2022年4月20日最高裁大法廷にて
金髪で、ちゃらちゃらしていて、この人とはちょっと友達になれないかな。それが法科大学院2年4組の飲み会で吉田京子弁護士と最初に会ったときの印象だった。それから17年、いつの間にか無二の親友となっていた彼女は、最高裁判所大法廷の弁論に立っていた。
2022年4月20日、日本で11番目の法令違憲判決が出ることが予想される在外邦人国民審査権事件の弁論が最高裁大法廷で開かれた。一橋大学の江藤祥平君、精読憲法判例のもう一人の生みの親ともいうべき弘文堂の登健太郎さんと、憲法判例が生まれる現場を目撃しようと傍聴券配布に並んだ。コロナ禍で座席の数は通常の半分以下の81に制限されていたが、幸い70名弱しか傍聴希望者がおらず、全員が傍聴可能となった。私は、傍聴席の一番前の中央の席になった。
現在、日本国民は、外国に住んでいても、国政選挙に投票することができる。しかし、法律上、衆議院議員総選挙の際に実施される最高裁判事の国民審査については在外邦人に参加は認められていない。そのことの憲法適合性が争点であった。
国民審査は、主権者である国民が直接国政の意思決定に関与できる数少ない機会の一つである。その意義が問われた本件は、国民主権とは何か、権力分立とは何か、最高裁はどうあるべきかといった憲法上の重大論点と深く関わるものであった。その判決内容は、今後数十年にわたり、日本における憲法史の歩みを規定していく可能性がある。
最高裁の大法廷の重たい扉が開き、15人の最高裁判事、全員が着席した。そのうちの一人、宇賀克也裁判官は、2年4組の上級行政法の担当教員だった。教壇に立っていた宇賀先生は裁判官席に、学生の席に座っていた吉田弁護士と私は、それぞれ、代理人席と傍聴席に、空間やお互いの立場は違うけれども、どこか懐かしい気分になった。
最高裁の弁論は大法廷も含め傍聴したのは初めてであった。おそらく、多くの場合、代理人の弁論は、予め最高裁に提出した弁論要旨を読み上げることに終始する形式的なものに留まるのではないかと予想される。実際、当日の国側の弁論はそうであった。最高裁大法廷といっても、形式的、儀式的なものに終始する。憲政上の重要判決の弁論であるにもかかわらず、傍聴人が少なかったのはそのせいかもしれない。
しかし、その日の吉田弁護士の弁論は違った。彼女は、原稿ではなく、裁判官たちの目を見て、ゆっくりとしっかりと語り始めた。それは「読み上げ」ではなく、「語りかけ」であった。
通常、最高裁で弁論が開かれる場合、代理人は予め弁論要旨を提出する。しかし、彼女は、最高裁からの再三の要請を拒否して弁論要旨を提出していなかった。当初、私にはそのような対応が全く理解できなかった。「そんなことをしていいものなのか」。私は第三者ながら不安だった。ただ、そのような不安はすぐに打ち消された。むしろ、彼女の語りかけが始まった瞬間、私は「そういうことか!」と心のなかで叫んだ。
目の前にあったのは、裁判官たちの眼差しが吉田弁護士へと注がれる光景だったのだ。吉田弁護士が裁判官たちを見つめ、裁判官たちも吉田弁護士を見つめていた。これから何が語られるか分からない。その緊張感が裁判官たちを釘付けにしていた。吉田弁護士は、何度も裁判官たちと目が合ったと言っていた。
弁論要旨の提出拒否は、よく考えれば自然なことである。大学の講義で予め話す内容を全て学生に配る教授などいない。そんなことをすれば、学生は講義をまともに聞かなくなるからだ。事前に提出された弁論要旨を読み上げるだけの国の弁論の際、何人かの裁判官は俯いていたし、最後のほうは片づけ始めている裁判官もいた。
吉田弁護士の弁論は、「ライブ」であり、即興も含まれていただろう。まさにジャズといってもいいかもしれない。彼女自身その日の弁論を完全に再現することはできないという。その場でしか聞けない、何かが語られる。
吉田弁護士は、居並ぶ裁判官たちを見渡しながら開口一番次のように述べた。
「15名の最高裁判事の皆様。皆様に、私は今日、まず申し上げなければならないことがあります。」
何を述べるのだ。この冒頭の一節から冷や冷やしたのは、私だけではないだろう。静まり返る法廷のなかで彼女はこう続けた。
「それは、今ここにいる皆さんは、国民の正式な信任を得ていないということです。誰一人として、憲法の定めるとおりの任命手続を経ていません。海外に暮らす人たちが、皆さんの任命について、それが正しかったかどうかについて判断し、意思表示する、国民審査の投票をしていないからです。」
吉田弁護士は、冒頭、最高裁大法廷に列席する最高裁判事全員の正当性に目の前で疑問を呈したのである。本件は、国民審査という最高裁判事の地位と権威そのものにかかわる事案である。彼女の冒頭の発声は、大法廷の席上から見下ろす裁判官たち自身もまた当事者であることを知らしめるものであった。
「どうして、ただ海外に暮らしているというだけで、彼らは国民審査ができないのでしょうか。それは、国が、海外に暮らす人たちを、そして国民審査権を軽視してきたからです。」
これまで裁判官を見ていた吉田弁護士は、初めて国のほうを向いた。第一審、第二審の判決でも述べられてきたことであるが、在外邦人に国民審査権の行使を認めてないことについて、やむを得ない理由はなかった。在外邦人の選挙権剥奪を違憲とした平成17年の最高裁判決の示す「厳格な基準」に従えば、本件もまた違憲となることは明らかだった。そのことは国も充分に認識していたのであろう。国は、国民審査は、選挙とは異なり「民主制の過程に直接関わるものではない」「民主的統制の方法としても、あくまで例外的・補完的なものにとどまる」と述べ、国民審査権を、やむを得ない理由がなくても剥奪できる「取るに足らない権利」であるとして、その剥奪を正当化しようとしていた。国のほうを見つめた吉田弁護士の目にはそのことへの糾弾が込められていた。
「これは間違いです。国民審査権はそれほど軽い権利ではありません。まず、国民審査権というのは、私たち国民が直接投票をしてこの国の統治のあり方を決める仕組みです。これは民主主義そのものです。それだけではありません。国民審査は、三権分立を実現するための制度です。」
吉田弁護士は、そう述べたうえで、国民審査が日本国憲法に採用された歴史、国民審査の役割、不合理な現在の法制度の改正の必要性を語っていった。彼女の弁論術は、一朝一夕に身に付いたものではなく、師匠である高野隆弁護士のもとで培われたものだ。高野弁護士のもとで学んできたスタイルに彼女なりのアレンジを加えたもの、それがその日の弁論だった。
その第一次的な聴き手は、もちろん目の前にいる最高裁判事たちである。宇賀裁判官は、かつての教え子である吉田弁護士をじっと見つめ、時折頷いているようにも見えた。でも、私は、吉田弁護士が語りかけようとした相手は他にいるのではないかと思った。吉田弁護士のやさしいゆっくりとした語りかけ、絵本を子供に読んであげるような語りかけは、その後ろにいる傍聴席、そして、何より、傍聴席で必死にメモをとりながら、最高裁判事たちに向かうお母さんの背中をじっと見つめていた二人の幼い娘たちに向けられたものではなかったか。それは、さらに、これからの日本の民主主義を担う次世代の子ども達すべてへの語りかけでもあったかもしれない。
弁論の最後、吉田弁護士は、その二人の娘たちと必ず選挙に行くという話をした。「私は、国政選挙のたびに、子どもたちを投票所へ連れていきます。道すがら、誰に投票するのか、どうしてそう決めたのかを話します。国民審査についても話します」。親子の日常の何気ない風景が思い浮かぶなかで、吉田弁護士はこう続けた。
「私はできる限り、私の意見を伝えます。たとえば、宇賀克也裁判官について。私は『彼はもともとは研究者だよ。補足意見や反対意見をたくさん書いてる』と言います。」
法廷に宇賀克也裁判官の名前が響いた。そして、彼女は、次々と目の前にいる裁判官の名前を挙げていった。
「林道晴裁判官はどう」「彼は裁判官出身。司法研修所の事務局長をしていた時に、直接お話を聞いたことがあるよ、と言って、個人的な経験を話すこともあります。じゃあ岡村和美裁判官は?--彼女は弁護士と、検察官を経験してる。ハーバードに留学したこともあるね。弁護士出身の裁判官もいるんでしょう?――そうだね、たとえば、渡邉惠理子裁判官は元弁護士だよ。彼女もワシントン州立大学に留学しているね。・・・こうして話は続きます。」
裁判官の名前を挙げながら吉田弁護士は、迫真の語りのなかで、日常の風景を再現していった。その怒涛の展開のなかで、最後に彼女はこう述べた。
「こうした対話こそが、私たちの民主主義の始まりです。私たちが、家庭で、社会で、ごく自然に経験している民主主義のための対話に、海外にいる人たち、これから海外へ行く友人たちも参加させてください。日本にいる私たちは、この対話から始めて、皆さんを信任しました。いま、私たちの信頼に応えてください。」
選挙や国民審査は単に投票だけでなく、そうやって政治や社会の在り方を市民同士が語り合う機会を提供する。そういった語り合い、親子同士の会話を通じて国民は民主主義を学び、政治に関心をもっていく。在外邦人に国民審査権を認めないことは、国民審査権そのものだけでなく、そのような親子の語り合い、政治について一緒に考える機会をも奪っている。民主主義の日常とその日常を奪うことの問題を指摘し、彼女の弁論は終わった。
最後の娘との会話の部分でいつもクールな江藤君は泣いていた。心揺さぶられる弁論というものを始めてみた。弁論の在り方は、おそらく様々な様式があるだろう。法廷は感情的なものではないという意見もあるかもしれない。ただ、法的論証そのものは既に答弁書等において最高裁に提出済である。そのなかで、弁論の独自の意義があるとすれば、まさに、生の人間の感情を揺さぶることにこそあるのではないか。そう考えると、弁論とはこうあるべきという一つのスタイルを吉田弁護士は今日提供したもののように思えた。
そもそも、最高裁の巨大な大法廷は書面を読むだけの空間として設計されたものではないはずだ。まさに、それは、吉田弁護士のような弁論を開くためにこそ用意されたものではないか。
歴史的なものとなるであろう本件の判決は、5月25日に言い渡されるという。
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上記、吉田弁護士の弁論からの引用については、彼女から提供を受けた弁論の下書きに基づいている。ただ、彼女の弁論は即興を多分に含んでおり、完全には再現出来ていないことをお許しいただきたい。
私は幸運にもこのような歴史的機会に立ち会うことができたが、本来このような機会は主権者である全国民に開放されるべきであろう。弁論のオンライン中継については当事者のプライバシーなど問題があるかもしれない。しかし、本件のように、憲法解釈が主論点となった最高裁大法廷での弁論については、当事者の合意あるいは最高裁の判断によりオンライン中継や少なくとも録音の公表など検討されてもいいのではないだろうか(アメリカでは連邦最高裁の口頭弁論の録音が即日に公開されている)。
補足:国民審査の意義(以下は専門的な内容になります)
本件で注目されるのは、国の主張である国民審査は「民主的統制の方法としても、あくまで例外的・補完的なものにとどまる」という言説に対し、最高裁がどのように応答するかということである。国は、そのような国民審査の位置付けによって、本件において適用される違憲審査基準が立法裁量を広範に認める緩やかな基準になるべきであると主張している。国の主張の是非は、本件の帰趨を左右することになる。この論点についての最高裁の判示は、今後の憲法史を大きく左右することにもなるだろう。ここでは少し国民審査の意義について若干の補足をしておきたい。
最高裁の裁判官というと、法律の専門的知見を極めた者たちが任命されるものと思われがちである。これまでの最高裁判事の顔ぶれをみる限り、そのような認識は決して的外れなものではないかもしれない。ただ、憲法上、最高裁判事の任命プロセスは極めて政治的に行うことが潜在的には可能である。
憲法上、最高裁判事は、内閣によって任命(指名)される。制度上は、内閣が、恣意的に、例えば、内閣総理大臣の「お友達」を最高裁判事に任命することも可能であり、濫用的任用と常に隣り合わせである。内閣が、恣意的に、例えば、内閣総理大臣の「お友達」を最高裁判事に任命したとしても、それは憲法上正当な権限の行使であり、その任命行為そのものに歯止めをかける手段は憲法上存在しない。
多くの国々では、そのような最高裁判事の濫用的任用を防止するため、民主的コントールの手段として議会承認の手続を設けている。例えば、アメリカの場合には、最高裁判事を指名するのは大統領であるが、指名された候補者が最高裁判事として任命されるためには、連邦議会上院の承認が必要となる。指名後、承認が見送られた例は歴史上幾つか存在している。
日本国憲法の場合は、最高裁判事は、国会承認の制度は採用されていない。その代わりに採用されたのが国民審査の制度である。憲法制定時、国会承認にした場合、最高裁判事の任用が高度に政治化することが危惧されていた。他方で、内閣限りで任用できるようにしてしまうと、濫用的恣意的に任用がなされてしまう可能性がある。そのようなジレンマがあるなかで、主権者自身に最終的な拒否権を委ねる国民審査の制度を採用したことは、決して、不合理なことではない。国は、この訴訟で、国民審査は、例外的・補充的な制度であると主張しているが、国民審査が存在しない制度が極めて不合理で危険なものになることは明らかであり、国民審査は、最高裁の任用手続において不可欠なものであると言える。
国民審査については、実際に罷免された例がないことから、その意義について疑問視する見解もある。しかし、現行の憲法下においては、最高裁判事の濫用的任用をしようと思えばできるにもかかわらず、これまで、例えば、日本学術会議会員人事や内閣法制局長官人事のように政治的に大きな問題となったことはあまりないように思われる。国民審査をなくすという実験はできないが、最終的に国民審査が控えているという事実そのものが一定程度内閣に抑制を働かせる役割を果たしてきたと言えるかもしれない。
また、国民審査の結果は、全国一律で同一ではなく、大きな地域差があることも指摘されている。例えば、沖縄は全国の2倍罷免票が多く、基地問題に対する最高裁の姿勢への抗議の意味が込められているとも言われている。夫婦同姓制度についても、罷免を可とする票が合憲派の裁判官のほうが違憲派の裁判官よりも多かったことが指摘されている。国民審査は、国民が最高裁にメッセージを発するための機能を果たしていると言えよう。その意味では、現在、在外国民は、そのようなメッセージを発することすらできない状態にある。コロナ禍において、実は私も体験したことではあったが、在外国民は帰国の際に様々な制約、負担が課された。そのような在外国民への負担の合憲性、合法性が争われた場合であっても、在外国民は国民審査を通じて自らの意見を示すことができなくなる。もっといえば、仮に、本件で、在外国民の国民審査権を軽んじる判決がなされたとしても、在外国民は、それを非難するための国民審査にすら参加することができない。
さらに、現在の状況のみによって国民審査を評価することも適切ではないだろう。社会情勢、政治情勢は大きく変動する。現在、様々な国で民主主義から権威主義への移行が生じているが、そこでは、裁判所が判決を通じてむしろ権威主義体制への移行を手助けするといういわゆる「濫用的司法審査」(abusive judicial review)があったことが指摘されており、また、その原因の一端に、裁判官の任用制度に問題があったとされている(Rosalind Dixon & David Landau, Abusive Constitutional Borrowing (2021)参照)。揺れ動く社会情勢のなかで、権威主義体制、全体主義体制への移行という問題に今後日本が直面する可能性がないとは言い切れない。ただ、日本で安心できることがあるとすれば、それは国民審査の制度があるということである。権威主義体制、全体主義体制への移行を手助けするような裁判官であることが見込まれた場合、国民はその任用を拒否することができる。仮に、国会の多数が権威主義体制を支持したとしてもである。国民審査については憲法改正によって廃止すべきという見解もある。私は、国会承認人事の採用は改憲論として検討すべきであると考えるが、それでも、国民審査の制度は最後の砦として維持すべきであると考えている。
これまで何十年と無事故であったとしても、車からエアバックを取り外そうとか、欠陥のあるエアバックでいいということにはならないだろう。最後の安全装置こそ、むしろ厳格にその性能が要求される。民主主義の安全装置である国民審査に対する制限は、国の主張とは逆に、最も厳格にその合理性が審査されるべきものである。