南国雑記帳(全卓樹)

南国雑記帳(全卓樹)

量子力学と現代の思潮

#量子力学と現代の思潮
全卓樹

(青土社「現代思想」2020年2月号 p122-131掲載)[リンク]

 

#1 序章:量子と確率と観測者

量子力学による原子の世界の解明は、人類史を画するほどの知の前線の拡張であった。同時にそれは逆説的にも、人間の認知の限界の「確実性」から「確率」への後退でもあった。

量子力学の有効性、有用性には一点の疑いもない。それなしではレーザー光も電子装置も存在せず、核兵器も存在しなかったであろうから。そして量子力学の予言に矛盾する実験は今のところ皆無である。

しかしながらその予言は本質的に確率的なものである。

古典力学においては、粒子の運動はニュートン方程式と呼ばれる常微分方程式によって確定的に記述される。仮にラプラスの想定したような、ある時点での宇宙の全原子の、位置と速度を把握する悪魔がいれば、彼にはその後の宇宙の発展が完璧に予言できるだろう。

対して量子力学にあっては、粒子の状態は「波動関数」という関数分布によって指定される。波動関数の発展はシュレーディンガー方程式と呼ばれる偏微分方程式によって確定的に記述される。ところが、粒子の位置や速度を測定した時に得られる値は、「ボルン則」と呼ばれる手順によって、波動関数から確率的に予言されるのである。

粒子の状態の発展は確定的な法則に従うが、観測結果は一意に予言されず、確率的な分布の頻度に従って、観測される時点でひとつに決まる。つまり量子力学では、観測が粒子の発展の道筋を突然に変化させるのである。そしてこれは「観測者」という特権的な存在が、理論上必須であることをも意味する。

では観測者とは何か。測定器とそれを制御する機能を持ったロボットは観測者になれるのであろうか。観測者も原子からなる世界内の存在だとすれば、量子力学で記述されるはずである。あるいは観測者であるためには、量子力学の枠組みの外のなにか、たとえば「心」が必要なのだろうか。

量子力学の中核に、われわれの通常の自然科学的枠組みではすっきりと理解しきれない、このような「観測問題」が存在するのである。

物理学者は通常、この「哲学的難問」を、フォン・ノイマンに倣って次のように回避する。

まずは世界を物理学で記述できる「対象系」(I) と、物理学の外にある「観測者」(II) からなるものと考える。(II)と接していない時、波動関数で記述される(I)は決定論的な法則に従って変化する。両者が接する場合(II)が(I)に及ぼす影響は「射影過程」または「波動の収縮」と呼ばれる、観測値の確定をもたらす変化だけに集約して記述できる。それゆえ(I)について論ずるに際しては、(II)はただ存在しさえすればよく、その中身については論じる必要がない。また(I)と(II)の境界をどこに置くか、人間の手か神経細胞か脳髄か、といった問いも不要である。バクテリアは観測者たりうるのか、AIロボットはどうかといった問題も、単に(I)の範囲の現象として、実験的に確かめれば良いだけ、という事になる。

フォン・ノイマンはそれ以上は何も踏み込まない。「語りうるものについては明晰に語り、語り得ないものについては沈黙せよ」と、伝統的形而上学に死を宣告したヴィトゲンシュタインは、彼の同時代人であった。

これが「量子力学のコペンハーゲン標準解釈」のエッセンスである。世界認識として、それは一種の心身二元論に分類されうる。それにもかかわらず、コペンハーゲン解釈は、観測者についての問題を視界の外へ追いやることに成功した。そして創成期の量子力学を、物質的世界のみを対象とした厳密科学として、曖昧さなく完結させたのである。

観測者をも含む世界全体の理解を潔く断念したコペンハーゲン思想は、別な見方をすれば、量子力学を世界の根本理論とはみなさず、物理学実験室での結果予想手順書として扱う、実質上の実用主義的な観点と解することもできる。

形而上学的希求はしかしながら、人間の本能の一種なのかもしれない。容易には我々の世界観に組み込み難い量子力学を、なんらかの首尾一貫した世界全体の理論として理解しようとする試みは、その後も絶えることはなかった。次章はそのような試みの歴史の、簡潔な報告である。


#2 世界観としての量子力学

世界を構成する電子や陽子といった粒子の状態は、量子力学的な波動関数で記述され、波動関数は一箇所に局在せず波として空間に広がっている。しかしひとたび粒子が観測にかかると、それは位置も速度も確定した粒子として存在する。如何にしてこれが起こるのかを知りたい、というのが「量子力学の観測問題」である。

波動関数で記述される状態は一般に、物理量の確定した特定の状態を複数含んだ「重ね合わせ状態」になっている。それ故、観測問題を「重ね合わせ量子状態が現実世界ではどこにも見つからないのは何故かという問題」と言い換えることもできる。またこれを、観測前は重ね合わせ状態の波動関数が、観測の結果特定の確定的物理量を持った状態に変化するという意味で「波動関数の収縮問題」と呼ぶこともある。

波動関数の収縮は、運用上応用上の現場では、単に量子力学の公理の一部として扱われ、「なぜそうなのか、いかにしてそれが起こるのか」という問いが発せられることはない。そして前述のフォン・ノイマンの分析は、収縮過程の詳細から切り離されて量子力学による現象の予言が行える事を保証するわけである。

つまり量子力学の観測問題は、物理学理論上の問題というよりは、量子力学をどう解釈するか、量子力学をより大きな我々の世界観の一部としていかに整合的に組み込めるかという、物理学のメタ理論の問題である。言葉を変えればこれは、メタ物理学 metaphysics、すなわち形而上学の問題だということになる。

それゆえ観測問題をめぐる量子力学の解釈においては、物理学上の実験事実、および論理学と矛盾しない限りで、様々な説の存立が許容される事となり、実際これまで様々な人によっていくつもの説が唱えられてきた。それらの多くは否定されずに今も並立し、観測問題は百花繚乱の様相となっている。

ここでは量子力学の解釈をめぐる各種の学説を、量子力学の哲学の研究で著名な西オンタリオ大学のウェイン・ミルヴォルトの分類に準拠して、3つの範疇に分けて考察する。これは「波動関数と物理的実在の関係」に対する観点による区分である。

1)波動関数は物理的実在の完全な記述を与えないとする実証主義、そして主観主義
2)量子力学の法則を一部補足して、収縮を実際の物理過程と捉える未完の実在主義
3)波動関数はそのままで物理的実在の完全記述であるとする実在主義

量子力学の完成以来100年に近づこうとする今日でも、観測問題をめぐるこれら3つの立場いずれにおいても、新たな研究論文が出され続け、議論が続いている。波動関数非実在論の1)の立場だと、最近騒がしいのはQBismという変種(ケイヴス、フックス、シャック、それとマーミン)である。量子力学を補足完成させて実在論的な理論が完成するとする2)の立場では、ギラルディ=リミニ=ウェバーの散逸項を陽に加える自発的局所化理論の発展が興味深い。波動関数実在論の3)では、ウォレスによる多世界理論の現代的洗練が注目に値する。

## 2.1 量子力学の非実在的メタ理論

波動関数が実在の表現であることを否定するこの型の量子力学解釈の元祖は、現在でも「正統派」とみなされているコペンハーゲン解釈である。ここでは観測を行い波動関数の収縮をもたらす「観測者」は、理論の記述の範囲外にある存在とされる。すなわちそれは、物理学によって世界全体を記述する事を、最初から放棄した立場である。量子力学とは、測定すべき物理系を前にして、機器を用意し測定を行なった測定主体の前に立ち現れる物理量の測定値についての、確率的な理論的予想を与えるだけの道具、一種の処方箋だと考えるのである。つまりコペンハーゲン解釈では、理論に登場する波動関数は、対象物理系と観測者の関係性を表す表現に過ぎず、決して物理系の実在の全的な表現とはみなさないのである。言い換えるならば、コペンハーゲン解釈とは、物理学によって物理系の実在的性質の完全な認識を達成することを不可能として諦める、一種の不可知論的形而上学でもある。

いわゆる「隠れた変数理論」も、非実在的解釈に含めることができる。これは粒子波動二重性の提唱した量子力学の生みの親の一人、ルイ・ド・ブロイによって提唱され、デイヴィド・ボームによって実験と矛盾しない水準にまで鍛え上げられたものである。元来これは、量子力学を「より直感に叶う決定論的理論で置き換える」ことを目指して始められたものだが、「ベル不等式を破る非局所性」そして「コッヘン=シュペッカー定理の文脈依存性」という、実験的に確立した微視的世界の非自明な性質の拘束を受けるので、出来上がった理論は簡素とは程遠いものになった。この理論によると、あらゆる粒子には波動関数で記述される「パイロット波」が伴っており、粒子自体は常に確定的な物理量を持っているが、パイロット波との相互作用によって、測定過程で一部の物理量に必ず不確定性が発生し、それは確率でしか記述できないというものである。理論の複雑性からして、むしろ通常の量子力学の方が簡単で受け入れやすいと、多くの人は考えている。しかしごく少数の物理学者によって、現在でも隠れた変数理論の研究は続けられている。

量子計算や量子暗号といった「量子情報科学」の近年の発展に合わせて、近年登場した量子力学の「情報理論的な解釈」も、量子力学の非実在論的解釈の一種である。自らの解釈を「キュービズムQBism」と呼ぶ、ケイヴス、フックス、シャックの3人の著者は、2010年からの一連の論文において、波動関数を用いることなく、代わりにベイズ主義の確率概念だけに基づいて量子力学を再構成する試みを行っている。ベイズ主義確率というのは、事象の生起に関する主観的信念として確率を解釈するもので、事象が実際に生起した際の実態に応じて信念をアップデイトしてゆき、その極限として仕舞いに得られる確率が、通常の頻度主義確率と一致するというものである。この試みの完成度の技術的詳細については今だに議論が続いているところであるが、ここで重要なのは、彼らの論文に含まれる、極めて主観主義的な形而上学的主張である。

キュービズムの量子力学解釈においては、たとえば物理系の実在といった、世界の存在的(ontic)な側面については、一切の言及が避けられる。そして量子力学は純粋に認識的(epistemic)な理論とみなされるのである。キュービズムの広報官をもって自ら任ずるデイヴィド・マーミンの言葉を用いれば、量子力学は「認知した情報を処理する知的エージェントの世界理解マニュアル」である。たとえば波動関数の収縮というのは、あるエージェントが物理系を観測して確率的認知をアップデートした事実をさすだけであり、キュービズムの立場からは「なぜ観測者に接して物理系に突然の変化が起きるか」という問いは、そもそも偽問題なのである。それ自体量子力学的粒子からできていると考えられる知的エージェントとは何か、認知される対象世界とは何かといった問いも、理論のそもそもの設定の範囲を逸脱した無意味なものとされる。

量子力学を認知的な理論と限定して理解する、このいささか極端な主観論的立場に対しては、二つの反論が加えられている。一つは、多数のエージェントの個別の認知からどうやって量子力学の統一的な体系が発生し得るのかというものである。そしてもう一つは、ベイズ主義的な知識のアップデートによって情報理論的に構成された量子力学だけから、いまだどの観測者の測定にもかかっていない世界のあらゆる構造(存在しうるあらゆる化学物質の機能、あらゆる半導体のバンド構造…)が導かれるのが、どのようにして可能かという問いである。

最初の問いに対しては、近年リチャード・ヒーリーの「理想化エージェント・モデル」が可能な答えの方向を与えている、ヒーリーによると、量子力学的な知識体系に至るのは、個々のエージェントではなく、それらの衆智を蓄積した理想化したエージェントが世界と対面してベイジアンに認知をアップデートするプロセスを通じてなのである。哲学史的に見れば、これは主観主義を唯我論の陥穽から救う標準的な議論であるとも言える。後者に対しては、論理的にいって「ありそうもない信じがたい事態の指摘」は理論の否定にはならず、論者の思考の習慣の問題に過ぎないという再反論が可能だろう。

量子力学を物質世界の基礎理論としてよりも、情報処理の新手法の理論として学ぶ世代の拡大に伴い、量子力学は実在の全体を記述しない、もしくは実在を全く記述しないとする見方が地歩を広げていくのを観察するのは、とても興味深い事である。

## 2.2 量子力学の改定補足による実在的メタ理論

標準解釈を説くフォン・ノイマンやディラックの教科書を仔細に見ると、その書きぶりから明朗に読み取れるのは、彼ら自身は量子力学を単なる認識的な理論とはみなしてはおらず、観測による波動関数の収縮は、未解明の機構による実際の物理的な変化と考えていることである。そのような収縮機構を実際に含んだ拡張された量子力学を作り上げようという試みは、量子力学完成当初から数多くあった。

しかし現在でも有効と見做されているものは、1986年にギラルディ、リミニ、ウェーバーによって提案されたものだけである。彼らはシュレディンガー方程式に弱い確率的(ストカスティック)な非線形項を付加したものを、自然界の基本的方程式とみなして理論を展開する。物理系の孤立した時間発展では、非線形項の影響は弱く、系は実質上線形のシュレディンガー方程式に従うと考えて差し支えないが、観測過程においてはこの非線形項の効果が強く現れ、それが波動の収縮を引き起こすのである。

付加される非線形項には確率を導入することが、この理論の肝である。もしそれが決定論的である場合、理論に必ず光速を超える運動が発生することが知られているからである。非線形項には、現象に合わせて決められる定数が一つ含まれ、もし理論が正しいとされた暁には、この定数は光速やプランク定数と並ぶ、自然界の基本定数となるべきものである。

ギラルディ=リミニ=ウェーバー理論の強みは、その将来的な検証可能性である。通常の線形シュレディンガー方程式で記述される量子力学では起きないはずの現象が、いくつかこの理論では予想され、現在の技術では到達できないにせよ、いずれその成否が実験的に定まるはずだからである。

逆に多くの人の目にこの理論の弱みと考えられているのが、その確率的な性格である。天気予想や株価の動きといった事象の現象論的理論ではともかく、自然界の基本方程式が確率微分方程式であるといった考えは、多くの物理学者には受け入れがたいものなのである。しかしここでもやはり「受け入れがたい考え」というのは、単に論者の思考の習慣に過ぎないという再反論が可能である。

## 2.3 量子力学の多世界的実在メタ理論

西暦1956年、プリンストン大学の大学院生であったヒュー・エヴェレットは、「普遍的波動関数の理論」と題された博士論文を提出し、翌年にはその短縮版が、米国物理学会の「現代物理学批評 Review of Modern Physics」誌に発表された。エヴェレットはその中で、線形シュレディンガー方程式で記述される波動関数を、世界の実在の忠実で完全な記述とみなす、量子力学のメタ理論を作り上げた。自ら画期的と信じた新論文が冷淡な沈黙で迎えられるのを見たエヴェレットは、物理学の研究をやめて国防産業に進む道を選んだ。

エヴェレット理論では、観測者も対象系も、共に波動関数で記述される物理系とみなされる。観測者には生命も意識も必要とされず、測定を行う自律機械(オートマトン)であることのみが求められる。すなわち対象系の状態を測定して、それを記憶装置に記録でき、記録された過去のデータから自律的に測定装置の準備法が定まれば良い。「重ね合わせ状態にある対象系」が観測者と接触すると、両者は「観測者と対象系両方の物理量が定まった状態」の重ね合わせである新状態、「相対状態」へと、通常の量子力学的発展の過程を経て移行する(現代の言葉で言う「エンタングル」状態である)。エヴェレットはこの相対状態がそのままで、観測後の観測者と対象系を合わせた全体を記述しているとみなす。では観測者は重ね合わされた相対状態のなかのいずれの確定状態にいるのだろうか。エヴェレットの答えは、「それらの全てに。ただしそれぞれ別な世界で」である。すなわち観測者と対象系が相関した状態の重ね合わせと化した時点で、重ね合わされた数の確定状態の数だけの、相互に連関のない数多くの世界へ分岐すると考えるのである。

この見方によると、あらゆる対象系および観測者を含む無数の要素からなる世界全体は、要素の自由度の数だけ変数をもつ一つの波動関数で記述され、その波動関数は終始シュレディンガー方程式に従って発展するのみである。観測者と対象系からなる部分系が組み合わされる度に、世界は多くの並行世界へと分裂分岐してゆき、分岐した各世界の中では、観測者と対象系はともに確定した物理量を持つ状態に置かれるのである。

こうしてエヴェレットは、実在そのものの似姿である波動関数の決定論的時間進行として、量子力学を解釈できる道を示した。そのために彼が払った代償は、限りなく分岐して数を増やす途方もない多世界という存在論的怪物であった。エヴェレット自身怪物の存在にすこし気を病んだのか、彼自身は自分のメタ理論を「量子力学の相対状態による定式化」と呼んで、その後に拡まる呼称「多世界理論」「多世界解釈」を用いることは決してなかった。

無理解の10年が過ぎて、物理学界の認識が遅ればせにエヴェレットに追いついて以来、多世界理論は、その簡素な一元的実在論の装いで、多くの物理学者の支持を集めるようになり、その数は現在でも増え続けている。

エヴェレットの相対状態の考え方はまた、純粋に技術的に言っても様々な興味深い論点を持ち、実際その後の量子観測理論の発展の礎だとみなすこともできる。

多世界理論に関する論文は、その後いまに至るまで多数出版され続け、観測によって分岐した各並行世界がいかにしてボルン則に従った確率分布で現れるのかについての研究、さらにはローレンツ不変性を持った相対論的な多世界理論の整備等、時代に対応した着実な進展を見せている。ニュートン、そしてラプラス以来の古式ゆかしい実在論的世界観の支持者にとって、一元論的世界理解とそりが悪い量子力学の時代を乗り切るための、事実上唯一の希望の岩盤であり続けている。

      ***

量子力学の解釈、メタ理論には、名前だけ挙げてもモーダル解釈、トランザクショナル解釈、ロヴェッリ解釈等、ここで言及しなかったものも含め多数が妍を競う状態である。これは他方から見ると、万人の納得する唯一の決定版がないとも言える。

最後にこの節の議論を、量子力学から思想界、哲学界へのメッセージという観点からまとめてみると

一つ。量子力学の登場とともに一時ゆらいだかにも見えたラプラス的一元論的実在論は、数の増え続ける並行多世界という途方もない存在論を伴ってではあるが、現在揺るぎなく復活を遂げたという意見も物理学者の間で有力である。

二つ。少数派ではあるものの、量子力学の改変によって通常の一元的実在論を回復しようとする物理学者の一群が存在する。

三つ。それにもかかわらず、量子力学のコペンハーゲン解釈は今でも正統派の位置にあり、それが含意するのは、波動関数を実在全体の記述とは見なせないという事であり、畢竟量子力学は世界全体の理論ではあり得ないということである。さらには、量子力学の非実在的な解釈には極めて主観的主義な「情報理論的」「認識的」分派があって、そこでは物理学の役割は厳格に限定的、実用主義的に解釈されている。

ということになるであろう。


#3 量子力学解釈と時代思潮

科学的な発見の内容自体は人の世の営みとは独立な「自然界の真実」であるにせよ、発見にいたる科学者の思考過程に時代精神が影響するというのも、また疑いのない事実であろう。いきなり「パラダイム」といった大振りな話をするまでもなく、それは例えば、科学史家ピーター・ギャレットの描く、相対性理論発見前後の世情を見るだけで明らかである。当時の欧州諸国民の関心は海外属領の運営に向けられていて、たとえばロンドン、カルカッタ、シンガポールの政庁に置かれた時計を、海洋航路に乗せて往復する時計を使って同期することが行われていた。これがアインシュタインの思考実験に恰好の枠組みを提供していたであろうことは、すぐに見て取れる。

他方で相対性理論の発見が、物理学や応用技術の領域を超えて、時をおいて社会一般の思潮に与えた影響も、深く広かったであろうことは想像に難くない。「絶対的枠組みを独占する存在への嫌疑」は社会全体に静かに染み渡って、それは政治、軍事から文化、商業に至るあらゆる領域に、深い変化をもたらす地下水脈となった筈である。

事態は量子力学をめぐっても同様であろう。20世紀の思想史を考える上で、量子力学の発見と発展を度外視することは決してできない。相対性理論と比較しても、量子力学と時代の空気との共時的相互作用は、おそらくはより強く、これを論じ尽くすには、博識の専門家の手になる大部の書物が必要となるだろう。ここで筆者にできることは、その粗い一筆書きの素描だけである。

量子力学発見に至る思想的源流を考える場合、熱力学を原子論から導こうとしたルートヴィヒ・ボルツマンと、原子論を否定して連続的エネルギーの遍在を説いた彼の論敵、エルンスト・マッハ、両者の寄与に等しく目を配る必要がある。ボルツマンが統計力学を建設する際に行った「確率論」の物理学への初めての導入は、全ての事象を確率分布で記述する量子力学の建設のための必須の前提であった。そしてまたマッハの哲学、とりわけそれまで観測の背後に当然のごとく措定された「実在概念」の否定は、量子力学的世界観にいたる直接的な伏線であった。

また直接的とは言えないにせよ、20世紀初頭の非合理主義的諸思想、未来主義、超現実主義等の芸術における伝統への反逆、ニーチェからブルトンまでの世界大戦へと至る騒然とした虚無的混沌の時代精神が、陰に陽に、量子力学の建設者たちの思考に及ぼした影響を無視することは困難である。時代の思潮は量子力学に「粒子と波動の二重性」「不確定性」「相補性」といった撞着思考的な相貌を与え、またそれはハイゼンベルクやフォン・ノイマンの思想にニヒリスティックなまでの峻厳さを刻印したように見える。

量子力学は、見る角度によって違った光を放つ結晶のように、解釈する人に応じて様々な思想的色合いを帯びる。どのような解釈が主流となるかは、必然的に時代精神を強く反映することになる。

量子力学の創成期は、欧州の古い文明が自らを引き裂き、戦争を経て、政治的文化的主導権をアメリカとロシアに引き渡す過程と同時代であった。その時代に立ち上がったコペンハーゲン標準解釈の不可知論的二元論には、現実への懐疑、万人の真理たるべき実在概念の否定、かすかに絶望の香りのする冷酷な実証主義がはっきりと見て取れる。

エヴェレット多世界解釈による科学的実在論の復活は、大戦後の産業文明復興の中興と期を一にしている。科学技術への新しい信頼、量子力学の消費生活への目覚ましい応用、自己主張を行い政治的主流となったプロフェッショナル中産階級の出現、科学界における物理学中心主義(または物理学帝国主義)の確立、といったものが時代の潮流であった。それは、確信を持った一元主義的な量子力学解釈に、極めて親和的なものに見える。

我々の眼前では今、長い安定を誇った20世紀型の社会がゆっくりと溶解し始め、水平線上におぼろげに見えるだけの「新しい何か」に取って代わられつつある。量子力学の応用の主流も、物質創成産業から情報産業へ移行しつつある。量子力学の哲学にあっても、新たな主観主義、唯我主義観念論の風合いのある非実在主義が伸長しつつある。これが一体何を意味するのか、にわかには判断できない。

しかしいずれにせよ、非実在主義の広がりは、われわれ全てがこの先どこに向かっているのかを考える上で、とても示唆的な事に思われるのだ。


#4 終章

厳密科学たる物理学の基本理論である量子力学が、互いに相容れないほど異なった世界観をもって解釈できるという事実を、われわれはどう考えるべきであろうか。古典力学が一元的斉一的実在論と自然に整合して、「一つの確実な真理」への信頼を呼び起こすの事との、なんたる対比であろうか。古典力学が与える確定的な予言と量子力学から得られる確率的な予言との対比を、これに合わせて考える時、本稿の冒頭に掲げた疑問が再び湧き上がる。確実性から不確定性へと、人類の知の前線は後退しているのだろうか。

しかし量子力学によって開かれた原子世界、そして深宇宙世界の驚くべき姿を見、その美しい応用を体験したわれわれには、これが後退だとは全く思えない。確実性から確率的予言への移行が、原子世界の実相への知識から得られた知恵だとすれば、それは決して後退ではあり得ないだろう。

単一の世界観から複数の共存競合する世界観への移行も、おそらくは後退ではなく、むしろ前進なのであろう。

波動関数確率解釈の発見者マックス・ボルンは、次のような言葉を残している。

絶対的な確信、絶対的な確実さ、最終的真理といったものは想像力の産物であって、科学のいかなる分野にあっても受け入れられないものだと、私は考えます。一方確率に関する主張は、それが基づく理論に応じて、正しくも誤りでもあり得るのです。この思考の緩和こそが、現代科学が我々に与えた最大の祝福だと、私には思えるのです。唯一の真実、そしてその所有者であるという信念は、世界の全ての悪の根本原因なのです

純粋に技術的に見ても、単一に確定する物理量による状態の指定を、物理量の確率分布関数による状態指定と比較すれば、後者は前者を包含するより高い段階の自然記述であることは明白である。微視的原子世界の研究が量子力学的確率を、不確定性と多様な世界観とをもたらしたのだとすれば、われわれはそれを祝福として潔く受け入れ、さらなる前進を目指すべきであろう。

# 文献

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