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人形(2)

奈須きのこ原作の劇場版アニメ『空の境界』を観ました。肉体と精神、魂に関するちょっと猟奇的な不思議なお話です。アニメの映像美としてはカメラワークも彩色も特殊効果も一つの完成型にある作品でした。話の前半は映画が時系列順に公開されておらず『パルプ・フィクション』的な後で解消される謎の多い面白さもありますし、クライマックスの荒耶宗蓮との戦いが物語の中盤にあり、最後は30分近くに及ぶダイアローグで締めくくられるなど、ストーリーの展開上も特色があります。またともに私と同い年であるらしい主人公の両儀式に殺されそうな主役級のキャラの黒桐幹也に「僕は死にたくない」というオーソドックスな台詞を喋らせる辺りが単純なヒーロー/ヒロインものではないことを伺わせています。2009年から2011年まで阿波踊りのポスターにも取り上げられていました。

 

 

ストーリーは

 

二年間の昏睡から目覚めた少女・両儀式が記憶喪失と引き換えに手に入れた、あらゆるモノの死を視ることのできる直死の魔眼。浮遊する幽霊の群れ。人の死を蒐集する螺旋建築……。この世の存在のすべてを殺す、式のナイフに映る数々の怪異。非日常の世界は、日常の世界と溶け合って存在している―。(講談社サイトより)

 

というものです。肉体と精神、魂の関わり、つまり肉体に宿る魂と脳に宿る知性としての精神の関わりをテーマに話が展開します。人の本質に近い魂と遍歴を経て形成される知性の織りなす世界、心が空(魂)の境界を彷徨う様子、人形的な人の有様が物語を通して浮かび上がってきます。「空」とは「色即是空 空即是色」にも現れていますが、仏教では「無我」であり、「諸法無我」にも通ずる考えで、それが魂であるところが仏教的な世界観を現しています。しかし肉体と結びついた魂は、「あらゆる存在が持つ、原初の始まりの際に与えられた方向づけ、または絶対命令。あらかじめ定められた物事の本質。」である『起源』に依るもので、それは脳に宿る知性としての精神と別のものだが、外界とは知性を通してしか接触出来ないとすることがこの物語の人間観となっています。

 

また他人を理解することについても話が及びますが、それは黒桐幹也に観られるような何も望まず、普通であることで誰からも気付かれず、自分も他人も誰も傷つかない空っぽの孤独として帰結することにこの物語のある種の侘び寂びがあります。

 

 

ストーリーの背景としては魔術の存在があり、人形師である蒼崎橙子を始め魔術師たちは「あらゆる事象の発端」「万物の始まりにして終焉」である『根源』を最終到達目標としています。そういう意味では科学者に近いものがあります。そもそも科学者は論理展開に対する批判的な意見を『直死の魔眼』的な綻びを見つける思考で述べなければなりませんし、それよりも重要なのは短い時間の間に相手の意見を汲み取った上で今後どうすればよいのか、建設的な意見を述べるための『直生の聖眼』とでもいう思考体系を持たなければなりません(何を言っているのか分からないと思いますが)。『直死の魔眼』を持つ研究者は多いですが、『直生の聖眼』を持つ科学者は非常に貴重な存在です。玄霧皐月のような「偽神の書(ゴドーワード)」と呼ばれる、「バベルの塔以前に世の中で使われていた「統一言語」を完全に理解し、話すことができるため、世界そのものに話しかける能力を持つ。即ち、彼の言葉は「世界」からの命令と同義であり、それから逃れることは不可能なため、絶対的な催眠術師といえる。」という能力、つまり相手の認識を簡単に誘導することの出来る口達者だが実際の研究能力の乏しい研究者もままよく居ます。私も気をつけないとゴドーワード的になるので注意しないといけません。

 

荒耶宗蓮は物語のもう一人の主人公で、「(諸法無我?)」に挑もうとした魔術師ですが、それを強く求めるあまり世界を救うとか、訳の分からない思想に捉われてしまっているところが何ともなく物悲しいキャラクターです。「諸法無我」の考えに立てば、存在とは現象として顕われるのであり、変化そのものであり、変化する何者かという主体をとらえることは間違いであることになります。主体のないものを救うとかいうこと自体本来は出来ない筈になるので、無意味な悪あがきをしているところが彼を一種の道化的存在に貶めています。

 

ジャック・モノーは、その著作『偶然と必然』の終わりを、

 

これは(客観的な科学的知識を価値観とした)ユートピアかもしれない。しかし、ちぐはぐな夢ではない。これは、論理的一貫性という力によってのみ課せられた思想である。これは、本物の思想を求めることにより、必然的に導き出される結論である。(アニミズムなどの)古き良き絆は断絶した。人間は、自分がそこから偶然に出現してきたものの自分には無関心な広大な宇宙の中に、たった一人でいることにようやく気づいた。人間の運命や人間の為すべきことは、どこにも書いていないのである。王国か混迷かを選ぶのは、人間の手にかかっている。

 

という文章で締めくくっています。世界が自分の存在に気づいているかどうか、それは問いかけ自体が無意味なものであるとすれば、「古き良き絆は断絶した」と断定するのはきつ過ぎるにしても、モノーの態度と何ら衝突しない生き方は出来る筈です。

 

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鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』、とうとう観る事が出来ました。4人の男女が、サラサーテ自ら演奏する「ツィゴイネルワイゼン」のレコードを取り巻く、妖艶な世界へと迷い込んでいく(Wikipediaより)。という、死してもなお自由に生きることと、生きていても死んだのと同然に暮らす事の対比が象徴論的なカットと合いまって凄みがありました。その他『ヒューゴの不思議な発明』も観ましたが、全ての事件に繋がりが見えてくる様が運命論的で、御伽話としては面白かったですが、現実との兼ね合いにはギャップがありました。

 


劇場版 「空の境界」終章/空の境界 [DVD]
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ジャック・モノー
みすず書房(1972/10)
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山中先生のノーベル賞受賞

山中先生がiPS細胞の研究でノーベル生理学・医学賞を受賞されました。細胞の分化と未分化の状態の切り替えのメカニズムを調べ、それをコントロールする技術の開発を行うことは再生医療にも繋がります。元々老化が遅い未分化状態の細胞と、細胞の増殖能を失った分化状態の細胞の違いは、自己増殖と自己犠牲による細胞の機能的専門化によるシステムとしての適応度の増加のせめぎ合いに纏わる基礎的概念で、多細胞生物の社会的協調性を考える上で極めて重要です。基礎から応用まで一気に貫くような研究をされている山中先生の今後にも期待しています。

 

 

 

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人形(1)

「人形(にんぎょう、ひとがた)」とは、人間の姿を似せて作られたもので、玩具・土産物の他に宗教・伝統行事、人形劇、芸術作品などの用途があります。英語だとDoll, Puppet, Marionetteがあり、それぞれ操り人形でない人形、手指で操作する操り人形、糸で吊って操作する操り人形と別の概念です。文楽はpuppetを用います。

 

「機能しない名ばかりの英雄よりも、夢を語り続ける人形の方が、いくらかましよ」−士郎正宗原作『攻殻機動隊』のTVシリーズ版、STAND ALONE COMPLEXS.A.C.)にそういう台詞があります。攻殻機動隊は

 

時は21世紀、第3次核大戦とアジアが勝利した第4次非核大戦を経て、世界は「地球統一ブロック」となり、科学技術が飛躍的に高度化した日本が舞台。その中でマイクロマシン技術(作中ではマイクロマシニングと表記されている)を使用して神経ネットに素子(デバイス)を直接接続する電脳化技術や、義手・義足にロボット技術を付加した発展系であるサイボーグ義体化)技術が発展、普及した。結果、多くの人間が電脳によってインターネットに直接アクセスできる時代が到来した。生身の人間、電脳化した人間、サイボーグ、アンドロイドバイオロイドが混在する社会の中で、テロ暗殺汚職などの犯罪を事前に察知してその被害を最小限に防ぐ内務省直属の攻性公安警察組織「公安9」通称「攻殻機動隊」の活動を描いた物語。(Wikipediaより)

 

という背景が共通の一連の漫画(士郎正宗作、現在もバージョンアップ中でストーリーが変わってきている)、アニメ映画(押井守監督)、TVアニメシリーズ(神山健治監督)が描く世界で、それぞれのストーリーはコンセプトが共通ながらストーリーがパラレルになっています。原作の第1THE GHOST IN THE SHELLは「人形使い」事件の一連の顛末を描いたもので、TVシリーズの最終映画のSolid State Societyにも「傀儡廻」として、「人形使い」を彷彿させるキャラクターが原作のTHE GHOST IN THE SHELL、第1.5巻のHUMAN ERROR PROCESSORからインスパイアされた様々なモチーフと共に登場しています。英訳は「人形使い」と「傀儡廻」両方が “Puppeteer” なので、同じ概念だとみて良いでしょう。電脳技術を利用して人に擬した人形を操るのは直感的にはMarionetteを連想させますが、MarionettePuppetに比べて人形の個性があるものを操るという意味合いが強く、操る側と人形が一体化しているPuppetの方が「人形使い」に近いとしたのでしょう。

 

人形的に振る舞う人間の風刺は、主人公の草薙素子の口を使って現されます。

 

「俗悪メディアに洗脳されながら種(ギム)をまかずに実(フクシ)を食べる事か? 興進国を犠牲にして お前にだってゴーストがあるだろ 脳だってついてる 電脳にもアクセスできる 未来を創れ」

 

これはS.A.C.

 

「世の中に不満があるなら自分を変えろ、それが嫌なら耳と目を閉じ口を噤んで孤独に暮らせ、それも嫌なら―」

 

にも現れています。システムの一部として没個性的に振る舞う人を皮肉ったものですが、その一方で個性とは何か、というのが問いになります。

 

「擬似体験も夢も存在する情報は全て現実でありまた幻なんだ…」「小説や映画が人生を変える様に?」「人が一生のうちに触れる情報などごくわずかだ… 一国の運命や一人の人生も大抵はゴミ扱いさ この事件がほとんどの大衆に無縁な様にな」

 

こういう情報の海の中での事象は、TVシリーズの第1作の「笑い男事件」に顕著に出ています。元々S.A.C.とは

 

「笑い男事件」における一連の社会現象に対して、草薙素子が名付けた造語。作中における電脳技術という新たな情報ネットワークにより、独立した個人が、結果的に集団的総意に基づく行動を見せる社会現象を言う。孤立した個人(スタンドアローン)でありながらも全体として集団的な行動(コンプレックス)をとることからこう呼ばれる。これは個人が電脳を介してネットを通じ不特定多数と情報を共有することにより、無意識下で意識が並列化されながらゆるやかな全体の総意を形成し、またその全体の総意が個人を規定するために発生するという、高度ネットワーク社会が舞台であるが故に起こり得る現象である。

時にはある事件において実質的な真犯人が存在しない状態が、全体の総意において架空の犯人像を生み出し、その架空の犯人像の模倣者(模倣犯)がその総意を強化・達成するような行動を見せるという独特の社会現象が起こる。

作中では、電脳から直接的に無線ネットワークを介して瞬時に情報交換をすることが可能となっており、特定の個人(笑い男やクゼなど)が見聞きし知り得た情報でも、それを公開することで、瞬時にあらゆる人がその情報を共有出来るようになっている。その結果、知識の程度や思想の傾向が同水準である人間達による集合体が形成される。これがオリジナル(先導者)を喪失した個人(孤立した個)の集合体であるが、『2ndGIG』ではハブ電脳[1]を獲得してより組織化するに至る。(Wikipediaより)

 

というものだそうですが、「笑い男事件」は「腐りきった世の中から生まれた偶然が何かの象徴として創り出してしまった現象、オリジナルなき模倣者たちが創り出した現象につながらないものが真のオリジナル」であると劇中で述べられています。別の言い方で言えば最早「文学」としか言えない妄想と現実の混線の中で文学という「型」から抜け出す者がオリジナル、それに対して他人の夢と自分の夢の区別がつかない人が「扇動者」であるということでしょう。個性と相互作用としての神(ゴースト、仏教的解釈)において、個性の獲得か癌化なのかの問題は生物のあらゆる階層に見られる果てしなきテーマであり、非常に難しい問題です。個の維持と喪失の繰り返しの中での社会と進化は生命の摂理なのですが、人間にとっては情報の墓場の図書館の中に何かがあるのかも知れません。

 

人形使いと草薙素子の会話、

 

「あるネットが破局を避け安定した平衡状態を保つ為にはどうする?」

「二つの方法があるわ… 一つは二種のコピーをとる事 一方・一種が何らかの要因で滅んだとしても他方が存続するわ もう一つは自己内部を分業 細分化し様々なタイプの破局に対応できる様に多機能化する事… 生物が単機能細胞から多機能多細胞化した様にね…」

「コピーが更にコピーを生み 増えれば増える程 破局の可能性は低くなる… やがてパラレルな多重宇宙像をつくる… SGUTからボソンとフェルミオン…… 重力や強い相互作用などが次々分かれ 部品は陽子を 原子核は原子をつくり… 生物個体における細胞や組織… 生態系における多様な種… 我々の知る宇宙は2n!の内の1ツで2m!種の要素の組合せで構成されている… nmの値は無限に続く様にも見えるが判らない… 宇宙の爆発的連鎖誕生とも関連がある様だが― 我々を含むこの宇宙1ツ に話を限定しよう これは君を中心に考えた構造のピラミッド 系統の近い同じ9課の部員や友人 上司には君の情報が極めて部分的ではあるが残される… 遺伝子や摸倣子は君が消えた跡も成長を続ける… ドーナツ状にね 上へ行く程レベルは巨視化し決定論的にふるまう… 逆に下は微細構造に行く程 非決定論的になる…(個人というレベルはまだ非決定論的) 言い換えれば下の階層のゆらぎが上の階層の動脈硬化を防いでいるわけだ… システムの硬化… 熱的死は一見安定の概念に近い様だが「変化に乏しく一様でゆらがないシステム」は破局の可能性が増大し真には不安定といえる ネットワークは超宇宙サイズで無限の深さを持ち… 成長する樹の様だ…」

「生命は枝の先になる果実ってところね」

「そうだな… 果実だ…… カバラの奥義 北欧神話 中国神話 エデンの知恵の木 生命樹 世界樹… この場合は天御柱という名が適している 時代 文化 人種を問わず多くのチャネラーがアクセスし 語りついできた宇宙のシステムだよ 幹の先はもう存在しない筈だが枝の先へ来る程生長を続けている― ふれたり はなれたり からまりあって実をつけたり… 宇宙は回転し そのモーメントにあたる「時間」に従って進行している… より存在する為 より安定を求め… 複雑多様化しつつ 時にはそれを捨てる… 脳のネットが複雑化しつつ忘れる機能を持ち 脳以外の細胞が毎日代謝し生まれ変わりつつ老化するのも 死ぬ時に大量の経験情報を消し去って遺伝子と模倣子だけを残すのも 周期的に文明が疲弊するのも 皆システムの硬化…破局に対する防御機能だ……」

「人間の愚行や誤ちを肯定する考え方だわ」

「君が「善悪」について語るとは… その様な細部は本題ではないが― 宗教的に言うと神が悪魔を一掃しない理由がここにある 宗教モードの者は試練だとか修業という言葉でリスクを肯定している…」

「もし細胞が増え続けたら?人が死なずに知識や経験を積み重ねたら?」

「いずれの場合も身動きできなくなって破局するだろう…」

 

システムサイズと決定論・非決定論の話が乱暴で、また多様性を強調するあまりシステムの個性や社会的協調性の維持に不可欠な普遍性の読み込みがまだあまいような気がしますが(チャネラーはお戯れ)、SFのテーマとしては面白いですね。

 

THE GHOST IN THE SHELLの最後には意味深の台詞があります。

 

「これが宇宙の種子(コズミック シード)だって事や…… 『情報の高効率パッケージ』 ……生命の偉大さをね……」

 

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物語

「物語」という言葉は、元来は「話をすること」という文字通りの意味で、「作り話」と「実話」が混在するものでした。日本には「言霊(ことだま)」という「声に出した言葉が現実の事象に対して何らかの影響を与える」と信じる信仰がありました。言霊(ことたま)の方は森羅万象がそれによって成り立っているとされ、新約聖書のヨハネによる福音書1:1-5にも通ずるものがあります。『万葉集』の時代には、日本は「言霊の幸はふ国」とされていたようです。「言」と「事」とは昔の日本では同じ意味を現していました。「言葉」とは、「言」の成す大樹の葉なのです。「事割」「言割」「理」「断り」は全て同じ読みです。昔は、「物語」により「災い転じて福と成す」、ことかえが行われていたのかも知れません。

 

本日は最近鑑賞した三つの物語、『陽炎座』『鎌塚氏、すくい上げる』『おおかみこどもの雨と雪』について簡単に述べようと思います。

 

 

 

鈴木清順監督の「大正ロマン三部作」『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』『夢二』の二作目、『陽炎座』

 

(あらすじ)

1926東京。新派の劇作家である松崎(松田優作)は落とした付け文が縁で品子(大楠道代)と出会う。その後も偶然による2度の出会いを重ね、2人は一夜を共にするが、その部屋がパトロンの玉脇(中村嘉葎雄)の部屋にそっくりであることに驚く。やがて松崎は品子の「金沢で待つ」という手紙に誘い出されるが、品子は手紙を出した憶えはないという。玉脇に品子との心中をしつこくそそのかされ、逃げ出した松崎はアナーキストの和田と知りあう。不思議な祭り囃子に導かれて奇妙な芝居小屋・陽炎座に辿りつくが。(Wikipediaより)

 

は終始劇的空間の映像美が堪能出来ますが、夢か現か分からない物語が最後になって絵金のオドロオドロしい絵の背景への侵入により、完全に劇的空間に支配された世界になってしまいます。登場人物たちはそれでも普段通りの会話を進め、背景と会話の遊離した地平が開けます。劇の中、混迷する物語の上での日常、それが『陽炎座』を含め「大正三部作」の不思議な世界の魅力だと思います。今は亡き松田優作さんの立ち位置をほとんど動かさない中での演技は秀逸でした。

 

 

M&O plays プロデュース『鎌塚氏、すくい上げる』は倉持裕さん作・演出で、ともさかりえさんの出演された前作の『鎌塚氏、放り投げる』の好評につき製作された続編の演劇です。

 

(あらすじ)

『完璧なる執事』鎌塚アカシは、主人である由利松公爵の長男モトキの従者として、豪華客船レッドジンジャー号に乗り込んだ。
彼の使命は、花房家令嬢センリとモトキの見合いをクルーズ中に成功させること。
しかし一方、見合いを嫌がるセンリは女中のミカゲになりすまし……
荒れ狂う波に揺らぐ船内をアカシが走る! 飛ぶ! 激しく転倒! すぐに起きてまた走る!
 そして大海原へ――Webより)

 

倉持裕さんは岸田國士戯曲賞受賞作『ワンマン・ショー』のように少し難解な作品を書くのが元々の醍醐味ですが、『鎌塚氏、』シリーズやクリオネプロデュースの『パリアッチ』に観られるように、ドタバタのシチュエーションコメディを物語上の伏線を幾重にも張り巡らせたのち最後に一気に集めて回収するという手法の演劇も創られます。最後は観客がスタンディングオベーションでした。主演の三宅弘城さんの迸る台詞回しとアクションが秀逸でした。舞台上で体が実際に逆さまになるシーンが多かったのはお疲れさまでした。回る舞台とそれに伴い動く動線による役者の演技もなかなか見応えがありました。

 

 

細田守監督のアニメーション映画『おおかみこどもの雨と雪』

 

(あらすじ)

物語は、娘の雪が、母である花の半生を語るかたちで綴られる。

女子大生の花は、大学の教室でとある男と出会い、恋に落ちる。その男は自分がニホンオオカミ末裔、「おおかみおとこ」であることを告白するが、花はそれを受け入れ2人の子供を産む。産まれた姉「雪」と弟「雨」は狼に変身できる「おおかみこども」であった。しかし雨の出産直後、男は亡くなってしまう。花は2人の「おおかみこども」の育児に追われるが、都会ではたびたび狼に変身してしまう雪と雨を育てるのは難しく、山奥の古民家に移住する。

人の目を気にすることなく山奥で姉弟は育っていく。蛇や猪をも恐れない活発で狼になるのが好きな雪に対し、弟の雨は内向的であったが、やがて雪は小学校に通うようになり、狼にならないように気をつけ、人間として生きていく。一方で雨は小学校に馴染めず、山に入っては狼となって、一匹の狐を「先生」と呼び彼から山で生きる術を学んでいく。(Wikipediaより一部抜粋)

 

は、タイトルの「おおかみこども」が現しているように、本人たちは「おおかみ」であるとともに「こども」でもある「おおかみこども」なのですが、社会的制約により「おおかみ」であることと「こども」であることを分けさせられ、結局それに従って自立していくことを、母親の花の成長譚と名前の由来である「雨」や「雪」などの自然現象と相まって描いて行く、少し老荘な作品です。「おおかみにんげん」が出る時点で幻想的な要素はあるのですが、基本は「おおかみにんげん」が存在する前提でリアルに忠実であろうとしています。

 

人間が自給自足のスタイルのもと一人で生きて行く上には「無為自然」は楽に達成出来るのですが、現実には衣食住、健康管理、職場などで他の人間と関わり合いになる限り、社会的制約により個人の自由は制限を受け、それを受容することが大切です。生まれた頃は「おおかみ」と「こども」は一つのものだったのが、成長により別れざるを得ないというように、社会の中での「無為自然」の現出は難しいものです。「おおかみおとこ」の父親の時代にはひっそりとしながらもまだ同一であった「おおかみ」と「こども」は、(あくまでも人間の側からは)異形の者として暮らして行くのか、それとも普通のにんげんとして暮らして行くのかの選択を迫られます。謎の多い作品ではありますが、内なる本質と外の世界とのギャップを上手く描いた作品だと思います。

 

アニメにしては自然の描写が念の入った取材により作り込まれていました。花の本棚に並んでいる図書の変遷も追っていて楽しいです。鼻水を垂らして泣くシーンなども変に抽象化されていなくて良かったです。最近のアニメ映画としては美術に少し難があるような気がしましたが、幻想的な空間でなく現実をベースに描くという意味合いはあったのかも知れません。

 

 

 

この三つの物語で挙げられたのは、「背景と登場人物」「幾重にも張り巡らされた伏線の回収」「人の内と外」というテーマでした。言葉の世界に張り巡らされた関係性は、人間関係や外環境との関係性でどこに行き着くのかも分からないのだと思います。一部の悲観的な人々を除き、多くの人々は世界が自分の望むように物事を進めてくれると思いたがる傾向があるような気がしますが、そういった思い込みを排除し、人間関係や環境のプールの中で漂う自分にとって最大限の努力を払いつつも、その結果の是非には無頓着であるがままに生きて行く、老荘はそういう生き方を示しているのかも知れません。その伏線がどのような回収をされるのか、誰にも予想がつかないと思います。

 

あの時 最高のリアルが向こうから会いに来たのは

僕らの存在はこんなにも単純だと笑いに来たんだ

 

こういう歌詞の歌もありますが、世界は自分の望むようなものでもなければ多くの意外性に富んでいることを現実やその仮初めの姿である物語が紡いでいくのを体験していくことは案外楽しいものだと思います。

 

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値段:¥ 4,935


 

 

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老荘思想

本日二回目の投稿です。先日の北海道採集旅行は鉄道での移動時間が長かったので、その間に『老子』(中公文庫)『荘子(そうじ)』(岩波文庫)を読破しました。「無為自然」「大道廃れて仁義あり」「聖人生まれて大盗起こる」の思想で有名な老荘思想ですが、最上の概念は「道」とされ、言葉で表すのは難しいのですが宇宙自然の普遍的法則や根元的実在、道徳的な規範、美や真実の根元とされています。老荘思想を世俗から身を引くことで保身を図ることを正当化する思想だと捉えている方もおられるのですが、それは誤りで、老荘思想では人の上に立つことや世捨て人となることよりも市井の中で表面上は上手く世渡りをしながら内に道を体現するのが最上とされています。

 

『老子』(老子はB.C.6Cの周の人とされる、『西遊記』などに登場する太上老君)は『道経』と『徳経』からなり、「道徳」という言葉の語源となりました(しかし日本の「道徳」の授業に老荘思想が反映されているとは言いがたいのですが)。一方の『荘子』は荘子(そうし、B.C.4C-3Cで戦国時代の宋の人、『三国志演義』などに登場する南華老仙)自身の手に依る『内篇』と、後世に加えられた『外篇』『雑篇』があり、『雑篇』には他の章と明らかに矛盾した教義の章もあります。私は政治色の濃い『老子』よりも自由闊達な『荘子』の方が好みにあったので、以下『荘子』の紹介(現代語訳、書き下し文なし)です(引用サイト)。長い引用ですが、西洋哲学の厳密な論証が未だ神を論ずるのは無意味であるというあのカントの思想周辺を漂っているのに対し、老荘思想や仏教などの東洋哲学が大雑把ながらマクロな視点で物を捉えていることが分かると思います。

 

生死をあるがままに受け入れる思想:養生主篇 第三 五

秦失(しんしつ・不明)は友人の老子(時代が合わず虚構)の訃報に接して弔問に行った。かれは霊前で三たび声を上げて泣くという儀礼を行っただけで、そのまま帰った。そのそっけないそぶりに老子の弟子が「あなたは先生と旧来の友人だったじゃないですか」となじると、秦失はこう答えた「そうだとも」。弟子は「親友のあなたがそのような弔い方でよいのですか」と責める。

 秦失は言う「私はこれまで、あなたの先生を尊敬して付き合ってきたが、今は気持ちが変わった。奥の間に入ると老人は子を亡くしたように泣き、若者は母をなくしたように泣いている。故人は追悼の言を求めていないし、泣くことも求めていないだろう。これは天の理法を逃れ、人間の自然のあり方にそむく行為だ。

 人の生が天から与えられたものであることを忘れて執着することを、昔の人は頓天(とんてん・自然の道理から外れた罪)の刑といった。先生がこの世にやってきたのは、それが生まれるべき時だったからで、死んだのも死ぬべき時だったからだ。時に準じておれば哀楽の入る余地は無い。昔はこれを帝の県解(けんかい・束縛からの解放)といった」。

 

有用・無用に関する思想:人間世篇 第四 四

大工の石(せき)が斉の国を旅した。途中、曲轅(きょくえん・地名)に差し掛かったところ、そこに巨大なクヌギの神木があった。その巨大なこと、木陰に何千頭もの牛が憩えるほどで、幹の太さは百抱えはあろうかというほど。高さは山を見下すほどで地上七、八尺のところにようやく枝が出ている。枝とはいえ、1本で充分船が作れるほどの枝が何十本も生え広がっているのだ。この巨木を見ようと訪れる人は引きも切らず、あたりは市場のような賑わいを呈している。

 石の弟子たちは息を呑んで大木を見やったが、石は目もくれずに通り過ぎてしまう。追いすがった弟子たちが「親方の弟子になって以来、これほど立派な木は見たことがありません。どうして親方は目もくれずに行ってしまったのですか」と聞く。
 石はこれに答え「言うな。あれは何の役にも立たない木だ。船を作れば沈んでしまう。棺おけを作ればたちまち腐ってしまう。家具を作れば壊れ、扉を作れば脂だらけになる。
柱にすれば虫に食われ、全く何の役にも立たない木だ。だからこそこんなに大きく育ったのだ」。

 石が旅から帰った夜、夢にあのクヌギの木が現れ、石に語りかけた。「お前は私を何と比べて無用というのだ。どうせ人間に役に立つ木と比較したのだろう。梨、柚子など果実のなる木はお前たちの役に立つ。だが果実をつけるが故に果実をもぎ取られ、枝は折られ、引きちぎられ、天寿を全うすることなく死ななければならない。自らの長所が自らの生命を縮めている。自ら求めて世俗に打ちのめされているのだ。この世の人も物も全て有用であろうとし、同じ愚を繰り返しているのだ。

 だが私は違う。私はこれまで一貫して無用であろうと努めてきた。天寿も尽きようという今になって、ようやく無用の木になりきることができたのだ。お前たちに無用であることが私には本当の用なのだ。私が有用であれば、とっくの昔に切り倒されていたのだ。
 もうひとつ言うと、お前もわたしも、自然界の一物に過ぎない。物が物の価値付けをしてどうなるのだ。価値付けするなら、お前のように有用であろうとして自らの生命を削っているものこそ、実は無用な人間なのだ。無用な人間に私が無用な木であるかどうかわかるはずはないだろう」。

 翌朝、石は弟子たちに昨夜の夢を話したところ、弟子たちは「それ程無用でありたいなら、どうして神木なんぞになったんでしょう。神木というのは百姓たちを守護する木なんでしょう」。
 石いわく「めったなことを言うでない。神木は仮りの姿だ。自分を理解しないものが多いので神木になっているだけだ。仮に神木になっていなくとも、伐られることはないだろう。あの木は世間の望みとは反対に、無用であろうと努めているのだ。こういう相手を世間の常識で計るのは見当違いというものだ」。

 

 

人の情に関する思想:徳充符篇 第五 六

恵子が荘子に言った「君は前にそういったが、人は本来情のないものだろうか」。荘子は「そうだ」と答えた。恵子は「人でありながら情を持たなければ、どうしてそれを人といえようか」
 荘子は言う「天によって容貌、形が与えられているのに、どうして人でないといえようか」
 恵子はさらに言う「人間である以上、情を持たないというのは矛盾していることでないのか」
 荘子は答える「私が情はないと言ったのは、情にとらわれないということだ。好悪の念にとらわれ、自分の身を傷つけることなく、全てを自然に任せて、あるがままに、ことさら生命を助長するようなことはしないと、いっているのだ」。
 恵子「生命を助長せずに、どうして身を維持して行けようや」
 荘子「自然の道理によって容貌、形が与えられたものを、好悪の念によって損なわれないようにする。これだけで充分だ。しかし君はあくことなく知を追い、精魂を疲れさせ、樹によりて論じ、机の前で居眠りをしている。せっかく天が君に人間としての外形を与えてくれたのに、君はつまらぬ議論でわが身を滅ぼそうとしているではないか」。

 

 

真の人の思想:大宗師篇 第六 一

天の為すことを認識し、人のなすことを認識するのが究極の目的である。天のなすことを知るものは自然のままに生きられるし、人の為すことを認識できるものは、知の及ばないところまで知を働かすことが可能になる。こうして天寿を全うしてこそ偉大な智者といえる。
 しかしまだ問題がある。認識は標準があってこそ確かなものになるのだが、その標準が確定していないのだ。私はこれまで自然と人を対立させて捉えてきたが、この対立さえも確定的でないのだ。
 
 しかし知を越えた「真知」はこの弱点を伴わない。この真知を己のものにしたのが真人である。太古の真人は乏しくも不満なく、栄達を求めず、全てをあるがままに作為をほどこすことがなかった。こうした人は過ちても悔いず、成功しようとも誇らず、高所に立っても恐れず、水に濡れず、火も恐れない。ここまで道と一体化したのが真人である。
 真人は寝ても夢を見ることなく、目覚めていても放心状態で、ものを食べても味を感じず、足のかかとでゆったりと呼吸していた。だが今の我々は呼吸をのどでして忙しくあえぎ、議論すればむせんで敗残者の悲鳴さながら、こうして欲深きものは生命力を枯渇させているのだ。

 真人は生に執着せず、死をも忌避しない。この世に生を受けたからといって喜ぶことなく、この世を去るからといっても悲しむわけでない。ただ悠然と来たり、悠然と去りゆくのみである。始まるところを知らず、終わるところを求めず、受けてこれを喜び、忘れてこれを自然に返す。 この境地を「心の分別で自然の道理を損なわず、小ざかしい知恵で自然の働きを助長せず」というのだ。こうした境地にある人を真人という。
 このような人は、心は無心そのもの、その姿は静寂そのもので、額は高く秀才をしめし、表情は秋のように厳しく、春のように和やかで、感情の動きは季節の移り変わりのようにごく自然で、精神の働きは外界の事象の変化に応じて限りなく自在に動く。

 真人が武力を用いて他国を滅ぼしたとしても、人心はそれによって離れることなく、人民に恩恵を与えても人民は恩恵を与えられたと思わぬ者こそ真人の名に値するといえよう。
 作為的に秩序を形成しようとする者は聖者でなく、意識的に愛を実践する者は仁者でなく、ことさら自然に順応しようとする者は賢者でない。利害にとらわれ利と害が結局同一であるであると気付かぬ者は君子でなく、名誉にとらわれ自己を見失うものは士ではない。身を滅ぼし、本性を失った人間は奴隷に等しいのだ。
 狐不偕(こふかい)、努光(むこう)、伯夷(はくい)、叔斉(しゅくせい)、箕子(きし)、胥余(しょよ)、紀他(きた)、申徒狄(しんとてき)・・いずれも権力者、暴君に対し己の節を通して対抗、自殺、刑死、餓死などした古代の有名人・・といった人達は一見、自己の信念を貫き通したように見えるが、結局は他人に振り回されて、主体性を失い不幸な結果に終わったのだ。

 昔の真人は背丈が高くとも崩れず、何か不足しているように見えるが人から物を受けない。のびのびして孤独でいるが、かたくなでなく、とらえどころはないが、浮ついてはいない。おおらかで素朴、何時も晴れ晴れとした顔で、なにをするにしても差し迫ってやむを得ずするといった感じで、ゆったりとして、人の心をやわらげてくれる。広々と大きい感じで、奮い立っても、表情はその徳の枠内にとどまっている。
 
 真人は刑罰を政治の基本とし、礼をその翼としているが、時々の変化に応じるものを知とし、自然の摂理を徳とみなす。
 刑を政治の基本としているから、罪人を平気で殺せる。礼を衣服とみなしているのは世俗に従うため、知を時々の変化への対応とするのは、やむを得ざる場合に備えてのことで、徳を自然の摂理とみなすのは、真人は自己を主張せず、何事も他人に任せているという風をとるため。しかし人は徳ある人は世事に熱心だと見ている。

 さて好むも、好まないのもそれぞれといえるが、どれも同じで天と人は一体である。
 天と同じ意見ならば天の徒、人と同じならば人の徒であるだけのこと、真人は人の徒であるとともに、天の徒でもある。これが真人なのだ。

 

 

道の思想:大宗師篇 第六 三(註:岩波文庫のものより短い)

道には情あり、信が在るが、行動なく形もない。心で見ることは出来るが、目で見ることは出来ない。他のものに依存しない独立した存在で、天地がない頃から存在し、天より高いところにあっても高いとせず、大地の下にあっても低いと言わず、天地より先に生まれながら久しいとせず、上古より存在しても老いたとしない。
 この道を得て、伝説の神鬼神帝はそれぞれに活躍したのだ。

 

 

道家と儒家:大宗師篇 第六 六

子桑戸(しそうこ)、猛子反(もうしはん)、子琴張(しきんちょう)の三人が語り合っているうちに誰からともなく、こういう話が出た。「無心に交わり、無心に助け合うことのできる者はいないのだろうか。天に昇り霧の中の限りない広がりの中で遊び、生死を忘れて無窮の中に生きる者はいないのだろうか」。三人はにっこり笑い、うなずいて友達になった。
 何事もなくしばらくの時が過ぎてから、子桑戸が死んだ。だが葬儀もせず死体は放置されたままになっていた。孔子がそれを聞いて弟子の子貢(しこう)をやって葬儀を行わせようとした。
 子貢が子桑戸の家にやってくると、孟子反と子琴張が、一人は土間ですだれを編み、一人は琴を弾いて声を合わせて歌っていた「ああ子桑戸よ なれははや 生まれ故郷に帰りしに 我等はなお人の世をさすらう」
 余りのことに子貢は怒り「なきがらを前に歌を歌うとはなにごとですか、死者に対する礼をお忘れですか」と詰め寄った。

 二人を顔を見合わせ「この人は礼の意味を分からないと見える」といった。
 あきれた子貢は、戻ると孔子に報告した「彼らは何者でしょうか。礼儀を知らず、遺体の前で歌を歌って悲しそうな顔もしない。彼らは一体何者でしょうか」。
 孔子は答えた「彼らは世俗の規範の外に生きている人達だ。だが私はその枠の中にいる。住む世界が全く違うのに、お前を弔問に行かせて仕舞った。これはまずいことだった。彼らは造物者の友となり、宇宙の根源に遊ぼうとする人達だ。生を体のいぼやこぶの程度にしか考えていない。死もできものがつぶれた程度にしか考えていないのだ。したがって生を喜びもしなければ、死を恐れもしない。肉体を借り物に過ぎないと達観し、肝臓や腎臓、耳目も忘れ生死の循環をどこまでも繰り返す。こうして彼らは無心に俗世間の外を彷徨し無為自然の境地を楽しんでいる。世俗の礼儀を気にして世人の思惑に迎合することがどうして出来ようや」
 
 子貢は満足しない「では先生はどちらの道に従っておいでなのですか」
 孔子「私は天の刑罰を受けて、この世に繋がれた人間だ。しかし私もお前と一緒に彼らについていきたいと思う」
 子貢「その方法をお聞かせください」
 孔子「魚は水と離れられないし、人は道と離れられない。水と離れられない魚は池を掘ってやれば充分に生きてゆけるし、道と離れられないものは無為を守ってゆけば天寿を全うできる」。
 子貢はさらに聞く「どうかあのような奇人について教えてください」
 孔子が答える「世俗の目から見れば彼らは奇人に違いない。だがそれは彼らが世俗に縛られない天のままの存在だからだ。『天の君子は人の小人、人の君子は天の小人』という言葉もあるではないか」。

 

 

道について:在宥篇 第十一 四
黄帝が立って天子になってから十九年が経ち、その政令は天下に良く行われていたが、広成子(こうせいし・老子の別称とも言う寓話的人物)が空同山にいると聞き、訪れて尋ねた。「先生は至道に達しておられると聞いていますが、どうか至道の精髄について教えていただきたい。私は天地自然の精気を取って五穀の成長を助け、民衆を養っていこうと思っていますし、また陰陽の気を支配して多くの民の生活を遂げさせようと思っています。そのためにはどうしたらよいのでしょう」

 広成子いわく「あなたが聞きたいと思っている精髄はものの本質であり、あなたが支配したいと思っているのは、ものの形骸に過ぎない。あなたが天下を治めるようになってから雲の集まらないうちに雨になり、草木は葉が黄ばむことなく落ち、日月の輝きも鈍くなってきている。あなたは口先だけで、話の上手い人だ。そんな不誠実な人にどうして至道のことなど話せようか」

 黄帝は退出すると天下のことは打ち捨て、ひとり住まいの部屋を作り、白茅を敷き、三ヶ月の間静かな生活を送った。そのうえで再び広成子を訪ねた。広成子は南枕で横になっていたが、黄帝は下座からすり膝で進み、恭しく礼をして言った「先生は至道に達しておられると聞いています。どのように身を修めたら、長生きができるのか教えてください」。

 広成子はすっくと立ち上がり答えた「良い質問だ。さあ寄りなさい。私はあなたに至道のことを話そう。至道の精髄は微妙だし極地は奥深い。見ようとせず、聞こうとせず、精神を内に守って静かにしていると、肉体はおのずから正常になるだろう。必ず静かにし、清らかにして、肉体を疲れさせず、精神をゆすぶらなければ、長生が出来よう。目にうつるもの無く、耳に聞こえるもの無く、心に分別が無くなれば、あなたの精神は肉体を守るであろう。そこで肉体は長生することになる。
 あなたの内なるものを大切にして、外に向う知識を閉じなさい。知識が多いと物事を壊す。わしはあなたのために輝く太陽の上に昇り、純粋な陽気の極限にまで行こう。

 天地にはそれなりの治まり方があり、陰陽にはそれなりの治まり方がある。あなたが身を大切にしてゆけば、万物はおのずから元気になろう。私は道を守り、万物の調和に身をおいている。だからわしがわが身を治めているのは千二百年になるが、わしの肉体は全く衰えていない」。

 黄帝は恭しく拝礼すると「先生こそ天と呼ぶべき人ですね」と言った。広成子はこれの答えて言った「さあ寄って話を聞きなさい。諸々のものは無窮であるのに、人々は皆終わりがあると思っている。諸々のものは無尽であるのに、人々は限りがあると思っている。これは智に拘泥した人の迷いである。わしの道を体得した人は上は皇帝となり、下は王となる。わが道を失ったものは、上は生前光を見る事が出来るにしても、形や色彩に心奪われ、下は死んで土になってしまう。
 多くのものは皆土から生まれ、土に戻るのだ。わしは土に戻るべきあなたを捨てて、永遠のきわまりのない世界の門をくぐり、果てしない自由の世界に遊ぼうと思う。わしは太陽や月、光と交わる。わしは天地ともに不変である。わしを慕って来てもぼんやり無心、わしに背き去って行ってもぼんやり無心、人々は皆死んでいくが、わしだけは一人生きていくだろう」。

 

 

無為自然について:天道篇 第十三 六

 昔、舜は堯にたずねてこういった「天子は政治に対し、どういうことに心配りしますか」。堯は答えた「私は世間から見放された人にも暖かく目をかけ、困窮する人を救い、死者をいたみ、幼児をいつくしんで、女性を哀れんでいる。これが私の心働かせているところだ」。
 舜は言った「立派なことは立派ですが、しかしまだ偉大とはいえません」「それではどうしたらよいのか」と堯。舜はこう答えた「天と徳がともにあれば、行動するときも心安らかです。日、月は輝き、四季が順調にめぐるように、また昼夜の交代に定めがあり、雲が空に流れ、雨が地に降るように、全く自然のままの姿に成るのです。
 堯は言う「すると私はまだ気が多いのだ。君の徳は天とひとつになっているし、私はこまごました世事に追われているというわけだ」。
 そもそも天地というものは、昔の人が尊敬したもので、黄帝、堯、舜といった天子がいずれも礼賛したものである。故に昔の帝王がなにをしたかといえば、ただ天地の道に従うだけだったのだ。

 

 

病は気から:達生篇 第十九 七

 斉の桓公が沢地で狩猟をしたとき、管仲(かんちゅう・斉の名宰相)が手綱をとっていたが、怪しい化け物が桓公の眼に入った。そこで管仲の手を押さえ「管仲よ、何が見えたか」とたずねたが、管仲は「私は何も見ませんでした」と答えた。
 桓公は狩りから帰ると、数日の間、屋敷に引きこもったきりだった。斉の士人で告敖(こくごう)と言うものがいて、こんな事を言った「殿様は自分で病気になっているのです。化け物には殿様を病気にする事はできません。そもそも内に篭った気が外に発散して元に戻らないと、気力が不足して放心状態になるのです。気が上に上って降りないと、ひとを怒りっぽくさせますし、反対に下に降りて上がってこないと、人を忘れっぽくさせます。気が上がりもしなければ、降りもせず、体の真ん中に止まっていないと病気になるのです」。
 桓公はたずねた「ならば化け物はいるのかな」。告敖は答える「居ります。泥水には履(り)と言う化け物が居り、かまどには髻(きつ)がおります。戸口の中のゴミ捨て場には雷霆(らいてい)と言うのが陣取って居り、家の東北の低地には倍阿(ばいあ)とか鮭壟(かろう)と言うのが飛び跳ねており、西北には泆陽(いつよう)と言うのが居座っています。水辺には罔象(もうしょう)が居り、丘では崒(しゅつ)が、山には(き)が、野原には彷徨(ほうこう)が居り、沢地には委蛇(いい)がいます」。
 公は自分が化け物を見たのが沢地だったので、すかさず聞いた「委蛇の様子はどんなのだ」。告敖が答える「委蛇は身の太さは車輪の軸枝ぐらい、長さは車の前の長柄ぐらい、紫の着物で朱色の冠をつけていますが、その有様はとても醜悪です。雷鳴のような車の響きを聞くと、頭を持ち上げて立ち上がるのです。珍しくこれを見た者はおそらく覇者になるでしょう」。
 桓公は嬉れしげに笑うと「これこそ私が見たものだ」といった。そこで服装を整えて告敖と座していたが、その日も暮れぬうちに病気は治っていた。

 

 

処世:山木篇 第二十 一

ある時、荘子が山の中を歩いていて、枝、葉が大そう茂った大木を見つけた。ところが木こりがそのそばで足を止めても、伐採しようとしない。そこで理由を尋ねると「使いようが無いのです」と答える。荘子はそこで「この木は無用のおかげで切られず、天寿を全うする事ができるのだ」とつぶやいた。
 山を出てから旧友の家に泊まったが、旧友は喜んで召使に鵞鳥を殺してもてなすように命じた。召使は「一羽はよく鳴きますが、もう一方は鳴く事ができません。どちらを殺しましょう」とたずねた。主人は「鳴かない方を殺せ」と答えた。
 あくる日、弟子が荘子に向ってたずねた「昨日は山中の木は、能無しの役立たずのおかげで天寿を全うする事ができましたが、ここでは鵞鳥は能無しのために殺されてしまいました。先生は有能と無能のどちらに身をおかれましょうか」。

 荘子はにっこり笑って答えた「私は有能と無能の中間に身を置こうと思う。だが有能と無能の中間と言うのは最善に見えてもそうでない。だから世間のわずらいからまだ抜け出せないのだ。
 ところが、真実の道とその徳(はたらき)に身を任せて、のびのびと自由に遊ぶ境地ともなると、これは違ってくる。もはや名誉とか非難といった世間的な評判から超越して、ある時は竜となって大空を駆け巡り、ある時は蛇となって地上を這い回り、時の推移とともに変化して一つの立場に執着した行動は取らない。
 ある時は高みに上り、ある時は低く身を沈め、調和そのものになりきって、万物の始原(道の世界)でのびのびと遊んでいる。外界の事物を事物とする主人の立場に身をおいて、外界の事物のためにふりまわされる一個の事物とはならないのだ。どうして世間のわずらいを受ける事があろうか。これこそ太古の聖王である神農や黄帝が模範とした事であった。
 ところがこの世の万物の有様と人間社会の移り行きはとなるとそうでない。会えば離れ、完成すれば壊れ、角だっては崩れ、高貴になっては害に会い、何事かしては危うくなり、賢者であれば謀略にかかり、愚者であれば騙される。どうして安定した立場が得られようか。悲しい事だ。弟子たちよ、覚えておくがよい。才能があるとか無いとか、どちらにしてもそこには安らかな境地は無い。ただ道徳の郷、真実の道とその徳(働き)が生きている世界だけがあるのだ」。

 

 

真理:徐無鬼篇 第二十四 十三

暖姝(けんしゅ)、軟弱で、こびへつらって自己の意見を持たず、他人の学説に同調するだけの者がいる。濡濡(じゅじゅ)、ぐずぐずためらって平安をむさぼる者がいる。巻婁(けんる)、事に縛られて動きの取れない者がいる。
 暖姝といわれる者は、一人の先生の言うことを
学び取ると、おとなしくそれに従って身を整え、それで自分ひとりで喜んで、すっかりそれに満足して喜んでいる。もともと物の存在しない究極の世界といったことには、全く気がつかない。そこで暖姝な者と言うのである。
 濡濡の者とは、豚に付いたしらみのようなものである。豚の粗く長い毛の間に住処を定め、自分でそれを広い御殿と考え、両股の間、ひずめの奥、股の肉、乳のあたり、四つ足の付け根といったところを、安全な居り場所と考えている。ところが屠殺者が突然腕に力をこめて豚を殺し、枯れ草に火をつけたとなると、自分も豚と一緒に焼かれてしまうのだということには気がつかない。これは進むも退くも決まった囲いの中だけにとらわれているのだ。これが濡濡の者である。
 巻婁の者とは舜のような人のことである。羊の肉は蟻を好むのでないが、蟻の方で羊の肉を慕ってやってくる。これは羊の肉が生臭いからだ。  舜の場合にも生臭い行いがあったから、民衆はそれを喜んで集まったのだ。だから三度住みか変えて、変えるたびに大きくなって都会になり、鄧(とう・町の名)の城跡に行ったときには、十余万戸にもなった。堯は舜が優れた人物であることを聞くと、これを不毛の土地の君主に取り立てて、「どうかこの荒地を豊かなものにしていただきたい」といった。舜はこうして不毛の土地の君主に抜擢されてからは、年老いて耳目も衰えるようになっても、引退して休息することが出来なかった。これがいわゆる巻婁の者である。
 こういうわけで神人は大衆が集まってくるのを嫌った。大衆が集まってくるとそれに愛情をかけたりせず、愛情をかけることがないと大衆の利益になることもないのである。そこで誰かを特に強く信愛するといったことをせず、また誰かを特に疎んずるといったこともせず、本来の徳性(もちまえ)を大切に守って自然のなごやかさを暖め、そのようにして世界のあるがままにしたがっていく、これを真人と言うのだ。

 蟻についていえば、羊の臭いをかぎ当てる知恵を捨て去り、魚についていえば豊かな溝の中で互いの存在を忘れるというあの教訓を学び取り、羊についていえば、そのにおいをふり巻いて蟻を集めるようなことをしない。目では目を注視し、耳では耳を聞き取って、心のはたらきもその心そのものに復帰する。このような人物は、その平常のあり方では墨縄を引いたように乱れがなく、変化するときには自然のままにしたがって無理がない。
 昔の真人は、自然のあり方を模範としてそれで人事を処理し、人間のさかしらを自然の境地に持ち込んだりしなかった。昔の真人は得ることが生で失うことが死であるとともに、また得ることが死で失うことが生でもあった。

 薬と言うものは、その実際はトリカブトであったり、キキョウであったり、ケイトウであったりイノコグサであったりする。これらはかわるがわる主要な働きをするもので、その種類はとても言い尽くせるものではない。越王の句践(こうせん)は三千の武士を引き連れて会稽山(かいけいざん)に立てこもったが、その敗亡が実は将来の興隆の原因ともなることを看破できたのはただ大夫の文種(ぶんしょう)だけだった。しかしその文種でさえ、自分の身がやがて殺される憂き目を見ることには気付かなかった。


(一部略)


 そこで足が地面を踏む場合、足が直接踏みつけている場所はほんのわずかであるのに、踏みつけていない他の地面の広い事を頼って、初めて安心して歩く事が出来るのである。これと同様に、人間の知識は極わずかなものではあるが、人間の知り合えない広い知識を頼る事によって、初めて天道の自然を知る事ができるのである。  大一を知り、大陰を知り、大目を知り、大均を知り、大信を知り、大定を知るものは最上の知に到達した者である。大一は万物に通じてこれを生み出し、大陰は一切の紛糾を解きほぐし、大目は宇宙を達観し、大均はそれぞれの本性に従って自得させ、大方はそれぞれの分に安んじる事を体得し、大信は自然の大道にいたり、大定はこれと一致して不動となるものである。
 人の知の尽きるところに天があり、この天道に従って行くときに人知は自然と明らかになるのである。暗くかすかで言葉を越えた自然の中にこそ万物を運行させる働きがあり、原始の状態においてすでに彼我の対立がある。

 このように考えれば、人知によって物の理を解したといっても、それは理解せぬと同じであり、人知によって知ったといっても実は知らないと同じである。自己の知を忘れて、不知の立場に至ってこそ真に知るという事になるのである。道は有限でもなければ、無限でもなく、有無の限界を超えたものである。
 全てのものは錯乱した状態にありながら、その中にはそれぞれの実理があり、それは古今を通じて変わらないものであり、それぞれ分を尽くして欠けることの無いものである。
 かく考えれば、天地には一大法則が行われているといわなければならない。人々は何故にこのことを問いただす事もせず、いたずらに惑っているのかであるか。上に述べた不惑の実理によってこの惑いの心を解きほぐし、不惑の境地に復帰したならば、一切の惑いを超越した最高の心経を得るに至るのであろうものを。

老子 (中公文庫)
中央公論社(1997/03)
値段:¥ 580


荘子 第1冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1)
荘子
岩波書店(1971/10)
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荘子 第2冊 外篇 (岩波文庫 青 206-2)
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岩波書店(1975/05/16)
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荘子 第3冊 外篇・雑篇 (岩波文庫 青 206-3)
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岩波書店(1982/11/16)
値段:¥ 798


荘子 第4冊 雑篇 (岩波文庫 青 206-4)
荘子
岩波書店(1983/02/16)
値段:¥ 882


 


 

 

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北海道・伊豆採集旅行

8/18-26まで、北海道と伊豆に細胞性粘菌を含む土壌の採集旅行に行ってきました。

 

最初に訪れた黒松内岳は、ウシアブTabanus trigonusに血を吸われたのち天候が悪化して風が吹きすさぶ上に頂上直前で道が崩れて無くなっていたので引き返しました。ただ頂上付近はサンプリングが可能な程の土壌が堆積していないので、目的は達成しました。帰りは親切な女性の方が黒松内駅まで車で送って下さいました。黒松内駅では地元の方が八甲田山死の彷徨の際にアイヌの捜索隊を率いた獣医・辨開凧次郎の話や昔の黒松内の栄えた様子などを1時間余りに渡って聞かせて下さいました。

 

天候が悪かったため黒松内岳の写真はありませんが、証拠に駅の写真を。

 

黒松内近辺は日本のブナFagus crenata林の北限です。

 

これが函館本線です。

 

二番目に訪れたアポイ岳は塩基性の橄欖岩由来の土壌の筈ですが、私が調べたところそれ程塩基性ではありませんでした。

 

ドウシンタケAmanita esculentaが生えています。

 

キホコリタケLycoperdon spadiceumもあります。

 

アポイ岳はガスに包まれていました。

 

祀られているのは天地開闢の高天原に最初に出現したと言われる造化三神です。

 

三番目は旭岳を訪れました。今からあの頂きに登ります。

 

旭岳はガスに包まれています。

 

御鉢平や熊ヶ岳近辺です。雪があります。

 

中岳や北鎮岳分岐は風上でガスの中、体が少し動かされる程度の風でしたが、風下の雲ノ平は打って変わって晴れでした。途中、黒松内で送って下さった親切な女性に偶然再会しました。

 

早朝の層雲峡。

 

四番目は雌阿寒岳で、晴れていたのですが、阿寒湖畔から登って剣ヶ峰近辺で体が動くほどの強風になり、下山時に後ろから押されると危ないので引き返しました。そこはもう土壌が採取出来る高度ではないので、目的は達しました。写真は剣ヶ峰。

 

 

伊豆で定点調査の後、26日はまず日本カメラ博物館の常設展と特別展『江戸から明治へ のぞきからくりの世界』を観に行きました。アンティークな造形美が面白いので東京の方は是非どうぞ。『ギャラリーフェイク』のサラが海に落としてしまった、光を遠くまで送るための研究の中で開発された世界初の万華鏡、ブリュースターの万華鏡もありました。また電池のいらないフルマニュアルの戦場カメラのようなASAHI PENTAX S3もありました。フェルメールのカメラ箱など面白いお土産も。

 

 

それから東京都千代田区隼町の国立劇場に全国高等学校総合文化祭優秀校東京公演を中高の旧友と観に行きました。足立ナンバーの車がいっぱいありました。あれだけ瑞々しい演劇はうすら汚れてしまった私たちの年代ではとても出来そうになく、刺激を受けました。まだ伸び白が多くあるのも魅力的でした。

 

遺伝研の駿河桜があるそうです。

 

このスズメPasser montanusはスモッグで汚れていますね。

 

 

 

植物は他にトドマツAbies sachalinensis、エゾアカマツPicea glehnii、ハイマツPinus pumila、ミズナラQuercus crispula、シラカンバBetula platyphylla var. japonica、ダケカンバBetula ermanii、ヤマモミジAcer amoenum var. matsumurae、ナナカマドSorbus commixta、コシアブラAcanthopanax sciadophylloides、アオハダIlex macropoda、アカシデCarpinus laxiflora、ハクウンボクStyrax obassia、ヤマウルシRhus trichocarpa、コマユミEuonymus alatus f. stiatus、オオカメノキViburnum furcatum、ミヤコザサSasa nipponica、チマキザサSasa palmata、ツルアジサイHydrangea petiolaris、シラネアオイGlaucidium palmatum、エゾカラマツThalictrum sachalinense、オオウバユリCardiocrinum cordatum var. glehnii、変形菌はホネホコリDiderma effusum、爬虫類はニホントカゲPlestiodon japonicusニホンマムシGloydius blomhoffii、鳥はホシガラスNucifraga caryocatactes、ゴジュウカラSitta europaea、ハシブトガラParus palustris、ヒガラParus ater、ヤマガラParus varius、ハクセキレイMotacilla alba、キセキレイMotacilla cinerea、アカゲラPicoides major、アオバトTreron sieboldii、キジバトStreptopelia orientalis、ミヤマカケスGarrulus glandariusbrandtii、ハシブトガラスCorvus macrorhynchos、オジロワシHaliaeetus albicilla、哺乳類はエゾシカCervus nippon yesoensis、キタキツネVulpes vulpes schrencki、ニホンイタチMustela itatsi、エゾシマリスTamias sibiricus lineatus、ジネズミCrocidura dsinezumiを確認しました。

 

 

 

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陰陽座

手塚治虫『奇子』をテーマにした妖し気な曲がありました。陰陽座さんの曲です。

 

陰陽座さんは山田風太郎『甲賀忍法帖』を原作にした漫画『バジリスク〜甲賀忍法帖〜』(第28回講談社漫画賞一般部門受賞)をさらに原作としたアニメの主題歌も歌っておられます。

 

この話は馬鹿が馬鹿なことをしていると有能な人が全滅して馬鹿が支配する世の中になるという、何の意味もないストーリーに思えるのですが、チーム対決のバトル物の漫画やアニメの始祖となったらしいです(1958年初出ですしね)。よく分かりませんが。「み〜ず〜!み〜ず〜!」とか叫んだり、最後は何故か盲目の人だらけになったりとかシリアスさが逆にコミカルに見える要素てんこ盛りでした。

 


百鬼繚乱
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臥龍點睛
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値段:¥ 3,000


 

 

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ヤマトシジミと内部被曝について

ネットでは福島のヤマトシジミの異常が放射線/放射性物質に依るものというニュースについて議論になっている。議論の様子を眺めていて私も何か発言した方が良いと思ったので、ここに書き記す。

 

論文の概要は、

 

原発事故後の福島のヤマトシジミには形態異常が多発し、それは子孫のF1/F2世代でさらに増えた。それは被曝とは関係のない沖縄のヤマトシジミの外部/内部被曝によっても再現された。

 

というものだ。この論文の問題点の一つは、多くの指摘のあるように形態異常はヤマトシジミという分布の北上している種の北限に近い場所の個体群の表現型の緯度勾配によるもので、放射線とは何ら関係ない可能性があるということだ。私もサンプリングポイントが原発の場所よりも北にはほとんどないことからこの可能性が正しいことは否定できない。ヤマトシジミ自体は青森県まで分布する種であるので、そこを含めたサンプリングも出来た筈なのは疑問に思う。そういった意味で、論文の「原発事故後の福島のヤマトシジミには形態異常が多発し、それは子孫のF1/F2世代でさらに増えた。」という記述を指すFig.1Fig. 2Fig. 3Fig. 4Fig. 5a, b, f, gTable 1はあまり気にしなくても良いだろう。

 

ところが、問題となるのが「それは被曝とは関係のない沖縄のヤマトシジミの外部/内部被曝によっても再現された。」という部分を示すFig. 5c, d, eである。この部分の実験は被曝と関係のない沖縄の個体群を被曝させて生存率や形態異常が出たというものであり、上記議論は充てはまらない。詳しく見ていくと、Fig. 5cの方は55-125 mSvという量の外部被曝をさせて生存率の低下を観たものだが、他のFig.の方で福島の外部被曝の率はμSv/hのオーダーであり、ヤマトシジミの世代時間が1ヶ月ほどであることを考慮すると福島での外部被曝の生涯積算量は1 mSvのオーダーであり、この実験のような高線量の被曝の実験は意味がないことになるので、Fig.5cも無視してよい。問題はFig. 5d, eで、これは沖縄のヤマトシジミに放射性物質の含まれた福島のカタバミの葉を食べさせて生存率の低下と形態異常の増加が観られることを示したもので、これは私には現時点では科学的な反論のしようがない。福島のカタバミの葉に生存率の低下や形態異常の増加を引き起こす放射性物質によらない何らかの化合物が含まれていたという議論も不可能ではないが、これは未知の物質が影響を及ぼしていないとは言い切れないという反証不可能な議論なので、科学的な反論ではない。このデータだけでは確定的とは考えられないが、そういった意味でヤマトシジミの内部被曝に関しては今後注意深く見守る必要はあるかも知れない。強いて言えば、沖縄のヤマトシジミの個体群に放射性物質の含まれた福島のカタバミの葉を食べさせた後のF1/F2世代に、今度は放射性物質の含まれない沖縄のカタバミの葉を食べさせ、生存率の低下と形態異常の増加がまだ観られるようなら、F0世代の内部被曝に依る突然変異の影響を観ている可能性がよりいっそう強まっただろう。ショウジョウバエよりも放射線感受性が1001000倍高い筈がないというのは、放射線感受性というものはDNA修復遺伝子の単一の変異でその程度は容易に変わるので、系統が違うのだから反論として成り立たない。また内部被曝に関しては放射能が外部被曝より桁違いに少なくても致死的にはなりうることにも注意されたい。

 

ただ福島の方々に安心して頂きたいことは、これはヒトよりも放射線感受性が10倍程度高い(はずの)ヤマトシジミでの話で、内部被曝に影響のある生理・生態的機構もヒトとヤマトシジミではかなり異なることが予測されるので、この結果が直ちに人間における懸念材料とはならないことだ。しかし注意しておきたいのは内部被曝の正確な定量を根気強く行っている方々がおられるように、ヒトの内部被曝のモニタリングは今後も執念深く行っていかなければならないだろう。何かがあってからではおそすぎると思う。

 

この議題を論じているサイエンティストの方々には、この論文において放射線と表現型を繋ぐ核となるデータがFig.5c, d, eにあるのにそれを見落としていたり、またサイエンスの議論とは関係のない著者の過去の業績や社会活動などに関する疑問を一緒くたにして論じるのは何とも頂けないと申し上げておきます。

 

 

 

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奇子(あやこ)

素晴らしい作品に出会った。

 

手塚治虫『奇子』という作品だ。

 

安っぽいヒーロー譚の否定という点では手塚治虫の代表作の『アドルフに告ぐ』に通ずるものがあるが、この漫画では『アドルフに告ぐ』のような道化師・峠草平の語る一連のアドルフの人生の顛末という形ではなく、奇子の「生命力」に焦点が合っている。ストーリーは

 

昭和24年、戦争から復員した天外仁朗はGHQスパイになっていた。ある時、命令で共産主義者の男の殺人(通称淀山事件)に関与する。その男は、自分の妹の天外志子の恋人であった。

さらに事件関与後、血のついたシャツを仁朗が洗っているとき、知的障害者の少女・お涼と、自分の父親と兄の嫁との間にできた少女奇子がそれを見てしまう。仁朗はお涼を口封じのため殺し逃亡する。奇子は一族の体面のために肺炎で死亡したことにされ、天外家の土蔵の地下室に幽閉されたまま育てられるがWikipediaより)

 

というもので、およそ爽やかさというものとは縁の薄い(だが仁朗の弟・伺朗や仁朗を執念深く追う警部・下田の息子の波奈夫などにその一環は見え隠れする)ストーリーだが、普通の少年漫画なら当然主人公になるキャラクターの利発的な少年・伺朗が天外家の裏事情を知り、近親相姦などを通して表面上はまだ「まとも」ながらダークサイドに落ちていき、最期は自分で天外家の罪悪に終止符を打とうとするところまで辿り着いてしまう。波奈夫は同情からの愛情を愛情だと思ってしまうあどけなさを持ち、最期まで正義感を失わないが、彼のストーリーは呆気なく終わってしまう。伺朗の台詞、

 

おれはね…………

じぶんでつくづく思うよ

おれはこの家がごみためだとね

この家がたれ流した汚物はおれがぜんぶおっかぶってのみこんでた

仁朗兄貴がね あの事件で雲隠れしたとき おれは警察へ行ったんだ

だが途中でおれは一切をやめた

奇子のことも世間へ訴えようと何度思ったか知れんよ

だがよ それも結局やめた

なしてかわかるか?

おれはヒロイズムに酔ってたんだ 安っぽいヒロイズムにね

にいさん おれはガキの頃よく極東裁判のまねをやったこと覚えてるかい?

「人道に対する罪」 たしか戦犯にそういう罪状があったっけな

なにが人道だよ 裁く方にそいつがあるというのかよ…………

あれから何年もたって極東裁判が勝った側のご都合裁判てえことがわかってきとる

正義てのはなにを基準にしていうんだい?

罪とはなんだべ? それを裁くのはいったいどこの誰ならええ?

兄貴がすえ義姉さんになにをしだか…………

それについてとやかくおれがいう権利があるのか?

おれは奇子を犯しつづけるぜ 結婚したってかまわん

 

にこのストーリーのエッセンスが凝縮されている。私は少ない情報を元に自分で妄想した正義感を振りかざしてそれで相手に干渉するような行為はしないものだということを『アドルフに告ぐ』を含め幾つかの作品から感じ取っているが、ここに『奇子』もその列に加わった。私はキリスト教徒ではないが、キリスト教には「人を裁くな」という、四福音書のうち3つ、マタイ715節、マルコ42425節、ルカ63742節に記述されている教義があり、それはおおよそこのことだと思う。

 

殺人、二十三年に渡る幽閉とそこからの更生や近親相姦、二十四年に渡る刑事ドラマや暗殺事件の黒幕などの伏線の全てがラストで一気に掻き消え、残るのはある種の不気味さを讃えた微笑みの中に宿る奇子の「生命力」と、最後の2ページで明らかになる本当に強くまともであった人の現出など、最初から最後まで一気に駆け抜けて読むことが出来た。手塚治虫を超える漫画家はまだ日本には現れていないが、この漫画でもその天才ぶりの一端が伺えた。出来ればこのレベルの衝撃を与える漫画・アニメをクリエーターの方々には目指して欲しい。映画・演劇的な表現手法が随所に見られるのも手塚作品ならではの常套手段であった。年齢を重ねた志子の体格の変貌ぶりは少しコメディがかっていた。


 


 

 

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太陽、ギャラリーフェイク

緑に包まれた天城峠(7/29)。

 

昨日、アレクサンドル・ソクーロフ監督『太陽』という映画を観ました。終戦直前から人間宣言に至るまでの昭和天皇の苦悩を描いた作品です。ソクーロフ監督独特のコミカル・シリアス・ペーソスの手法は高く評価出来る作品だと思います。史実との接点で考えると、『天皇』は絶対君主だったという欧米人の誤解を解く意義はあると思いますし、歴史学で学位を取っているソクーロフ監督ならではのことだと思います。ただ、天皇と日本人の考える「神」との関係という、「人間宣言」に関わる部分では史実と異なる部分もあり、誤解を生むものだと思いました。日本人と欧米人との文化的ギャップはなかなか大きいものがあると思います。

 

昭和天皇役はイッセー尾形さん、侍従長の藤田尚徳役は佐野史郎さんという癖者役者の配役でした。物語の冒頭では、終戦間際での閣僚との協議と海洋生物学の研究とが同じ日に行われ、事実かどうかは分かりませんが、現人神としての昭和天皇が何時如何なるときでも文化的な研究のことを忘れていなかった描写があります。ヘイケガニについて嬉々として語り、マッカーサーにもナマズの話をして途中で会話を切り上げられるなどの描写がコミカルさとシュールさを表す一方、マッカーサー側には「このような人物が悲惨な戦争を引き起こす張本人である筈がない」という考えを抱かせます。「君の友人のヒトラー」と問うマッカーサーに対し、「そんな人には会ったこともない」と返し、「日本が戦争に勝つ見込みは50/100、ドイツが勝つ見込みは100/100だった」というドイツ側からみたドイツとの同盟に対する見解を披露することも、マッカーサーの考え方を変えていくことになります。閣僚も含めて周囲に対する抽象的な発言なども天皇が立憲君主であり、象徴天皇制となる現行憲法の以前でも、立法権・解散権・統帥権を持ちながら実際の政治にはあまり口出しをしなかった(昭和天皇は事実、二・二六事件と終戦時にしか政治介入はしなかったと繰り返し述べておられます)天皇の役割が現れ、 “Emperor” という権力を独占したローマ皇帝の流れをくむヨーロッパの皇帝ではなく、平安時代の頃から実際の政治を担う摂関家・院政・幕府・内閣とは異なりどこか象徴的な存在だった「天皇」という存在を現しています。日本側からもアメリカ側からもマッカーサーを含めた多くの人物に覗き見をされるという、まさに日本人の象徴を体現している描写がありました。日本側では天皇が一番人間としての機微に富んでいるように描かれていたのも印象的でした。ダーウィンやリンカーンやナポレオンの胸像が一種の皮肉として置かれているのは日本人として異議がある方もおられると思いますが。

 

ただ、映画の中で一番引っかかるのは、ラストで人間宣言を録音した技師が自決したと聞かされ、侍従長の藤田尚徳もそれを止めなかったと言ったあとにショックを受けた昭和天皇を皇后が急いで子供たちの所へ連れて行くシーンです。これは完全にフィクションで、「昭和天皇」からインスパイアされた架空の物語としては、この終わり方は映画的に面白いものです。ただ、史実との兼ね合いで考えると、当時の日本人は皆、(神の子孫であるかどうかはともかく)天皇が人間であると考えていました。「現人神」での「神」の概念はそもそもユダヤ教・キリスト教・イスラム教に見られるような全知全能の神ではなく、様々な側面があります。もともと日本の神には、自然物や自然現象、思考、災いを神格化したSF(すこし・ふしぎ)的な神、古代の指導者・有力者を神格化した神、万物の創造主としての神、全能の天皇、王権神授説における天皇などの概念があります。このうち欧米での “God”に相当するのは万物の創造主としての神のみで、全能の天皇もそれに近いものがありますが、当時でもそう考えていたのは一部の人のみでした。天皇の「人間宣言」というものは欧米からは日本の異常な宗教心が終焉を告げたと歓迎されていますが、それはGHQ指導の元で海外からの天皇制への警戒心を和らげる意味はあったものの、国内では特別ニュースにもなることではありませんでした。侍従長の藤田尚徳は昭和天皇が天皇の神格化を嫌っていたことを証言した人物であり、人間宣言の録音技師の自決を止めない筈がないのです。つまりこの映画では“Emperor” と「天皇」の違いは描かれていますが、 “God” と「天皇」の違いはあやふやなままなのです。私は「天皇」は英語でも “Ten-no”、神道の「神」は英語でも “Kami” のままの方が良いと思っています。西洋文化と日本文化の違いをいろいろな意味で教えてくれる作品でした。

 

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細野不二彦さんの漫画に『ギャラリーフェイク』という作品があります。

 

表向きは贋作レプリカ専門のアートギャラリー『ギャラリーフェイク』を舞台に、オーナー藤田玲司が、様々な登場人物と様々な美術品を通じて、時に世界を駆け巡り、「美とは何か?」を追い求める。主人公は単なる守銭奴・単なるビジネスではなく、アートへの奉仕者、美の探求者として清濁併せ呑む人物として描かれている。美術・芸術・骨董・その背景となる歴史等の多分野に渡る薀蓄的描写がある。(Wikipediaより)

 

という作品です。連載はビッグコミックスピリッツで1992年より2005年まで不定期にされていました。不定期連載であったため毎回内容構成がよく出来た作品でした。アニメでも2005年に放映されましたが、漫画版の最終回を初めアニメ化されていないストーリーや準レギュラーたち、フジタのボロアパートの錚々たる住人など漫画版でしか楽しめない要素がたくさんあります。小学生頃より海外在住時までスピリッツを愛読していた私は中学一年生から大学院博士課程まで、この漫画の連載とともに思春期・青春時代を過ごしました。今となっては何故だか忘れてしまいましたが大学の学部生のクラス名簿に「ギャラリーフェイクのフジタが僕の理想」と書いて、METの元キュレーターという真似出来そうもない部分は似ずに如何わしい経歴だけは似ることになったのはありがちなことだと思います。フジタのように状況に合わせて本物を偽物とし偽物を本物としたり、体力が全くなかったりするのは私とは似ていないのですが、自分の信念を貫く姿勢に感じ入ったのが名簿の件の理由かも知れません。私はこのストーリーにもあるように、自分の仕事に誇りを持って打ち込んでいる人ほど代え難く美しい者はいないということ、また上杉謙信の辞世にもあるように『四十九年一睡夢一期栄華一杯酒』(豊臣秀吉の辞世にも似ています)をモットーの一部としていきたいと思います。

 

太陽 [DVD]
クロックワークス(2007/03/23)
値段:¥ 4,935


ギャラリーフェイク 全23巻セット (小学館文庫)
細野 不二彦
小学館(2011/03/01)
値段:¥ 14,291


 

 

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時空と情報を巡る旅の始まり

6/24に『ダークナイト』の映画をDVDで観たのだが、たまたま同じ日に地上波TVでも『ダークナイト』が放映されていたらしい。ブログをupしたら、ネット上で何故か『ダークナイト』の話題が多かったので調べたら判明したものだ。私は何も意識していなかったのだが、こういうことを言うと直ぐに「シンクロニシティ」だと言う人がいる。7/1には『ヒックとドラゴン』のDVDを観たのだが、7/4にはヒッグス粒子と見られる新粒子の発見の報告があった。ヒックとヒッグスともなるとかなり苦しくなる。しかも邦訳では何故か「ヒック」になっているが、主人公の名前はHiccupなのでカタカナ英語ならヒカップだ。相当に苦しくなってくるので、単なるジョークにしかならない。これも私がヒッグスに関する会見があるのを認識したのが7/2のアメリカのグループの発表の後だったので、意識していた訳ではない。

 

前述のWikipediaのページを見てもらえれば分かるが、シンクロニシティと同様の現象は従来知られていた物理学的な意味での「因果性」と同じ原理でも説明可能なので、ジョーク以外で取り上げる必要もない概念だ。「従来知られていた因果性とは異なる原理」という表現がこの概念をオカルト的なものにしている。『ヒックとドラゴン』では、Hiccupという観察・実験心に溢れた少年がドラゴンという恐ろしい?生き物の生態を人間側からの思い込みでなくその本質を実証的に解明していく。昨年観た『魔法使いの弟子』というおバカ映画とは設定が似ていなくもないが、こちらの方が子供にも分かる上に社会性のある良いストーリーになっている。HiccupToothlessというドラゴンの尾の羽を片方失わさせてしまったのだが、最後に自分も片足を失うことになるのもなかなか考えさせる。ドラゴンの動きが生き生きとしていて、子供から大人まで楽しめる映画だ。共時性に捉われるあまり無理してまでもわざわざ同じ時間に何かを行おうとする本末転倒なことをする人々には、思い込みによるオカルト的な行動でなく「観察・実験」による本質の把握が大事だということをこの映画で知って欲しい。

 

ヒッグス粒子はヒッグス場により素粒子に質量を与えるとされる。自然界の4つの力のうち、電磁気力と弱い力、強い力を含んだ標準模型の中で理論的に重要な概念だ。今回確認された新粒子がヒッグス粒子であれば、理論の妥当性の検証や新規知見などが得られるだろう。標準模型では電磁気力と弱い力は統一的に説明出来るが、まだ強い力を統一的に説明出来ていないので超対称性粒子の探索による超対称性大統一理論の検証など、まだ分からないことはたくさんある。さらに重力も統一的に説明するとなると、超弦理論など未完成の仮想的な理論などが検討中である。私は物理学については大学教養程度の初歩的な力学・電磁気学・量子力学・統計力学・特殊相対論までしか把握していない。従って原子核物理学・素粒子物理学・場の理論・一般相対論などはbeyond the recognitionである。ただこうした分野の物理学を知ることは、時空と情報との直感を越えた不思議な関係を理解できることに繋がる気がして、死ぬまでに少し理解出来たらいいというつもりでたまに細々と勉強をしている。

 

最近大栗博司先生の『重力とは何か』(幻冬舎新書)という本を読んだのだが、そこでは重力について直感的に分かりやすい形で説明されていた。大栗先生は今まで講義を拝聴した物理学者の方の中では比較的分かりやすい説明をされる方だと思うので、この本の書き方には感銘を受けた。例えば一般相対論における空間の欠損角の考え方は(勿論数式を理解しなければ本質は理解出来ないが)直感的には非常に分かりやすく、欠損角がなければ真っすぐに進む物質の軌跡が重力の存在下で歪むことも直ぐに理解出来る。空間と重力との関係がそれぞれ独立したものではないことが分かるのである。時間と空間との不思議な関係は特殊相対論で何となくイメージ出来るが、空間と情報との不思議な関係はこの説明でも何となく分かる。本質的な理解に至る道はまだまだ長いが、オカルト的な解釈でなく基礎からしっかり勉強することが軋轢を生まないためには遠回りのように見えて実は近道だと信じる今日この頃である。

 

ヒックとドラゴン スペシャル・エディション [DVD]
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン(2011/07/22)
値段:¥ 1,890



 

 


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伊豆の民話、ダークナイト

先週末は伊豆の定点調査だった。天気が悪くなるとの予報で、実際に土曜は徳島ほどではないにしろ小雨が降っていて、土や岩が泥濘み鷲頭山はロープでバランスを取りながら登り下りしないと非常に危なく、ロープが設置されている意味が初めて分かった。日曜の天城でも午前中は雨がパラつき、旧天城峠では風がゴオゴオ吹いていた。ところが昼前に三蓋山に来ると晴れ間が射すようになり、二時間弱ほどの間に風が湿気を飛ばしてすっかり乾燥してしまい、アズマヒキガエルBufo japonicus formosusやツチガエルRana rugosa、カタツムリたちの世界から乾いた森へとの変貌を細胞性粘菌の増殖のスケールよりずっと短い時間で体感できた。このような激しい環境の変化に、細胞性粘菌がどのように適応しているのかは興味のあるところである。昔の人は火・水・土・風を四元素としたが、そういう信仰が生まれるのも納得の行く環境の移り変わりの神秘的受容に関して身を持って知ることができた。

 

移動の車中では『伊豆の民話』(未來社)を読んだ。昔からの言い伝えはどこまでが事実を反映していてどこからが虚構なのかが分かりづらいところもあるが、土地の名前の由来など面白い逸話がふんだんで、後世に是非残してもらいたいものだ。1957年に初版のものがオンデマンドで出版されたものだったが、こういう本を電子版としても保存し、また店頭に並べていたジュンク堂新宿店(もう閉店してしまったが)のような本屋は息の長い経営をして欲しい。

 

民話はコメディから悲劇、歴史的なものから温かみのある話、ホラーまでジャンルも多々である。伊豆の国焼きの話は実際の地質学的な歴史を反映しているように読める。応神天皇の御代の頃の枯野船の話は、船原という地名の由来となり、船自体は各国に下賜した塩を作る薪となって各国から朝廷に貢納した船の由来となり、それらの船が新羅の船の火事で焼失した見返りに新羅の造船技術の渡来の由来となったという壮大な話もある。河鹿の屏風の話は河鹿沢の由来、日金山地獄には豊臣秀吉の小田原征伐の際に『のぼうの城』で有名な成田長親などとともに城攻めを持ちこたえた数少ない部将の一人、北条氏規なども登場する。こういう物語のアーカイブは思想や歴史、文学、地域文化としての価値も高いと思うので細々とでもいいので是非伝えて行って欲しい。

 

話題になっていた『ダークナイト』というバットマンの映画をDVDで観たが、バットマンの模倣者だらけというシュールでコミカルな情景、放射線で札束の行方をトレースするという原理的にあり得ないことや飛行機で隠密行動など事実上不可能なことなどエンターテインメント的な面白さも時折含めながら、ヒーローとしての立場からだんだん悪に染まって行くトゥーフェイスことハーヴェイ・デントの変節など、これが遺作となった支配に対するアンチテーゼ、ジョーカー役のヒース・レジャーの名演とともによく出来た映画だった。レイチェルの“If you lose your faith in me, please keep your faith in people.” という言葉がハーヴェイ・デントの`Two-Face’ という役割と音韻上も意味上もリンクしていて面白い。

 

伊豆の民話 (日本の民話 (4))
岸 なみ
未来社(2006/07)
値段:¥ 3,780


ダークナイト [DVD]
ワーナー・ホーム・ビデオ(2010/04/21)
値段:¥ 1,500


 

 

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徳島赴任、chromothripsis、芸術の勝利

本日2回目の投稿です。

 

201261日より徳島大学に助教として赴任した。国立遺伝学研究所のラボの徳島大学への移転に伴うもので、特に業績をあげた訳ではないので変わらず弛まぬ努力を続けなければならない。特に記す感慨はない。

 

最近、 “chromothripsis” という現象が染色体の研究分野で頻繁に取り上げられている。近年のゲノムの解読速度の目覚ましい向上により、ヒトの細胞でストレスに晒された細胞や生殖細胞、ガン細胞などで染色体自身がバラバラになり、ランダムに繋ぎ合わさるという現象の存在が確実視されるようになってきたのである。これはゲノムに変異を入れるという意味で、突然変異率の高いガン細胞には有利に働くと考えられる。DNAは確固たるものでその構造が頻繁に変わるものではないことはバーバラ・マクリントックによるトランスポゾン(転移因子)の発見により否定された。近年ではさらに進んでゲノム構造の再編成自体は珍しい物でも何でもなく、ヒトの体内でも頻繁に起こることが示されてきた。種が違うとその間でゲノム再編が観られる(ただし、ゲノム再編自体が種の分化の原因かどうかは分からない)ことは元々分かっていたが、それも “chromothripsis” という現象の存在によりごく自然に理解出来ることとなった。さらに分配の遅延した染色体の出現や小核形成と染色体の断片化など “chromothripsis” でも生殖隔離と似たような現象が起こっていることは興味深い。個体内でのガン細胞の出現というのは生態系のバランスを崩すような生物種の増殖と生物の階層を越えた類似性があるので、それは当たり前のことである。興味のある方はPubMedで “chromothripsis” を検索して頂きたい。恐ろしいほどの業績が上がっていることがお分かりになると思う。ガンと同じくp53が種を守るガーディアンである可能性まである。

 

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610日は梅田ガーデンシネマまでアレクサンドル・ソクーロフ監督『ファウスト』を観に行った。観客層の年齢はかなり高めだった。ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を穫ったらしいが、一言で言って「芸術の勝利」といった感じである。原案は勿論ゲーテ『ファウスト』で、ストーリーラインは基本的には『ファウスト』第一部のものを踏襲しているが、戯曲を読んだだけでは味わえない近代ドイツの土色の雑踏の喧噪の中から浮き上がってくるストーリー、屢々揺れたり傾いたり歪曲したりするカメラワークが突如安定したカメラワークに戻り、喧噪も止むことで夢か現か分からない状態から覚醒した状態に戻ることを表したりして、終始映像美を堪能することが出来た。原作とは異なりコメディともトラジェディーともとれるこの作品には、最初のグロテスクな解剖のシーンから段々と奇妙な現象が紛れ込み、魑魅魍魎が歩き出すところに至るまで飽きずに惹付けられるものがあった。最後に自然の中の山並みに去って行くファウスト、メフィストフェレスの代わりのマウリツィウスの「山頂に行けば野ばらが揺れる。登山の苦労も報われる」という預言の示すところがファウストの行く道を照らしている。

 

「私の胸に宿る神は、心をかき乱す。力の及ばぬ存在だ。だが外界には何もしない」というファウストの言葉や、「善は存在しなくとも、悪は存在するんです」というファウストの弟子のワーグナーの言葉、「私は構いません。夢見てるんです。私が焼かれる日を。全ての人間が火あぶりになる日をね。性別も年齢も階級も関係ない。みんな平等にね。それが同権です」「生まれずに済むなんて死ねることより幸運だ」というマウリツィウスの言葉には突き刺さるものがある。

 

ファウストの「善い人間とは、暗い衝動に動かされようとも、正しい道を知っている人間だ。耐えろ、しのげ、我慢しろ。永遠に繰り返される歌だ。ずっと続く。永遠に続く、繰り返されるのだ。永遠の歌…」という言葉は、元々は原作のテーマの「絶えず努め励むものをわれらは救うことができる」からの派生でしょうが、修羅道(六道(仏教で言う心の状態)の一つで、常に戦い、争う心意気にある状態。阿修羅(アスラ、アフラ・マズダー)が主。)に堕ちることを分かって戦を続けた日本の武士たちの生き様にも似ている。ただし日本の修羅道の場合には「救い」はないことにも注意されたい。「救い」がないのを分かっていて武士道を貫くのが修羅道である。能楽の主要なテーマの一つである。10日の大河ドラマで信西も武士の道とは修羅の道であることを仄めかしていた。

 

ファウストとマルガレーテの会話、「学問は何のため?」「空しさを埋めるものです。あなたも刺繍をするでしょ。」「ええ、します」「学問は刺繍と同じ。壮大なものが好きです。地球は狭すぎる。人は変えられません」という言葉にも頷ける。「虚しさ」ではなく「空しさ」なのがポイントだ。

 

 

『ファウスト』を観る前日にはDVDで鈴木清順監督『夢二』(画家・詩人の竹久夢二が題材)を観たが、これも大正ロマンとモダンアートのセンスに溢れる日本版「芸術の勝利」だ。私は映画もあまりよく知らないのでこれからも幾らでも名画が観られそうな気がする。大正の和洋折衷の環境の中に、夢と現の境界が曖昧になって非現実的だが美しい彩りの映像美術が駆け抜ける。大衆の中に埋もれる夢二だらけ、結局「夢二」は何を求めていたのか、という問いかけがテーマになってくる。

 

その前の週はラース・フォン・トリアー監督『マンダレイ』を観たが、『ドッグヴィル』に引き続き演劇的に抽象化された映画の世界に、奴隷制の齎したものと古き「良き」アメリカ的正義感との齟齬が浮き出ていた。

 

 

以下、ゲーテ『ファウスト』の前戯からー

 

では、その結構な力をつかって詩人商売をおやりなさいな、ちょうど恋の冒険をやるような工合にね。偶然に落合って、なにやらを感じて、立ちどまる。だんだんとお互にからんでくる、嬉しさが昂じてきたころ、邪魔がはいる、有頂天になっていると、悩みが生じる、ほら、いつのまにか、ちゃんと一篇の小説だ。こんな芝居を一つ出そうじゃありませんか。なにしろ充実した人間生活に手を突っ込みなさい、誰でもそれを経験していながら、ただ無意識なんです、そいつを摑まえさえすれば、面白いものができますよ。雑然たる絵のなかに、ちょいとはっきりした所を入れ、間違いだらけのなかに、一点真理の光を点じる、そうすると最上のお酒が醸されて、それが全世界の人を元気づけ、啓発するのです。そこで選りぬきのすぐれた若者があなたの芝居に集まり、その啓示につつしんで耳をかたむけます。そしてデリケートな心がらのものは、あなたの作品から、メランコリックな養分を吸いとります。やがてこの気持ち、あの気持ちがそそりたてられて、銘々が自分の心にもっているものを見出すってわけです。若い人たちはまだ泣くことも笑うこともできます。感情の飛躍を貴び、色や形の世界もよろこべるんです。できあがった人間は、なにを与えても満足しないが、できかかっている人間は、いつも有難がって頂戴するもんですよ。

 

最近の映画鑑賞は正にこれを実感した至上の時だった。

 

 

お終いにはこの前、東京のセザンヌ展と大エルミタージュ美術館展で観た絵からの抜粋

 

坐る農夫。観る角度により陰影が異なるのをお見せできないのが残念。

 

外から見た鍛冶屋の光景

 

死の天使

 

夢二 デラックス版 [DVD]
ジェネオン エンタテインメント(2007/03/21)
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マンダレイ デラックス版 [DVD]
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値段:¥ 3,990

ファウスト〈第一部〉 (岩波文庫)
ゲーテ
岩波書店(1958/03/05)
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ファウスト〈第二部〉 (岩波文庫)
ゲーテ
岩波書店(1958/03/25)
値段:¥ 1,008




 

 

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能とファンタジーに思う

本日3回目の投稿で、ゴールデンウィークではこれが最後の投稿になる。4/22は国立能楽堂に橘香会を観に行った。演目は仕舞『養老』、舞囃子『桜川』、仕舞『二人静』『駒之段』『枕之段』、能『隅田川』、仕舞『老松』『井筒』『鐘之段』、狂言『入間川』、能『望月』と豪華なラインナップだった。

 

仕舞『養老』は脇能物で、所の者が養老の水を飲みに来て若返る下りだ。目出度さを象徴しているが、まだ幼い梅若万佐志さんが舞っていた。これからの期待の星なのだろう。『二人静』は鬘物で、吉野の菜摘女が舞うと静の霊自身も側に寄り添って義経を慕って舞うというある意味ホラーな要素を含む舞だが、シテの静とシテヅレの菜摘女がピッタリと息を合わせて同時に舞わなければならない、かなり難しい曲だ。『駒之段』は雑物『小督』からで、清盛の権勢を恐れた小督の局を仲國が連れ戻そうとするもので、小督の局の揺れ動く感情を仲國の舞が現すという一風変わった舞が特徴だ。『枕之段』は雑物『葵上』からで、『源氏物語』で葵の上に取り憑いた六条御息所の回心が描かれる。『老松』は脇能物で、菅原道真の詠んだ梅に続き、松も都から筑紫まで飛んで来たが、この松の精が泰平の御代を祝して舞う物だ。

 

『井筒』は鬘物で、在原業平を恋い慕う「井筒の女」紀有常の女が、たとえ男が浮気をしても女は男のことを変わらず思い続けるというもので、今の世の間隔からは少しずれた曲だ。「明くれば古寺の松風や芭蕉葉の夢も、破れて覚めにけり夢は破れ明けにけり」という最後の下りの、夢が破れて破れた葉が眼に入ってくる表現などは粋だ。『鐘之段』は雑物の『三井寺』からで、子供を捜す母が夢のお告げを受けた後、三井寺の鐘を打って子供に巡り会う話だ。鐘を打ったことを咎めた三井寺の住僧と母親の仏教問答が面白い。狂言『入間川』は大名が帰国の際、周囲が止めるのも聞かず入間川を渡ろうとして深みに嵌るが、それは入間では逆さ言葉を使う風習があるのを知っていて渡ってもいいと判断したためだと言い訳をすることから巻き起こるドタバタ劇だ。最後の方は逆さ言葉なのか何なのかよく分からなくなるコメディで、野村萬斎さんの演技が堪能できた。

 

舞囃子『桜川』は雑物で、自分を身売りして母を助けた子供を捜す狂女となった母が、桜川で我が子を思い出す最中、遂に再会を果たすものだ。川に落ちた桜の花びらを掬うシーンが見所だ。『桜川』と対照的なのが雑物の能『隅田川』だ。こちらも狂女となった母が我が子を捜すが、子供が亡くなったことを知ってハレの狂乱からケの悲哀の情へと立ち居振る舞いも移り変わる。母親は在原業平の歌を引いて我が子への想いを語るなど教養のある人物で、念仏により我が子の姿が垣間見えるようになるが、それを抱きしめることも叶わず雲散霧消してしまうところが見所だ。『桜川』とは違って救いようのない結末が物悲しくて良い。

 

能『望月』は雑物で、敵討ちがテーマの古いタイプの話だ。主君を討たれた家人の経営する宿に主君の未亡人と遺児、それに敵がともに泊まったことから敵討ちの算段になる。未亡人の曽我兄弟の謡、遺児の羯鼓、シテの獅子舞が中心のエンターテインメントとなっている。

 

***

 

能に関する思想について少し述べてみる。

 

禅などの大乗仏教の根本原理としてある「現在実有・過未無体」ということが能というものには元々根底にある。これはつまり、「すべては現在においてとらえられるとき、ほんとうに存在できるのであり、現在から切り離された過去や未来は仮に想定された存在にすぎない」ということである。これに類似した量子力学の観測者的な思想はカントやサルトルなども持っているし、アンチテーゼとしては先ほどのやなぎみわさんが芸術として提出している。

世阿弥の『至花道』には「皮・肉・骨」という概念が出てくる。皮とは観客の眼に映る演技のこと、肉とは演じあらわすプロセスのこと、骨とはそのプロセスの生まれてくる心の深層である。これは能に限らず全ての演劇の演出には必須の要素で、演出上はまず骨を議論し、肉のアイデアを出してから実際に役者に演じてもらう具体的行動は皮となる。それは中学や高校の演劇でも同じである。これら三つを体現した役者は、演出としての役割も兼ね備えていることになる。これは以前述べた「近景・中景・遠景」の演劇思想にも似ている。

能には「序・破・急」があるのは多くの人が知っていると思うが、『花習』『花鏡』に依れば五番立のうち最初の脇能物と修羅物が「序」、鬘物と雑物が「破」、切能物が「急」になるのが基本らしい(ただし、時と場合によってはこの限りではなく、観客との相互作用で判断する)。「序」は基本で、脇能物のように手の込んだ技巧なしに祝言など自然の通りに整理された歌と舞があるとその世界にすっと入って行ける。修羅物は少し技巧が入るが典拠がはっきりしていて皆のコンセンサスを取りやすいので、次に入れると良いのだろう。「破」は細かな道筋へと進めて行く段階で、鬘物のような劇的な女舞やその場その場に合わせて演目を選んだ種々雑多な雑物が良いのだろう。「急」は総括なので切能物のような鬼や精の出てくるもので当日のテーマを隠喩させるのが良いのだろう。「序・破・急」は演目に限らず、能の表現方法全てにおいて内包されている考えである。

 

能では「序・破・急」が入れ子になっているが、入れ子構造は何も能に限った訳ではない。最近C.S.ルイス原作『ナルニア国物語』第二作『カスピアン王子のつのぶえ』と第三作『朝びらき丸東の海へ』の映画をDVDで観た。ここでは現実世界と平行して存在するナルニアの世界に迷い込んだ少年少女の冒険が描かれている。ただし時間スケールはナルニアの創世に立ち会ったポリーとディゴリーの現実世界での人生とだいたいリンクするかたちで、ナルニアは創世から消滅までの時代を突き抜けて行く。つまりナルニアが小宇宙、現実世界が中宇宙、アスランは大宇宙に居るのである。これは錬金術的でも仏教的でもあって面白い。

 

ナルニアというのは別世界ではあるが、少年少女たちが英雄となれる現実世界の下層構造となっているのである。ナルニア国物語では少年少女が英雄なのはナルニアの中だけでの話で、現実では庶民であることをきちんと描いているのは微笑ましい。年をとると言うことが変わるのかも知れないが、私は「自分はこんな扱いを受けてもいいような人物ではない」ということを自分で言い出したらおしまいだと思っている。映画でもハリポタのようないわゆる美少年美少女をキャストに選ぶのではなく、普通の少年少女が配役されているのは流石だと思った。また、小説では登場する少年少女が少しずつ世代交代して話が継承されていく様子も良く出来ている。いつまでも居座ってどんどん強くなるのではなく、バトンタッチが重要なのである。個人の価値、テンプテーションへの対処や思念の実体化の話などエッセンスはいくらでもある。

 

日本ではキリスト教的要素が入ってくるのは頂けないという人が多いが、私は結構いいことが描かれているし、小説を最初に手に取って読んだ24年前に比べれば、当時は気づかなかった新しい発見がいろいろあるので、良い小説としての条件は整っていると思う。映画はディーテールでは小説には及ばないが、映画の時間尺度でそこまで表現するのは極めて困難であるし、エッセンスと話の流れを掴むだけなら映画でも十分だと思う。そう思うと『指輪物語』をエンターテインメントとして仕上げた『ロード・オブ・ザ・リング』のスタッフは優れていたと思う。

 

『ナルニア国物語』は現実世界での小さな継承と仮想世界での大きな継承によるクロニクルであることが前面に出ているが、それが潜在化しているのが『指輪物語』の方だ。こちらは物語に現れる指輪戦争の背景として膨大な資料があり、その一部は追補編として出版されているが、大部分は作者のJ.R.R.トールキンはそもそも公開することを考えずに眠らされていたものだった。顕在化するクロニクルと潜在化するクロニクルがここにはある。

 

 

私が今まで読んだ物語の中で一番惹かれているものの一つはゲーテの『ファウスト』だが、これは小宇宙としてゲーテの人生が戯曲そのものにリンクし、中宇宙はおそらくドイツの歴史そのもの(某大学の名誉教授の方も私と同じ意見のようで少し安心しました)、大宇宙は私の現段階の理解では筆舌に尽くしがたい。メフィストフェレスはファウストが死んだ後にこう述べている。

 

過ぎ去った、とは馬鹿な言葉だ。どうして過ぎ去ったのだ。過ぎ去るのと、きれいに無いのとは、全く同じことだ。永遠の創造とは、一体なんの意味だ。創造したものを、無に突き落とすなんて。過ぎ去った、ということに、なんの意味があろう。それなら初めから無かったのと同じではないか。それなのに、何かあるかのようにぐるぐる回っている。おれはむしろ永遠の虚無のほうが好きだな。

 

しかし、それまでの多くのファウスト伝説や戯曲、また20世紀のトーマス=マンなどの物語と異なり、ファウストの魂は救済され、ナルニアでも時代の継承やナルニアの消滅にあるのはおそらく同じような思想である。肉体としての人が永遠普遍ではない方がいいと直感的に思っている人は多いかも知れないが、人文科学や社会科学では対象があまりにも複雑すぎてその検証は難しいだろう。自然科学では単純なモデル系を選ぶことが不可能ではないので、検証の余地がある。このまま書いても何のことだか分からないと思うので守秘義務には抵触しないと思うが、メフィストフェレスの問いかけに宗教論でなく純粋に理学的な方法で答えを与えることも骨は相当に折れるが不可能でもなさそうだと最近思い始めている。

 

今夜0:34はスーパームーンでした。

 

世阿弥能楽論集
たちばな出版(2004/07)
値段:¥ 3,200

ナルニア国物語/第2章:カスピアン王子の角笛 [DVD]
ウォルトディズニースタジオホームエンターテイメント(2009/11/18)
値段:¥ 1,890

ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島 [DVD]
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン(2011/12/16)
値段:¥ 1,490


文庫 新版 指輪物語 全10巻セット (評論社文庫)
J.R.R. トールキン, 瀬田 貞二, 田中 明子
評論社(2005/12)
値段:¥ 7,560

ファウスト〈第一部〉 (岩波文庫)
ゲーテ
岩波書店(1958/03/05)
値段:¥ 798


ファウスト〈第二部〉 (岩波文庫)
ゲーテ
岩波書店(1958/03/25)
値段:¥ 903





 

 

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岡崎公園、やなぎみわさん

本日2回目の投稿です。4/14は京都国立近代美術館に行ってやなぎみわ演劇プロジェクトVol.31924 人間機械』を観てきました。

 

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開演まで岡崎公園を歩きました。桜が奇麗です。

 

 

 

風水では東の青竜・南の朱雀・西の白虎・北の玄武を合わせて四神とします。昔の京都は北に丹波高地、東に大文字山、西に嵐山、南に巨椋池があったので四神相応となり、目出度い地形でした。その結果どうなったかというと、守りにくく攻めやすい地形であったため南北朝時代に何度も攻め落とされています。呪いごとを気にしすぎるのは駄目ですね。平安神宮では南と北には建物がありますが、白虎楼、蒼龍楼に四神相応を観ることが出来ます。

 

 

 

 

右近の橘、左近の桜は太政官の名残です。

 

 

 

大極殿など平安神宮の風景。

 

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1924』は関東大震災の直後の大正期の芸術家たちの活動に関する三部作で、三作目の『1924人間機械』は村山知義にスポットが当たっています。村山知義は劇作家・演出家・美術家・小説家・ダンサー・建築家として多彩な活動履歴を持ち、村山夫婦の創った絵本(『ナクナツタアカイヨウフク』、『しんせつなともだち』『おなかのかわ』など)は現代でも読み継がれています。劇中ではダンサー姿の再構成された「村山」を軸に、三部作の道化役で日本前近代の象徴である案内嬢が「村山」により大量生産され、「人間機械」などとして観客の眼前に出現します。本作では全員が写実的で多少グロテスクな同じ仮面を被っての出演でした。アングラ・不条理・ハプニングを内包したアヴァンギャルドな劇の進行には「村山」の精神が込められているかのようでしたが、結末はゲシュタルト崩壊したかのようで現代から観た「村山」像、さらには前近代の日本そのものとも重なり、最後まで「村山」的な何かが現されていました。現代美術の展覧会の映像作品を演劇的な即興性で拡張したかのような作品で、生粋の演劇人の演劇とは大分異なる趣があったで、ご興味のある方は今後の高松公演や東京公演をご覧になって下さい。

 

原案・演出・美術のやなぎみわさんは、モデル自身が老女になった時を創造した特殊メイクで有名な『My Grandmothers』、他『Elevator Girl』『Fairy Tale』などの作品で世界的に有名な方です。以前紹介した能『山姥』とも通ずるものがあることはご自身も述べられています。

 

人目のために容貌を変える女性もいるが

私は書画を見、雨後の山を見ることを好む。

自らの法眼を手に入れ、好書を読むことが

この世で一番愉快なことである。

人は私を眼光婆婆と呼ぶ。

 

千載一遇の縁とは、良き書良き友に勝るものはなく

生涯の清福といえば、ただ椀の中の茶、爐の中の香だけである。

 

という詩文もこのことをよく形容しています。

 

やなぎみわ―マイ・グランドマザーズ
東京都写真美術館
淡交社(2009/03/01)
値段:¥ 2,600


 

 

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秋刀魚の味、鉄コン筋クリート&GOGOモンスター、リトル・ブッダ

311日から新しい17インチMacBook Proを使っている

 

•2.5GHzクアッドコアIntel Core i7

•8GB 1333MHzDDR3 SDRAM - 4GB x 2

•750GBシリアルATAドライブ @ 7200 rpm

 

とハイスペックのものだ。今までのように古典的な分子生物学を研究するだけなら前のMacBookで十分なのだが、生態学でも生物物理学でもデータ解析やシミュレーションの計算をするようになるとMacBookでは流石に覚束無くなってくる。また前のようにBootCamp上でWindowsを走らせると大量のデータの元ではExcelが暴走したりするので、今はParallels上のWindows 7Adobe関連のソフトを使ってWindows PCからのデータに対処し、OfficeMac OS X ネイティブにしている。堅牢なUNIXベースでターミナルもあるので、MacはやはりWindowsより直感的に使いやすいと思う。

 

 

 

少し時間があったのでDVDを幾つか観た。

 

小津安二郎監督の遺作『秋刀魚の味』は、象徴論などの昔ながらの映画の表現的技法をふんだんに使った、静かでコミカルなストーリーだ。婚期を迎えた美しい娘・路子(岩下志麻)と暮らす、妻に先立たれた初老のサラリーマン(笠智衆)の姿をコメディタッチで描く(Wikipediaより)というものだ。1962年作なので、当時の初老の家庭とその次の世代の家庭がカメラ的には同じアングルで情景や会話の異なりにより対比がよく為されていた。美術的な真新しさは何もないが、静かで何も起こらないストーリーが好みなら充分観るに耐えられる。

 

 

松本大洋さんの漫画が原作の『鉄コン筋クリート』は、ストーリーは私が中学生の時分にリアルタイムで慣れ親しんだものであるにも関わらず、監督のマイケル・アリアスさんの手ですっかり洋風の詩的・美的センスのアニメーションに生まれ変わっていた。粗筋は

 

義理人情とヤクザが蔓延る町・宝街。そこに住む<ネコ>と呼ばれる少年・クロとシロは、驚異的な身体能力で街の中を飛び回ることが出来た。

そんなある日、開発と言う名の地上げやヤクザ、3人組の殺し屋、蛇という名の男性が現れる。更に、実態不明の“子供の城”建設プロジェクトが立ち上げられる事になり、町は不穏な空気に包まれる。(Wikipediaより)

 

というものだ。松本大洋さんの作品では他に『ピンポン』や『GOGOモンスター』でも御馴染みの、静かで寡黙な少年と明るく元気溌剌な少年というモチーフが現れる。彼らがお互いに支え合っているという関係が描かれるのだが、クロの影の部分であるイタチはシロのことを「偽りの魂、偽善の代表者」と形容し、それがあながち的外れでもないところに物語のポイントがある。

 

漫画『GOGOモンスター』では「目に見えない物」「耳では聞こえない音」という幻覚のようなものを感じている主人公のユキが、「こちらの世界」と「あちらの世界」、「リョウカイ」を重んじる「彼ら」とそれを統括する「スーパースター」のいる「あちらの世界」のことを周りに語っている。「こちらの世界」と「あちらの世界」の関係は「奴ら」が来てからおかしくなり、学校の窓ガラスが3日で10枚も割れるとか学校が沈没したというのだが、それは子供と大人の世界とも捉えられるかも知れないし、IQという人物の語るように外界への接触願望と閉鎖的内面を象徴しているというように抽象化も出来るし、現実の世界と理想的な世界ともとれる。「リョウカイ」とは、理想の世界のための倫理や道徳観念とも捉えられる。異世界が混ざり込んだ表面上のストーリーラインと、その奥底の哲学の存在が物語を骨太にしている。

 

 

ベルナルド・ベルトリッチ監督のオリエント三部作三作目の『リトル・ブッダ』は、ストーリーは単調だが、仏教の輪廻転生思想に従った一つの邂逅と別れを現していると言える。粗筋は

 

米国シアトルに住む9歳のジェシー・コンラッドは、父ディーンと母リサと共に暮らす典型的な現代っ子。ある日、一家の前にラマ・ノルブ(ほか4人のラマ僧が訪れた。ノルブは、ブッダの魂を受け継ぐと言われた尊師ラマ・ドルジェが9年前に他界したこと、そしてジェシーこそ、その生まれ変わりであると告げた。その夜、リサは息子にノルブから贈られた本を読んで聞かせた。それは古代インドで“世界を救う者"として生を受けたシッダールタ王子の物語だった。ノルブは、ジェシーがほかの候補者と共に試練を受け、儀式に臨むためにブータンに赴かねばならないと両親に説く。父に連れられてインド方面へ向かったジェシーは、ほかの2人、ラジュとギータと共に、ノルブからシッダールタ王子の物語を聞かされる。王子はこの世の真理を求め、苦しみの果てに悟りを開き、ブッダとなった:。肉体はラジュに、言葉はギータに、魂はジェシーに、ドルジェの3人の子供に転生していた。ノルブは子供たちの前にひざまずき、転生の儀式が済んで役割を終えた彼は、静かに息を引き取る。だが子供たちはこれが彼との永遠の別れではないことを知っており、いつか再び出会うことを信じてそれぞれの土地に帰り、ノルブの遺灰を撒いた。(goo映画より)

 

というものだ。「輪廻転生」とは端的に言えば生まれ変わり現象のことだが、仏教での動物も含めた生まれ変わりの「輪廻」では主体となるべき「我(アートマン)」、永遠普遍の魂は存在しないとする「諸法無我」の考え方に基づく。他のインドの宗教には見られない思想である。「諸法無我」の考えは、いろいろな事象が互いに関係し合う「縁起」や「諸行無常」にも関係する。後にブッダと呼ばれるシッダールタが輪廻転生や生老病死の四苦から解脱、「涅槃静寂」するための悟りを開く過程が映画では描かれている。

 

現代的な観点から見れば生きることが苦かどうかはともかく、老いも病も死も、生きている限りは避けがたいことのように思われる。

 

多細胞生物の細胞の世界に目を移してみると、細胞にも細胞老化と言って細胞が一定回数の分裂後に増殖出来なくなる現象がある。これは何のためにあるかと言うと、一つ有力な仮説として細胞のガン化を防ぐということが挙げられる。細胞の持つゲノムは複製の際にエラーを生じてどんどん変異していくので、中には周りの細胞の言うことを聞かなくなったガンのようなものが出てくる。細胞が経験した分裂回数に依存した老化と細胞分裂の停止には、ガンの発生を防ぐという意味合いがあるのではないかという仮説である。個体の生存のために細胞老化はあるというのである。

 

病も、ガン化に限ってもDNAの損傷の修復の為に一定期間細胞の分裂サイクルを停止させる細胞内機構(これをチェックポイントと言う)が存在する。生きていく過程での代謝によりDNAは損傷を受けるものなので、これも生きている限りは避けがたい現象である。

 

死に関しては、ガン化しそうな細胞を死に導く細胞死の機構もあれば、多細胞生物の発生の上で形態形成や他の細胞の支持基盤になるために犠牲が必要な時に自発的な死が誘導される。これも個体が生きていく上では必要な機構である。

 

多細胞生物に限らず、単細胞生物でもチェックポイントのような機構は当然備わっており、また細胞集団の増殖の至適化のために皆と同じような挙動を示さない細胞の締め出しのための細胞老化や細胞死はある。病は生きていることに必然的に伴う。また細胞がより大きな構造の中で協調的に働くことを保証するためにはほぼ均一な集団であることが保証される必要があるので、若々しい時の理想的な性質が保てなくなった細胞の老いや死も必要である(ただし、環境から極度のストレスを受けている時は表現型の揺らぎや有性生殖による多様性の増加、逆のベクトルも考慮されなければならなくなる)。これが個体の老化や死にも同様の論理の拡張が出来るかどうかは検証するのはさらに難しくなるが、老いや死の美学というものは各構成単位が協調的に働けるより大きなシステムの存在のためには必須ではないかというのが、最近の学説の潮流である。物理学とは異なり生物学では単純で検証可能なモデルへの落とし込みが難しいので実証するのはなかなか難しいが、シッダールタの問いかけの答えはここに来て徐々に明らかになってきていると思う。

秋刀魚の味 [DVD]
松竹ホームビデオ(2008/06/27)
値段:¥ 2,800


鉄コン筋クリート (通常版) [DVD]
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GOGOモンスター
松本 大洋
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リトル・ブッダ 【HDマスター】 [DVD]
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SUPER COOPERATORS

忙しくてブログを書く暇があまりない。この間はMartinA. NowakSUPER COOPERATORS』(FREE PRESS)を読んだ。『EVOLUTIONARY DYNAMICS』(Belknap Press of Harvard University)でも知られる著者が、一般の方向けに社会的協調がどのようにして生まれるのかを自身の研究の歴史に沿って説明していく読み物だ。達者とは言えないが簡潔な英語で、平易に解説されていると思う。

 

「囚人のジレンマ」というのはWikipediaより引用すると、

 

囚人のジレンマ(しゅうじんのジレンマ、英:Prisoner'sDilemma)は、ゲーム理論経済学において、個々の最適な選択が全体として最適な選択とはならない状況の例としてよく挙げられる問題。非ゼロ和ゲームの代表例でもある。この問題自体はモデル的であるが、実社会でもこれと似たような状況(値下げ競争、環境保護など)は頻繁に出現する。

1950アメリカ合衆国ランド研究所メリル・フラッド (Merrill Flood) メルビン・ドレシャー (Melvin Dresher) が考案し、顧問のアルバート・W・タッカー (A.W.Tucker) が定式化した。

 

問題

共同で犯罪を行った(と思われる)2人が捕まった。警官たちはこの犯罪の原因たる証拠などをまったく掴めていない為、この現状のままでは2人の罪は重くても2年である。そこで警官はこの2人の囚人に自白させる為に、彼らの牢屋を順に訪れ、自白した場合などの司法取引について以下の条件を伝えた。

  • もし、おまえらが2人とも黙秘したら、2人とも懲役2年だ。
  • だが、共犯者が黙秘していても、おまえだけが自白したらおまえだけは刑を1年に減刑してやろう。ただし、共犯者の方は懲役15年だ。
  • 逆に共犯者だけが自白し、おまえが黙秘したら共犯者は刑が1年になる。ただし、おまえの方は懲役15年だ。
  • ただし、おまえらが2人とも自白したら、2人とも懲役10年だ。

なお、2人は双方に同じ条件が提示されている事を知っているものとする。また、彼ら2人は別室に隔離されていて、2人の間で強制力のある合意を形成できないとする。

このとき、囚人は共犯者と協調して黙秘すべきか、それとも共犯者を裏切って自白すべきか、というのが問題である。

2人の囚人の名前をABとして表にまとめると、以下のようになる。表内の左側が囚人Aの懲役、右側が囚人Bの懲役を表す。たとえば右上の欄は、Aが懲役15年、B1年である事を意味する。

 

囚人B 協調

囚人B 裏切り

囚人A 協調

2年、2年)

15年、1年)

囚人A 裏切り

1年、15年)

10年、10年)

解説

囚人2人にとって、互いに裏切りあって10年の刑を受けるよりは互いに協調しあって2年の刑を受ける方が得である。しかし囚人達が自分の利益のみを追求している限り、互いに裏切りあうという結末を迎える。なぜなら囚人Aは以下のように考えるからだ。

  1. 囚人Bが「協調」を選んだとする。このとき、もし自分 (=A) Bと協調すれば自分は懲役2年だが、逆に自分がBを裏切れば懲役は1年ですむ。だからBを裏切ったほうが得だ。
  2. 囚人Bが「裏切り」を選んだとする。このとき、もし自分がBと協調すれば自分は懲役15年だが、逆に自分がBを裏切れば懲役は10年ですむ。だからBをやはり裏切ったほうが得だ。

以上の議論により、Bが自分との協調を選んだかどうかによらずBを裏切るのが最適な戦略(支配戦略)であるので、ABを裏切る。囚人Bも同様の考えにより、囚人Aを裏切ることになる。

よってABは(互いに裏切りあうよりは)互いに協調しあったほうが得であるにもかかわらず、互いに裏切りあって10年の刑を受ける事になる。合理的な各個人が相手の行動を所与として自分にとって「最適な選択」(裏切り)をする結果、全体としては「最適な選択」をすることが達成できないことがジレンマと言われる所以である。

なお、この場合のパレート効率的な組合せは、(協調、協調)(協調、裏切り)(裏切り、協調)3つであり、(裏切り、裏切り) ナッシュ均衡ではあってもパレート効率的ではない。(引用ここまで)

 

 

 

となる。お互いに黙ればお互いにRの利益を、自分が白状して相手が黙れば自分がTの利益を、相手がSの利益を、お互いに白状すればお互いにPの利益を得るとする。相手の一回前の行動を記憶出来るようにして様々な戦略のものを混ぜてシミュレーションを行うと最初は利己的な戦略が優占するが、次第に相手の行動を真似する物真似戦略が増え始め、最終的には相手が黙っていた場合は自分も黙り、相手が白状した場合も1-(T-R)/(R-S)(R-P)/(T-P)のどちらか小さい方の確率で次も黙って許しを与える場合もあるという戦略が勝ち残る。これは誤りを修正することの出来る効果のためと考えられる。

 

このシミュレーションに100回ごとに新しい戦略が加わるようにすると、一部許しの戦略は利他的な戦略に偶然置き換わってしまい、そこから利己的な戦略の優占にスタートするサイクルにまた入ってしまう。歴史は繰り返すということだ。この場合はTRなど自分に高い利益が得られた場合はそのまま、PSなど低い利益の場合は行動を変えるという戦略が最終的には優占する。

 

 

このようなジレンマに対して社会的協調が働く理由は主に5つあると、Nowak氏は言っている。

 

1. 互恵的相互作用

2. 評判

3. 空間の効果

4. マルチレベル選択

5. 血縁淘汰

 

である。

「互恵的相互作用」とは、「囚人のジレンマ」ではお互いに協力することを確約することで、全体としての利益を増すことだ。

「評判」とは、相手が信頼出来るかどうかの情報が当事者同士だけでなく間接的に他の個体にも伝わり、協力的な相手に有利になることだ。

「空間の効果」とは、空間的な隔離による相互作用の大小により局所的に優占する戦略が異なってくる場合もあるということだ。

「マルチレベル選択」とは、同じ戦略同士のグループが自然選択の対象になり、個々の有利性や不利性に関わってくるということだ。

「血縁淘汰」とは、自分に近縁な個体を助けて自分の血統に有利に働くようにすることだ。

 

私はこれ以外にも社会的協調を高める働きのアイデアを持っているが、ここでは挙げない。Nowak氏はこのような社会的ネットワークの一般論としてコストをc、利益をb、相互作用の次数をkとおくと、協調性の進化の条件にはb/c>kという関係があることを指摘している。これはつまり、より複雑なネットワークを構成するには利益がコストを大幅に上回らなければならないということだ。b/cが単純な比なのかそれともそれに係数が掛かってくるのかはモデルにより異なると思うが(この式はモラン過程を仮定)、複雑なシステムを構成するには大きな利益を生み出す仕組みがなければならないということだ。昨今のグローバル化の失敗のようなものを見ていると、今の社会ではb/cがまだ小さかったのではないかと思えるのである。その反対の相互作用の数が多かったからと言って必ずしもb/cが大きくなるということは言えないと思う。ただこれは多分に示唆的な記述であるということは言えると思う。


SuperCooperators: Altruism, Evolution, and Why We Need Each Other to Succeed
Martin Nowak, Roger Highfield
Free Press(2011/03/22)
値段:¥ 2,289


Evolutionary Dynamics: Exploring the Equations of Life
Martin A. Nowak
Belknap Press of Harvard University Press(2006/09/29)
値段:¥ 4,113


 

 

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ほっこり圧力鍋、告白

今週末も天気が悪く野外調査が出来なかったので、ラボと自宅で時を過ごした。野外調査には少額ながら自前の予算がつくことになったので、心を革めて取り組んでいきたい。今の時点でもあと少しの補填的サンプリングで短い論文は書けそうだが、当初の予定通りじっくりと取り組むことも出来る。エフォートを1割も割いていないのにある程度結果が出ていて有難い。

 

今日は圧力鍋なるものを使ってキャベツと肉を煮込んだものを作った。私が学生の頃から持っていた素早い料理の本は大雑把な味のする料理が多いのだが、この間母に貰った本では一工夫のあるレシピで時間がかからないのに大変上品な味のものが出来る。圧力鍋を使えば僅か8分で長時間煮込んで柔らかくしたものと同じような味が出せるので、大変有難い。私はお金やハイテクを使っていいものを手に入れるよりも、ローテクで味のあるものを手に入れる方が何だか温かい気分になっていい。家の中は煮込み料理のほっこりとした温かさと香りに満ちていた。

 

そんなほっこりとした話とは真逆のストーリーだが、今日は湊かなえさん原作の映画『告白』を観た。冒頭の粗筋は

 

市立S中学校、1B組。3学期の終業式の日、担任・森口悠子は生徒たちに、間もなく自分が教師を辞めることを告げる。原因はあのことかと生徒から質問が飛ぶ。数カ月前、学校のプールで彼女の一人娘が死んだのだ。森口は、娘は事故死と判断されたが本当はこのクラスの生徒2人に殺されたのだと、犯人である少年「A」と「B」を(匿名ではあるがクラスメイトには分かる形で)告発し、警察に言うつもりはないが、彼らには既に恐ろしい復讐を仕掛けたと宣告して去っていく。(Wikipediaより)

 

というものだ。オープニングの森口の告白が30分も続いたあとに初めてタイトルが表示されるという特殊な作りから話にぐいぐい引き込まれていく。物語には様々な「結果的には意味を成さない」伏線が張り巡らされていて、例えば森口の娘・愛美に対する殺意はあったものの実際には手を下さなかった「A・修哉」と、殺意は全くなかったものの結果的には殺してしまった「B・直樹」の差は、冒頭には描かれるものの、在り来たりの話のように最終的にそれが大きな意味を持ってきたりはしない。

 

このストーリーの良心たるべき人は愛美の父・桜宮とクラス委員長・美月なのだが、森口や修哉の行動はその良心をも裏切るような形で形成されていく。森口の後を継いで担任となった良輝=Well輝=ウェルテル(ゲーテの『若きウェルテルの悩み』より)の空回りも、このストーリーの群衆に対するゲーテのような存在の無意味さを含んだブラックジョークになっている。修哉が工作技術力の高さにより頂いたトロフィーで美月を殺害したこと、最後のシーンでまだ純朴だった頃に作った逆回りの時計が時を戻して修哉の母の姿を一瞬垣間見せたかのように現れたことも、修哉の自分の才能を人との縁で全て駄目にしてしまったことの象徴となっていた。

 

群衆劇的なカメラアングルから次第に個々人にフォーカスが当てられていくカメラワークや、スローモーションと照明・美術的コントラストの多用などの映画の技術的な面も非常に高い作品だった。最近ハリウッド映画は同じような話ばかりでどんどん面白くなくなってきていると感じているが、邦画の方はまた復活してきていると感じている。日本の漫画の漫画なりのストーリーのテンポ、日本のアニメの美術性やストーリーと映像の独自性のある一体感なども一つの文化であることは誰しも認めると思うが、ジメジメした感じの邦画も期待できるのではないかと思っている。

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神遊、ベルが鳴る前に、預言者ピッピ

26日は国立能楽堂に神遊15周年記念公演『言霊』を観に行った。演目は能『木曽』、独吟『起請文』、一調『勧進帳』、狂言語『奈須与一語』、能『船弁慶』だ。

 

雑物の能『木曽』は木曽義仲が倶梨伽羅峠の戦いの前に戦勝祈願の願書を覚明に起草させ、覚明がそれを読み上げて舞う話だ。能面は登場せず直面で行う。独吟『起請文』は能『正尊』で義経を討てという頼朝の密命を受けた正尊が上洛し、これを怪しむ義経の前で偽りの誓いを立てて読み上げるシーンだ。観世喜之さんの枯れた声が秀逸だった。一調『勧進帳』は能『安宅』で弁慶が安宅の関で疑いを逸らす為に巻き物が勧進帳であることを装って読み上げるシーンである。狂言語『奈須与一語』は能『屋島』で漁夫の老人となった義経の霊が、奈須与一が扇を射落とすシーンを語りかけるシーンで、野村万作さんのメリハリのある語りと動きに引きこまれた。

 

切能物『船弁慶』は義経が西国に落ち延びようとする時に静御前と別れ、静は別れ際に義経の前での最後の舞いを舞うシーンが前半、後半は船出したところを平知盛の亡霊に襲われ、それを撃退するシーンだ。史実では義経は船出の後の暴風雨で伊勢義盛と逸れ、その後に吉野で静と、宇治で佐藤忠信と別れている。静は捕えられて頼朝の前で義経を恋い慕う舞いを披露したため逆鱗に触れるが、政子の取りなしで許される。また、佐藤忠信や伊勢義盛も個別に討ち取られたり捕まったりする。創作の要素も入っているが、静が能面で見せる不安げな様子や、義経を見て一瞬ほほ笑むように見られた所、別れを切り出されて悲しむシーン、知盛の異形のものとしての怪しげな表情や動きが見所だ。アイの船頭はご存知、野村萬斎さんだが、早装束といって非常に速いテンポの囃子の中を退出し、直ぐに装束を整えて出てくる所も見どころの一つだ。弁慶との語らいでも一般人として滑稽味を持った語りと動きのアイと、荘厳なワキである弁慶との対比が美しい。観世喜正さんは『木曽』のシテ・覚明で大柄の体格を生かしたダイナミックな男舞い、『船弁慶』でシテの静の悲哀のこもった女舞いと同じくシテの知盛のマイケル・ジャクソンのスリラーを思わせるような異形の舞いをふんだんに行い、そのバラエティの多さに感じ入った。

 

 

その前の18日にはペンギンプルペイルパイルズの公演『ベルが鳴る前に』を観に下北沢本多劇場に行っている。粗筋は

 

謎のマシンを見張る女、無数の身体検査を受け続ける学者たち、ピストルを持つ男と機械技師を乗せて疾走するワゴン。虚実入り混じるシーンをオムニバス形式で送る、鉄サビ香るファンタジー。(Webより)

 

ということだ。この公演のタイトル「ベルが鳴る」とはおそらく人の死のことで、作中で既に死んでしまっているミタルの死とその葬式をめぐる騒動はベルが鳴ってしまった状態、人を死に至らしめるエヴン粒子が招き寄せる死の臭いに対処することこそが「ベルが鳴る前に」ということなのだろう。「選ばれた市民」、ホムンクルスを取り出す為の体の浄化や人体改造など、何やら皮肉めいたファンタジックな設定も見られた。ガムの謎のマシンに対する「なあ、でも、これで「なんでもないモノでした」なんつったら台なしだぜ?」という言葉に、結果的には一連のバカ騒ぎとなってしまった皮肉の全てが込められている。コミカルさとシニカルさのこもった作品だった。美術としてはほとんど全ての装置を現す回転する舞台装置や人が持って自己主張する街灯などが面白かった。

 

 

開演前には本多劇場の下にあるVILLAGEVANGUARDに行った。私が好きなサブカル系の店で、面白い場所だということは26日に会食した同窓生も同意してくれた。この街に生まれ育てばきっと生粋の演劇人になっていたであろう。そこで手に入れたのが『預言者ピッピ』という漫画。まだ完結していないが、粗筋は

 

「ピッピ」はヒューマノイド型スーパー・コンピュータ。地震を予知し、災害を回避するために開発されたロボットだ。親友・タミオとともに「成長」していくピッピは、しかしある衝撃的な事件をきっかけに自ら活動を停止してしまう。そして再び目覚めた彼の口から語られた、畏るべき預言とは──。(Amazonより)

 

ということだ。ピッピの能力を「預言」のようなものに感じ、「預言」の成就のためにそれに合う行動をするトートロジーや自分にとって都合のいい情報だけを取り入れてしまうご都合主義など、サイエンスのグレーゾーンで起こる微妙な歪みがよく表現出来ている。既刊は2巻で、最新話の一つ前の話が2003年(震災前)、書き下ろしの最新話が2011年であることを考えると果していつ完結するのかどうか分からないが、SFとしてはなかなか面白い。ピッピにもヴァーチャルタミオにもおそらく明るい未来は待っていないだろうが、今後の展開には注目出来る。

 

26日に会食した同窓生の話では周りは皆結婚しているらしい。別に同窓生が仕事を頑張っているからという訳ではないが、思春期の濃密な時間を共に過ごした仲間とたまに会って話をするとこちらも俄然様々なことに意欲が湧いてくる。その感情のままに国立能楽堂で購入した別冊太陽の『世阿弥』の表紙の「近江女」の能面を見ると、世阿弥が「初心忘るべからず」「秘すれば花なり」とこちらを諭しているように感じられる。人生経験はなくとも純朴で世阿弥の精神に素で一致していた頃に比べれば今は大分薄汚れてしまったようなので、世阿弥の言葉は重く受け止めなければならないと思う。

 

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シェルタリング・スカイ

土曜は坂本龍一さんに触発され、映画『シェルタリング・スカイ』を観ました。これはもう名画に分類してもいいと思います。監督は『ラスト・エンペラー』のベルナルド・ベルトルッチさんで、『ラスト・エンペラー』に引き続きオリエント三部作の二作目に当たります。原作はポール・ボウルズさんの小説。私の好きなジョン・マルコヴィッチさんも出ています。粗筋は

 

終戦後まもなくの1947年、北アフリカ。ニューヨークからやって来た作曲家のポート・モレスビー(ジョン・マルコヴィッチ)とその妻で劇作家のキット (デブラ・ウィンガー)の目的は単なる観光ではなく、求めるべき夢さえ失った彼らの深い喪失感をこの文明と隔絶し、あてどもない拡がりを持った世界で癒すためだった。その旅の道連れとなったのがポートの友人で上流社会に属するタナー(キャンベル・スコット)。結婚して10年、夫との心のすれ違いを感じるキットに、かねてより彼女に心を寄せるタナーは接近してゆく。やがて3人は次の目的地に向かうが、ホテルで同宿したイギリスのトラベル・ライター、ライル夫人とその息子で母親から金をせびってばかりいるエリックと同じ車に乗ったポートに対して、キットとタナーは別行動をとった。そしてそこでついにキットとタナーは一夜を共にする。が、アフリカ奥地の風土に嫌気がさしたタナーは別の土地へ向かい、二人きりになったポートとキットは彼らの心の虚無を象徴するかのようなアフリカの蒼穹の下でひととき愛を確認したかにみえたがそれもつかの間、ポートの体はチフスにむしばまれていたのだった。医者もいない砂漠の果ての町でポートは息絶える。ついに一人きりになったキットの旅は、しかしまだ続く。何もない砂漠の荒寥を自らの内面と一体化したかのようにアラブ人の隊商の中に身を埋め、男と体を重ねる彼女の眼はもはや何ものも映し出さないかのようであった。そんな彼女の行方を探すタナーの手でやっとキットは砂漠からタンジールへと連れ戻される。が、もはや彼女はもとの自分へと返ることなどできない。タナーが一瞬目を離すともはや彼女の姿はどこにもなかった。(goo映画より)

 

となります。テーマの“ShelteringSky” とは、直訳は「覆い被さって庇護してくれる空」ということになりますが、北アフリカの砂漠の上を広々と覆っている「空」が、天として存在しています。そしてアメリカ人のツアリストとしての旅の楽しみ方やラブロマンスのストーリーとはあまりにも不釣り合いな何もない北アフリカの大地とそこに暮らす人々が、不協和音を奏でています。アメリカ人のラブロマンスは明らかに北アフリカの大地が奏でる物語ではないことが、映像とストーリーとのギャップから分かります。そしてそのようなアメリカ人の物語もアフリカの自然と北アフリカ人たちも包みこんでいる「空」。ポートはいつもその無情で無常の「空」を気にしていますが、キットには“You don’t need anything…You don’t need anyone.” と批判されています。ポートの死後、隊商に連れて行かれたキットの状況は映画の初端からあった不協和音が頂点を迎えた感じで、その後、映画は突如として終わりを迎え、エンドクレジットも最近の映画に見られるような余韻を引き延ばす長々したものでなく、あっさりと終わっています。現実を反映し、昔の映画らしくよい終わり方であると思いました。“The Sheltering Sky Theme” はアメリカ人のラブロマンスのテーマというよりは、大いなる空の下で起こる不協和音全体のテーマとしての壮大さが感じられました。

 

キットは世界には予兆(omen)が満ち溢れていて、そこから自分の運命を読み解こうとしています。これが映画的な表現手法(象徴としての事物や出来事)と上手くクロスリンクしていっています。またカメラアングルや映像の構図のバランス感覚も大変に優れていると感じましたが、撮影は『地獄の黙示録』のヴィットリオ・ストラーロさんと聞いて納得がいきました。映画では原作の三部構成のうち第三部の「空」が含まれていないということですし、映画よりも原作の方が良いという人もいるので原作も読んでみたいと思いました。

 

 

 

アメリカとアフリカの不協和音は何となく映画『バベル』を思い起こさせました。こちらの粗筋は

 

モロッコ

裏売買で父親が手に入れたライフルを狙うジャッカルの退治に渡された遊牧民の兄弟。羊の放牧に出た正直なアーメッドと要領のいいユシフは射撃の腕を競ううちに遠くのバスを標的にしてしまう。

たがいに心の中に相手への不安を抱えながら、旅行でモロッコを訪れたアメリカ人夫婦のリチャードとスーザン。観光バスで移動中にスーザンは銃撃を受けて負傷、観光客一行は近くの村へ身を寄せる。次第に事件が解明され、ライフルの入手元がモロッコに来た日本人のハンターであることが判明し、ストーリーが日本へとつながる。

アメリカメキシコ

リチャード・スーザン夫妻の子どものベビーシッター、メキシコ人不法就労者のアメリアが主人公。メキシコのティファナで催される息子の結婚式が迫るが、夫妻が旅行中のトラブルで帰国できず、代わりに子どもの面倒を見てくれるはず の親戚も都合がつかない。しかたなく彼女は子どもたちを結婚式に同行させる。その帰り道に運転をしていた彼女の甥は、酔ったはずみから国境を強行突破してしまう。

日本

チエコは父と二人暮しのろう者女子高生。母親を亡くした苦しみをうまくわかちあうことができない不器用な父娘関係に孤独感を深めるチエコだが、街に出ても聾であることで疎外感を味わっている。ある日、警察が父親に面会を求めて自宅を訪れるが、チエコは刑事の目的を母親の死と関係があると誤解する。(Wikipediaより)

 

ということです。「バベル」とは勿論旧約聖書に見られる世界がコミュニケーションの欠如によりバラバラになる切掛けをつくった塔のことです。ここでもモロッコ人、アメリカ人、メキシコ人と日本人のストーリーはそれぞれの国柄を反映していて全体としては不協和音を奏でています。モロッコ人のストーリーはちょっと分かりにくいのですが、アメリカ人のストーリーは如何にもアメリカ人受けするストーリー、メキシコ人はアメリカ社会の影、日本人の場合はコミュニケーションをとるのが最も難しい立場に置かれた人の話です。これらのストーリーを繋ぎ合せるのが事件の切掛けとなったライフル銃で、これが破壊されてアメリカ人と日本人のストーリーは収束をみたように感じられますが、モロッコ人はどうなったか分からず、メキシコ人はアメリカから追い出されたというように現実を反映して世界にはまだバベルの塔の余韻があることを伺わせます。この映画の土台の一部には『シェルタリング・スカイ』との共通性が見受けられました。またこちらの映画手法としては時系列が混ぜこぜになっているのも印象的でした。

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An Introduction to Sheaf Biology (1)ネットワークの基礎

今回はAnIntroduction to Sheaf Biologyの導入ということで、学部生の方にも分かるように書いたつもりです。一章は分子生物学だけでなくシステム論全体の基礎となる内容です。一章のアドバンストの内容に入るまでの暫くの間はこのレベルにするつもりです。

 

***

第1章 システムズバイオロジー

(1)ネットワークの基礎


生き物のスケーリングはどの程度のレンジで見られるのだろうか。細胞の大きさで言えば大腸菌は1 um3ほど、酵母なら1000 um3ほど、ヒトの繊維芽細胞なら10000 um3ほどだ。タンパク質は一細胞に106個、109個、1010個、タンパク質の翻訳を行うリボソームは104個、107個、108個含まれると思ってもらってよい。遺伝子の転写を開始するプロモーターの長さは100bp1000bp104-105bpほどだ。おおよそ比例関係が成り立っている。タンパク質の世界(社会)の物理的スケーリング(nmオーダーのサイズ、転写因子は10bpほどの領域を認識、構造変化に要する時間は1-100マイクロ秒)は生物種を問わず一定なので、タンパク質のモル濃度(タンパク質の群集としての挙動)も生物種を問わずほぼ一定なのは分かってもらえると思う。ただし、個々のタンパク質種の濃度は1 nM, 1 pM, 0.1 pMと社会内での多様性が段々と増し、小分子のタンパク質への結合定数は1 uM, 1 nM, 1 nMと変わってくる。タンパク質の拡散時間は0.1秒、10秒、100秒、小分子の拡散時間は1ミリ秒、10ミリ秒、100ミリ秒と局所化が進む。

 

ゲノムサイズは4.6x106塩基対、1.3x107塩基対、3x109塩基対、遺伝子数は4500660030000と前の段落の比例関係からはずれている。ゲノムサイズには機能していないDNA領域も含まれるし、生物の複雑さは遺伝子数でなくその遺伝子の転写や翻訳、翻訳後修飾も含めたネットワークの複雑さで規定されていると考えられるので、ゲノムサイズや遺伝子数だけを見ても生物の機能に関してはあまり多くのことは分からないだろう。遺伝子の長さは1kb1kb10-100kb、転写に要する時間は1分、1分、30分、翻訳に要する時間は2分、2分、30分となり、イントロンの長さなどが決め手になっていると思われる。細胞の倍加時間は至適条件で30分、2時間、20時間である。

 

ゲノムサイズを決めるのはその生物のDNA塩基対の自然突然変異率であるとする説がある(Evolutionary Dynamics, Belknap Press of Harvard University Press参照)。理論的にはゲノムiの個体頻度をxi、適応度をfi、ゲノムがiからjに変化する変異率の行列をQ=[qij],平均適応度をfとすると、個体頻度の増殖は

$\begin{equation} $\dot{x}_i=\[\sum_{j=0}^n x_j f_j q_j_i - \phi x_i\] \end{equation}$

と表せる。変異率をu、ゲノム長をLとすると、qii=(1-u)Lとなる。大本の個体頻度をx0、変異体の個体頻度の和をx1とすると、

$\begin{equation} $\dot{x}_0=x_0(f_0q-\phi)=x_0[ f_0q-1-x_0(f_0-1)] \end{equation} \begin{equation} $\dot{x}_1=x_0 f_0(1-q)+x_1-\phi x_1 \end{equation}$

となる。f0q<1の時はx00に、f0q>1の時は

$\begin{equation} \[x_0^{*}=\frac{f_0q-1}{f_0-1}\] \end{equation}$

に収束する。収束条件は

$\begin{equation} \log f_0 > -L\log (1-u) \end{equation}$

なので、u<<1の時は

$\begin{equation} u < \frac{\log f_0}{L} \end{equation}$

となる。log f0~1とおけば、

$\begin{equation} u < 1/L \end{equation}$

となる。つまり、変異率の小ささがゲノム長を大きくする鍵になってくる。変異率が低すぎればゲノムは進化しないが、変異率が高すぎてもゲノムはアイデンティティを維持できない(x00に収束する)。これは実際の生物での値によく当てはまる。ただし、適応度fが高ければ変異率は高くても良いので進化は速く、適応度が低ければほとんど変異が許されないので進化は遅い。

 

生物の環境に対する応答には遺伝子の発現を制御する転写因子が重要だが、大腸菌ではこれは300種類ほど存在し、4000の遺伝子の制御を行っている。転写因子には転写を正に制御するアクチベーターと負に制御するインヒビターがあり、ネットワーク上では遺伝子がノード、制御がエッジに相当する。発現制御のタイムスケールは大腸菌なら小分子が転写因子の構造変化を引き起こすには1ミリ秒、転写因子のプロモーターへの結合には1秒、遺伝子の発現には5分、相当する細胞内タンパク質の発現と分解を考慮した濃度変化には1時間かかると思ってもらってよい。化学反応に比べれば非常にゆっくりとしたスケールだ。

 

ここで述べられたような生物の階層を通じた共通性(主に物理的)と相違(スケール依存性)は、Sheaf Biologyや位相生物学(ともに私の造語)において重要なポイントなので注目しておいて頂きたい。

 

 

ここで転写因子の濃度をX、プロモーター活性をYとする。アクチベーターのヒルの入力関数は活性化係数をKX*=Kの時に最大値の半量を達成)、最大発現量定数をb、基底発現量をb0、ヒル係数をnとすれば一般的に

$\begin{equation} \[f(X*)=\frac{\beta X*^{n } }{K^{n}+X*^{n } }+\beta_0\] \end{equation}$

で表される。インヒビターの方は同様の式をKnの定義を少し変えて

$\begin{equation} \[f(X*)=\frac{\beta}{1+(\frac{X*}{K})^{n } }+\beta_0\] \end{equation}$

とすると考えやすい。nが充分に大きいとKを閾値とした発現量がb0のデジタルのオンオフの関数となる。この場合はタンパク質の拡散と分解による減少の効果の係数をaと置くと、

dY/dt=b-aY

より平衡活性は

Yst=b/a

となる。遺伝子のオフ後のタンパク質濃度は微分方程式より

Y(t)=Yste-at

という関数で表せる。aは環境に対する応答速度を規定し、bは平衡状態を規定するが応答速度は規定しない。遺伝子がオンになる時は

Y(t)=Yst(1-e-at)

よりtが充分に小さい時はテイラー展開より

Y~ bt

となり、応答速度はbで規定されaは関係ない

 

 

ランダムネットワークから有意に異なるネットワークの何らかの部分構造のことをネットワークモチーフと呼び、これは勿論自然選択の対象となる。大腸菌の場合は10mlLB培地で37℃の温度下では1日で1細胞が充分に1010細胞となって定常期に入り、自然突然変異率は塩基対当たり10-9なので、この細胞集団では致死性の変異でない限り多くの塩基対で10細胞が同一の変異を持つ。自然選択は常時行われていると思ってもらってよい。ただ、教科書に載っているこの説明の難点は、細かく観れば細胞数が103程度になった時に現れる初期変異は最終的には107個の細胞に受け継がれるが、中には1個の細胞しか変異を持っていない場合もありうることだ。平均は10細胞だが、定性的なばらつきは大きい。

 

N個のノードを持つネットワークではN(N-1)個の相互作用とN個の自己作用が考えられるので、可能な作用の種類はN2となる。ここで負の自己作用(定常状態の達成や応答速度の増加に重要)を考えると、ランダムネットワークでは自己作用の形成される確率pself=N/N2=1/Nとなる。E個の作用のうちk個が自己作用となるランダムネットワークの形成される確率は二項定理より

\begin{equation}  \[P(k)=  (\begin{array}{c}  E \\  K  \end{array})  p_{self}^{k}(1-p_{self})^{E-k}\]  \end{equation}

となる。よって、平均してE/N個が自己作用となる筈である。標準偏差はポアソン分布(二項分布でnが大きくpが小さくなる稀な現象の分布)を仮定すれば

$\begin{equation} \[\sigma_{rand}\sim \sqrt{E/N}\] \end{equation}$

となる。大腸菌の420個ほどのタンパク質のネットワークではランダムネットワークを仮定した自己作用数の平均と標準偏差が1.21.1になる筈が、実際には40ほどの自己作用数となっている。評価尺度Z

$\begin{equation} \[Z=\frac{_{real}-_{rand } }{\sigma_{rand } }\] \end{equation}$

と表せられる。大腸菌の場合は32シグマということで、充分ランダムでないことははっきりする。

 

ヒル係数が充分に大きい場合、X<KならdX/dt=b-axとなる。X<K, X<<b/aならX(t)~btとなる。X=Kで発現がオフになるので、出力はK周辺で振動している状態となる。発現量がKの半分に達する応答時間は

$\begin{equation} \[T_{1/2}=\frac{K}{2\beta}\] \end{equation}$

となり、bで特徴付けられる強力なプロモーターの抑制により抑制解除後の応答が素早く起こることになる。また、Xstb/aでなくKに依存することで、システムの頑健性も保証される。bRNAポリメラーゼとの相互作用、Kは転写因子との相互作用に依存するので、別個の自然選択が行われている筈である。

 

一方、正の自己作用の方は負の自己作用とは逆で環境応答が遅くなると同時に、二安定状態の達成に重要である。数学的理解は考えて頂きたい。


 

 

 


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An Intorduction to Sheaf Biology(予告)

そのうちにAnIntroduction to Sheaf Biology (階層性生物学への誘い)という連載を始めようと思っています。内容は、

 

一章 システムズ・バイオロジー(分子から細胞へ)

二章 反応拡散系(細胞から個体へ)

三章 集団遺伝学(個体から個体群へ)

四章 中立説etc.(個体群から群集へ)

五章 位相生物学(一章から四章までの基盤となる考え方)

六章 種とは?(何故「種」が面白いのか)

 

を考えています。理解に必要な確率分布や統計の考え方も随所にごく簡潔に挟みこむ予定です。教科書としてはAn Introduction to Systems Biology (Chapman and Hall/CRC), 非線形科学―分子集合体のリズムとかたち(学会出版センター)、PopulationGenetics (Wiley-Blackwell), The Unified Neutral Theory of Biodiversity andBiogeography (Princeton University Press), Speciation (Sinauer Associates Inc)を考えていますが、さらに踏み込んだ内容も書くつもりです。今までのこのブログは大学教養レベルの見識があれば理解出来る内容にしていたつもりですが、この連載に関しては大学院レベルを念頭において書きます。もちろん間に普通のブログも入るので時間がかかって途切れ途切れになると思いますが、暇な方はお付き合い下されば幸いです。

非線形科学―分子集合体のリズムとかたち
吉川 研一
学会出版センター(1992/01)
値段:¥ 3,059
Population Genetics
Matthew Hamilton
Wiley-Blackwell(2009/04/14)
値段:¥ 4,713

The Unified Neutral Theory of Biodiversity and Biogeography (Monographs in Population Biology)
Stephen P. Hubbell
Princeton Univ Dept of Art &(2001/05/01)
値段:¥ 5,612

Speciation
Jerry A. Coyne, H. Allen Orr
Sinauer Associates Inc(2004/05/28)
値段:¥ 6,009




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音楽CDの方は坂本龍一『US』『CM/TV』、Y.M.O.SEALED』、ゴンチチ『スピリット・オブ・ゴンチチ』『ボディ・オブ・ゴンチチ』、ニルヴァーナ“BLEACH” 』『NEVERMIND』『IN UTERO』『UNPLUGGED INNEW YORK』、ボブ・マーリー『ライヴ!』、デレク・アンド・ザ・ドミノス『いとしのレイラ』を聴きました。今はブルース・スプリングスティーン『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』を聴いています。

 

坂本龍一の“energyflow” “Libera me”, Y.M.O.“CITIZENS OF SCIENCE”などはお気に入りです。ゴンチチはゴンザレス三上さんとチチ松村さんのユニットで、「ゴンザレスって何だよ」と友達に笑われたこともあるのですが、スピリット~の方は『SEALED』とともに演劇部秘伝のテープでした。“Marron under the Moon―月下の栗貧しい王家など、静かな曲が多いです。

 

ニルヴァーナで初めて聴いたのは『INUTERO』なのですが、家族に騒がしいと文句を言われた思い出のあるアルバムです。“All Apologies” はシニード・オコナーにもカヴァーされていますね。『UNPLUGGED IN NEW YORK』の“Jesus Doesn’t Want Me For A Sunbeam” も寂しげで好きな曲です。この曲はヴァセリンズのものがオリジナルで、それも持っていたのですが売ってしまいました。その他にも『NEVERMIND』の“Something InThe Way” も不穏な感じが好きですね。

 

ボブ・マーリーの“NOWOMAN, NO CRY”, “I SHOT THE SHERIFF” は有名ですね。『いとしのレイラ』は言わずと知れたロックの名盤中の名盤で、ほとんどの曲が名曲揃いです。“LAYLA” の他にも“BELL BOTOM BLUES” を気に入っています。ブルース・スプリングスティーン『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』は“NO SURRENDER”などテンポのいい曲が多いです。

 

食べ物で系統分類学的なことをしていた人がいたと記憶しているのですが、音楽の曲を使って同様のことが出来ないですかね。音楽にはリズム、メロディー、ハーモニーなど定量しやすい要素がありますし、音楽の大学院で音楽の進化を研究するのも楽しそうです。私は音楽を芸術の中で最も苦手としているので自分で解析するのはとても無理ですが。

 

 

 

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獣の奏者エリン

今週末も山登りに重要な午前中は天気が悪く、その上少し大きな地震が立て続けにあって利用する東海道線が遅れていたりしたので、山には行かずじまいでデータ解析に時間を費やしました。3週間も山に行かなかったのでそろそろ行きたい気分です。

 

暫く前、NHKアニメで『獣の奏者エリン』という作品が放映されていました。原作は上橋菜穂子さんの『獣の奏者』前半で、あらすじは

 

I 闘蛇編

獣ノ医術師で ある母とともに、闘蛇衆たちの村で暮らす少女エリン。彼女の母ソヨンはその優れた医術の腕を買われ闘蛇のなかでも特に強い<>の世話を任せられていた。ある日、村で飼っていた全ての<>が突然死んでしまい、母はその責任を問われ処刑されることとなった。エリンは母を助けようと必死に奔走するも失敗、母と引き離され天涯孤独の身の上となってしまう。その後、蜂飼いのジョウンに助け出されたエリンは彼と共に暮らすうち、山奥で天空を翔る野生の王獣と出会う。その姿に魅せられたエリンは母と同じく獣ノ医術師になることを決意し、ジョウンの昔なじみでもあるエサルが教導師長を務めるカザルム王獣保護場の学舎へと入舎する。

II 王獣編

王獣保護場で傷ついた王獣の仔・リランに出会ったエリンは、リランを救いたい一心で献身的に治療にあたり、その成り行きで王獣を操る術・<操者ノ技>を見つけてしまう。4年の月日が流れたある日、エリンは母の一族である霧の民から『「決して人に馴れない獣、決して人に馴らしてはいけない獣」である王獣を操ることは、大いなる<災い>を招く』と警告を受ける。警告を甘く考えていたエリンだが、やがてその理由を身をもって知ることとなる。王国の命運を賭けた争いに巻き込まれていく中、エリンは真王の護衛士の一人・イアルと心を通わせていく。

Wikipediaより)

 

ということです。

 

主人公のエリンは、幼年時代は利発ですが自由闊達で注意力散漫な少女として描かれています。その自由さが人間の世の中の「掟」(情報はひけらかすものではない、矢鱈褒めたり貶したりする人はあまり信用できない、負のスパイラルに入るとなかなか抜け出せない、「夢」は諸刃の剣、人には適する場所と適さない場所がある、様々な憶測が飛び交うと権威の失墜に繋がる、権謀術数は歴史的には珍しいことでも何でもない、ニーチェは何故「神は死んだ」と言わせたか、自分の幸せなんか知らないといっても普通はますます嘲笑の対象になるだけなど)に触れた時の矛盾、また一方で生き物の「掟」、人間側からすれば毒にも薬にもなる「掟」とは何なのか(世界にあるべき姿などない、飛ぶ飛ばないは王獣の意志で人の意志ではないなど)ということに出会っていく過程が本作品のメインテーマになっています。

 

母親であるソヨンの「闘蛇を怖いと思っているならあなたはいいお医者様になれるわ」「昔から闘蛇の卵は自分たちで取りに行くのが習わしなのよ」「見えないもので縛りつけているから(制御が困難)」、師であるエサルの「あなたは共感することと距離を置いて世話することの両方を行えるかしら」「あなたが特別だということは絶対にないのよ」という人と獣の共通点だけでなく違いもよく分かっていてそれを心に刻みながら伝えて行こうとする言葉が突き刺さります。王獣規範が形骸化し、本来は自然の豊かさの指標である筈のアンブレラ種の減少を防ぐためその種を自然の中で観察するのでなく保護して飼うという行為に出た人間たちの、本来の精神を忘れた呪術的な行動(退化していく思考で、神々の物語の再現、奇跡の現出などこれ以外にもたくさん見受けられる)もエリンは間接的に暴いていきます。霧の民でソヨンの夫と生る筈であったナソンは霧の民の掟を守っているだけで、自分から能動的に物事を変えて行こうとしていないところがエリンと強い対比として描かれています。努力をしない者は壁にすら辿り着けない、私は一人で生きていきたいです、幼い頃から人に関わった王獣は空を飛べないんだね(人も同じで幼い時から縛られると自由闊達になれない)というジョウンやエリンらの言葉にそれは現れています。

 

作品中では人と獣の関係(または人と人との関係)を象徴する音無し笛、エリンとソヨンの関係を現す腕輪、繊細ですぐ壊れてしまうが美しい音を奏でることが出来る竪琴、気の進まない結婚に赴こうとしていたソジュの髪飾りなど、ストーリーの象徴となる小物が幾つも登場しています。能的に言えばエリンが「運命は人には分からない」をテーマにに突き動かされてリョザ神王国が動いていく話と言えるでしょう。

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値段:¥ 47,775


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スナーク狩り、悪人

土曜はしとしとと雨が降り、日曜は午後から晴れてきましたが自宅で荷物を受け取る必要があったので、結局山には行かず終いでした。左足の方は金曜の時点でまだ鈍い痛みがあったのですが、土日で(バンテリンを塗布してサポーターを付けた状態とはいえ)痛みはほとんど消え失せました。今度の週末までには完全に回復するのではないかと思います。

 

そんな訳で週末は映画を観ました。『悪人』という邦画です。洋画と邦画を比べると、私の印象としては、洋画はストーリーだけでなく照明、デザイン、音楽にもdirectionality(主題と背景のコントラストなど)があって、人工的な匂いが濃く出ています。光に関してはレンブラントやフェルメールの影響もあるのでしょうか。一方の邦画は暗くハッキリとしない照明でじめじめとした感じで、日本の湿度が感じられる照明やデザインで音楽もあまり流れません。洋画に比べれば自然な色彩が強いと感じられます。今回の『悪人』も、そのような邦画の特徴がよく出ていた映画だったと思います。

 

『悪人』のあらすじは、

 

保険外交員女性・石橋佳乃が土木作業員・清水祐一に殺された。清水は別の女性・馬込光代を連れ、逃避行をする。

なぜ、事件が起きたのか?事件当初、容疑者は裕福な大学生・増尾圭吾だったが、拘束された増尾の供述と新たな証言者から、容疑の焦点は清水に絞られる事になる。(Wikipediaより)

 

となります。題名の「悪人」の一人は間違いなく衝動的に人が殺せる清水のことになりますが、この映画には他にも多くの「悪人」的な人が現れます。その一人が増尾で、彼はメールでコミュニケーションをとりながらも相手を適当にあしらい、石橋をぞんざいに扱って事件の切っ掛けを作ります。一方の石橋も清水からお金をせびる一方で増尾と関わりを持とうとし、清水を無碍に扱うことで事件を引き起こしてしまいます。

 

増尾や石橋、その周りの人々は表面上は相手にいい顔をしながら裏ではいろいろな噂話をばら撒き、KY(空気読めない人)がKYのことを裏でKYと蔑む、ある種の不快な空間を作り出しています。そこに巻き込まれたのが今までろくな生活を送ることが出来ずに淡々と暮らしていた清水でした。彼の人格は日本人の中でも際立ってdirectionalityがなく、海が目の前に見えるとどこにも行くことが出来ないと感じるという彼の台詞に現れています。海の見える灯台に光を見出し、自分の狭い世界からどこか遠くへ飛びだすことに憧れていた馬込と対照的です。

 

石橋の父親の言う、誰かの幸せを思うだけで自分も幸せになる、強くなったと思って失う人を馬鹿にする、という台詞に彼らの置かれた状況が垣間見えます。ストーリーにそって彼らのシチュエーションを現した象徴的なシーンが随所に挟みこまれているのは映画的だなと思いました。

 

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ルイス・キャロルの作品で、“The Hunting of the Snark” というナンセンス詩文があります。あらすじは、

 

Bellman(触れ役)の白紙の海路図に導かれて海を渡り、Snark探索隊の一行は奇妙な島にやって来た。Baker(パン屋)はかつて伯父から聞かされた警告を回想する。Snark を捕まえるのは申し分なく結構なことである。しかし用心せねばならない。もし捕まえたSnarkBoojumであったならば、その時「お前は突然静かに消えうせて、二度と現れることはない」。この警告を心にとめて、探索隊は別行動を取る。探索行の途上で、Butcher(肉屋)とBeaver(ビーバー)の間に友情が芽生える、Barrister【弁護士】は眠り込んでしまう、燻り狂ったバンダースナッチ(a frumious Bandersnatch)に襲われたBanker(銀行員)は正気を失ってしまう。最後にBakerSnarkを見つけたとみんなを呼び集めるが、他の者たちが駆けつける寸前に不可解な消失を遂げる。(Wikipediaより)

 

というものです。

 

Snarkが結局は何なのかということなのですが、よくある解釈としては絶対普遍の真理で、Bellmanに導かれる10人の探索隊は人間の営みを現しているということです。私も初めてこの詩を読んだ時にそれは直ぐに感じました。哲学者Ferdinand Canning Scott Schillerに依れば、Bellmanがキリスト教、Butcherがイスラム教、Beaverがギリシャ由来の自然科学、Barristerが論理家、Brokerが倫理、Billiard-markerが芸術、Bankerがユダヤ教、Bootsが文学、Bonnet-makerが流行で、Bakerがヒーローとなっています。BellmanBeaver, Barrister, Bakerに関しては私も初見でそう思ったので、面白い解釈だと思います。全員頭文字がBで、Schillerはシェイクスピアの一節、“to be, or not to be” を引用していますが、私はBritishBでもいいと思います。AmericanA, ChineseCと合わせて当時世界の動きに大きく関わっていたABCということで。

 

Bakerは幾つものことで有名であり、42(発表時のルイス・キャロルの年齢)の箱を持っていたが全て忘れ去られたとあります。彼は7つのコートと3足のブーツを持っていたとありますが、その名前も失念したそうです。3という数字は始まりでもあり終わりでもあるというキリスト教的なことは物語の中に出てきます。キリスト教的に考えれば七つの大罪と三位一体(父である神と子であるロゴス、神の働きを行う聖霊は一体であるとする説)ということになるのでしょう。彼は最後に‘It’s a Snark!’ ‘It’s a Boo-‘ という言葉を残して消失してしまいますが、このBoo-Boojumのことかそれとも物語に殆ど登場しないBootsのことなのか、という議論があります。絶対的真理である三位一体(もしくは文学)に辿りついた途端に消え去ってしまうということはままよくあることのような気がします。

 

ButcherBeaverに対して始まりの数をxとすれば

$[ \frac{(x+7+10)(1000-8)}{992}-17]$

という計算をすることで33になることを説明していますが、これは計算すれば分かりますがx=3でなくともどんな数でも当て嵌まるトートロジーな訳です。自然科学の限界がここにあるという訳ですね。7はコートの数で10は探索隊の人数、88節からなるこの詩文のこと、1000992は適当な数でしょう。大罪や人間の営み、文学を取っ払ってしまう作業が終わりに至るには必要なのでしょうか。Absoluteを追求したカントやヘラクレイトス、スピノザを隠喩したかのような表現も詩文中に出てきます。

 

私は記号論的な神秘主義者でも何でもないですが、この詩は言葉遊びとしては面白いので、多くの人々を惹きつけて止まないのではないかと思います。短いので興味のある方は是非音読して、韻律を味わって下さい。

 

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この文章はイエス『こわれもの』『危機』というアルバムを聴きながら書きました。日本人の方の中には間違える人もいるのですが、イエスはJesusではなくYESの方です。ネイティブの人なら間違えることはありません。最近私が思春期の頃カセットテープに録音していた音楽を電子版で欲しいと思い、中古CDを大量に買いました。取りあえずジミ・ヘンドリクス『エレクトリック・レディランド』、坂本龍一『UF』、細野晴臣『calm』、宗次郎『風人』と先程のイエスの二枚のアルバムを聴きました。ジミヘンと坂本龍一のアルバムは正確には私が録音したアルバムとは違うのですが、“GYPSY EYES” “The Last Emperor-Theme” などは今でも口ずさむ音楽です。“calm” 『風人』は我が演劇部秘伝のテープだったので、演劇のBGMに使えそうな音楽です。坂本龍一も勿論そうですね。イエスの方はプログレの代表者として私の友達のお兄さんが好きだったので、私が録音していた『こわれもの』の他に『危機』も買いました。音楽性に幅があるのでビートルズやレッド・ツェッペリン、ニルヴァーナのように全部揃えてもいいのではないかと思っています。

 

The Hunting of the Snark (Penguin Classics)
Lewis Carroll
Penguin Classics(1998/04/01)
値段:¥ 1,633


 

 

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能面、シアターアーツ

能はエズラ・パウンドが

 

能に対して、観客が外的表現の完全なものを要求するならば、あまり大きな満足を得ることができない。しかし観客が同情と深い芸術的観念の自由行動の力で、たらぬところを補って、胸の中に完全な劇を描くことができるならば、世界中でこれに勝る舞台芸術を外に発見することは不可能であろう

 

と述べている通り、抽象的で考えさせられることの多いことが魅力の一つです。日曜には三井記念美術館『能面と能装束―神と幽玄のかたち―』を鑑賞に東京まで行って来ました。内容は、

 

三井記念美術館が所蔵する三井家伝来の能面と能装束を、「神と幽玄のかたち」という切り口で展観いたします。平成20年度に国の重要文化財として一括指定された「旧金剛宗家伝来能面」54面をはじめ、能装束に、楽器や謡本(うたいぼん)などを交えて、年末から新春にふさわしい展覧会です。また、能面作家橋岡一路(はしおかかずみち)氏より寄託されている能面8面と謡本(元和卯月本(げんなうづきぼん))などをこのたびご寄贈いただくこととなり、これらも合わせて展示いたします。

 

とのことです。もうすぐ終わりなのでご興味のある方はお早めに。

 

私が気に入った面は3つあり、それらは伝文蔵作「三番叟」、伝千種作「怪士」、伝宝来作「宝来女」です。

 

伝文蔵作「三番叟」は天下泰平・五穀豊穣・不老長寿を祝祷する演目『翁』で翁が舞った後に直面で登場し、揉ノ段を舞ってから面を付ける三番叟の面です。三嶋大社の福太郎餅のモデルでもあります。伝文蔵作の物はコンパクトに纏まっているのが個人的に好きですが、写真がないので伝春日作「三番叟」(重文)を示しておきます。文蔵は十作の能面打ちに分類され、室町時代の人と言われますが、この面は桃山時代の物だそうです。春日は神作の能面打ちに分類され、実は鞍作止利のことであるとも言われますが、この面は室町時代の物だそうです。

 

伝千種作「怪士」(重文)は左右で顔の造形が異なるのが明らかだと思いますが、『船弁慶』の平知盛の怨霊などに使われます。目の金環が霊性を現し、ハレの方の面構えがやや穏やか、ケの方は哀愁が酷くなっています。千種は十作の一人で、この面は室町時代の物だそうです。

 

伝宝来作「宝来女」(重文)は右側のハレの面が僅かに笑みをたたえ、左側のケの方が引き締まった造形をしています。こういう女性には憧れます。宝来も十作の一人で、この面は室町時代のものだそうです。

 

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帰りにはジュンク堂によってシアターアーツ49号を買いました。目的は以前紹介したやなぎみわさんの『1924』の台本ですが、その他に別役実さんと野田秀樹さんの震災後の演劇についての対談が面白かったです。別役実さんは日本の不条理演劇の第一人者で、我が演劇部でも人気があった劇作家の方です。野田秀樹さんは言葉遊びなどで面白い劇作家の方で、非常に有名ですね。以下抜粋―

 

別役:僕は以前、「中景の喪失」という文章を書いたことがあります。世の中っていうのは遠景と、中景と、それから近景で成立している。でも現代は、非常に自分に近い近景、つまり手で触われる現実と、さっき野田くんが言った、占いや血液型とかの「超遠景」というものだけで成立していて、中景というものがなくなってしまった。非常に漠然とした世の中になってきていると思うんです。そこに、福島原発の問題が出てきて、中景というものが、我々の意識の中からなくなったにもかかわらず、現実では、その中景にあるものが、かなり強力にわだかまっているなと感じました。それをどうするかというのが、新たな問題になってくるんじゃないかと思います。

野田:今の「近景・中景・遠景」を自分の言葉でいうと、「感じる・考える・信じる」なんです。近景が「感じる」なのですが、今はもう、感じたら信じちゃうんですよ、遠景を。だから、中景の「考える」ところが―特に日本人がそうなのかもしれないんですけれど、ここ何十年で本当に弱くなったなと感じます。

 

別役さんと野田さんによれば、セカイ系の話も中景のない、身の回りと世界の動向が直結した話なのだそうです。これが厨二病というものなのでしょうか。

 

言い得て妙なのは、私の今の研究も個体群という個体の集まりと、生態系全体との間の「種」の研究ということで、「近景・中景・遠景」の概念が当てはまります。近景で何かが起こってもそれが直接遠景のレベルに同様の影響を与えるとは限りませんし、大きなスケールでは寧ろ真逆の力学が発生することもあるという感触を得ています。「種」という概念は現在でも曖昧なもので、未だに定性的な「種」という概念はないと言っている人も一部いるくらいなのですが、私は分子の社会と細胞、細胞の社会と多細胞生物としての個体とのスケールの間に自己認識と相互作用との兼ね合いに依るコミュニケーションのスケールがあるように、個体の集まりの個体群と生態系の間にも幾つかのスケールが存在しなければ理論を組み立てるのは難しいし、均質な遺伝子プールの保証のための「種」、特に生物学的種概念

 

同地域に分布する生物集団が自然条件下で交配し、子孫を残すならば、それは同一の種とみなす。しかし、同地域に分布しても、遺伝子の交流がなされず、子孫を残さない(=生殖的隔離が完了している)ならば、異なる種とされる。(Wikipediaより)

 

というものが存在するのは非常にリーズナブルだと思います。実際、強固な生理学的なデータが60年以上前に既に報告されています。それから60年以上も研究が進まなかったのは何故だか分かりませんが、「種」の研究が軌道に乗る時は既に充分満ちているのではないかと愚考する次第です。「種」がなければ個体群生態学と生態系の科学が直結してしまいますが、それは幾らなんでも乱暴だと思うのです。局所解とシステムとしての解が異なる時はシステムのスケーリングが非常に重要になってくるのは当たり前だと思うのですが。

 

 話は変わりますが、これは粋な計らいですね。

 

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イヴの時間

どうやら愛鷹山登山時の舗装された林道での長時間の下りの影響で、左足の脛が疲労骨折のようになってしまったらしい。今日は大事を取って6時間横になって足を使わずにいると、今週頭からの脛の痛みは大分回復した。明日は東京に出る予定だが、無理はしないつもりだ。

 

そんな訳で今日は『イヴの時間 劇場版』を観た。私はこの作品が1話ずつネット配信された2008年から2009年にリアルタイムで鑑賞したが、今回観た2010年公開の劇場版では、ネット公開時には無かった映像が幾つか挟みこまれている。この作品は登場人物のうちナギ・芦森・潮月の関わるメインストーリーが元々は表立っては語られず、伏線となるサブストーリーの連続のみでストーリーが展開されていくという少し変わった趣向が凝らされている。『劇場版』では非常に断片的だったメインストーリーの情報が新規映像で朧げながら表に現れてきているので、ネット版のみの鑑賞しかしていない人は是非劇場版も観て頂きたい。この作品の持つ味わいが増す筈だ。

 

あらすじは

 

「未来、たぶん日本。ロボットが実用化されて久しく、人間型ロボットアンドロイド)が実用化されて間もない時代。」--作中より

高校生のリクオは、所有するハウスロイド「サミィ」の行動記録の中に、命令した覚えのない行動を発見する。友人のマサキを誘って記録された場所に向かってみると、そこには「イヴの時間」という不思議な喫茶店があった。

そこに集う様々な人間やアンドロイド達との関わりの中で、それぞれが少しずつ影響を及ぼしあい、変わっていく。やがてそれは、外の世界へもかすかな、しかし確実に波紋を広げることとなる。(Wikipediaより)

 

というものだ。私の好きなSF(すこしふしぎ)なテイストを感じて頂けると思う。

 

1話ではアンドロイドと人間の区別はつきにくいことが導入として述べられ、以後、第2話では人間とアンドロイドの上下?関係、第3話では恋愛、第4話では記憶、第5話では愛情や芸術、第6話ではロボット三原則と人間・アンドロイドとの関わりについて集大成が描かれる。アンドロイドはパブリックとプライベートの区別はしっかりつけ、人間のように経験を経て段々偏っていく考え方の集積のようなものは(少なくとも最初のうちは)持っていないように描かれている。考えの偏り方を「心」と呼ぶ人もいるだろうが、「心」は経験を経て得られるものであることは人間もアンドロイドも同じで、ロボット三原則やそれを越える「何か」も、ごく大雑把な指針しか与えていないことが示される。ロボット三原則とは、

 

  • 第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
  • 第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
  • 第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

 

ということだ。ここで大きな問題なのは「人間」の定義であり、人間は勿論単一の存在でなく複数個体いる筈で、どの人間に対する危害を考えるか、そもそも「人間」とは個人のことか人間の社会としてのシステム全体なのか、そのプログラムのされ方によりロボットの採る行動は多種多様になるだろう。一見命令違反に見える行為もここから導き出される。自己保存の欲求と頑健性は生物なら常に付きまとうものだが、自己犠牲を奏でるためにこれは第三条として定められている。

 

三原則は元々はロボットが人間を滅ぼさないための仕組みの筈だが、「人間」の部分の定義の仕方や言葉の入れ換えによっては実際の生物やシステムの在り方にも通用する原則だ。人間の尊厳とは言っても蓋を開けて見れば実はそんなに大したものでなく、アンドロイドとも同格なのではないか、むしろアンドロイドの方が従順で機転もきくのではないか、そんなことを感じさせてくれる話だった。自分の幸福感を得るためや相手を攻撃するためにコミュニケーションをとろうとしているだけの人間や、普段は自分の役割を黙々とこなしながら、相手や究極的には外の世界を知ろうとしてコミュニケーションをとろうとしているアンドロイド、その存在を問題視している人間の存在など、アンドロイドさえ出来れば実際の社会問題として起こりそうなことがテーマで面白い。

 

 映像表現も光の使い方やセル画の抽象性と背景の具象的美術性・輪郭がぼやけた表現などの組合せが美しく、実写映画では単にグロテスクになって出来ない表現だ。Production I.Gの作品にもこのような美術性は見出せる。これらの日本アニメーションは映像表現の面からも充分堪能できる特異性を持つ。

「イヴの時間 劇場版」 [Blu-ray]
角川映画(2010/07/28)
値段:¥ 7,140


 


 

 

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八咫烏神社・大峰山【追記あり】

遅くなりましたが新年明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。

 

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大晦日は大峰山に登りました。大峰山の麓の宇治田原には天智天皇の皇子で桓武天皇の祖父、施基皇子(しきのみこ)の御在所がありました。壬申の乱が起こったため不遇の境遇でしたが、その血筋は平安の世に受け継がれていきました。

 

植栽ですが、サザンカCamellia sasanquaが綺麗です。

 

カワラタケTrametes versicolorも生えています。

 

大峰山は植林の山で、山頂も寂しいところです。

 

ヘソフウセンホコリBadhamia affinis var. orbiculataを見つけました。

 

シックイタケAntrodiella gypseaもあります。

 

麓には神明神社があります。

 

 

麓の高尾(こおの)には弘法大師の伝説が伝わっています。

 

大峰山では植物は他にスギCryptomeria japonica、ヒノキChamaecyparis obtusa、アカマツPinusdensiflora、ヒサカキEurya japonica、ヤブニッケイCinnamomum japonicum、アリドオシDamnacanthusindicus、アラカシQuercus glauca、アカガシQuercus acuta、クヌギQuercusacutissima、アベマキQuercus variabilis、コナラQuercus serrata、クリCastaneacrenata、トチノキAesculus turbinata、シュロTrachycarpus fortunei、ヤマザクラPrunusjamasakura、イロハモミジAcer palmatum、オオモミジAcer amoenum、ヤマモミジAceramoenum var.matsumurae、カキノキDiospyros kaki、鳥はトビMilvus migrans、ヤマガラParusvarius、ヒヨドリHypsipetes amaurotis、ハシブトガラスCorvus macrorhynchosを確認しました。

 

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大晦日のため、宇治神社では正月の準備で大忙しです。

 

宇治神社の本殿。

 

ツブラジイCastanopsis cupidataの老木があります。

 

祭神は応神天皇皇子、莵道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)です。学問の神様として誉れ高く、儒教思想から兄の仁徳天皇に帝の位を譲ったそうですが、毒殺されたとの説もあり、本当のところ何が起こったのか分かりません。莵道稚郎子命の古墳は宇治川右岸にありますが、アオサギのコロニーとなっています。

 

宇治上神社には莵道稚郎子命の他に応神天皇・仁徳天皇も祀られています。

 

本殿は平安時代後期の作で、現存する神社の建築物としては最古。世界文化遺産ですね。

 

こちらは拝殿。鎌倉時代の作で、国宝。

 

ケヤキZelkova serrataの老木もあります。

 

拝殿を裏から見たところ。

 

こちらが国宝の本殿。

 

宇治上神社にお住まいのキジバトさんStreptopelia orientalis

 

光の射す方へ。

 

宇治川は急流として有名で、源頼政や木曽義仲に関わる平家物語にも出てきます。

 

12の初詣は宇陀市榛原の八咫烏神社へ。

 

八咫烏は建角身命(たけつぬみのみこと、山城の賀茂氏の始祖)の化身(または太陽の化身)とされ、熊野国に流れ着いた神武天皇の一行を大和国に導いたとされています。現在は下鴨神社と由縁が深くなっています。

 

旧本殿の石造小祠は本殿の脇に今もあります。

 

お供え物がシュールでした。

 

お神酒ですかね。

 

 

 

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フランス革命 (VII) ━エピローグ

理学・医学・薬学・農学・工学全てに多大な影響を及ぼし、薬剤から核兵器にまで至る技術の大本を築き、市民革命の進展にも関わったようなラヴォアジエのような存在は、ゲーム理論では想定されていないものだ。時間がたってから全コミュニティに多大な影響を及ぼす個体を含めたシミュレーションなど、モデルにどう充てはめればいいのかも分からない。世の中が皆ラヴォアジエのような人ばかりならこのようなことは起こらなかっただろうが、「他者」の存在を認めた場合、他者の感情的な行動によりこのような事態は起こり得る。リンを燃やすと重くなったからと言って、それが医学や薬学とどう関わるのか、当時のほとんどの人には(そして現在の一部の人にも)理解できなかっただろう。

 

生態系でも正義と言えるかどうかはともかく、生産力にしろバイオマスにしろ個体数にしろ種数にしろ、某かの値が安定化するには、環境条件以外にどのような遺伝子・細胞・個体・種・群集が存在するか、どのような「他者」が存在するかで状況はガラリと変わる。「他者」を認める、多様性を認めるということは共生だけでなく競争や捕食・寄生など混沌が現れる可能性をも認めることになる。例えば多細胞生物では例外もあるが発生は基本的には生殖細胞という一細胞レベルからスタートし、同一のゲノムを持ったクローン集団が個体として振舞う。これは多細胞化には各細胞の役割分担や自己犠牲も含まれているからで、同一のゲノムを持つもので個体が構成されないと“cheater” という他細胞の犠牲にタダ乗りする細胞が直ぐに現れ、それが広まってシステムとしての個体の振る舞いが崩壊してしまうからだと解釈されている。“cheater”の顕著な例がガン細胞である。

 

アイデンティティを考慮するに当たって、理論的にはゲノムiの個体頻度をxi、適応度をfi、ゲノムがiからjに変化する変異率の行列をQ=[qij],平均適応度をphiとすると、個体頻度の増殖は

$\begin{equation} $\dot{x}_i=\[\sum_{j=0}^n x_j f_j q_j_i - \phi x_i\] \end{equation}$

と表せる。変異率をu、ゲノム長をLとすると、qii=(1-u)Lとなる。大本の個体頻度をx0、変異体の個体頻度の和をx1とすると、

$\begin{equation} $\dot{x}_0=x_0(f_0q-\phi)=x_0[ f_0q-1-x_0(f_0-1)] \end{equation}$

$\begin{equation} $\dot{x}_1=x_0 f_0(1-q)+x_1-\phi x_1 \end{equation}$

となる。f0q<1の時はx00に、f0q>1の時は

$\begin{equation} \[x_0^{*}=\frac{f_0q-1}{f_0-1}\] \end{equation}$

に収束する。収束条件は

$\begin{equation} \log f_0 > -L\log (1-u) \end{equation}$

なので、u<<1の時は

$\begin{equation} u < \frac{\log f_0}{L} \end{equation}$

となる。log f0~1とおけば、

$\begin{equation} u < 1/L \end{equation}$

となる。つまり、変異率の小ささがゲノム長を決定する鍵になってくる。変異率が低すぎればゲノムは進化しないが、変異率が高すぎてもゲノムはアイデンティティを維持できない(x00に収束する)。これは実際の生物での値によく当てはまる。ただし、適応度fが高ければ変異率は高くても良いので進化は速く、適応度が低ければほとんど変異が許されないので進化は遅い。

 

つまり適応度により進化的な制限が加わる自己のアイデンティティをしっかりと保った均一な集団でなければより高次なシステムとしてアイデンティティを保って自己複製するのは難しいと考えられる。私が遺伝研に移ってから得たデータをざっと見ても、システムサイズが充分に与えられていない場合は集団の均質化の方向性は見て取れるような気がする。システムは基本的にはクローンで成り立たつことが保証されないと上手く働かないのかも知れない。生物における光たる絶対主義、普遍性の重要性がここにある。

 

では何故、闇のような「多様性」が生まれるのだろうか。確かに共生・競争・捕食・寄生のあった方が結果にはシステムとしてのアウトプットが安定になる場合もあることが示されている。様々な環境の変化に適応するためにも、これは重要であると考えられている。また自己組織化のためにも多少のヘテロ性は必要である。しかし生物の多様性と普遍性のどちらが優先するかはケースバイケース(システムサイズにも依存)なので、昨今の生物多様性の強調のようにどちらか片方をいたずらに主張するのは頂けないことである。私は原核生物の多様性を産むメカニズムと真核生物の多様性を産むメカニズムには決定的な違いがあり、それは「接合と減数分裂」(有性生殖とすると意味が若干ずれる)と考えているが、細胞周期という生物の生老病死に関わる基本的なメカニズムの周辺にこのような普遍性と多様性に関わるシステムがあることは学部生の頃から驚くに値しないことだと思っている。ラヴォアジエの行った「化学革命」のようなことが生物学においても起きるには一面の強調ではなくもっと優れた切り口で生命現象を考えることが肝要だと考えるが、そのような事業に少しでも携われるならそれは大変喜ばしいものだと思って努力に暇はない。

 

***

 

ラヴォアジエの同僚だったAntoine François, comte de Fourcroyはラヴォアジエの死後、アーセナルにあったラヴォアジエの家と実験室に集まった科学者たちに向かってこう書かれた文章を残している。

 

Twice a week at this home he held gatherings to which were invented those men most distinguished in geometry, physics, and chemistry; instructive conversations, exchanges resembling those which had preceded the establishment of the academies, there became the center of all enlightenment. There were discussed the opinions of all the most enlightened men of Europe; there were read the most striking and the newest passages from works published by our neighbors; there were theories compared with experiment… I shall never in my life forget the privileged hours which I spent in those erudite exchanges where it was so pleasant for me to be admitted…Among the great advantages of those meetings, that which struck me the most and whose invaluable influences soon made itself felt in the heart of the Academy of Sciences, and subsequently in all the works of physics and chemistry published for twenty years now in France, is the harmony which was established between the manner of reasoning of the geometers and that of the physicists.Precision, severity of the language, of the expression, and of the philosophical method of the former, passed gradually into the minds of the latter.

 

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フランス革命 (VI) ━ラヴォアジエの死

1792年、ラヴォアジエは政界を退いた。復帰を要請するルイ16世に対し、以下のように珍しく腹を割った手紙を返信している。

 

Sire, I wish to assure you that is neither craven fear, which is foreign to my character, nor indifference to public affairs, nor a feeling that I lack the necessary force, that obliges me to decline the offer, which honors me by indicating your majesty’s confidence in me, to serve as head of the ministry of public revenues. While serving in the National Treasury I had ample evidence of your majesty’s patriotic feelings, of your sincere concern for the happiness of the people, of your unwavering rectitude, and of your steady probity. I am therefore aware in ways that I cannot express of what I am denying myself by forgoing this opportunity to become an instrument of such feelings towards the nation.

It is, however, the duty of an upright man and citizen to not accept an important position unless he can expect to fulfill his obligations to their full extent.

I am neither a Jacobin nor a Feuillant. I am a member of no society or club. Being accustomed to weighing everything on the scales of my own conscience and reason, I would never consent to allowing any party to determine my views. I have with heartfelt sincerity sworn to uphold the constitution, which you have accepted, and the powers granted by the people to you, Sire, you who are the constitutional king of the French, you whose hardships and virtues are not adequately appreciated. Convinced as I am that the Legislative Assembly has exceeded its constitutionally defined limits,what should a constitutional officer do? Someone in that position, being unable to act according to his principles and his conscience, would appeal in vain to the law to which all Frenchmen are bound by a most solemn oath. Such resistance as he might suggest, by employing the means which the constitution allows your majesty, would be seen as a crime. He would perish, a victim of his sense of duty, and his inflexible character would become an additional source of unhappiness.

Permit me, Sire, to continue to dedicate my remaining labors and my existence to service to the state in some less important position, one in which my efforts can perhaps be of greater and more lasting usefulness. Being devoted to public education, I will look for ways to instruct the people on their duties. As a soldier and citizen I will bear arms for the defense of the country, for the defense of the law, and to defend the imprescriptible rights of those who represent the people of France.

 

ジャコバン・クラブから立憲君主派が脱退し、政局が安定しない中で財政健全化への努力が悉く無視され、無力感を感じたラヴォアジエが自分の出来ることをしようと研究や教育に打ち込みたいという気概が見て取れる。ラヴォアジエはどんな状況でも最善を尽くそうという一方で、無駄な努力をしないようにする冷静さも持ち合わせていたようだ。

 

1793年、50歳の時にラヴォアジエはロベスピエールらの攻撃から科学者を守るため、次のような文章を起草する。

 

The Academy of Sciences should be evaluated in two different ways: first as a company of many men of learning who work in common for the advancement of science, for the progress of the arts and national industry, and for the stability of the human spirit; second, as a permanent and continuously active committee that the duty constituted authorities can consult and make use of for such purposes as require their attention.

 

The sciences are not like other literary pursuits. The man of letters finds everything he needs to develop his talent in society…It is not the same in sciences, most of which cannot be successfully pursued by isolated individuals. A collective effort is required: often, to come to a conclusion, contributions from many different specialists are needed… All the sciences help one another in constructing the great edifice of human knowledge.

 

Finally, the Academy of Sciences is at this very moment charged by the legislative body with duties of the highest importance…We ask the Convention to pause for a moment to consider one of the finest enterprises undertaken to achieve human happiness, one of the greatest legacies of the French Revolution, the establishment of a universal system of measurement…

This plan can only be brought to conclusion by the Academy of Sciences, which alone can carry it through. Consequently, the completion of this task, which of interest to everyone on the earth, is closely tied to the existence and preservation of the Academy.

Does the National Convention wish to terminate the progressive development of the arts and sciences in the French Republic? Does it wish to suspend investigations that it has itself initiated?

 

この文章の意図は成功したかに見えたが、その直後のマラーの死により事態は暗転し、ダヴィッドがマラーを神格化する感情的な演説をぶってラヴォアジエへの風当たりは強くなり、ラヴォアジエや義父のJacques Paulzeらは逮捕された。逮捕の理由は徴税請負人として不正を行っていたというものだったが、その証拠が何も挙がらないまま革命裁判所は彼らを処刑し、それから200年以上経った現在でも未だに不正の証拠は発見されていない。また、これには同じ徴税請負人のAntoine Dupinが保身のために他の徴税請負人たちに財政不全の原因を擦り付けようとしたことも関わっている。トクヴィルの仕事からも現代の研究からも、フランス革命時の財政難は政治的指導者の失策によるもので、行政システム自体は市民革命後と比べても遜色のないものになっていたとされている。つまり官吏のラヴォアジエに責任があったのではなく、ルイ16世にしろロベスピエールにしろトップに責任があったということになっている。それが財政難の原因となった「犯人探し」の一環として、ラヴォアジエらが血祭りに挙げられたのだった。当時の民衆の全く合理的でない感情的な行動は、マラーの文章が簡単に受け入れられたことからも明らかだ。

 

ラヴォアジエは逮捕後の法廷で、革命に対して物申すことは一切せず、徴税請負人や火薬監督官としての仕事には一切言及せず、科学者と市民としての務めのみを主張して自己弁護を行った。この理由ははっきりしておらず、自己保身のためにはタレーランやフーシェのように媚び諂ってでも上手く立ち回るべきだったという意見が読んだ本に書かれていたが、とりあえず先程ボールドにした次の文章に注目して欲しい。

 

He would perish, a victim of his sense of duty, and his inflexible character would become an additional source of unhappiness.

 

国王への手紙にあるこの文章から見て、ラヴォアジエが本当に状況に応じて媚び諂うことが出来ない人間だったかどうかは疑問に思われる。上に挙げたことは彼なりの倫理規範の為せる業だったのかも知れない。これが本の中で“naïve” とされているが、些か的外れではないかと思われる。これらのことがいとこへの最後の手紙へと繋がってくる。

 

I have enjoyed a reasonably long and above all a happy life and I trust my passing will be remembered with some regret and perhaps some honor. What more could I ask for? I will probably be spared the troubles of old age by the events in which I find myself embroiled. I shall die while in my prime, which I count as another of the advantages I have enjoyed.My only regret is not having done more for my family. I am sorry to have been stripped of everything and to be unable to give you and others tokens of affection and remembrance. Evidently it is true that living according to the highest standards of society, rendering important services to one’s country,and devoting one’s life to the advancement of the arts and human knowledge is not enough to preserve one from evil consequences and dying like a criminal!

I am writing today because tomorrow I may not be allowed to do so and because I find it a comfort in these final moments to think of you and others who are dear to me. Be sure to tell those who are concerned about me that this letter is address to them all. It is probably the last I shall write.

 

1794年、彼は義父とともに断頭台の露と消えた。妻のマリー=アンヌとの間には子供は居なかった。訴えられた45名の徴税請負人のうち18名は死を免れたが、それは賄賂に依るものだった。それが58日のことで、ちょうど1カ月後の68日にはロベスピエールらにより最高存在の祭典が開かれる。しかしこの時既にロベスピエールらに対する反感は燻っており、テルミドールのクーデター後の728日、ロベスピエールらも処刑されることになる。

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フランス革命 (V) ━行政官ラヴォアジエ

ラヴォアジエ自身はアカデミーのメンバーとして選ばれたことで年2000ルーブルの収入があったが、これだけではブルジョワ的な生活は送れなかったので、25歳の時に徴税請負人の職にも就く。これを皮切りに彼は科学だけでなく行政にも精を出す。彼は基本的にはルイ14世の財務総監ジャン=バティスト・コルベールの精神を受け継ぎ、管理社会を重視しイデオロギーを軽視していた傾向があった。ただ、中央集権と個人の自由はケースバイケースで判断されるべきものだと考えていた。例えば混ぜ物煙草の取り締まりは厳しく行ったが、その関係者の処罰は状況に応じて寛大な措置を採った。彼はフランスの黒人奴隷解放運動の組織の初期メンバーの一人でもあった。

 

ラヴォアジエは1775年、ジャック・テュルゴーの影響下で31歳の時に王室火薬監督官となり、火薬は硝酸カリウムから酸素が放出されるので大気に触れずに燃焼反応を起こすことを指摘した。当時のフランスでは火薬商人は政府から特権を与えられて材料を供給されていたため、コストダウンやスケールアップへの努力を怠っていた。しかしフランスは1763年の七年戦争後のパリ条約でインド領を失い、オランダなどに火薬の原料の硝石を依存するようになって軍事的にも経済的にも危機を迎えた。それがテュルゴーとラヴォアジエの改革によって制度構造上も技術的(硝石採取法や化学的処理法)にも改善が見られ、フランスは硝石の輸入国から火薬の輸出国へと早変わりし、アメリカ独立戦争、フランス革命やナポレオン戦争の原動力となる。死の商人ではないかという批判もあるだろうが、このことは市民革命の遂行にも間違いなく影響を与えた。ちなみにテュルゴーやラヴォアジエは硝石の競争的研究を科学者たちに促したが、これは人類の叡智の進歩に寄与すると謙って要請していた。

 

ラヴォアジエはまたテュルゴーの影響を受けて重農主義者となり、農産物の交易の自由化を訴えた。当時は作物学が農家に流布していて彼らは実践的・技術的であり、重農主義者は理論的で環境重視の立場を採っていた。ラヴォアジエはその二集団の橋渡しをしようと1778年に自分で買った土地で農業を営み始めた。そして9年間の操作実験の結果、当時の状況では財政改革を農業改革よりも優先させる必要があるという、重農主義者としては不本意な結論に至る。しかしここにもラヴォアジエの実証精神が現れている。1784年には後のGNPの概念に繋がるinput-output modelを提出し、経済学者の先駆けともなる。さらには「動物磁気」を使うというニセ科学に属する医療法のメスメリズムの無効性を盲検により暴いた。以下のような文章が残っている。

 

The government cannot remain indifferent to questions that affect the lives and health of citizens. According to the system of Mesmer and his disciples, everyone can, simply through the control of magnetism, cure others. If this is so, the entire science of medicine becomes useless. Its school should be closed, its system of instruction changed, the institutions that serve as repositories of medical knowledge destroyed, and everyone should study magnetism. On an issue of such importance, the government ought to guard against too facile acceptance and absolute belief.

 

ただ、この一件は既に自分の「発明」を無意味だとコテンパンにされたマラーのさらなる怒りをかった。マラーもメスメリズムの信奉者だからだった。

 

フランス革命勃発後の1791年、科学アカデミーの在り方について次のような課題が提出される。以下抜粋―

 

Discussions of the authority of science naturally focused on the Academy of Sciences. The issues in dispute can be grouped into three general questions: (1) how should the Academy be reorganized so as to incorporate the new principles of liberty and equality; (2) who should decide which inventions are useful and how their authors should be rewarded;and (3) how is truth to be determined in a democratic society? In raising and addressing these questions about science and society, the Revolution opened the modern debate, which continues today, over the proper relations between science and politics.

 

これはまるで別の時代のどこかの国のようだが、原文は1791年のフランスのものだ。これを受けてラヴォアジエとコンドルセ(社会学の創始者で、後のジロンド派)らは動き、研究(Academy of Scienceが担当)と教育(Advisory Office on Practical Arts and Tradesが担当)が一体化した「科学文化」の形成のための制度整備を進め、1795年のInstitut National des Sciences et des Artsの誕生となって結実する。しかしその時には既にラヴォアジエは処刑され、コンドルセは獄死していた。

 

以下にマラーが1791年にラヴォアジエを批判した文章を挙げておく。

 

At the head of them all would have to come Lavoisier, the putative father of all the discoveries that have made such a splash. Because he has no ideas of his own, he makes do with those of others.But since he almost never knows how to appreciate them, he abandons them as rashly, as he took them up, and he changes systems as often as he changes his shoes. In the space of six months, I saw him adhere, one after the other, to the new theory of matter of fire, ignited fluid and latent heat. In a still shorter space of time, I saw him develop a passion for pure phlogiston and then ruthlessly proscribe it. A while ago, after Cavendish, he found the precious secret of making water with water. Next, having dreamt that this liquid was only a mixture of pure air and inflammable air, he transformed it into the king of fuels. If you ask me what he did to be so much lauded, I would answer that he managed to get himself an income of 100,000 livres, that he produced the plan to turn Paris into a vast prison and that he changed the terms acid into oxygen, phlogiston into nitrogen, marine into muriatic, and nitrous into nitric and nitrac. These are his claims to immortality. Trusting in his great deeds he is now resting in his laurels.

 

お分かりだとは思うが、これは全く論理的な批判になっていない。主観的表現が幾つも見られるだけではなく、いろいろ問題がある。

 

Because he has no ideas of his own, he makes do with those of others.

>このような主張をするのなら彼のどの論文のどのデータがこれに該当するのかを例示すべきである。それが実証主義である。

 

But since he almost never knows how to appreciate them, he abandons them as rashly, as he took them up, and he changes systems as often as he changes his shoes.

>この主張をするのなら、彼の行動が革新的なものではなく問題のあるものだということを、彼の論文上の議論と彼以外の人の論文に対する彼の評価に基づいて判断しなければならない。

 

In a still shorter space of time, I saw him develop a passion for pure phlogiston and then ruthlessly proscribe it.

>フロギストン説は今日では否定されているが、ここでも当時の基準に従って何が問題なのかを論文に基づいて議論するべきだ。

 

A while ago, after Cavendish, he found the precious secret of making water with water.

>この業績のポイントはそれまで元素だと思われていた水が水素と酸素という全く異なる性質を持つ物質に分解でき、それらを再結合させることが可能だということの筈だ。このアイデアは各物質の質量の変化から裏付けられる。しかし、この文章からはそのようなことは少しも伺えない。

 

Next, having dreamt that this liquid was only a mixture of pure air and inflammable air, he transformed it into the king of fuels.

>酸素が燃焼反応の主役なのは今日では認められているが、どの実験結果からそれが認められていないと考えられるのか、この文章からは伺うことが出来ない。

 

If you ask me what he did to be so much lauded, I would answer that he managed to get himself an income of 100,000 livres,that he produced the plan to turn Paris into a vast prison

>パリ市の壁が増設されたのは、パリへの移出入の際、脱税者が全体の2割あったからだ。

 

and that he changed the terms acid into oxygen,

>これは「酸素」という日本語にもある通り、ラヴォアジエの間違いである。

 

phlogiston into nitrogen,

>ラヴォアジエはフロギストン説を否定しているので、何故ここで窒素が出てくるのかが不明である。

 

marine into muriatic, and nitrous into nitric and nitrac.

marinenitrousのように、例えば塩基としての共通性を持つ物質に-icという共通の語尾を持たせるよう命名するのは合理的だと思うが、それに対する反論がここでは示されていない。尚、現在ではnitricが五価の、nitrousが三価の窒素化合物に使われている。

 

Trusting in his great deeds he is now resting in his laurels.

>彼のどのような行動・言動からそう予測されるのか、証拠が全く示されていない。

 

お分かりだと思うが、この文章はevidence-basedという構造を全くとっていない。こういう抽象的な物言いでは何もかもが誤魔化されて何でもありになってしまう。例えばTwitterは速報性のある短い日常会話や情報提供には向いているが、込み入った議論をするには140字で切られて内容もすぐに流れてしまうため全く向いていない。日常会話ならともかく、上のマラーのような文章でもラヴォアジエの文章(きちんとした説明が必要)と区別がつかなくなる恐れがある。Twitter上で「議論」とされているものは研究室内で行われる専門的な議論とは全く異なり方向性が直ぐにずれるので、そこはメディアの違いとして使い分けた方が良い。

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フランス革命 (IV) ━化学革命

ラヴォアジエは1764年、21歳の時に「化学」という学問を成立させることを考え始める。その基礎となったのがニュートン以来の物理学の概念に依るのでなく、実験的に実証する態度に重点を置くということで、これは我々現在の生物学者にも当てはめるべき態度だ。これは同時代の「ニュートン化学者(ニュートンの万有引力の法則で化学反応全てを説明しようとした)」ビュフォンの態度と真っ向から対立するものだった。化学反応において主体的な働きをする電磁気力と重力のスケールは全く異なることが当時既に分かっていたのだが、多くの人々は依然として美しい万有引力の法則で全てを説明しようとし、袋小路に陥っていた。ラヴォアジエら一部の学者はそうは考えていなかったのだが、当時は電磁気力を詳しく解析出来る技術がなかったため、その詳細には手を出さなかった(電磁気力の研究にはラヴォアジエの次の百年に一人の逸材、マイケル・ファラデーの登場を待たなければならなかった)。ビュフォンの考え方は実証されていないどころか反証のある考え方なので、現代では「ニュートン化学」というものは最早存在していない。ラヴォアジエは『化学原論』の中で次のように述べている。

 

The only way to prevent errors [based on suppositions] is to suppress reason, or at least simplify it to the greatest extent possible, for it comes entirely from us and if relied on can mislead us.Reason must continually be subjected to experimental proof. We must preserve only those facts that are given by nature, which cannot deceive us. Truth must only be sought in the natural connection (enchainement) between experiments and observation, in the same way that mathematicians arrive at the solutions of a problem by a simple arrangement of the givens. By reducing reason to the simplest possible operations and restricting judgment as much as possible, they avoid losing sight of the evidence that guides them.

 

The rigorous law from which I have never deviated, of forming no conclusions which are not based on experiment and of never interpolating in the absence of facts, has prevented me from addressing in this work the branch of chemistry that is most likely to become an exact science, namely that which deals with chemical affinities and elective attractions.

 

後のアメリカ合衆国大統領トーマス・ジェファーソンはビュフォンの友人であったため、ラヴォアジエのこのような態度を「理論的に未熟」と評していた。しかし彼もビュフォンが実験家を召使いのように扱う様に苦言を呈している。ビュフォンは当時絶大な影響力を持っていたが、今日では忘れ去られて「ナチュラリスト」ではあっても「サイエンティスト」ではないという評価になっている。ビュフォンは1788年、革命直前に亡くなった。リベラルなラヴォアジエの方が貴族的なビュフォンと異なり革命の犠牲となったのは皮肉なことだ。

 

ラヴォアジエの主な業績としては、新燃焼理論の提唱、定量化学の創始、質量保存則の公理化、新元素概念の確立、気体化学の研究、エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤックの影響を受けた化学命名法の確立など多々ある。私はそれ以外にも火(フロギストン)・水・土・空気の四元素説を、現代の物理化学のように物質の構造の科学(現代の量子化学)と固体・液体・気体などの物質の状態の科学(現代の熱力学)に概念的に分けて考察したことを挙げたい。当時の人々は火を現代の熱的なものとして捉え、水は元素と液体の概念がごちゃ混ぜになったものとし、同様に土と空気も元素と固体・気体の概念がごちゃ混ぜになったものとして捉えていた。ラヴォアジエは化合物としての水は状態を変化させうる(「液体」の水が蒸発・凝縮・凝固・融解する以外に、水和物としても存在しうるのがポイント)事を示した。また土も空気も元素論的には混合物であること(例えば植物の成長にともなう質量の増加は水や土だけでなく空気中の何物かの寄与も考慮しなければならないことを見出し、それが後に二酸化炭素であることを示した。また呼吸や炭水化物などの概念も考案した。)を示していった。熱に関しては当時支配的だったフロギストン説やラヴォアジエの「熱素」という考え方は現代のミクロには分子運動論的な「熱」とは異なる概念だ。熱に関しては1783年、ラヴォアジエ39歳の時にラプラスと共同で発表した液体の蒸発や気体の固化に関する理論やその後の燃焼理論などラヴォアジエの業績も大きい。しかし基本的には粒子の運動や集合状態を仮定した17世紀のイギリスの物理学者ロバート・ボイルの視点が優れていた。しかしそれを差し引いてもラヴォアジエが近代化学のフレームワークを形作っていったことは疑いようがない。この流れはジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック、ジョゼフ・フーリエ、ニコラ・レオナール・サディ・カルノーらの熱力学の発展へと受け継がれる。

 

燃焼理論に関しては、例えば有機物を燃やせば二酸化炭素と水などができて固体の質量は少なくなり、それはフロギストンという火に関係する物質が抜けて行くからだと当時は考えられていた。しかしラヴォアジエはリンを用いて燃焼により空気中の何物か(後に酸素であることを示す)が固定されて質量は増加する場合もあり、しかもその増加分は空気中の水蒸気が結合したものではないことを今の中等課程の学校の実験器具程度の機器で証明した(暇な方はどうすれば証明できるのかを考えてみて下さい。勿論「飽和水蒸気の量」などを考えてはいけません。)。質量が増えるのにフロギストンが抜けるのはフロギストンが負の質量を持つからだなど言い訳はいろいろあったようだが、ラヴォアジエの燃焼理論に比べればややこしいだけのものだったので、ラヴォアジエの理論が次第に受け入れられていった。ラヴォアジエの新燃焼理論についての文章を引用しておく。現代的視点からすれば合っている部分と誤解を生む部分がある。

 

These reflections confirm what I have stated, wish to prove, and will repeat again: the chemists have made phlogiston a vague principle that is not rigorously defined and hence can be adapted to whatever explanations one wishes. Sometimes the principle has weight and sometimes it does not, sometimes it is free fire and sometimes fire combined with an earthy element, sometimes it passes through the walls of containers and sometimes it cannot penetrate them. It explains simultaneously causticity and non-causticity, transparency and opacity, colors and the absence of color. It is a veritable Proteus which changes form instantaneously.

It is time to lead chemistry to a more rigorous way of reasoning, to strip the facts with which this science is enriched every day of whatever speculation and prejudice have added to them, to distinguish facts and observations from systems and hypotheses, and finally to take note of the current state of chemical understanding so that those who succeeded us can move forward with confidence.

 

From this we see that the molecules of bodies do not touch, that there is a space between them that heat increases and cold diminishes. One can hardly think about these phenomena without admitting the existence of a special fluid which when accumulated causes heat and when rarefied causes cold. It is no doubt this fluid which gets between the particles of bodies, separates them, and occupies the spaces between them. Like a great many physicists I call this fluid, whatever it is, the igneous fluid, the matter of heat and fire.

 

I do not imagine that my ideas will be adopted all at once. The human mind becomes accustomed to particular ways of seeing things and those who have perceived nature from a certain point of view during part of their careers will find it difficult to adjust to new ideas. Time alone will confirm or destroy the opinions I have presented. In the meantime, I note with great satisfaction that young men who are beginning to study science without any prejudices, and mathematicians and physicists who are open-minded about the truths of chemistry, no longer believe in phlogiston in the sense in which Stahl presented it. The consider this doctrine a scaffold that is more embarrassing than helpful for the further construction of chemical science.

 

次いで質量保存則についての文章も挙げておく。当時の考え方はこうだったが、保存則や対称性の破れに関しては現代でも研究が進められている。

 

Nothing is created either by human action or in natural operations. It is a fundamental truth that in all operations there is the same quantity of matter before and afterward and that the quality and quantity of the material principles are the same; there are only alterations and modifications. The entire art of making chemical experiments is founded on this principle. One must assume in every case that there is a true equality or equivalence between the material principles of the bodies examined and those obtained by analysis.

 

化学命名法に関しては以下のような名文がある。

 

The series of facts that make up science;the ideas that recall the facts; and the words that express them. The word ought to bring about the birth of the idea; the idea should depict the fact;they are three imprints from the same stamp. And science it is words that preserve and transmit ideas, the result is that it would be impossible to improve science without improving its language. However true the facts, however exact the ideas it would bring into existence, they would still transmit only false impressions if one did not have the precise expressions for rendering them. The perfection of the nomenclature of chemistry, envisaged from this perspective, consists of rendering ideas and facts in their exact truth,without omitting anything of what they present, and especially without adding anything to them: it must be nothing more than a faithful mirror.

 

有機化学に関してはこのような名言がある。

 

We have seen how a small number of simple substances, or at least not yet decomposed substances, such as nitrogen, sulfur,phosphorus, carbon, the muriatic radical and hydrogen, form, when combined with oxygen, all the oxides and acids composing the vegetable and animal kingdoms:we have admired the simplicity of the means by which Nature multiplies properties and forms.

 

同時代の化学者アントワーヌ・ボーメの書いた文章と比較すると、その先見性は明らかだ。

 

I consider nature a vast chemical laboratory in which all kinds of compositions and decompositions are formed.Vegetation is the basic instrument the Creator uses to set all of nature in motion. Vegetables are organized bodies that grow on the dry areas of globe and within waters. Their functions is to combine immediately the four elements (water, earth, air and fire) and to serve as food for animals. Nature uses both kingdoms to form all existing combustible matter.

 

何が言いたいのかよく分からず、突っ込みどころ満載だ。

 

フランス革命時のメートル法制定の際に国際キログラム原器の作製に着手したのもラヴォアジエだが、彼は暫定原器の完成直後に逮捕された。現代でもSI単位系で唯一普遍的な物理量でなく人工物で値が定義されているのはラヴォアジエの後輩が作製した白金―イリジウム合金の原器だ。度量衡制度が精細に整備され、誤差の原因がトレースされる状態になければ工学が成り立たないのはお分かりになると思う。

 

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フランス革命 (III) ━ラヴォアジエ生い立ち

アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ(17431794)は化学者・行政官として活躍し、経済学者や有機化学者の先駆けとなり、何よりも近代化学の創設者として歴史に名を残した。彼の主著『化学原論』は1789年、バスティーユ襲撃によりフランス革命の勃発した年に発表された。彼は錬金術の時代から近代化学への変革を成し遂げるとともに、市民革命の遂行ともリンクした一生を送り、科学革命と社会革命をともに体現した。

 

***

 

ラヴォアジエの生きていた時代は、フランス革命まではアンシャン・レジームがまだ幾許か残っていたので、名誉を重視して社会的地位を確立することが人生の目標であることが多かった。ラヴォアジエも多分に洩れず法学を学び、1766年、22歳の時にパリ市の市街照明の効率化に関する論文で社会貢献をして賞を貰った。その結果もあって1768年、24歳の時にフランス科学アカデミーのメンバーに選ばれた。その時にいとこから貰った喜びの手紙が、彼の人と生りをよく表している。

 

I have long expected, my dear friend, to someday see your literary efforts honored by an academic appointment, but I did not expect it to happen so soon. In truth, dear friend, other young men will no longer want to consider you one of their colleagues: you have spoiled their game,for at an age when others seek only pleasure, frivolity, and dissipation, you work so seriously that you are accepted as a member of the Academic of Sciences in Paris. Nonetheless, I congratulate you with all sincerity for an appointment that would be an honor at any age, but especially at your age. Be careful,however, to take good care of your health while you are working, for you seem to be inclined to work a great deal.

 

最後の一文だが、彼は19歳の時には牛乳だけを摂取して生きられるかどうか自分の体を張って実験し、

 

Your health, my dear mathematician, is like that of all men of letters in whom spirit is stronger than the body. So be sparing in your studies and accept that another year on earth is better than a hundred in the memory of man.

 

と彼の運命を予兆していたかのような窘めを受けている。またパリ市の照明方法の仕事の際には、「私を暗闇の中に6週間閉じ込めろ!そうすればどんな些細な明るさの違いも判断出来るようになる!」と言っていたそうだが、本当にその言葉が実行されたかどうかは今となっては知る由もないそうだ。

 

 

ラヴォアジエにとっては、少なくともフランス革命までは科学上の理論的・実験的成功と実生活での社会的・文化的成功は同様に価値あるもので、彼は封建主義を嫌って民主・平等・個人主義的考えの18世紀的フランス文化人として生きようとしていた。そのため自然を神格化して政治は派生の産物であるとは思っていなかった。これにはブルジョワ家系の影響や実験物理的な手法の師匠に当たるJean-Antoine Nolletの影響があったと思われる。彼の後輩の数学者ピエール=シモン・ラプラスや化学者クロード・ルイ・ベルトレーもこの精神を受け継いでいた。

彼は直ぐに死別したがニコラ=ルイ・ド・ラカーユに数学と天文学を学び、化学はL.C. de la Plancheから、植物学はBernard de Jussieuから、地学はJean Étienne Guettardから、物理は先程のJean-Antoine Nolletから学んだ。要するに自然科学全般を学び、特にNolletとラカーユが彼に観察と実験の重要性を叩きこんだ。ラヴォアジエの科学者としての初期のキャリアはGuettardと共同で行ったフランスの地質調査から始まった。この時のラヴォアジエはフィールドワークを楽しんでいたが、その鉱物の組成を調べる必要性が、彼を化学の道へと駆り立てて行った。

 

ラヴォアジエは実験家としてよりは理論家として有名だが、彼は実験を軽視していたのではなく寧ろ非常に熱心に行い、自分は実験家であると生涯公言していた。ただ今から振り返れば同時代には酸素を発見するなど気体の化学で先駆的な発見をしたイギリスのジョゼフ・プリーストリー(彼も政治的発言の結果、家と実験室を焼かれた)などがおり、実験的にはラヴォアジエは後塵を拝していた。ただプリーストリーらの解釈は現代から見れば誤りが多く、追加実験をして現代的にも正しい解釈をしたのはラヴォアジエだった。

 

ラヴォアジエが1790年と1792年に書いた化学教育用の論文に、彼の当時の化学への考え方が表れている。

 

When I first took up the study of chemistry I was surprised by the number of difficulties that surrounded the approach to this subject, this despite the fact that my instructor taught clearly, was well disposed towards students, and made every effort to help us understand. I had had a good philosophy course and had taken the experimental course taught by the Abbé Nollet. I had also grappled with some success with elementary mathematics as presented in the works of the Abbé Lacaille and had taken his course for a year. I had in addition become familiar with the rigor with which mathematicians reason in their treatises. They never prove a proposition unless the preceding step has been made clear [découverte]. Everything is tied together, everything is connected, from the definition of a point to a line and on to the most sublime truths of transcendental geometry.

 

In chemistry everything was otherwise. From the outset one began by supposing rather than proving. I was presented with terms that were not defined and could not be defined without invoking knowledge that was utterly foreign and that I could not have known unless I had studied all of chemistry. When my instruction in this subject began, it was assumed that I already knew it.

 

I managed to gain a clear and precise idea of the state that chemistry had arrived at that time. Yet it was nonetheless true that I had spent four years studying a science that was founded on only a few facts, that this science was composed of absolutely incoherent ideas and unproven suppositions, that it had no method of instruction, and that it was untouched by the logic of science. It was at this point that I realized I would have to begin the study of chemistry all over again.

 

Chemistrybiologyに変えれば今でも当てはまりそうな気がするので、耳の痛い限りである。分子生物学は元々物理系の人々が基礎を造ったが、従来の生化学的な手法や生物物理学的な手法の他に、分子遺伝学的な解析を行ったことがターニングポイントとなった。即ち、遺伝子の変異を用いて生細胞でも実験条件と対照条件の存在を作り出したことだ(一つの遺伝子に全ての根源を仮定することではない)。生化学だけではシンプルな解析が可能な反面、生細胞の条件と同じであるかどうかは分からない。生物物理学だけでは生物学的に意味のある現象を観ているのかノイズを観ているのかの区別がつかない。

“The effects of molecular noise and size control on variability in the budding yeast cell cycle.” Nature (2007) 448:947-51. という論文があるが、この論文では細胞の大きさのバリエーションがCln3p依存性のサイズ依存性ノイズとCln2pにより阻害される時間依存性ノイズの2成分に依ることを示している。この時に遺伝子変異株を用いて2成分が1成分になることを人為的に示している。生物物理学では良く2成分系の方が1成分系より当てはまりが良いので2成分であると短絡的に考えがちだが、そのデータのバラつきを説明出来るモデルは無限に存在する筈で、分子生物学的な証拠としては弱い。タンパク質をコードする遺伝子の変異によって2成分が1成分になることを示して初めて2成分のノイズが形而上学ではなく現実に存在するものとして現れるのである。このように操作実験なしには生物学において確からしい議論をするのはなかなか難しい。これが‘supposing’ ‘proving’ の違いである。

Antoine Lavoisier: Science, Administration and Revolution (Cambridge Science Biographies)
Arthur Donovan
Cambridge University Press(1996/04/11)
値段:¥ 3,200


Lavoisier: Chemist, Biologist, Economist (Chemical Sciences in Society)
Jean-Pierre Poirier
Univ of Pennsylvania Pr(1998/02)
値段:¥ 2,451


 


 

 

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フランス革命 (II) ━マクシミリアン・ロベスピエール

ジャコバン独裁の中心人物、ロベスピエールの思想は社会権に関しては先進的なもので、女性の選挙権を当時の議員の中でただ一人認めていたのもロベスピエールだった。彼の理想は本来、現代にも通じるものだった筈だ。

 

ロベスピエールが指導したジャコバン派は反革命体制やその理想主義に従わない者への憎悪から対抗派の弾圧、即ち「恐怖政治」を敢行する。しかし、年齢の若いジャコバン派にはリシュリューのような政治的手腕はなく経済は混乱し、ただ監視能力があるのみだった。ルソーの『社会契約論』の理想に固執した原則主義や融通の利かなさが目立っていた。経済政策においては土地分割による土地所有者階級という新たな階級の創出とコミュニティのさらなる分裂を招き、紙幣の乱発によるインフレーションの勃興も引き起こしてしまった。政治的にはダントンなどの寛容派の人々、政治犯に寛大で憲法の修正施行や国外での平和、自由貿易、身分証制の廃止などを求めていた人々を血祭りに挙げてしまう。ダントンはプロイセン・オーストリア連合軍との情報戦の際には怪しげな連中と通じて領収書を切らずに金を投与して情報収集をしていたかどで告発されたが、国家の危急存亡の秋にそのようなことをしたのは仕方がなかったのではないだろうか。ロベスピエールの清廉潔白さと、極端な性善説にも性悪説にも染まらず汚濁も併せ呑んだダントンとの差がみてとれる。

 

ロベスピエールの活動は終始アルトワとパリ内に留まり、彼が世界的な展望を持った政治家ではなかったことは伺える。彼はダントンやデムーランと異なり家庭を持っていなかったので、人間関係も融通の利かない寛容性を欠いたものだったのかも知れない。

ルソーは『エミール』でこう述べている。

 

あらゆる美徳のうち、正義は人々の共通の幸福に最も役立つものである。道理から言っても、我々に対する愛から言っても、我々の隣人よりも人類に対して遥かに大きな同情を持たなければならない、そして、悪人に対する同情は人間に対して非常に残酷なことになる。

 

自分に反対する人は全て悪人、人類の敵であると勘違いしたロベスピエールの考えが、この文章に形容されているようである。ここには問題が二つあり、一つは自分の善悪の判断が本当に適切なのかどうかということと、仮に相手が本当に悪人であったとしても社会的・政治的には付き合っていかなければならない場合もあるということである。融通の利かない人々はこれらの事柄を柔軟に考えられない。

 

マラーを殺害したシャルロット・コルデーの処刑の際には周りに興奮した調子で捲し立てていたというロベスピエールも、ダントンが処刑の際に「私はロベスピエールを引きずってゆく。ロベスピエールは私の後を追ってくる。」という名台詞を投げかけた際には自宅の中でカーテンを完全に閉め切って真っ暗な中でその言葉を聞いていたそうだ。この時のロベスピエールが怯えた表情でそれを聞いていたのか、それともダントンの最初の妻の死の際には「自分はあなたを死ぬまで愛する」と喋りかけた学友の処刑を暗い気持ちで自身に問い続けていたのか、実際には分からない。しかし独裁体制が整ってほくそ笑んでいたのではなかったことは分かる。彼は「清廉の士」として弟妹や下宿の大家一家からは大変慕われていた。彼が政治家にならず弁護士としての道を歩み続けていたり、また現代のように彼の理想にもっと近づいた時代に生まれていれば違った人生を歩めたかも知れない。彼の生まれた時代や彼自身の判断が彼の人生を歪めてしまったようだ。

 

 

フランス革命は結局のところ社会保障や民法、共同体、度量衡制度、選挙権、教育制度において現代世界のものと通じるものを産み出す原動力となった。ナポレオンのヨーロッパ席巻によりそれは決定的となる。フランスに産業革命が起こってロベスピエールの成し得なかった民衆の経済的基盤が確立した時、真の民主主義への道が開かれたのかも知れない。そこには自由と平等に基づいた、絶対主義体制を上回る経済的に豊かな国が実現していた。多くの人々の血の上にフランス人権宣言やそれに連なる日本国憲法の精神などが受け継がれ、現代人の生活が成り立っていることは記憶に値する。

ロベスピエールとフランス革命 (岩波新書 青版 209)
J.M.トムソン
岩波書店(1955/07/20)
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フランス革命史〈上〉 (中公文庫)
ジュール ミシュレ
中央公論新社(2006/12)
値段:¥ 1,400


フランス革命史〈下〉 (中公文庫)
ジュール ミシュレ
中央公論新社(2006/12)
値段:¥ 1,400


パリの断頭台―七代にわたる死刑執行人サンソン家年代記
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法政大学出版局(1987/08)
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フランス革命 (I) ━旧体制と大革命

年の瀬で宇治の実家に帰ってきています。年末年始はこちらの山にも登る予定ですが、その他に昔書いたフランス革命についての文章をアップしていき、お茶を濁そうと思っています。

 

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ミシュレ『フランス革命史』(中公文庫)では君主制の腐敗がフランス革命を招いたとされているが、君主制の問題は単なる切掛けに過ぎず、フランス革命による変革の下地となる政治体制は実は革命のずっと以前より長い時間をかけて醸成されてきたものだというのがトクヴィル『旧体制と大革命』(ちくま学芸文庫)の肝要である。

 

18世紀のフランス革命を語るには理論家たちによる啓蒙思想抜きではままならない。「はじめに言葉ありき」という聖書の言葉と同じく、啓蒙家たちの言葉が受け入れられる社会的基盤が整ったので市民革命が成就されたのである。18世紀哲学では平等・特権の廃止・人民主権・社会的権力の全能性・規則の画一性などが謳われていた。またあらゆる権力・勢力・階級の打倒が叫ばれ、教会への攻撃も行われていた。

特権とは出自・富・知識の差異により生じるものである(これに対する応力としては「悪平等」というものがある)。身分間の対立は不平等感と不満感によるもので確かに革命の原動力となったであろう。フランスの絶対主義者たちは王権を強化して封建的な貴族の力を弱め君主の政治的基盤を確固たるものとするため、行政や司法において(註:フランス司法は当時既に王権からの独立性の強いものだった)貴族の政治的権力を奪うと同時に金銭的特権は奪わず、富や知識を持つブルジョアが出自の良く富や知識も持つ貴族を憎悪するような政策を進めた。また経済の発展によりフランス国内の動産の価値が不動産の価値に比べて相対的に上昇し、不動産を持つ封建貴族と動産が主体の平民との間に経済格差がなくなってきた。その政策が啓蒙主義と合わさり、革命評議会では階級特権の放棄(職務の世襲性や栄誉譲渡権の放棄)が定められた。中央からの画一的な統制のためには平等化は必要で、ミラボーは絶対主義を推し進めたルイ13世の宰相リシュリューなら「絶対主義よりも優れている」と諸手を挙げて喜んだだろうとしている。絶対主義の理想では人格が優れているとされる啓蒙専制君主が貴族の力を弱めて上から改革を行うことにより富国強兵と人民の幸福を行うものだとされていた。そのためプロイセンのフリードリヒ2世は農奴制の一部廃止などを行った。またフリードリヒ大王法典では市民相互の関係や市民と国家間の関係を規定したフランス人権宣言に類似の考え(国家の利益や国民に対する福祉、公共の利益のみが市民の自由権を制限することが出来るなど)が現れていた。ただしフランス革命自体は他の国の啓蒙専制君主たちからは権力基盤を揺るがすものと捉えられ、ロシアのエカチェリーナ2世は革命の勃発に激怒していた。

 

ミシュレはフランス革命時には国王が議会の無力化を図り、人々の個人・出版・職業の自由権を認めなかったとしている。しかしフランスではそれ以前に封建制の完全な廃止や社会の画一化がまさに行われていた。これは各コミュニティ間の憎悪を高めたことによるコミュニティ相互の分裂と各自のコミュニティへの閉じ籠りを招き、一方王権は広範な影響力を各コミュニティに及ぼすこととなっていた。その中央集権化が整ったところのトップが王権から啓蒙思想に捉われた人々に入れ替わったのがフランス革命という訳だ。ナポレオン後はヨーロッパ各国がこれに従い、帝国主義の時代が訪れる訳である。

 

フランス革命時では身分制は崩れ行くものだったが、ロベスピエールの所属するジャコバン派は議員や上品な市民たちに、ダントンのコルドリエ・クラブは小売商人や学生・職人に、マラーは勤労者に、ジロンド派は中産階級の理論家や自由放任主義者に支持されるといったように、コミュニティ間の分裂や自己利益の追求には芳しからぬものがあった。これらの対立と国外の君主制国家からの外圧が、国内の統一を図るという便宜のための恐怖政治を産み出したようだ。フリードリヒ大王法典にも含まれるが、恐怖政治での一般利益という考えや、一般利益は個人の権利に優先するという全体主義的な考えもこの時には活発に見受けられた。これがジャコバン派の独裁へと繋がった。

 

よってフランス革命がフランス全国規模で起こったのはそもそもフランスの政治体制に起因することからという解釈で理解出来る。また全体主義的傾向から個人よりも一般意志を尊重し、多くの人々を死に至らしめた独裁もコミュニティ間の相互作用・相互扶助の消滅と中央からの命令への画一的な反応から生まれることも理解出来る。

 

 

コミュニティの力学、即ちあるコミュニティの持つ特権の理解と維持、他コミュニティの特権の妥当性の審査や理解などの自己・相互作用が社会体制の維持や変革に於いて重要なのは言うまでもない。コミュニティ間の相互作用が国家の中央集権体制を弱めて戦争や独裁を防ぎ、社会を安定化・保守化して平和にすることが可能になる一方、長い時間が経過すれば必然的にハブとなるコミュニティが形成され、そのコミュニティの盛衰に社会全体が左右され社会の崩壊も招き得るということ、また社会変革にはコミュニティ間の相互作用を弱くして特権も廃止して中央集権化を進め、各コミュニティはトップ以外からは独立したものにする方が良いことはシステム理論からも支持される。

 

 

一時期「運命」という言葉が流行っていたらしいが、歴史はそもそも偶然性の要素が強いもので履歴に大きく左右されて決定論にはなかなか行きつかない。しかしトクヴィル『旧体制と大革命』は、そのような情報の渦の中からも現代の社会理論にも繋がる某かを私たちに示してくれる。ただ有史以来の社会の歴史のごく一部であるとしても、またこの結果がリシュリューやフリードリヒ2世、エリザベス1世が本当に描いていたものなのかどうかはともかく、ここに感じられる「運命」のようなものが私たちの生活にも幾許かの意味を持っていることを感じて頂ければと思う。

旧体制と大革命 (ちくま学芸文庫)
アレクシス・ド トクヴィル
筑摩書房(1998/01)
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中央公論新社(2006/12)
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フランス革命史〈下〉 (中公文庫)
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中央公論新社(2006/12)
値段:¥ 1,400


 


 

 

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山姥

24日は国立能楽堂に特別公演の宝生流仕舞『芭蕉』大蔵流狂言『米市』宝生流能『山姥』を観に行った。

 

『芭蕉』は鬘物で、老女の姿で出現した芭蕉の精が芭蕉の破れ易さに諸行無常を重ね合わせて舞う舞いで、90歳近い人間国宝の三川泉さんが舞われたのでよく合っていた。『米市』は生活の立ち行かない男が施しを受け、その米俵に小袖を被せたものを背負う姿が人を背負っているように見えるところから「俵藤太(藤原秀郷)の娘の米市御両人のお里通い」と法螺を吹くところから巻き起こる喜劇だ。「俵」「米」の洒落が効いた作品。

 

『山姥』は切能物で、能の中でも名曲の誉れ高い曲だ。京では有名な百万山姥という遊女が善光寺にお参りに行く際、本物の山姥が出現する。永遠の大自然と一体となって山廻りを続ける慈愛・親愛を持った目には見えない孤高の存在に、仏教思想を重ね合わせたものが現出する。山姥の山廻り自体が相反する価値も根源においては同一=邪正一如、万物個々に個別の価値があるとする差別観、禅では忌み嫌われる妄執とそれに連なる輪廻転生や菩提による悟り、さらには諸法無我や生き物の生死による涅槃静寂の現れとなっている。『芭蕉』の諸行無常と合わせれば仏教の三法印が含まれた構成になっている訳で、クリスマスイブには相応しい?演目だった。ツレの百万山姥の能面は立ち位置の関係でハレの引きしまった顔立ちよりもケの迷いを見せる表情の方が観客に見えている時間が長かったので、効果的だった。シテの山姥はハレで慈愛、ケで厳しさを見せ、邪正一如が現れていた。ワキが宝生閑さんだったので演目自体が引き締まっていた。太鼓が最後の最後になってようやく叩かれ、舞いが絶頂になるのは演出上素晴らしい。

 

観能後は大学の友人とお食事会。みな恙無かったようで良かった。既婚者二人、未婚者二人の組合せで、結婚する人はそろそろみな結婚してしまっていることが話題になったが、私は昔から周りには左右されないようにしているので今回も特に気にはしていない。お互いに負担になるような関係は続けるべきではないと考えているし、基本的にはお互いが独りでも生きていけて自己完結しているような人どうしの関係が良いと思っている。必然的に独りでも別に何も困らないし寧ろ行動しやすいことになる、ただそれだけである。

 

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『輪るピングドラム』というアニメが終了した。このアニメのフレーズ「生存戦略」は今年の分子生物学会でも講演のタイトルに取り上げられるほどネットでも頻繁に登場したが、アニメには珍しい(演劇ではそれ程でもないが)いろいろな表現が取り入れられている。自動改札機や駅名、発車標が記号としての意味を持っていたり、主要なキャラクター以外が群衆として記号的な表現としてのみ描かれている点などである。あらすじは

 

双子の兄弟である高倉冠葉高倉晶馬の妹の陽毬は、病気によって余命わずかとなっていた。兄弟は妹の願いに応え、自分たちにとって想い出の場所である水族館へと出かけるが、そこで陽毬は倒れ、搬送先の病院で息絶えてしまう。覚悟していたこととは言え、ただ悲嘆に暮れるばかりの兄弟だったが、彼らの目の前で突然、水族館で買ったペンギン型の帽子を被った姿で「生存戦略!」の掛け声と共に陽毬は蘇生した。ペンギン帽子を被っている間に限っては、陽毬であって陽毬でなく、別人格「プリンセス・オブ・ザ・クリスタル」に変わるという状態になっていた。そしてプリンセスは、陽毬を助けたければ、ピングドラムを手に入れろと兄弟に命じる。彼らに添い従う3羽のペンギンを与えられた兄弟は、プリンセスからの指令で女子高校生・荻野目苹果の調査を開始するが、それは過去にも繋がるTSM荻窪線沿線で起きる様々な事件の始まりとなった。(Wikipediaより)

 

となっている。意外性の演出や「生存戦略!」の掛け声とともに脳の中に何かを注入されたようなシーンが繰り広げられるのもこのアニメの魅力の一つだが、プリンセス・オブ・ザ・クリスタルの言うところの「きっと何者にもなれないお前たち」にとっては、「ピングドラム」がキーワードになってくる。運命の果実を他人に分け与えることがこの作品のメインテーマで、「ピングドラム」は冠葉から晶馬、晶馬から陽毬、そして陽毬から冠葉へと輪り輪って返っていく。「きっと何者にもなれないお前たち」にとっては、無償の供与の輪が大切になってくるのだ。

 

ただし、この作品には「きっと何者にもなれないお前たち」からは外れた者たちも登場する。それが運命を変える力を持った桃果であり、それに対する渡瀬眞悧だ。桃果は運命を変えた代償に燃え尽きてしまうし、渡瀬眞悧も肉体が滅びながらも人を操る力を持つが、共にこの世ではない場所でピングドラムの輪の外からこの世を見守っている。フランス革命で言えばラヴォアジエとロベスピエールに相当する役どころだ。ラヴォアジエは化学の世界において物質の構造(現在の量子化学に繋がる)と熱力学を分けて考えることで近代化学の礎を築き、現代の医歯薬農工学の発展は全て彼の業績に基礎を置いているといっても過言ではないし、政治的にもアメリカやフランスでの市民革命の遂行に火薬などの技術的な面で貢献している。一方のロベスピエールは革命の遂行の為に恐怖政治を行ったのは広く知られ、ラヴォアジエもその犠牲となった。

 

「きっと何者にもなれないお前たち」が与え与えられる輪の中で自分の望みを得ているのに対し、そこから外れた者たちは与えた代償が燃えだしたり首を切られたりすることになる。「何者」という言葉は結局ノブレス・オブリージュの言い換えになっているのだと思われる。真実を求めれば自分が得るもののない世界に「某か」を求めて彷徨い出ることは得てしてありそうで、そうなりたくなければ真実でなく自分の望んだもので満ち溢れている世界に身を置くことになる。ほとんどの人が自分の存在は世界から見ればヒトの個体の中で異物と格闘する免疫系の好中球か何かのようなもので、個体の存続に比べればその生死は大したものではないということはまず認めたくないだろう。そういう人は望みの世界の中で恙無く暮らしていければそれでいい筈で、そのこと自体に罪のようなものはない筈だ。「きっと何者にもなれないお前たち」 から外れた者たちは偉大なのではなく、一般には広く認められていない真実を追い求めた結果のことで、輪る輪からは外れてしまうことを自覚し、それでも敢えて前に進むかどうかを判断しなくてはならない。 そういう何ちゃって哲学的思索の取っ掛かりを与えてくれる、新時代の到来を告げそうな良作アニメだった。

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ニコラス刑事な日々

本日は清光智美さんが遺伝研でセミナーをされていたので、拝聴しに行った。清光さんは柳田研出身で大学院では私の一つ上の先輩だ。その内容をこの場で開陳する訳にはいかないが、紡錘体の配置に関わる面白いメカニズムを示唆する話だった。私の昔の研究とも似ている部分もあり、実り豊かなセミナーだった。今後の研究のご発展を祈念する。

 

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昨日書いた創発システム研究室の先輩の話だが、ネット上でよく見かける「ビブリオバトル」の発案者が実はその先輩だったことが発覚。まさかこんな所にごく身近な方がおられるとは思いもよらず、「寡聞にして~」のフレーズがピッタリと当てはまるケースのようだ。私は今まで大ボケをかましていたのだった。先輩も面白そうな人生を歩んでいるようで何よりだ。

 

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『チェンジリング』という重い作品を観た後だったので、お口直しにこの間『魔法使いの弟子』というディズニー映画をDVDで観た。あらすじは

 

普通の人間の知らない所で魔法使いちが戦争をしているという世界。かつての魔法使いの指導者であったマーリンの弟子、バルサザールは新たなる指導者候補を捜しにニューヨークを訪れる。そこで「選ばれし者」である物理オタクの青年、デイヴと出会い、半ば強引に弟子にする。一方で史上最悪の魔女、モルガナが復活する。(Wikipediaより)

 

というものだ。アーサー王伝説を知っている人は上のあらすじを読んだだけでそのB級ぶりに爆笑するかも知れないが、この主人公の青年も大変冴えない人物で、「僕には科学がある!」とか叫んでいる時点で新手の筋肉系少年漫画の匂いがするものだ。モルガナ=ル=フェイはアーサー王と散々争ったにも関わらず、ラストでアヴァロンから傷ついたアーサーを迎えに来た妖精たちの中に混じって「どうしてもっと早くこちらに来なかったのです。」という謎の台詞をアーサーに投げかける重要な役どころだが、この映画でのモルガナにはそんな意味深なシーンは欠片も見当たらない。制作・主演のニコラス刑事はバルサザール(イエスの降誕時に東方より訪れた三博士の第二で壮年であり、神を讃えるための乳香を持参した。私も母校でバルタザールの従者の役を務めたことがある。)として科学的な?魔法を使うのだが、ニコラス・ケイジというよりもニコラス刑事と呼んだ方がいいようなジョーク満載の映画だった。B級にはB級の良さがあるので、そういう側面が楽しめればいいだろう。

魔法使いの弟子 [DVD]
ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社(2011/01/19)
値段:¥ 3,360


 


 

 

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1924海戦

今日2回目の投稿です。6日は神奈川芸術劇場にやなぎみわ演劇プロジェクト「1924海戦」を観に行きました。ストーリーは

 

19246月、土方与志と小山内薫が指揮を執る築地小劇場は混乱の坩堝にあった。旗揚げ公演は何と三作品、小山内薫演出「白鳥の歌」「休みの日」そして土方与志演出「海戦」。ドイツ戯曲R.ゲーリングの「海戰」は、前代未聞の設計と舞台構造を持つ小劇場で上演され、聞き取れないほどの早い台詞、絶叫と轟音のリアリティで人々を驚かせた。全編のほとんどが、洋上に浮かぶ戦艦の内部で繰り広げられる「海戦」の稽古と、築地小劇場の船出。 2隻の「船」の行く末が重なる。「偉大な明治」と「激動の昭和」のはざま、大正デモクラシーの時代を背景に、モボ、モガが闊歩し、多様で未分化な芸術運動が花開いた大正期。明治以来の近代国家体制が瓦解した帝都の混沌の中で誕生した、歴史的舞台をめぐる劇中劇。(Webより転載)

 

となっています。感想は幾つかありますが、まず一つは「劇中劇」というのがポイント。劇のスト―リーと劇中劇のストーリーが混線するだけでなく、「明治」「大正」「昭和」そして「平成」の要素が様々に絡み合ってストーリーは進行していきます。ここで野田秀樹さんの中心思想である、さまざまな時・空間を並べて繋げ合わせ(これを可能世界とする)、それぞれの時・空間のなかから現在の時・空間を考察する、ということを念頭に置いて考えてみましょう。

 

可能世界では「見立て(隠喩)」、「吹き寄せ(連想)」、「名乗り(同じ役者のその可能世界での役割)」の三要素が重要になってきます。これらの要素は能楽などの伝統芸能の公演で既に取り入れられている、歴史の古いものであります。「見立て」では劇中劇のゲーリング『海戦』自体が実際の戦闘のみでなく国家的・民族的な反戦的全ての概念の隠喩となっていることが直ぐに分かります。「吹き寄せ」は劇中の「大正」という設定から同じような特徴を持つ「明治」から「昭和」「平成」の事物が盛り込まれていることに現れています。劇中には大正時代にはないTwitter, Skype, iPadなども登場しました。「名乗り」は、劇中で土方与志に対して各役者が次々と名乗りを挙げ、説明していくシーンが盛り込まれています。

 

これらの三要素から見えてくるのは劇と現実の対応関係で、劇は現実を如何に反映させ如何なる虚構が盛り込まれているのか、現実には劇から如何なるフィードバックが寄せられるのかを解く鍵となります。勿論劇自体はおまじないと同程度の役割しか持たないので重要な決断に劇を反映させることはまかり間違ってもあってはならず、現実を凌駕するべきものではないのですが、このような現実と劇との関係は古代ギリシャの演劇においても既に見出されていた長年に渡る考察と表現の対象でした。『1924海戦』ではそれがアヴァンギャルドなリンクにより顕在化されていました。

 

舞台表現の技術としては役者の演技の場を観客席も含めた舞台のあちこちの場所で行うことによって観客のダイナミックな視線の誘導を導き、舞台進行にテンポの良さを与えていました。舞台美術はカンディンスキーなどの表現主義の美術の影響が見られるシンプルで動きとインパクトのあるものになっていました。

 

この作品は三部作の第二部らしいので、第一部を観ていなかったのは惜しいのですが、次の作品もまた観に行きたい欲が出てくる仕上がりになっていました。作中出てきた「宇宙」や「神」の概念は、現代の宇宙論で言えば「ビッグクランチ(宇宙が最終的には重力により収縮して火の玉となり、宇宙の破壊と再生が繰り返し起こる)」でも「ビッグリップ(宇宙がダークエネルギーにより引き裂かれる)」でもなく「ビッグチル(宇宙全体が膨張の続くなか冷えていってしまう)」をイメージしたもので、「ビッグチル」からの連想として「冷たい神」が出てくるのでしょうが、このアイデアが次の作品にも登場するのならどういった形で登場するのか、注目です。

 

 

 

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西の魔女が死んだ

今日2回目の投稿です。映画『西の魔女が死んだ』を観ました。内容は、

 

主人公のまいが、自らを魔女と呼ぶおばあちゃんと過ごしていた頃を回想する形で物語は進む。まいは傷つきやすい少女として描かれ、今の現代社会に対しておばあちゃんが暮らす自然にあふれた生活が対照的に描かれる。また同時に一つの重要なテーマとして、人のというものを含んでいる。

注意として、この作品に登場する魔女が使う魔法とは、ファンタジーの世界のようなものではなく、ちょっと不思議なことが分かる程度のものである。現実に魔女と呼ばれた人達のように、物語中でもこの力により迫害を受けたような描写もある。(Wikipediaより)

 

ということです。まいはクオーターでおませな不登校児として描かれていて、不登校になった間をイギリス人のおばあちゃんと過ごした時の事が作品の多くを占めています。作品中は他者との付き合い方や受容についてのことが、魔女としてのイギリス人のおばあちゃんの生き方を通じて描かれています。おばあちゃんはどう見ても日本の森なのにそこでイギリス的な主張を心の中に持って密かに主張していて、それがまいのママの「信念は揺らがない」という言葉に現れてきています。見せたくないものは大人になるとたくさんできるけど、それとどう付き合っていくのかなどはまいにとっては最後のシーンまで分からなかったのですが、おばあちゃんは至る所でそれとなく指摘しています。

 

「魔女」という言葉の持つ意味は、超自然的な力で妖術を行うということの他に、「自分たちが望む人々に豊穣と富と力を授け、自分たちの敵を病気と死で打ちのめすことができる」というシャーマニズムや魔術師の概念も含んでいます。現実の人間としては「魔女狩り」の対象ともなっています。魔女狩りとは、中世末期から近代にかけてヨーロッパや北アメリカにおいて見られたWitchWitchcraftに対する追及と、裁判から刑罰に至る一連の行為です。これは人々がサバト(魔女集会)なるものが現実に存在していることを信じ、かつ拷問を伴う裁判権の行使の自由が保証されていることにより成立しえたものです(拷問を行わなければサバトが実在しているかのような証言は普通得られません)。イングランドでは拷問が普通は許容されていなかったため魔女狩りは不活発でした。

 

魔女狩りに会うのは社会的疎外者の人々が多く、民間療法で薬物の調合や病気の治療を行っていた「魔女」たちが作物の豊凶や災厄に影響を与えているとのことで処罰されたのでした。これは魔女が悪魔と結託したことによりそのような能力を得たのだという迷信に起因するもので、現在のヨーロッパでも未だにそういう考えに捉われやすい人々がいるのは私も知っています。

 

この「魔女狩り」は、要するに「差別」や「いじめ」と同じ構造を持ったものの極致にある訳です。「敵をでっち上げることで一致団結する」ということが作品中で触れられていますが、それは魔女狩りと同じことです。

おばあちゃんは、「魔女には周りを視るアンテナと自分で決める思考力がいる」「魔法や奇跡を起こすには精神力がいる」「魔女でも直感から妄想を膨らませて破滅する人もいる(つまり直感で得た情報を理性によって判断して真理を見究める必要がある)」と機会がある度にまいにsuggestionすることで、自分の意志を明確にしないまま、まいを力強く導いていきます。このような静と激が一体となった感覚が、魔女としての生き方の一つなのでしょう。静かな良品とも言える作品でした。途中道路とまいの境遇がリンクしているなどの古典的な映画の表現法も秀逸でした。

 

西の魔女が死んだ [DVD]
角川エンタテインメント(2008/11/21)
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魔女狩り (岩波新書)
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魔女狩りの社会史―ヨーロッパの内なる悪霊 (岩波モダンクラシックス)
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岩波書店(1999/09/07)
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モジュール構造

柳田充弘先生が文化勲章を受章されたらしい。先生は日本の分子生物学・分子遺伝学の一時代を築いた方であり、染色体の伝達・分配・継承の概念は先生が第一人者として世界に先駆けて研究されたものだ。心からお祝いを申し上げるとともに、今後とも益々の研究のご発展をお祈りする。

 

この間のシステムズバイオロジーの輪読会で木村暁先生がご興味を持たれていたことに関連するが、生物ネットワークのモジュール構造というのは大変興味深い問題だ。コンピューターシミュレーションでのネットワークの進化はネットワークのノード(結節点、ネットワーク上で某かの物質的基盤を持つもの)が普通はランダムに繋ぎ合わさっていくものだが、生物のネットワークではそうではなく一連の機能が一纏まりになったモジュール構造を取ることが多い。環境の変化に対しては使用するモジュールの組合せで対処するということで、この方がランダムでなくある目的に沿ったネットワークが形成される可能性が高くなる。生物の環境に対する適応に関してはモジュール性の理解なしには深い洞察は得られない。生物の階層構造、分子ネットワークから細胞内小器官・細胞・組織・器官・個体・個体群・種・群集・生態系・景観へとつながる人間に認識できる全ての単位についてこのモジュール性という概念は適用できるはずであり、各モジュール間の関係が重要になってくる。

 

進化学において昔はよく言われていたのは個体の上のレベルでの自然選択、群選択は通常は起こり得ないということだった。しかしこれは自然選択に関わるパラメーターが平均場近似という空間的に一様であると近似できる場合のみで、空間の対称性が破れていることを考慮すればマルチレベル選択として個体より上のレベルの自然選択も起こり得る。ちょっと考えてみれば、人間が「個体」と呼んでいるものも細胞を単位として見れば細胞たちの社会性の産物であることは分かると思うので、「個体」に自然選択がかかるのならその上のレベルで自然選択がかかるのは明らかに間違っているとは言い切れない。メタ個体群やメタ群集の概念にも当てはまるが、要は対称性がどの程度破れているかが問題になってくるのである。

 

このようなスケールのシステムの構造に関しては物理学からの解析が今まであまり行われてこなかったので、生物学の面から構造解析するのは実に興味深いテーマだ。反応や物性的な解析は統計力学の理論があまりにも進歩していてそれを実際に実験的に確かめるのが難しいくらいだが、構造的な解析は何がどうなっているのかもまだよく分からない範疇に入るので、今後の展開が大いに期待できる。

 

 

 

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三島の休日

私のMacBookは今週の二日間にわたって何回かサイバー攻撃を受けたようだが、遺伝研で義務付けられている対策ソフトのおかげで攻撃側のアクセスを無事遮断できたようだ。遺伝研は日本の機関にしては事務がきっちりとしているのが特徴的なことだと思う。

 

今週末は土曜が雨、日曜も早朝に雨が降っていて午後の半ばまで空に雲がかかってどんよりとしており、山の方にも雲があっておそらく雨が降っていると思われるので、土のサンプリングには行かなかった。土のサンプリングの際に雨滴が混入すると定量的なサンプリングが出来なくなるし、GPS・温度・湿度・pH・勾配の計測器は水に濡れても大丈夫だが照度計はそうもいかないからである。そこで週末は休息と実験の日に充てた。昔は我武者羅に実験をしていたものだが、世の中には仕事をしていると「あいつは仕事しかしない気違いだ」と言っていろいろ妨害をしたり変な噂話を流す人も出てくるので、最近はそのような仕事をせずに文句ばかり言っている人と同じ土俵で生産性を高めることを目標においている。遺伝研にはそのような人はいないが、ケチをつけたがる人はどんなことにもケチをつけるし、そういう人の方が大勢いる環境というものも世の中には存在する。

 

芦原妃名子『砂時計』という漫画を読んだ。内容は

主人公の植草杏(うえくさあん)は、12歳の冬に両親の離婚を機に母親 美和子の実家・島根に越してきた。田舎独特の雰囲気をなれなれしくプライバシーが無いと感じた杏。だが、近所に住む北村大悟(きたむらだいご)と知り合い、徐々にその田舎の雰囲気に慣れていくようになる。

そんな中、彼女を支える母親が仕事中に倒れてしまい、自分が「がんばれ」と言って母親を追い込んでしまったと責任を感じた杏は、母親を少しでも助け ようと仕事を探す。そして大悟と共にお手伝いに行った村の地主「月島家」で、杏は同い年の月島藤(つきしまふじ)と妹の椎香(しいか)に出会う。

4人はいつしか行動を共にするようになり、杏は嫌で嫌でたまらなかったこの村に居場所を見つける。

しかしその後近くして、杏の母 美和子が生きることに疲れ、自殺をする。杏は葬式の席で、島根に来る途中に仁摩サンドミュージアムで美和子に買ってもらった砂時計を、悲しみのあまり美和子の遺影に投げつけ壊してしまう。そんな杏に大悟は、壊れた砂時計と同じものを杏に渡し、ずっと一緒にいることを約束する。杏も大悟とずっと一緒にいられ るよう願う。

やがて時が経つと、杏と大悟の間には恋心が芽生えていき、2人は付き合うようになる。

しかし、杏の父親が杏を迎えに来た為、杏は高校の3年間は東京に住むことになり、2人は遠距離恋愛になってしまう。始めのころはうまくいっていた2 人だったが、東京と島根という遠距離、藤のずっと募らせてきた杏への想い、椎香の大悟への想い、更に、杏の心の奥底にはいつも母親の影が存在していて……2人の間はゆっくりと拗れていくようになった。そして、ある事件をきっかけに、杏は大悟と別れることを決意する。

少女から大人へと成長する中で、様々な恋や別れを繰り返してゆく杏。しかし、杏の心の中は常に母親の存在で支配されたままでもそんな中に、ずっと心の支えとなっている大悟の姿も確かにあった。

周囲が徐々に新たな幸せを見つけ出していく一方、独り、杏は幸せを求め奔走していく。(Wikipediaより)

 

ということだが、少女漫画らしくちょっとした言葉のすれ違いが関係の破綻にまで発展していくことが瑞々しく描かれている。普段は少女漫画などを読んでも絶対に有り得ない展開だなどと思ってしまうのだが、現実でも人間関係のトラブルになるのはちょっとした誤解が当事者の間で大きな妄想として膨らんでいくことが原因であることが多いので、そういった意味ではこういう少女漫画特有の瑞々しさも馬鹿にしたものではない。川端康成の初期の作品も、思春期や青春期の不安定な感情が瑞々しく描かれており、こういった繊細な情動の描写は眺めていて深く感じ入られるものである。少年漫画の筋肉系のノリにはもうついていけないので、こういう漫画の方が肌に合う。

 

映画は『真昼の決闘』を観た。内容は、

 

ウィル・ケインはハドリーヴィルという町の保安官。彼は結婚したばかりで、その日を最後に退職する予定であった。そのウィルの元に、以前彼が逮捕し た悪漢フランクが釈放され、正午の列車でハドリーヴィルに到着するという知らせが舞い込む。フランクは彼の仲間と共に、ウィルに復讐するつもりであった。

ウィルはエミイと共に逃げようとするが、思い直して引き返す。父と兄を殺された経験を持つクエーカー教徒のエミイは、正義よりも命の方が大事だと説得するが、彼の意思は固い。ウィルは仲間を集めに奔走するが、誰も耳を貸さない。判事は早々に町から逃げ出した。 保安官補佐のハーヴェイは腕はいいが精神的に未熟な若者で、ウィルの後任に自分が選ばれなかった恨みと、かつてはウィルやフランクの恋人だった婚約者のヘレンとの因縁もあって協力を断る。酒場の飲んだくれ達はウィルよりもフランク一味を応援している始末。教会では意見が分かれて議論になるが、結局ウィルが 町を去るのが一番良いという結論が出る。保安官助手たちは居留守や怪我を理由に辞退する。結局一人も集まらないまま、フランクの乗った汽車が到着し、4人 の悪党相手にウィルの孤独な戦いが始まった。

ヘレンはハーヴェイにも町にも愛想を尽かし、エミイを連れて汽車に乗ったが、銃声が鳴り響くと、エミイは飛び出して戻っていった。ウィルは建物に隠 れながら応戦し、2人を倒したが、肩を撃たれてしまう。そこへエミイが来て1人を撃ち倒すが、フランクに捕まってしまう。フランクは彼女を人質にとってウィルを誘い出すが、エミイが抵抗してひるんだ隙にウィルに撃たれる。住民が集まるなか、ウィルはバッジを投げ捨てると、エミイと共に去っていった。(Wikipediaより)

 

となる。この映画のエッセンスは

 

“If you think I like this it is crazy!”

 

というウィルの台詞に集約される。「正義の味方」という役割は好き好んでやるものではないし、仕方なくやるものだ。子供の時に抱いていたヒーローへの憧れが現実の悩みと変わったウィルの心情がこの一言に集約されている。ウィルは最初、幸せの中でバッジを捨てて旅立とうとするが、最後は本当の意味で保安官としての身分を象徴するバッジをかなぐり捨てて去っていく。

 

映画二本目は『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』。内容は

 

1918年のニューオーリンズ80歳の姿で生まれた赤ん坊はある施設の階段に置き去りにされていた。黒人女性のクイニーはその赤ん坊を拾い、ベンジャミンと名付け、自身が働く老人施設でベンジャミンを育てる。ベンジャミンは成長するにつれ若返っていった。

1930年の感謝祭で ベンジャミンは少女デイジーと出会い、ふたりは心を通わせた。仲が親密になっていくにつれベンジャミンの若返りとデイジーの成長は進み、やがて同じぐらいの年格好となった。しかし、この後も普通に年をとっていくデイジーに待っているのは「老い」。ふたりは共に同じような人生を送れることはないのだ。成長を するにつれ、ベンジャミンは彼女や周囲の人々を通じて、「生きること」とは何かを深く考えていく。(Wikipediaより)

 

ということだ。監督のデヴィッド・フィンチャーさんは『エイリアン3』『セブン』『ゲーム』『ファイト・クラブ』などを手掛けてきた有名な方だ。ベンジャミンの成長と若返りが普通の人と異なることによるギャップと許容が自分と異なる人との付き合い方への問題としてクローズアップされる。そのような基本コンセプトの上にベンジャミンの人生を象徴する逆回りの時計と世界的な大事件の数々、意味があるとは言えないが人々の小さな偶然と運命の連なりが絡み合っていく様から静かな時間が提供されていく秀作であった。雷に七度打たれた男の話も要所要所に挟まれていて面白い。クイニー役のタラジ・P・ヘンソンさんの演技も秀逸だった。

 

 

 

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マイマイ新子と千年の魔法

フランスのMiroslavRadman研究室から“SeeingMutations in Living Cells” という論文がCurrent Biology誌に昨年発表されていたことに気付いた。内容は生きた大腸菌細胞におけるDNAの変異の存在をDNAのミスマッチ修復に関わるEGFP-MutLの蛍光フォーカスで観るというものだ。蛍光フォーカス数と突然変異数が比例関係にあるのもちゃんと調べており、面白い論文だと思う。egfp-mutLを染色体に組み込むのではなくプラスミド上の外来遺伝子として導入しているのが難点だと思うが、多分そうしないと蛍光が観えなかったのだろう。私もMiroslav Radman博士に同じミスマッチ修復に関わるMutS-GFPの蛍光フォーカスを利用した研究を5年前に提案したことがある。結局はRadman博士の研究室で研究をすることは叶わなかったのだが、Radman博士は3年前にもScience誌に“DirectVisualization of Horizontal Gene Transfer” という題名でSeqA-YFPを用いた生きた大腸菌細胞への外来性遺伝子の導入の可視化の研究を発表されており、この研究も私の研究提案の序盤によく似ている。Radman博士とは興味が重なっていたようだったので、もしRadman博士と一緒に研究出来ていたら私の研究者人生の展開は今とはがらりと変わっていただろう。今の研究は当初の予想とは全く違う方向にも展開されてきているので、別に今更後悔することはないが。

 

 

昨日、『マイマイ新子と千年の魔法』というアニメーション映画を観た。アニメ独特のデフォルメ化された細やかな映像表現や、露出が飽和した写真のような表現も素晴らしいが、ストーリーもなかなか面白い。

 

話は昭和三十年代の山口を舞台に、東京から越してきたモダンガールだが表情が希薄な貴伊子を、祖父譲りの想像力豊かな新子が仲間として共に成長していく様を描いたものだ。新子は祖父からその土地に潜む歴史の話を聞き、自分が住んでいる場所の千年前の様子に憧れを抱きながら貴伊子をその豊かな世界に導いていく。最近は同じようなコンセプトで「ブラタモリ」というテレビ番組もあった。注意しなければ自分にしか見えない世界を大切にしていたのである。その土地の歴史を感じるということ、歴史は何も千年前だけでなく千年前のさらに千年前や千年後も含めた長い道のりと多くの人々の生き死にを含んだものだということも感じさせられる作りになっている。

 

また、昭和三十年代にも今の日本と同じような、「普通の人」とは違うことによる虐めもあったことも描かれている。こういう人を不純物扱いする虐めは勿論外国にも少し違った形であるが、爽やかなストーリーにもほろ苦さを感じさせるところが秀逸だ。祖父譲りの「千年の魔法」も、そんな現実の前には脆くも崩れ去ってしまうのだが、新子が貴伊子を周りに上手く馴染ませる切っ掛けになったところに、その意義は見られたことが分かる。ラストでは祖父が亡くなり、新子は藻類の研究をしている父の職場に近い土地へ越していくことで「千年の魔法」の時代も終わりを告げるのだが、今度はその場に残る貴伊子の姿に魔法の実態が体現されている。「千年の魔法」の中心人物である千年前の姫君は実は清少納言であったこともクレジットから分かるが、心憎い演出がふんだんに込められた良作であった。

 

 

 

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細胞性粘菌の研究スタート、南方熊楠に思う

モズLanius bucephalusが縄張り争いをする季節となった。私は91日付けで国立遺伝学研究所の特任研究員となり、伊豆の三島での生活をスタートさせた。研究対象は細胞性粘菌の細胞間コミュニケーションで、その他に私が今まで行ってきた研究も研究計画の目処が立ち次第少しずつ始めていく予定だ。野外調査も先週末にスタートさせた。赴任時には獺祭(純米大吟醸。ちなみに正岡子規の居号は獺祭書屋。)で祝杯を挙げた。

 

細胞性粘菌とは分類学上は原生生物だが、私が先日までのブログで紹介してきた変形菌(真正粘菌)とも異なる。変形菌は類縁関係が植物・菌類・動物と同じくらい離れているが、変形菌と細胞性粘菌も同程度に離れている。原生生物という分類は植物・菌類・動物の何れにも属さない真核生物(ゲノムDNAの入れ物である細胞核を持った生物)を一緒くたにしたような荒っぽい分類単位なので、植物・菌類・動物に比べると実に様々な複雑怪奇な生物が跋扈している。粘菌と言えば元々野外で巨大な多核細胞となって肉眼でも確認できる真正粘菌のことを指していたが、近年の分子生物学(遺伝子操作)が適用しやすい細胞性粘菌がモデル生物として真正粘菌に取って代わり、真正粘菌は細胞性粘菌との混同が起きにくいよう変形菌と呼ばれることが多くなった。粘菌のライフサイクルに特徴的なのは、細胞性粘菌は普段は一倍体のアメーバとしてバクテリアを捕食しているが、環境が悪くなると集合して多細胞のナメクジ状体となって移動後に子実体を形成して胞子となって休眠するか、接合して二倍体となって周囲の細胞を捕食して巨大なマクロシストとなり、休眠後環境が良くなると一倍体のアメーバを発芽するということだ。真正粘菌は二倍体時に形成するのは巨大な多核細胞(一つの細胞に多数の核がある細胞)であることが細胞性粘菌とは異なる。この多核細胞が肉眼で観察が可能で、切っても個々の部分が生存可能である。

 

細胞性粘菌を研究することの利点はいろいろある。まず単細胞生物でありながら多細胞生物としても振舞う時期があるので、多細胞生物の発生や形態形成などに関して非常に基礎的で原始的なメカニズムを有しており、研究がしやすいと考えられることだ。また細胞の集合時にはcAMPという小分子の濃度の波を使ってコミュニケーションするので、数理的にも物理的にも解析がしやすい。現在お邪魔している研究室はそのためのイメージングのツールを開発された所で、これから解析を始めるという丁度いい時期にきた。変形菌と異なるのは分子生物学が行えることで、微生物のため増殖も速く遺伝子導入や遺伝子改変も比較的容易に行える。減数分裂の仕組みがまだよく分かっていないため古典的な遺伝学には不向きだが、子実体による同定が容易なため野外サンプリングによる分類学も盛んで、その点では酵母よりも研究基盤が整っている。キイロタマホコリカビなど一般の方が聞かれると汚いような印象を受けるかも知れないが、数学・物理学・地球科学・化学・分子生物学・生態学の全ての分野において研究の発展のポテンシャルを持っているのである。私はこの興味深い生物の基本的な扱い方を学びつつ、じっくりと研究をしていきたいと思う。

 

 

 

南方熊楠(1867~1941)の名前をご存知の方は多いと思う。南方先生が研究されていたのは真正粘菌(変形菌)の方で、私の研究対象とは異なる。しかし南方先生は稀代の博物学者・民俗学者であることは間違いないので、先生の学者としての在り様に触れるため南方熊楠『十二支考』(岩波文庫)、飯倉照平編『南方熊楠 人と思想』(平凡社)、笠井清『南方熊楠 ―人と学問―』(吉川弘文館)、水木しげる『猫楠』(角川文庫)を読んでみた。南方先生は真正粘菌に生死を見、静的な胞子が生で動的な変形体や子実体が死への道であることに興味を持たれたそうだが、それは細胞性粘菌でも一緒で、細胞集団の中のどの細胞が柄となって死に、どの細胞が胞子となって生き残るかは多分にコミュニケーションの産物で、細胞個体レベルでなく集団レベルで選択が掛かっていなければ有り得ない話である。

 

南方先生の人生には実に様々な有名人が登場する。孫文、徳川頼倫、大隈重信、秋山真之、柳田國男、正岡子規、河東碧梧桐など数え上げれば切りがない。昭和天皇の詠まれた歌

 

雨にけふる神島を見て紀伊の国の 生みし南方熊楠を思ふ

 

の歌碑(南方熊楠記念館)の筆跡は野村吉三郎(太平洋戦争開戦時に戦争を極力回避しようとした駐米大使で、ポトマック河畔に植えられた日本の桜の逸話も有名)である。その他にも南方先生の居住されていた田辺には破天荒で面白いお仲間が大勢いたようである。今よりも大分大らかなご時世ではなかったかと思う。

 

 

南方先生は文化・自然保護運動の先駆けとしても知られる。1906年の神社合祀令の際には、神社の合祀が古くから所縁のある神社を廃して何の云われもない神社を役場に近いという理由だけで本社とするなど古くからの文化の無視も甚だしく、また鎮守の森の伐採も起こることによって古くからの自然も失われるなど、無理が通って道理が引っ込んでいると激しく反合祀運動を展開した。

 

「近く英国にも、友人バザー博士ら、人民をして土地に安着せしめんとならば、その土地の事歴と天産物に通暁せしむるを要すとて、野外博物館を諸地方に設くるの企てありと聞く。この人明治二十七年ごろ日本に来たり、わが国の神池神林が非常に天産物の保存に益あるを称揚しおりたれば、名は大層ながら野外博物館とは実は本邦の神林神池の二の舞ならん。」

 

と南方先生も書いている通り、昨今のフィールドミュージアムの概念も南方先生はこの時に既に持っていたのである。神社合祀令は何の因果か結果有耶無耶になる。ただ、『南方熊楠 ―人と学問―』に記述のある植物の「ハマカズラ」は「ハカマカズラ」の誤記であろう。「ハマカズラ」だと巻貝になってしまう。

 

 

南方先生が著した『十二支考』は民俗学に生物学がプラスされた形で非常に面白い読み物だが、ここでは一例だけを簡単に紹介する。「邪視」とは世界中にある民間伝承の一つで、悪意を持って相手を睨みつける事により対象者に呪いを掛ける魔力だとされているが、この概念を日本に導入したのは南方先生であり、以下に先生の博覧強記ぶりが伺われる。

 

「邪視英語でイヴル・アイ、伊語でマロキオ、梵語でクドルシュチス。明治四十二年五月の『東京人類学会雑誌』へ、予その事を長く書き邪視と訳した。その後一切経を調べると、『四分律蔵』に邪眼、『玉耶経』に邪けい、『増一阿含』に悪眼、『僧護経』『菩薩処胎経』に見毒、『蘇婆呼童子経』に眼毒とあるが、邪視という字も『普賢行願品』二十八に出でおり、また一番好いようでもあり、柳田氏その他も用いられ居るから、手前味噌ながら邪視と定め置く。もっとも本統の邪視のほかにインドでナザールというのがあって、悪年を以てせず、何の気もなく、もしくは賞賛して人や物を眺めても、眺められた者が害を受けるので、予これを視害と訳し置いたが、これは経文に因って見毒と極めるがよかろう。」

 

「邪視」よりは「見毒」の方が実際にはありえそうな気もするが、南方先生の注意深い考えがここにもチラリと伺える。

 

『十二支考』は南方先生の自由闊達な文体も面白い。例えば読み進めていけば、

 

「ラームグハリット言う、ニルカンス鳥は、女神シタージの使物として、インドに尊ばる帽蛇、蛙をくわえ、頭にこの鳥を載せて川を渡るを見る人は、翌年必ず国王となると。南方先生裸で寝て居る所へ、禁酒家の娘が百万円持参で、押し付けよめ入りに押し懸くるところを見た人はという事ほど、さようにあり得べからざる事である。」

 

という文が其処彼処にあり、ユーモアが感じられる文章になっている。ちなみに『十二支考』には丑の項のみがないが、これは関東大震災の影響で文章を連載していた雑誌の編集部の方針が変わったためだそうである。今も昔も震災の影響は大きい。

 

 

水木しげるさんの『猫楠』では、誇張しすぎの感もあるが南方先生の人と生りが「大怪人」という仮面ライダーにも出てきそうな形容で自由自在に描かれている。話は尾ひれが付いているとは言え実話が元になっているし、南方流のユーモア

 

ねずみ猫              ごめん下さい

松枝                     どなた ?

松枝                     人語をあやつるねずみに似た猫です

熊楠                     そりゃあ珍種や はようお茶を

 

なども頻繁に挟みこまれている。活字を見るのは苦手な方は水木しげるさんの漫画を是非読んで欲しい。

 

水木しげるさんは猫の言葉を借りて、南方先生の人生をこう纏めている。

 

「脳力」とは純粋な心 即ち名誉とか欲といったもののない一点の曇りのなき状態 大自然の心になりきったときあらわれる力である 生命現象の奥にひそんでいるものは「何者」か 熊あんはこれをつきとめたかったのである

 

 

自分が意識しているにしろしていないにしろ、「権威」を得てそれを保つことが最終目的になれば、自由に生きている人々に対してああでもないこうでもないと口を挟みこみ、結局人々の活動的な生やその産物が有耶無耶になってしまってよく分からなくなることはしょっちゅうある。自分がノイズを入れて嫌がらせをしているだけなのに中々気付かない。南方先生とその周囲の人々のように妖怪のような大らかさがなければ、大器も凋んでしまうだろう。南方先生はアメリカの農学校で酔っ払って校舎内に全裸で寝ていてトラブルになったそうだ。こういう類のものは気にする人にとっては大問題だが、気にしない人にとっては笑い話で済む問題である(勿論私はしないが)。問題だと思わなければそのことで実害があるとは到底思えない。昨今のマスコミも大臣の失言が辞職に繋がるとかそういう非生産的な事だけを扱うのではなく、大企業の詐欺行為など知っていてもなかなか公に出来ないことの取り扱いにこそ真剣に労力を傾倒するべきである。そんな話はそこら中にあることを私は知っているので、大らかに扱っても良い部分といけない部分をはっきり自覚でき、本当に戦うべき相手は誰なのかを見失ってはならないと思う。

 

南方先生は太平洋戦争開戦直後の19411229日に亡くなられた。それから日本を含めたアジアは大変なことになる。娘の文枝さんには『今昔物語集』を渡されたそうだが、「今は昔、~」で始まる『今昔物語集』は私が一番好きな日本の古典なので、是非通して読んでみたいと思っている。

 

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家の近所にある大場神社は大場がまだ「沢の郷」と呼ばれていた頃からの古社らしいが、祭神は何の所縁があるのか分からない日本武尊となっているので、長い歴史の間に祭神が変わったのかも知れない。ケヤキZelkova serrata・イヌマキPodocarpus macrophyllus・カヤTorreya nuciferaの古木の他に、アラカシQuercus glaucaトベラPittosporum tobira・ブナFagus crenataヤブニッケイCinnamomum tenuifolium・エノキCeltissinensis var.japonica・ヒノキChamaecyparis obtusaなどが生えていた。地衣類としてはウメノキゴケ類Parmeliaやチズゴケ類Rhizocarpon、トリハダゴケ類Pertusariaの天国になっていた。カヤの樹皮には変形菌のツノホコリCeratiomyxa fruticulosaも居た。遺伝研はシロススホコリFuligo candidaの天国のようである。

 

愛鷹山と富士山の遠景。富士山は冬でないと快晴でない限り雲で見えないことが多いと聞く。

 

徳倉山方面。ウバメガシで有名らしいので一度行ってみたい。

 

 

 

十二支考〈上〉 (岩波文庫)
南方 熊楠
岩波書店(1994/01/17)
値段:¥ 903

十二支考〈下〉 (岩波文庫)
南方 熊楠
岩波書店(1994/01/17)
値段:¥ 840

猫楠―南方熊楠の生涯 (角川文庫ソフィア)
水木 しげる
角川書店(1996/10)
値段:¥ 700

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宇治を離れる

引越屋さんが来るまで少しだけ間があったので、家の近所を散歩してみました。炎天下のもと粘菌などを見るのは望むべくもありませんが、この住宅とはもう30年くらいの付き合いです。クスノキCinnamomum camphora・アラカシQuercus glauca・ウラジロガシQuercussalicina・スダジイCastanopsis sieboldiiなどの並木がありますが、小さい時からもっと興味を持っていた方が良かったのかも知れません。

 

このクスノキと後ろのアラカシは実家のある階段のすぐ前。やはり30年くらいの付き合いです。

 

サルスベリLagerstroemia indicaが咲いていました。

 

毒々しいカメムシがたくさん居るのですが、こういう大量発生はよくあることです。

 

今夜半に宇治を出て、新天地に向かいます。

 

 

 

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CENP-Aは何度でも現れる

本日付けのNatureCENP-Aとその結合するαサテライトDNAの構造解析の論文が載っていた。早稲田の胡桃坂先生の研究室からで、筆頭著者は立和名さん。立和名さんには学生の頃染色体の学会で何度かお会いしたきりだが、今はもう胡桃坂研の助教で立派な業績もある。CENP-A以前述べたように染色体の分配に必須の動原体の中心役者だ。染色体の折り畳みに普遍的に必要であり、構造のよく似たヒストンH3タンパク質とどう違うのかが研究の焦点となっていた。この論文では今まで実際の構造がよく分かっていなかった動原体の構造を推定する手掛かりが与えられており、また構造から予測して導入した変異がCENP-Aの動原体としての機能に重要なことも示しており、綺麗な論文だ。動原体とCENP-Aに纏わる論文はこれからもどんどん出てくるだろうし、楽しみな分野の一つだ。

 

 

 

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イギリス暴動

今日は宇治川花火大会だったそうです。私が自宅に帰ってきたら丁度最後のところで、花火大会の最後の瞬間を一枚だけカメラに収めることが出来ました。

 

花火を見ればガイ・フォークス・ナイトのことを思い出します。1605年のイングランドの火薬陰謀事件(カトリックの弾圧を行っていた国王ジェームズ1世の爆殺が目的)の実行責任者であったガイ・フォークスを揶揄した夜で、毎年115日に日本の花火大会ほど豪勢ではないにしろ篝火と打ち上げ花火が楽しまれています。

 

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イギリスの暴動は深刻で、私が滞在していたノッティンガムでも警察署が放火されたらしい。ノッティンガムはイギリスでも有数の治安が悪い場所なのでさもありなんと思われる。暴動の中心は若者で、黒人の射殺に端を発するらしいが最早正気の沙汰とは思えない。人種問題がベースではなく、若者の不満が爆発したものと思っていいだろう。イギリスでは外国人の締め出し運動が盛んだが、人口の10%ほどのみを占める移民よりも失業率が20%にも上る若者の雇用対策を考えた方がリーズナブルだとは思う。最近は高い高いと言われている日本の若者の失業率は10%ほどにしか達しておらず、イギリスが如何に深刻な状況かは分かると思う。

 

 

 

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会話が成立していない

児玉先生の主張の最も重要なポイントの一つは、人体中の放射性物質の局在性(どこか偏った場所に物質の所在が集中すること)は組織レベル・細胞レベル・それ以下のスケールで考慮しないといけない可能性があるので、器官レベルやそれ以上のレベルでの放射性物質の濃度の測定でなく、総量を考慮した方がいいのではないか、ということだったと思う。膀胱の場合は人体に含まれる137Csの多くが排出時に一度は通る可能性が高いので、総量の考慮が重要になってくる筈だ。その上皮組織の新陳代謝は活発で、細胞分裂も頻繁に行われているため放射線感受性もがん化の確率も高くなる。

 

ところがWeb上の議論では未だに濃度が器官レベルで均質であることを前提に計算を始めて、児玉先生の言っていることはおかしいと仰る方々がいる。これでは元の木阿弥で、生物学の世界では物質の局在と周囲からの1000倍濃縮などよくある話で、現段階では組織レベル・細胞レベル・それ以下のスケールで物質の局在をきちんと定量できない状態であり、濃度を均質とする仮定は相当疑わしいと思わなければならない。器官レベルでの放射性物質の濃度の議論にはあまり意味がないかも知れない。疫学のデータがある上では尚更そうである。仮に部分的な濃度が1000倍になればその計算でも相当まずい事態になるのははっきりしている。物理系の方々と生物の話をしていると、計算はよくても前提となる仮定に問題があったり、してはならない近似をしていたり、計算のためにトポロジーを単純にしすぎていたりするために出てきた数値が信頼できないことはしょっちゅうあるのは、私もそういう方々と話をしてきた経験も長いので理解できる。生物学の世界では計算よりも現象のデータを優先するのが鉄則である。

 

その他の生物学的にみて論理の通らない部分までいちいち論ったりはしないが、瑣末なロジックの検証でなくもう少し大局を見て話をした方がいいのではないかと思う。福島原発の汚染がかなりの環境汚染であるのは確かで、慎重な除染作業が求められているということはほぼ間違いないであろうと思う。福島県内で見れば事態は相当に厳しいと思われる。

 

 

 

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接写レンズ

接写レンズが届きました。AF-SMicro NIKKOR 60mm f/2.8G EDです。以下テスト画像。

 

兄が引き取ると言ったままなかなか引き取りに来ないアラビカ種のコーヒーノキCoffea arabicaです。

 

高校2年生の頃作製した塑像を石膏で型どりしたもの。鼻の頭などに穴が開いているので修復が必要です。

 

同じ像がテラコッタになっています。鼻の部分は型どりの後、取り出す時に低くなってしまいました。

 

高校1年生の時の作品は同一人物に見えませんが、モデルは同じオーストラリア人の方です。上の像では顔の扁平さがなくなるなど、1年経つと大分上達するのが比較すれば分かります。

 

フラッシュ撮影なのでこれらの像の細かい所までは分からないと思いますが、美術は気合を入れないとなかなか上達しないので、精進が必要です。

 

 

 

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