考の初期には自分はシステムの一部でしかないと自覚していた筈が、社会変革を目指した辺りから世界は自分のためにあるという妄想に掏り替ってしまっていることが、この闘病記には克明に記されています。資料としては貴重なものかも知れません。

 

論理的な飛躍は勿論創造性の発現には重要で、ノーベル賞を受賞された南部陽一郎さんも超伝導における対称性の自発的破れが素粒子理論においても適用できるという、「偉大なる飛躍」が元で同賞を受賞されています。一般の研究者なら超伝導のようなマクロな現象と素粒子におけるミクロな現象にアナロジーが成り立つのかという点で直ぐに懐疑的になってしまうのですが、そこを超越できたところに南部先生の素晴らしい点があるのです。ただ、大抵の場合はそのような超越は「関係妄想」のようなものに終わってしまうのです。

 

統合失調症の患者さんはよく世の中に起こるマクロな出来事Aが自分の関わるミクロな現象Bと同時に起こる事から、ABの間に因果関係を見出そうとします。しかし、これはそのような共時性が仮に存在すると仮定しても、ABに関してそれらの原因となる別の現象Cがあり、CABを引き起こしているのだという単純なモデルを考えれば、ABが同時に起こってもABの間には何の因果関係もないことになります。一般の方はよく取り違えるのですが、共時性と因果性は関係ないことも多いのです。そういうことを前もって踏まえておけば、「関係妄想」に捉われることも抑えられるかも知れません。

 

小林さんの記されている幻覚の体験も、それが必ず寝起きの体がまだ完全に覚醒していない状態で起こったことに着目すれば、それはそれ程珍しい状態のものではないことが理解出来るでしょう。

 

小林さんは自分の脳波がそうとうおかしくなっていたのではないかと危惧されていましたが、脳波がおかしくなるのは器質性疾患の場合のみで、統合失調症にしろその他の障害にしろ、脳波は正常人と変わらない筈なのでご心配なさる必要はないと思います。

 

 

小林さんは

1. 自殺しないこと

2. 他者を傷つけないこと

3. どうしてもダメだといきづまったらすみやかに精神科に入院すること

ということを精神障害者の使命として掲げられていますが、それは大変妥当なところで、個々の妄想に対しては上で述べたように一歩一歩対処していくべきでしょう。人口の1割を占めるという、小林さんやその他の多くの精神疾患の方々に理解のある社会になることを心より願っています。

 


精神医学
大月 三郎, 青木 省三, 黒田 重利
文光堂(2003/11)
値段:¥ 7,560


 

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強い力と弱い力

2/2は突然暖かくなりました。研究室で一夜を過ごした後、今朝自宅に戻ると、大栗博司先生の『強い力と弱い力』(幻冬舎新書)が届いていたので、早速読みました。自然界の四つの基本相互作用のうち、電磁相互作用、強い相互作用、弱い相互作用の研究の歴史の話で、昨年のヒッグス粒子らしき新粒子の発見までが含まれています。重力相互作用については大栗先生著作の『重力とは何か』(幻冬舎新書)が既に出版されています。

 

本書はヒッグス粒子らしき新粒子の発見でほぼ完成をみた電磁相互作用、弱い相互作用、強い相互作用に関する標準模型について、数式をほとんど使わずに標準模型の発展の歴史的経緯からヒッグス場の存在の推定に至るまで一般の方にも分かるような解説を加えたものです。素粒子物理学の概観に触れるには大変分かりやすい書物となっています。

 

ヒッグス粒子らしき粒子の発見についてはヒッグス粒子自体が重要なのではなく(ヒッグス場の提唱者の中にはヒッグス粒子の出現を自明なものとして論文に記載しなかった方もおられた)、南部陽一郎先生の提唱された自発的対称性の破れ(現在では特殊相対性理論において2つの慣性系を結びつけるローレンツ変換におけるローレンツ対称性の破れを示すCPT対称性の破れの確認のための実験が盛ん)の理論に基づいたヒッグス機構(素粒子が質量を持つ機構で、原子の質量の1%を説明。他の99%は主にカイラル対称性の破れによる強い相互作用のエネルギーが質量と等価であることに起因する。)に含まれるヒッグス場の存在の推定となることが重要であったようです。現在の物理学では真空はその物理系の最低エネルギー状態とされており、そこは粒子が対生成し対消滅していると考えられています。ヒッグス場がゼロでない期待値を持つ時、電子などが質量を持つことが出来ます。仏教(若しくは能楽)での「色即是空」「真空妙有」の考えにも通じるものがあるのではないかと仰る方もおられるそうです。

 

その他にも電荷の単位が電子の電荷を-1eとし、クォークの電荷を+2/3e-1/3eとしているのは強い相互作用の影響でクォークが単独では存在できないため、クォークの電荷の方を分数にして電子の電荷を-1eとしていることが読み取れました。

 

『強い力と弱い力』には新発見をしながらいろいろな理由で発表が出来ずに他の人がその発見をしたことになり、発表出来なかった方の貢献は逸話でしか伺うことの出来ない様子が何度も描かれていました。そもそも大きな発見をすること自体が難しいですし、たとえ発見をしてもいろいろな理由で発表が出来なくなるもので、自分の発見が結果的に世に出なくてもそれほど気に病む必要はないものだと思いました。本当に自分だけしか出来ない研究を公表するというのは、ノーベル賞を貰うよりも難しいことがこの本から認識されました。パウリの排他律で有名なパウリの言葉を借りれば、

 

待つことのできる者にのみ、待ち人は来たる

 

ということらしいです。ダークエネルギー、ダークマター、対称性、空間とスピンの関係、ヒッグス場など四つの相互作用以外の相互作用(ダークエネルギー、ダークマター、対称性、時空の次元などでは未解明な物理が多いので、四つの相互作用以外の相互作用もあるのではないかと考えていたら大栗先生はヒッグス場をその例として挙げられていました)などに物理学のフロンティアはまだまだ隠されていそうです。そういう疑問を大切にしていきたいですね。例えば原子核は+の電荷を持つ陽子と電荷を持たない中性子からなり、その周りを-の電荷を持つ電子が回っていると聞いて、重力は小さいので電磁気力の斥力で原子核が崩壊しないのは電磁気力を上回る何らかの力(強い力に対応)がある筈だとは子供の時分にも分かると思いますし、そういう疑問を持てることが科学的思考に繋がるでしょう。私は大学の受験勉強をしていた頃、化学の勉強をしている間に原子半径のデータからある原子Aが原子Bより大きく原子Cより小さいのは何故かということに捉われ、教科書や参考書にその理由については何も書かれていなくてもその定性的な理由を考えて気がついたら一日が終わっていたことがあります。定量的な評価は量子力学などを用いないと分からないですが、教科書や参考書に詳しくは書かれていないことを推測したり、記述の曖昧な部分や誤りを詰める作業は案外楽しいものだと思います。そういった疑問を育てる教育が出来るといいですね。

 



 

 

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ホビット 思いがけない冒険 【追記 冬の天城】

何とか時間を作って『ホビット 思いがけない冒険』2Dで観ました。3Dの映画館に行く余裕はなかったです。これはJRR・トールキンの『指輪物語』(『ロード・オブ・ザ・リング』として三部作が映画化)の前編『ホビットの冒険』を原作とした映画化で、こちらも三部作のようです。

 

トールキンは英国オックスフォード大学のアングロ・サクソン語の教授で、エルフ語という言語体系を創ってしまったほど綿密な設定をこれらの物語について行っています。聞き慣れない固有名詞に関しては全て本編では語られない長大な設定があり、『ナルニア国物語』のCS・ルイスを批判するほどの完璧主義者だったそうです。『ホビットの冒険』の方は子供向けに書かれた作品なのでユーモラスな描写が多いのですが、結末は生温いものではないのは読んだ方なら皆分かるでしょう。『指輪物語』の方は私の経験では序章の物語ではない舞台設定(結構長い)で読むのに挫折した人や、キリス・ウンゴルの階段で挫折した人などもいて、長いと感じる方が多いようです。しかしこれはただのファンタジーにあらず、現実の人類の歴史や社会を暗喩した哲学を含む言語文化なのです。映画は小説の内容を非常に手の混んだ手法と美術で実写化し、エンターテインメント性のある作品に仕上がっていました。

 

『ロード・オブ・ザ・リング』では遺体としてしか登場しなかったドワーフのオーリ(モリアで『ホビットの冒険』に登場するバーリン、オインとともに亡くなった)が生きて動いている姿や、『ロード・オブ・ザ・リング』では原作が余りにも長大なため出番をカットされた5人のイスタリの一人の茶色のラダガスト(役者は『ドクター・フー』のシルヴェスター・マッコイ)が実写化されたのは嬉しいところです。

 

映画ではガンダルフやガラドリエルなどのキャラクターが背景の哲学の一端を極度に単純化して台詞として喋ってくれますが、原作はもっと複雑に入り組んだ哲学があり、その全容を掴むのは容易ではありません。私はこれらの物語は中学生の時に読んだのですが、今映画化されたものを観て背景の哲学がようやく理解出来るようになってきました。中つ国ではいずれ人間以外の全ての種族が衰退し、人間の時代がやってくるといっても昔は何故なのかよく分かっていなかったのですが、今見返して分かるようになってきました。これらの哲学の入り口がおそらく塞翁が馬とでも言うべき、『ホビット 思いがけない冒険』の中に既に含まれている英雄ではない主人公のビルボ・バギンズ(役者は『SHERLOCK』のワトソン役のマーティン・フリーマン)のある判断が中つ国の運命を決めたことだと思います。話はさらりと流れて行くようですが、『指輪物語』のグッド・エンディングとも言えないがバッド・エンディングではない結末を導いたのはこの判断でした。ビルボは一つの指輪を再度見出すと同時に、その運命も導いたのです。これが作中のガンダルフの言葉に繋がってきます。今観ても結構面白い物語ですね。

 


【追記】伊豆の天城では、奥地の方の調査地に行く途中の道(例の場所)がまた崩落土に覆われ、雪が覆い被さって通れなくなっていました。

 

迂回路というのはただの急斜面なので、これまた雪が被さっていました。伊豆山稜線歩道は元々道が細い所もあるのですが、雪に覆われているとただの斜面に足跡がついているだけの場合もあり、3回程足下の雪が崩れて谷底の方に落ちて行きました。迂回路の斜面を上り下りするのは危ないと思ったので、雪が溶けるまで奥地の調査地には行かないことにしました。たまにしか山登りをしないのなら攻めてもいいのですが、恒常的に山登りをする状態ではリスキーなことは出来るだけしない方が良いという判断です。

旧天城峠も雪で覆われていましたが、こちらの調査地は無事辿り着けました。土は凍りかけていてバクテリアの活性も無いようでした。

 

 

 

ホビットの冒険〈上〉 (岩波少年文庫)
J.R.R. トールキン
岩波書店(2000/08/18)
値段:¥ 756


ホビットの冒険〈下〉 (岩波少年文庫)
J.R.R. トールキン
岩波書店(2000/08/18)
値段:¥ 714


指輪物語 第1部 旅の仲間
J・R・R・トールキン
評論社(1992/03)
値段:¥ 8,190


指輪物語 第2部 二つの塔
J・R・R・トールキン
評論社(1992/03)
値段:¥ 8,190


指輪物語 第3部 王の帰還
J・R・R・トールキン
評論社(1992/03)
値段:¥ 8,190



カラー版 ナルニア国物語 全7巻セット
C.S.ルイス, ポーリン・ベインズ, 瀬田 貞二
岩波書店(2005/11/11)
値段:¥ 10,395


 

 

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試験監督

土曜日に試験監督というものを初めて務めさせてもらいました。立場に依って見える風景は変わってくるといいますが、試験を受けている生徒の個性が初見でもここまで異なって見えてくるのか、という意外性を監督中に見出しました。個性の違いを詳しくは書くべきでないと思いますが、全ての生徒に画一的な教育を行うという発想自体馬鹿げたことだという感が否めません。

 

教育の主役は生徒たちで、理想的には生徒に対するオーダーメイドの教育が為されるべきで、生徒は教育者の目指す教育を実現するための駒ではないということです。戦後の教育システムの単線化も、様々な個性の人がいるのだということを知る上では教育上重要なことだと思います。私は公立小学校、私立の中高一貫校、国立の大学と皆異なる校風の学校に通っていたので、個性に対する寛容さは重要であるという信念を持っています。現代のアカデミズムの中にも未だに「こっちの世界」と「あっちの世界」と線引きをしてそれぞれの世界で画一的に物事を考える人がいますが、世界は分かれているのではなく繋がっている訳ですし、そのような60年以上前の戦前の教育観、大正デモクラシーの時代でさえ一時的には否定された教育観の人々がいるのは解せません。

 

土曜は個性や自由の尊重を感じた一日を過ごしました。教員にとって試験は負担だといいますが、今回の試験の場合は大変なのは試験問題を作る方や事務の方々で、一年に一回くらいは教育の在り方を考える上で試験監督ぐらい務めてもよいものだと思いました。

 

 

 

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『人生の意味を見つけるための逆説の10条』という本の書評を読みました。ここで取り上げられた10条とは、

 

· People are illogical, unreasonable, and self-centered. Love them anyway. (人は論理的でも合理的でもなく自己中心的なものだ。それはそれとして、人を愛しなさい。)

· If you do good, people will accuse you of selfish, ulterior motives. Do good anyway. (あなたが良いことをしても人はわがままだと非難するし動機を邪推する。それはそれとして、いつも良いことをしなさい。)

· If you are successful, you will win false friends and true enemies. Succeed anyway. (あなたが成功すると、間違った友人と本当の敵を得る。それはそれとして、成功させなさい。)

· The good you do today, will be forgotten tomorrow. Do good anyway. (あなたがする今日の良いことは明日には忘れられる。それはそれとして、よいことをしなさい。)

· Honesty and frankness make you vulnerable. Be honest and frank anyway. (正直と気安さはあなたを弱い人にする。それはそれとして、正直で気安くありなさい。)

· The biggest men and women with the biggest ideas can be shot down by the smallest men and women with the smallest minds. Think big anyway. (最大級の発想を抱く最大級の男も女も、最低の心情を抱く男や女によって打ち落とされる。それはそれとして、大きな発想をしよう。)

· People favor underdogs, but follow only top dogs. Fight for a few underdogs anyway. (人は負け組に同情しても勝ち組に追従するものだ。それはそれとして、負け組のために戦いなさい。)

· What you spend years building maybe destroyed overnight. Build anyway. (幾年もかかる事業も一晩でおじゃんになる。それはそれとして、事業を興そう。)

· People really need help, but may attack you if you do help them. Help people anyway. (人が本当に助けを必要としているのに、あなたが助けようとすればあなたが非難される。それはそれとして、人を助けなさい。)

·  Give the world the best you have and you’ll get kicked in the teeth. Give the world the best you have anyway. (自分の持っている最善を世の中に尽くしても、それで酷い目に合わされる。それはそれとして、世の中に最善を尽くしなさい。)

 

となります。このようなことを読んでいると、

 

「汝の為すべきことを為せ」

 

この言葉を思い出します。この言葉の出典は、新約聖書の『ヨハネによる福音書』13:27

 

ユダがそのパンを受け取ると、そのときサタンはユダの中に入った。そこで、イエズスはユダに、「しようとしていることを、今すぐしなさい」と言われた。

 

にあります。これだと一見悪い言葉のようですが、神学上は多様な解釈があるようです。

 

ユダはイエスを裏切った十二使徒の一人として有名ですが、実はイエスを裏切ったユダがイエス・キリストの弟子の中の他の誰よりも真理を授かっており、裏切りの神秘を達成したとする説があります。この考え方は2世紀後半には既に存在していたようで、新約聖書の外典か偽典とされている『ユダの福音書』がその根拠となっています。ここではユダは福音の伝達者として描かれています。これは悪である物質と善である霊の二元論をとるグノーシス主義(マニ教など)として異端とされたものでした。「人生の意味を見つけるための逆説の10条」に似た考え方は教養のある欧米人の間にはかなり広まっていますが、一歩間違えればセレマという神秘主義の思考に捉われる可能性もあり、一つの言葉が持つ多様な意義が見いだせると思います。言葉をどう解釈するのかはTPOに依存するので、神学という学問も存在しうるのでしょう。

 


 

 

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福島原発のヨウ素

東日本大震災時の東京の携帯電話GPSデータによる人の流動状況がYouTubeupされています。

夜中からラッシュを経て、地震のあった直後の交通網の断線、そして夜中に徒歩で家に帰る人々、最後には交通網の復旧までが手に取るように分かります。


このデータ採取手法と福島第一原発からの放射性ヨウ素拡散シミュレーションを元に、Project HAYANO(東京大学理学系研究科の早野龍五先生がリーダー)ではヨウ素の被曝量の推定を試みています。ヨウ素拡散とその影響を考えるには非常に重要な解析です。


早野先生の素晴らしい所はそれだけでなく、事故時に子供だった人々が,将来甲状腺ガンを発症した場合,その治療費等を,原発事故由来か否かを問うことなく全額国費負担にする法案を作ることを提案していることです。実際にどの程度の被曝があったのかを調べる事は勿論重要なのですが、どの程度の被曝でどの程度の発ガンリスクがあり、その結果どの程度の補償を行うべきかという議論はなしにしようということです。そもそも低線量被曝による発ガンリスクについてはよく分からないことが多いので、その議論は取りあえず止めにして、全ての子供に補償はしようという取り組みです。物理的に客観性のあるデータの取得を試みる一方で、放射線に対する現代の理解に合わせた政治的に妥当な配慮もなさっている点が素晴らしいと思います。

 

 

 

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京大で爆発

京都大学医学部構内の先端科学研究棟で爆発があったようです

 

私はそのすぐ南側の建物で8年間研究生活を送っていました。その時のラボでも爆発音は聞こえたのではないかと思います。重傷を負った方もおられるようで、一日も早い回復をお祈り申し上げます。実験は危険と隣り合わせのこともありますね。

 

おまけ:日本分子生物学会理事長の大隅典子先生のtweetより、レゴのDNA。レゴはやはり偉大ですね。。。

 

 

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公現祭

今日は公現祭です。東方の三博士を謳った聖歌『われらはきたりぬ』の動画をYouTubeで見つけました。

 

以下に歌詞を記します。

 

We three kings of Orient are

Bearing gifts we traverse afar

Field and fountain, moor and mountain

Following yonder star

 

 

 

 

O Star of wonder, star of night

Star with royal beauty bright

Westward leading, still proceeding

Guide us to thy Perfect Light

 

Born a King on Bethlehem's plain

Gold I bring to crown Him again

King forever, ceasing never

Over us all to reign

 

O Star of wonder, star of night

Star with royal beauty bright

Westward leading, still proceeding

Guide us to Thy perfect light

 

Frankincense to offer have I

Incense owns a Deity nigh

Prayer and praising, all men raising

Worship Him, God most high

 

O Star of wonder, star of night

Star with royal beauty bright

Westward leading, still proceeding

Guide us to Thy perfect light

 

Myrrh is mine, its bitter perfume

Breathes of life of gathering gloom

Sorrowing, sighing, bleeding, dying

Sealed in the stone-cold tomb

 

O Star of wonder, star of night

Star with royal beauty bright

Westward leading, still proceeding

Guide us to Thy perfect light

 

Glorious now behold Him arise

King and God and Sacrifice

Alleluia, Alleluia

Earth to heav'n replies

 

O Star of wonder, star of night

Star with royal beauty bright

Westward leading, still proceeding

Guide us to Thy perfect light 

 

We Three Kings of Orient Are –Christmas Carol Music and lyrics

AKA : We 3 Kings of Orient are

 

クリスマス・タブローの最後はこの歌でした。

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初詣2013

明けまして御目出度うございます。1月4日から仕事初めです。今年も宜しくお願いします。

 

 

今年は奈良県大和郡山市の賣太神社に初詣に行きました。

 

 

賣太神社は稗田環濠集落内にあり、周りを堀で囲まれています。

 

賣太神社は稗田阿礼(学問・物語の神)・天鈿女命・猿田彦命を祀る神社です。稗田阿礼は天武天皇の命により日本の物語を記憶し、元明天皇の御代に太安万侶らと古事記編纂に関わったことで有名です。稗田氏は天岩戸の伝承や猿田彦の名を現す伝承に登場する天鈿女命を祖先とする説があり、巫女を中心とする女系であるため阿礼は女性だったと柳田國男は唱えています。天鈿女命はおたふくやおかめという名で現在も日本人に親しまれています。

 

神社の本殿。静かでこぢんまりとしていていい感じです。

 

御神木のアラカシQuercus glauca

 

袂にはナンテンNandina domesticaが。

 

 

 

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勝ち馬に乗らない、吉野ゆりえさん

小選挙区比例代表並立制の特徴が如実に現れた予想通りの選挙の結果、第2次安倍内閣が発足しました。政権を取っているからには経済対策も復興も原発問題も外交・安保もTPPも憲法もしっかり取り組んで欲しいですね。注目すべきは副総理・財務・金融大臣の麻生さん。今回の選挙では結局私と考え方が一番バランスよく一致しているみんなの党を比例代表で、民主党の仙谷さんを小選挙区で選びました。最近は右翼とか左翼とか二元的な分類が当てはまらないくらい各党の政策の指向がいろいろで、私にとっては政党によって考え方が合う部分と合わない部分の差が激しかったです。みんなの党は私から見ればバランスがとれているので投票したところ、議席数を地味に伸ばしたようです。私の住んでいる四国ブロックは都市部でないためみんなの党は弱く、比例の当選者は出ていないので小選挙区で落選した仙谷さんともども私の投票が二票とも死票となる前代未聞の事態でした。今までは意識せずに勝っている政党や候補に結果的には入れて来たのですが、そろそろ大衆から離れて独自路線を歩みつつあるようです。大衆政治を論じたトクヴィルの思想などにも触れて勝ち馬に乗らない少数派であることの意義を勉強したいのですが、その前に読むべき本が山とあるので勉強は匍匐前進で進んでいる所です。

 

話は変わりますが、このインタビューの吉野ゆりえさんは素晴らしい方ですね。悪魔と契約した訳ではないのでファウストではないのですが、その精神たる絶えず励むことを、身を以て顕在化させておられます。素晴らしい生き方で、私も見習おうと思います。あとは「死して屍拾う者なし」くらいを座右の銘にして(笑)。


 

アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)
トクヴィル
岩波書店(2005/11/16)
値段:¥ 945


アメリカのデモクラシー〈第1巻(下)〉 (岩波文庫)
トクヴィル
岩波書店(2005/12/16)
値段:¥ 1,092


アメリカのデモクラシー〈第2巻(上)〉 (岩波文庫)
トクヴィル
岩波書店(2008/03/14)
値段:¥ 819


アメリカのデモクラシー〈第2巻(下)〉 (岩波文庫)
トクヴィル
岩波書店(2008/05/16)
値段:¥ 882


旧体制と大革命 (ちくま学芸文庫)
アレクシス・ド トクヴィル
筑摩書房(1998/01)
値段:¥ 1,575





 

 

Simon de Montfort
J. R. Maddicott
Cambridge University Press(1996/06/20)
値段:¥ 4,261


Edward I
Michael Prestwich
Methuen Publishing Ltd(1990/04/26)
値段:¥ 1,746


Edward III (The English Monarchs Series)
W Mark Ormrod
Yale University Press(2013/05/28)
値段:¥ 2,398



The Faerie Queene
Edmund Spenser
Hackett Pub Co Inc(2008/03/14)
値段:¥ 13,308


Cardinal Richelieu: Power and the Pursuit of Wealth
Dr. Joseph Bergin
Yale University Press(1990/03/11)
値段:¥ 2,186


Cardinal Richelieu and the Making of France
A.H.T. Levi
Constable(2000/09/28)
値段:¥ 2,765

ペルシア人の手紙 上 (岩波文庫 白 5-6)
モンテスキュー
岩波書店(1997/12/01)
値段:¥ 588


ペルシア人の手紙 (下) (岩波文庫)
モンテスキュー
岩波書店(1951/01/05)
値段:¥ 630


ローマ人盛衰原因論 (岩波文庫)
モンテスキュー
岩波書店(1989/07/17)
値段:¥ 798


法の精神〈上〉 (岩波文庫)
モンテスキュー
岩波書店(1989/08/16)
値段:¥ 1,092


法の精神〈中〉 (岩波文庫)
モンテスキュー
岩波書店(1989/09/18)
値段:¥ 1,008


法の精神〈下〉 (岩波文庫)
モンテスキュー
岩波書店(1989/10/16)
値段:¥ 1,050




Frederick the Great: The Magnificent Enigma
Robert B. Asprey
iUniverse(2007/11/06)
値段:¥ 5,853


Frederick the Great and His Officials
Hubert C. Johnson
Yale Univ Pr(1975/05)
値段:¥ 2,885


パリの断頭台―七代にわたる死刑執行人サンソン家年代記
バーバラ・レヴィ
法政大学出版局(1987/08)
値段:¥ 2,310


知られざる傑作―他五篇 (岩波文庫)
バルザック
岩波書店(1965/01)
値段:¥ 630


フランス革命史〈上〉 (中公文庫)
ジュール ミシュレ
中央公論新社(2006/12)
値段:¥ 1,400


フランス革命史〈下〉 (中公文庫)
ジュール ミシュレ
中央公論新社(2006/12)
値段:¥ 1,400


フランス革命の省察
エドマンド・バーク
みすず書房(1997/10/09)
値段:¥ 3,675


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ホワイトクリスマス

昔の京都ではホワイトクリスマスなんて珍しくなかったです。私の母校はミッション系の中高一貫高校だったので、キリストの生誕を祝うタブローという無言劇を上演していました。今は12/23に行われているそうですが、昔は本当に12/24に行っていました。私は中一で第二博士バルタザールの従者、中二から高二までは照明係、高三では聖歌隊として参加していました。外は本当にホワイトクリスマスになったことも多かったのですが、中でも上演後に有志で講堂の片隅の小さな部屋に集まって、小麦粉を投げ合う「ホワイトクリスマス」といいう行事が恒例でありました。12/24は学校の近くのイズミヤの薄力粉がいつも売り切れになっていたものです。おかげで翌日は耳の穴の中が大変なことになっていました。粉塵爆発ががががということもあるでしょう。「ホワイトクリスマス」の後はここには書けないようなやんちゃなこともいろいろしていましたが、今ではすっかりフツーのクリスマスを過ごすようになってしまいました。やりたいことが何でも出来た思春期は終わり、小さな幸せで満足するようになったのですかね。でもどちらが輝いていたかといえば、やはり昔の方ですね。柵を解き放って再び輝きを取り戻したい今日此の頃です。

 

 

 

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母校の演劇部の受賞

私の出身高校の演劇部が府大会のブロックで最優秀賞を受賞したらしいです(府大会に出場の結果、近畿大会には進めなかったらしいです)。私が演劇部に在籍していた16、17年前は二年連続受賞したのですが、それ以来部員が少なかった時期もあり16年ぶりの受賞となったらしいです。高校の時代の瑞々しい経験は何年経っても人生の中の一舞台となってその後に大きな影響を与えると思うので、今後も是非励んで欲しいですね。土田英生さんの『その鉄塔に男たちはいるという』を上演とのことで、難しい演劇にも挑戦するようになったのですね。とにかく御目出度うございます。
その鉄塔に男たちはいるという [DVD]
TCエンタテインメント(2011/03/30)
値段:¥ 5,800

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第46回衆議院議員総選挙

一致度

うーむ、みんなの党か。。。前回一致度が高かったのは共産党とか民主党だったが、私の政策の辻褄が合っていなかった事を露呈したしな。。。ここか日本未来の党しか入れる所はないような気がするが(小選挙区は別)。。。
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七人の侍

黒澤明監督の『七人の侍』を観ました。日本映画の最高傑作の一つとあって、脚本から音楽、舞台考証、アクションとしてのエンターテインメント性に至るまでとても良く出来た作品でした。粗筋は言うまでもないと思いますが、1586年という徳川家康が豊臣秀吉に屈し、蜂須賀正勝、高橋紹運、滝川一益、吉川元春など戦国の最後を彩った武将たちが次々と亡くなる安土桃山の時代に、農村の百姓と野武士たちの争いに七人の侍が一枚噛む話です。際立った主人公は置かず群像劇の色彩が濃い作品ですが、西洋演劇的表現も色濃く現れ、ギリシャ悲劇を担う七人の侍とギリシャ喜劇を担う百姓たちの間に、平八の作った旗に武士の丸と百姓の田の間の三角という役目を持たされた菊千代という異彩を放つ面白みのあるキャラクターを置き、これを世界の三船が演じています。普通の映画なら菊千代が物語の鍵を握る人物となるのですが、『七人の侍』では他の三人の侍と同じく種子島の前に菊千代も倒れることで、百姓と武士は結局別れてしまいます。野武士を倒して喜びの中、田植えに勤しむ百姓の傍らで、四人の侍を含め戦死した者たちの墓の前で寂し気に佇む勘兵衛ら三人の侍のシーンで物語は幕を閉じます。久蔵という旧時代の武士を体現する侍も含め侍たちが新兵器の種子島に倒れる事で武士の時代は新たな時代に突入し、身分制度もはっきり現れる予兆がこの劇の中にあること自体、悲劇・喜劇を担うものたちの関係とともに考えさせるエピソードでした。全体としては悲劇なのですが、菊千代と与平や子供たちなど村人との掛け合い等にユーモアも伺える秀逸さも併せ持った作品です。観た事はないのですが『七人の侍』原案のアニメもあり、何でもかんでもアニメになるのが日本の映像芸術界ですね。キャラのイメージが原案と全く異なるのですが。

 

七人の侍(2枚組)<普及版> [DVD]
東宝(2007/11/09)
値段:¥ 5,040



 

 

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Ash nazg durbatulûk, ash nazg gimbatul, ash nazg thrakatulûk, agh burzum-ishi krimpatul

Three Rings for the Elven-kings under the sky,
Seven for the Dwarf-lords in their halls of stone,
Nine for Mortal Men doomed to die,
One for the Dark Lord on his dark throne
In the Land of Mordor where the Shadows lie.
One Ring to rule them all, One Ring to find them,
One Ring to bring them all and in the darkness bind them
In the Land of Mordor where the Shadows lie.

 

三つの指輪は、空の下なるエルフの王に、
七つの指輪は、岩の館(やかた)のドワーフの君に、
九つは、死すべき運命(さだめ)の人の子に、
一つは、暗き御座(みくら)の冥王のため、
影横たわるモルドールの国に。
一つの指輪は、すべてを統べ、
一つの指輪は、すべてを見つけ、
一つの指輪は、すべてを捕らえて、
くらやみのなかにつなぎとめる。
影横たわるモルドールの国に。

 

 

 

自分の研究の話は不都合があるのでリアルタイムでは書けないのですが、どうやら一つの指輪(二つの指輪?)らしき物を見つけたようです。「いとしいしとぉぉぉぉぉぉぉ」とか叫んでくる者を振り切り、76年後に義理の息子をモルドールの国に送り込もう。そう言えば私ももうホビットの成人である33歳ですね。。。『指輪物語』を読んだ中学生の頃はまだまだだと思っていましたが、義父から指輪を貰う年齢になってしまいました。『ホビット』三部作の第一部は、12/14公開ですか

 

ホビットの冒険〈上〉 (岩波少年文庫)
J.R.R. トールキン
岩波書店(2000/08/18)
値段:¥ 756


ホビットの冒険〈下〉 (岩波少年文庫)
J.R.R. トールキン
岩波書店(2000/08/18)
値段:¥ 714


指輪物語 第1部 旅の仲間
J・R・R・トールキン
評論社(1992/03)
値段:¥ 8,190


指輪物語 第2部 二つの塔
J・R・R・トールキン
評論社(1992/03)
値段:¥ 8,190


指輪物語 第3部 王の帰還
J・R・R・トールキン
評論社(1992/03)
値段:¥ 8,190



 

 

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楢山節考

今村昌平監督の映画『楢山節考』を観ました。信州の姨捨山伝説を元にした物語で、粗筋は

 

山に囲まれた信州のある村。今年も楢山の歌が歌いだされる季節になった。村の年寄りは七十になると楢山まいりに行くのが習わしで、六十九のおりんはそれを待っていた。息子の後妻も無事見つかって安心したし、山へ行く時の支度はととのえてある。済ませることはあともう一つ

-塩屋のおとりさん運がよい 山へ行く日にゃ雪が降る-

自分が行く時もきっと雪が降るおりんはその日を待ち望む。

孝行息子の辰平は、お供で一緒に行くのだが、気が進まず元気がない。しかし家計を考えて年明けも近い冬の夜、誰にも見られてはいけないという決まりのもと背中に母を背負って楢山まいりへと出かけていく。辛くてもそれが貧しい村の掟なのであった。(Wikipediaより)

 

となります。貧しい寒村を救うヒーローがやってくるなどアメリカ流の話はなく、厳しい生活を迎え入れている人々の織りなすムラ社会の話に終始していました。暗示的な要素が多く含まれているのですが、それを奇蹟や奇跡など大掛かりなものとして捉えずに「運」とみなし、生き物とともに過ごす人々の70年に渡る生涯が、山間の寒村の中で過ぎ行く有様が語られます。元となった『大和物語』の棄老伝説は奇跡に後悔した男性が姨を連れ戻しますし、鬘物の能『姨捨』では孤独を想う老婆が舞を見せます。深沢七郎さん原作の『楢山節考』ではそのような後悔や情緒はなく、寒村で70年を過ごした老婆の力強さ、最初から最期まで自分で自分にケリをつける人生が、物語途中での衝撃的な告白とともに語られます。

 

このような話に触れると、世の中で人権など「正義」とされているものが一体どれだけ価値があるものなのか、迷ってしまう自分があります。『楢山節考』で描かれているようなムラに住んでいれば必然的に現代的な意味での社会常識は育まれようがありませんし、だからこそこの物語の時代から下った現在では人の思想のいろいろな原因による変化に驚きを覚えます。それは同時に現代の人権思想も絶対的なものではないことも意味しています。人を取り巻く社会状況に絶対的なものはなく受け入れ難いことが多くてもそれをどうすることも出来なければ、人々の関心は必然的に自分とその周りの人々に寄せられ、その中での人生の意義とは何かを考えることに向かうでしょう。おりんの力強さもそのような状況から生まれ出たものだと思われます。

 

ソクーロフ監督の『ファウスト』では、魑魅魍魎の跋扈しだした街から抜け出てマウリツィウスに導かれるまま戦死した孤独な若者たちの最中に迷い込んだファウストが若者たちに感謝されながら「あなたは温かい」と取り憑かれる様が描かれています。厳しい状況の中での孤独と、生きている温かさとの間の関係には果たしてどれだけの必然性があるのでしょうか。どうにもならない状況の中にいても敢えてなお進もうとする、ファウストの有様が現れているのですが、『楢山節考』の中にも意外にも共通する要素が見いだせたのは趣のあることでした。


楢山節考 [DVD]
東映ビデオ(2002/07/21)
値段:¥ 4,725





楢山節考 (新潮文庫)
深沢 七郎
新潮社(1964/07)
値段:¥ 420

ファウスト [DVD]
紀伊國屋書店(2012/12/22)
値段:¥ 5,040



 

 

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ワルプルギスの夜

「ワルプルギスの夜(ヴァルプルギスの夜)」とは、430日もしくは51日に中欧や北欧で行われる行事で、古代ケルトの春の祭りの前夜に魔女たちがサバトを開く(場所はドイツではブロッケン山)という言い伝えから生まれたものです。ケルト人の信仰をキリスト教徒の側から見て「異端」だとしたことに基づくものでしょう。ワルプルギスの由来はイングランド七王国のウェセックスの聖ワルプルガだとされています。北欧ではこの祭りは主神オーディンがルーン文字の知識を得るために一度死んだ事を記念するもので、死者と生者の境が弱くなる時間とされています。篝火で生者の間を歩き回る死者と無秩序な魂を追い払い、光と太陽が戻るメーデーを祝う事に繋がるとされます。ドイツでは復活祭の篝火と重ね合わされます。

 

ゲーテ『ファウスト』では、第一部のヴァルプルギスの夜でファウストがメフィストフェレスに連れられて魔女の集まりに参加するものの、グレートヒェンの死の予兆を垣間見るシーンがあります。第二部の古典的ヴァルプルギスの夜ではヘレネーを探すファウストと完全な身体を求めるホムンクルスが古代ギリシャ・エジプトの魔物の饗宴(ただし、上で述べたように古代ギリシャ・エジプトの時代にはヴァルプルギスの夜という概念がまだなかったので、ゲーテはこれに「古典的」という接頭を付けている)に加わる事が描かれています。

 

ドイツの歴史や世界の歴史を知れば知る程、ゲーテが60年ほどの歳月を費やして『ファウスト』の中に織り込んで行った歴史上の物語の多々が解きほぐされていきます。「ヴァルプルギスの夜」は中世やルネッサンスの時代の魔女的表象となっているのでしょう。『ファウスト』は戯曲ですが、歴史と演劇は人類最初の文明であるシュメールの時代には一つであったものが、西洋ではギリシャのヘロドトスが『歴史』を著述した頃には分かれて存在したようです。日本でもその書物自体が歴史と神話が混在したかのような『古事記』『日本書紀』に記述があります。中国では孔子の時代には『春秋』などの批判精神に富んだ歴史書が既に存在していました。歴史の重みを感じることがテーマになっているという意味では、『ファウスト』という戯曲も古代の政治的・宗教的精神に富んだ歴史をバックボーンにした戯曲だと言えます。

 

虚淵玄さんの『魔法少女まどか☆マギカ』というアニメはその題名にも関わらず魔法少女のまどかは物語の終盤の回想シーンになるまで登場せず、オープニングの映像がほとんど妄想で構成されていてエンディングの映像と曲の歌詞がネタバレになっているという構成になっています。「ワルプルギスの夜」はここでは「舞台装置の魔女」として登場しています。「この世の全てを「戯曲」に変えるまで世界を回り続ける」という辺りが『ファウスト』、もしくは今までの世の中の演劇全てとの因縁を感じます。物語の中での立ち位置も北欧の祭りの概念と関連があり、また歴史との関わりが前面に出ていて、『ファウスト』の「ヴァルプルギスの夜」と通ずるものがあります。自分の願いの代償に人知れず魔女と戦い続ける魔法少女が、ギリシャ悲劇の頃からの王侯貴族の物語に重なり、ギリシャ喜劇に観られる庶民の喜びとの対比が成っています。魔女の登場しているシーンのデザインもシュルレアリスム的で足下にいきなりゲルニカなど、美術も凝ったものになっています。永久機関やマクスウェルの悪魔的なものが登場する所にSF的な要素も垣間みられ、アニメとしては良く出来たものでした。その他にも菅原道真公が魔法少女だったり、DIO様がツンデレだったりなどなど。。。ストーリーがこわいという方もおられるようですが、現実の方が大っぴらになっていないだけでもっと「怖い」こともありますし、実現出来る様に早くから皆に触れ回った方が良い「願い」と、その性質上誰にも明らかにせずに墓場の中まで持っていく類いの秘密の「願い」は誰にも一つや二つはあるでしょう。そういう願いのことを思い出させてくれる作品でした。続編は2013年に公開らしいです。この動画は凄くハリウッド的に作られていますが、こういうファンも居るのですね。

 

 

エンディング「Magia歌詞

いつか君が瞳に灯す愛の光が
時を超えて
滅び急ぐ世界の夢を
確かに一つ壊すだろう

躊躇いを飲み干して
君が望むモノは何?
こんな欲深い憧れの行方に
儚い明日はあるの?

子供の頃夢に見てた
古の魔法のように
闇さえ砕く力で
微笑む君に合いたい
怯えるこの手の中には 
手折られた花の勇気
想いだけが頼る全て
光を呼び覚ます
願い

いつか君も誰かの為に
強い力を望むのだろう
愛が胸を捉えた夜に
未知の言葉が生まれて来る

迷わずに行けるなら
心が砕けてもいいわ
いつも目の前の哀しみに
立ち向かう為の
呪文が欲しい

君はまだ夢見る記憶
私は眠らない明日
二人が出会う奇跡を
勝ち取る為に進むわ
怯えるこの手の中には
手折られた花の刃
想いだけが生きる全て
心に振りかざす
願い

囚われた太陽の輝く
不思議の国の本が好きだった頃
願いはきっと叶うと
教えるお伽噺を
信じた

静かに咲き乱れていた
古の魔法優しく
世界を変える力が
その手にあると囁く
終わらない夢を見よう
君と行く時の中で
想いだけが生きる全て
命を作るのは
願い

 

 

 

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伊豆の写真。イロハモミジAcer palmatum、オオモミジAcer amoenum、コミネカエデAcer micranthumなどの紅葉に覆われた旧天城峠。

 

伊豆山稜線歩道の天城峠三蓋山間には上の写真のような崩落地が昨年よりあり、崩落地上方のピークを直登・直下しないといけなかったのですが、今月には下の写真のように一年ぶりに復旧していました。迂回路も大分崩れて来たので調査の終了まで持つかどうか心配だったのですが、これで大分楽になりました。

 

伊豆への旅のお伴に、フィールドの生物学シリーズ(東海大学出版会)の細将貴『右利きのヘビ仮説』、丸山宗利『アリの巣をめぐる冒険』を読みました。

 

細さんは大学のサークル仲間で、イワサキセダカヘビPareas iwasakiiという圧倒的に多い右巻きのカタツムリを食べるために進化したヘビの話はニュースにもなっていました。本文はイワサキセダカヘビに限らないナチュラルヒストリーや研究の進展の体験談などが凄くワクワク感じられて、1時間半くらいで読み終えました。一般の人に生き物を語るなら、やはりこういう本のほうが惹き付ける力があるなあ、と感じた次第です。

 

丸山先生は九州大学の総合研究博物館で好蟻性昆虫(アリと様々な形での共生を行っている昆虫)の分類学的な研究をされています。新種をどんどん見つける話が出て来て、余程注意深く観ていないとそんなことには気付かないのでとても優れた同定能力を持った方であることが伺えます。野外観察というのはいろいろ主観が入る要素があるのですが、ナチュラルヒストリーではそういう雰囲気や勘などの人間臭い性質がまだまだ生きてくる世界なのが面白いです。

 

私の細胞性粘菌の野外採取では分類の必要もありますし、新種っぽいものも採れていない訳ではないのですが、野外からの微生物の採取というのは肉眼では出来ないので研究室に帰ってからの解析になり、形態学的にも単調で生き物の多様性の裾野をDNAの配列でなく直接目で観るのは難しいです。問題の性質によっては微生物を扱った方が普通種の大量サンプリングにより普遍的な理論が導き出しやすいこともありそうですが、それとは異なる裾野の研究、特に大型動物の多様性研究は珍種が含まれる裾野が観察できるということで大いに意義があります。私が細胞性粘菌の野外調査をしているのは、組換え実験と個体数・種の把握も含めた野外採取が両方とも簡単に出来ることが理由の一つで、組換え実験は非常に簡単に出来るが分類学がまだほとんど進んでいないので素人が野外調査をするのが困難な酵母や、組換え実験のほとんど出来ない大部分の生き物と異なる特徴を持つからです。行く行くは酵母にも挑戦したいと考えていますが。

 

ファウスト〈第一部〉 (岩波文庫)
ゲーテ
岩波書店(1958/03/05)
値段:¥ 903


ファウスト〈第二部〉 (岩波文庫)
ゲーテ
岩波書店(1958/03/25)
値段:¥ 1,008





 

 

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PSYCHO-PASS

今、ノイタミナという人気の深夜アニメ放送枠でPSYCHO-PASSというアニメが放送されているのですが、これが面白い!総監督が『踊る大捜査線』の本広克行さんで刑事ドラマとしての面白さを含みつつ、脚本に『魔法少女まどか☆マギカ』の虚淵玄さんを迎えてアニメ的なダークでファンタジックな意外性のある要素も加え、監督は『BLOOD-C The Last Dark』の塩谷直義さん。ストーリーの概観は

 

人間のあらゆる心理状態性格傾向を計測する値、通称「PSYCHO-PASS」(サイコパス)が導入された未来世界(2112年)。大衆は「理想的な人生」の指標としてその数値を実現すべく躍起になっていた。犯罪に関する数値も「犯罪係数」として計測されており、犯罪者はもちろんたとえ罪を犯していない者も、規定値を超えれば「潜在犯」として裁かれていく。

この物語は、そのような世界の或る都市で治安維持のために働く、公安局刑事課一係所属メンバーたちの活動と葛藤を描く。(Wikipediaより)

 

となります。現実に存在するいろいろな人文・社会的な要素も織り込みつつ展開する話にグイグイ惹き込まれます。『魔法少女まどか☆マギカ』は絵の印象が私の趣味ではないので敬遠していましたが、相当に面白いらしいのでこちらも観てみたくなりました。今後の展開に乞うご期待。しかし「名前のない怪物」って『MONSTER』(浦沢直樹)じゃない。。。

 



劇場版 BLOOD-C The Last Dark(完全生産限定版) [DVD]
アニプレックス(2013/02/27)
値段:¥ 8,190


 

 

MONSTER 全18巻 完結コミックセット(ビッグコミックス)
浦沢 直樹
小学館(2010/01)
値段:¥ 9,406

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