研究ブログ

ヴェネツィアの町にまだ見ぬビザンツ皇帝の肖像を探して。

  報道によれば、イタリアにおける新型コロナウイルス感染による死者の数は5000人に迫っている(2020年3月22日現在)。テレビ画面に映し出されたヴェネツィアの町はまるでゴーストタウンのようだ。私がこの町を久しぶりに訪れたのは、およそ半年前の2019年8月下旬のことである。そのときは狭い路地に観光客がひしめくいつものヴェネツィアであった。人波に揉まれながら町を歩き回って疲れ果て、サンタルチア駅前の階段にへたり込むように座って、ミニマーケットで購入したプラスチックケース入りのカット・スイカを頬張ってようやく人心地ついたことなどが少し懐かしく思い出される。新年度の勤務先の開講日が2週間ほど繰り延べになったこともあり、ヴェネツィアがあの日と同じ賑わいを取り戻すときが一日でも早く到来することを祈念しながら、ささやかな思い出話などを書き綴りたい。以下の小文は、日本学術振興会・科学研究費補助金:基盤Cの資金で2019年8月に実施された調査旅行中の1コマを切り取ったレポートである。

 2019年8月25日、朝7時30分にナポリ中央駅を発車した特急列車がローマ、フィレンツェなどを経由してヴェネツィア・サンタルチア駅に到着したのは12時35分、ほぼ定時の運行だった。駅の近くに予約したホテルに手荷物を預けると、すぐに駅前のヴァポレット(乗り合い水上バス)乗り場の自販機でチケットを購入してヴァポレットに乗り込み、大運河を通ってサンマルコ広場を目指す。今日の予定は、国立海事博物館にウン十年ぶりに再訪すること、サンマルコ聖堂外壁の各所に取り付けられたビザンツ由来の彫像の写真撮影、そして最近、存在が明らかになったビザンツ皇帝のレリーフ像を実見することである。

 再訪した海事博物館は、初めて訪ねた頃より随分、古びた感じは否めなかった。それでも古いゴンドラや船首像の実物、多くの船の模型を見て回るのは飽きない。博物館の受付のマダムから近くのシップス・パビリオンも同じチケットで入場できると教えてもらう。シップス・パビリオンの存在は前回の訪問時には知らなかったので今回が初めての訪問である。こちらの入り口は海事博物館から運河沿いにアルセナーレ(造船工廠)に向かう途中にある。ここは、古い倉庫のような建物の中に何隻も年代物の船の現物が展示されており、船が好きな人にはたまらない場所であろう(図1)。どこに行くにも人混みのなかをかき分けるように歩かねばならないヴェネツィアのなかで、ここだけは極端に人間の密度が低いのも好ましいところである。ただ空気が多少、ほこりっぽく感じるのだけが難点である。

図1 シップス・パビリオン内部

  

 その後、アルセナーレの門前まで歩き、その昔、ギリシアのピレウスから運ばれたと伝えられているライオンの石像の写真を撮る(図2, 3)。この石像は、表面に北欧のルーン文字が刻まれていることで有名であり、ビザンツ皇帝に仕えたヴァリャーグ人衛兵の仕業であろうと推察されている。

図2 ライオンの石像

 

ライオンの石像・上体部分

 

 もう一度、歩いてサンマルコ広場に戻り、サンマルコ聖堂の外周に取り付けられたビザンツ由来の彫像の撮影に取りかかる。この種の彫像では、聖堂正面テラスの目立つ位置に置かれた4頭の馬のブロンズ像(現在、野外に出ているのはレプリカ)や4人の皇帝が抱き合った「四分統治」像がよく知られているが、今回の目当ては、私の近著『聖デメトリオスは我らとともにあり』の執筆過程でその存在を知った聖デメトリオスのレリーフ像である。聖堂のまわりをうろうろして、おそらくこれだろうと思ってカメラに収めたのが図4である。13世紀頃の作らしい。結局、拙著では言及することはなかったが、現物が確認できて気分的には満たされた。

図4 聖デメトリオスのレリーフ像

 

 聖堂周辺の撮影を切り上げると、人混みから脱出するようにサンマルコ広場を後にした。スマホのGoogle mapを頼りにビザンツ皇帝のレリーフ像があるというサンパンタロン教会広場を徒歩で目指す。ヴェネツィアにほとんど世間に知られていないビザンツ皇帝の彫像が見つかったという情報は、以前、海外からのネット情報で見た覚えがあり、今回、あらためて検索をかけてみると以下のようなサイトが見つけられた。
https://www.venetoinside.com/hidden-treasures/post/a-byzantine-emperor-near-the-st-pantalon-church/

 その記事によれば、聖パンタロン教会広場近くの家(3717番地)の正面にメダイヨン方の皇帝立像のレリーフが取り付けられているようである。伝承によれば、1256年にヴェネツィア貴族のロレンツォ・ティエポロがSan Giovanni d’Acri(当時のイェルサレム王国の首都アッコン)におけるジェノヴァ人との戦いに軍司令官として派遣されることが決まったとき、彼の軍人としての才覚を疑った友人や親族から、もしも勝利を挙げることができたならはっきりそれと分かる証拠を送って寄越せと挑発され、その後、見事に勝利を飾った暁に本国の知人の許に送り届けられたのがこのメダイヨンであったという。その伝承を信じるとすれば、この皇帝の立像レリーフは聖地にあったことになる。現時点では真偽を究明することはできないが、11-12世紀のビザンツ皇帝は聖墳墓教会の修復に尽力するなど聖地の諸教会や修道院に熱心に援助活動を行っているので、その地にビザンツ皇帝の肖像を刻んだ石のメダイヨンが残されていたとしても不思議ではない。 

   サンマルコ広場から歩き出し、Google map のおかげで、20分ほどで迷うことなくサンパンタロン教会広場にたどりついた。ヴェネツィアのような迷宮都市を歩くのにGoogle mapの威力は絶大である。同じくGoogleのStreet Viewで広場周辺の建物を事前にチェックしていたのだが、画面をいくら動かしてみても問題のレリーフ像は写り込んでおらず、現地で探すほかはないと腹をくくっていた。3717番地という宅地番号を手がかりに広場から放射状に延びる街路を探して回ったが、いっこうに目当ての石のメダイヨンは見つからず、3717番地も見当たらなかった。自力で探すのを断念し、通りで立ち話をしている、いかにも地元の人のように見える男性2人組にサイト記事のコピーを見せ、身振り手振りでこれを探しているのだと告げると、すぐに広場の先を左に曲がった路地にあると教えてくれた。感謝の言葉もほどほどに言われたとおりの道を進むと、確かに路地の先にそれはあった(図5, 6)。図5 ビザンツ皇帝メダイヨン周辺部

図6 ビザンツ皇帝のメダイヨン

 帝冠を戴き、盛装の皇帝は右手に帝権を象徴するラバルムという杖、左手に十字架付の円球を持って正面向きに立っている。さっと見た感じでは、銘文は見あたらないようなのでここに描かれた皇帝がいつの時代の誰なのかは厳密には分からない。ただ、個人的な感想としては、面長な顔立ちが10世紀マケドニア朝のレオン6世やコンスタンティノス7世ポルフュロゲネトス帝の風貌を思わせるような気がする。

 正面向きの皇帝レリーフの円形メダイヨンといえば、アメリカのダンバートン・オークス研究所所蔵のものが有名である。最近刊行されたアンナ・コムネナ『アレクシアス』邦訳の表紙カバーに写真が使用されているのはてっきりこちらの方だと思い込んでいたが、今改めて見比べてみると、それは、ダンバートン・オークス研究所所蔵のものではなく、聖パンタロン教会広場のレリーフ像の方であることに今さらながらに気がついた(『アレクシアス』邦訳版には表紙カバー写真の説明文は見つけられなかった)。年代に関して言うと、ダンバートンの方は12世紀後半の作とされているので、こちらのレリーフ像も同じくらいと見ていいのかもしれない。

 そのようなわけで、このレリーフ像について本邦に初紹介する栄誉は逸したが、それに関する基礎的な情報とその所在についてささやかな案内を提供することができたことで、ひとまずこの小文の責はふさいだものと考えたい。それにしても、これだけの逸品が、人知れずヴェネツィアの裏路地の一角に埋もれているのはいかにも残念である。風雨にさらされ、これ以上の劣化が進まぬよう、適切な保護措置が講じられることを切に望むものであり、また、コロナ禍が終焉した後、『アレクシアス』に感銘を受けた読者がヴェネツィア散策のついでに、孤独な皇帝の許を訪ねる機会のあることを念じたい。