研究ブログ
20年
阪神・淡路大震災にて亡くなられた方々に黙祷を捧げます。
20年。
その帰結が、反知性主義と、それを背景とする一億総ネトウヨ化であることを、
予測できた人はそれほどいなかっただろうと思う。
大学で教鞭を取る人々は気づいているはずだ。
反知性主義の空気が流れこんでいることを。
学生だけではない。
女性の社会進出を拒否し、排外主義を唱える教員だっているだろう。
「大学教員もたくさんいるのだから、一部にそんな人物がいてもおかしくない」
という安易な「統計学」を展開する前に、
学問とはどういう営みであったかを、もう一度、確認する必要がある。
数学も例外ではない。
明らかに誤った「定義」を述べ、
「定理」を述べた次のページにその定理の「反例」が挙げられており、
ある値に収束することを「等号」で表してしまうような本が、
「わかりやすく」「単位がとれる」「本格的な」数学の教科書として
大学の書店に平積みされている時代だ。
「イプシロンデルタ論法は学生には分かりにくい」という配慮は、
徹底的に頽落した。
不思議な世界を旅する主人公のような語り口は、
3.11以降の大人の姿を見てきた心ある若者たちには通用しないだろう。
その世界の作り手として、どのような世界を作りたいのかを伝える言葉。
価値を相対化する前に、自分の価値観を述べる言葉。
そのような言葉でなければ力をもたない。
そのような言葉を扱うことも学問の一部であり得ることを、もう一度、思いだそう。
フッサールが感じた「危機」は、いま私たちの目の前にある。
20年。
その帰結が、反知性主義と、それを背景とする一億総ネトウヨ化であることを、
予測できた人はそれほどいなかっただろうと思う。
大学で教鞭を取る人々は気づいているはずだ。
反知性主義の空気が流れこんでいることを。
学生だけではない。
女性の社会進出を拒否し、排外主義を唱える教員だっているだろう。
「大学教員もたくさんいるのだから、一部にそんな人物がいてもおかしくない」
という安易な「統計学」を展開する前に、
学問とはどういう営みであったかを、もう一度、確認する必要がある。
数学も例外ではない。
明らかに誤った「定義」を述べ、
「定理」を述べた次のページにその定理の「反例」が挙げられており、
ある値に収束することを「等号」で表してしまうような本が、
「わかりやすく」「単位がとれる」「本格的な」数学の教科書として
大学の書店に平積みされている時代だ。
「イプシロンデルタ論法は学生には分かりにくい」という配慮は、
徹底的に頽落した。
不思議な世界を旅する主人公のような語り口は、
3.11以降の大人の姿を見てきた心ある若者たちには通用しないだろう。
その世界の作り手として、どのような世界を作りたいのかを伝える言葉。
価値を相対化する前に、自分の価値観を述べる言葉。
そのような言葉でなければ力をもたない。
そのような言葉を扱うことも学問の一部であり得ることを、もう一度、思いだそう。
フッサールが感じた「危機」は、いま私たちの目の前にある。
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『論理的読み書きの理論と実践』読了
ご恵贈くださいました。
論理的読み書きに関する研究と教育実践についてまとめた本です。
私は自分の興味から、
「数学書を読むこと」と「証明を書くこと」の指導に生かすことを念頭において読みましたが、
いろいろと参考になることがありました。
まず「数学書を読むこと」について。
本書では理解のレベルを「テキストベースレベル」「状況モデルレベル」に分けて提示しています。
数学書を読むという場面においてなら、
テキストベースレベルの理解は「記述内容の論理構造を捉えること」、
状況モデルレベルの理解は、その中でももっとも浅いレベルとしては
「その論理展開が正しいことを確認すること(証明のギャップを埋めること)」かと思います。
さらに「この定理の仮定を弱めるとどうなるか」等々の問題意識をもって読めるようになれば、
より高度な状況モデルの構築につながることになりそうです。
ちなみに、数学書の読み方については、こちらに自分なりの考え方をまとめてありますが、
何のためにこのような作業をするのか、についてはきちんと言語化できていないことに
本書を読んで気づかされました。
次に「証明を書くこと」について。
本書では「論理的に書くための「型」」に関する実践についてまとめられています。
以前から、証明の書き方をどのように教えればよいのかを考えていて、
とりあえず、基本的な「型」を身につけてもらうのが良いだろうと思うようになりました。
ε-N 論法の作法を書き始めた(けど進んでません、すみません)のも、このアイデアからでした。
示すべき命題の内容に応じて「証明の型」を設定できるはずで、
まず、その型通りに書くことから始めるのが分かりやすいだろうと思っています。
また、本書では思考図を用いた作文指導についても紹介されています。
証明を書く場合でも、証明の論理構造を図にしておくと、書くときの助けになるだろうと思うのですが
(自分が論文を書くときも論理構造を整理してからでないと書けません)、
具体的にどのように図示するのかについては、良い案を持っていません。
プログラミングをするときにフローチャートが近いような気もしますが、
アルゴリズムの記述と証明の記述は異なるので、そのままでは使えそうにありません。
本書からはいろいろと刺激を受けました。
本書の内容をもとに、新しい数学の教材を作ってみたい気もします。
入試問題を解くための小手先のテクニックは身につかないけど、
数学という学問を学ぶための基本的な姿勢を身につけられる、
そんな本ができるだろうと思います。
売れないだろうなあ・・・。でも時間ができたら作ってみたい。
きちんと言葉を使う志を持ち続けるすべての人にお勧めします。
論理的読み書きに関する研究と教育実践についてまとめた本です。
私は自分の興味から、
「数学書を読むこと」と「証明を書くこと」の指導に生かすことを念頭において読みましたが、
いろいろと参考になることがありました。
まず「数学書を読むこと」について。
本書では理解のレベルを「テキストベースレベル」「状況モデルレベル」に分けて提示しています。
数学書を読むという場面においてなら、
テキストベースレベルの理解は「記述内容の論理構造を捉えること」、
状況モデルレベルの理解は、その中でももっとも浅いレベルとしては
「その論理展開が正しいことを確認すること(証明のギャップを埋めること)」かと思います。
さらに「この定理の仮定を弱めるとどうなるか」等々の問題意識をもって読めるようになれば、
より高度な状況モデルの構築につながることになりそうです。
ちなみに、数学書の読み方については、こちらに自分なりの考え方をまとめてありますが、
何のためにこのような作業をするのか、についてはきちんと言語化できていないことに
本書を読んで気づかされました。
次に「証明を書くこと」について。
本書では「論理的に書くための「型」」に関する実践についてまとめられています。
以前から、証明の書き方をどのように教えればよいのかを考えていて、
とりあえず、基本的な「型」を身につけてもらうのが良いだろうと思うようになりました。
ε-N 論法の作法を書き始めた(けど進んでません、すみません)のも、このアイデアからでした。
示すべき命題の内容に応じて「証明の型」を設定できるはずで、
まず、その型通りに書くことから始めるのが分かりやすいだろうと思っています。
また、本書では思考図を用いた作文指導についても紹介されています。
証明を書く場合でも、証明の論理構造を図にしておくと、書くときの助けになるだろうと思うのですが
(自分が論文を書くときも論理構造を整理してからでないと書けません)、
具体的にどのように図示するのかについては、良い案を持っていません。
プログラミングをするときにフローチャートが近いような気もしますが、
アルゴリズムの記述と証明の記述は異なるので、そのままでは使えそうにありません。
本書からはいろいろと刺激を受けました。
本書の内容をもとに、新しい数学の教材を作ってみたい気もします。
入試問題を解くための小手先のテクニックは身につかないけど、
数学という学問を学ぶための基本的な姿勢を身につけられる、
そんな本ができるだろうと思います。
売れないだろうなあ・・・。でも時間ができたら作ってみたい。
きちんと言葉を使う志を持ち続けるすべての人にお勧めします。
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2014年度・担当講義一覧 (春学期)
今年度は春学期に数学基礎と複素解析(春ABのみ)を担当しています。
数学基礎は、数学類(=数学科)一年生向けにイプシロン・デルタ論法などの
基礎的な内容(基礎的=易しい、という意味ではない)を扱う講義です。
複素解析は四年生向けに advanced な関数論の話をする枠で、
今年度は楕円関数論の話をしています。
数学基礎は、数学類(=数学科)一年生向けにイプシロン・デルタ論法などの
基礎的な内容(基礎的=易しい、という意味ではない)を扱う講義です。
複素解析は四年生向けに advanced な関数論の話をする枠で、
今年度は楕円関数論の話をしています。
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抜き書き
以下、矢内原忠雄「キリスト教入門」からの抜き書き。
----------------
学生C
「私は理性とか説得とかいふことを信じません。それは、理性や説得で戦争を止めることが出来なかつたことからでも、わかります。先生方は、理性の力で戦争を防止することが出来なかつたではありませんか。」
先生
「理性を信じないとすれば、何を信じますか。」
学生C
「実力です。」
先生
「なるほど理性は万能ではありません。人間の間には非理性的な力が強く働いてゐます。戦争自体が人間の非理性的な行動の一つです。だからと言つて、理性を信じないのは人間を信じないのと同じことです。そこには社会もなく、文化もなく、獣的なものだけが残るでせう。人間が理性に対して懐疑をもち、真理について虚無的となるとき、人間としてつかみどころのある力、人生の確実な支へとなるものは実力だけだと言ふことは、一応当然の論理的帰結でありまして、それから非合法的行動の是認、暴力主義の実行へはほんの一歩であり、君たちの嫌ふ戦争そのものの是認さへも、君たちの懐疑主義、虚無主義から簡単に導き出される。力に対するに力、暴に対するに暴といふことでは、人類は社会を維持することさへ出来ません。人間が動物と異るのは、理性的に考へ、理性的に行動する能力をもつからであり、それによつて人類は社会の秩序を維持し、文化の進歩に努力して来たのです。」
-----------------
札幌農学校に連なる日本のキリスト者にしばらく前から興味を持っていて、
矢内原のこの文章もその流れで目にしました。
この後は、学生が
「理性は万能でないのに、どうして理性が暴力に勝てるのか」と問い、
それに先生が
「宗教的信仰は暴力を否定する非理性的な力であって、
理性の能力を十分に発揮させ、秩序と平和の基底として働く」と答え、
以下、学生に信仰を勧める話が続きます。
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学生C
「私は理性とか説得とかいふことを信じません。それは、理性や説得で戦争を止めることが出来なかつたことからでも、わかります。先生方は、理性の力で戦争を防止することが出来なかつたではありませんか。」
先生
「理性を信じないとすれば、何を信じますか。」
学生C
「実力です。」
先生
「なるほど理性は万能ではありません。人間の間には非理性的な力が強く働いてゐます。戦争自体が人間の非理性的な行動の一つです。だからと言つて、理性を信じないのは人間を信じないのと同じことです。そこには社会もなく、文化もなく、獣的なものだけが残るでせう。人間が理性に対して懐疑をもち、真理について虚無的となるとき、人間としてつかみどころのある力、人生の確実な支へとなるものは実力だけだと言ふことは、一応当然の論理的帰結でありまして、それから非合法的行動の是認、暴力主義の実行へはほんの一歩であり、君たちの嫌ふ戦争そのものの是認さへも、君たちの懐疑主義、虚無主義から簡単に導き出される。力に対するに力、暴に対するに暴といふことでは、人類は社会を維持することさへ出来ません。人間が動物と異るのは、理性的に考へ、理性的に行動する能力をもつからであり、それによつて人類は社会の秩序を維持し、文化の進歩に努力して来たのです。」
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札幌農学校に連なる日本のキリスト者にしばらく前から興味を持っていて、
矢内原のこの文章もその流れで目にしました。
この後は、学生が
「理性は万能でないのに、どうして理性が暴力に勝てるのか」と問い、
それに先生が
「宗教的信仰は暴力を否定する非理性的な力であって、
理性の能力を十分に発揮させ、秩序と平和の基底として働く」と答え、
以下、学生に信仰を勧める話が続きます。
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19年目
阪神・淡路大震災にて亡くなられた方々に黙祷を捧げます。
****************************
ちょうど今日、次のような話を聞きました。
最近は、小中学生にも、インターネット上の情報だけを根拠として、
ある一面的な歴史観を持っている人たちがいる。そして、
「ネットでは常識だ」と教員に向かって嘯くのだそうです。
もちろん、この話も又聞きなので、真偽のほどは定かではありません。
しかし、もし本当だとしたら、さて、どう考えたものでしょう。
メディアリテラシーということは、正直に言うと、私にもよく分かりません。
「インターネットの情報は嘘かも知れないから、新聞などを読んで確認せよ」
という本を読んだこともありますが、その著者は元新聞記者の方でした。
しかし、3.11 以降、新聞の情報の相対化は、かなり広まっているような気がします。
メディアに対する不信感を抱いたのは、そう言えば、
19年前のこの日のことだったように思います。
当時、大阪に住んでいた私は、テレビのなかでひたすら
「このような地震が都心で起こる可能性はあるか」
みたいな議論がされているのを見て、この落差は何だろう、と感じました。
単純に若かったのかも知れません。
「正しさ」というのは、人々の間の共通了解のことだろうと思います。
しかし、その人々が「閉じる」と、とても怖ろしいことになる。
だからつねに「開く」努力をしなければならない。
けれども、開くためには、ある程度の自信であったり、
「生きていて良いのだ」という感覚、
罪悪感で「イエス」を無理強いしあうのではなく互いの「ノー」を尊重しあう環境、
そういうものが必要となる。
そして、ここでいつもデッドロックになる。
いまのところ何のアイデアもないし、
自分ひとりのアイデアだけで何とかなることでもないのだけれど、
せめて自分の生活や書くものに関しては、精一杯の努力をするしかない。
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ちょうど今日、次のような話を聞きました。
最近は、小中学生にも、インターネット上の情報だけを根拠として、
ある一面的な歴史観を持っている人たちがいる。そして、
「ネットでは常識だ」と教員に向かって嘯くのだそうです。
もちろん、この話も又聞きなので、真偽のほどは定かではありません。
しかし、もし本当だとしたら、さて、どう考えたものでしょう。
メディアリテラシーということは、正直に言うと、私にもよく分かりません。
「インターネットの情報は嘘かも知れないから、新聞などを読んで確認せよ」
という本を読んだこともありますが、その著者は元新聞記者の方でした。
しかし、3.11 以降、新聞の情報の相対化は、かなり広まっているような気がします。
メディアに対する不信感を抱いたのは、そう言えば、
19年前のこの日のことだったように思います。
当時、大阪に住んでいた私は、テレビのなかでひたすら
「このような地震が都心で起こる可能性はあるか」
みたいな議論がされているのを見て、この落差は何だろう、と感じました。
単純に若かったのかも知れません。
「正しさ」というのは、人々の間の共通了解のことだろうと思います。
しかし、その人々が「閉じる」と、とても怖ろしいことになる。
だからつねに「開く」努力をしなければならない。
けれども、開くためには、ある程度の自信であったり、
「生きていて良いのだ」という感覚、
罪悪感で「イエス」を無理強いしあうのではなく互いの「ノー」を尊重しあう環境、
そういうものが必要となる。
そして、ここでいつもデッドロックになる。
いまのところ何のアイデアもないし、
自分ひとりのアイデアだけで何とかなることでもないのだけれど、
せめて自分の生活や書くものに関しては、精一杯の努力をするしかない。
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