研究ブログ

與那覇潤氏の呉座勇一さんに関する記事への反駁(2)

 本記事は「與那覇潤氏の呉座勇一さんに関する記事への反駁(1)」の続篇です。

 前記事から間が空いてしまいましたが、いろいろな仕事や出張などもあり、まとまった時間が取れませんでした。お待ちくださった方がたには申し訳ありません。

 さて、呉座勇一さんのツイッター上でのさまざまな差別や誹謗中傷の問題に対し、與那覇潤氏が記した一連の記事には、はなはだ問題があり看過できない、というのが私の立場です。それは事実の誤認ないし歪曲によって被害者を加害者と入れ替え、見当違いな非難を明後日の方向にぶつけているようにしか思えません。與那覇氏が3月に発表した記事「呉座勇一氏のNHK大河ドラマ降板を憂う 「実証史学ブーム」滅亡の意味」(以後これを「與那覇1」と略します)からして、呉座さんがツイッター上でやってしまったことを直視せず、実証が欠けていると歴史学界を非難しておきながら、ちっとも実証的でないことは前稿で明らかにしたとおりです。

 しかしそれにとどまらず、事態が呉座さんの処分とそれへの訴訟と展開したのに呼応して、今月に入り與那覇氏は「「言い逃げ」的なネット文化を脱するために:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える①②」(以後これを「與那覇2」「與那覇3」と略します)という文章をアゴラに発表されました。これもたいへん問題の多い文章であり、呉座さんのやったことで被害を受けた方がたの傷口をこじ開け、呉座さんの復活まで難しくしているものと私は考えます。

 

 それでは「與那覇2」を読んでいきましょう。

呉座氏の訴訟提起により、同氏に行われた処分が明らかになって以降、世論はおおむね(呉座氏の主張に従えば)「解雇権を濫用した」日文研に批判的なように見える。しかし半年前の最初の炎上時にはまったく情勢は逆で、少しでも呉座氏を「擁護」するかに見えた識者には非難が殺到し、「差別者」「ミソジニスト(女性憎悪者)」「学者失格」などと罵声を浴びる状況が出現していた。

なにより私自身が、上記した3月28日の原稿(引用注:「與那覇1」)をめぐってそうした目に遭ったので、今日の空気の一転ぶりにはむしろ驚いている。

 さて、「世論」「空気」とはどこを指しているのでしょうか。呉座さんの件は大河ドラマ考証降板の際に新聞記事になりましたが、新聞はこの時点では特にそれ以上追及していません。ネットメディアでは週刊新潮に呉座さんのネット中毒ぶりを報じた記事が出たり、大河降板に際してはそれなりに記事が出ましたが、メディアスクラムが起こったとまではいえないでしょう。

 では、やはりネット上の反応を見るのがヴィヴィッドで、この場合の「世論」「空気」に当てはまるでしょうか。するとそこで起こっていたことは、なるほど呉座さんを非難する声も多くありましたが、いっぽうで「どっちもどっち」「呉座は問題だが〇〇もひどい」のような加害者と被害者の関係を無視するものや、さらには「〇〇の方が悪い」と加害者と被害者を逆転させているものも多数見受けられます。ここで呉座さんを無理に擁護する側が槍玉に挙げるのはもっぱら、もっとも執拗な誹謗中傷を受けていた英文学者の北村紗衣さんです。前稿で明らかにしたように、呉座さんのやってしまったことを「北村さんへの加害」とするのはそもそも事態の矮小化に他ならないという重大な問題があるのですが、それどころか「北村の発言の方が悪質だ!過去にこんなこと言ってやがった!」と関係のない話を持ち出す連中もかなり見られます(しかも往々その話が曲解したものであったりするのですが)。そのようなネット上の言動は、呉座さんが起こしてしまった差別や誹謗中傷の被害者に、さらに追い打ちをかける「二次加害」と呼んで差し支えないでしょう。

 この二次加害がどれくらいあったのか、ことの発端から與那覇氏が「與那覇1」をアップするまでの、今年3月17日~26日のツイッターを「呉座 さえぼう(北村さんのあだ名)で検索してみました。すると約740のツイートが確認されます。私をブロックしているアカウントのツイートはこれに含まれませんが、だいたいの傾向を知るには十分な数と考えます。

 この約740ツイートについて、なるべく慎重に(内輪に見積もって)内容を分類してみると、

 

  • 呉座さんおよびその支持者を批判しているもの:140余り
  • 「どっちもどっち」的なもの:30余り
  • 北村さんおよびその支持者を批判しているもの:130余り

 

 ぐらいになりそうです。ニュアンスの採り方で多少の変動はあり得るでしょうし、北村さんを支持する人はあだ名の「さえぼう」より本名を使う公算がおそらく高いことを考えれば、もうちょっと針は北村さん側に傾くでしょうが、しかし一方的な展開という訳では決してありません。被害者であるはずの北村さんに二次加害をする連中もかなりおり、そのような言説がネットに拮抗するほど溢れていたのです。

 ただ、前掲740ツイートを調べた印象では、呉座さんを批判する側の人は比較的多くの人がひとことふたことツイートする感じなのに対し、北村さんを批判する側は相対的少数の話者が執拗に多数の攻撃的ツイートをするように見受けられます。

 

 私が本件にこだわってこのような発言をするのには、関係者が身近な人物で、所属する業界も同じであり、他人ごとではないという懸念がまずありますが、もう一つ念頭にあったのは、この二次加害の問題です。北村さんはかなりアグレッシブなツイッターの使い手ですが、意見に賛否はあるにせよ、それはまっとうな言論活動の範疇にあったと考えられます。それが長期にわたり、実在する北村紗衣という人物がアンチフェミニストたちの玩具のアイコンにされてしまったというのは、当人にとってはなはだ不快で嫌なことです。そこで批判して謝罪させるのは当然でしょう。しかしさせたらさせたで、「どっちもどっちだ!」「お前だって悪い!」「いやむしろお前らの方が悪い!」と誹謗中傷が加速してしまう。こんな不条理で酷いことはありません。その不条理の苦しみについては、北村さん自身がインタビューで語っています

 そしてこのような状況下では、まず被害者の側に寄り添い、その名誉回復と再発防止を考えることが優先されるでしょう。その上で、加害者の更生について考えるのは結構ですが、順番を誤ってはなりません。

 

 しかるに「與那覇2」では、このような二次加害の存在をまるで無視し、一方的に呉座さんを非難する声ばかりが上がっていたように事実を捻じ曲げ、あまつさえ自分まで被害を受けたと與那覇氏は被害者ぶっています。

 それは違います。前稿で示したように、そもそも事態の認識を誤っている與那覇氏は、被害者と加害者を逆にしており、呉座さんのツイートの全体像を把握せず(おそらくは歴史学界を非難するのを目的として)、「與那覇1」を発表したのです。與那覇氏もまた二次加害の一翼を担ったといわざるを得ません。しかもツイッター上の匿名のアカウントならば無視することもできましょうが、それなりに名のある研究者(廃業したのかそうでないのかよくわかりませんが)がネットとはいえ商業メディア上に相応の分量で発表したとなると、これは二次加害の中でも特に重大なものといえるでしょう。

 

 ただここで、與那覇氏が自分を被害者だと思い込み、従って呉座さんを擁護する(無理くりな擁護はかえって呉座さんのためにならないと私は考えるのですが)陣営は一方的に攻撃されている、と認識してしまった無理からぬ事情もあるとは思います。それは「與那覇1」のコメント欄です。これが驚くほど批判一色で、與那覇氏の所説に賛同するものは、私が読んだコメント約100(コメントへの返信コメントは未チェック)のうち、五、六にとどまっていました。まだしも「呉座さんのやったことは悪いが、書評委員辞めなくても」のような呉座さん復活を望む声の方が多そうなくらいです。

 なお「與那覇1」についてツイッターで検索すると、3月中の反応だけで150件余りありますが、これまた分類してみると、

 

  • 「與那覇1」に批判的なもの:60余り
  • 「與那覇1」に好意的なもの:30余り

 

 と、こちらでも不評と言っていいでしょう。そして不評の理由は、なんといっても「事実関係がおかしい」からなのです。鍵アカウントで一方的に陰口を仲間と叩いていた呉座さんと、つゆ知らぬところで玩具にされていた北村さんとの間に、論争など成立するはずはありません。しかもこの時点で呉座さんは最初の謝罪をし、誹謗中傷したことを認めています。当人すら認めている誹謗中傷を「論争」と言い募る與那覇氏に、多くの読者が不信を抱いたのは当然というべきでしょう。與那覇氏は「與那覇2」で、

 「ホモソーシャルに(=男性の歴史学者どうしで)呉座をかばっている」と、この声明(引用注:後述の日歴協声明)の前後に散々罵られた私が証人だが、当時は呉座氏への非難が過熱するあまり、「日本の歴史学界の全体に、差別を当然視する風土や慣行があるのだ」といった論調が横溢していた。

  と書いていますが、なるほどホモソーシャル批判は確かにあったものの、より大きな氏への批判は事実関係誤認によるものなのです。

 しかし、これは私の推測ですが、事実関係の誤りによる「與那覇1」への不評を、與那覇氏は呉座擁護ゆえに叩かれたと取り違えてしまったのでしょう。自分への批判を「実証的に」読み解けば、それが「論争」が成立していないという事実認識の誤りに起因するところが大きいと分かるはずなのですが、與那覇氏は自分の認識を改めるよりも、呉座批判に敵愾心を燃やし、それが次なる問題論考「與那覇2」へとつながるという、悪循環があったのではないかと考えられます。

 

 そして、歴史学界の体質の問題を問う声が溢れていたといいますが、どこに溢れていたのでしょうか。本件発覚から一か月間のツイッターを「呉座 歴史学界」で検索してみても、大した件数は引っ掛かりません。いちばん多いのが五野井郁夫さんの、呉座さんの共著『教養としての歴史問題』に絡めての本件への感想です。この本は大変面白い本だと私も思うのですが、本書の中では歴史修正主義に批判的に見える呉座さんが、ツイッター上では逆にしか見えない行動をしていたことも前稿の通りです。

 それはそれとして、この検索結果では歴史学界の体質を問う声は少数しか見いだせず、むしろ呉座さんを「反ポリコレ」と擁護する声さえ見つかります。

 

 いやそれはネットだけの話だ、学界の中で大きな動きがあったのではないか、と当然読者の皆さんは思われるでしょう。そこで学界の動きに目を転じれば、確かに「與那覇1」発表後まもない4月2日、日本歴史学協会から「歴史研究者による深刻なハラスメント行為を憂慮し、再発防止に向けて取り組みます」という声明が発表されました。これは呉座さんを名指しこそしていませんが、ハラスメントを許容する体質を学界からなくすように呼びかけています。

 これに対し與那覇氏は「與那覇2」で、

4月2日に発表された日本歴史学協会の声明では、あきらかに呉座氏を指すものとわかる文脈で、以下のように記されていた。この協会は、多数ある歴史学系の諸学会(加盟学会数でいうと80強)の「連合組織」のような性格の機関なので、実態はともかく形式的には、これが日本の歴史学界全体を代表する同氏への評価ということになる。

    「今般、日本中世史を専攻する男性研究者による、ソーシャルメディア(SNS)を通じた、女性をはじめ、あらゆる社会的弱者に対する、長年の性差別・ハラスメント行為が広く知られることとなりました。」(強調は引用者[引用注:この引用者とは與那覇氏のこと]

「あらゆる社会的弱者」を差別しハラスメントするというのは、大変なことである。女性のみならず高齢者も子供もLGBTも弱者だし、男女問わずサービス残業を強いられる正規雇用者も、景気に応じて切り捨てられる非正規雇用者も、病気や障害を持つ人も弱者だ。日本歴史学協会の加盟団体には、外国史を専門とする学会も含まれるので、当然ながら地球上のすべての少数民族に対しても、呉座氏が差別をしていたとの趣旨になるであろう。

 と論難し、この声明に賛同した歴史学者の例として私のツイートを張り付けています。たくさんあったという賛同のツイートの中でなぜ、全く知らぬ仲ではない私を取り上げたのか――それは天才である與那覇氏から見て、私がとりわけ見どころのないバカに思えたからだろうな、と悄然とせざるを得ませんでしたが、いちおう「歴史学者」として認定していただけたことは喜ぶべきなのかもしれません。

 まあ私の個人的な思いはさておき、この論難は小学生のいちゃもんのような酷いものです。強調の「あらゆる」を文字通りの「すべての弱者」と捉えるのは、揚げ足取りに堕してはいませんでしょうか。もっとも前稿で示したように、呉座さんの差別と誹謗中傷のツイートは、女性や研究者のみならず、地方出身者、沖縄の基地問題、BLM、「慰安婦」問題、EUの男女平等活動、部落問題にまで及んでいましたので、「あらゆる」といってもそれほど的外れではないかもしれません。ここで「呉座さんは北センチネル島民の悪口は言ってないぞ!」という反論に何の意味があるのでしょうか。

 

 この声明発表後、私は複数の同業者の方がたと本件について意見を交換する機会がありましたが、声明については賛否両論でした。私は二次加害が現在進行形で続いている以上、学界としてどこかが何らかの形で声を上げる必要があり、巧遅より拙速を貴ぶべき局面であるとの考えからこの声明を支持しました。

 しかしもちろん、そもそも日歴協がなぜ乗り出してくるのか、どの学会でもなく日歴協である必然性はあるのか、といった疑問は考えられます。さらには呉座さんを名指しするのを控えたのがかえって焦点をぼやけさせ、何が批判されるべきことで、それに対しどうすべきかが曖昧という問題もあります。日歴協は前年にハラスメント防止宣言を出しており、声明はそれを繰り返しただけの感は否めません。

 またこの声明は、比較的短時日で素早く出されており、日歴協加盟諸学会に幅広く本件が周知され、体質を問う声が盛り上がったから出されたというよりは、事態を問題視した関係者が先手を打って出したというのが実態ではないでしょうか。だから「全員の総意ではない」という批判も出てくるわけですが、反面として歴史学界に差別的体質があるという声が決して「横溢」してはいなかった傍証ともいえます。

 

 日歴協声明の問題点を踏まえると、その2日後の4月4日に出されたオープンレター「女性差別的な文化を脱するために」はよく考えられているものと感じました。まず何より、このオープンレターは呉座さんを糾弾するものではありません。ここを読み間違えないでください。確かに呉座さんの名前を出していますが、呉座さんの起した問題については手短に触れ、こう続いているのです。

  私たちは、呉座氏のおこなってきた数々の中傷と差別的発言について当然ながら大変悪質なものであると考えますが、同時に、この問題の原因は呉座氏個人の資質に帰せられるべきものではないとも考えています。(強調は引用者による)

  一般的にいって、このような文章では、後段にこそメインの主張があるのです。「呉座氏個人」の問題ではない。そこにはネットの、いわば「界隈」とでもいうべき空間があり、そこに取り込まれたことで差別や誹謗中傷に対する感覚が麻痺してしまったのではないか。オープンレターはそう論じており、むしろ呉座さんの個人的責任を軽減するとすらいえる文脈なのです。

 オープンレターはこう続きます。

 要するに、ネット上のコミュニケーション様式と、アカデミアや言論、メディア業界の双方にある男性中心主義文化が結びつき、それによって差別的言動への抵抗感が麻痺させられる仕組みがあったことが、今回の一件をうんだと私たちは考えています。呉座氏は謝罪し処分を受けることになりましたが、彼と「遊び」彼を「煽っていた」人びとはその責任を問われることなく同様の活動を続け、そこから利益を得ているケースもあります。このような仕組みが残る限り、また同じことが別の誰かによって繰り返されるでしょう。(強調は引用者による)

 オープンレターはこう論じています。オープンレターは謝罪し処分を受けることになった呉座さんについてはひとまず措き、呉座さんを取り巻いていた同等の責任を負うべき者たちについて厳しく批判しています。彼らは処分を受けることなく、反省もしないのです。その呉座さんが浸ってしまったネットの「界隈」は、呉座さんが謝罪しても消え失せるわけではなく、むしろその一部が二次加害者となっていることは間違いないでしょう。

 そして、ツイッターで一緒に誹謗中傷に耽っていなくても、事後的に二次加害する者もまた、あとから「界隈」に加わった者として、オープンレターによる批判の対象から除外するべきではないでしょう。端的に言えば、與那覇氏も「界隈」への新規参入者として「炎上」に燃料を投下し、そこから自著の宣伝などの利益を得ているというべきではないでしょうか。

 その與那覇氏は「與那覇3」で、オープンレターをこう論難します。

 この公開書簡「女性差別的な文化を脱するために」は、冒頭から名指しで呉座勇一氏を批判する文章だが、同氏が「あらゆる社会的弱者」を差別したなどと記した日本歴史学協会の声明文に比べれば、かなり丁寧に書かれてはいる。しかし、呉座氏が「公的には歴史修正主義を批判しつつ、非公開アカウントにおいてはそれに同調するかのような振る舞いをしていた」(強調は引用者[引用注:この引用者とは與那覇氏のこと])なる、名誉毀損を構成しかねない――「かのような」で人を非難できるなら、あらゆる事実無根の中傷が正当化されるだろう――記述を含むほか、致命的な問題を抱えていることは当初から明白に思われた。

ひとつは、このオープンレターが単なる公開書簡に留まらず、事実上の「署名運動」の機能を果たしていたことだ。4月のあいだを通じて賛同者を募り、結果的に1316人に及ぶ長大な支援者のリストが、レターの末尾に現在も掲載されている。

肩書を見るかぎり、おそらく最も多いのは大学教員ないし研究者で、次ぐのが出版などメディア関係者である。レターの文面に「中傷や差別を楽しむ者と同じ場では仕事をしない、というさらに積極的な選択もありうる」との一節がある以上、文中で名指しされる呉座勇一氏と「もし同じ場所で仕事をするなら、これだけの数の同業者を潜在的に敵に回しかねませんよ」と喧伝する、示威行動だと解釈されてもやむを得まい。

 まず「かのような」については、先の「あらゆる」同様の揚げ足取りでしょう。呉座さんは『教養としての歴史問題』などでは歴史修正主義を批判しながら、現在「慰安婦」問題をめぐって歴史修正主義であると批判されているラムザイヤーの論文を好意的にとりあげたツイートに「いいね」をしていたというスクリーンショットが確認されています。これは矛盾としか言いようがありません。その矛盾を表現するのに、公式には歴史修正主義を否定しながらツイッターでは肯定していた「ようにしか見えない」と述べただけのことです。

 後段についても、先に論じたように、「界隈」の文化こそが問題だということを踏まえれば、難癖といわざるを得ません。呉座さんがはまっていた「界隈」は、呉座さんがいなくなっても新規メンバーを加えて盛業中です。そのような「界隈」の文化と距離を置く、ということをオープンレターは声明しているのであって、呉座さんが仮に反省して「界隈」と手を切っていれば、呉座さんと距離を置く必要はなくなります。私はそのような方向に進むことを願ってやみません。

 オープンレターの良い点はこの、各人ができる形で「距離を置く」という対策を打ち出すことで、何かある行動を強制したりするような問題が起きないようにしていることです。各人自身の判断によって置く距離を決めればよいわけで、その距離にした説明責任はあるとしても、行動を画一化して「村八分」にするようなものではありません。

 オープンレターの賛同者を列挙する形を與那覇氏は非難していますが、これも二次加害が進行中であった(今も進行している)ことを考えれば、被害者の側に寄り添う姿勢を打ち出すことはやはり必要であったと考えます。

 與那覇氏は「與那覇3」で、先の箇所に引き続いてこう述べています。

もうひとつは、この時点で呉座氏と係争中であり(現在は、呉座氏の謝罪文公表により決着)、なにより同氏による中傷の告発者として広く知られていた北村紗衣氏が――署名者ですらなく――レター自体の呼びかけ人(=文責を担う最初の20名弱の1人)に名を連ねていたことである。

係争中の両者のうち片方のみを呼びかけ人に加えて、支援者を関連業界から募り、その長大なリストをネット上に誇示する行為は、控えめにいって「私的な報復」であり、より端的にいえば私刑(リンチ)だろう。時と場合によって「許されるリンチもある」とする発想は、ある種のマッチョなカルチャーにしばしば見られるものではあるが、「女性差別的な文化を脱する」ことを目指す有識者が唱えるのは普通ではない。

 これもまた、二次加害が進行しており、それへの対応策が必要であったという前提が欠けています。「ネットリンチ」はすでに、呉座さんの被害を受けた人がさらなる加害を受けるという形で起こっていた問題なのです。そして忘れてはならないのは、このオープンレター公表の一週間前に「與那覇1」を発表した與那覇氏もまた、「リンチ」に加わっていた一員といわざるを得ないということです。このような二次加害に対し、被害者へ「係争中なんだからおとなしくしてろ」というのは、さらなる加害に他なりません。そこで立ち上がることを、「ある種のマッチョなカルチャー」で女性差別批判にふさわしくないと決めつけるのは、不当でしょう。

 「與那覇3」で氏は、「ネットリンチ」を懸念して伝手をたどってオープンレター呼びかけ人に警告したが無視された、と書いています。あたりまえでしょう。二次加害者が、被害者の対抗措置に「それは加害だからやめろ」と文句をつけているのです。説教強盗的居直りといってもいいのではないでしょうか。そこで被害者が声を上げることを妨害するのは、泣き寝入りを強いることにしかならないのではないでしょうか。

 そして今も収まっていない二次加害(ためしにツイッターを「呉座 さえぼう」で検索してみてください)言説の横行に鑑みれば、オープンレターの投げかける問題は今もなお継続しているといえるのです。

 もちろんオープンレターにも考えれば問題は見えてきます。一つは、問題の文化は女性差別的なものにとどまらず、社会のさまざまな異議申したてへの冷笑でもあった、ということです。これは「界隈」的なものにとどまらない、今の社会全般にかかわる問題ですが、話が大きくなるので、ここではこれ以上は深入りしません。

 

 さらに與那覇氏は「與那覇2」で、

こうした「とにかく“いま” この瞬間の世間の空気に照らして、ウケがよく自分の得になることを言い、後で矛盾が生じようが気にしない」という発想を、仮に「言い逃げ」と呼んでみよう。

 と、「言い逃げ」なる概念を拵え、「與那覇3」では

日本歴史学協会が、ネットでの問題の判明からわずか半月で呉座勇一氏を「あらゆる社会的弱者」を差別する存在として非難する声明を出し、呉座氏による中傷の被害者(だと主張し当時係争中の学者)を含む20名弱がオープンレターを公表して、1316名の関係者が署名したのである。これが、日文研における呉座氏の(同氏の主張では、正統な手続きを踏まえない)処遇に「影響しなかった」ということはあり得ない。

問題は、日本歴史学協会の声明は誰が起草したのかすら、いまだ判然とせず、オープンレターの呼びかけ人や署名者たちからも、呉座氏の事実上の「解職」という処分をどう考えるのか、見解の表明が乏しいという事実だ。

そうした現状が続くかぎり、声明とオープンレターの関係者(署名しただけの者も含む)はともに、「あのときはそういう空気だった。その後どうなるかなんて知らない」という態度で、係争中の個人への非難を一方的に行った、単なる言い逃げ屋と見なされざるを得ないだろう。

 と、声明とオープンレターへの賛同者を非難しています。これは当を得ているでしょうか。ただの結果論ではないでしょうか。4月の段階では日文研は当座のお詫びを出しただけで、その後の処遇がどうなるかは外部からうかがい知ることはできません。処分は日文研およびその上部組織の人間文化研究機構が決めることです。それに、声明にしてもオープンレターにしても、そういった問題を繰り返さないため、二次加害を抑えるための対応として行われたもので、呉座さん本人をどうこうしようという意図ではありません。

 実際、この件に関して日文研は呉座さんを解雇すべきだ、といった声は、呉座さんを批判する側からもほとんど見られません。ことの発端から一か月間のツイッターを、「呉座 日文研 解雇」「呉座 日文研 クビ」で検索した結果を示しますが、「民間ならクビだよね」という感想を述べている人はそれなりにいても、「日文研は解雇すべきだ」と踏み込んでいるのは一、二件です。呉座さんを無理くりに擁護する陣営は、前者の検索結果の筆頭に出てくる池田信夫氏のツイートの如く、「『フェミ』が呉座を解雇しろと騒いだ」と主張する例が見られますが、妄想の「敵」を撃っているだけです。

 日文研なり機構なりが声明やオープンレターを呉座さんの懲戒の口実に使ったとしたら、それはいわば目的に外れた行為です。この場合、批判されるべきは日文研なり機構なりであって、声明やオープンレターではありません。懲戒方針に定見を持たず、外部の動きに右往左往した組織の問題です。

 

 與那覇氏は「與那覇2」「與那覇3」の両方で、「いまさえよければ」と「世間の空気」に流されて、多くの研究者らが声明やオープンレターに賛同したと主張します。そんな「空気」がなかった蓋然性が高いことをここまで論じてきました。與那覇氏が無視している問題は現在進行形の二次加害で、それには当の與那覇氏も加わっていたのです。自分も一角を担った行為で声明やオープンレターの必要性を生じさせておきながら、それを非難するのはいささか、たちの悪いことです。

 有体に言ってしまえば、「いまさえよければ」であれば、余計なことに首を突っ込まずに黙っていればいいのです。それが処世術として賢明なのは論を俟ちません。それでも多くの人が発言したり、オープンレターに署名したりしたのは、呉座さんが「界隈」の文化に浸ったために起こしてしまった差別や誹謗中傷が大きな問題であり、学界の将来にも関わることだからです。

 オープンレターに賛同された方には、自身ハラスメントの被害経験をお持ちの方もいると聞いています(私は周囲に恵まれていたのか鈍感なのかハラスメントする価値もないと思われたのか、幸いそのような経験はありません)。そのような方がたにはとりわけ、北村さんはじめ呉座さんたちに不当な攻撃をされた人たちのことは他人事でなく、同じことを繰り返させたくないという強い思いがあっての行動だったと思います。與那覇氏の無理筋な呉座擁護・学界非難は、北村さんのみならず、そのような方がたへの二次加害でもあるのです。

 

 話をまとめましょう。「與那覇1」「與那覇2」「與那覇3」は、呉座さんの起した問題を捻じ曲げて、本件のみならず多くのハラスメント被害者に二次加害を加えるものです。被害者である人たちを無視し、さらには加害者こそ被害者だと言い出し、結果論で行動した人びとに責任をなすりつける。これらは典型的な陰謀論のパターンだと、それこそ呉座勇一さんが快著『陰謀の日本中世史』で書いている(22ページ、31-32ページ)ことなのは皮肉です。

 私の考えでは、與那覇氏は呉座さんの問題が発覚した際に、歴史学界への怨恨、フェミニズムへの偏見、呉座氏への思い入れなどの先入観からこの問題の事実認識を誤り、加害者と被害者を顛倒させて、二次加害的な「與那覇1」を発表してしまったと見ています。その事実認識の誤りは明白でしたので、多くの人びとから批判されたのですが、與那覇氏はそこでますます陰謀論に陥ってしまったのでしょう。與那覇氏は自分も攻撃を受けた被害者だと、学界に対する敵愾心を募らせ、呉座さんへの厳しい処分の発表と訴訟という事態の進展にそれを爆発させたのが「與那覇2」「與那覇3」なのだと思います。そこで與那覇氏は自分を被害者の立場に置き、加害者として呉座さんの問題やそれに重なる二次加害を憂えた人びとを非難している、そんな倒錯した文章といわざるを得ません。

 與那覇氏は著書『知性は死なない 平成の鬱をこえて』の51ページで、「私には『私が被害者だから』という理由によって、私の主張に同意を求めたいという気持ちが、いまもないのです」と語っています。これは直接には以前の勤務校でのひどい経験の「被害者」としてうつ病になったとは取られたくない、という主張ですが、同じ発想が今回の件では見られないのは残念なことです。まして同書で氏は、拉致問題を材料に「被害者性」の利用ということを厳しく論じられている(30-33ページ)のですから。いや、被害者性の利用の価値を見出して実践しているのでしょうか? 自分こそ「力のある被害者」と思われているのでしょうか?

 

 「與那覇3」の末尾を與那覇氏は、オープンレターの末尾をもじってしたり顔で結んでいます。しかし、誰もが参加できる自由な言論空間を作るのには、誰もが異議申し立てを抑圧されないことが必要です。それを倒錯した陰謀論で押しつぶそうとする與那覇氏の言説には、私は強く異を唱えます。そして願わくは、陰謀論のありようを歴史研究の実践で喝破した呉座さんが、悪縁を断ってその能力をまっとうな方法で生かすようにと思うばかりです。

 

 なお前稿公開後に、それに対して與那覇氏が反論を発表されたことは私も認識していますが、本稿がすでに十分長いので、それへの言及は機会があれば行うことにしたいと考えております。

 

追記:言及しました⇒「與那覇潤氏の「警鐘」への感想とお詫び」