研究ブログ

古文書の伝来過程

 どの家の蔵から出てきたか、などといった伝来過程の情報は、古文書を分析するうえでとても重要です。例えば、ある一通の借金証文が、金を貸した側の家に残っていたら借金は返済されていないということになり、借りた側の家に残っていたら借金は返済されたことになります。つまり、古文書の所在で、事実が全く逆になる可能性もあるのです。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200528.pdf

 以前も引用したように、素人さんたちは上記史料の【2306】で、椿井文書の伝来について、中村直勝氏の研究を引用して次のように述べています。

・中村直勝氏の政隆死後の時代の由緒書オーダーメイド販売業者の椿井・今井家

 1962年発行の『歴史の発見』という著書のなかで、中村氏は「明治三十年前後」に「木津に椿井(つばい)という旧家があって、」「相手の様子を観察し、その資力の程を推察し、」「作為する」と述べています。たしかに素人さんのおっしゃるとおり、明治時代に木津にある椿井家で偽作したと唱えていますが、今井家については触れていません。素人さんたちがこのように手を加える理由については、またのちほど考えます。

 なお、明治30年代ともなると、西洋の筆記用具も定着し、字体が江戸時代とずいぶん変わります。よって、その時期に作成されたものと江戸時代に作成されたものを見分けることは、経験さえあれば比較的容易です。また、江戸時代後期に椿井家で偽文書が作成されていたことは、例えば中川泉三氏が大正期にはすでに触れています。

 こうした事実を再整理するなかで、中村氏は考えを二転三転させた可能性があると私は考えています。なぜなら、1968年発行の『古文書研究』創刊号のなかでは、椿井家の名前を出さずに「今井氏というのであるとか」と不確定情報として偽作者の名を変えているからです。しかし、1977年発行の『日本古文書学』下のなかでは、「明治三十年頃に山城国木津町に住んでおった椿井氏の秘庫中から探し出されたもの」としており、今井家の名前が消えてもとに戻っています。注目したいのは、ここでは明治時代の偽作とはしていないことです。過去の誤解をとりあげるのも野暮なので、私はこれを中村氏の最終的な見解として採用しました。ただし、椿井政隆が椿井村の住人であることも、明治時代に椿井文書を販売していたのが木津の今井家であることも、多数の史料から明らかなので、江戸時代の椿井家と明治時代の今井家を混同して「若干誤解している」とのみ指摘しておきました。

 問題は、1962年段階のように、明治時代に偽作していたという大きな誤解がなぜ生じたかです。そこで、歴史学者としての中村氏の思想が形成された場である母校の京都帝国大学に着目しました。すると、戦前の京大では、若き大学院生たちがしばしば椿井文書について議論していることが確認できました。しかし、その一方で、先述の中川泉三氏が椿井文書と指摘している「興福寺官務牒疏」を、大学院生たちは正しい中世文書と誤解している場合もあります。椿井文書の存在は知られていたものの、情報が多少錯綜していたようです。大学院生の議論のなかでは、椿井家が偽作していたという情報と明治時代に木津で販売されていたという情報がしばしば出てきます。これらはいずれも事実なのですが、それを組み合わせてしまった結果、上述のような中村氏の誤解が生じたのでしょう。

 とはいえ、戦後歴史学のなかで中村氏が椿井文書に最も精通していたことは間違いありません。例えば、「興福寺官務牒疏」が椿井文書であることはどうやらお見通しのようです。1973年発行の『カラー近江路の魅力』(坤)のなかで、「南都興福寺―言わば藤原氏の勢力は平安時代中期以降、消耗して金勝寺には達せず」と明言しているからです。1441年のものという体裁をとる「興福寺官務牒疏」のなかで、金勝寺は近江における興福寺末寺の最大勢力として描かれており、1973年段階の学界ではそれがほぼ常識でした。その誤りを一般向けの本でさらっと一蹴するあたり、中村氏の卓見ぶりが伝わってきます。

 では、素人さんが中村氏の説のなかに、今井家を盛り込む意図はどこにあるのでしょうか。私は、椿井政隆の死後、息子の万次郎が明治初期に椿井文書を今井家に質入れし、明治20年頃からそれの売却が始まったと指摘しています。その根拠については改めて説明しますが、どうやらこの説を否定したいようです。そこで担ぎ出されたのが、半世紀以上も昔の中村氏の説ということになります。明治中期に今井家が椿井文書を売却していたことは、私が示したありとあらゆる史料からも明らかです。この今井家をうまく組み込めていないのが中村説の決定的な弱点といえます。そのため、中村氏のいう木津の椿井家と今井家を一体のものとしてしまえば、中村説を補強でき、私の説を否定できると踏んだようです。

 前回も述べたように、研究というのは日々進展しています。半世紀も前の研究が、その分野の第一線でなお機能しているということはまずありません。椿井文書の研究に関していうならば、前回も述べたように私とそれ以外の研究者では、踏まえている椿井文書の数が圧倒的に違います。中村氏は、ただの一つも椿井文書を引用することはありません。過去にみてきた椿井文書の印象を述べるのみです。中村氏は、椿井文書の用紙は間合紙で、書体は明朝体と述べますが、それ以外にもあらゆる様式があるのは、最近刊行した『大阪大谷大学図書館所蔵椿井文書』という報告書に並ぶ椿井文書の写真をみても明白です。つまり、実見した量は限られるようです。

 では、素人さんたちが、椿井家と今井家を合体させる手法をみてみましょう。【1218】では、椿井政隆が「木津の今井氏と姻親の関係あり」とする1927年発行の『東浅井郡志』を引用しています。それ以降、同様の発言を【1278・1404・1726・1909・1919・1945・2075・2343・2548】で執拗に繰り返します。それを根拠として、【1268】の「中村直勝氏の記録通り各神社のニーズに合わせ数カ月で由緒書を職人が明朝体で大量生産した姻親・椿井家&今井家」や、【1352】の「中村直勝が記録したように各神社仏閣が汽車に乗り木津の椿井・今井家へ由緒書を探しに行き」のように、椿井家と今井家を一体化させた記述が頻出するようになります。

 姻戚関係を殊更にとりあげるのも、私の説を否定することに目的があります。なぜなら、【1648】で「椿井政隆1人で作成し彼の死後木津の今井家へ質入れされたが馬部隆弘氏の説ですが、文献には今井家と椿井家は婚親と書いてあるので矛盾です」と述べているからです。姻戚関係にあることと、質入れしたことは矛盾しません。むしろ、姻戚という信頼関係があるからこそ、金を貸したとみることができるので、私の説の補強材料といえます。

 しかし、私の手元にある椿井家や今井家の系図のどれをみても、姻戚関係を確認することはできませんでした。とはいえ、前近代には「通婚圏」というものがあって、南山城のそれを踏まえた場合、村のなかでも家格的に最上層に位置する椿井家と今井家の間に、遠縁の姻戚関係すらないということもまず考えられません。『東浅井郡志』が指摘する姻戚関係とは、その程度のものと思われます。よって、そこから拡大解釈して椿井家と今井家を一体化させてしまうことは、到底できません。

 ここまで、椿井文書の伝来過程について少しこだわってみてきました。以上の事例から何がいいたかったかというと、江戸時代に椿井村で創作されたものも、ボタンを掛け違えて伝来の過程を少し誤解するだけで、明治時代に木津で創作されたというものになってしまうということです。このように解釈を大きく左右してしまうので、まずは伝来過程をきっちり把握することが、古文書をみる第一段階で重要な作業となります。