錯視 日誌

錯視日誌

数学的理論を使ったチョコレート用の錯視デザイン

 
 少し前にこの日誌でも触れた新井・新井がデザインした六花亭さんのチョコレート缶の写真と解説がデジタルちらし『おやつ屋さん』にでていました。少し大きめに表示すると錯視効果を見ることができます。このチョコレートはホワイトデー用のもので、『ラウンドハート』という商品名がついてます。缶の錯視は浮遊錯視生成プログラム(新井・新井)を用いて作成したものです。
 そういえば明日、3月14日はホワイトデーです。

3月27日追記:上記のおやつ屋さんは毎月更新されるため、現在ではラウンドハートを見ることはできません。こちらをご覧ください。
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錯視アートが本の表紙に.岩波書店『越境する数学』

『越境する数学』(西浦廉政先生編,岩波書店)が発売されました.
この本の表紙と裏表紙を飾っているのは,新井仁之・新井しのぶにより作成された錯視アートです.
表紙の作品は題して
数学大航海時代の浮遊錯視』,

そして裏表紙は
越境する数学の浮遊錯視

です.本を手に取って動かすと,表紙の船団(下参照)が海の上を浮いているようにふわふわ動いて見えます.また,裏表紙では,本に顔を近づけたり遠ざけたりすると,印刷された「岩波書店,越境する数学」の文字が回転しているように見えます.面白いので,ぜひ実際に本を手にとってお試しください.いずれも数学を使って作った錯視アートです.

越境する数学
岩波書店(2013/02/28)
値段:¥ 2,205

表紙は新井・新井によるオリジナル錯視アート「数学大航海時代の浮遊錯視」

残念ながら,書店のオンライン画像では静止画が動いて見える錯視効果は現れませんので,書店で現物をご覧ください.次のサイトで錯視画像のみごらんいただけます。ここをクリックしてください。

ところで,本の中扉には,フラクタル螺旋錯視(新井・新井)も使われています.

越境する数学の中扉に載った新井・新井の錯視アート作品
同心円に配列されたフラクタル図形が渦巻いて見える錯視.

なお,錯視アートだけでなく,新井仁之『視覚と錯覚の数理科学』,それから内田真理香さんとの対談も掲載されていますので,あわせてご覧ください.




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新しいものに向かって進んでいる人へ

懸命に新理論を組み立てている方への助言です。たいして良く理解もしていないのに、学会で「君の理論はたいしたとはない」といったことを暗に印象付けるようなコメントをする人など無視する方が賢明です。そんなことにかまってネガティブになるよりは、常にポジティブな気持ちを保って、自分の信ずるところに従って前へ進んでください。最後に高みに到達できるのは、新理論のために努力して一歩一歩前進している人であり、ああだこうだと偉そうに批評している人ではありません。。
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数学で解き明かす目の錯覚

オーム社のフリーのデジタルマガジン
OHM Bulletin 2013年 VOL.48 冬号(最新号)(約9MB)
に『数学で解き明かす目の錯覚』という拙稿が掲載されました.
お時間のあるときにでもどうぞご覧ください.
数理視覚科学がどのようなものかを短く,できるだけわかりやすく
書いたつもりです.
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年賀状の錯視 2013


 今年の年賀状をアップしました。文字列が傾いて見える錯視をもとにしたデザインです。これは「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」の十二支の文字を使って作成したものです。文字列傾斜錯視自動生成プログラム(新井・新井)を用いました。このプログラムは、コンピュータに文字が与えられると、コンピュータが傾いて見える錯覚を起こす文字と配列を見出すものです。この他の錯視も同様に作成したものです。

年賀状の錯視
年賀状の錯視 (Copyright Hitoshi Arai and Shinobu Arai 2012)


子午申寅丑午卯亥寅丑午卯亥寅辰午卯寅巳午
未丑子午申寅丑午卯亥酉丑午卯亥戌丑午卯亥

午巳寅卯午辰寅亥卯午丑寅亥卯午丑寅申午子
亥卯午丑戌亥卯午丑酉亥卯午丑寅申午子丑未

                          干支の文字列傾斜錯視(新井・新井,2013)


今年も錯視の科学館をよろしくお願いします。
錯視の科学館
錯視の科学館にはパンダ/宇宙人をクリックしてください。
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冬の海の音の色

【連休一日目】
 都会の騒音を逃れて、夜、浜辺の宿に到着。聞こえてくるのは波の音だけ。ここに来るのは何年ぶりだろう。外の暗闇の中では、灰色の音が周期的に繰り返されている。なぜ波の音は灰色なのだろう.もっとも灰色といっても絵の具のべた塗りの単調な灰色ではない.絵の具では表せない。それは表面的には優しく、よくみると不気味なものだ。
【連休二日目】
 朝。波の音の中で目が覚める。砂浜、海、空、そして遠くの方にときどき大型船。浜辺には誰もいない。
 昼ごろ、数名のサーファーらしき人が砂浜に来る。初心者らしい。夏に備えての練習か。彼らの発しているであろう音は海にかき消されて、聞こえてこない。
 夕方。浜辺にはまた誰もいなくなった。
 海は一面に広がっていて、いろいろな波が音をたてている。微妙にずれている音たちが混ざって、繰り返し灰色が広がる。
 
【連休三日目】
 ようやく一昨日から仕上げに取り掛かった原稿をほぼ完成させる。もうかれこれ何十時間もこの波の音に包まれているが、うっとおしくなる気配すらない。海の音に完全に同化している。
【連休明け】
 都会の雑多な騒音の中に戻ってきた。固く、人を叩くような薄汚れた白っぽい色をもつ塊が脳の中に入ってくるのを、意識しないように遮断しなければ。しかし黒っぽい固体のような騒音は侵入してくる。
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映画音楽の純粋音楽への干渉

 映画の面白さの一つに、映像ではなく,その音響や音楽が映画に与える効果を楽しめるということがあります。ここで音響というのは、背景となっている物や自然が起こす音あるいはそれを表わす合成音のことです。音響と音楽の使い方により、緊張感、開放感、喜び、悲しみ、恐怖などの感覚が増強されることはよく知られているところです。音響のことについてもいろいろなことがありますが,今回は音楽の方の話を書きたいと思います.

 音楽は映画の性格を決定づけてしまうこともあるくらい、映画全体の中で非常に重要な役割を果たしています。おそらく、どのような曲を使うのか、あるいはどのような曲を誰に委嘱するのかは、映画の製作者が苦労されるところだと思います。
 既存の曲を使って大きな効果があげられた例としては、『ベニスに死す』でのマーラーの交響曲第五番、『イージーライダー』のBorn To Be Wild などがあります。また、映画のために作曲された曲としては,例を挙げるのが難しいくらいいろいろありますが、あえて個人的な趣味から言えば、ミクロス・ローザの『ベン・ハー』、ジョン・ウィリアムスの『ジョーズ』、ジェリー・ゴールドスミスの『スタートレック』があげられます。
 『ベン・ハー』は,その昔,国鉄がストライキをして中学が休校になったときに見に行きました。映画音楽といいながら,全体としてまるで一篇の交響曲を構成しているかのような名曲でした。また各曲が場面に合わせて見事な効果を上げており,映画音楽としても最高峰のものだと思います。
 ジョン・ウィリアムスの曲では,『スターウォーズ』が『ベン・ハー』にも匹敵する構成力をもつ交響詩ですが,インパクトという点からいうと『ジョーズ』がすばらしいものです.最初の出だしから,くすんだ青とも鶯色ともいえない海の中の色の中で音のドラマが展開されています。
 『スタートレック』はやはりトレッキーとしては外せません。
 これらの曲は、映画を離れて純粋な音楽としても鑑賞できます。
 
 ところで、映画音楽があまりにインパクトがあるためか,逆に他の音楽の鑑賞に干渉してしまうことがあります.具体的な話しをした方がわかりやすいので、この日誌を書く動機となったことを書きたいと思います。
 ヒンデミットという作曲家がいますが、これまでこの人の作品は『画家マティスの生涯』を聴いたことがあるくらいで、あまりなじみがありませんでした。そこで、これまで聴いたことのないヒンデミットの曲の一つである『交響曲変ホ調』をCDで聴いてみました。その第一楽章。曲の冒頭を聴いた時点から、

 これって映画の音楽 ・・・・?

と思えてしまいました。この印象をもってしまうと、音楽を映画とは関係のない純音楽として鑑賞できず、どの映画ということではないのですが、曲を聴いている間中、何か映画のオープニング、エンディングなどのイメージがぬぐいきれなくなってしまいます。

 なぜこんなことが起こるのでしょう。
 映画に似たような曲が使われるからその映画のイメージが想起されるのか、というとそうでもありません。たとえばベートーヴェンの交響曲第9番。これは『時計仕掛けのオレンジ』で余りにもすごい使われ方をしていました。しかし第9を聴くとき、これを映画っぽい情景と結びつけてしまうことはありません。マーラーの交響曲第5番も同様です。映画とは分離して鑑賞できます。
 そうなるともう一つの仮説が浮かび上がってきます。第九やマーラーの曲は、曲が使用された映画を見る前から知っていたから影響がないのだ、ということです。ところがこの考えを覆す例がありました。エドガー・ヴァレーズの『アルカナ』です。
 『アルカナ』を初めて聴いたのは中学生のときですが、そのときはこれを純音楽として鑑賞して感動しました。たとえば、ストラビンスキー『春の祭典』やプロコフィエフ『スキタイ組曲(アラーとロリ-)』を聴いたときと同じようにです。またアルカナを使用した映画(こういうのが実際にあるかどうか知りませんが)を見たことはありませんでした。しかし数週間前にアルカナを聴いたときには、これも何かハリウッド映画の音楽のように聞こえてしまいました。一方、春の祭典やスキタイ組曲は今でもそういう印象はわき起こってきません。また同じヴァレーズの曲でも『イオニザシオン』は純音楽として聴くことができます。

 そこでたどり着いた一つの推測として、映画音楽、特にSFとかスペクタクル映画の映画音楽に何か共通の音楽的構造があり、それと同じかあるいは類似した構造をもった曲は、映画と関係なくても 「まるで映画音楽みたいだ」 という印象をもってしまうのかもしれません。今度、音楽に詳しい人に聞いてみようと思ってます。
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文部科学省の広報で数学特集

 文部科学広報 2012年 12月号に『数学イノベーションの推進 拡がっていく数学』という特集が組まれています。この特集にJST数学領域総括の西浦廉政先生が『つながる知 数学という見えない力』という記事を書かれています。さきがけ・CRESTのお話です。その中で私の数学を用いた視知覚と錯視の研究が紹介されました。
http://www.koho2.mext.go.jp/157/#page=45

です。フラクタル螺旋錯視(新井・新井, 2007)と、錯視成分を数学的方法で除去した結果の画像(新井・新井、2010)も掲載されています。
 ちなみにこの画像をご覧になるときは、画面を少し大きくしてご覧いただくとわかりやすいかと思います。
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錯視の科学館 ポスター

錯視の科学館
Science Museum of Visual Illusions, Japan
Since May, 2010



     
 錯視の科学館では、心理学や工学による従来の錯視研究とは全く違った新しいタイプの錯視研究と錯視アートをお楽しみいただけます。
 展示品のリニューアル、新作の発表もしています。

 


錯覚の科学

錯視の科学館には上のロゴマークからご入場できます。無料です。


 

錯視の科学館館長 新井仁之

 

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★ Merry Christmas ! クリスマスツリーの錯視

Merry Christmas !

クリスマス用の錯視画像を作成しました。どうぞご覧ください。

クリスマスツリーの動いて見える錯視
クリスマスツリーの錯視 No. 1 (新井・新井,2012).

錯視画像の見方:人差し指で画像の中央あたりを斜め上から斜め下,斜め下から斜め上にゆっくりと繰り返しなぞりながら,顔は動かさずその指先を目で追うと,ツリーが浮遊して見えます.画像に顔を近づけたり遠ざけたりすると,丸窓が伸縮しているように見えます.あるいは顔をやや斜めにして画像を上下にゆっくりと滑らかに動かすと,ツリーが浮遊して見えます.

次の錯視画像 No. 2 の見方は No. 1 と同じです。
ところで・・・
No. 2 のクリスマスツリーの方が No.1 より太く見えませんか?
しかし、それも目の錯覚です。実際は同じ大きさになっています。


錯視
クリスマスツリーの錯視 No. 2 (新井・新井、2012)


次の作品は No. 1 の色違いのものです。さて、No. 1 との色の違いはどのようなものでしょう?


錯視
クリスマスツリーの錯視 No. 3 (新井・新井、2012)


No. 4 は No. 3 の色違いバージョンです。


錯視
クリスマスツリーの錯視 No. 4 (新井・新井、2012)


次の作品は、昨年作成したクリスマス用のビジュアル・イリュージョンです。


錯視
クリスマスリースの浮遊錯視 (新井・新井、2011)
クリスマスリースの浮遊錯視の見方:画像が真正面にくるようにしてください.そして,画像の中央の丸印を見ながら,画面に顔を近づけたり,遠ざけたりするとリースのリングが回転しているように見えます.

それでは、どうぞ良いクリスマスをお迎えください。


ここに掲載した錯視はいずれも浮遊錯視生成アルゴリズム(新井・新井、科学技術振興機構、特許取得)で作成したものです。
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★ 文字列が傾いて見える錯視には異なるタイプがある

 文字列傾斜錯視自動生成アルゴリズム(新井・新井)は、与えられた文字の集団から傾いて見える文字の配列を,コンピュータに自動的に見つけさせることができるものです。これまで、このアルゴリズムによるさまざまな錯視を本日誌に掲載してきました。今回は少し路線を変えて、文字列傾斜錯視自動生成アルゴリズムのもつ別の性能について書こうと思います。
 それは、近くよりも遠くから見た方がよく傾いて見える文字列傾斜錯視、遠くから見てもわからないがかなり近くから見ると傾いて見える錯視、遠くや近くよりもやや近距離から見た方が傾いて見える錯視など、つまり錯視がより強く起こる距離も加味して文字列傾斜錯視を作ることができるというものです。これらの錯視を便宜上、順にタイプ1、タイプ2、タイプ3と呼ぶことにします。
 次の①がタイプ1、②がタイプ2、③がタイプ3の作成例です。
 

文字列傾斜錯視と周波数1

文字列傾斜錯視 3つのタイプ

Character String Illusion Type3



補遺:文字列が傾いて見える錯視と文字列傾斜錯視自動生成アルゴリズムについて

 どなたが最初に始めたのか筆者には不明ですが、2005年頃にインターネットの掲示板で文字列が傾く錯視を作る遊びが流行りました。そして、匿名で傾いて見える文字列がいろいろと投稿されました。この文字列が傾いて見える錯視が起こる理由として、一般的には文字の中の目立った水平線が次第に傾いていくのが原因であるという水平線説がよく知られています。しかしそれだけでは説明のできないものもあり、新井仁之と新井しのぶは2012年に水平線説を含む一般的な理論を考案して、文字列傾斜錯視自動生成アルゴリズムを作りました。詳しくは錯視の科学館の『文字列傾斜錯視の自動生成アルゴリズムについて』、または『文字列傾斜錯視作品集』をご覧ください。

   錯視の科学館 新井仁之


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キーワード
錯視、目の錯覚、文字列傾斜錯視、数理視覚科学.
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JSTさきがけ『越境する数学』最終回

 
 それにしてもこのJST数学さきがけ集団は結構すごい。選び抜かれた応用数学の若手・中堅が集まっていて、それも単に集まっているだけではなく、分野が違うのにしっかりしたネットワークができている。ディスカッションあり、共同研究あり、また数人交代で数学キャラバンやさきがけ数学塾を催して若手育成もする。しかも一人一人が良い研究成果を挙げている。こんな数学者集団ほかに見当たりません。
 

 今日はこのJST数学領域さきがけの成果発表会『越境する数学』に参加してきました。今回はさきがけ最後の三期生の最終成果発表会です。午前から夕方まで三期生の口頭発表があり、その後、一期生から三期生までのポスターセッションがありました。私も一期生としてポスター発表をし、視覚と錯覚の研究により考案した特許技術および特許出願中の技術をいくつか展示しました。
 
 懇親会では一年ぶりにお会いした総括の西浦先生、アドバイザーの先生、さきがけの仲間の人たちといろいろな話しをすることができました。

 
 しかし、そのさきがけの集会としての『越境する数学』も今回で終わりです。まるで長年楽しみにしてきたドラマの最終回を見終わったような気分です。
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先端数学による視覚と錯視の研究から生まれた新技術


11月27日(火)にJST領域会議『越境する数学』でポスター発表します.

題目:数理視覚科学から生まれた新技術たち (仮題)
発表者:新井仁之 (東大数理 / JSTさきがけ1期生)

概要:先端数学を用いた新井による視覚および錯視の研究を応用して考案した新しい技術の数々の総説をします.ご関心のあるかたはぜひお越しください.

発表日時:2012年11月27日(火),16:35~17:35
場所:東京大学 弥生講堂・一条ホール

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新井仁之のホームページ
錯視の科学館
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カントールの悪魔の階段

感覚的にはありえないにもかかわらず,数学的には存在することがあります.その一つの例である「カントールの悪魔の階段」を階段らしく描いてみました.

Cantor devil's staircase


 この階段は日常的な感覚とはかなりズレているものです.それを見るために,カントールの悪魔の階段の断面図を描いてみます.


カントル-ルベーグ関数 悪魔の階段


 これがもともとカントールの悪魔の階段と呼ばれているもののグラフです.この関数の不可思議な点は次のようところです.[0,1] 上の連続関数 y=f(x) が,もしも至る所で平坦であれば,すなわち微分係数が f'(x)=0 となっていれば f(x) は定数になっています.しかし,カントールの悪魔の階段は,おおざっぱに言えば,確率 1 で平坦であるにもかかわらず,f(0)=0 から f(1)=1 へと変化していく連続関数なのです. 言い換えれば,確率 0 でしか変化していないにもかかわらず,0 から 1 へと変化しているのです.

動画付き解説もあります。(錯視の科学館 内)
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太宰治から見た発散級数論

 太宰治の小説に純粋数学の発散級数論について言及しているものがある,と同業の数学者に言うと多くの人は「えっ,本当ですか?」と驚くかもしれません.しかし,これは本当のことです.しかも驚くべきことに,太宰は発散級数論の宿命を見事に見抜いているのです.今夜はこの話しについて書こうと思います.

 一昔前の若者は,どのくらいの率かはわかりませんが,まるで麻疹のように太宰治という熱病に一度は罹ったのではないでしょうか.私も御多分に漏れず,中学の頃に太宰治に感染したことがあります.そのときにむさぼり読んだ小説の中に『乞食学生』という短編がありました.その中で太宰は数学を小説のネタにしているのです.主人公は,32歳の小説家.あまり世の中に出したくないような作品を,太宰の表現を用いれば「世の中に生きてゆく義務として」出版社に送り,自己嫌悪に陥いりながら井の頭公園辺りを歩いています.そんなとき川を全裸で泳ぐ少年を見かけます.『乞食学生』は主人公とこの少年との会話が中心となって話しが進んでいく作品です.自分にあまり自信のない主人公に対して,この少年は自信たっぷりに知識をひけらかしては,人をやり込めるタイプの人です.彼は主人公にこんなことを言います.

「ちえっ、外国人の名前だと、みんな一緒くたに、聞いたような気がするんだろう? なんにも知らない証拠だ。ガロアは、数学者だよ。君には、わかるまいが、なかなか頭がよかったんだ。二十歳で殺されちゃった。君も、も少し本を読んだら、どうかね。なんにも知らないじゃないか。可哀そうなアベルの話を知ってるかい? ニイルス・ヘンリク・アベルさ。」
「そいつも、数学者かい?」
「ふん、知っていやがる。ガロアよりも、頭がよかったんだよ。二十六で死んじゃったのさ。」(太宰治『乞食学生』より)
 
 中学生の私は,少年のこの物言いにすっかり魅入ってしまいました.なんてキザでかっこいいんだろうと思ったわけです.ガロアとアベルという数学者の名前に初めて出会ったのもこのときでした.
 さて,そんなこんなで主人公と少年の会話が進んで行きます.そして,少年がいよいよ主人公に言います.

「五次方程式が代数的に解けるものだか、どうだか、発散級数の和が、有ろうと無かろうと、今は、そんな迂遠な事をこね回している時じゃないって、誰かに言われているような気がするのだ。」(太宰治『乞食学生』より)

これに対して主人公の台詞は次のようなものです.

「君が時代に素直で、勉強を放擲しようとする気持もわかるけれど、秩序の必然性を信じて、静かに勉強を続けて行くのも亦、この際、勇気のある態度じゃないのかね。発散級数の和でも、楕円関数でも、大いに研究するんだね。」(太宰治『乞食学生』より)
 
 もちろんこの小説を初めて読んだときには,発散級数も楕円関数も知りませんでした.しかし,今になってみると,この少年の発言は現代のある種の人が言いそうな気がします.一方,主人公の発言などは数学者がいかにも反論しているかのようです.
 ところで太宰は発散級数論について誰か数学者と話したことがあるのでしょうか?あるいは何か関連の文章でも読んだのでしょうか.確かに五次方程式も発散級数論も楕円関数もアベルに縁の深いテーマです.しかし,五次方程式はともかく,アベルから発散級数論はかなり専門家的な連想といえるでしょう.そして発散級数論に対する少年の訴えも,主人公による発散級数論の研究を擁護するかのような発言もなかなか核心を突いてます.
 いずれにしても物事を見る太宰の鋭い眼識力の一端がここにも現れているようです.

 なおここでは『乞食学生』の数学に関する部分だけを抜き出しましたが,この小説の主題は数学ではありません.


前回までの『私の名著発掘』はこちらへどうぞ

 

 

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ウェーブレット前史にまつわるエピソード

 理学部ではありませんが,学部3年・4年向けの応用数学の講義をしています.昨日からはウェーブレットに入りました.実戦的なウェーブレットの講義をする前に,まずはウェーブレットの簡単な歴史から始めることにしました.
 今日のブログではそのウェーブレット誕生の前に起こったことについて少し話しをしたいと思います.


ウェーブレット講義 (新井仁之)



 
 ウェーブレットの最も単純な例としてハール・ウェーブレットが知られています.これは,Alfred Haar がMorlet-Grossmannの論文のおよそ75年も前に,論文『Zur Theorie der othogonalen Funktionensysteme』(Math. Ann. 69 (1910), 331-371) で発表したものでした.また,フランクリン・ウェーブレットは P. Franklin が 1928年に構成した基底です.このほか,J-O. Stromberg (o は o ウムラウト) は 1983年に,ハーディ空間の無条件基底の構成問題を解くために本質的にスプライン・ウェーブレットを発見しています.
 しかし,そうだからといって今日,彼らがウェーブレットの創始者であるとは考えられていません.その理由は,彼らが「ウェーブレット」という考え方ではなく,むしろ「基底」の一つの例として研究していたからでしょう.
 かつてラグランジュはフーリエ解析の手前をかすったにもかかわらず,フーリエ解析を創ることはできませんでした.これについてブルクハルトは次のように書いています.

 『ある人が自分の目の前に全く違った方向にある目標をもつとき,見たところ近い結論を引き出すのにいかにたやすく失敗するかという大変教訓的な例である』(ボタチーニ「解析学の歴史 オイラーからワイアストラスへ」(好田順治訳),現代数学社より)

 Haar,Franklin, Stromberg は彼ら自身の問題については見事に解決したので,決して失敗ではありませんが,しかしウェーブレットの手前まで来ていて,いやそれどころかウェーブレットの基本的な例にまで到達していて,ウェーブレット理論というルートを発見できなかったわけです.金を見つけたのに,その先にある金鉱に気が付かなかったといえるでしょう.
 一方,数学者ではないMorletは,こういった数学的発展とは独立に,石油探索という全く予想もしないような方向から,ウェーブレットという豊かな金鉱を発見したのです.

 世の中というのは,いつどこで何が起こるのかわかりません.


ウェーブレットの読み物
ウェーブレットの研究者がウェーブレットの解説や発展的話題を解説.

数学のたのしみ―〈フォーラム〉現代数学のひろがり (2004秋)
上野 健爾, 砂田 利一, 新井 仁之
日本評論社(2004/10)
値段:¥ 2,520


主な内容
新井仁之 ウェーブレット入門
山田道夫 ウェーブレットと乱流
鈴木 武 ウェーブレットと統計学
芦野隆一 ウェーブレットの偏微分方程式への応用
新井仁之 ウェーブレットと視覚

 

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脳内アルケル,そしてカミーユ・クローデル


  昨日,ある申請のヒアリングのため,研究内容に関するプレゼンテーションをしてきました.プレゼンが無事終了してほっとしたのか,またしてもアルケルのことが気になりはじめました.
 ことの発端はドビュッシー展でうっかりとアルケルを見落としたことに始まります.10月3日の日誌に書きましたが,ある人から「展覧会ではアルケルはどうだった」と聞かれ,初めてアルケルというものが展示されていたことを知ったのです.それで興味が湧き,展覧会の図録集を調べ,アルケルの写真を見たのですが,それからというもの,どうもアルケルが気になって仕方がなくなってしまいました.夜中に,ぼそぼそとこんなブログを書いているほどです.
 図録集の写真によると,アルケルは焦げ茶色の木彫りのでっぷりした蛙の形をした文鎮です.しかもこの蛙,どう見てもかわいくなく,目には人をあざ笑っているかのような不遜で皮肉たっぷりの笑みを浮かべています.何とも不快な木彫りです.ところが,これを一度見たらもう忘れられない,いや,それどころか思い出したくなくても思い出してしまうのです.夜中にふと目覚めて,ボーとしていると,どこからともなくアルケルの姿がわき起こってきたりとか,人と話しているときに突然アルケルのことを話題にしたくなるとか,アルケルが脳の一部を占拠してしまったかのようです.
 そこでちょっとアルケルのことをインターネットで検索してみました.すると,驚くべきことが起こっていました.ドビュッシー展を見てきたという人のかなりの方々が,ブログでアルケルのことを書いているのです.しかもどのブログもアルケルにインパクトがあったという内容です.ドビュッシー展には有名な美術品や資料がたくさん展示されていました.それにもかかわらず,多くの方々が作者もわからないアルケルのことを,ことさらに取り上げているのです.おそらくアルケルはどの人の脳への侵入にも成功したにちがいありません.アルケルのことを聞いてきた知人もきっとそうだったのでしょう.私自身は実物を見ていないのにこんな状態ですから,本物を実際に見た人には,全く同情したくなります.
 図録集の解説によると,じつはドビュッシー自身にいたっては,アルケルをいつも身近に置き,旅行にも持って行ったとのことです.ドビュッシーもアルケルの魔力にまんまと取り憑かれてしまっていたようです.

 ところで,アルケルという名前をこの文鎮に付けたのは,ドビュッシー本人です.メーテルランクの戯曲『ペレアスとメリザンド』に登場する王の名前からとったものだそうです.ドビュッシー自身はこの戯曲を元にオペラを作曲しています.
 この戯曲は作曲家の創造をかき立てるものであるらしく,シェーンベルグも『ペレアスとメリザンド』という,あまりにも濃厚すぎる様々な色をぶちまけた交響詩を作っています.

 さて,アルケルの他にも,ドビュッシーがいつも身近に置いていた彫刻があります.カミーユ・クローデルの『ワルツ』です.ドビュッシー展ではアルケルこそ見落としてしまいましたが,『ワルツ』はじっくりと見てきました.力強い彫刻ではありますが,どことなく体の線など,繊細すぎて危ういところが感じられる作品でした.カミーユ・クローデル自身,凄まじい情熱と天才的な才能をもっていたがために,ロダンとの葛藤の中で,精神が壊れていってしまった人です.カミーユ・クローデルの生涯については,イザベル・アジャーニ主演の『カミーユ・クローデル』が印象的な映画です.特に映画の最後のシーン.精神病院にいるクローデルの手紙が読まれるのを聞いた後は,しばらく一言もしゃべりたくなくなるほどでした.
 この映画の中で,ドビュッシーがカミーユ・クローデルと話したりダンスを踊るシーンがあります.手元に置いてあるとはいえアルケルとワルツでは,ドビュッシーの思いは全く違っていたようです.

 ドビュッシー展が終わってもう1週間以上立ちました.アルケルはフランスに帰っていったのでしょうか.あるいは,また世界のどこかで展示されているのでしょうか.どこにいってもアルケルは,やはり見る人の脳の中に無礼に侵入していることでしょう.どこか人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべて.

 ちなみにアルケルのふるさとは日本だということです.ひさびさのご帰還ということだったようです.


 
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★ 第4回 「越境する数学」,躍進する若き応用数学者たち

1. JST 数学領域
 第4回領域シンポジウム「越境する数学」が来たる11月27日に東京大学弥生講堂で開催されます.これは科学技術振興機構 『数学と諸分野の協働によるブレークスルーの探索』 領域のさきがけ第3期生の成果発表会です.この領域は2007年10月から西浦廉政総括のもとに始動したプロジェクトで,「数学領域」あるいは「西浦領域」と呼ばれています.
 数学領域が発足したことは日本の現代数学史の中でも特筆すべき出来事でした.それまで日本の科学技術政策の中で数学は無視されている状態でした.しかし一部の研究者や政府の方々の多大な努力が状況を変えることとなり,その大きな変化の一つとして数学領域が誕生したということです.
 この数学領域には西浦総括の言葉を借りれば,若手研究者のインキュベータとしての「さきがけ」,それからベテラン研究者の「CREST」があります.数学領域は2007年の春に,まずさきがけ1期生の募集により表だった活動を開始しました.この募集は数学界では非常に注目されました.少なくとも私の周辺では大事件でした.結局169人の応募があり,その中から12名のさきがけ1期生が生まれました.「さきがけ」はその後,毎年1回募集があり,3期生の募集をもって終わりました.月日がたつのは早いもので,その3期生の任期もいよいよ来年3月で終了となります.11月のシンポジウムは彼らの公開最終成果発表会です.

2. 数学領域「さきがけ」の成功.
 数学領域の「さきがけ」は日本の応用数学者・数理科学者の育成で大成功を収めたといえるでしょう.すでに「さきがけ」を卒業した1期生,2期生,そして研究中の3期生も,彼らの名前を至る所で目にします.たとえば,最新ニュースとしては,今年から始まった藤原洋数理科学賞奨励賞の受賞者はさきがけ出身者で占められました.また,2010年度「CREST」の採択者5名のうち3名がさきがけ1期生で,現在リーダーとして,彼ら3人は自分の考え方を自由に反映できるチームで研究を進めています.このほかにも,すべての例を列挙すると本当にきりがないので書きませんが,さきがけ研究者による目覚ましい成果が数多く得られています.いずれにしても,将来の日本に於ける応用数学のトップリーダーの大半はさきがけ出身者になるのではないかという勢いです.
 

3. 成功の理由は?
 なぜ数学領域「さきがけ」は,このように成功したのでしょう.よく失敗したら必ずその原因を調べ,失敗を繰り返さないようにしろ,ということを聞きます.しかし成功したら,それを繰り返すために原因を明らかにしておくことも有用なことだと思います.幸い筆者もさきがけ研究者の一人に加えていただいていたので,今回はその経験を活かして数学領域さきがけプロジェクト成功の理由を探ってみたいと思います.ちなみに「さきがけ研究員」ではなく「さきがけ研究者」が正式の呼び方です.

 まず第一の理由は,さきがけ研究者は単なる研究費と給与をもらえる研究員ではなく,3年半の任期中,ある種の教育を受けるからだと思います.といっても授業やセミナーがあるわけではありません.あるのは年2回の領域会議と呼ばれる非公開の合宿です.さきがけ研究者はそこで半年間の研究内容を報告するわけです.どの領域にも10名近くの領域アドバイザーという指導員がおり,領域会議で報告をすると,それに対して総括とアドバイザーの方々がいろいろな意見やアドバイスをしてくれます.その意味では年に2回必ず面接試験があるようなもので,これは結構良い意味のプレッシャーともなります.ただしこの報告は,研究成果の発表ではなく,研究内容の報告であるという点がポイントです.「さきがけ」ではお茶を濁すための目先の成果は期待されていません.
 
 JST News (2008年2月号)に『さきがけ領域会議の真実』という特集があり,数学領域ではありませんが,いくつかの領域における領域会議の内情が書かれています.興味のある方はご覧ください.数学領域の「さきがけ」の場合,領域会議は非常にうまく機能したといえるでしょう.
 

 数学領域さきがけが成功した第二の理由.それは,研究者どうしの強い横の繋がりが形成されたことです.数学領域には数理科学のさまざまな分野の研究者がいます.その人たちが年に二回,定期的に合宿をします.最近では,異分野の人たちを交えた研究集会がいろいろと催されています.しかし,異分野の同じメンバーが定期的に合宿をするという機会はまずありません.私に関して言えば,さきがけ研究者の中に同じ分野の人がおらず,しかもみなさんがそれぞれの分野で活躍している人ばかりでしたので,会って話しを聴くだけでも刺激になりました.そもそもそういう人と親しくなれたこと自体が有益でした.実際,全く異なる分野であるにもかかわらず,少し関係がありそうだとセミナーに呼ばれたりしましたし,そうこうするうちに,本来なら言葉を交わすことも無かったであろう違う分野の人との共同研究の切っ掛けができたりもしました.
 
 こういうわけで,数学領域さきがけ研究者には,諸科学との協働,異分野融合の新たな機会が常時与えられていたとも言えます.
 

 ところで,前述のJST News にさきがけに関して次のような記述があります.
 『そのメンバーに選ばれることが,文学界での芥川賞や直木賞のように,科学技術の若手研究者の登竜門として認知され,「さきがけ出身」が一つのブランドのように見られているのだ.』
 確かに,ある分野では「さきがけ」に採用されたということで,信用が得られた面もありました.特に数学の分野ではそういうブランドは初めてだったので,さきがけ研究者であること自体が自信に繋がったという効果もあったかもしれません.これが第三の理由といえるでしょう.
 他に第四の理由を思いつきますが,長くなるので省略することにして,

 最後のそして大きな理由.それは言うまでもなく,いろいろな人の集まりであるさきがけ研究者たちをとりまとめ,良い方向に導かれた総括の西浦先生と10人のアドバイザーの方々によるものです.

4. これから
 すでに述べたことからもわかるように,数学界あるいは応用数学界にとって,「さきがけ」というインキュベータがあることの意義は大きいものでした.ただ,それが3期生までしかないというのは大きな損失です.全国の研究機関から才能ある若手を集めて,応用数学者・数理科学者を育てられる機会は現在のところ「さきがけ」しかありません.もしも数学に関して科研費などの研究費や,特定のテーマに特化した研究費が増えるのであればそれは大変にすばらしいことです.しかし,これからの日本の科学の独創的発展を考えると,特定のテーマに限定することなく,広い視野から優秀な応用数学あるいは数理科学の研究者を育てる必要も大いにあります.再び今回の数学領域「さきがけ」のようなプロジェクトができることを願ってやみません.

第4回領域シンポジウム「越境する数学」


5. さきがけ関連の文献
[1] 西浦廉政,インキュベータとしての JST 数学領域,数学通信,15巻4号 (数学領域の紹介.主にさきがけ.)
[2]  さきがけ領域会議の真実,JST News (2008-2)  (かなり重い およそ6Mb.領域会議とは?)
[3] 西浦廉政,数学,超えていくためのツール,Researchmap つながるコンテンツ VI, 2012年9月.(諸科学と数学.AIMR.数学は考え方のタネ.)
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ハーディの本 (2) - 純粋数学と応用数学

 昨日(10月17日)の錯視日誌『マルチンキーヴィッチの悲劇』ではマルチンキーヴィッチの悲惨な話しを紹介しました。そのとき書きましたように、今日は襟を正して彼の補間定理を講義しました。来週はハーディ空間の話しを少しする予定です。そこで今回はハーディに因んで,10月6日の日誌に引き続き、ハーディの本『ある数学者の生涯と弁明』について書こうと思います。もっともハーディ空間はリースが定義したということですが・・・。

 G. H. ハーディは『ある数学者の生涯と弁明』で、数学の価値について自説を展開していますが、それと関連して数学者と応用数学者の違いについても論じています。私の理解が不十分でなければ、純粋数学者は数学的実在を対象とし、それに対して応用数学者は物理的実在を対象としているのが大きな違いであるという説です。そして次のように主張しています。
 

 『しかし,普通の応用数学者の立場は,ある意味で少々痛ましくはないだろうか.もし彼が役に立ちたいと思うと,彼は退屈な仕事を手掛けなければならないし,高みに至ろうと望んでも,自由自在に想像力を伸ばすことはできない.』(ハーディ『ある数学者の生涯と弁明』(柳生孝昭訳、シュプリンガー数学クラブ)より)

 ハーディの言う「普通の応用数学者」の仕事が「退屈」かどうかは別にして、確かに応用的・実用的な数学分野では、現実の現象や産業上の問題を扱うため、現実世界の呪縛を振り切ってまで自由に想像力を膨らませることは避けるでしょう。それは現実からの乖離であり、実用上、あるいは企業の収益上はあまり意味のないことだからです。しかし、数学者にとって思考の範囲を現実の問題に制限する理由は何もありません。数学者は論理的に正しければ、現実から飛翔して自由に数学的実在を追い求めることに何の躊躇もないのです。そしてそのような現実に縛られない発想が数学を発展させてきたといっても過言ではありません。逆に言えば、その自由さは現実を相手にしている実用的な分野にはないものともいえます。
 といっても、現実を扱った研究から多くの数学が生まれてきたことも事実で、ハーディも純粋数学だけではなく、「真の」数学者として、マックスウェル、アインシュタイン、エディントン、ディラックなどを挙げています。もちろん彼らは「普通の応用数学者」などではなく極めて「秀いでた」人たちです。
 

 ところで、ハーディはこの本の中で 『私は何一つ「有用」なことはしなかった』 と述懐しています。これに対して、彼の数学、あるいはそこから発展した数学が今の情報社会でいかに役立っているかを示すことはできます。たとえば象徴的な出来事として、実用数学の急先鋒であるウェーブレットを提唱した論文のタイトルは『ハーディ関数の定形二乗可積分ウェーブレットへの分解』(グロスマン、モルレ著, 1984)でした。しかし、ハーディに関連する数学が役に立つことをいくら列挙しても、ハーディを慰めることもできず、また反論したことにもなりません。むしろハーディの主張の曲解に繋がるといえるでしょう。
 実用至上主義者はしばしば、応用・実用数学だけでなく純粋数学の研究も必要で価値があるという主張をします。ところが、その理由はというと、現時点で役に立たない数学もいずれは役に立つかもしれないからだ、ということがしばしばあります。しかし、数学の価値はそんなところにだけあるわけではありません。社会的に役立つかどうかは別にして,ハーディの言う「真の」数学は数学的実在を捉え、それを明らかにするから価値があるのです。

 ハーディ曰く
 『数学の定理の「重さ」は、その実用上の重要性(これは普通無視してもよい)にあるのではなく、定義が相互に結びつける数学的な諸概念の意義にある』(前掲書より)
 けだし名言です。

 ところで、ハーディはこの本の中でしばしばホグベンという人を引き合いに出しています。訳注によればホグベンはイギリスの生物学者です。彼は「真の」数学者ではありませんが、『百万人の数学』という一般向けの啓蒙書でベストセラーを著わしました。ハーディはホグベンについて次のように書いています。

 『彼が数学と言ったとき,それは彼の理解する数学、即ち私が「学校の」数学と呼んだものを意味している.この数学に多くの用途があることは私も認めたし,「社会的」と呼びたければそう呼べよう.(中略)今でも,これからも決して数学者ではない大多数の読者に対して,彼らが思っていたよりも数学には遙かに豊かな内容があることを,明らかにしているのである.しかし,彼は「真の」数学に対して殆ど理解していないし(中略),それに対する共感となると,なお乏しい(中略).「真の」数学とは,彼にとっては,単に軽蔑すべき憐れみの対象に過ぎない.』(ハーディ『ある数学者の生涯と弁明』(柳生孝昭訳、シュプリンガー数学クラブ)より)

 ハーディはホグベンが「真の」数学を軽蔑し憐れむと言ってますが、逆にハーディ自身は、ある応用数学を挙げ、それに対して次のように述べています。

 『(略)高度の技術を必要とする応用数学の分野があるのは事実である.多分このようなものを「日常数学」と呼びにくいが,どれも「純粋数学」に列するには値しない.それらは,実際いやらしいほど見苦しく,我慢できぬほど退屈なものである.』(前掲書より)

 ハーディにとって、(社会に)役立たせることを数学の主目的とし、そこにしか価値を認めようとしない社会情勢にがまんならなかったのでしょう。その主たる理由は本書に書かれていますが、副次的な理由の一つは原著第1版の出版された年に隠されていると思います。


 追記:この本について何かあることを書こうとすると、どうしても書き漏らしてしまう部分がでてきてしまいます。ハーディはいろいろな面から論じています。彼の主張をお知りになりたい方は、ぜひ直接この本をご覧ください。

ハーディ

ある数学者の生涯と弁明 (シュプリンガー数学クラブ)
G.H.ハーディ, C.P.スノー
丸善出版(2012/07/17)
値段:¥ 1,325


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マルチンキーヴィッチの悲劇

 明日の大学院の実解析学に関する講義の準備が終わったところです。今回の話しの重要な部分は、マルチンキーヴィッチの補間定理と呼ばれるものです。マルチンキーヴィッチは非常に才能があり、その後の調和解析に大きな影響を残した数学者でした。しかし、その生涯は短く、30歳の頃に亡くなったとされています。今日はマルチンキーヴィッチの悲しいお話しを書いておきたいと思います。

 マルチンキーヴィッチ(Jozef Marcinkiewcz) は 1910年にポーランドに生まれました。1930年にはWilno というところにある Stefan Batory 大学に進学し,そこでフーリエ級数論で有名な A. ジグムントに師事します。ジグムントはのちにアメリカにわたり,調和解析の大御所になる人物です。   
 ジグムントのもとで,マルチンキーヴィッチはすぐに才能を開花させ,実解析学に関する研究で数多くの優れた業績をあげました。そして1938年秋,奨学金を得てパリ,そして1939年4月からはロンドンでの研究生活を始めます。   
 順風満帆に見えた研究生活でしたが,次第に暗雲が立ち込めてきます。丁度その頃,ナチス・ドイツによる脅威がポーランドに迫っていたのです。愛国心に満ちた青年マルチンキーヴィッチは,故国を憂え,1939年8月末,急遽帰国します。情勢を危ぶんだ周囲の人は彼に帰国しないよう反対したということです。    
      
 同年9月1日,遂にドイツがポーランドに侵攻します。   
 後に師匠のジグムントが述懐したところによると,9月2日に彼は偶然,Wilno の町の路上で軍の制服を纏った弟子マルチンキーヴィッチと出会いました.ジグムントは,マルチンキーヴィッチとその日の晩に会おうと約束したそうです。しかし,弟子は約束の場所には現れませんでした。ナチスの進軍により,事態は急を要していたようです。   
      
 それから数ヶ月後,ジグムントのもとにマルチンキーヴィッチがナチスの捕虜になったという知らせが届きます。しかし,その後の詳細な連絡はありませんでした。そしてようやく戦争が終わりましたが,それでもマルチンキーヴィッチは二度と人々の前に姿を現すことはありませんでした。彼が死んだのか,生きたまま行方不明なのかはわかりませんでした。現在でも彼がいつどこで死去したのかは推測以上の確かなことはわかっていないようです。  
       
 戦争が終わって10年がたった1956年。「純粋・応用数学雑誌」という数学の学術雑誌の 35巻に一編の論文が掲載されました。タイトルは   
      
  『作用素の補間に関するマルチンキーヴィッチのある定理について』,   
      
 そして著者はジグムントでした。   
 この論文は,今日,マルチンキーヴィッチの補間定理と呼ばれる定理に詳細な証明を付けたものです。じつはマルチンキーヴィッチは,1939年にこの定理を発見したことを論文として出版していました。ただしこれには証明はついていませんでした。数学では,証明を付けずに結果だけアナウンスして,後で詳細な証明を発表するということがよくあります。ところが,このアナウンスメントの論文が出版された直後,マルチンキーヴィッチは祖国のために軍に入隊し,そのまま帰らぬ人となってしまったのです。   
 ただ,マルチンキーヴィッチは彼の補間定理の証明の概略を書いた手紙をジグムントには送っていました。1956年のジグムントの論文は,師が亡くなったであろう弟子の理論に証明を付けたものだったのです。   
 この論文を執筆していたときのジグムントの気持ちはどのようなものであったのでしょう。論文の執筆を決意するまでの間,いつか愛弟子が戻り,研究室の机の前に座ってこの論文を完成させる姿を見ることを願っていたに違いありません。しかし,最後にマルチンキーヴィッチと路上で会ってからすでに15年近くの歳月がたっています。弟子の理論を完成させた形で世に出すことが,師の役割であり,また弟子に対するこの上ない供養になると考えたのかもしれません。   
     
 マルチンキーヴィッチの補間定理は,今日の実解析学を支える重要なものとなっています。ジグムント自身,マルチンキーヴィッチの補間定理を用いて,カルデロン-ジグムントの特異積分論と呼ばれる理論を打ち立てています。それは,さらに擬微分作用素などに発展し,偏微分方程式論に大きな貢献をしました。  
      
 1992年3月30日,A. ジグムント逝去のニュースが世界をめぐりました。享年91歳.彼の弟子にはマルチンキーヴィッチの他,特異積分論で有名な A. カルデロン,フィールズ賞を受賞した P. コーヘン,調和解析の E. M. スタインをはじめ数多くの優れた数学者がいます.   
                    
 
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参考文献
本日誌のマルチンキーヴィッチの生涯の記述は次の三つの記事のデータに基づいてます。
[1] 猪狩惺、Jozef Marcinkiewiczと二十世紀の実解析、数学 57 (3) (2005),  301-209.
[2] K. Dabrowski and E. Hensz-Chadzynska, Josef Marcinkiewicz (1910-1940)  in commemoration of the 60th anniversary of his death, Fourier Analysis and Related Topics, Banach Center Publication, vol.36 (2002), 1-5.
[3] L. Maligranda, Jozef Marcinkiewicz (1910-1940) - on the centerary of his birth, Marcinkiewicz Centenary Volume, Banach Center Publication, vol. 95 (2011), 133-234.

 

その他の「私の名著発掘」はこちらをご覧ください。

 

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マーラー交響曲第10番

マーラーの交響曲第10番は、私にとっては遠い昔を思い出させる曲です。この曲を初めて聴いたのは、高校1年くらいだったような気がします。年末大晦日に何をするわけでもなく、FMラジオでクラシックの特集を聴いていたときに流れていました。ぐったりとしながら家の中を見ていました。その気持ちがこの曲を聴き始めたときは、いつも思い浮かんできます。初めて聴いたときの何でもない状況がすり込まれてしまった不思議な曲です。
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都市伝説?いえ錯覚です。東京スカイツリーは傾いているか

 
新たな東京のシンボルとして,2012年,東京スカイツリーが完成しました.そのスカイツリーが傾いている?ここでは東京スカイツリーにまつわる目の錯覚のお話をいたします.スカイツリーの錯視の謎に数学的方法を使って迫ります. こちらをご覧ください。
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G. H. ハーディの本


 冬学期は数学科4年・数理大学院の共通講義をします。「解析学XB/基礎解析学概論」という科目です。ルベーグ積分や関数解析を一通り学んだ学生に、さらに実解析学の基礎的な事柄を教えることを目的としています。初回はルベーグの微分定理とその応用から始めました。第一回目の授業の本質的なところはハーディー・リトルウッド最大関数と弱型不等式の証明です。

 ハーディとリトルウッドは、解析学や解析数論で多くの業績を残したイギリスの数学者です。 ハーディは数多くの専門書を著わしましたが、それ以外にも『ある数学者の生涯と弁明』という一風変わったタイトルのエッセイも書いています。年をとったハーディの少し弱音のような発言も散見するのですが、かなりの部分が数学の価値に関するものです。その一部から。

 『つまり、橋、蒸気機関、発電機のようなものへの数学の実際的応用は、いかに想像力の乏しい人の目にも訴えるものがある。(中略)しかし、真の数学者がこんなことに満足することは殆どない。真の数学者なら、数学の真の存在価値は、このようなむき出しの成果にあるのではない、一般の人々の数学に対する価値観は、無知と混同に基づいており、数学にとってもっと理にかなう弁護の余地があると感じるに違いない。とにかく、私はそのような弁護をしようと思う。』(G. H. ハーディ、『ある数学者の生涯と弁明』(柳生孝昭訳、丸善出版)より)

 
 昔から数学の役に立つ側面をクローズアップした本は数多く出版されていますが,本書はそれとは違った論点で数学のすばらしさを示しています.一般の方にもぜひ読んでいただきたい一冊です。

 ところで、ハーディの著書のうち、ハーディとライトの『数論入門』、ハーディ・ポリヤ・リトルウッド『不等式』が邦訳されています。しかし、ハーディの『Divergent Series (発散級数)』はなぜか翻訳が出ていません。発散級数論は通常の意味では収束しない級数が対象で、いわば総和法の研究です。この方面は、ハーディの本の出版以降も研究が進み、さまざまな成果が得られてきました。たとえば多変数フーリエ級数の総和法に関する大きな未解決問題もあったりします。しかし、いかんせん一般受けするテーマではないので、『Divergent Series』の翻訳はないのかもしれません。
 なお講義では発散級数論を直接は扱いませんが、そこから派生したことは少し出てきます。

本ブログの続き
ハーディの本(2) 純粋数学と応用数学 (2012年10月18日)

ある数学者の生涯と弁明 (シュプリンガー数学クラブ)
G.H.ハーディ, C.P.スノー
丸善出版(2012/07/17)
値段:¥ 1,325

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音と色の3次元空間 - 武満徹とドビュッシーに共通する色の音空間

【武満徹とドビュッシーに共通する色の空間を持つ音】
 これまで特段気にしていなかった人やものが、何かの切っ掛けで特別な存在になるということがあります。私の場合、クロード・ドビュッシーの作品がその一つです。2010年10月8日を境に、明らかに彼の作品は私の中では特別なものとなりました。2010年10月8日、それは『武満徹80歳・バースデーコンサート』があった日です。      
   もともと武満徹の大ファンでしたので、これは絶対に逃せないコンサートでした。かなり早い段階から前売り券を買っておいて、コンサートの日の夕方は何も予定を入れないようにしていました。プログラムは、武満徹の二つの作品、それからコンサートの指揮者ナッセンの作品、ウェーベルンの管弦楽のための6つの小品、そしてドビュッシーの交響的断章「聖セバスティアンの殉教」で構成されていました。ウェーベルンの「6つの小品」はCDでは良く聴く曲ですが、生演奏を聴いたことがなく、それもこのコンサートの楽しみの一つでした。ただ疑問に思っていたことは、指揮者自身の作品はともかく、なぜこのメンバーの作品を含めたプログラムなのだろうということでした。  
      
   演奏はウェーベルンの作品から始まりました。ここでまず最初の衝撃を受けました。CDで聴いていたときは気がつかなかったのですが、実際の演奏で聴くと、ウェーベルンの「6つの小品」と武満徹の音は共通する色と空間をもつものだったのです。  
   それは濃く黒っぽい藍色と深い緑が3次元的に広がり、その中で何かいくつもの生命体が動めいているような色の変化と、そして輝かない光の生成と消滅があるといったものです。ただし武満徹の音楽はもっと光に変化があり、そのため共通項がCDの演奏では感じられませんでした。  
   しかし、実際の演奏を聴いて初めて武満徹の音とのある種の共通性がわかったのです。なるほど、武満徹の記念コンサートの最初の演目を「6つの小品」にしたのはこういう理由か、とコンサートのプログラム構成の謎が氷解しました。それにしても生演奏は迫力のあるもので、ウェーベルンが作りだしている音って、こんなにすごいんだ、と改めて感動しました。  
     
   それから、ナッセンの曲の後、武満徹の「リヴェラン」と「アステリズム」が演奏されました。特に「アステリズム」ではきらきらと光る、深く青い霧のような雲のようなものが拡がり、その音に圧倒されっぱなしでした。  
     
    さて、それが終わって、最後の曲がドビュッシーです。武満徹のあのすばらしい曲の後に、なぜドビュッシーなのだろうと少し怪訝な思いもありました。ところが、ウェーベルンのときと同じ衝撃をもう一度味わうこととなったのです。ドビュッシーの「聖セバスティアンの殉教」は、いつもというわけではありませんが、明らかに武満徹の音と共通した深く広がりのある色彩をもっているのです。言葉では表現しずらいのですが、曲のその部分は3次元の空間が紫のような色と、光る立体的な黒で満たされて、そこにさまざまな光の一種が通り過ぎていくというものです。 
  また次のような部分もあります。濃い青の世界。それはしばしば暗さを帯び、しかし、その上方では透明な明るい筋が見えます。木の板のような平板な上に、色と音がはじけ、その周囲に濃い大気がゆっくりと流れています。そして、深海のような重い流れ。そこを通り過ぎる煙のような流れ。ぬくもりが突如周囲を取り囲みます。暗めの黄色の世界。焦げ茶の大きな塊が下から這い上がり、やがて世界を覆い始めます。 
   
   このコンサートによって、ドビュッシーが極めて先駆的な作曲家であり、後世に与えた影響が大きいことがわかりました。多分、そういうことは何かの本で読んだ記憶もあるのですが、それを体感して学ぶことができました。以来、ドビュッシーのいろいろな作品を注意深く何回も鑑賞することが多くなり、とりわけドビュッシーの管弦楽曲の音のすばらしさに目を開くことができました。

【ドビュッシー展での不思議な体験】
 そんなおり、ブリジストン美術館で『ドビュッシー、音楽と美術 -印象派と象徴派のあいだで』という展覧会が開催されていることを知り、先日見に行ってきました。この展覧会でとても不思議な体験をしたので、それを記しておきたいと思います。
 展覧会ではドビュッシーと関連する絵画や彫刻などが展示されているのですが、その繋がりに興味があったので、今回は音声ガイドを借りることにしました。いくつかの作品を見た後に、エドワード・バーン=ジョーンズという画家の「王女サブラ」がありました。ここで、音声ガイドのボタン3番を押すように指示が書かれていたので、3番のボタンを押しました。すると、ヘッドフォンからは絵画の解説とそれに合わせてドビュッシーの夜想曲の『雲』が流れてきました。
 ところが、『雲』が聞こえて来た瞬間に、見ている絵画の王女サブラを取り巻く風景の色合いが深い夜の濃紺に変わったのです。ヘッドフォンを外すと、それはかなり弱まりましたが、ヘッドフォンを付けると、王女サブラが宵闇の中で本を片手に立っているように見え、それは幻想的な立体感のある映像のようにも思えました。音楽が絵画に与える影響には計り知れないものがあります。
 それにしても、王女サブラの解説の所で『雲』を起用することを思いついたのは誰なのでしょう。すばらしいの一言に尽きます。

【アルケルを見てない!】
 今回のドビュッシー展でひとつだけ大きな心残りがあります。それはアルケルをうっかりと見損なってしまったことです。ある人から「アルケルはどうだった?」と聞かれたのですが、それが何のことかわかりませんでした。アルケルはドビュッシーが大切にしていた蛙の形をしたやや大きめの文鎮で、今回の展覧会に展示されていたそうです。どうも会場のある一画を見落としたようです。

2012/10/3 H.A.

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★ 東大数理創立20周年記念講演・式典・祝賀会

 私の勤務先が今年で創立20周年を迎えました.一昨日、その記念講演・式典が数理科学研究科棟でありました.プログラムは次のものでした。

東京大学大学院数理科学研究科創立20周年記念講演・式典
日時:平成24年9月28日(金),午後2時~
場所:東京大学大学院数理科学研究科大講義室
次第
司会     副研究科長 楠岡茂雄
【記念講演】 14:00 - 15:00
「数学的方法による視知覚と錯覚の研究とその応用」
        数理科学研究科教授 新井仁之
【記念式典】 15:30-
式辞     研究科長 坪井俊
総長挨拶  総長    濱田純一
来賓祝辞  文部科学省高等教育局長 坂東久美子
        (代読 国立大学法人支援課 下敷領強)
        京都大学数理解析研究所所長 森重文
【特別講演】 16:00-17:00
「日本の教育力と学力 - 数学力・数学研究力の課題 -」
                   元文部大臣,元東大総長 有馬朗人

 この後、立食形式の祝賀会が開かれ、歴代の研究科長から落合先生、桂先生、薩摩先生、東大総合文化研究科長の長谷川先生、九大マス・フォア・インダストリ所長の若山先生、名大多元数理研究科長の木村先生、JST理事長、沼田市長の祝辞がありました。
 なお、記念講演・式典・祝賀会の参加者全員に『東京大学院数理科学研究科20周年記念誌』、数理のパンフレット、そして記念講演に因んで発行された冊子本『東京大学数理科学研究科創立20周年記念 数学で探る錯視の世界』(東京大学大学院数理科学研究科発行)が配布されました。
 このうち『数学で探る錯視の世界』は数理科学研究科の依頼により私が執筆しました。カラー画像をふんだんに用いて錯視の数学的な研究成果及び研究方法のエッセンスをわかりやすく述べた解説書です。
 本冊子は東京大学大学院数理科学研究科創立20周年記念講演・式典の記念品として来場者の方々に配布されました。残念ながら現在、一般配布はしていないとのことです。


錯覚の数理
記念講演・式典・祝賀会で配布された記念品冊子の表紙。B5版
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★ 数学文化 錯視日誌(40)

 
 随分前のことですが、S教授と大学の食堂で雑談をしていたところ、原稿の執筆についてこんなアドバイスをしてくださったことがあります。
 「X先生はたくさん本を書かれているけど、どうしたらそんなにたくさん本が書けるのですか、と聞いたら、毎日少しずつ書くことだよと言ってましたね。私(S先生)は本などいっぺんに書こうとするのでよくない。君も将来原稿を依頼されて書くときには、少しずつ書いた方がいいよ。」
 S先生はたいへん偉い先生で、論文だけでなく本や雑誌記事もたくさん書かれている方です。
 以来、S先生のアドバイスを胸に刻み、そう心がけているのですが、私の場合、全くうまくいきません。いつも出版社から原稿提出の催促状を送られるということを繰り返しています。

 数ヶ月前にU先生から連載の依頼がありました。お引き受けしたいという返事をお出しすると、すぐに出版社の方から打ち合わせの連絡がありました。そのとき、ふとある記憶がよみがえりました。以前、別の雑誌で月一回の連載をしたとき、自分の遅筆のせいとはいえ、締め切りと毎月毎月悪戦苦闘したことです。のど元過ぎれば何とやらで、その苦い経験をすっかり忘れていました。
しかし出版社の人いわく
 「この雑誌は年に2回の発行なので、8月までに原稿をいただけば、その後は半年後ですから。」
時間的な余裕はありそうです。もっとも原稿依頼されたときに、大分先のことだからと安心してしまうことが、結局の所、困った状況をもたらすのですが。今回は前回のつらい経験を生かし、原稿は締め切りと関係なく少しずつ書くことにしました。(と執筆を引き受けるときはいつも心に誓っています。)

 ともかく連載の第1回目が出版されました。日本数学協会で編集している『数学文化』という雑誌18号の「数理視覚科学への誘い 1」です。 
 

数学文化第18号
日本評論社(2012/09/14)
値段:¥ 1,470


 18号の表紙に載っているのは「フラクタル螺旋錯視」です。裏には「歪同心円錯視」も載ってます。フラクタル螺旋錯視の最初の研究報告は ReaD & Researchmap の「資料公開」にあります。
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★ 読売新聞 『錯視 高機能ゆえの「誤り」』 錯視 日誌(39)

今日(2012年9月16日)の読売新聞に私の研究成果がカラー紙面の約半分を使って紹介されました。記事のタイトルは

『錯視 高機能ゆえの「誤り」』

です。今回は,初期視覚をはじめとする視覚のもつ高い機能とその数理モデルに関する筆者の研究の一部がクローズアップされています.

機会がありましたら、どうぞご覧ください。

追記:この記事は、読売新聞の
医療サイト YomiDr. にWeb公開されました。

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★ サイエンスドームギャラリー展示 錯視 日誌(38)


 千葉県立現代産業科学館のサイエンスドームギャラリー展示『ふしぎな錯視体験2』で私の作品が何点か展示されています(まだ見に行ってないので本人は未確認)。展示作品として提供したのは『フラクタルらせん錯視』、『ハートの浮遊錯視』、『うさぎの浮遊錯視』、『文字列傾斜錯視』です。期間は2012年9月15日から10月8日、入場無料です。
 すでに終わってしまいましたが、今年の夏は板橋区立エコポリスセンター 『錯覚のふしぎ』(2012年7月30日-8月23日)にも私の作品が幾つか展示されました。こちらは残念ながら見に行くことができませんでした。
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★日経『静止画なのに絵が動く 錯視アートで異次元体験』 錯視日誌(37)

続編の話です。2012年8月9日の日本経済新聞朝刊のカラー紙面ほぼ一面で、『ハートが鼓動する  数学で読み解く「錯視」』というタイトルで私の研究成果が特集されたことをお知らせしました。その続編のようなものが今度は日本経済新聞web刊に出ました。

『静止画なのに絵が動く 錯視アートで異次元体験』


です(2012年8月10日)。内容は紙面と全く異なります。
 Web刊の記事では、
新井仁之・新井しのぶが数学を駆使して作成した錯視アート

『うさぎの浮遊錯視』、

『輪飾りの浮遊錯視』、

『金閣寺とばら』(ハイブリッド画像)、

『とまれ』(スーパーハイブリッド画像)

が紹介されています。
 
以上の他に、古典的な錯視画像(フレーザーの渦巻き錯視、オオウチ錯視、月と山並みの錯視(デザインは新井)、カニッツァの三角形、色の対比錯視)も作成して提供しました。それらも掲載されています。

 リンクに許可が要るため、リンクは貼りませんが、「静止画なのに絵が動く 錯視アートで異次元体験」で検索してアクセスすることができます。ぜひご覧ください。

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★ 横浜大世界トリックアート・ミュージアム 錯視 日誌(36)

横浜大世界トリックアート・ミュージアムで私が監修した『錯視錯覚実験室』が上映中です。

チケット売り場にこんなキャラクターが。
錯視錯覚実験室キャラクター

『元町中華街駅』には巨大ポスターも。
トリックアート・ミュージアム・ポスター

横浜大世界トリックアート・ミュージアムには私の作品も展示されてます。
動いて見える錯視の展示
画像をゆっくりと(なるべく滑らかに)上下にスクロールすると、額縁内の文字列が左右に浮遊して見えます。それが難しい場合は、人差し指で、画像の中央あたりを上から下、下から上にゆっくりと滑らかになぞり、顔は動かさずその指先を目で追うと、文字列が左右に浮遊して見えます。また、人差し指で画像の中央の文字列を右から左、左から右とゆっくり滑らかになぞり、顔は動かさずその指先を目で追うと、指先以外の行の文字列が上下に浮遊して見えます。
 お試しください。初めての方は何度か試していただくとよいかと思います。
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数理視覚科学とイノベーション、産業数学、そして創成型産業数理科学

視覚や錯視を数学的方法で研究する新しい学問領域、数理視覚科学の鳥瞰図です。以前作成したものですが、画像をアップしました。

錯覚の科学 錯視の数理 数学と錯視

 数理視覚科学は、視知覚と視知覚に関する錯覚、すなわち錯視を数学を使って研究する分野です。しかしその関連分野、応用範囲は広いものです。
 数理視覚科学は錯覚、錯視の研究でも新しい画期的な成果を得ています。たとえば、実際に
★視知覚の研究のための新しい数学を創り、
★その新しい数学により視知覚の数理モデルを構築し、
★さらにそれを用いて統一的な方法による錯視量の制御 (つまり目の錯覚の量)、統一的な錯視のシミュレーション、錯視図形の創出等
もすでに成功しています

これらは心理学や、計算による錯覚の研究では得られなかった、数理視覚科学ならではの成果です!

本研究計画のスローガン: 新しい数学と科学のイノベーションから新しい産業開発へ
本研究のキーフレーズ:視知覚・錯覚の科学の新理論から産業創出まで-創成型の産業数理科学
キーワード:錯視、錯覚、数学、数理、数理モデル、錯視量、制御、産業、イノベーション。

数学や関連諸科学を巻き込んで新しい産業を産むことを目指すので、創成型産業数理科学とネーミングしました。
詳細はこちらをご覧ください。

画像、文章の全文あるいは一部の無断転載を禁じます。
©2012 Hitoshi Arai.   All right reserved.
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20世紀と21世紀の日付変更線

 かつてレナード・バーンスタインはマーラーのことを,心臓に直結する左足は19世紀を踏みしめ,右足は20世紀にしっかりとした足場を模索した,というように評していました(注)。私などもそうですが,おそらく,人生の前半を20世紀に生き,後半が21世紀に突入している人は,多かれ少なかれ,マーラーと似たような状況にあるのではないでしょうか。
 さらに,バーンスタインは19世紀と20世紀の境目を日付変更線と表現しています。確かに19世紀と20世紀の間にはある種の文化的な日付変更線があったように思えます。この日付変更線によりマーラーは,体の左半分と右半分の体質が同じではなくなっているわけです。


 さて,そのような日付変更線は20世紀と21世紀の間にもあるのでしょうか。
この問いは分野によって答えが異なると思います。数学について言うと,20世紀と21世紀の境目にいるときは気づきませんでしたが,少し21世紀に立ち入った今,過去の方を振り返ってみると,私には何か日付変更線のようなものが浮かび上がって見えてきます。それは一言で言えば,20世紀は純粋に知を求めることが重要であったのに対して,21世紀は実用至上主義が到来しつつある,ということになるでしょう。それが良い傾向なのかどうかは,私には判断できません。良い方向かどうかは別にして,20世紀と21世紀にまたがって生きている身としては,心臓に直結する左足は純粋な知の探究に根差しながら,右足は実用化の渦の中に差し込まれているわけです。このことを純粋な知の探究もしながら,実用化も行っている融合と捉えるか,二律背反と捉えるかは各人に依ると思います。


 ところで実用至上主義はこれから後の時代に何をもたらすのでしょうか。歴史を辿ってみると,今から数千年前,ローマ帝国は領土拡大と繁栄のため,自ずと実用至上主義になりました。そのため建築物などの設計に必要な高度な実用数学が使われたことは想像できます。しかし,数学は単なる道具というとらえ方をされ,そこから新しい数学が創造されることは,ほとんどなかったといえます。しかし,ローマ帝国の繁栄には目を見張るものがあったわけですから,数学の「実際に役に立つ」側面に重点をおくことのメリットは大きいのかもしれません。とはいえ歴史は繰り返してしまうのでしょうか。
 ここで二つのタイプの人が現れる思われます。一つは,「大丈夫。私たちは実用化が主体であるとはいえ,純粋な知的探究も忘れているわけでない。」という楽観的な見方をする人です。そして,もう一つは,このままでは歴史は繰り返すことになるという悲観的な見方をする人です。最も,どのようなことに対しても楽観的見方と悲観的見方はあるので,このような二つのタイプの考えがあっても不思議なことではありません。答えは時代が進んでみなければわかりません。少なくとも私には。


 こうするうちにも,20世紀との日付変更線は日に日に遠ざかっていきます。


(注)マーラーの交響曲第9番(バーンスタイン指揮、NYP、CBS Sony)のLPレコードの解説に書いてあったように記憶しているのですが、このLPが手元にないため、正確な表現を確認できませんでした。
(さらに注)その後,バーンスタインの書いた文を見つけました。詳しくは2013年3月17日のブログに書きました。

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★ アートレビュー 錯視 (日本経済新聞アートレビュー) 日誌 (35)

今日(8月9日 木)の日本経済新聞朝刊に、カラー紙面一面をほぼ全部使って、

私の数理視覚科学に関する研究成果と作品が特集記事として

紹介されました。

今回は、アートレビューという芸術作品が紹介される欄です。

 

記事のタイトルは

 

『ハートが鼓動する 数学で読み解く「錯視」』

 

です。

もし今日の日本経済新聞朝刊をお読みになる機会が

ございましたら、どうぞご覧ください。

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旺文社文庫がよかった 文字列傾斜錯視日誌(34)

 今はもうありませんが、昔、旺文社が文庫を出版していました。少し年配の方ならばご存じだと思いますが、表紙はうぐいす色のやや光沢のある厚紙で、初期のころは箱に入っていました。文庫なのに箱がついていたのです。装丁だけでなく中身にも特色があり、特に、最後に付け加えられている解説はとても良いものでした。挿絵、写真などをふんだんに使い、著者の小伝、作品の成り立ち、他の代表作の紹介が文庫の解説とは思えないほど、丁寧に書かれていました。本文にも挿絵が多く使われていて、それを見るのがまた楽しみでした。こういった挿絵や写真を鮮明に印刷するためか、紙には上質の白い紙が使われ、それも他の文庫から目立たせていました。

 私が初めて旺文社文庫を手にしたのは中学生のときでした。学校の帰りに、よく高田馬場の駅前にある芳林堂書店で油を売っていたのですが、旺文社文庫はそこのやや背丈がある特別な回転式の書棚に並べてありました。装丁と分かり易い解説が良かったため、この文庫でいろいろな作品を読みました。 もちろん、その多くは他の文庫にもあるのですが。
 しかし、中には旺文社文庫でなければ読めないものもありました。たとえば
       ショーペンハウエル『哲学入門』
です。これはショーペンハウエルが哲学の入門書として書いたものではなく、実際は彼の大作『意志と表象としての世界』の抄訳でした。しかし日本語の表題が示すとおり、非常に良質の哲学入門になっていました。実際、この本で哲学的な思考感覚を身につけられたのではないかと思っています。現在、どこからも出版されていないのは極めて残念なことです。

 
 旺文社文庫は、もう二度と出ないのでしょうか?丁寧な解説、内容に適した豊富な挿絵と写真。とても魅力のある文庫でした。今はいろいろなタイプの文庫が出版されています。もう一度、あの表紙が書店に並ぶ姿を見たいものです。



錯視
文字列傾斜錯視自動生成プログラム(新井・新井)をMATLABに実装した画面

この文字列傾斜錯視は、少し傾き方が弱いようです。
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★ 翼よ、あれがパリの灯だ 文字列傾斜錯視日誌(32)

 新しい試みをその方面の専門家や同業者、あるいは守りに入ってしまった企業に相談すると、それは難しいとか見込みは薄いかもしれない、もっと別の方法でできるのでは、と言われることがあります。しかし、前人未踏のものに対しては、ときとして専門家、経験者の古い考えや既知の常識は無力であるか、悪くすればビッグ・チャンスを見損なう原因となることもあります。

  専門家からどのように言われようとも、自分のセンスと理論を信じ、妥協することなく実行せよ。

そんなエネルギーを与えてくれる本が、リンドバーグの『翼よ、あれがパリの灯だ』です。

『 ・・・・・ 翼よ、あれがパリの灯だ。
 紆余曲折の末,ニューヨークを飛び立ち,そして33時間の単独飛行ののち,遂に見えてきたパリの街の灯。襲い来る睡魔と闘う飛行士リンドバーグのそばで、彼の体を黙々と空中に支えてきた翼は、今の彼にとって最大のそして唯一の仲間です。ようやく目的地が見えてきたとき、孤独なパイロットが感動と喜びのあまり思わず翼にかけた言葉,それが ・・・ 』

 
ということであれば、この本のタイトルも話に出しやすい劇的なフレーズですが、実のところ、本にはそのような言葉が発せられたとは書いてありません。「翼よ、あれがパリの灯だ」のファンとしては驚きですが、この本の原題も単にThe Spirit of St. Louis というものです。どうしてこんな訳を思いついたのか、訳者のセンスの良さに舌を巻くばかりです。
 しかし、この本の中身は、そんな作ったようなクライマックス場面を必要としません。偉業を成し遂げた人だからこそ書ける緊迫したノンフィクションとなっています。内容をざっと紹介しておきましょう。

 第一部では、一郵便パイロットであるリンドバーグが世界初のニューヨーク・パリ間無着陸飛行に挑戦するまでの苦労が描かれています。彼は資金を得て、自分の飛行機を持とうとします。リンドバーグが無着陸飛行に使おうと考えたのは単発機です。しかし航空会社は、途中でエンジンが故障しても対処できるよう、三発機でないとだめだと言います。会社としては、もし自社の飛行機で失敗した場合に会社が受けるダメージを憂慮するわけです。ようやく、話をわかってくれるところが見つかりますが、その会社は飛行機は売るが、パイロットは自分のところで選ぶと言い出します。もっと経験のあるパイロットでなければ任せられないというのが理由です。あげく
「あなた方セント・ルイスの組織は、飛行させるという名誉と、あらゆる広告ができます」([1])
とどうでもよい利点をあげて承諾を強要してきます。パイロット、リンドバーグは立腹してこの提案を拒否します。
 その間にも、彼のライバルたちは着々とニューヨーク・パリ間無着陸飛行の準備を進めていきます。
 結局のところ、リンドバーグの飛行機を制作してくれることになったのは、ライアン社というサンディエゴに古ぼけた工場をもつ会社でした。しかし、この工場ではスタッフをあげて、航空機の作成に取り組みます。新聞で報道されるライバルの動向は工員の士気をあげていきました。
 そして遂に、セント・ルイス号が完成、話は第二部に入り、いよいよニューヨークを飛び立ちます。
 

 "リンドバーグがニューヨーク・パリ間単独無着陸飛行に成功!" このニュースを彼の飛行計画に無理解だった企業の人たちは、どのような思いで聞いたことでしょう。
 

 それにしても『翼よ、あれがパリの灯だ』というタイトルは心に残る言葉です。
 果たして自分は、いつこの言葉を発することができるようになるのでしょう ・・・。

 今日の文字列傾斜錯視はリンドバーグとセントルイス号に因んだものです。


傾きの錯視
文字列傾斜錯視自動生成プログラム(新井・新井)をMATLABに実装した画面




引用文献  [1]

翼よ、あれがパリの灯だ
チャールズ・A. リンドバーグ
恒文社(1991/10)
値段:¥ 2,039

昔読んだものは旺文社文庫でしたが、何度か引っ越しているうちに紛失してしまいました。こちらは今でも入手可能。
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★ 錯覚の数理による錯視 錯視日誌(31)


 勤務先の紹介パンフレットが作られることになり、それに載せるためのオリジナル錯視画像を作成してほしいという依頼がありました。いろいろと迷った末、何か数学に関係ある錯視が良いだろうと思い、フーリエ級数が浮遊して見える錯視を作成しました。どのような画像でも浮遊錯視に変えてしまう 『浮遊錯視生成アルゴリズム』(新井仁之・新井しのぶ)を使ってコンピュータで作成しました。ここではそのウェッブ・バージョンを載せたいと思います。ただしサイズと色は実際のパンフレットのものとは異なります。
 なお、浮遊錯視生成アルゴリズムは、数理視覚科学の研究成果の一つです。
 数理視覚科学は、視知覚と錯覚を数学的方法で研究する分野です。

 
 【コンピュータ画面の場合の錯視の体験方法】 
 画像をゆっくりと(なるべく滑らかに)上下にスクロールすると、数式が左右に浮遊して見えます。それが難しい場合は、人差し指で、画像の中央あたりを上から下、下から上にゆっくりと滑らかになぞり、顔は動かさずその指先を目で追うと、数式が左右に浮遊して見えます。また、人差し指で画像の中央の数式(上から5番目)を右から左、左から右とゆっくり滑らかになぞり、顔は動かさずその指先を目で追うと、指先以外の行の数式が上下に浮遊して見えます。
 お試しください。初めての方は何度か試していただくとよいかと思います。

浮遊して見える錯視

色を変えたものも作りました。

動く錯視画像

以上の2つはパンフレットに掲載のものとは色とサイズが異なります。パンフレットに載っているものと同じ色で、サイズの異なる画像も載せておきます。

静止画なのに動いて見える錯視
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日経パソコンのインタビュー記事

『日経パソコン』(2012年5月28日号)に掲載されたインタビュー記事 『「傾く文字列」の自動生成に成功、目の錯覚を数学的に解明する』 が PC Online に公開されました。こちらからご覧になれます。
http://pc.nikkeibp.co.jp/article/interview/20120615/1052603/?P=1
(もし全面広告の画面が出たら、少し待つかスキップすると記事の画面になります。)
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★ 数理視覚科学と錯視の数理 錯視日誌(31)

 
 数理視覚科学は、視知覚と錯覚を数学的な方法を使って研究する分野です。これまで、何度か数理視覚科学と錯視研究がどのような関係にあるのか、学会講演や学術誌などで述べてきたことですが、ここではその概要を記しておこうと思います。

 ご存じのように目から入った外界の情報は,脳に伝送され,脳の様々な部分で処理され,視知覚に至っています.最近の脳科学の進歩により,脳のどの領野が視覚のどの機能に関連しているのかがわかってきました.しかし,脳内のどのような情報処理の結果,錯視が起こるのかについては,未だにわからないことが多々あります.
脳の模式図

 これを解明するために私は
       数学
を用いています.数学と視知覚.これらは一見関係がないように見えますが,どのように関係しているのでしょうか?
 私の考えを図にまとめると次のようになります.

数理視覚科学


 まず,脳科学,視覚科学,心理物理学などに基づき,数学を用いて脳内の視知覚の情報処理の数理モデルを作成します.次に,それをコンピュータに実装します.もしその数理モデルが適切ならば,コンピュータに錯視画像を入力すると,コンピュータも私たちと同じように錯覚を出力するはずです.つまり錯視は視知覚の数理モデルにとって試金石となるわけです.さらに錯視の果たす役割はこれにとどまりません.逆にコンピュータに錯覚を起こさせるアルゴリズムを研究することにより,場合によっては,脳内の情報処理の未知の部分や錯視発生のメカニズムに数学的な仮説を与えることも可能なのです.
 さらにこういった研究を、視知覚・錯覚の研究のみならず、画像処理、アート、その他、視知覚に関わる産業への応用も研究を進めています。また、視知覚・錯覚などのための新しい数学も開発しています。

錯覚の数理



参考文献
新井仁之、《連載》視覚の科学と数学、数理科学 2008年8月号-2009年1月号.
新井仁之、錯視の科学館
新井仁之、
数理視覚科学のための錯視図版集、2012年

新井仁之
本文及び画像の一部または全部の無断転載を禁じます。
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錯視の科学館のロゴマーク

 「カニッツァの三角形騒ぎ」、「宇宙人と主観的輪郭のパンダ」と錯視日誌にアップしましたが、カニッツァの三角形騒ぎのおかげで、錯視の科学館のロゴマークを決めることができました。


主観的輪郭の錯視と多義図形


 ロゴマークの左が、部分的にしか描画されていないパンダの顔を感じる錯視で、右はパンダの主観的な輪郭と思われる部分と周囲を黒く塗った図です。左側を、パンダに見えたり宇宙人に見えたりする多義図形へと誘導するものです。
 英語版も作りました。


Subjective contour iluusion



錯視の科学館はこちらです。
錯視の科学館 Science Museum of Visual Illusions, Japan.
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なぜ!こんなに数学はおもしろいのか


 最近、いわゆるサイエンス・カフェが各地で行われています。数学の話もしばしば取り上げられるようですが、武田計測先端知財団主催の「カフェ・デ・サイエンス」では、2006年5月から12月、数学を主題とする『数学カフェ』が催されました。コーディネータは東京大学の織田孝幸教授で、毎回ゲストを招いてディナーを楽しみながら、講師と参加者でディスカッションをするというものでした。
 その数学カフェの全記録が本として出版されました。 『なぜ!こんなに数学はおもしろいのか』 (織田孝幸編著、技術評論社) です。次のようなラインナップです:

講師:織田孝幸+ゲスト
第一夜 数と図形を結びつける (ゲスト:森田茂之)
第二夜 東アジアの数学 (ゲスト:川原秀城)
第三夜 素数 (ゲスト:寺杣友秀)
第四夜 整数の不思議 (森田茂之+ゲスト:平田典子)
第五夜 無限を極める (ゲスト:新井仁之)
第六夜 確率の話 (ゲスト:楠岡茂雄)

私も第5夜にゲストとして招かれました。与えられたテーマは『無限を極める』で、無限に関する話題提供と解説をしました。視覚の話ではなく、純粋数学の話です。






 
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★ 宇宙人と主観的輪郭のパンダ 錯視日誌(30)

カニッツァの主観的輪郭錯視を利用してパンダの絵を描いてみました。詳しくは錯視日誌(29)をご覧ください。全部は存在しない顔の輪郭が見えます。


主観的輪郭の錯視パンダ



さて、この主観的な輪郭を塗って、さらに周りも塗りつぶすと ・・・・・




宇宙人


宇宙人になります。(宇宙人を見たことはありませんが 。)
 では、宇宙人であることを意識して、もう一度パンダの絵を見てください。



カニッツァの三角形とパンダ


パンダでなくて宇宙人に見えてきませんか?
パンダに見えたり、宇宙人に見えたり ・・・。
多義図形の一つのようです。
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★ カニッツァの三角形騒ぎ 錯視日誌(29)

カニッツァの三角形という図形をご存じでしょうか。三角形という名前がついているのですが、幾何学に出てくるものではなく、錯視図形です。まずはカニッツァの三角形をご覧ください。


カニッツァの三角形 錯視
カニッツァの三角形

 パックマンのようなデザインに挟まれて、白い三角形があるように見えませんか?しかし実際には白い三角形はありません。そのように見えるのは、心理学でいう主観的な輪郭を感じているからです。これはイタリアの心理学者のカニッツァ (1913-1993)という人が発見した錯視図形の一つです。

 最近、必要があって、この錯視図形が初めて文献として発表された年号を調べておりました。そこで、専門的な本から一般書までいろいろと調べたのですが、(Kanizsa, 1955)と書かれているものが多数派ではあるものの、(Kanizsa, 1976)、(Kanizsa, 1976, 1979)、あるいは1974年というものもありました。文献表を見ると、1955年の論文は、
Kanizsa, G. (1955): Margini quasi-percettivi in campi con stimolazione omogenea, Rivista di Psicologia 49, 7-30
で、1976年の論文は
Kanizsa, G. (1976): Subjective contours, Scientific American, 234, 48-52
のようでした。
 多分、1955年の方が初出なのでしょうが、確認のため、ともかく原論文を当たることにしました。ところが、この雑誌、私が調べた限りでは国内で当該年のものを見出すことができず、国内からの取り寄せはできそうにありませんでした。知り合いの研究者にも尋ねたのですが持っていないとのことでした。
 原論文を見ることができず、何とももどかしさを感じているなか、ある本を調べてると、何と 1950年というさらに古い年号が記されていました。

一体、「カニッツァの三角形(Kanizsa, ????)」 の ???? には何と書けばよいのか?

 イタリアに行く機会があったときにでも調べてくるしかないか、と思っていました。そのようなとき、7月4日から5日にかけて、いっしょにイタリアのサイトを調べていた共同研究者の新井しのぶが、Verona大学のホームページに
http://www.ephplab.eu/page.php?15
というサイトがあることを見つけ、ここから1955年の論文にアクセスすることができました:
http://ephp.dpac.univr.it/ephp_db/javapages/util/get.jsp?bibliography=1360
カニッツァの三角形(1955)の論文 pdf ファイル
Verona大学のサイトというのは予想外でした。
 早速、問い合わせた知り合いの研究者にもカニッツァの1955年の論文がダウンロードできるサイトを連絡しました。
 このようにして、ようやくカニッツァの三角形が 1955 年の論文にあることを自分の目で確認することができました。
 カニッツァの論文 (1955) には、その他にもたくさんの主観的輪郭に関する錯視図形が掲載されていました。その中から特に面白いと思ったものをいくつかを紹介しましょう。まず次の図。パックマン・タイプのものでなくとも、小さな丸でもよいというものです。



カニッツァの三角形の錯視
Kanizsa (1955) のFig. 13
(イラストレーターで描画したもの)


 
  主観的輪郭図形が重なり合うというものもありました:



主観的輪郭 錯視
Kanizsa (1955) のFig. 16
(イラストレーターで描画)




 このほかにも主観的な曲線を感じさせる図がありました。次の絵は、Kanizsa (1955) のFig. 17をヒントに作ったものです。今話題のパンダを題材にしました。主観的パンダの錯視  です。

主観的パンダの錯視
 

 ところで、「1950年」という記述ですが、それが書かれている本の文献表を見ると、Scientific American の論文の年号を 1950 としてあるため、どうもただの誤記であったようです。
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★ 上野駅「ブラッスリー・レカン」の不可思議な写真 錯視日誌(28)

 きょう、上野駅に人を迎えに出かけたときの話です。丁度、昼どきだったので、上野駅の構内にあるブラッスリー・レカンというレトロなレストランでランチを取ることにしました。レカンに行ったことがある方はご存じだと思いますが、この店の大きな鏡のある部屋の壁面には数多くのモノクロ写真が飾ってあります。どれも外国を写したものです。これまで何度かレカンに行って、写真が掛けてあることは知っていたのですが、突然、今日、これらの写真の何枚かに奇妙なトリックが仕込まれていることに気がつきました。
 たまたま座った席の横の壁に掛けてある写真を視ていると、そこには「壁を通り抜けて出てくる彫刻」が写っていたのです。

 『これは、トリック写真だ!・・・ とすると他の写真もトリック写真では。』

と思い、すぐさまその上にある写真にも注意してみました。これは、一見するとただの書斎の写真ですが、じつは部屋の中に置いてある板(キャンバス?)に埋め込まれた男が抜け出てきて本を見ていました。
 その右隣は・・・。一人の人が雨の降る街中を歩いているのですが、良く見ると二人の人が歩いています。左隣の写真は、というと、これはなかなか見破るのに時間がかかりました。柱を挟んで鉄柵があるように見えるのですが、じつはそれは錯覚で、鉄柵の後ろに柱が立っているのです。
 反対側の壁にある写真の一つは、遠くから見たので逆にすぐにトリックがわかりました。男の頭がいつのまにか植物の植えてある鉢になっているように見えるというものです。このほかには、二人の人がいて、そのうちの一人が他の人の影に見えるもの、こどもの顔が机の上に置いてあるように見えるものなどもありました。
 写真は壁全域に渡って掛けてあります。残念ながら私の席から確認できたのはこれくらいです。想像するに、他の写真にも何かトリックが隠されているのでしょう。

 これらの写真の撮影者や由来を知りたいと思い、ギャルソンの方に聞いてみました。最初はわかりませんという答えでしたが、一度奥に行ってしばらくすると戻ってきて、他の店員さんに聞いても写真の撮影者の名前はわからないが、どうも銀座の店に関わりのあるフランスの方によるフランスの写真らしいということを話してくれました。とても面白い写真だと言うと、特段有名なものではなく普通の写真のようだ、と淡々と話しているので、

 『そうではなく、これらの写真にはトリックが仕込まれているのです。』

と言って、壁を通り抜ける彫刻、板に埋め込まれた本を読む男の説明をしました。ギャルソンの方は

 『本当だ』

とたいへん驚いた様子でした。しかし、どうもたまたまその二枚がトリック写真にすぎないという様子だったので、私も席から立ち上がって、別の写真のトリックのある箇所を指さしながら、事細かに解説を始めてしまいました。

 レカンにあるトリック写真はすばらしいものです。通常のトリック写真は、トリックのある被写体や、写真そのものにトリックを仕込むための巧妙な工夫がなされているだけです。ですから、すぐにそれがトリック写真であることがわかります。もちろん目の錯覚を利用しているので、何が現実で何が錯覚かを見分けること自体の難しさはあります。ところが、レカンに飾られている写真は、どれも一見するとフランスの街の様子が切り取られた、なかなかできの良い鑑賞用の写真なのです。そのため、私もレカンを何度か訪れているにもかかわらず、トリックには全く気づくことができませんでした。じつは、普通のアート写真に見えること自体がトリックの一つなのかもしれません。

 もし上野駅のブラッスリー・レカンで食事をすることがありましたら、壁に掛けている写真にトリックが隠されているかどうか、そしてどのようなトリックなのかを見極めてみてはどうでしょうか。ちなみに、この日食べたローストビーフはたいへん美味しいでした。

ブラッスリー・レカンの店内の様子 ここをクリック(レカンのHP)
2015年2月追記:
その後,レカンは改装され,壁の写真はすべてなくなってしまいました。
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★ ブーレーズの論文と演奏 文字列傾斜錯視日誌(27)

 産業・応用数学会(SIAM)の東アジアセクションの国際会議で招待講演をするため海外出張をしてきました。帰国したら、これまでため込んでいた仕事をいろいろ片付けようと決めていたのですが、何となく倦怠感が残り、考えも散漫でまとまらない状態に陥っていました。そこで、昨日は仕事をあきらめて、いつものように神保町界隈を散歩してみることにしました。神保町ではまず『エチオピア』で遅めの昼食をとり、そのあと特に目的もなく本屋を巡りました。とりとめもなく、いろいろな本を手にとっては、少し眺めて書棚に戻すことを繰り返しながら散歩を楽しむことができました。

 本屋巡りを始めてからだいぶ時間がたって日も暮れた頃、ある書店でずっと以前に買おうかどうしようか迷って、結局入手しなかった本が目に入ってきました。『ブーレーズ作曲家論選』(笠羽映子訳、ちくま学芸文庫)です。読みたいのですが、多分、読んでいる暇はないだろうと思って買わずじまいになっていた本でした。ピエール・ブーレーズは言うまでもなく、現代音楽の作曲家であり、とりわけ指揮者として名声を博しています。複雑に音が絡み合った楽曲でも、見事なまでに音を分離して提示することのできる希有の指揮者です。
 今回は書店巡りの収獲として購入だけはしておくことにしました。じっくりと読む時間ができることを願って。
 この本は、少しぱらぱらとめくって見ただけでも面白そうな話がいろいろとこぼれてきます。たとえば、

 『音楽の領域におけるベルリオーズの実験はひじょうに特異であり、現在に至るまでの真の意味での伝統に吸収されてもいないし、完全にその一部にもなっていない。』
 『多くの人にとって、ドビュッシーは『聖セバスチャンの殉教』で止まってしまう。私たちが天邪鬼なら、ドビュッシーが私たちを熱中させるのは『殉教』以降だ、と言うだろう』
 『シェーンベルクは死んだ。』
 『ウェーベルンの音楽は口実を絶対に拒絶する。』

と言った具合です。

 ところで、私が初めてブーレーズを知ったのは、高校生か中学生の頃でした。FMラジオでストラヴィンスキーの『火の鳥』の新録音が放送されるということを雑誌で知り、録音の準備をして待っていました。やがて流れてきた『火の鳥』を聞いて
 『何だこれは!』
と、とにかく大きなショックを受けました。
 『これが火の鳥?』
と耳を疑うほどこれまで聞いた演奏とは異なるものでした。そもそも当時私が聴いたことのあったのは組曲の方で、演奏されていたのは全曲版でした。しかし、それだけでなく、- というかそれ以上に心揺さぶられたのは、流れてきた音が多様な色彩をなしていながら、完璧に透明だったことです。この音で全曲演奏できるのですから、この指揮者はただ者ではありません。それがピエール・ブーレーズでした。
 もっともブーレーズを知らなかったのは当時まだクラシックを聞き始めて間もない私ぐらいのもので、ブーレーズの『春の祭典』の演奏などはかなり評判になっていたようです。ただ、それを知って『春の祭典』も聞いてみましたが、あまり感動することはできませんでした。むしろ、『ペトルーシュカ』で作り上げた音の方が私にはすばらしいものでした。ロシアの民話ということは度外視して、ブーレーズのペトルーシュカを聴いていると銀色のガラス張りのモダンな建物の中にいるような心地よさを味わえました。それに多様な音が独立に運動する様子が眼前に広がり、身震いするほどの感動を得られます。もちろん、これはブーレーズの演奏のみならず、ストラヴィンスキーの音の計算された構築があってのことだと思います。
 

 
 蛇足ですが、ブーレーズの演奏の中で特に気に入っているものをいくつかあげておきます。順不同です。

〇ストラヴィンスキー、バレエ音楽『火の鳥(1910年原典版全曲)』(NYフィル)
  ブーレーズのすごさを認識させられた最初の一枚です。
〇ストラヴィンスキー、バレエ組曲『火の鳥(1910年版)』(BBC交響楽団)
  NYフィルのものとはひと味違い、シャープな感じがあって好きな演奏です。
  
〇バルトーク、『かかし王子』(シカゴ交響楽団)
  音を色にたとえるならば、複雑な色彩を混濁させることなく分離し、これ以上ないというほどまで透明に浄化しています。
 
〇ウェーベルン、『大オーケストラのための6つの小品』(ロンドン交響楽団)
  音からなるイメージの世界。最近のベルリンフィルとの新録音も良いです。
〇ウェーベルン、『交響曲』(ロンドン交響楽団)
  純粋な音の色の世界。

  
 さて、最後に久しぶりの文字列傾斜錯視です。
 
LondonIllusion
文字列傾斜錯視自動生成プログラム(新井・新井)をMATLABに実装した画面


補遺
 ブーレーズについては、最近非常に残念な思いをしたので、それもついでに書いておこうと思います。ブーレーズは2009年に稲盛財団の第25回京都賞を受賞しており、そのため同年来日しています。恒例により盛和スカラーズソサエティから会員宛に京都賞の授賞式の案内、それに記念講演会、ワークショップの知らせがメールで送られていました。ところが、不注意にもそのメールに、その年に限って気づかず、そのため、授賞式もワークショップも逃してしまいました.ブーレーズのスピーチ、講演、リハーサルを聴く機会など千載一遇のことであったのに,今でも残念に思えて仕方がありません.
 ちなみに東京日仏学院のレストランには、多分その来日の際に撮られたと思われる(未確認)ブーレーズの写真が飾ってあります(2012年3月にはありました)。
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★ スーパーハイブリッド・アート 新しい画像表現方法

 未来派の画家ジャコモ・バッラ(1871-1958)は,一つの絵の中で運動=時間を表現しようとしました.その代表作に『綱でひかれた犬のダイナミズム』があります.彼は犬の足の動きを一枚の絵の中に同時に描くことにより,犬の歩行運動そのものを表現しています.以前から,新井仁之・新井しのぶは一枚の静止画で,時間と運動を表現できないかを考えていました.そして,今回,スーパーハイブリッド手法を開発することにより,鑑賞者が画像との距離を変えることにより,静止画で時間的な変化・運動を表す新しい表現方法の一つを創りました. 



註1 今回の作品は錯視日誌で発表してきたものです。
註2 スーパーハイブリッド画像は、2層だったハイブリッド錯視を3層にした新しい技法です。ハイブリッド画像は2006年にOliva, Torralba and Schyns により考えられたものです。ハイブリッド画像については、上記サイトの中の『スーパーハイブリッドへの道のり』でも解説してあります。
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★ カラーハイブリッド錯視 睡蓮と紅葉 錯視日誌(26)

カラー版のハイブリッドイメージを作成しました。遠くで見ると睡蓮が見え、近くで見ると紅葉の雲場池が見えます。

カラーハイブリッド画像 錯視日誌 新井・新井

数学的道具としては、かざぐるまフレームレット(新井・新井)を用いて作成しました。

ハイブリッド画像の歴史については、錯視日誌(23)をご覧ください。
また新しく開発したスーパーハイブリッド画像については錯視日誌(24)(25)をご覧ください。
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