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中谷功治「ビザンツ帝国:千年の興亡と皇帝たち」中公新書、2020年覚書

中谷功治『ビザンツ帝国―千年の興亡と皇帝たち―』(中公新書2020年)

本書を、期待を持って読み始めたことは間違いありません。そうした期待は、遺憾なことに第4章の半ば以降(10世紀後半を扱った部分)以降、急速にしぼむことになってしまいました。それまでの記述が最新の研究成果を採り入れた非常に意欲的なものだっただけに、その落差に愕然とせざるを得ません。本書は、初学者が初めて手にするかもしれないビザンツ史の本となる可能性も高いと思われるだけに、そこに多くの事実関係の(なかには信じられないレヴェルの)誤謬が続出するのには目を疑いました。著者に連絡を取り、増刷時の訂正の約束をとりつけたので事態は改善に向かっていると信じたいところです。以下に本書の初刷において筆者(根津)が見出した問題箇所のリストを提示しておきます。なお、リスト中にも記しましたが、本書には、とくに後半部において史実の解釈についても、いろいろ異論を挟みたいところは少なくないのですが、以下では事実関係の誤りに限定していることをあらかじめおことわりしておきます。


中谷『ビザンツ帝国』問題箇所リスト
(頁と行数、カギ括弧内に当該箇所からの引用、コメントの順)

① 23頁:図版「ユスティニアヌス帝と随臣 右から4人目がベリサリウスとの説がある」:一般にベリサリウスとされているのは皇帝の左隣の人物では?(写真では右から6人目)。右から4人目、大司教と皇帝の間に顔を出している人物は、以前は銀行家のユリアヌス、近年はベリサリウスに代わってイタリア戦線を指揮した将軍ヨハネスという説があることをかつて私は河出の『図説』で紹介したことがありますが、さらに私の知らない新しい説が出ているのでしょうか。

② 170頁2-3行目「当然のこととして、ニケフォロスの息子たちにも栄達が待っていた。バルダスはカイサル、レオンはクロパラテスという皇族の爵位を獲得する。」:
 正しくは、カイサルになったバルダスはニケフォロス2世の父親、レオンは弟。この頁の13行目には「ヨハネス帝はニケフォロス帝の子どもたちを政権から排除する一方」との記述もありますが、これも「弟(クロパラテス)のレオンとその息子たち」と修正する必要があります。ちなみにニケフォロス2世には皇帝に即位する以前、バルダスという名前の息子が一人いましたが、軍事演習中の事故で亡くなっています(典拠はSkylitzes ed. Thurn, p.260; Leo the Deacon, tr. A-M.Talbot and D. F. Sullivan, p.91)

③ 172頁9-10行目「手を焼いたバシレイオス・レカペノスは、地中海の島に流刑中であったもう一人のバルダス、ニケフォロス2世フォカスの息子を鎮圧軍のトップにあてた。」:ここに登場するバルダスは、ニケフォロス2世の息子ではなく、甥(皇帝の弟、クロパラテスのレオンの息子)。

※11-12世紀のイタリア海運都市やノルマン人と教皇権との関係など、細かい表記の仕方に違和感がある箇所は少なくないのですが、このあたりは個人的な見解の違いとも言えるので、その種の歴史解釈に関する問題は、今回は割愛しておきます。

④ 194頁最終行から次頁1行目「彼の後継は弟で共同皇帝のコンスタンティノス8世であったが、皇弟にも息子はおらず、2人の娘、ゾエとテオドラがあるのみであった」
 実は、ゾエとテオドラの上にエウドキアという早くに修道院に入った娘がいたことをプセルロスが語っています(M. Psellos, II-5, ed., Renauld, I, p.28)。なので、厳密を期せばコンスタンティヌス8世の娘の数は「3人」が正解です。ただし、この時代を専門にしてない人にそれを知らないのを責めるのはいささか酷でしょうが。

⑤ 195頁11-12行目「ゾエは若い愛人ミカエル・オルファノトロフォスと共謀して彼を暗殺したらしい。」 次の行にも「ゾエの夫となることで帝位を得たミカエル4世オルファノトロフォスは」という記述あり。「オルファノトロフォス」(孤児院管理長官)という官職は、ミカエルではなく、その兄で宦官のヨハネスが帯びていた称号です。ちなみに皇帝になる前にミカエルが帯びていた官職は「パンテオンのアルコン」(Skylitzes ed. Thurn, p.390)、皇帝になってからの添え名はho Paphragon(「パフラゴニア人」)。

⑥ 198頁12-13行目「後者は皇帝が首都に創設した「法科」大学校の責任者(モノフュラクス)に任命された。」:クシフィリノスが任命されたのは「ノモフュラクス」(nomos「法」+phylax「番人、監督」の意)。イージーな校正ミスとも言えるでしょうが、初学者がこのまま覚え込んだりしたらと思うと、なおざりにはできません。

⑦ 201頁3行目、1047年に反乱を起こしたレオン・トルニキオスについて「コンスタンティノス9世の甥にあたる人物」と記述。これについてプセルロスは、トルニケスは、コンスタンティノス9世の「母方のexanepsios」と伝えています(M. Psellos, VI-99, ed., Renauld, II, p.14)。「エクスアネプシオス」の箇所をJ.-C. Cheynetは「従兄弟」と訳しており(Pouvoir et contestations à Byzance (963-1210), 1990, p.60)、E. A. Sophoclesの「ローマ・ビザンツ時代のギリシア語辞典」p.479には「従兄弟の息子」とあるので、いずれにしても「甥」という訳は正確ではないでしょう。

⑧ 203頁10行目「新たな皇帝に擁立されたのはパフラゴニア地方に基盤をもつイサキオス家のコムネノス」:正しくは「コムネノス家のイサキオス」。誰でも分かるケアレスミスという点では許容範囲内かも。

⑨ 228頁8行目「ロマノス3世の息子レオンが戦死し」:正しくは、ロマノス4世ディオゲネスの息子レオン。

⑩ 235頁8-9行目、第1回十字軍によるアンティオキア攻囲戦のくだり、「勝手に東方の都市エデッサに進んで、ここにエデッサ伯領を形成するブロワ伯エティエンヌのような人物も出る。」 どうしてこのような荒唐無稽な文章が出来するのか、絶句するしかない文章。エデッサ伯領を建設したのは、ブロワ伯エティエンヌではなく、ボードゥワン・ド・ブーローニュ(ゴドフロワ・ド・ブイヨンの兄弟。第2代イェルサレム王。ゴドフロワが王号を帯びなかったことを勘案すれば、初代イェルサレム王)です。彼はアンティオキア到着の直後に本隊から離脱して独自行動に転じ、1093年3月にエデッサの支配権を獲得しました(エリザベス・ハラム編 ; 川成洋, 太田直也, 太田美智子訳『十字軍大全 : 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』、東洋書林、 2006年、117-121頁)。ブロワ伯エティエンヌがアンティオキア攻囲戦に耐えきれず、戦線を離脱したのは事実ですが、彼は1098年6月に陣中を離れ、アレクサンドリア経由で海路、フランスに帰国したと報じられている(エリザベス・ハラム編『十字軍大全』124頁)ので、エデッサ伯領との接点は見つけられません。エティエンヌはその後、1101年の十字軍に加わって再度、聖地に向かっていますが、1102年5月にラマラで戦死しており、ここでもエデッサ伯領と関わりを持ったようには思われません(エリザベス・ハラム編『十字軍大全』156-157頁)。

⑪ 242頁3-4行「皇帝が派遣した甥ヨハネス・コムネノスの部隊は、スミルナ、エフェソス、サルディス、フィラデルフィアなどの都市の奪還に成功する」:このとき、小アジア諸都市の奪回戦の指揮を執っていたのは、皇帝の甥のヨハネス・コムネノスではなく、皇帝の義理の兄弟(皇后エイレーネーの兄)ヨハネス・ドゥーカスです(Demetrios I. Polemis The Doukai : A Contribution to Byzantine Prosopography, London, 1968, No.25, pp.66-70)。

⑫ 246頁2-5行。第2回十字軍に関する記事。仏王ルイ7世の軍勢のコンスタンティノープル通過の記述の後に「西欧軍はクレルヴォーのベルナール(シトー派修道院長)という精神的支柱をともなっていたものの、やはり方針は定まらなかった」という文章。素直に読むとクレルヴォーのベルナールは十字軍に同行していたように読めますが、実際にはそうした事実はありません。ベルナールが第2回十字軍の勧説に大いに活躍したことは有名ですが、そこから十字軍遠征にまで同行したと考えるのは飛躍があるでしょう。

⑬ 257頁末尾から3行「アレクシオス3世のもう一人の娘エイレネの夫はアレクシオス・パライオロゴスで、その子息が1261年にコンスタンティノスを奪回するミカエル8世である。」アレクシオス3世の娘婿アレクシオス・パライオロゴス(J.-F. Vannier, “Les premiers Paléologues: Etude généalogique et prosopographique”, dans J.-C. Cheynet,et J.-F Vannier, Etudes prosopographiques, Paris, 1986, No.29, pp.170-172)とミカエル8世の父親は別人。なお、後者の個人名はアンドロニコスJ.-F. Vannier, “Les premiers Paléologue”, No.32, pp.176-178)。

⑭ 271頁10-12行目。アンドロニコス2世パライオロゴスの再婚相手モンフェラート侯女ヴィオランテ(エイレネと改名)の記事。「父親のモンフェラート侯グリエルモ7世はテサロニキの支配者であったから、彼はこの都市を妻の持参金として受け取った。」
 おそらく、本書の中でもっとも衝撃的な文章。拙著『聖デメトリオスは我らとともにあり』でこのあたりの話はいたしましたが、第4回十字軍のコンスタンティノープル占領後にモンフェラート侯ボニファッチョによって建国されたテサロニケ王国は1224年にエペイロスのテオドロスによって滅ぼされ、さらに1246にはテサロニケの町はエペイロス系の君主の手から当時のニカイア皇帝ヨハネス3世の手に渡っていました。ですので、テサロニケの町はアンドロニコス2世が即位する何十年も前からビザンツ系国家の支配下にあったことになります。なぜ、このような信じがたい事実誤認が生じたのかは正直、分かりません。もしかすると、アンドロニコス2世がモンフェラート侯女と結婚する際、テサロニケの町を名目上、花嫁の持参財産として明示することで、テサロニケ王国滅亡以来、モンフェラート侯家が主張していたテサロニケに対する請求権を同家の面目を保ちつつ放棄させる段取りが整えられたのだ、という話を、現実のものと誤解した結果でしょうか。(2020年6月30日)

 

本書の刊行から半年以上が経過しましたが、本ブログに最近になって気付いた人もいるようなので、以下の情報を追記しておきます。あわせてご参照ください。(2021年1月31日追記)

現在、著者の中谷功治氏の以下のresearchmapのブログ欄に本稿よりもさらに詳細な正誤表が掲載されています。

https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/509045/e05e28ad7b92fca7365dbb055525a71d?frame_id=1018647